ヴァンデーの反乱について
14
0
0
全文
(2) . 北海道教育大学紀要 (第一部B). 第 18 巻 第 1 号. 昭和42年8月. ヴァ ン デ 一の反乱 について. 小. 栗. 了. 穿之. 北海道教育大学函館分校史学教室. Ryo i oGUR工; on the CounterRevolution in the vendee j. フランス革命時代の反革命運動は, 時期, 形態, 意図さま ざまである, しか し, 概 していえば, 前半期 (17 92年, 特に8月1 0日事件まで) には王室 が中心であり, 外国との通謀のもとに, 外国 の武力に依存 しつつ行なわれた. それは戦争につ ながるものであり, 貴族の亡命がこ れ に 呼 応 し ) こ の 時 期 の 反 革 命 運 動 は 明 ら か に ア ソ ツ ァ ソ・ レ ジ ー ム の 再 建 を 企 図 す る も の で あ っ た た. 1 , .. 後半期 (93年以後) の反革命運動は, これとおもむきを異にする. それは, 反乱 (暴動) のかた ち を と っ た, そ して, あ る 時 は フ ェ デ ラリ ス ト が, あ る 時 は ロ イ ア リ ス ト が, ま た 農 民 が 反 乱 の 担 い 手 で あ っ た. そ れ は, ア ン ツ ァ ソ・ レ ジ ー ム の 再 建 と い う 単 純 な 意 図 か ら 発 した も の で は な か っ 幹 た, 以 下, 後 半 期, 特 に93年 に お け る 反 革 命 運 動 に つ い て, 西 部 (い わ ゆ る ヴ ァ ンデ ー vendee) の. 反乱を中心に若干考察 したい. (1) 反 革 命 反 乱 の 概 要 93年に展開 した 反革命反乱は二つの局面を もつ. 一つはフ ェデラリズムの運動であり, 他は農民 反乱であ った. その展開のあとを概略たどってみよう, a. フ ェ デ ラ リ ズ ム の 展開 93年 5月31日 と 6 月 2 日, コ ミ ュ ー ン に よ っ て 導 か れ た パ リ の サ ン キ ュ ロ ッ ト は, 国 民 公 会 を 包. 囲 し, ジロ ソド派首領の逮捕を要求 した. この事件の結果, ジロ ソ ド派は国民公会から追放された のであるが, このニ ュ ース が地方に伝えられた時, 多くの県の行政府, 市町村自治体は, パリで起 った事 実を承認 することを拒み, 国民公会 がもはや自発的でないことを理由に, これに従わないこ とを 決 定 した, こ の 抵 抗 運 動 が フ ェ デ ラ リ ズ ム の 名 で 知 られ て い る も の で あ る が, 以 後, こ れ らの 諸県は国 民公会の命令に従わなかった, この 抵抗運動は; モ ソタ ー ニ ュ 派 の 目 標 で あ る 「パ リ へ の. 権力の集中」 に反対 して, ジロ ンド派が6~8か月このかた地方に企てていたもの で あ る. だ か ら, フ ェデラリストの大多数は本 来革命 的であり, 共和主義者であ った. し か し, こ の抵抗運動 は, ロイ ア リ ス ト に よ る 反 革 命 の 運 動 と 合 流 し, 反 乱 に ま で 発 展 す る の で あ る.. 反抗 した各県の首邑には県会 ー ズでは 初級議会. が召集され, 屡々その常置 が宣せ られた. ツール 即ち, 全市民を含む議会が開かれ, パ リの諸事件に対す. Consei l general. ee p ima i assembl r e r ,. - 16 -.
(3) . ヴ ァ ン デ ← の 反乱 に つ い て. る 意 見 が 求 め られ た, 初 級 議 会 は オ ッ ト ・ ガロ ンヌ, オ ッ ト ・ ェ o バ ス o ザ ル プ, カ ソタ ル, イ ゼ. ール, ジュラ等でも開かれた. そ して, これらの議会 は, 時には県公安委員会 comitきs departem‐ i l entaux d e sa ut Publ c を設け, パリに対する行動, 即ち公然たる反乱を企てたので あ る そ れ , は, 20ほどの県において見られるが, パリに対する軍 事行動を決定 した県公安委員会では, 一般に 共和主 義者は 少数であり, ロイ アリストが支配的であ った, ただ し, これ らの武装反乱も五つの地 方を除き, 他は迅速に鎮ま った, その五つの地方とは, まず西部 o 北 西 部 (ノ ル マ ン ジ ー, ブ ル タ ー ニ ュ, ヴ ァ ンデ ー), つ い で 南 西 部 (ボ ル ドー, ジ ロ ソ ド), 第 三 は 南東 部 (マ ル セイ ュ, ツ ー ロ ソを含む),第 四 は セ バ ン ヌ Cevennes と ヴィ ヴ ァ レ Vivarais を 含 む 地 方, そ して 第 五 は, リ ヨ ン ) とフ ラ ン ツ ュ リ コ ンテ 地 方 で あ る, 2. 国民公会は, 二つの仕方でこのフ ェデラリズムの運動 に対処 した. その 一つは, 抵抗 した諸県に eに よ っ て 全 国 境 に わ た っ て 攻 撃 さ れ て い る こ 対 し, フ ラ ンス が現 在 戦 争 を して お り, 全 ヨ ー ロ ッ′ と, 従 っ て 敵 を 前 に フ ラ ンス は 不 和 に な っ て は な ら な い こ と を 提 示 して 反 省 を 求 め る と 共 に, 93年. の憲法を迅 速 に票決 して諸県を安定させることであ った, 第二の方法は, 武力をもってこれを鎮圧 することであ った が, ここで武力鎮圧の例と して, 最も顕著な反乱を展開 した南東部のリ ヨン, マ ル セイ ュ, ツ ー ロ ンの 場 合 に ふ れ て お こ う. 93年 6月27日, リ ヨ ンで 一 人 の ジ ャ コ バ ンが 虐 殺 さ れ, 死 体 が サ オ ー ヌ 河 に 投 ぜ られ た こ れ が .. )リヨンの反乱が 近隣 諸県 即 国民公会に対するリヨンの反乱の開始をマークす る事件である.3 , , ち, フ ラ ン シ ュ ・ コ ンテ 及 びミ デ ィ の 住 民 に よ っ て 支 持さ れ て い た ら, そ れ は 極 度 に 危 険 に な り 得 た で あ ろ う. 実 際, そ れ らの 地 方 は フ ェ デ ラ リ ズ ム に は 同 意 した, しか し, そ れ らの 地 方 の 反 乱 は 根 深 い も の で は な か っ た. だ か ら, リ ヨ ン は た ち ま ち 孤 立 し, 8月 8 日 か ら10月 9 日まで攻囲さ れ た, リ ヨ ン に対 す る鎮 圧は 特 に 恐 ろ しく, 残 忍 で あ っ た, 10月 12日, 国 民 公 会 は 宣 言 した 「リ ヨ . ン は 自 由 に 挑 戦 した. リ ヨ ン は も は や 存 在 しな い.」 と. リ ヨ ンの 名 は, フ ラ ンス の 都 市 の リ ス ト l leaf f ranchi e と呼ばれることにな た 反徒 か ら削 除 さ れ た, リ ヨ ン は ヴィ ル ・ ア フ ラ ン シ ー Vi. っ ,. t teaux の平原で欄散 に 対 す る処 刑 は 残 忍 を き わ め た. 死 刑 を 官 せ られ た 人 々 は, プ ロ ッ ト ‐ Bro. ) 940人あるとし・う,4 弾を浴びせ られた. 正確に検証される処刑者数だけで, 1 マ ル セイ ュ の 反 乱 を 決 定 的 に した の は, 5月31日 ~ 6 月 2 日のパリの民衆暴動である 状況はこ . の 時 非 常 に 緊張 した, 6月 12日, マ ル セイ ュ の セ ク シ ョ ンの 代 表 で 構 成 さ れ た セ ク シ ョ ン総 会 Co te general des sections は, 「圧制への合法的抵抗の状態」 にあることを声明 し 6月2 mi 2日 国 ,. , 民公会 の命令にもはや従わないことを決定 した, それは, リヨンの態度と類似 したものである, も. しこ の 時, マ ル セイ ュ が強 力 な 軍 隊 を 備 え て い た ら, そ して, も しこ の 軍 隊 が リ ヨ ンの 反 徒 と 連 合 す るこ と が 出 来 た と した ら, 状 況 は 重 大 に な っ て い た か も しれ な い. しか し, マ ル セイ ュ の 県 の 軍 ′ lai se は, ア ヴィ ニ ョ ン に 入 っ た だ け で そ れ よ り 遠 く へ は 進 armee departementale marseil 隊1 , に ュ ま な か っ た. そ の う ち , マ ル セイ は 政 府 軍 の 手 に 陥 っ た (8月 25 日) , そ して, リ ヨ ンの 如 く lesansnom と改名され た 多くのフ デラリス トが逮捕さ れ た ヴィ ル 。 サ ン。ノ ム Vil ェ , , 革命裁. ) 判所が組織された, しか し, リヨ ンに比べると反乱に対する処置は遥かに寛大であ った.5 7月18日, ツ ー ロ ン市 民 は, マ ル セイ ュ の フ ェ デ ラ リ ス ト と の 連 合 を 大 々 的 に 祝 っ た ツ ー ロ ソ ,. では革命のは じめ以来, 造兵廠の労働者, 水兵と海軍将校との間で 屡々紛争が起 っている, この頃 までに既に多くの海軍将校が亡命 しているが, この時残留 していた海軍将校は, ロイ アリス トであ っ た, こ れ らの 海 軍 将 校 に よ っ て, ツ ー ロ ンの フ ェ デ ラ リ ズ ム の 運 動 は や が て ロイ ア リ ズ ム の 運 動. と結びつき, ついには地中海の艦隊を指揮するイ ギリ スの提督フー ド Ho d と商議するこ とが決定 o 一 17 -.
