新島辨治の旅日記 : 安政三年丙辰六月廿五日「手 控」
著者 籠谷 次郎
雑誌名 新島研究
号 102
ページ 1‑12
発行年 2011‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013037
史 料
新島辨治の旅日記 ─安政三年丙辰六月廿五日「手控」 ─
籠 谷 次 郎
一
本稿の主題となる新島辨治(敬忠、天明六年一二月二五日─明治三年七月一四日、八五歳)は上州安中藩士(江戸詰)であり、のち新島襄の名で知られる新島七五三太(敬幹)の祖父である。さきに私は、「新島家祝物到来覚帳」の考察で )(
(、辨治の安政三(一八五六)年上州草津湯治、信州善光寺参詣について述べた。辨治七一歳、一人旅である。この年、彼は徒士格、金四両二分、中間頭小頭兼武具方下役の職にあった
)(
(。「新島家祝物到来覚帳」(記載は天保三年一一月─慶応二年四月)によると、藩への願い出は安政三年六月一一日、目的は草津湯治、願いは許され、六月二五日に出発した
)(
(。旅立ちにあたり二五人から贈り物があった )(
(。藩の重役星野三太夫・横井安吉、藩士の根岸團蔵・岡田源七郎・星野閏四郎・田邊潤之助・田中隆平・江場釜五郎・芳賀代助の名が見える。祝福されての旅立ちであった。 この旅の様子が明らかになったのは安政三年六月二五日敬忠「手控」による。『同志社新島遺品庫収蔵目録』(上、一七六七)に「(俳句帖・一部出費メモ)」と記す新島敬忠「手控」である。和綴一七丁、一七㎝
×一二㎝の小型文書である。内容は旅日記である。記載は、往路は同年七月五日安中を過ぎ、秋間(下秋間)を越えたところから始まり、復路は同じ道を逆に七月二二日三ノ倉を越えたところで終わる。図が同書にみる旅の行程である。記帳最後に支出経費を記す。 辨治が俳人であったらしいことは、新島襄傳に登場するいくつかの歌によってもわかるが )(
(、「手控」には毎日のように旅情あふれる句を記す。『同志社新島遺品庫収蔵目録』が同書を「俳句帖」と記したのはこのためであろう。辨治は俳人でもあった。あらためて気づく辨治の一面である。これまで辨治は、どちらかといえば行動的な人物としてみられることが多かったが、俳人としてみることも必要であろう。 さきの「新島家祝物到来覚帳」の考察では紙幅の都合上、旅の概要を記すにとどめた。しかし、「手控」は小型文書とはいえ、辨治を知るうえで数少ない一次史料であり、今後の辨治研究を大きく展開させるであろう重要な文書である。また近年は、近世旅日記は地方史研究における生きた見聞記として自治体史等においても注目されるようになっており、ここでも「手控」は重要な史料である。これら新たな研究を念じ、紹介、翻刻するものである。
二
「手控」の紹介、翻刻にあたり、書誌上、気になることがある。すでに述べたとおり辨治のこの旅は、居住地の安中藩江戸上屋敷(一橋外)を出た安政三年六月二五日から始まるが、「手控」の記載は七月五日上州安中を過ぎたところから始まる。この齟齬は、記載のとおり、すなおに安中を過ぎた七月五日から書き始めたと理解すればよいのであるが、そうとも理解できないことがある。
