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ヴィンセンティのポーランド年代記﹄ ヘ ー  

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(1)

歴史史料が最初にその実在を確認しているポーランドの支配者ミュシコ一世 M叫esNkO l について︑ポーランド最  

古の年代記﹃匿名のガル年代記﹄ G已︑叫ゝ琶苫七乱Cぎ冨訂冨 は次のような記述を残している︒  

ミュシコ一世について  

ー ﹃匿名のガル年代記﹄から﹃マギステル・  

ヴィンセンティのポーランド年代記﹄ ヘ ー  

第一茸 ﹃匿名のガル年代記﹄におけるミェシコ像  

第卑 ﹃匿名のガル年代記﹄におけるミニシコ像  第二苺 ﹃マギスチル・ゲインセンティのポーランド年代記﹄におけるミュシコ像  

荒  木  

(2)

同 法(37−】)2  

二   

用   ﹁ところで︑このセミミスルは︑⁝心い起すに付する偉人なメス﹁を描けた︒以前は別の名前で呼ばれていたメス  

︵1︶ コは牲まれてから七才になるまで市であった︒ところが︑七同Hの誕咋がめぐって塞た時︑この少咋の翌朝は︑  

︵2︶  習通のm習に従って︑高官や諸扶を呼び集め︑盛大な易余と儀式をとりHった︒しかし視座の最申においても盲の  

﹁り︐り︑  少年のことを思って苦悩と恥辱に苛まれ︑胸の奥から怖かにため息をつい仁︒他の人々は︑冊声をあげ︑机習にな  

︵4︶ らって呈をたたいて拍手咽雫していたが︑盲の少時に視力がもどったことが明らかにされると︑†いぃパかは頂点  

に達した︒しかしながら︑父親ほそれを告げにや﹁てきた人を証もじなかった︒そこでついに稚拙が届から斗を  

起して少咋のところへゎき︑居並ぶすべての人々にすでにの拭宍る少隼を紹介した︒それに止って父別の揺れ鋤  

く心の結び円を断ち切った︒そして少圧が決して見ることのできなかった物を杜分け︑亡の恥辱を無上い欲車吊=に  

︵5︶  変えた時︑居並ぶすべての人々のい高⁚びは満場に満ち溢れた︒その時セ︑ミ︑\スル公は︑その場にいた者の申の長老 と  

分別者に︑少丹の盲と糊恨が何かのヰ兆を意味しているのではないかと熱心に壷ねた︒それに対して彼らは説明し  

た︒﹃笥は︑ホーランドがかごし盲人のようであったということを意味している﹄︒キして芸﹁から後はメスコに  

︵7︶  ︵d︶  よって蒙が閃かれ︑隣州わ上に立つことになろう﹄とチリ目した︒実際︑頬柄ほこいトナっにな︺たが︑別様に解釈す  

︵9︶  ︵8︶  ることもできた︒まさしくホー⊥フンドはかつては肯であった︒真実の神への宮∴小拝も︑H仰の教えも知らなかった︒  

しかし開眼したメスコによってポーランド臼身も蒙が閃かれた︒というのは︑メス﹁一が信仰を受け入れた時︑ポー  

ランドの民も異教の死から救われたからである︒というのは︑今能の神は適切な順序でまず最切にメスコに内の視  

力を収り戻させ︑次いで彼に霊的な視力を与えた︒それは︑日に見える物を通じて口に見えない物を知ることに通   

︵10︶  徹し︑物を知ることを通じて造り主の全能を仰ぎ見ることができるようになるためである︒しかしどうして卓の輪  

が軍を追い越していくのか︒セミミスルはかくして咋老いてこの世を去った﹂︒   

(3)

3 ミニシコ一世について  

トーic autem Seヨimiz−ヨagnum etヨemOraコduヨ MesnhOnem pr〇杓enuit−qui pi−ゴuS nOmi完 くOCatuS a〇.  

septem annis a nativi︷ate caec亡S f亡it.Septごゴ○ノ1erO reCurrente natiユtatis eius anni諾rSaユ○﹀ pater pueri−  

︵こ  mOre SO≡O COn言Cata COヨituヨ aHOrumque Su弓uヨ principum CC︻岩iOne−COpiOSaヨ eつu−atiOnem et  

︵N︶  SOeヨpコem Ce︼ebrabat︸et taロtum inter epu︼as prae cagitate pueri一quaSi dO−Oris et諾reCundiae meヨOr︸  

︼aten什er ab in岩 peC︷Ore SuSpirabat.Aliis equideヨ eパ已−ta已ibus et pa−mis eパ COnSuetudine p︻呂dentibus−  ︵e  ︵望  −actt訂 aごa aこam cum已aユt−q亡aeエsum recepisse caecun︼puerum iコdicaユt.At pater〇u≡ nuntiantiどc   

cr臣idit﹀ dO︼−eC mate−・de cOnままO e︼昌r驚nS ad pue岩ヨn︷rOiノユt−quae patri nOdun︼ ambi叫亡itatis   

amputaま十cごコCtisqtle reSidentibusくidente2pue⊇m prOnuntiaノ合一Tunc delゴuヨnunCtis︼aetitia p︼ena f仁it︸   

Culゴpue︼∴OS quOS n亡n雲aヨくiderat recO拘nO<itu suaeque caecitatis ignOヨi已aヨin gauたum ine已ricabi訂   

cOmヨutaVit.Tunc Semimiz−du㍍ SeniO蒜S et diucretiOre肌 q已 aderant suぴtri︷er s訂ci︷atuH−Siβui・−  

︵巴  prOdigii per caecitatem et1日uminatiOコem pueri des昏−at亡r.Ipsi諾3霊r Caenitaten−PO︻Oniam sic antea  

叫uisse qu諾i caecam indicaba三﹀ Sed de ceterO per PどshOnemこどmiコa邑am et e㍍a︻tandam supe−・−︼ati昌eS   

cO已i讐aS prCp訂tisabant.Quia et ita se habui︵﹀ et a≡er tan完n interpretari 苫tuit.くere PO−enia  

︵ご  ︵巴  ぞ caeca prius erat一quae neC Cu言にram ノ1eri DeiコeC dロCtユー︶am佃仰dei cCgnOSCeCat−Se仁per Mescど叫lem  

︵巴  iumiコatum eSt et肯呂 iuminata−︵モロd eO Credente PO−○−︼ica gens deヨOrte infidetatis est eHemユa.   

〇r︹ne e−ユm cO−︼−petenti Deus O⁚nヨi冒tenS ユsum pril仁uS ヨescFOni cOrpO岩訂ヨ 岩Stituit−et 苫Stea   

spirita−eヨad−︼ibuit−ut per 5.Sib≡a ad inユsibiu≡ agnitiOnem penetraret﹀ et per rerum−岩titiam ad  

︵︼  虻 arti佃icis OmnipOtentiam suspicaret.Sed cur rCta Curruヨ praeCurr山tつ Sem︸miz−auteヨSeniO COnfentus  *  e已remuヨノ藍eヨundO fecit一u︸︵竃C毎払りt.?尋凰.R.KO蔓訂︸ S一缶ご   

(4)

開 法(37−1)4  

川 ﹃匿名のガル咋代記﹄の現代ポ・⊥フンド語訳の訳者でもあり︑ポーランド申僅雄代記研究の解威でもあるM  

・プレジィア P訂zia は︑この偲所せ写水へイルスペルスキ版 kO皿eks beこsbers已 に依拠して次のように   

訳している ︵慧甲名のガル咋代記﹄の写本については拙梢﹁ポーランド最古の咋代記−−﹃匿名のガル年代記﹄   

について﹂ ︹岡山大学法学会祁誌︑第三五巻二男︑昭和六〇咋十二月︺嚢隅じ︒㌔ui primus nOヨi−︼e ノT︒CatuS   

iご0﹂︼ ﹁この名前で呼ばれた最初の人﹂︒そして︒フレジィアはこの場合︑亡primusu︸ は一正rim誘 Mesch㌔   

﹁ミュシコ一冊﹂のことを指し︑この年代記の第一巻第十七草に㌍均する ㌔ec已nd亡S ソ宕scFO︼u ﹁ミュシコ   

二世﹂ ︵ミュシコ一世の孫︶巻念頭にわいた記述である︑と述べている ︵P訂ziむーb喜已S 訂芦 G已︹   

和書已ぎ 官〜h訂︸ iハー・akかw l笥m▲S∴守⊥ご︒他力︑ザモイスキ版 kOde訂 zan岩ySkiにわいては︑三lOu−   

﹁あの﹂が㌔き㌔﹁酬の﹂と記きれてぉり︑ここからR・グロデッキGrOdeckiをはじめとする多くの学者は  

富iヨ亡S;﹁最初の﹂を ぜrius写﹁以前は﹂と読んで ︵これは古害休学の見地からみて︑写木作成上よく見られ   

る写し誤りであると考えられている︒︶︑この節所を次のように訳出している︒すなわち﹁以前︑別の名前で   

呼ばれていたミュシコ﹂︒それではこの﹁別の名舘﹂とは何であるのか︒ポーランドの年代記研究の巾では︑   

これは﹁ダゴーメ﹂.占a伯Ome一︸ という名前を指すものであると考えられている︒すなわち︑これは︑一〇八   

七年頃︑枢機卿デウスデーデイツトDeusdeditが編集した教会法集成 C邑寛計Q C聖岩至芸の巾の︑九九〇    * この咋代記に関する注釈書については次のものを用いた︒なお︑メスコはミェシコのラテン読みである︒   

巾R・グロデッキ︑﹃断名のガルのポーランド咋代記﹄ R.Gr︒計ckrム喜已選芯芦C已㌣巧⊇ヾ㌫訂㌢︑諷q−只rakひw−諾い.   