(4) . 小. 栗. 了. 之. さ れ る に 至 っ た. こ う して, ツ ー ロ ソの 反 乱 は 国 民 公 会 に 対 して ば か り で な く, 共 和 主 義 に も 明 ら か な 敵 意 を 示 す よ う に な り, マ ル セイ ュ の フ ェ デ ラ リ ス ト 及 び ロイ ア リ ス トの 首 領 た ち の 到 着 に よ っ て 反 乱 は 強 化 さ れ て ゆ く. 8月23日, 反 徒 た ち は, イ ギリ ス と ス ペ イ ンの 艦 隊 に, こ の 街 と 港 を. 平和回復の時まで占領するよう要請 した. 両艦隊は, この港を占領 した, その数は少なかった が, イ ギ リ ス, ス ペ イ ン, サ ル ジ ニ ア, ナ ポ リ の 軍 隊 が こ の 街 に 上 陸 した. 一 方, 国 民 公 会 の 軍 隊 は マ. ルセイ ュ奪取後,、ツーロ ソに進撃 した, 副官ボナパ ルトが, 砲兵の指揮官に任命されたのはこの時 で あ る. 使用 し得 る フ ラ ンス 艦 隊 が 存 在 しな か っ た の で, ツ ー ロ ソ は 海 か ら 攻 撃 さ れ は しな か っ た が, や が て 陸 か ら厳 重 に 封 鎖 さ れ, 12月18日 降 服 した, ッ ロ ンの 名 も ま た, 共 和 国 の 都 市 の リ ス ) la Montagne と 改 名 さ れ た 6 ト か ら抹 殺さ れ た. そ して, ポ ル ・ ラ o モ ソ タ ー ニ ュ Port‐ . ツ ー ロ ンの 奪 取 を も っ て, フ ラ ンス 南 東 部 の フ ェ デ ラ リ ス ト の 反 乱 の 歴 史 は 終 る. こ れ らの 反 乱. は地理的に外国に近い反乱であ ったので, 後述するヴァ ンデーの反乱よりも共和国にとって遥 かに 危険な結果をもち得た. しか し, それらは同時的なものでなく, また, 反徒の結束が十分でなか っ た上に, 国民公会が適切な手段を迅速に講 じたのですべて鎮圧された. b. 農民 反乱 (西部の場合) ヴ ァ ンデ ー で は, 93年 の 反 乱 に 先 だ っ て 早 く か ら 小 さ な 反 乱, 陰 謀 事 件 が あ っ た. 90年 9 月, ヴ i l きre の ラ o コ ロ ワ La Coroix o ィ オ リ ェ ー ル Vi. という小部落で, 田舎の祭りに際 して農民が武器. ′○l d onne の近くで農民騒乱が勃発 した. es ‐ を と っ て い る, 91年 2 月 に は, サ ー ブ ル ・ ドロ ソヌ Sabl tophe ‐de ‐Chri ‐Ligneron s 同 年 3 月, サ ン ・ ク リ ス ト フ ・ ド ・ リ ニ ュ ロ ソ Saint. で憲兵が武装 した農. 民の攻撃をうけた. また同 じ年, ラ・ レザルジェール侯が陰謀を企てているが, 当局 によって未然 に告発, 逮捕され, 陰謀参加者たちは投獄された, 92年8月には, プ レシュイ ール Bressuire の元 ) これ ら i l l t on を 一 時 占 拠 して い る,7 市 長 で ドル ー ツ ュ と い う 男 が 農 民 を 集 め, シ ャ ー チ ョ ソ Cha. の反乱は, その地方の社会構造, 土地所有者・貴 族・僧 侶の影響力, 僧侶基本法に基因する不満等 に由来する反乱と考えられる, しか し, 93年の反乱には, これ らの他に一つの要因が決定的な意味 0万人の募 をもつ. それは, 93年2月末, 国民公会が全ヨーロ ッパの対仏大同盟軍に対抗するため3 ) 兵 を 決 定 した こ と で あ る, 8. 93年に展開されるヴァ ンデーの戦いは, 前後二期に分けられる. 第 一期は 最初の3か月, 即ち3 月 ~ 5月 の 反 乱 で, そ れ は, も し5月31日 ~ 6月 2 日 の パ リ の 事 件 が な か っ た ら5 月 に 完 了 して い. たであろうといわれる. 何故なら,ジロ ンド派がこの時国民公会から追放された結果と して,一般的 な反乱が, 殊に西部にフ ェデラリス トの反乱がひろまり, そのためにこの 頃下火にな っていたヴァ ンデーの反乱が再び活気を取りもど し, 全西部にひろが ったと考えられるからである, 第二期は, 6月以降95年の平定まで約2年続く. それは西部の 反乱の最も重要な時期で, 「大戦争 grandegu‐ i e」 の 二 つ の 局 面 を も つ, er re」 と 「ゲリ ラ 戦 chouanner 93年 3 月11日, 警 鐘 が 600 の 部 落 で 鳴 っ た, そ して, 農 民 に 武 器 を と る よ う 呼 び か け た, 30万 人 の兵士動員のために, 2月 7 日 の 法 令 に 従 っ て, ヴ ァ ン デ ー か ら 3520 人, ドゥ ・ セ ー ヴ ル DeuX‐ ) 反 徒 た ち は 3月11日, Sevres か ら5920人 を 募 集 す る 企 て が 反 乱 の き っ か け を 醸 成 した の で あ る 9 . マ シ ュ ク ー ル Machecoul を占領 した. ついで, 反乱は ヴァ ンデーの海岸から少 し東 にあるマ ル シ ュ. Marches. 地方に拡がり,. i igu が, 15 日 に は ク リ ッ ソ ソ C1 sson 3 月 13 日 に は モ ンテ ギ ュ Monta. が占領された. マル シュ地方の町々の主人にな った反乱部隊の指 揮者たちは, 4月 6 日, イ ギリ ス とス ペイ ンに救護を求める密使を派遣することを決定 している, それは空 しく終ったけれども, タト ー 18 -.
