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江戸時代の呂律と催馬楽の復興

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Academic year: 2021

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(1)

はじめに

平安時代の宮廷社会で盛行した催馬楽は、 中世には今様等の中世歌謡に圧 されて衰退していき一旦は伝承が途絶えた。 そのため現行の伝承は江戸時代 の再興の成果によっているのであるが、 江戸時代の復興は平安時代の催馬楽 を正しく再現できていなかった。もとより、 そのことは近世の楽家も自覚し ていたし、 近代以降にも林謙三が﹁江戸初期以来伊勢海を始め除々に再興し た曲は︵中略︶ 、拍子の意味を正解しなかったためにゆがんだ姿でよみがえ らせている。 ﹂︹林一九五九   二〇頁︺ と指摘している。林が言及した拍子の 問題もたしかに横たわっているが、 筆者は呂の律化が音律の面における最も 大きい問題と考えている。近年では﹁催馬楽などで律歌 ・ 呂歌などという場 合 、必ずしも音階や調性上の相違を示すものではなかった可能性がある 。 ﹂ ︹平野他一九八九   一二三頁︺とする見解もみられるが、藤原師長の﹃三五 要録﹄ ﹃仁智要録﹄等の楽譜に徴すれば、平安時代に調の区別として呂律の 別が存したことは明らかである (1) 。 したがって今日の催馬楽で呂律の区別が判 然としないのは江戸時代の復興以降に生じた問題と考えるべきであろう。 では何故呂が律化したのか 。換言すれば何故呂がうまく復興できないの か 。本稿では 、この問題について次の二つの視点から考察してみたい 。一 は、 鎌倉時代以降に呂律の関係性が変化し、 室町後期から江戸期には律の五 声を基準にする理論が広がり、 これが日本の五声と見做される傾向があった こと︵すなわち呂が日本の音楽理論から排除される傾向があったこと︶ 、今 一つは国学者が催馬楽を研究した際に旋律面には考察が及ばず、 歌詞の面の みから神楽と催馬楽を同一の枠組みで捉える催馬楽観を形成したことであ る。そして、 呂の復興がうまくいかない一因に、 この両者の絡み合いが影響 している可能性を指摘したい (2) 。

江戸時代の呂律と催馬楽の復興

遠藤

  

平安時代の宮廷社会で盛行した催馬楽は 、中世に一旦伝承が途絶えたが 、江戸時代の復興の成果によって 、呂歌 ﹁安名尊﹂ ﹁山城﹂ ﹁席田﹂ ﹁蓑山﹂と律歌﹁伊勢海﹂ ﹁更衣﹂の六曲が明治期に定され、現在も伝承されている。しかし江戸時代の復興 は平安時代の催馬楽を正しく再現できていなかった。なかでも呂が律化し呂と律の区別がつかなくなってしまっているのが音 律の面における最も大きい問題といえる。本稿では、この問題について次の二つの視点から考察してみた。一は、鎌倉時代以 降に呂律の関係性が変化し、室町後期から江戸期には律の五声を基準にする理論が広がり、律の五声の方が日本の五声の本位 と見做される傾向があったこと、今一つは国学者が催馬楽を研究した際にほとんどの場合旋律面には考察が及ばず、歌詞の面 のみから神楽と催馬楽を同一の枠組みで捉える催馬楽観を形成したことである。そして、呂の復興がうまくいかない一因とし て、この両者の絡み合いが影響している可能性を想定した。 ︹キーワード︺催馬楽、近世、国学、琴士、呂音階 ︵七十五︶

(2)