㊥K・マレテンスキ︑﹃匿名のガル咋代記︑すなわちポーランドの君‡謂公の歴史﹄声Ma︼岩Zy訝ki−bミ3首〜訂芦Cミ\︐   

き︑Q3蒜q cN㌧■︑叫計叫ミ屯訝意仲忠町ミ邑c卦e㌢︑旨叫cぎ苧akかw ︸冨ド   

⑨M・プレジィア︑﹃郎名の︑ガルのポーランド咋代㍊﹄芦 Pざ註r b宍重富:ド芦︵訂さしぎ宮を訂.曾泳ぎ㌣ rakひw−笥㌣  

(5)

5 ミュシコー1勘こついて  

〜九九二年ごろ苦かれた一文書に窯場する﹁ダゴーメ﹂という名を指すも揖と‡脹されてきた︒この教会法集  

成第三巻一九七葦には次のような文章が存在している︒   

﹁他の巻と同様に︑我々は法王ヨハネ十五他の時代の次のような文草を読むことができる︒すなわち︑裁人  

ダゴメとその妻オテ︑その息子︑\.ンカとランベルトエスはm完トロにスヒネスネと呼ばれる一つの都全体と  

その同境わ中に屈するすべての物を蘭じたといわれている︒そのはじめの国境は良い淘︵岸︶ に沿ってプルス  

︵プルシア︶ の国境から︑ルスと呼ばれるところまで︑そしてルスの国境からクラコフにまで遷する︒このク  

ラコフからオドラ川に沿ってアレムールと呼ばれる場所にまっすぐ述する︒このアレム・Iルからミルスコの地  

に到り︑このミルスコの地からまっすぐオドラ川に達し︑オドラ川に沿って今言及した部スヒネスネに到る﹂︒  

−トItem in a−iO tOmO Sub JO訂コne Hく 竃竃 DagO−ゴ巾 iude〆et Ote seロatri只e f己i eOrulご 才芸ica et  

Lambertus−egtln︷ur beatO PetrO CO芝ユi∽Se unam Ciユta︷つm in in︷e笥O que づOC巴ur ScEgnesne cum  

Om已bus suis 嵩﹁tiコentiis infra FCS affines sicまi incipit a primO−atere−On明仁m mare 巾ine PruNNe  

usque in−OCum qui dicitur Russe et fine Russe e已endente usq已e in CraccOa et ab ipsa CraccOa  

usque ad f言men Oddere recte in−C昌m q已i dicitur A−nmure et ab ipsa A−emllra uSque in terram  

?−ェze et a鴫ine M語reCte Ftra Oddera e︷e首nde duceコte iu温a fどmen Od計︸・a usq已e in predictam  

ciくitateln ScEgnesne.︒︸︵B−・︶軋d K賢bis∴da誓ヨe iude舛・−Studium 雷︶lきcz莞↓∵七鳶ぶ蒜叫 音数ざQ  

富家言写t・−・−芸N.s.U芦︶   

ここで挙げられているオテはオダOdaという名でミエシコの先妻ドンブルフカ D各rひ宅ka の没後の妻と  

︑・⁚ .・・\︑・∵⁚..﹁:∵ご∵∵一∵㌧一︑≡い−︑︑︸ ∵㌻こ∴︑・て:÷︑︑︑㌧︑′.て∵︑こ コ.㌧ニ︑ごご・︑︑.∵  

︵POZna訃−冨㍍︶ の第四巻で言及されている人物である ︵オダについてはきらに 〇・謬︼Ner︸ G箋昌㌻g叫Q  

左   

(6)

開 法(37−1)6  

ノ  L︑  

b叫巳叫旨︶一lハra富w ︸00誤参照のこと︶︒またスヒネスネ Scl忌諾S完 という町は︑ヴィエルコ・ポルスカの   

ダニニズノ Gnie昌○︑あるいはバルト粘のオドラ川河口に位置しているシテェナン SNCZeCiロを指すものと   

言われている︒どちらにしてもこの文#が示している国家の領城はミュシコの支配する版図と損なっている︒   

従ってここから﹁ダゴーメ﹂はミエンコ一世に仙ならないとする説が立てられてきた︒  

ところで︑この﹁ダゴーメ﹂という名前の意味するところについても色々の説が主張きれている︒﹁ダゴー   

メ﹂票ロagOme一↓ はもともとドイツ語の﹁ブーケン﹂ 卜占egen岩が書きいっされたものであり︑これは刀を意味す   

るポ1⊥フンド語 ﹁ミュナ﹂.一致ecN︒いドイツ㍍訳であるとし︑﹁ダゴーメ﹂はすなわち﹁ミュチスワフ﹂  

.■岩iecN苫㌻宅J︒のドイツ語への翻訳にすぎない︑という説が立てらゎた ︵ソ−aciejO雪SkiL︶−・Ze註ziecki︶︒モ   

れに対して︑ピアスト朝研究の古山ハと︑らいうべき﹃ピアスト朝山系図﹄ C箋罠㌻g町屯3已叫旨︑を書いた0・   

パルゼルは︑この烏=の小で︑﹁デーゲン﹂︒Uegen︒︼ というのは占ドイツ語では︑刀ではなく英雄を意味する   

語であり︑﹁ダゴーメ﹂ 已DagO−記ヱ は.議gOン蒜scO=﹁私︑メスコ﹂の書きぢし上の誤りでふ∵リ︑﹁ダゴーメ﹂   

は従二し名相ではないと主張した︒しかしながら今日では︑ポーランド中世史の多くの研究家は︑﹁ダゴーメ﹂   

はスラブ風の名前ミェシコのキリスト教徒としての名であるとしている ︵R.GrOdecki⁚旨宣旨こ遥ン㌘≒   

唇⊇︸㌫訂官訂訂−只rakぎ二岩U↓S∴?B.︸ハ賢bis.hh旬■t−−s・㌍こ︒  

倒 ′ホーランド中世の経済史についても諜損のあるR・グロデッキは︑この高官 cOmeS︑諸侯 雪ご岩ipes に   

次のような注をほどこしている︒﹁この言班︵cOヨeS︶をできるかぎり・厳密にポーランド語に移し入れようとし   

てきたにもかかわらず︑今日にいたってもこの古巣はいまだ学問桝究の小にに置されていない︒年代記の作者   

はこの言葉を︑この勘所におけるように一般的な急転に絞っているけれども︑時々砦または州の代官という意   

味にも使っている︒それは凌のカシテラン kasNte訂ロ︵城代︶ の地位と性格に対応するものであろう︒プリン   

(7)

7 ミェシコ一世について   

ケプス princeps︵諸侯︶︑ドユークスd宗︵公︶ という名の中には︑おそらくかつての千僧氏族や部顆の諸侯   

という意味が込められていたのであろう︒彼らほピアスト朝においても︑かつての権力はすでに喪失していた   

けれども︑なお名誉ある地侵を保持していた﹂ ︵GrOdecki−Op.Cit・S・ヨ︶︒  

川 この部分の典拠として︑マレテンスキは︑オゲィディウス﹃変身物語﹄第十巻四〇二﹁偶の明底から漕鳥を   

ついた﹂ ㌔uspiria du生ab imO pentCre一︸ ︵○まdiusて奉き蓋薫貰己畢t∴岩\写㌣⁚コ岩 Lrを C︑e乳へ已   

卜叫ざ竜一ニ︹以下単に﹂ど監と記す︺t一N.s.岩︶︑ヴュルギリウス﹃アユネイス﹄第六巻五十五﹁祈りは裁が   

王の胸の威から近る﹂ ︵くerg1日us︶﹄昌乳斗t.くⅠ.ひu.ト罠㌣t.−.s.∽岩︶ を葦げている︒  

用 プレジィアは︑この慣習についての記録を十三世記に書かれた﹃聖スタニスワフ小k﹄の小にも兄い出して   

いる︒﹁今日までスラブ人の宴会においては︑異教の歌を歌い︑拍手喝采し︑互いに洒をついで捕飲すること   

が行われていた﹂︒.トUコde in cOnuiuiis Slaヨru︸︼−adh宍Canti−ene gentこiumも︻a仁SuS ma≡un一ヨCSque   

sa−u︷ancium seruantur usque in diem hOdiern仁mt︵ヨ訂∽∴芽室く乳 へ富さ温 C⊇Cミ訂ヒh㌻︹ヨ訂   

竜㌻ミ︺恵弓句二.心.s.和い∞︶︒  

1・れえ 描 この箇所の典拠としてマレチンスキは︑﹃旧約m詣u﹄エステル記︑第九軒二十二郎を挙げている︒﹁憂愁よ  

・よろこび かたしみ上きひ   り喜楽にはかり悲哀より吉日にかはりたれば﹂ ︵﹃旧新約聖無這 ﹇小形引照つき文語聖出=︺︑九一拍ページ︶   

㌔t−仁Ct宏a︷que tris三ia in hi︸aritatem ga已i亡mque COnくerSa Sint㌧.︵無巴叫屯h莞⊇−5とg已§ざ琶吾㌣  

︑こミこ﹂㌻■\・ヽ︑こ・こ︑へ㍉∴ミ.∵′\︑ミ∴■.・こ.丁∵﹁.∴・.1よh.・∴こ・ 二﹂ t\. ∴∵︑  りれたルーニたみ  ㈹ マレチンスキはこの箇所の典拠として︑﹃旧約聖書﹄列王妃略上︑第い四葦七郎を挙げている︒﹁我汝を民  