(5) . ヴァンデーの反乱について 国 と 接触 しよ う とす る 反 徒 の 最 初 の 試 み で あ っ た, 反舌Lは, 更 に東 の マ ン ジ ュ Manges 地方に拡. )ヴァ ンデー軍は集 が った. しか し, 復活祭の週が来た, 農民たちは帰宅を欲 し, 部隊を去 った, 離 まる時と同 じ位迅速に解散L た. そ れ は, ヴ ァ ンデ ー の 戦 い の 一 つ の 特 徴 で あ っ た, ・ た, 3月17日, 国民公会はき び しい手段を 講 じた, そ して, 反乱 反乱は国民公会を極度に脅か し に加わ ったす べての 首 領たちを, 単に同一人 に相違 ないことを確かめただけで法の 保護外 に置き, ‐ 処 刑 す るこ とを 決 定 した, ま た, 反 乱 に 対 して 戦 う た め, 三 つ の 軍 団 を 組 織 し, - - ア ソ ジ ェ An ブ B l d B ブ o 揮) 軍 ソ ドロ ソ (将 ラ o 指 ナ 揮) ヌ ー ル u a r s (将 軍 ベ リ ュ イ エ erruyer 指 ger , , サー ル 4 月, 反 撃 を 始 め た,=) ト (将 軍 ベイ ッ セ Beysser 指 揮). Rouen eo〃′〃 . .・ , , , , ,~{ , ,. ,. ぬ. ・ 遁 彪 ・ , ; “~ , ん-. . .. 0 ・ ① Qコutancesも MANGHE ′. しan g. eお 守・を幽均 ギ キm 叫 励. さ f roも ん 吉禦 臥 v一′ 謙 ;. i Evr u. . ・ ・ R ・. ー ・・ 二 ギテ デド ・ - か ぎ ノ o, , , . , . . , , . . 一,. ▼ ″紗 r .轡; ; ・ - - 蔀 肝 : ”…. ョa〆.豊 艶誌 髭を ”o 醐〃 , ′o. ddc ひリd. ILLE ‐ET‐. ,. f ” , . - A. 〆「 煽・;. 稀 滋 誌〆. . Mames ′. に. , ・ . ・ . ・ HAN ュnnes. 霧 島 〆 編む ‘誌 隊 ー , , . ゴ , . ,. -- .. . 衿″〆げme ・ . . , ・ . . 妬 , e , 。 ぐ きご騒ぎ鳶幽″た% 霧キをゞゞ ぢ 〆”.ぽL B-ois , 0. 疎 密β鋼 罰 ご、 - - ,“ 森 脇,綴 喜 お. 所 一. ○ご 雄抜〃. 。. -≦ ニ . ‐ 溺筋 べ. . ,. 廠. n. r s e g 試n A. N J. ‐. ー o β如き パ マ 耀 伽 諾} ・ 語? o U ノ エドD 孤 ” ″moのむ劣 化. 、 掛物肥″ 馴 雄ENN 北 辱め、 ヰ V ・ ′ 次 ,. ,. . m。. . ◆. . . . . ,. 一一. . 一. -. AUN』旦ムー .、 =. ・も. - 19 -. 6 工NDF.
(6) . 小. 栗. 了. 之. 3月 に戦果をあげた反徒たちは, 前述の如く, 復活祭のために解散 した そ して, 若干の地方は , l 共 和 主 義 者 に 奪 回 さ れ た, しか し, 4 月30日, シ ョ レ Cho et に 集 ま っ た 3 万 の 反 徒 は, 5 月 5 日 に は ト ゥ ア ル Thouars を 包 囲 した, こ の 町 は ソ ミ ュ ー ル Saumur への途上 にあり 強固に要塞化 , されていたので, その陥落は反徒たちに豊富な武器弾薬を補給 した 5月 9 日, 13 日 に は パ ル ト ネ . Parthenay, ラ o シ ャ テ ニ ュ レ La Chataigneraie が そ れ ぞ れ 陥 落 した そ して 5月1 6日 に は フ ォ , , ントネ Fontenay が 攻 撃 さ れ 20日 ロ イ ア リ ス トの 手 に 帰 した 6月10日 反徒たちはソミ ー. ,. ,. .. ,. ュ. ルを攻略 した, ヴァ ンデー軍のリ ー ダーたちは, 今や行動の将来計 画を決定することが必要 にな っ た. 彼らは, 最も大胆な, それが成功すれば共和国を根底 からゆさぶったであろうようなプランを 決 定 した. 彼 らは, ブ ルタ ー ニ ュ, ノ ル マ ソ ジ‐ ‐, そ して メ ー ヌ を 通 じて 反 乱 を 拡 げ, こ れ ら北 西. 部の連合勢力を率いて パリに進撃する計画をたてたのである, ただ し, その実現には一つの障害 が あ っ た, 海 港 ナ ソ ト が, 反 徒 の 背 後 に あ っ た こ と で あ る, 反 徒 の リ ー ダ ー た ち は, ナ ン トの 占 拠 が. 彼らの プラン実現への第一段階であるとみた. そこで, 彼らは約3方強の反乱部隊をもって口アー ル 河 の 南 岸 を 進 撃 した. ア ン ジ ェ と ア ンス ニ Anceni s は, 一発も発することなく降服 した こう , して6月29日, 反乱部隊はナ ントの郊外 に達 した, 開城は時間の問題とさ れた, しか し, 勇気と献 身は 反徒の独占物ではなかった, 攻囲軍はついに足場を得ることが出来ず に退却を始 め た の で あ 2 ) る, 1. 8月 1日, 国民公会は ヴァ ンデーに対する全面的戦 争を宣言 した. そ して, 森林を焼き払い, 反 l e 徒の巣窟を撲滅する 「焼 土 la terre br u e」 作戦を実現するために, 西部に おける兵員を増加す るこ と を 決 定 した. 周 一 方, 10月 20日, サ ン o フ ロ ラ ソ ・ ル ・ ヴ ィ エ イ Saint leVi i lか ‐F1 orent - e L l ら, つ い で23日, ラ ヴ ァ ル ava か らロ ワ ー ル 河 を 突 破 した ヴ ァ ンデ ー の 大 進 軍 は, 11月 14日, l l グラ ソ ヴィ ル Granvi e に 達 した, こ の 進 軍 の 間 に, ヴ ァ ンテ ー 軍 は 共 和 主 義 者 を 捕 え, 銃 殺 し , あ らゆ る 残 忍 を ほ しい ま ま に した. ヴ ァ ンデ ー 軍 は グ ラ ン ヴィ ル にイ ギ リ ス 軍 が 上 陸 して い て, ヴ ァ ンデ ー 軍 を 援 助 す る も の と信 じて い た が, イ ギ リ ス 兵 もイ ギ リ ス の 艦 船 も そ こ に は な か っ た, 彼. らは非常に失 望 した. 攻域の兵器をもたなかった ヴァ ンデー軍は, 数時間後退却を始めた. 1 2月 4 日, ア ソジ ェ ま で 退 い た. そ の 後, ロ ワ ー ル 河 を 渡 る こ と が 出 来 ず に ル ・ マ ソス Le Mans に 向 っ た. そ こ で, マ ル ソ ー, ク レー ベ ル, ウ ェ ス テ ル マ ン等 の 政 府 軍 の 攻 撃 を う け (12月12日 ~13日), ヴ ァ ンデ ー 軍 は 3 千 人 以 上 を 失 っ た, こ う して, ル ・ マ ソス か ら ナ ン ト ヘ の 痛 ま しい 退 却 が 始 ま る , そ の 間, ヴ ァ ンデ ー 軍 は 更 に 9 千 人 以 上 の 死 者 を 出 した, 12月23日, ヴ ァ ン デ ー 軍 の 残 党 は, ク レ ーベル指揮の政府軍によ ってサ,ヴネー Savenay で 捕 え られ, 虐 殺 さ れ た. 