︵七十六︶

一 

呂律の関係性の変容から律の五声本位へ

﹃梁塵秘抄口伝集﹄巻十二には呂律の別は以下のように記されている 。こ こでは参考のために宮をドにした階名を併記しておく。 律  宮  商  嬰商   角    徴  羽  嬰羽    ド  レ  ミ♭   ファ    ソ  ラ  シ♭ 呂  宮  商  角   変徴    徴  羽  変宮    ド  レ  ミ   ファ #   ソ  ラ  シ 現在の呂律もほぼこれと同様であるから、 呂律の理論はここに集約されてい るといってよいであろう (3) 。 さて、 一見見過ごされがちであるが、 呂律の相互関係は七声で考える場合 と五声で考える場合とで異なったものになる。唐楽は七声で作られており、 呂律は中国の理論の宮調と羽調に由来するものであったから、呂の宮をド、 律の宮︵中国の七声では羽︶をラにして階名を記すと、 呂律は以下のような 平行調のごとき関係になっていることが分かる。 呂       宮   商  角  変徴    徴   羽  変宮         ド   レ  ミ  ファ #   ソ   ラ  シ 律  宮  商   嬰商   角  徴  羽    嬰羽     ︵羽   変宮   宮   商  角  変徴    徴   中国の七声   傍線は五声︶    ラ  シ   ド   レ  ミ  ファ #   ソ  催馬楽が平安中期以降に呂は双調 ︵主音は G ︶ 、律は平調 ︵主音は E ︶で 調えられ、御遊でこの二つの調子が常用されたのは、 ﹃残夜抄﹄に﹁双調と 平調とうつりよく。 壹越調と盤渉調と又うつりよし。 又黄鐘調と下無調とは よし。此外のかへりこゑはいといみじくなし﹂ ︵主音は壹越調が D で盤渉調 は B 、黄鐘調が A で下無調は F# ︶と見えるように 、こうした平行調的な関 係性が好まれたためと考えられる。 なお 、呂律の呼称に ﹁嬰﹂等を用いるようになるのは鎌倉時代からであ り、 それ以前は律固有の七声名は無かった。そのため藤原師長は律も呂と同 様に宮、 商、 角、 変徴、 徴、 羽、 変宮の七声で記し、 律では角、 変徴、 変宮 の三声が呂より一律 ︵半音︶ 下になると説明していた ︵ ﹃仁智要録﹄ 等︶ 。そ して律固有の称呼法がなかった時代には五声も宮調と羽調の関係 ︵呂をドレ ミソラに置けば律はラドレミソ︶で考えていた (4) 。 これに対して ﹃梁塵秘抄口伝集﹄ の七声から嬰変の変声を除いた五声を抜 き出すと、 律の宮をソにしないと呂律は対応しなくなる。ここでは呂律の関 係は宮調と徴調、すなわち正格・変格のごとき関係に変わる。 呂︵徴︶ ︵羽︶   宮   商   角   徴   羽         ド   レ   ミ   ソ   ラ  律  宮    商     角   徴   羽      ソ    ラ     ド   レ   ミ 律固有の七声は、 平安末期頃から神楽歌、 朗詠などの五声の歌謡も包含し て説明するようになったことを背景に生じたと考えられるのであるが、 神楽 歌が律の五声で解されたことから鎌倉期には律の五声が日本の五声︵五音︶ とする解釈も生まれた (5) 。 そして中世に盛行した講式、平家、謡曲などがいず れも律の五声に親和性が強いことや 、平行調的な呂律の関係性を基調にした 御遊が衰退したことなどが相まって 、中世以降は律の五声が広まる反面 、呂 やそれと表裏の関係にあった元来の律 ︵羽調︶ の理論の存在は忘れられていっ た (6) 。 時代が下って応仁の乱を挟んで雅楽が衰退した室町後期には、 豊原統秋が ﹃體源抄﹄ 巻十一 ﹁一音律事﹂ において音律の理論を律の五声を基準に記し、 呂角に﹁秘々﹂ ﹁是口伝、人知らず﹂等と注記しているように、呂は楽家の 秘伝にすらなりつつあった。一方、 律の五声の方は十六世紀を通じて一般化 していったとみられ、 天正十一年︵一五八三︶に成ったとされる謡の伝書の ﹃塵芥抄﹄では、呂律の音高がいずれも宮=壹越︵ D ︶ 、商=平調︵ E ︶ 、角

(3)