うちあわがたみうえたんじきみ  の中より挙げ我民イスラエルの上に汝を君となし﹂ ︵前掲苫︑六五一ページ︶︒㌔欝雷ペニe de mediO pOpu−i   

et ded二e ducenl S壱er pOpu−仁m me亡m Hsrahe︻.︵ヨ已唱已卓t・−s・念・告︒  

七   

(8)

開 法(37−1)$  

く 

な 

∽ マレチンスキはこの箇所の典拠として︑サルステイウス﹃ユダルタ戦記﹄鍔八十五章二十三翫を挙げている︒   

﹁確かに事態はこのようであった﹂.官○訂旨itasereshabet・r︵Sa賢st︼bS毒︑義ミ家≡ミ戸卜Q箪s・  

∽忘︶︒  

川 マレチンスキはこの綺所の典拠として︑サルステイウス﹃ユダルタ戦記﹄第七重二郎を挙げている︒﹁び柄   

は予燃されたものとは全く別様のものとなった﹂︒.−ea res︶⁝ge aごter ac ratus e−at eイenit㌧︵Saご邑−  

︑ニー㌻ミ︑∵ここ︑㌧︑=.︑yミ︑.ニ∵.■▼ ■ト.  

㈱ マレチンスキはこの田所の典拠として︑﹃ウルガータ弛裏芸に収録されている﹃旧約外肌ハ﹄ユデット書の新   

車草十九郎を挙げている︒﹁Hの帥への川∴小拝から述ざかったことを後悔した﹂ ︷一pae邑uer亡已 se J.eCeSSisse   

a cu−tura Dei suT−︵てミg已やt.rl s・悪い︶︒  

㈹ この箇所の典拠としてマレテンスキは︑﹁新約聖書﹄のへブル書第十一軍二郎︑およびロマ・訳‖節空一十椚  ぎ十   もの頻らH   を挙げている︒ヘブル習第十二聖二節﹁H仰によって⁝⁝見ゆる物の蹴るる物より成らぎるを悟る﹂ ︵前掲無=  ∴↓   聖ハ一ページ︶−トfideinteeg首us ut euこ雪isibこibl︼Sエsibiiia詳reロt㌧︒﹇二∴胃管一群二十仰﹁抑の見るべ  動きら九 はl︑めさと も直 とこしへもから㌧J山叶′︑ からざる永遠の能力と神性とは造られたる物により世の創より折りえて明かに見ろべければ﹂ ︵前掲習三〇三   

ページ︶ ■Jm鼓ibご㌻ eコim ipsiuUl a Creatura m仁n已 per2a qua2 facta sunt inteHecta n︒nSpiciuntur   

sem呈erna quOq仁e ei宏まrtus et diくiロitas・︼リ︵S︑︑g已タ t・付s∴謡三︒   

ところで﹃匿名のガル年代記﹄のこの箇所の軒別は本市全体の理解にとって決定的な意義を持っているが︑   

それは同時に﹃新約別表H﹄のヘブル書︑ロマ雷のマレチンスキが指摘した節所の研削如柚に関わっている︒し   

かしながら︑今日まで︑このロマ書籍一帯一九〜二〇節の節所の解釈については︑神の上からS由示にアクセ   

ントを置く野別と︑人机の ︵ひとまず︶内在的な自然理性にアクセントを椙く解釈との∴方向にひき裂かれて   

(9)

ミェシコ…世について  

第五草  

︵1︶  ︵2︶   ﹁メスコは︑公の根に描いてから精神の才と肉体の力を期しはじめ︑ま・すます頻繁に正構の々な賊によって悩  

ましはじめた︒しかしながらこれまでのところは︑描ハ数の誤りに捉え・われていた︒というのは∵‖い侶習に従っ  

て七人の妻を持っていたからである︒その後︑キリスト教の㍍仰に大変熱心なボヘミアい女︑ドゥブロウカという  

︵3︶  名の者を妻に求めた︒しかし彼女はメスコがこの誤った旧習を捨て︑らキリスト教徒し﹂なることを約束する出で  

なければ結脈を断ると述べた︒そしてメスコが異故の日羽‖を捨て︑キリスト教の碑損をけ八け入れることせ大いに推  

︑1し  奨して︑聖俗の立派な道H・調皮川を持ってポーランドにやってきた︒しかしなから︑メス﹁∴かしだいにキリスト  

教の慣習と教会の侶わに従った儀斗八な抽州心に吟味し︑異教のぶりを拾て︑ら教会のけなる偶の申に人﹁ていくま  

︵5︶  では︑夫婦の床をともにしなかった︒﹂  

.トAt P宕sc〇du︵⁚at仁m adeヱus一ingen叶亡ヨanimi cO童it etユres nC昌Oris e莞rCere︸ aC naェOneS ワer Circuituヨ  ≡  ︵ぺ︶  beO Sae℃ius atemptal・e.Adhuc tum i亡tantO鷲nt≡tatis errO諾i亡VD−諾bat亡r−qt5d suむCOnSueどdine septeヨ   

u舛○ユJ亡S abutebatur. POStremO u5aヨ CJristianissiヨaヨde BOJemia OubrOuCa−n nOmine 仙コ matriヨOniu≡   

requisi一くit.At≡aロi praくam CCnSuetudi︼蒜∃ iごam dimittat−SeSeq亡e叫ieri cJristian喜ゴ ℃3H︶−ittatY Sibi  

し  ﹂ノ    いるように思われ︑山車冊な鎚緋は槌めて因純なところである︵U・ゾィルケンスの﹃ローマ人へ山手紙﹄  ﹇EKK新約聖書許碑︑一九八四年︺の︑人肌における∩然和佐の内在にアクセントを置く主張と︑E・ケー  ゼンマンの﹃ローマ人への手紙﹄ ︹一九八〇咋︺の︑抑の噂ホにアクセントを罠く解釈の対立を参桓のこと︶︒  本稿たおいては︑仮説的ではあるけれども︑﹁上からり啓示﹂の組でロマ黒を理解し︑﹃置〟Hのガルl﹁代li己 ﹄  

の記述右その方向で解釈している︒  

(10)

岡 法(37−1)10  

○  

こ︑  nubere recusaくit. けO ergO COaudante﹀ Se tlSu−コ i≡us 竹aganismi dimissurum et 帖idei c雷is什iaロae   

SaCra∋enta SuSCepturum﹀ ≡a dOnliロa Cu−已l︼︶agnO SeCu︻ar訂e︷ecc−esiasticae regiOロis apparat亡 旬01Cコiam  

intrCivit︑neCdum tameロtbOrC SeSeヨaユtaごfOederaま︻﹀ dOneC ie p岩latim nロコSuetudiコem C首istiaコitatis  ︵e  e︷regiOnem eCC−空iastici Drdi已s diごgenter cOntemp−臼コ∽﹀ eコdri ge已iuコーabnegaまt seque grem訂matris  

ecc−esiae c呂已ノき㌧−︵bへG転句仇こ.P w鼠.R.KOePkeu s一たヱ  

︵豊  

川 ミュシコ一世がいつ頃公 duH としての柾力布の地位についたかはまだ確定きれていないのであるけれども︑  

当時のドイツ錮の資料︑ゲィドキンドの﹃ザクセン部族史﹄無恥h鷲已莞功ミ旨訂莞は︑九六三拝にドイツの  

辺墳侶ゲロがスラブ人の公ミュシコを二度討ち破ったとする記事を残している︒この点から考えて︑ミェシコ  

の権力掌握の時期を九六三拝以前︑ほぼ九六〇年前後と考える説が有力である︒グロデッキ︑プレジィアもこ  

の見地に立っている︒今︑ゲィドキンドの費料を挙げておくこととする︒  

﹁ゲロ伯は彼ら ︵西スラブ振の一集団︶ に喜んで受け入れられ︑遠方に伴む野蛮人違をしばしば討ち倒し︑  

リチカケィキと呼ばれるスラブ人を支配していた王ミェシコを二度討ち破り︑彼の兄弗を殺し︑多くの戦利品  

を埋指した﹂︒.−GerO igitur cOヨeS⁝・Ab eis宇en︷er susceptus−昌乳us d2駕コteS rar訂rCS C完rris preis   

cOコ︷riく; 竜〜h莞§鵬 言鷲芸u cui仁S pOteStatis erant Sc訂ま qui dicu已ur Licicaノ﹁iki︶ dua訂s ノふcibus   

superaまt fratremq仁e ipsius interfeci︷︑predam magnam ab eO e已OrSi︷.−二軍叫計誉已〜 言ゎ g屯乳莞   

少巴Gミざ完︼早二芸一転旬毎こ∴.s・EO︶︒なおここに挙げられているリチカゲィキ族とは︑現在の研究におい  

ては︑ヴ7ルタ川︑ゲィスワ川︑ビリツァ川に囲まれたウェンチッツァ地方山ぶczycaに住んでいた部族であ  

り︑広くゲィエルコ・ポルスカ地方の一部族であると考えられている︒   

(11)

11 ミェシコ一世について  

倒 マレテンスキはこの箇所の典拠として︑サルステイウス ﹃ユダルタ戦記﹄第二十八草二節︑同﹃カティリナ   

陰謀事件について﹄第二章一節︑籍八草五節を挙げている︒﹁我々の執政官には多くのすぐれた精神的︑肉体   

的特質があった﹂︵﹃ユダルタ戦記﹄︶−エロCO琵u−eコCStrOヨultae b呂aeque arteS animi et cOrpOr訂erant・   

︸﹀︵Saust−穿き芸こ倉盲︑送致芸壷√ト莞争sこ琵︶︑﹁王達はさまざまな仕方で︑ある者は精神を鍛え︑他の者   

は肉体を鍛えた﹂︵﹃カティリナ陰謀事件について﹄︶.イegesゝ冨OrSi pars in駕niumもーii cCrpuS e諾rCebaコ︷.  