同書には二カ所で大量の白紙がある。表紙一丁に続く三丁半と、七月二二日と支出経費書き出しの間二丁分である。後者の二丁分は旅日記が七月二二日で終わったため生じた白紙と思われるが、前者の三丁半は量も多く、不自然である。 前者の白紙をどう考えるか。辨治には同書とは別に、最初に記していた七月四日までの記録があり、七月五日に何かの事情で新調、その際、後日新調の「手控」に移し替えるべく、そのため空けていたのがこの三丁半ではなかったかと思われる。しかし、これには根拠はない。疑問として残る三丁半の白紙である。
注(1)拙稿「近世新島家の儀礼と贈答の人びと─『新島家祝物到来覚帳』の考察─」『新島研究』一〇〇号、二〇〇九年。(2)「江戸御在所諸士明細帖」(『同志社新島先生遺品庫収蔵目録』下、三五六六)および「新島家起原」(『同志社新島遺品庫収蔵目録』下、三五六六、『安中市史』五巻近世資料編、安中市、平成一四年、所収)から推定。(3・4)「史料 新島民治筆『新島家祝物到来覚帳』」『新島研究』九三号、二〇〇二年。(5)以下は、よく知られている辨治の句である(森中章光編『改訂増補新島襄先生詳年譜』学校法人同志社・同志社校友会、昭和三四年)。 ・「にくんでは打たぬものなり笹の雪」(嘉永二年、七五三太七歳のとき手伝いを依頼する母の指示に反抗的態度をとったとき、戒め、諭したという句) ・「元日やひらく扇子も不二の山」(嘉永六年元旦、七五三太一一歳のとき描いた富士山の絵に配した句) ・「行けるなら行って見て来よ花の山」(元治元年三月一一日、七五三太箱館表航海に際し贈ったという一句) 辨治は号を「曲江」と名乗った(『同志社新島遺品庫収蔵目録』上、一二八─一三〇頁。『新島襄全集』八巻「新島家の人々」、巻末四頁、同朋舎出版、一九九二年)。「曲江」は俳号と思われる。
史料 安政三年丙辰六月廿五日「手控」 新島敬忠記載凡例1 史料の体裁は、できるだけ原本にしたがったが、組版の都合で一部変更したところがある。2 抹消文字で収録に意味がないと判断したものは取り上げなかった。3 変体仮名は平仮名に改めた。4 文字修正、文字狭小等で判読できない箇所は、字数を数えて□とした。5 翻刻者による注記は( )によって示した。6 「手控」に登場する地名は、理解を得るため主として以下の地名辞典を参考に末尾で注記した。 『角川日本地名大辞典
『角川日本地名大辞典 昭和六三年。
(0
群馬県』角川書店、『群馬県の地名 日本歴史地名体系 一九九〇年。
(0
長野県』角川書店、『長野県の地名 日本歴史地名体系 一九八七年。
(0
』平凡社、(0
』平凡社、 上記以外の文献は文中に記した。 房、昭和一四年再版。 吉田東伍『大日本地名辞書 北国・東国』冨山 和一二年再版。 吉田東伍『大日本地名辞書 坂東』冨山房、昭 一九七九年。〔表紙〕 (表紙一丁に続く三丁半は白紙)
七月五日一安中 )(
(出立て秋間 )(
(越を上 (神)山 )(
(
とか言へる里にまかれる 上 (神)山にて安中のことを 思ひ出たしぬれは 秋まちて夏に わかるゝ峠かな一上 (神)山駅にいたりてその風俗今様 なから中仙道とは事かわりたれと ところ〳〵家々の門々小草の 華なと咲ぬるをみれは都の花と いろ香かわりし事もあらされは 桔梗みて喰ものほしや 賎つか軒一三ノ倉駅 )(
(に出ぬれは江府を出てし より照りつゝき日いたみし植田も みえしにまさりいと潔きよき 一穂はしの豊たかなるを いよきくや士濃工尚早稲 の華一大戸 )(