《カ ト リ ッ ク 。 王 軍》 の. 名のもとに行なわれた 「大戦 争」 の局面はそこで終 った. そ して, 以後恐ろ しい鎮 圧がヴァ ンデー を 狂奔する. 数多くの軍事委員会. l i i ta com mi ssions mi res. が設け られた. ナ ン トの革命裁判所は 休みなく活動 した. そ して, 処刑を促進するため溺殺が行なわれた. 犠牲者数は正確には知られて い な い. 2800 人 ~ 4600 人 の 間 を さ ま ざ ま で あ る. 革 命 委 員 会 comml s s ・ ons r6volutionnalres の命 令 で な さ れ た 銃 殺 に 関 して い え ば, そ の リ ス ト が あ る. そ れ に よ れ ば, 94年 1月12日 か ら2月 10日 4 ) ま で の 間 の, 犠 牲 者 数 は1896人, 2月10日 か ら4 月 末 ま で の 犠 牲 者 数 は 292 人 で あ る 1 .. 農民は屈服 した, しか し, かかる恐 るべき鎮 圧を見て, 彼らは 殺さ れないためには自衛する しか な い こ と を 知 っ た. そ こ で, 彼 らは 生 き 残 っ た ヴ ァ ンデ ー の 首 領 た ち の も と で パ ル チ ザ ンを 組 織 し 5 ) ふ く ろ う 部 隊 は カ トリ ッ ク o王軍が行 た た. そ れ は 「ふ く ろ う chouans」 の 部 隊 で あ っ た. 1 っ , よ う な 遠 征 は や らな か っ た, しか し, 執 物 に 小 奇 襲 を 繰 り 返 した, か く して, ヴ ァ ンデ ー の 戦 い は 95年 ま で, ノ ル マ ン ジ ー や ブ ル タ ー ニ ュ に お け る 如 く, ゲリ ラ の か た ち で 続 け られ る こ と に な る の ー 20 一.
(7) . ヴァンデーの反乱について で あ る. 以 上 が, い わ ゆ る ヴ ァ ンデ ー 軍 の 戦 い の 概 略 で あ る. (江). 西 部 の 反 革 命 反 乱. 西 部 と ひ と 口 にい っ て も, こ こ に い う 西 部 と は、 ヴ ァ ンデ ー を 含 む ロ ワ ー ル 河 の 南 の 地 域 を さ. す, そ して, 西部の反革命反乱という場合, この地域のボカージュの地方 pays de bocage が中心 舞台になる, 即ち, 花薗岩で出来た台地で, 潅木によって覆われた地方である. いわゆるヴァ ンデ ーの反乱は, この地方の農民が主体をなす大規模な反乱であ った, 何故西部の反乱があのような大規模なものとなり得たのであろうか.. 「西部の反乱の原因に関する研究において, 歴史家たちは 政治的な同情によ って一つの傾向に分け l i t oya r s e s )は, 自然発生的反乱というテー ゼを支持する, 即 られる. 革命に敵意ある歴史家たち ( ち, 憲法, 革命的諸制度は自然の秩序と矛盾 してい る. この変則で傷つけ られた農民が自発的 に反 乱した. 農民は無神論に対 して, あらゆる宗教的改革に対 して, また, 認めることの出来ない諸改 l i epub i 革に対 して反乱を起 したの だ, と. 革命に好意的な歴史家 たち ( r c a n s ) は, 逆に煽動さ れ た 反 乱一-- あ る 時 は 僧 侶 と貴 族 の 活 動 に よ る, あ る 時 は エ ミ グ レ, 或 は フ ラ ンス と 交 戦 して い る 国 1 6 ) の 回 し者 に よ る--- とい う テ ー ゼ を 支 持す る, 」 しかし, 西部の反乱は, 単純に自 然発生的なも の で も, 煽 動さ れ た も の で も な い とい う の が 今 日 の 常 識 で あ る, と こ ろ で, 従 来, 西 部 の 反 乱 に つ いて な さ れ た 諸 著作 は, 大 部 分 が ヴ ァ ンデ ー ア ソ或 は シ ュ ー ア ソを 称 え た も の で, ロ イ アリ ス ト に. よって書かれた弁明的な, 聖事研究的. hagiographique. なものや, 逸話を追うものが多く, それら は, 西部の反乱の真の原因を究めるのに役立たないのである, しかも,反乱 を起 した地方の 経済的, 社会的構造等の十分な研究がなされていないので, 農民反乱が, 何故西部においてあのような形 態 7 7 ) われわれ が知 をとるに至 ったのか, についてわれわれは厳密には知ることが出来ないのである. ンデーの難題 り得ることは, 「ヴァ を解決することが, いまや利用 し得る諾々のきまり文句, 即ち, 広い範囲にわたる貴族の陰謀, 僧侶の煽動, その地方のp イ ア リ ズ ム, 一般民衆による僧侶の擁 8 ) 護, 軍事奉仕に対する農民の嫌悪, というようなきま り文句の単なる選択以上 に複雑である 1 . 」 とい う こ とで あ る. そ こ で, 本 稿 で は 主 と して ゴ ドツ ョ の 著 書 及 びテ ィ リ ー の 論 文 に 依 拠 しつ つ ,. 西部の反乱の問題について, 箇条的に整理を試みるに止めざるを得ない, 第一. 西部における反革命はポカージュの産物であ った, それは, 花薗岩を基礎に したロワール 河の南 の丘陵地帯で, 比較的分散 した小村と孤立 した耕地 からなり, 高い潅木の列 によって囲まれ i eg on s morcelきes で, 農民は孤立 た小さな畑で覆われてい る地域である, 即ち, 分割された地方 r してし・る, そ して, そ こ は 身 を 隠 す の が 容 易 な 場 所 で あ っ た. こ れ に 対 して 同 じ西 部 で も, 渓 谷 と. 平原の地域は革命的であ った. そ こ は, ポ カ ージュ とは対照的 に, 集中 した部落と開放耕地のあ 9 ) る地 域 で あ る. こ の よ う な 区 別 は, 西 部 の 場 合, 一 つ の 傾 向 と して 認 め られ る の で あ る, 1. 第二. 西部の農民自身は, 革命の行 った諸改革に敵意をもたなかっ た, む し ろ 好意的であ った 8 9年, 十分の 一税と封 建的義務の廃 止が決定 した時, 彼らは熱狂をも って喝釆 し とい ってよい, 17 た, 彼 らは, 三部会への陳情の中に, それらへの異議を申 し立てていたのである, また, 西部には 特別なカテ ゴリーの農民 がいた, その保有権が, 土地所有者の窓意で解約 し得る条 件のもとに置か i er s de domaines congeables がこれである. それは, この地方 にのみ見出され得 れ た 農 民 tenanc. る保有権の特殊な形態であ った. このような, 特に耐え難い保有権の形 態から解放さ れてい なかっ た農民たち は, 一般に革命に忠実であ った, 彼らは保有権の安定を望んだのである, 従 って, 西部 -2 1-.