−V︵Saust−b已︑琶ま C諷Sgさ Lど冬 sこ︶︑﹁被らの精神は肉体から離れては用いられなかった﹂ ︵前拇   

書︶.Jロgeniロm ロemO Sine cOrpOre e莞rCebaLU︸ ︵Op.Cit.−S一芸︶︒  

糾 ミュシコの妻となったドゥブロウカ DubrO亡Ca=ドンブルフカ ロ昔rひwka についても今日まで詳しいこと   

は明らかにされていないけれども︑チェコ公ボレスワフ一世の娘であり︑九六五年にポーランドに入ってミュ   

シコの安となり︑ミニシコとの㈹にボレスワフ・フロブリ ロ○叫究︸aw nhrOざ︶1 の他に二人の娘︵アデライダ   

Ade互da︑シフィエントスウァヴア ー シグリーダ 抽wi巾tOS訂記−S完rida︶を儲け︑九七七特に没した︑と   

されている ︵〇.Ba−zer−G芸昌︑叢叫Q 3已叫筈こ.NN︶︒  

剛 マレテンスキはこの箇所の興拠として︑ヴィポゴpOの﹃コンラッド一世の功損﹄を挙げている︒﹁すべて   

の教会用の道具を持って﹂.トcuヨOmni ecc︼esiasticO apparatu..︼︵ゴpO﹀G票訂C茎宅屯恕こ︒この部分杏プ   

レジィアほ﹁聖俗の立派な御供を通れて﹂と訳している︒  

糊 マレテンスキは︑この結婚と洗礼との咽序について咋代記の作者は誤りを犯していると述べている︒他の資   

料においては︑ミエシコとドンブルフカとの結婚は九六五咋︑ミュンコの洗礼は九六六年にとり行われたとな   

っている ︵↓富etヨarこく一︶︒﹃クラコフ参事会年報﹄の記述もそれを確認している︒遥の㌢ロubrOu訂ad Mes・   

kOnem諾nit.宗P MeskC duH PO−○ロie baptizatur㌧ ︵云や中二.N.s.諾M︶︒  

山一   

(12)

同 法(37−1)12  

︻二  

﹃匿名のガル年代記﹄第一巻四黄に記されているメスコ ワ訂sc︼さ こそ︑歴史文献のゅで確かめうる最初のポーラ  

ンドの支配者ミュシコ 三ieszkO である︒ピアスト胡の建設省ピアストから教えて四代︑ピアストPiast lシエモ  

Sieヨ○まt lレシュク ︸しeszek lシュモミスル S訂m〇m︶藍 はいまだ伝説上の人物である︒しかしシュ  ゲィット  

モミスルの子ミェシコからは胚史上の存在が確認きオlているのであり︑一個の歴史学Lの対象として研究がなきれて  

きた︒   

もちろんそうはいっても︑今巨−まで残されている胚史費利から︑ミJンコについて︑またミェシコの時代と社会に  

ついて具体的な橡を描くことは非常に国難な事柄である︒ミュンコについてそれなりの貝休橡を提供している数少な  

い資料の一つ︑十帽祝中慄にスラブの諸国を旅目したといわれているスペインのユダヤ系商人イプラム・イブン・ヤ  

クブ Ib︼毒him ibn Jaqub の旅わ記は次の㌧ふうな記述を現していろ︒  

﹁メスコの国に関して言えば︑そ︑れはスラブ族の川の申で最も広い咽である︒この日は食物︑肉︑蟹︑耕地 ︵あ   

服︑武器︑必要なものすべてを与える︒■=⁚メスコの桐は︑束はルスと接し︑北はプルスと囁を共にする︒プルス   るいは魚︶ が懸かである︒ノスコが取り立てる税は・取引の朴 ︵分銅︶ から拒めたものからなっている︒それらは彼   の家臣︵あるいは努兵︶の給与となる︒毎月それらの一定藁が被らの各々に割りあてら汗る︒メ云コは︵部隊に編成   きれた︶ 三千人の甲朋兵を捕っている︒その百人隊はほとんど他の十の百人陀のhへ士に相当する︒メスコは絞らに  

*   の居住地は海に而している︒彼らは特異な言葉を持ち︑隣国の言柴を.珊らない:﹂︒  

* イプラヒム・イブン・ヤクブの旅行記については︑椚情﹁ポ1⊥フンド最古の年代記﹂を参照のこと︒そのアラビア語の写   

本テキストは﹃ポーランド歴史費料集︑新版第一巻正.迂ざ至宝§ミQ しござ⁝訂ねh禁祖ミえ扇▼ >ざ芸︻ ヒヨダブ・−∴㌘a好か宅  

−慧P に収録されている︒なお念のためにラテン語版のテキストを挙げておく︒  

︑duOd2tem ad regiOnem MeskC−ュS SpeCtat−haec ︵est︶ spatiOSissiI志 regi02m eOr亡芦Haec abundat nutrimentis   

(13)

13 ミェシコー世について  

一三   

(14)

同 法(37山1)14  

この㌍料に上ると︑ミェシコはすでにスラブ振の中の=板有力な君主として登場し︑一二千人におよぶ直属の印隊を持  

つ一冊のヤ制京王として描かれており︑この強大な軍隊を壷う財源を交易に求めていたことがわかる︒確かにミエン  

コは︑オドラ川河口 ︵今日のシチュナン︶ に通ずる絹業蹄の確保のにめ︑ルブシ地方︑西ホモージェ地方の支配をめ  

ぐって勺地の西スラブ族 ︵ヴォリニア旗︑ゲィエレッツィ族︑ポモジャ二振︶ ならびにドイツの諸勢力と和戦を含め  

た種々の接触をわっていた︒ドイツ・ザクセン粍の雁史を記したゾィドキンドの﹃ザクセン史﹄が︑九六三拝にゲロ  

伯によって当地の西スラブ先のウウジッツィ扱が討たれ︑またリッカヴィヰ族︵今日ではウェンチッソァ放と言われ  

ている︶ のスラブ人のモミエ︑ンコもゲロ伯に上って討伐きれたと記しているのもこうした草情毒物㍍るものである  

︵本論文申の﹃匿名のガル年代記﹄第五草に付けた注1を参昭のこと︶︒このヴfドキンドの費料︑また十一世紀初  

頭に書かれたでアィトマールの咋代記Lの小から︑ミエンコについての記述を招介すればわよそ次のようになるであ  

ろ︑フ︒   

ミェシ コはバルト海への勢力進山を図るため︑後背地を囲める貢図で九六五年チェコと同盟ナぜ結び︑その力を借り  

てオドラ川河口のヴォリニア振を討ち︑ルプシ地力と西ホモ⁝ジュ地方を征醸する︒同作ナノェコの挟女ドンブルフカ    山四  

eL carnc et m巴le et agrO︵siYe pisce︶.Tributa ab eC 2HaCtP e pOnderibus ヨerCa冒ュis︵c呂St賀t︶.Haec ei亡S  

くiris ︵siく2 p乱itib已S︶ stipe已rO ︵sun︷︶t Iコ unGmquemque menSem uコic已que ︵eOruヨ︶ c2rt畠 num賃亡S e才 eis  

︵d巳仁r︶.Ⅰ2Fabet lr首 象a ︵mi≡uヨ︶−Or訂a arヨaLCrum iコ pra2Si已a ︵diノオa︶et ce已仁ria eOrum idem ≦訂t  

atquc deceヨ Ce已uriae a−iCru1日 ︵miごtu岩︶.1日e dat貫訪.ユris 完St岳 et equUS et aH・ma Ct Omniヂ quib亡SCue eis  

︒puS eSt.・二∴三2SkOniエni已 sらt ab︒rieコt2R仁S a S2pte芝ri︒冒autem 望rus︵Pru邑︶.Sedes 望rus ad Oc2amE︸︸  

ヨarC Ba−tinum︶ ︵sitae su芝︶.Hi Iiコg畠ヨ訂be已 prCpriam neque Iざ望巴 S5r仁m ノ∴ciコOruヨー岩ru芝﹂リ ︵唇卜等式︸P  

S.t一−.⁝一−彗︶︒  

(15)