(永楽屋といえるに泊り主の 江戸え度々出種々の物語り小夜更て 蚊帳ゐらすはしめて夜着の
17cm
12cm 手 控
安政三年丙辰六月廿五日 新島敬忠
一七丁
袖を引まとめぬれは 蚊の啼もきかねは 淋しや夜着の袖 六日 御関 )(
(越て様々有之一須賀尾駅 )(
(次第に風俗かわりて男子は さまての事なく女子は応しる事やと うたかへる斗女は二十七八とも おほしき かなりなるを 華の色かわるや男子 女郎はな
一長野原ゑき )(
(にてすかほ (ママ)峠 )(
(越えて 草津えほと近しときゝて嬉しく 都てかわり 三里糸か原秋の草花一面盛りなれは 野かせきもこゝろ かわらぬはなのいろかな 一草津 )((
(え入ぬれは宵節句なる七夕の 備へもの家々に備えあるをみて 二星や請させ給へ 人の軒
一七日一井屋といえる旅宿知る人には なゝやしき友と知□あれる□□ たよりて此地の風俗言の葉実に 深山まれなる事にて江都え 帰りたるこゝろ業人打揃ひて 繁栄聞しにまさりし事とも 筆におよはす
一江都を出て里々かわりて ほし事を思ひ出しけれは 竹や木のかわる ことなき むしの声 竹なき里なるにてや
丸葉なる木に四季体たる冊を断ぬれは 七夕のをき紙を風に双紙木歟
八日 うたこふて問えは おなし名郭公 朝とく起て手水つかゐいると 近く時鳥の声と思ひしゆえ宿の 下男なるものに何なりと聞しに 郭公なりと答ふ此辺はいつも 今頃鳴けりと なくを 常なりときけは つねなり不如帰
九日一此頃いく日となく雨降て 何もまうさる事なけれとも 思ひ出しぬるをあれは 秋雨やことたりる ほとなを淋し
十日一金比羅大権現江詣て霧り深く 不 (風)情なし
十一日 霧雨の山も おほろに 暮にけり
十二日 旅日記つけれは 秋もへりにけり
十三日一草津に旅寝の枕なれは 霊棚のあるやなし
ついたくせ歟 こゝろは盆の十三日 十四日一同所出立渋峠 )((
(牛にて七里を 越え渋 )((
(江着宿は津幡屋といへる 行届し宿にて是にも 湯治の人あふく繁栄地 して
十五日一同所出立し善光寺へ急く )((
(
同所宿ふし (じ)カや平五郎方泊ぬ 夕深して御開帳あり誠 御堂佛徳もふすも恐あり あら尊ふ泪たの ほかに実なし
秋さひのみへぬ 佛都の月夜哉 一人来て壱人り (ママ)行旅 旅一すしに道は 如牛の手引き絡ぬ
十六日一朝深開帳拝したてまつりて また澁へ帰りぬれは其夜盆 おとり男女いりましり子供 一統花笠もあり色々の姿にて 高台の上にて美声はつし一同 手拍子足拍子揃ひ妙へなる 事言ふ斗りなし おみなへし 萩や桔梗の盆踊
十七日一又渋峠七里の間とがりたる 山々みち越え草津え帰り とく久しく願しも叶ひぬれは
我家え帰りたるやう思ひ一井屋婦 (ママ)夫 よろこひ呉ぬれは安とせし事かきり なし 秋の日や牛て七里の峠越へ 人もわれもおなし こゝろや秋豊か
十八日一明十九日先触なとの世話問合 こゝろひとにてせわし
十九日一先触差出す宿善三郎 萬端取扱相頼み候事
(この間、一丁分白紙)
廿日一明廿一日出立当所残しおく 神佛へ参詣いたし明日は 長の原宿と聞きて名残り愛に 長の原草津湯 ふかく袖ぬれつ
廿一日一宵より雨降て明日の立 渡にせんと思ひ外朝晴渡り ぬれは 秋雨の晴まつ 今朝の潔し
廿二日一大戸宿次第に暑残て 草津の重着せしを一つ ぬきぬれは 残る暑に怒なく 身軽るし 荷は重き
一三ノ倉越て谷間に鴬の 声きゝて 遠鴬の声にもみえる けいこかな