(8) . 小. 栗. 了. 之. 0 ) の農民は先験的に革命的な体制に敵意をもったわけで はな か った.2 ところで, ポカ ージュ において は, 農民は主に中位の借地, 或は小作地で, 家族労働によって生 i t ‐ S s s e ub 計をたて, その他,借地料, 税金等をあがなうに足る家畜を飼う,そういう農民であ った ( の 貴 族 で あ っ た, こ の 点 . そ して 多 く の 場 合, こ れ ら の 農 民 の 利 用 す る 土 地 所 有 者 は. nce f armer s). で, 渓谷や平原の地方 (革命 が順 調に進展した地方) は異なり, 貴族の地主は遥かに少なく, 全然 不在のところもある. そ して, 相当数の ブルジョアの所有地及 び屡々断片的であるが, 教会の所有 or ent の修 地 (例 え ば, ロ ワ ー ル 河 沿 い の フ ォ ソテ ヴロ ー Fontevrault や サ ン ・フ ロ ラ ソ ST, Fl 2 1 ) べ 道院の肥沃な土地) が, 農民の所有地と同様にあ ったのである. ここで注目す きことは, 反乱 を起 した地方 (ポカ ー ジュ) では, 農民が, 領主, 土地所有者に非常に従 順であ ったということで ある. ヴァンデーでは, 今日もなお農民は土地所有者を 《not′ maitre》 と呼ぶが, それはおそ らく 旧い服従の名残 りであろう, という.・ここでは, 農民は土地所有者を尊敬し, 彼らに対 して絶対従 順であ った, 一方, 土地所有者は, 農民に対 して, 小作料を徴収するための物的所有権 domaine i 1 と 同 様 に, 精神的所有権 domaine spirituel を も行使 し た 土地所有者はそ の 小作人に matきr e . 対 し, ミ サ に 通 う こ と, サ ク ラメ ン トを 受 け る こ と, 幼 児 を カ トリ ッ ク の 学 校 へ や る こ と な どを 強 2 ) 制 す る こ と が 出 来 た の で あ る. 2. 第三, 反乱を 起 した地方では, 僧侶, 殊に司祭の権威が非常に大きいことが注目される. ヴァン デ ーでは, 司祭が新 しい制度に同意する時は住民もそれに従 った, 逆に, 司祭がそれを拒否する時 は住民もそ れと同 じ態度をとった, ただ し, 僧侶の影響力は, 農民反乱が顕著 に行なわれたすべて 2 3 ) しかし 宗教が西部の農民を蜂起 の地方で同 じように大きい, それは西部だけのことでは ない. , さ せ た の であ ろ う か.. 西部の農民が, 宗教そのもの にではない と しても, 宗教的慣習にひどくひきつけられていたこと は事実である, 彼らは宗教的慣例, 儀式に異常に忠実であ った, 彼らは, それ らに不 思議な効能を 結びつける傾向があ った. だから, 革命によって 生 じた教会の閉鎖, 礼拝の遮断は確かに農民にと って大きな不満の一つの源であ った. 革命の 行 ったこの領域での改革 (破壊) は, 彼らには耐え難 か った. かく して彼らは, 容易に僧侶の指示に従うことが出来たのである. 僧侶基本法の公布は, この意味で決定的に重要である, 殊に, この法による司教管区の数の削減の結果, 七つの司教 管区 が西部で廃 止されたことは, 交通, 通信の困 難なこの地方に非常に大きな不便を生 じた. 多くの司 祭は僧侶基本法への宣誓を拒否 した. アンジェ の司教管区では, 50%以上の忌避僧侶がいた, ヴァ 0%以上の忌避僧侶がいた. しか し, 忌避僧侶の数の多少は反乱の重大 ンデーと ブルターニ ュでは8 な理由にはならない, 何故なら, 反乱を起さなか ったフ ランス の他の地方 に お い て も, 同 じ程度 i f の, 時 に は よ り 多 数 の 忌 避 僧 侶 が 見 出さ れ る か らで あ る (例 え ば, マ ッ シフ ・ サ ン ト ラ ル Ma s s l l e 及 びバ ・ ラ ン Bas ‐Rhin の諸県では central の周囲には忌避僧侶が8 0%以上い た, モゼル Mose 92% も い た の で あ る,). しか し, こ れ らの 忌 避 僧 侶 が, 宣 誓 した 僧 侶 に よ っ て 交 替 さ せ られ た こ と. は, 農民には大きな刺激にな った. そ して, 忌避僧侶の逮捕は, 事態を悪化させ た, 忌避 僧侶によ って祝福されて, 礼拝は秘密に行なわれた, 行列 procession は夜行われた. 夜の儀式は、 西部の 4 2 ) 農民の神 秘的精神を刺激 した, 第四. 兵士徴集 が西部の農民蜂起の原因であろうか. 西部の農民が, 軍役にひどい嫌悪感をもっ て い た こ と は 事 実 で あ る, ア ン ツ ァ ン ・ レ ジ ー ム 下, 正 規 軍 は 志 願 兵 に よ っ て 補 充 さ れ た. そ れ l i ce は, 農民全体に は 抽鍛によ って選 ばれ る農民で構成された軍隊である ただ し, 国民軍 mi. , , とってそれ 程重大な負担ではなか ったと思わ れ る. 何故なら, 農民のうちのほんの少数が柚簸に当 - 22 -.
(9) . ヴァンデーの反乱について. ったにす ぎない し, また毎年若干の訓練の時期だけ抽簸が行われたにすぎないから で あ る. し か し, 国民軍は全フランスで, 特に西部で非常に不人気であ った, 農民は, 常に国民軍の抽簸を逃れ よ う と努 め た の で あ る,. 93年, フランスの志願兵制度は限界に来てい た, そこで, 国民公会は30万人の割当てをするに当 り, それを充たすに十分な志願兵がいない場合には, 兵士は市町村当局によ って, 或はあ らゆる他 5 )30万 人 の 募 兵 を 命 ず る 法 令 は93年 2 月24日 の 手 段 に よ っ て 指 定 さ れ る, と い う こ とを 決 定 した.2 0日, 西部の諸地方の に 公 布さ れ た. そ れ は, ア ソ ジ ェ で は 3 月 2 日 に 認 知 さ れ た, そ して, 3 月1 コ ミ ュ ー ンで 公 にさ れ た, 3月11日, ロ ワ ー ル 河 の 全 左 岸 で 反 乱 が 勃 発 した, 「抽 簸 は ご め ん だ / Pas de tirement/ A bas l i /」 こ う して, ヴ ァ ン デ ー の 反 乱 が 始 ま ce ,la mi 2 6 ) っ た の で あ る, 30万 人 の 募 兵 が, 西 部 に お け る 農 民 の 不 満 を ひ どく 悪 化さ せ た こ とは 疑 い な い,. 国民軍をやっつけ ろ./. しかし, 反乱が抽簸だけによって自然発生したということは出来ない. 募兵は西部だけに限られた こ とで は な い か らで あ る,. 第五, 西部においては, 渓谷や平原の地方によりもポカージュの地方に手工業 (織機業) がより 一層発達 してい た, 少なくとも, 反革命反乱に活発に加わ った地域はそ うであ った, 興味あること は, ここの職人たち (織工, 紡工, 染物師) が, 1789年から93年にかけて, 全く対立する立場に分 か れ た こ とで あ る, 多く の 職 人 が い た と こ ろ に は, パ トリ オ ッ トの 本 拠 が あ っ た. ツ ョ レ, シ ュ ミ l le ェ Che ni l. tagne モ ルタ ー ニ ュ Mor , ブ レ ッ シ ュ イ ー ル 等 は そ の 適 例 で あ る, そ して, 地 方 の 国 民 衛 兵, ホ カ ー ジ ュ か らの 志 願 兵 の う ち, 職 人 の 占 める 割 合 は 大 き か っ た. こ の こ と は, 彼 らの .