ミュシコー世について  

ルブシの土地の征服はミュシコをドイツ諸侯との交渉にひき入れ︑九六七年︑ミュシコはドγツ人によって﹁尊前  

の友﹂㌔n︼icusニーlperatOrisと呼ばれる︒しかしドイツとの緊張はこれで解消したわけではなかった︒九七二年︑オ  

ド伯はポモジャニ放とともにポーランドに傑人するが︑かえってミュシコに撃退さわる︒九七九停までミュシコはオ  

ットー二世と対立関係にあったが︑九八三年︑ゲィエレッツィ族がドイツの支配に対して反乱を起すと︑ミュシコは  

ドイツ側についてブィエレッツィ族鎮圧に乗り出す︒ミュシコはこの時︑ドイツ・ポーランドの関係が改善され︑逆  

一五    との結婚が実現し︑そしてこれと結びついたミェシコのキリスト教改宗・洗礼も翌作成就する︒  セオール  ﹁︵ミュシコは︶ チェコの国から︑長兄東レスワフの妹である高貴な女学妻に迎えた︒事々如五はその名が示す   

とおりの女であった︒というのは︑彼女はドイツ語で﹁良い﹂という一言語のスラブ凪の表現﹁ドブロヴ7﹂と呼ば   

れていたからである︒このキリスト教H者は︑多挿多様の異教の誤りに埋れていたH分の突を見て︑夫と日脚を共   

にする方法について熱心に考えはじめた︒あらゆる点において︑彼女は夫∽心を捉え王うとしたが︑それは鞘落し   

たこの世の三つの撒望盲満たすためでなく︑すべて∽者によって渇望される︑来世の称質されるべき報いから生   

じてくる益のためであった︒﹂  

.虚ic a BOemia−・egiOne nObi訂ヨSib叫u誓rem Se︼こOris田○ごz訂ノユdtl莞rat cl03い・ルm・Quae︑SicさsO≡it iコ   

nOmine︸ apparuit ノ毒raCiter in re.DCrra司a enim scia召nice dice首tur−quOd ﹈︒eutOnic〇 SermOne BOnロ   

interpretatur.HんOmq完haec ChristO fidelis dum cOn山ugeIn S喜m志riO 鷲芝i≡atis eコ・ロre i−量目citum esse   

perspiceret−Sedu−a reノえノきangt︼箕ae mentis debe岩CiOロe−qt邑iter hにnC Si打i sOCiaI・et iコf己e;冒niヨCn山s   

p−acare cOntendit﹀ nOn prOpter tri訂rmem muコdi huius nOCiノふ 竃pet叶tu喜一quin pOCit㌫ 雪0ユe回∴Lturae   

mercedis−audabi−e−ゴaC uniくerSis fideござs nimis desiderabこem叶ructum㌧︵T叶計tりnar︸ LiebeH Iノ∴芸.︶︒  

(16)

岡 法(37】1)16  

一六   

にドイツ・チェコ関係が憩化したのを見ると九八九年マウォ・ポルスカとクラコブを支配下に置く︒こうしてこの時  

までにミュシコの領土は︑北はポモージュを含んでバルト福まで︑東はルスの国境︑南はマウオ・ポルスカ︑西はシ  

ロンスク︑ルブシの地に及ぶ広大なものとなっに︒このような勢力拡張の上に立ってミュシコは︑九九〇年から九一  

年にかけてタラコフを含めたこれらの領土をローマ法王に献じ︑自らの国土をヨーロッパの普遍的権威の下に置こう  

とする一文告を提出した ︵こ∽文書については︑木精の﹃離名のガル咋代記﹄第四草の江1の注釈を参照︶︒ミュシ  

コは帆㍍・︑ドイツの詣塑力︑とりわけオットー二世との関係を弧化するために妻ドンブルブカの没較︑九八九咋ドイ  

ツの辺境伯テオドリックの娘オダOdaと結婚する︵Thictm臼r Libeニく.ひヱ︒ミュシコが九九二咋に没すろと︑先  

ドンブ 妻ルフカの子ボレスワフ・フミフリほオダとその丁を追放して阜独で柾力をか据する︒   

以⊥が椎史エバから肌らかにされるミェシコの事情である︒しかしながらこれらの記述は︑ミュシ﹁について︑い  

わば外側から外交の対象としてのポーランドの君守丁こシコのノ‖動を怖いたものに過ぎず︑ミュンコがどのような人  

物であ∴∵仁かについては少しも語るところがない︒後代に残された小一ランドH⁝による貿料としてはただミュシコと  

いう名前だけである︒   

ところで︑ポーランドにおける今日までの諸研究はこのミエンコ ノ已esNkO なる名前が︑ポーランドだけで知られ︑  

またポーランドでもピアスト相が没落するとともに使われなくなったという点に注目してきた︒そこでこの名前の意  

味に焦占州があてられ︑そこからミュシコなる人物の橡車引き出そうとする試みがなきれてきた︒‡別の建設者に係わ  

る名前は一つの象徴機能を持っており︑これを椚明することでその名前を持った人物のれ会的役削が推定されると考  

えられてきたからである︒∧∵その代走的見解を紹介すれば︑ほぼ次のようである︒   

川﹃匿名のガル咋代記﹄が再Hかれてから約一〇〇咋後︑十二世紀末から十三世紀初頭に成守t たといわれている  

﹃マギステル・ヴィンセンティのポーランド什代記﹄ 巨ざ管;︑二苛勇芸罫Cぎ宣告薫こ㌔㌻営さ垂 ︵以下﹃ゲイン   

(17)

ミュシコ一世について  

センティの咋代記﹄と略記する︶ が表明し︑さらに十三世紀末から十四世紀にかけて書かれた﹃ブィエルコ・ポルス  

カ咋代記﹄Cざ旨訂Q 七Q︑芸叫莞 竃乳篭叫s︑そしてポーランド・ルネサンスの記念桝的咋代記︑ヤン・ドゥウゴーシ  

の﹃栄光のポーランド王国年代記﹄ ﹄ヨ岩︑巴h蔓 C⊇軋c完訂c︑ミ叫 芸g乳七已芸㌻〜へと踏襲されてきている見  

解においては︑ミュシコ MiesNkOは﹁ミエシャチ﹂=Hlュ2S2am︑︵﹁狼狽する﹂あるいは﹁鋤揺する﹂︶から架た言  

蔑であると解釈されている︒後述するしふうに︑ヴィンセンティにわいては︑ミェシコの両親は息子が﹂なのを知って  

﹁狼糾した﹂と記され︑﹃ゲィエル﹁一・ポルスキ圧代記﹄においては︑ミーシコが古で什れ︑しかも父刺シエモ1\ス  

ルにはその他に子供がなかったので︑ポエフンド人達は王国に再び﹁騒乱﹂が生じるのではないかと心配したという︒  

そこからミェシコ軋動揺・騒乱という右前が作られたと記している︑﹁ま十王﹂Hに騒乱が来るぞー・︵と∴﹁た︶︒  

なぜならミュシコは動揺・闊乱と呼ばれたからである︒﹂ 亡へ典2CCe it2rum meS訂 in regnO︾・Mes︼ハa enim  

cOnfusiO SeuturbaciO dici言r.︸.︵達弓短.n一S∴.∞.s.−e ︿︸ きらにドゥウゴーシの仲代記ではヴィンセンチィと  

﹃ゲィエルコ・ポルスカ咋代記﹄とを踏まえて次のように記されている︒  

﹁再一にめられた目 ︵断髪式︶ になり︑人々は君主∽点字に与えるに相応しいγ前を捜したが︑忠子をミュシコと呼   

ぶことは︑父親にも高相高官たちにも納得がいくものであった︒なぜならそれはポーランド語で騒乱︑あるいは動   

揺を意味する﹂一一﹇梨であり︑生まれた時から︹宣﹂が百であったことは︑両親にとってもパーランド州民にとっても混   

乱の元であったからである︒﹂   

︷トDie auteヨCCnS︷ituta ad完nieコte︑dum de nOmine puerO apte impOneコdO quereretur﹀ ヮ︑昔eszkam ium et   

patris et prOCerum denre︷O appeごari p−acuit.quOd iコW︼竃ri P010nicO Significat ︷urbaciO諾︼ cOヨヨOCiO一   

eO quOd cOndiciOロe Sue CeCitatis et parentibus et genti PO−Onine in suC e誓rtロ COnfusiOコem in︷uご︷㌧   

︵IOannis D︼ugOSSii一−eS已巴竃記C⊇已c莞訂c≡町言g読札七已蔓訂? Liber priヨuS・冨rSa<iae忘澄﹀S・一言︶︒  

一七   

(18)