(この間、二丁分白紙)
一銀弐拾匁 盃弐組 星野様 田邊様一同弐拾五匁 團扇 五拾本一銭三百四拾八文 生貝 壱一同五百文 いさき 八ツ一同三百三拾四文 はんへん 二十一同百文 つみ入 (いれ) 三合一同六百文 酒弐升一同百六拾四文 味噌五合
(この間、半丁白紙) 一銭三百三拾弐文 椎茸 三拾一同百文 同小椎茸一同百弐拾文 ゆわ (ば) 三十一同八拾文 いんけん豆一同百拾六文 くす 二合一同三拾弐文 三嶋のり 二わ
一 金壱朱 銭五拾六文 白砂糖 二斤
一金弐分 引盃 三十
一 金弐分 銭三百三拾文 北村拂 一同三百文 長芋 弐本一同三百拾文 くわ井 五十一一同三拾六文 唐 (冬)瓜 壱一同三百文 蓮根一同弐百四拾八文 ゆり 十
(半丁白紙) (裏表紙一丁)
注(1)安中 上州安中藩(譜代、三万石。城付一万七千石、下総一万三千石)の城下。中山道の宿駅。この年藩主は板倉勝明(安政四年四月一〇日没、公表同一九日)。石高は『藩制一覧』下巻、日本史籍協会、昭和四年、五〇頁、により、板倉勝明の没年は木村礎他編『藩史大事典』二巻、「安中藩」淡路博和執筆、雄山閣出版、平成元年、三二九頁、による。(2)秋間 秋間を名のる村は上秋間(実質的には東・西に別れる)、中秋間、下秋間の四村がある(現安中市)。安中藩領。辨治は下秋間村から烏川右岸の上見里村神山宿に向かって北上した。(3)神山 上見里村神山宿(現群馬郡榛名町)。高崎藩領。烏川左岸の下室田村室田宿に対し同右岸の宿場として栄えた。(4)三ノ倉駅 三野倉、三倉ともいう(現群馬郡倉淵村)。幕府領。榛名山南西麓、烏川上流左岸にある。上里見村から三里。(5)大戸 榛名山の西麓にあり、大戸道が通り、大戸宿(現吾妻郡吾妻町)がにぎわった。幕府領。三ノ倉宿から三里二五町。吾妻川の支流温川と北流する見城川が交わる断崖上に大戸関所(大戸村字馬場)がある。同関所の所在地名は『群馬県史』三巻、群馬県教育会、昭和二年、一三三頁、による。(6)御関 大戸関所のこと。寛永八年、中山道の裏固めとして設置。関所破りで処刑された者は八件、一一人。辨治が通った六年前の嘉永三年一二月二一日、大戸から南の萩生に至る大戸村字広瀬で国定村長岡忠次郎(国定忠治、四一歳)が磔刑に処せられた。(7)須賀尾駅 吾妻川の支流温川左岸にある(現吾妻郡吾妻町)。幕府領。信州・西吾妻方面の物資、善光寺参詣や草津入湯客の往来で繁栄した。(8)長野原駅 東流する吾妻川の中流域左岸、南流する白砂川との合流点付近(現吾妻郡長野原町)。幕府領。草津まで三里半。(9)すがお峠 須賀尾村と横壁村(現吾妻郡長野原町)との村境にある峠(標高一〇四八メートル)。南麓の須賀尾と北麓の横壁小倉集落とのほぼ中間にあり、北側が急坂となっている。江戸と草津温泉を結ぶ主要な交通路で、多くの湯治客が利用した。(
(0草メートル)の東山麓、津六高原(標高一一〇〇─一四一)八草津 白根山(標高二一三メ二ートル)・本白根山(標高二