リ オ ト と 同 列 で あ た 証 拠 で あ る しか し 他 方 91~92年 に こ の地 方 の パ トリ 多く が, パ ト ッ っ , , , , オ ッ トの 行 動 に 反 対 して 展 開 さ れ た デ モ ンス ト レー シ ョ ンの, そ して, 93年 の 反 革 命 反 乱 の リ ー ダ. ーの多くは同 じく職人であ った, この矛盾を理解するためには, ポカ ージュの織機業が10年余の活 発な成長の後, 丁度革命の始まる頃に衰え始めていたこ とに注目 しなければならないのであ る, 同 じ時 期 にフ ラ ンス 全 体 の 織 機 業 が 衰 退 して い た こ と は よ く 知 られ て い る が, こ の こ と を, 反 革 命 と の 関 連 に お い て 把 え る こ と が 必 要 で あ ろ う.. 最初の徴候は, 既に178 8年に現われているのである, この年の末にこの地方の商人たちは, 仕事 が減 っ たこ とを 嘆 い て い る. 政 治 局 governmentbureau の 報 告 に よ れ ば, ツ ョ レで は, 生 産 は1789 s からの一報告は述 べている, 「ひと e r 年 に25% 減 少 し た とい う, 90 年 ま で に 届 い た ヴィ イ エ Vihi はこ の 告 報 か ら, ヴィ イ エ の マ ニ ュ フ ア ク チ ァ ー と商 業 の 現 状 につ い て, い か に そ れ が 没 落 し, 衰. 退を続けているかを知ることが出来る. その衰 退は, 最も貧しい階層, 田舎の労働者たちに打撃を 7 ) 」 と, 1 90年, 憲法制定議 与えている, 彼らは失業 し, 家族と生活する資を欠し・ているのであ る2 7 i tき か 発 し た 質 問 状 へ の ア ソジ ュ ー の 諸 コ ミ ュ ー ン の 回 答 の 中 t き de Mendic 会の救貧委員会Comi で, 援助を必要とする状況を告げているのは, かつて織物業 が栄えたコミ ュ ーンのそれであ った. 次 に 引用 す る ア ン ドル ゼ Andr eze (コ ミ ュ ー ン) か らの 報 告 は そ の 一 例 で あ る, 「わ れ わ れ は, わ. れわれの町のすべての人々を扶養した布や首巻きに関する限り, ツョ レの商業 が全く衰え たことを 知るであろう. 多くの人々が2年間失業 し, 乞食 になり下った, これが, 多くの穀物暴動の原因で 2 8 ) ある, 」 と, このような状態に対する職人の不満が, 彼らを反乱に駆ったと考えられる. だ から, 職人が, 革命のは じめの間, ポカージュにおける最も不満足な階級であ ったとか, 彼らが異常なは げしさをもって彼らの不満を表現した とか, は じめ彼らの多く が革命の側に立ったが, 革命が商人 の た め にす る とこ ろ 多 く, 彼 らの た め に は す る とこ ろ が 非 常 に わ ず か で あ っ た た め, 彼 らの か な り. の数を反革命の側に立たせるに至 った, とかの仮説を たてることは決して不合理とはいえない, 渓 - 23 -.
(10) . 小. 栗. 了. 之. 渓谷や平原の地方 にはこのような職人が殆んど存在せず, 従 って, このようなタイ プの失業から反 9 ) 乱 が起 る とい うこ ともなかったの であ る 2 . 第 六. 最 後 に, 諸 史 家 は ヴ ァ ンデ ー の 反 乱 を どの よ う な も の と して 把 え て い る で あ ろ う か . ま ず, ゴ ド シ ョ に よ れ ば, ヴ ァ ンデ ー の 戦 い は そ の は じめ か ら二 つ の 局 面 を 呈す る 一 つ に は, .. それは農民 反乱である. 政治に非常に無頓着な農民たちは, 彼らの宗教を要 求 した 《善き僧侶》 , を求めた. そ して, 国民軍の抽鍛を嫌 った その結果生 じた農民反乱であ った もう一つは, それ . , は反 革命の運動であ った. それは, 貴 族が王位と信仰を復活するために, この農民反乱を利用 した 0 ) 結 果 で あ っ た, 3 G o ルフ ェ ー ブ ル は, 93年 3 月 に 一 斉 に 蜂 起 し た ヴ ァ ソデ 【 の 農 民 が ロイ ア リ ス トで も ア ソ ツ , ・ レジ ー ム の パ ル チ ザ ンで も な か っ た こ と, 従 っ て, 彼 らを 蜂 起 さ せ た の は, シス ム と 政 治 の ァ ソ,. 1 ) 厳酷 徴兵忌避者・宣誓拒否僧侶に対する厳酷である, とみる.3 「革命が勃発 した時 ヴァ ンデーの人民は, 中央政府の新 しい諸要求に反対 した その課税政策, 宗 . 教政策, 兵士徴募に反対 した. 彼らの根深 い不 快は狂信に転 じた. そ して, ついにこの地方は秘密 の使者, 夜の協議, 熱狂的な説教, 幻影, 殉教, 聖なる幽霊 holy apparitions で充満 し た こ の . よ う な 雰 囲 気 の 中 で, ヴ ァ ンデ ー に, カ トリ ッ ク の, そ して ロ イ ア ル の 軍 隊 が 成 長 した 即 ち, 旧 ,. い生活方法--それは国王, 貴 族, そ して教会の旧い生活方 法を意味したが--を保存 しようと戦 ) 2 う多数の農民 からなる軍隊が成長 したのである.」 これは, R 。 R o パ ー マ 一 の 言 で あ る.3 県と隣接諸県で勃発 した僧侶と王党派の蜂起 は, フランス全土の人民大衆に作用 していた抵抗と不 平の最高の意思表示であ り, 最も恐るべきエ ピソー ドにほ かならなかった, 事実, 動揺は殆んど全般的であ って, いたる所で, 第 一に 経済的社 会的な種類の原 因があ った, 政治的な, また宗教的な種類の理由は副次的で, 第 一の理由の必然的 A o マ チ ェ は い う. 「1793年 3 月10日, ヴ ァ ンデ. 3 ) な 結 果 に す ぎ な い,3 」 と, A o オーラールは, 西部の農民は, 国王への忠誠の故にではなく て聖職者擁護のために 軍役奉 ,. ′ 仕への反対を機にたち上 ったのである, とする. その軍隊をキリス ト教徒軍 1 a rmき echrきtienne ′ iqueromaine と呼んだのはそのためである この反乱 が 或 は ロ ー マ ・ カ ト リ ッ ク軍 1armきe cathol , 次 第 に 強 力 に な っ て, 成 功 の チ ャ ンス を つ か む か に み え る や, ロ イ ア リ ス ト は, こ の 反 乱 を ロ イ ア リ ズ ム の 運 動 に 転 化 しよ う と 企 て た. そ の 結 果. ヴ ァ ンデ ー 軍 は ロイ ア リ ス トの 性 格 を も つ よ う に ′ ique et royal な り, そ の 軍 隊 を カ トリ ッ ク o 王 軍 1 armきe cathol e と自 称す るに 至 った , このよう. に, 反徒たちはロイ アリス トと結びは したが, 彼 に よ れ ば, ヴァ ンデーの反乱の根源は宗教にあ 4 ) る.3. C o テ ィ リ ー に よ れ ば, 1793年 以 前 か ら二 つ の 党 派, 即 ち, パ ト リ オ ッ ト と ア リ ス ト ク ラ ッ ト と. の間に権力争いが進行 していた. そ して93年には, その何れを選ぶ かは宣誓僧侶と拒否僧侶の何れ を支持するかの問題につなが ったの である, それを直接媒介 したのは兵士徴集であ ったけれ ども , 偉大な蜂起そのものは, 自然発生 したものでも陰謀によるものでもなく て, 以前から進行 していた 5 ) もの の ク ライ マ ッ ク ス で あ り, 完 成 で あ っ た,3. 私の結論はこうである, なるほ ど, マチェのいうように, 反乱には 「経済的, 社会的な種類の原 因が第一に」 あ ったであろうが, それはフラ ンス全土にあ った一般的抵抗と不 平の因子であ って , も ち ろ ん ヴ ァ ンデ ー もそ の 例 外 で は な い, ヴ ァ ンデ ー 軍 を 蜂 起 さ せ, あ の よ う な か た ち の 反 乱 を 続. けさせた固有の原因としては, 二つのことが考えられなければならないであろう 一つは 僧侶基 , , 本法の制定 ( 90年7月12日) であり, もう一つは, 直接的なもの で30万人募兵の布告 (93年2月24. - 24 -.