同 法(37=1)18  

一八  

佃 ドゥウゴー﹂ンは前述した見解とは別に ︑ミュシコ ブー訂szkOとは︑ミュチスワフ?ecNS訂弓 の指小形で︑子  

倶の時に川いられぢ名前であり︑ミェチスワフが正式の名前であり︑これはポーランド詣で﹁ミュチ﹂︒已ec〜︒︵1  

已em持つ︶ と﹁スワヴァ﹂ ㌔㌻waJ︸ ︵〟鍔=︑高名︶ という二語の令体としたものであって︑ミュチスワフとは﹁高  

名な方﹂という意味に仙ならないとする見椚も提示している ︵章Cチs・−﹂○−−コ︶︒十六冊紀の人文※義者︑マル  

チン・クローマー?訂rc⁝n iハrO−記r もこれに似た説明をし︑その著 ﹃ポーランド人の起渥と草紙について﹄ bへ  

ミ首町莞已︑︑h誉㌫ge許七Q訂§︑設営の巾で︑ミュチスワフの﹁;︑エチ﹂はポーランド語の﹁ミュチ﹂︒miecz二︵則︶  

であり︑従ってミュナスワフとは﹁重りを以て名㍗を得るもの﹂という意味嘉島∵ている︑ときれる ︵声FenikOプ1旨i﹀  

1PO−Onia Antiquissima Restぎta Oま玖ciwがpOStaけimi昌ia miesz打C︒⁚セミ・已㌻付 記N忘S亡ニー当︸︑nl・£︒   

糾 ミュシコは丁くーシ﹂.ご已.狛=︵クマ︶ から粟た語とするもの︑またミ▼∴ンコは﹁ミエチサィエ†′﹂1﹁ニュチヴ  

ィエチ﹂niつd軋まed叉クマ︶を語湘とすると解する説も近代以障の明田沢学的な桝光にわいて有力でぁる ︵A・B旨ckコer︑  

.∴1︑︑予 ∴∵ご十∵.・︑㌧ ∵:ご.−ナ∴∵⁚.∵   −︑−.■+.・∵⁚∵・∴﹂−︑−・ニ︑.︑.−.∴︑\ニこ︑︑:  

Ⅰ訂tO宅ice−器∽.︶︒   

川 聖官︑あるいはキリスト教史の上に窄場してくる人物の名前から収られたとすろ説︵宇↑Sen旨︒まcN・㌔l已2r  

arma.もー㌣芯.︸ DOWiat−ヮ︷etry訂chrztu 岩iesz訂:こej笥neZa.弓arsNa宅a﹀︸宗こ︒   

㈲ その他に稀々の名詞から取られたものとする多くの見解が出されている︒﹁復瞥﹂︵misti︶﹁芯﹂ ﹁傭﹂︵menh︶  

﹁ネズミ﹂︵ml′監︶﹁袋﹂ ︵miesze打︶︒   

しかしながら最近︑言語学杓・再出学的研究から一つの注目すべき研究が現われた︒ミュシ﹁こ﹂ほそもそーも  

﹁吉﹂を点昧したとする見解がそれである︒今この見解を紹介してみるとおよそ次のようになろう︒   

ミェシコ Miesz打○という名前が文献史上表わきれた最も古い形はミシカMisica︑ミスカワニsc訂︑メスコ宝esc−10   

(19)

ミュシコ一世について  

︵Misca︑己isicO︑Misacaはその変形︶ であるがミシカ≡恵ica︑こくスコ 茎schO︑メスコ MeschOの三語のH︑変  

化しないか︑あるいはeに変化している第一パmのイ︵i︶は牧子草1の強苫であり︑第二請節のイ︵1︶は悦子草1  

の弱者であって清規上の変化過程で消圭されやすいものである︒従ってこの一言葉の語幹形成辞はムィスm訂 となる︒  

他方Sは古ポーランド語においてしばしば㌍ノS︑2︑・Z︑えと描き替るものである︒とくにSがその前後のむ晋の  

\ 

は・Zとmさやい︒ 

なり︑語合体はムィジィカMb許ka  

聞に置かれる暗の育映れす従ってムイスアHbsはミイズソ昌仙と  

となる︒また占スラブ語ではムィズ ワ宗zはしばしばムィグHきgにも旧放されるので︑ムィジィカはまたムィギィ  

わソHbgbkaともなりうる︒語尾イカbkaは語が名詞化する時の指小形の接尾群である︒そこで詔ムィズワ:b汀︑ム  

ィグ?旨gがど山ような意味を持っていたかが問題となるわけであるが︑これを語怜としている▲∵=明石列挙すると次  

のようである︒   

川ムグワ ヨg︸a︵らや︑かすみ︑貿らせること︑混乱︑視力障害︶   

切ムグレチ mg−eへ ︵惜ノトなる︶   

榊ムグリチ mg日付 ︵もや︑かすみで覆う︑目がかすむ︶   

川ムグリチ・シュン ヨglim si巾 ︵潤す︑盲になる︶   

川ムグリスティ ヨglis︷い︑︵濁った︑不透明な︶   

㈲ムジェテ ヨ訂〜 ︵目を細める︑日を闇じる︶   

のムジェク m訂k ︵目を組める人︑盲のおばあさん︶   

糾ミェジェク ︼ロie訂k︵ムジュクと同君心義語︶   

佃ミェシカmie算a︵柁乱︑泥濁︑この語義こそ︑ヴィンセンティや﹃ゲィエルコ・ポルスカ年代記﹄︑またドゥウ  

ゴーンが依拠しているところのものである︒︶  

一九   

(20)

同 法(37−1)ZO  

二〇  

㈹ムジィチ ln晋作 ︵㍍眠りする︑まどろむ︑まばたきする︶   

仙ムジィク m昔k︵憫︑盲のぉばあさん︶   

以上の詣語を賃くものは︑視力の混濁︑何かの視力障雄=を意味する.烏⁝ぷである︒従ってムインカ ブ冒N買a とは盲   

の人︑恨に障山㍊﹇のある人を意味したと考えられる ︵ヨ・竹e邑岩票ぎ ○リ・Cit・︶︒   

ところで︑ミュシコの名をめぐるこのような詔附学的∴・い語学的な説明のうち︑いずれがより右ハ墨に近いかを論烏山  

することに非将に国難なことであろう︒しかしながら︑﹃げィンセンティの咋代記﹄︑﹁リィエルコ・ポルスカ咋代  

記一︑きらにドゥウゴ︑シの咋代記の仰机は︑それがかつて広く流布し︑それはりの説得力せ持つもいし﹂してぃじら  

れてきたという弔黒からみて︑やは1伸吊一に考慮されなりればたらない見研であると里われろ︒々してこり伍統的言  

説は︑﹇寂後に紳介した今日山∴H冊巧由アプローチからする桝利からもそれ樟泣くmた︺てはいないのでめ∵勺︒   

このような考え方に立ては︑ミェシコなる〃前のパ榔昧するところu︑﹁混乱﹂ ﹁紀聞﹂ ﹁盲﹂といったらかの  

ネガティブな柚偵を表現している・∴刊ということになる︒モれでは搬にボー一ブンドの王冊ルであり︑帥里ローマ皇  

帝とも戦を交え︑版図を拡大した名君がこのネガティけ草木=心昧を持つミHシコなる革削手持つこし﹂にh止ったのであろ  

︶ のであるから︑  うか︒また︑他方でこの名前は縫代にも引き継がれていく ︵ミェシコ二世︑ミュシコ・スターリー   

それはまた﹁よき印bOnum OヨenJ ﹁よき徴の名beコe OminatuコーnOヨ芸﹂でもあったはすである︒﹁㍍名なるガ﹂  

﹁剣を以てん︹㌘を得る者﹂という解釈もそうした要請の一つの対応であったかもしれない︒もしミュシコなろ名が仙  

らかネガティブな苦味を持つ名だとしたらここに不吉な〟有をよき名に転換する一つのモメントが必埜となる︒冊ト∴.から  

の口承伝説の巾に伝えられてきたといわれているミェシコの開眼という奇跡瀧こそその転換いモメントとなったので  

はなかろうか︒すなわちこの合跡が珪じたと考えられたためにミュシコの名は神に祝福され㌍神輿な弱に転化し︑ミ  

ェシコの権威をより高く上昇きせるシンボルとなったのではなかろうか︒   

(21)

ミェシコー阻について   

∩    以上の偲定が許されるとすれば︑﹃匿名のガル年代記﹄の作者は︑この伝ホされてきた名前と蒼跡談とを彼自身の  キリスト教的な川心考によって潤色したということができるであろう︒まさしくミュンコこそはポーランドにキリスト  教を導入した最初の君主であっL︒このミェシコが汚から抑の力によって視力を回復したということは︑ポユフンド  がキリスト教Mとな﹁たこと ︵﹁豪が閃かれる﹂︶ を最も鮮明に内外に此‖示すること孝H蛛するだけではなく︑それ  にも増してこのことによ二しミェシ﹁∴い構成が西桂袖によって聖化されたことを示すことになろのである↓ハの視  力﹂︶︒その際注目すべき古川ほ︑この合跡が隼じたのは︑異教の習柄であろ断埠式のn吊申であり︑しかもり会の揮に  居亜ぶ晋は︑すべて異教の征であったと記されていることである︒かつてミ﹁シ﹁の椚宜ヾァス トも魚子の断撃式の  