〇〇メートル)にある(現吾妻郡草津町)。草津温泉がその中心。幕府領。源泉から流れ出す湯川は東に流れ、南流する白砂川に合流し、長野原付近で吾妻川に注ぐ。冬は寒気厳しく、湯宿は夏の間のみ。江戸時代、相撲番付になぞらえた温泉番付『諸国温泉効能鑑』では、西「大関摂州有馬ノ湯」に対し、東「大関上州草津ノ湯」となっている(林英夫・青木美智男編『番付で読む江戸時代』柏書房、二〇〇三年、二一六─二一七頁)。草津温泉では二、三泊の遊客は少なく、湯治客が多いのが特徴。宿は自炊が原則で、療養日数七日を一廻りといい、普通二廻りから三廻りの客が多かった。支払い単位も一廻りごとに仕切っていた(同右、二二二─二二三頁)。「手控」末尾に記す支払いの多くは同所での支出であろう。(
( 冬季は通行できなかったが、信州と草津温泉を結ぶ最短ルートで、盛んに利用された。 と多が所難が、るれわいえ輸越野沓は道峠のこる。く、は送とく、多雪積た。れば呼も道が牛でのたいてっ頼に牛あ山 ((二南東ル)トーメ四〇三高部山(標手横の境国信上峠 澁鞍)根、白に南できづつ根尾ル)あトーメ二七一二高峠(標るに
( 下高井郡山ノ内町)。松代藩領。草津温泉─善光寺間の最短ルートとしての利便性から湯宿が繁栄した。 ((州湯ら分村)の枝郷澁湯(澁組)村のこと(現長野県信澁 か中夜川間瀬川の支流横湯右田岸、沓野村(安政二年、)湯
。平成九年、所収) 諸事日記では、澁─中野─神代を通っている(「安政七年申三月日 樋口愛子」『門真市史』三巻近世資料編、門真市長、 を通り、(同行四人)の女性の旅(現大阪府門真市)四日に善光寺に着いた河州茨田郡三ツ嶋村四月三日に澁峠を越え、 ((いの草津てし記を程行で香ま寺光善らか澁は、控」保・伊な詣い。安政七年、善光寺参の尾・)「手め江戸から日光・足た
追記 史料の閲覧にさいしては同志社社史資料センターでお世話になり、また、本稿作成にさいしては門真市歴史資料館常松隆嗣氏からご教示を得た。厚くお礼申し上げる。
図 安政3年新島辨治の草津湯治・善光寺参詣行程図
善光寺 7月15日 泊り、ふしや平五郎
渋 7月14日 泊り、津幡屋 7月16日泊り、津幡屋(カ)
渋峠 7月14日 7月17日
長野原 7月6日 7月21日
神山 7月5日 大戸
7月5日 泊り、永楽屋 7月6日 大戸関所 7月22日 7月6日
7月21日 すがお峠
︵神代︶ ︵中野︶ 白根山 草津 須賀尾碓氷峠
追分浅間山 高崎
上 野 信 濃
7月6日〜7月14日朝
7月17日〜7月21日朝 泊り、一井屋
⎩⎨⎧
三ノ倉 7月5日 7月22日
安中 7月5日 秋間(下秋間)7月5日 中山道
注 1. は国界
2. 、( )内地名は推定。
3.「明治20年輯製製版二十万分一図復刻版 群馬県全図」(『群馬県の地名 日本歴史地名体系10』特別付録、
平凡社、1987年)を原図に作成。
図 安政3年新島辨治の草津湯治・善光寺参詣行程図
善光寺 7月15日 泊り、ふしや平五郎
渋 7月14日 泊り、津幡屋 7月16日泊り、津幡屋(カ)
渋峠 7月14日 7月17日
長野原 7月6日 7月21日
神山 7月5日 大戸
7月5日 泊り、永楽屋 7月6日 大戸関所 7月22日 7月6日
7月21日 すがお峠
︵神代︶ ︵中野︶ 白根山 草津 須賀尾碓氷峠
追分浅間山 高崎
上 野 信 濃
7月6日〜7月14日朝
7月17日〜7月21日朝 泊り、一井屋
⎩⎨⎧
三ノ倉 7月5日 7月22日
安中 7月5日 秋間(下秋間)7月5日 中山道
注 1. は国界
2. 、( )内地名は推定。
3.「明治20年輯製製版二十万分一図復刻版 群馬県全図」(『群馬県の地名 日本歴史地名体系10』特別付録、
平凡社、1987年)を原図に作成。