(11) . ヴァンデー の反乱について. 日) である. 西部の農民には, 僧侶に対する異常なまでの信頼があ った 従 って 農民は自らの伝 , . 統的信仰を危く した革命に反感をもち, その反感は議会の 教会政策の進展にともな って次第に強ま 6 ) こ の 反 感 が 兵 士 徴 集 を き か け に 93年 3 月10日 か ら15日 に け て 西 部 の 農 民 っ て い た,3 か を っ , , ,. 蜂起させたのである, それは, 政治的 背景をもたない 宗教的なもので結集 した西部の農民独自の , 反乱であ った, 失業 して生活の資なき職人たちで これに参加する者も多か た それは僧侶が唆 っ . ,. した もの で も, 貴 族 が 煽 動 した も の で も な か っ た だ か ら そ の 軍 隊 は キリ ス ト教 徒 軍 或 は ロ ー , , , マ ・カ トリ ッ ク 軍 と 呼 ば れ た の で あ る しか し こ の 農 民 反 乱 は や が て 貴 族 ロ イ ア リ ス ト の 利 用 , . , す る とこ ろ と な っ た 貴 族 ロ イ ア リ ス ト は 王 位 の 回 復 ア ソ シ ソ。 レ ジ ー ム の 復 活 と い う 政 治 , ア , , 目 的 を も っ て, 明 らか な 反 革 命 の 運 動 へ と こ れ を 発 展 さ せ た か く して 反 乱 軍 は カ トリ ク 。 王 ッ , .. 軍と自 らを呼ぶようになるのであるが このように 反乱軍の性格を変えるだ けの指導性をポカー , , ジュの貴族, 土地所有者は もっていたと十分考えられる また カ トリ ク・王軍の敗退後 反乱 ッ , , , は シ ュ ー ア ソリ ーの か た ち を と る が そ れ を 容 易 に す る 地 形 が ま さ に こ の ボ カ ー ジ に は 存 在 した , ュ. というこ とが出来る かく して, 西部の反乱は広範で長期にわたる独特の反乱であり 得 た の で あ , る, そ れは, 丁度前面 で, 対仏大同盟軍とエミグレの軍隊をむ かえ撃 っていた共和国の背面を脅か す大反乱であ ったが故に, 恐怖政治の強化に 結果 したことはいうまでもないであろう L か し こ , , のような大反乱に参加 した反乱者に, 共通のイデオロギーや, 一般に, 革命への理論的敵対があ っ た と 断 ず るこ とは 出 来 な い の で あ る そ れ で は ヴ ァ ンデ ー 軍 の 反 革 命 的 結 束 パ トリ オ ッ ト へ の , . ,. 激 しい敵対を発展させた要因は何であろうか, 「この種の疑問への確実な答は, 諸記録の山につい 濃 7 ) て の, 永 い, 退 屈 な, 組 織 だ っ た 統 計 上 の 分 析 を 必 要 とす る.3 」 で あ ろ う.. ー 25 -.
(12) . 小. 栗. 之. 了. G主) 0人と見積っているが, エミ グレの正確な数を知ることはもちろん出来な 9 1 ) D・ グリー ァはそ の数12 ,00 bs t sがエミ グレと して記入されているが, 彼らがフランスを e n 各県において 何故なら い, , 不在者 a , 去っ たとは限らない し, また, ほんもののエミ グレで, 故意に, 或は無意識にエミ グレと しての記入か ら脱漏するものがあり得たからである, しかし, 亡命について二つの分類がなされ得るであろう. 戦争 の始まる前, 即ち, 92年4月20日以前がその一 つ で, こ の時フランスを去ることは比較的容易であっ ‐R6 t ch o e ,La Contre ,God た. 第二は92年4月以後で, この時は国境を越えるのが非常に困難になる (J ), ゴ ドショ の検討 に なる23県 に つ い て の正 確 な 資 料 か らす l i on vo ut . .151~152 . pp .1789~1804, 1961. 6% で, 明らかに92 \ れば, 92年以前には12 ,716/ , 即ち, 亡命者の比率は72% 対2 ,753人, 以後には4 バ ・ラン県 その極端な例は 逆の場合もある l d 56) b i . 年以後のエミ グレ数は減少する ( ,p ,1 . ただし, , 人である. グレ数 6 9 9 1 9 は 争開始後のエミ グレがあ たのに 戦 , 1 1人のエミ 日以前に8 0 っ で, 92年4月2 , これは特別な事情による, 即ち, 93年, オーストリア軍がこ の県に侵入, ストラス ブ【ルから何キロか l b d 8) i 6 ,15 ,pp .15 . . ここで の地点まで進 出したが, 後退する際, 農民の大集団を誘い込んだのである ( 三 ブ 第 身分はご ジ アジ【で ル 上層 僧侶 グレ 一 主に貴族 ョ は の時期のエミ 第 , 意すべきことは , 注 , , , l b i d 6 ) ,p .15 , . . このことは, 亡命が反革 く少数であり, 第二の時期にはそ の反対であったことである ( 命の陰謀, ひいては戦争につながるものであったことを暗示する, , 第一のグル 【 なお, D・ グリー ァは, エミ グレに関し諸県を四つの グル プに分けた (下図参照). 宗僻も. . ・ 、. F 一 .. 、. ー. 0 ー. 田 雄旧 浅 ヨ. l. sE ・M. ▼L t コ認 識…細 駆 E r ● , 概 出 精; ー L 1 . ‐ 、. 〉 -. l. S ,.. v. . 3 虹mm. .. I-. D. .R つ B ^,一 .. FIG.1 .. H R .. 田. ヘ. . . H V . .. TG ,LE .. も 園圏. -. …vー. s . I. A. G. 耐. L E TC .. . ロ ・ c1 . - -. . A Y. I M工TL .. . . . R β, . - L. . C ー. L- - - - -^←. H ‐L ・ L. A. D ‐. 日 A . .. . 〆. A A. 1799 ) 1789 ‐ ’EMIGRATPN FRANOA I SE ( . CARTE DE L l o r s l e o o D m 5 0 o e ; i 2 a g e i d r e s 、 / l 5 0 0e m ; 1 e g , n s o , , s 00oeml e gr i . usde2 s oe e 0o ・ n o a2 ;4 0o 3 gr , ,P1 , , , De l i 58より引用. t t Gode Cho , .1 .c ,P ,OP. 6- -2. C.