際︑神によって瑞兆が恵まれたことがあった ︵この点たついてほ理稿﹃ピアストH説に潤する一考墨﹄ ︵問両大学法  

学会難詰第三六巻三・西片︹椚利六二年︺を釆照︶︒人﹂また同じように神は直轄ミェシコに関心潤を下 し︑肉と霊の視  

力を与え︑仝僅の神への棚を用ぶしたと記きれる力である︒  

それでは︑rll粧〟吊のオル咋代・記﹄のほぼ一〇〇丹後にパかれたときれるゲインセンチィ・カドゥペックの﹃ポーラ  

ンド隼代■記﹄では︑ミュシコほどのように描かれているのであろうか︒   

第二巻㍍八m︑第九節にわいて展開されるマタイとヨハネの対謂は︑この;︑エンコについての記述に雉小していろ︒  

﹁︹マタイ︺ところで︑セモミンルからは︑かの有名な市のメスコが琵れた︒被は胃のまま七才まで育てられた︒   

七才の年の終りに︑袖の光に照らされて視力を得︑号に似ず勤潮精励となった︒しかしながらこれ程までに長い冊︑  

二一    第二茸 ﹃マギステル・ゲィ︑ノセンティのポーランド年代記﹄におけろ︑くェシ﹂像  

(22)

岡 法(37−1)22  

二二  

︵1・﹂  メスコは軋性の光を稚Ⅴわれて盲となったと考えられている︒というのは︑妻と呼ばれていた七人の芹らな妾たちを  

交代で枚のポ什に従わせるのを習㍍としていたからである︒しかしながらメ﹁ハコは彼女逗を※ぎけてドユブローカ  

という名のボヘミアの女と結僻しに︒彼女との幸福な結びつきによって不い仰の氷は粘け︑先々の捏ハ劫の渋いブド  

ウ紳は︑告ハ黒のブドウの苦抜からできたブドウ洒に変る︒というのは︑カトリックの信仰に大わ戒心な彼女は︑ポ  

ーランドの※仝休が羊婁とともにキりノスト薫りい仰告白の印を受け入れないでは結椚への恵志を持つ気になら  

なかっにからである︒というのは︑い仰の相違は結婚への障裏㌫一つであ↓Uことを知っていたからである︒そこで  

︵2︶  ポーランドの=涙初の貰メスコは洗礼を更けたのである﹂︒  

.トDe Zen岩mis−aまe岩 faヨOSuS iこe ア訂scO CaeCにS gi讐ユtu二caecuい SeptenコiO eduna︷ur.Qu∵昌ni e已t仁  

Se巳imi d‡nitusごr㌫tratuご▼ くisu雲e reCeptO諾t已emノ\ic山︻il乙ust﹁叶a∵ed ta已is扇rこ仁一nine cass宏﹁aLiCnis︸  

こ︶  Caenutireユsus estu qu〇d s蔓tCm扇≡cum scOrtis−雲aS Cしniuges ロunCupabat一口Ont≡▲naS ノ己ria川 ▲ユces  

cO誘喜ノ疫・監.買s tandem repu訂is de弱Ohemia 皇リndam−ロ告.rO亡︹am nOmine︸ matr町mO已O CO℃亡−at⁚cuius   

feni c01山SOrこO g−acies iコfideH︷atis dis∽○才itur et nOStrO岩−−a訂usca 讐まi仁m i−︼ノdrae ノ㍉itis pa−nュtes   

transm打rat.Hu訂 e已m ca旨○ごca口 ≠idei al−㌫r己ssiトー忘e nOコ pユ亡S コube︻・e COiごl︶uit一quam 仁コi孟rSuヨ   

﹃0−0已ae re的n仁m Cum iH︶SOりegn Christianae p;㌢ssiOnis suひr︒i︺issent ch彗aCtereヨ.ロidicerat nだ︸ぷue−q己5d  

dispar c1ニ︷us uコuヨ era止 iヨ苫di∋en︷Orum−已a﹁rimO已i一叶ゴトート呂S itaq仁e POiOi三三n︼ H・eH ソHcscO gratiam  *  bぢtism susce㌢t.︵冠七屯二.ドs∴声ご  

︵N︺  

* 注机#としてB・キュルビス﹃てキステル・ヴィンセンティのポユプンド年代Jd﹄ B.K守bis一転訂へ﹁N恥−葦毛蜃恵繁  

華⊇已訂∵冨訂訂−W雪SZaWa−害h−.を用いた︒   

(23)

2き ミュシコ ・  世について  

 この﹁那件の光﹂ご≡崇岩−・atiOコisレ.し﹂いう言葉はいう︑までもなく︑キリスト教の教父ならびにスコラ哲学∽   

用語法を想起きゼるものである︒典型的には︑トマス・アキナス ﹃神学大全﹄節一邦第一囲⁝川一.草に次の言及   

がある︒﹁哲学的諸学問にわいてほ︑或るこし﹂がらが︑自然的裡性の光によ二し認識されソ?ものたるかぎりに   

おいて取扱われ︑それとともに︑またその同じことがらが別仰の学においては︑神岡な西穴山≠によって認識   

されるものたるかぎりにおいて取扱われるということに川の妨げもない﹂ ︵﹃神学大人達Ⅰ高二い郎訳︹創文   

社一九止ハ○咋︺六ページ︶︒E已邑e ni宣 誓OEbct de作iいde買 reぎs︸ de quiぎs 旨エロSO等icae discipi︼aル   

tractant secundum ︵苫Od su已 cO笥OSCibi済二ぎ邑ざ川 空ききS正 さ畏ぎ昇−e︷aaヨ SCieコtiam t−扇Ctare   

secu已uMロ q仁a CC望OSCu已﹁lr ㌻S叫莞 軋㌻㌻莞 道三訂≠㌻乳h.︵苧≡票句 叫J⁚琶訂g叫莞こノhariettiこ筈ドワ   

℃ユヨa・S.ご︒なお理粧と光との肌係について︑アウグスチヌスはトマスし﹂はある∵=仙にヤいて班な﹁ている   

ように川心われる︒アウブスチ﹁スはそい﹃小竹自﹄で︑他ならね﹃匿名のガル隼代一記㌧Jのミュシコの和服に関す   

る叙述の典拠し﹂して用いられている﹃新約聖再に H−マ講第二早第一九〜二〇Ⅲを引用した後で次の上∵っに述   

べている︒﹁こうして︑私は一歩一歩︑物体から身体によって撼知する魂へ︑この魂から︑身体の迅肯が ︵身   

体の︶ 他にあるものをhぇる魂∽円高わカヘ ー〜ここまでは鋤物も到い▲肯することができるL−︑きらにこの力   

から︑身体の感光によって据えられたものを引き受けて︑これに判断をくだす理性の鍼カヘと窄ってH﹁′た︒   

ところが︑この理性の能力も私のなかでは︑まだ変りやすいものでぁることを情ると︑﹁己直視まで習宮りつめ   

て︑その思惟を習頂から沌ざけ︑矛店する幻餌の離れから身を引いに︒即件の硝力 ︵岩≠㌻c㌻彗㌫ 苫≠簑〜叫且  ヽヽヽヽヽ   

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ  光︵訂ヨ昌︶ を浴びるかを知るためであった︒こうしたことから︑理性の碓力は不小義⁚貰﹂のものを知るJ忘ノに    がそうしたのは︑変りやすいものより︑変らないもののほうがすぐれている︑と迷わず叫ぶとき︑どのょうな  

な﹁た︑⁚⁚⁚=・そうして︑おののきながらちらっと見ているうちに︑存在するものに到達した︒けれども︑そ  

二三   

(24)

岡 法(37−1)24  

二四   

のとき︑私は﹃あなたの見えない性質を︑被造物を知ることによって椚らかに認めた﹄が︑それを見つめるこ  

とはできなかった ︵﹃薔臼し第じ巻節一七草︶︒︵Au讐Stinus︶ CQ観たk㌻莞h・警s2∵㌧君主責 富豪cben︑  

−諾卓s.∽墨︑きらに光と理性についてアウグスチヌスは﹃創世#禁拙僧≡ぐ次のよう笹言う︒﹁しかし︑光  

そのものは︑すなわち魂を照して︑魂にあらゆるものを見させ︑そうして︑独立にせよ︑それに助けられて  

にせよ︑真に鋸解きせるような光は︑魂とは異なっ㍍ものである︒そいような光こそ糾そ山ものだからである︒  

また︑軸は理性や知性をHえたものであっても︑抑の姿にかたどって迫られた被造物であって︑あの光を見よ  

うとすると︑弱さのためにふるえて︑はっきり山ることができない︒けれども︑軸がどうかこうか理解できる  

ものはすべて︑あの光による山である︒二⁚:魂は分ひとりで理研し・㍍がら見るすべて揖もSを︑こり光に助  

けられて見るリノである﹂ ︵﹃川世記遂吊州脈﹄一二い二山∵ニ.Aud autcm es二署um ︼uHn化ごq亡C ≡us︻ra﹇ur  

aniヨa︸ut Oヨnia莞ユ旨se諾︻二○完rい↑‡er inteHecta cOnSユciat⁚nam ≡ud jaヨ iつ完 Deus es﹇−  

haec auteヨCreatural ︹−uamノオratiOコas e﹇ iIlteectuaごs a︹−e叶亡S首恵旨eヨ 訂cけ㌘ q宕e Cu−n COnaどr  