(13) . ヴァンデーの反乱について プは2 ,000人以上のエミ グレを出した諸県で, まずパリ県, ついで海陸の国境諸県がそれに含まれる, 00人以下) 諸県で, 身を隠 し捜査を逃れることの出来 第二のグルー プは, エミグレ数が最も少ない (5 00~1 る中央の高い山岳地方である. この両極の間に, 二つの他のグルー プがある, 一つは, 5 ,000人の エミ グレをもつ中位の亡命県で, 第二の グルー プに隣接する諸県, 即ち, 山岳地方の外周である. そ し 0人のエミ グレを出した諸県で, 第一のグルー プと第三のグルー プとの間の て他の一つは, 1 ,000~2 ,00 工 帯状を形成する地方である ( b i d 9 ) ,pp ,15 ,157 . , ,. l i t 2 ) J r e ut on -R6vo ,La Cont ,1961 , Godecho , ,1789~1804 ,pp ,233~234 3 ) リヨンは著惨的産業, 絹織物業の中心であっ た. しかし, 革命に基因する経済的騒擾は, この町の繁栄 した産業に破滅をもたらした. 絹織物業の衰退だけで3万の労働者を失業させているのである. 「パ リ におけるように安価なパ ンで飽食させられなかっ た失業者たちは, 革命政府にうん ざりした. そ して, いかなるかたちの反動をも支持しがちであった,」 90年以来, 反革命委員会が置かれているトリノ とリ ヨンとの間の交通, 通信は容易であっ た. また, リヨンは反革命宣伝の中心になっ たスイスに非常に近 い, かく して, リヨンはエミグレの集合場所になった. リヨン は反革命の温床であった (1 c ‐ .R .M, Ma dge Mode dona 1 The Te i t s n rn Hi ory r reur ,Cambr , ,W ,339 ,) , p i 4) Gode t 5 5~2 5 t 2 5 6 2 8 cho o c p p ,p , . , , , . b d i 5) l ,pp . ,259 , 261 . b i d 6) l ,pp , 262 , ,260 , i d 7) lb ,p , ,227 , d i 8)工b ,p , , ,229 fthe French Revo lu i i IHi t t on a s ory o 9) Norman Hampson ,1963 ,p .170 . , A Soc. 1 0 ) ヴァ ンデー 軍の首領の一人は書いている. 「一つの戦闘が 終れば, 農民たちは彼らの家に休息に行く, t d t 俸給なしに仕える軍隊に彼らを留置することは出来ない,」 と (Go e cho ,p ,op i , ,238) , i t 11) Gode chot ,pp ,op ,230~232 , ,c , 1 op i t 12) Ma cdona c ,p , , p ,340~341 , i t t 13 ) Gode cho ,p ,op . .239 , ,c b d i 14)l ,pp , . ,240~241. i 》 のたたかいに非常に似ている, s l a 15 ) 「ふくろう作戦は, 最近の戦争にわれわれがみた 《密林(迷宮)n qu ふくろうは小部隊にまとまり, 暗に乗じて, 到る処にいるリーダーたちによって指揮された. これらの t e cho 部隊は夜間行動し, 急襲したり, 伏兵戦を展開した, そ して, 攻撃が終ると消滅した (God ,op , i t ) c ,p , .241 . .」 i t t 16) Gode op cho ,p , , ,217 , ,c. 1 7 ) 「ヴァ ンデーに関する従来の研究で明らかに欠けている第一の要素は, 西部の革命的地区と反革命的地 区との社会組織の, 詳細なシステマチックな比較である……最近の研究者たちは, ヴァ ンデー の真只中 にあってさえ若干の町はパ トリオットの前進基地であったことを認める……われわれが注意すべきこと は, 田舎が一様に反革命的であったと幻想するのは, ヴァンデーが愛国的町村を もたなかったと幻想す るのと同様に, 迷想であるということである, だから, 農民, 職人, さま ざまなタイ プのブルジョ ア, すべての階層について, 個々に革命的と反革命的との類別を行ない, 最後に, いかにして, 何時, それ ぞれの党派が形成されるかを知る必要がある, この問題への回答は困難であるが, しかし,1793年以前 l l l l emsi n the a s Ti の小さな, 無数の事件の分析がなされれば解明出来るであろう (Ch r e y ,Some Prob 1 i i i IRev fthe Vendge t Hi ) t can Hi s or c a ew,LXV工 r s o ry o ,1961 ,pp ,20~21 , , Ame .」 i t 1 8 l l 2 18) Ti c o p y ,p , . . . . Gode i d t t b i cho 19) l ,p ,op ,p ,c , ,21 , , ,22 , i t t 20) Gode cho ,p ,op , , ,220 ,c i t l l 21) Ti ,p y ,op , , ,22 ,c i t t 22) Gode Cho ,pp ,op , ,c , ,218~219 i d 23) lb ,p . ,219 , b i d 24)l ,pp , , ,221~222. 2 5 ) 募兵法の第11条 ・直チニ人数ラミタス義務ガア 義勇兵ノ 登録ガ町村 ゴトニ定メラレタ人数ニ達シナイ場合ハ、 市 民ノ ・多数決ニヨッテ、 モッ トモ適当ナ方法ヲ採用スルコ ト。 ル、 マタコノタメニ、 市民ノ 第13条 ・満18歳カラ満 割当人数ラミタスタメニ、 集合シタ市民ガ採用 シタ 方法ノ如何ニカカワラズ、 補充兵ノ 4 0歳マデノ青年ト、 子供ノ ナイ男ヤモメカラ集メラレルコト。 9~2 60頁より引用。) (マチェ、 フランス大革命、 ねづ・市原訳、 岩波文庫、 (中) 、 25 - 27 -.
(14) . 小. 栗. 了. 之. i t t 26) Gode cho ,pp ,op . .228~229 . .c i l l t l i i =n , t t t r e e 27 ement es de M; -Lo ) Archives d6par y a ,p ,op . ,IL 546 ,c ,26 ,c , ,by Ti d i i l b i t l t 28) 工 y ,p ,c ,op ,IL 402 ,26 ,c . , , .by Ti i l l t 29) Ti y ,op ,pp , , .25~26 .c i t 30) Godecho t ,op ,p ‐229 .c , , l i i t 31) George Lefebvre on Fran s e u ,1951 ,ca ,La Revo , .p ,334 i l l l t he Te l 32) R.R. Pa u on r ri e French Revo ve whoru ed ro nd l n ・ e r ,1958 .p .205 , Twe . The yearoft. 33 56頁, ) マチェ, 前掲書, 2 l l i i i i l lh t l t t a s r ca 34) A. Aul ory ans on u a rd ,1965 , , The French Revo ,1789~1804 ,t ,by B. Mi . A Po Pp .306^)308 . i f Books by Leo Ge l l shoy r 35 ewso ) C, Ti , y , The Vendee ,1964 . ただ し , 現物未見, 書評によ る (Rev IRev Ame i i l t s ) r cm 日i ohca ew,1965 y ,Ju ,p ,1097 , ,. 3 6 ) 革命諸議会の教会政策については, 拙 稿 「フランス革命における反キリスト教運動」 , 人文論究第16号 (昭和3 1年) 参照. l ly l s 37) Ti en l ,Some Prob ,p .32 ,. - 28 -.
(15)
関連したドキュメント
その後、反出生主義を研究しているうちに、世界で反出生主義が流行し始め ていることに気づいた。たとえば『 New Yorker 』誌は「 The Case for Not
シートの入力方法について シート内の【入力例】に基づいて以下の項目について、入力してください。 ・住宅の名称 ・住宅の所在地
とである。内乱が落ち着き,ひとつの国としての統合がすすんだアメリカ社会
Q7
黒い、太く示しているところが敷地の区域という形になります。区域としては、中央のほう に A、B 街区、そして北側のほうに C、D、E
中国人の中には、反日感情を持っていて、侵略の痛みという『感情の記憶』は癒えない人もき
大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場
第76条 地盤沈下の防止の対策が必要な地域として規則で定める地