−umen iこud i已亡eriもa−pita二註rmitate﹀et miコ已Sノ藍etJn譜es:aトIn呂雲i︹首u乙Tこeごi覧sicut畠−et・  

・⁝=quCad宣旨まdet quidqu己etia.ゴinse喜茎igendOエdルt∴昏 G芸賢已卜叫苦言き Lihe−∴昌・1  

パ舛巴⁚﹄董己ぎ叫○官⊇○︸≡訂.ParisiざL誉挙⊥・L︒こ・い3︒それゆえアウグスチヌスにおいては︑︒マパ  

畑山二小第一九〜二〇餌において﹂一戸われている﹁抑について知りうる事柄は︑彼らには帆らかである﹂︑﹁抑揖  

永遠の力や神性のような︑神について∽に見えない小柄誓十両瑚追ぃ時から︑造られた物を通して明らかに  

悟ることができます﹂という文刷りについての研机は︑結局いところ神の仁からめ啓示出光が物への認識な再能  

にするとする理研におちついている︒それに対してトマフハは︑﹁賊々り理件の′り然的本性的な光それ身︑や  

はり神的な光の或る分付にほかならない︒﹂ ︵前㍑再ペニ五〇ページ︶ ㌔a︸ゴ et i崇u≡ ぎ︸りeロ nD︷u邑ル   

(25)

25 ミュシコ一世について   

rati昌is participatiO q亡aedam eいt diまni Fminis.J叫§こヾぎparS−︼qJN.aL−もp.Cit・一S・2︶とし︑﹁我   

裁の自然的本性的な認識nat亡ras cO讐itiOは感見sensusから始まる︒だから︑我々の自然的本性的な軋性  

−岩t亡ralis cOgnitiOの及びうる補闘は︑それが司感的なるものsensibiaを通じて導かれてゆくことの可能な   

かぎりのことがらを出ることができない︒いま︑可感的なものを以てしては︑我々の知性inteectus は紳の   

本質 essentip を見るまでには達することができない︒なぜなら︑吋適的被造物は抑の=小e詳 ctusではある   

が︑しかしその囚causa の力に対比せぎる某である︒だから︑可感的なものの認識よりしては︑抑の力這今   

体は認識されることができず︑従﹁て︑その木質essentia は比られることができない︒然し︑果は囲に依存   

するものであるがゆえに︑我々はこれら叫感的なものよりして︑抑についての︑それが存在するかということ   

の認識にまで事かれることはできるのであり︑のみならす︑万物の第一原因でありしかもおよそ自らによって   

原因きれた一切のものを超えているものたるかぎりにおける神に必ず適合せざるをえない諸般\〃ことがらの認   

識を神について持つまでに導かれることはできる︒かくて孜々は︑神について︑それの鈍造物た対する闇係   

訂b叶tudO を認識する︒つまり︑神が万物山囚であることを認識する︒L︵﹃神り人仝﹄前掲ポニ五二I∴エペ1   

ジ︑︵hミ喜挙pars・−・q・−山−N s・〇p.nit一︸S一望︶︒ここに︑理性と抑の光についての︑トマッハと アウグスチヌ   

スの径庭が存在する︒それはまた両者におけるロマ得第二早二十餌の研削の付近をももたらす︒それでは︑ロ   

マ書のこの箇所をヴィンセンティはどう解釈したのであろうか︒州の︑雄迅の力と神性とを宥認きせるのは︑人   

冊の理性であるとする考えガがすでに存在していたとすれば︑サインセンティがここに理性の光の欠如を語る   

のは︑決して隼なる佐郡上り串柄ではないであろう︒なおケーゼマンの﹃U−マ人への手紙﹄八二−八六ペー   

ジ参照︒  

∽ ミュシコは︑中旺キリスト教の伝統の上に立った正式の戴冠式を受けた王ではない︒しかしゲインセンティ  

二五   

(26)

岡 法(37−1)26  

﹁︹ヨハネ︺彼は総じてすべてのモの巾で第一の七であり︑=収も清凱な者であった︒彼によって新しい屋の光が  

我が机国の上に輝いたのであり︑彼によってかくも大きな恩龍の泉が我々Smの低まで流れ卜つた︒彼のn為は裳  

耐においてすばらしいものであったというよりはむしろ︑濃かな内密において市ばれるべきものであった︒という  

のは︑彼の盲臼は疑いもなく我々り欠如であったからであり︑Hハ実の光の欠乏がそれをもたらしたからである︒と  l︐・︐   

いうのは︑あなたがたは︑彼の幼年時代の七年というものを我々の無知︑我々の叩⁝りのルHい両性以外の何物かである  

と考えられるであろうか︒なぜならば︑七という数︺十は︑多ノ\の即日から北=識性︵の表現︶ に役立っているからで  

︵㌻  ︵3︶  ある︒それゆえ﹃私は汝に七度∬せとは.∵=わない︒七度S七〇情という﹄︒これはすなわちすべてい罪を︑という  

︵4︶  ことである︒同様に﹃七痩身を洗え︑すなわちすべての物をことこし﹂く洗い流せ︑そうすれば清ノ\なるであラつ﹄ 

︵5︶  またトビア書に﹃私は七つの聖招皿の一つ︑ラフアニルである﹄とある︒それはすなわちすべての大化たちのうちの  

一人ということである︒それゆえメスコは七年mの幼隼的代を通じて︑我々は我々の頑なな心のままの全生渾を通  

じて臆聞に包まれていた︒七才り終りにメスコには視力がもどり︑世の末に至った裁々には七柁の恩情わ光が流れ   

︵6︶  下った︒メスコは七人の妾によって細られ︑我々は七つの大罪に陥﹁た︒結局メスコは一人∽女−こ結ばれ︑我々は  

一つの教会の抱擁の坤で一つに結ばれるのである︒実際彼はメスコと呼ばれたが︑それは及ち﹃狼狽﹄を意味すろ  

︵7︶  のである︒というのは︑両親は市の忠子を見て﹃狼狽﹄したからである︒あるいは折詰佃に次のようにも言われて  

いる︒すなわち彼から我が苗床の上に霊旧な戦いが始められたと考えられている︒というのは︑彼によって悪しき  

平和を破るため良き戦いの確が蒔かれたからである︒また︑図らずも祁晋菩が次のように述べている︒﹃ツィタ1    一︑︑  /   

においては︑ピニノスト粥以前の†朝の建国者グラックスをも王 reH と呼んでいろ︒従﹁てここでの干の呼称  

はケインセンティなりの独白の制腰細に立つものと捉えるべきであろう︒  

(27)

27 ミェシコー他について  

のすべての弦が鳴り響くわけでもなく︑神秘の中に置かれている物がすべて神秘的な意味を持っているものではな  

︵8︶  い﹄と﹂︒  

︑.〇mniuヨ○ヨ已nO hic primt︼S re望ヨ f亡it ac serenissimus︸ per quem huic patriae nOまi旨ar s註eris est  

inf亡Suヨーper q亡em tantae fOnS g岩︷iae ad nOStri 亡S宅e−uti a−完○−OS manaユt.CuiuぴgeSta nOn taヨiコ  

COユine sun︷d已cia−quam iecundO interius 諾nera已a m竃teri〇.Ⅰ≡亡S eコiヨCaeCitPS nOStra nin−irum H︑l−it  

pri毒tiO︑quOS 諾ri ︻亡minis Orba諾ra︷ carentia・アam quid i≡us puer≡ae smptennium−quam nOStrae  ≡  iコS石ientiae︸ コOStri errOris ul︼iノ1ersita︷em aestimabis4 Septenarius eコim Ob mu−tas causas uni諾rSitati  

︵巴  

deserくit.UndeA⁚nOn dicO︷ibi dimi︷tendi septies−Sed septuagies septies.︾id est亡niノ1ersam t−・al︼SgreSSiOnem.  

︵巴  Simi≡er−︽︼aノ1ere SeptiesⅦ id est uni諾rSa−iter de uniノ1erSis−et m已ロdaberis︾.Et in↓Obia⁚︽EgO Sum  

︵ヱ  Ra旨a芦 de septem spiritibus亡コ亡S﹀ id est de uni完rS叶tate呂ge−Orum.∨∴≡e応itur septem annis i已a已iae﹀  

︑.﹂h  

nOS u−︼iノ1erSO nOStrae ObstinatiOnis tempOre Cagaエコ岩S.H≡anni fiロe Sep︷imi まs已S−・estit已tuエロ各isl iコ   

q亡OS旨完S SeCu−Orum deくeけerunt﹀ SeptifOrmis g−−atiae−uH Oritur.≡e se又e⊇ 苫≡cib亡S deti︸︶etu二nOS  

︵豊  generaごrus septe⊇ノ皇iis maritamur・Unicae≡e taロdelコ CO苫−atur et nOS uniter亡コi誘︑id est ecc−esi諾  

amp訂軋bus 訂ederamur.Dictusノ1e3eSt Meska一id est turbatiO雲ia caecO natO parenteS turha︷i suntいくe−  

︵ご  ∃亘Stice﹀ quia ab ipsO ini︷iataノ孟entur be≡spiritua−is apud≡S Seminaria.Per iづSum enim iロSem首a︷um  

es︷be亡ヨbO︻岩m−u︷rumpere︷亡r pa舛ma−a.Aut fつrte−ut ait evange−ium⁚nOn OmコeS ChOrdae in cithara  

resO冨nt一nen一q亡Otq亡○︷in mysticis冥岩un︷ur.mysticEロh旨ent inteHectum.一︶ ︵云や耳二.ドs.3豊  

‖ ここでの﹁欠如﹂︒priくatiO‡という言葉の用法はネオプラトニズム的な︑またスコラ学的な旺われ方である︒  

二七   

参照

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