︵七十七︶ =双調︵ G ︶ 、 徴=黄鐘︵ A ︶ 、 羽=盤渉︵ B ︶と律の五声で記されているの である。そして、ここでは呂律は音階の相違でなくなっている。 このように律の五声が優位となった情勢で江戸時代を迎えるのであるが 、 江戸期に儒学者や和算家が楽律の研究に乗り出してくると、 律の五声が三分 損益法と合致しないことに気がつき、 その解釈に苦心することになる。例え ば、 熊沢蕃山は﹁日本の律の調は、 角一律高し﹂ ﹁秦の代に初てもろこし人、 日本へ来れり 。 ︵中略︶始皇が悪政をさけたるなり 。故に日本の声を聞て 、 応ずるようになをして教えたるなるべし﹂ ﹁律書のしらべにては、角めりて ふしゆかず﹂ ︵ ﹃雅楽解﹄ ︶等と記し、中根元圭もあれこれ考えた末に﹁本邦 と異邦の人、其の音、水土に襲りて差ある﹂ ︵ ﹃律原発揮﹄ ︶と説明する (7) 。両 者はいずれも律の五声を日本の五声として肯定し、 三分損益で生じる五声と の不一致を日中の相違として解した。 これらに対して 、 ﹃律呂新書﹄の研究から古楽を追求した中村惕斎とその 弟子の斎藤元成は、 ﹁自然天成而不雑一毫人為者︵自然の天成にして、一毫 も人為の雑 ︵まじ︶ わらざる︶ ﹂︵ ﹃筆記律呂新書説﹄ ︶ として三分損益法を絶 対視し、 ﹁今壹平双黄盤ノ五声ヲ宮商角徴羽トスルハ非ナリ﹂ ﹁コレタヽ壹平 双黄盤ノ五調子ノ楽ヲ調フルタメニコノ五律ヲ抽ンテ用タルノミナルヲ後 ノ人過テ宮商角徴羽ノ五声ニ配シタルモノト見エタリ﹂ ︵ ﹃楽律要覧﹄ ︶と 、 宮=壹越︵ D ︶ 、 商=平調︵ E ︶ 、 角=双調︵ G ︶ 、 徴=黄鐘︵ A ︶ 、 羽=盤渉 ︵ B ︶に配する慣習は誤りであるとして退けた。 こうした惕斎等の研究の影響を受けたとみられる (8) 安倍季尚の ﹃楽家録﹄ 三五 – 三では、呂を再び表舞台に戻し、呂律の別を次のように記す。 呂  宮  商  角  変徴   徴  羽  変宮 律  宮  商  嬰商   角  徴  羽  嬰羽 ﹃梁塵秘抄口伝集﹄とほぼ同様であるが 、 ﹃楽家録﹄では呂を主にして記 し、呂の七声の下に﹁此図和漢共同之﹂と注記しているのは注目に値する。 一方で律については﹁説五声﹂ ︵同三五 – 一〇︶としつつも中世初期の理 論を記載している点は見落とせない。なお、 ﹃楽家録﹄のこの理論体系はそ の後地下楽家に踏襲され、現代の理論につながる。 さて、 惕斎と元成等が日本で通行する律の五声を誤りとし、 ﹁自然の天成﹂ とした三分損益法で生じる七声 ︵呂の七声︶ が本来の七声であることを主張 して以降、 儒学が浸透する中で学者の間では、 呂の方が本来あるべき姿とす る考え方も生じた。尾張藩士の平岩元珍は ﹃平調波良鼓﹄ に次ぎのような興 味深い話を書き留めている。 ﹁甲子の夏五月初つかた、 積雨新に晴て斎居無事、 漆園翁忽然として来り。 欣然として予に謂て曰く、 此日村居を出て庶民田草をとる歌をきくに、 恐ら く呂調に協んか、 請、 箏を取て弾ぜよと、 予もまた莞爾として呂調一越宮に して翁をしてうたはしめ 、これをかなづるに誠に呂調にかなへり 。 ︵中略︶ 水野村の民、 人情自然の音声呂調にかなつる事、 彼唐堯の御時の童謡、 不識 不知、帝之則に順の面影あり、あに珍重ならすや。 ﹂ 甲子は文化元年 ︵一八〇四︶ 、漆園翁は尾張国水野村の代官の水野漆園 、 予は平岩元珍である。両者は同書を著す前に記紀歌謡の久米歌に、 久世舞を 参考にして独自の旋律を付した楽譜を収載した﹃移易新書﹄を著していた。 しかし、 その際に律で節をつけたことを遺憾とし、 呂の旋律を待望していた という。あるとき彼等は水野村の庶民の田草歌に呂調らしき旋律を発見し、 壹越調に調絃した箏と合わせて歌ってみて、 それが確かに呂調に合致するこ とを確認する。そして、 これをかの鼓腹撃壌の故事に通じるものと見て歓喜 するのである。 ここに律の五声を日本の五声とする音律論とは異なる考え方 が一部の人々の間に展開していたことが知られるとともに、 律の五声に親和 性の強い旋律が中世以降に主流を占めたとはいえ、 呂の旋律が決して江戸時 代の日本に存在しなかったわけではないことも合わせて知られる (9) 。 もっとも、呂に注目したのはこうした一部の学者にとどまった。

(4)

︵七十八︶

二 

堂上楽家による催馬楽の再興と呂律

催馬楽の復興は 、律の五声が五声の本位と考えられていた江戸初期に始 まった。復興の経緯は︹平出一九五九︺に詳しいので、 同論文に依拠してそ の動向を先ず確認しておきたい。 ﹁百年ばかりも廃たりし﹂ ︵ ﹃徳川実紀﹄ ︶ 催馬楽復興の端緒となったのは寛 永三年 ︵一六二六︶ 後水尾天皇の二条城行幸であった。その際には律の ﹁伊 勢海﹂が四季継によって再興された。次いで、 天和三年︵一六八三︶の藤 原房子立后節会には律の﹁伊勢海﹂が再び奏され、 呂の﹁安名尊﹂が句頭の 部分のみ綾小路俊景等によって再興された。 このときの再興は地下楽人から は不評で﹁朗詠之様少替たるうたひもの﹂ ︵ ﹃狛氏新録﹄ ︶ ﹁依俄之催、 墨譜及 拍子之法、 異于古法。時人疑之。 ﹂ ︵ ﹃楽家録﹄ ︶等と記されている。その後、 天明七年︵一七八七︶の大嘗会清暑堂御遊では呂の﹁席田﹂ ﹁安名尊﹂が綾 小路俊資等によって再興されるが、 この時点でもまだ拍子は無く、 朗詠のよ うに無拍子で歌われた。文化六年 ︵一八〇九︶ の後桜町院仙洞七十御賀の御 遊に至って、ようやく三管 ・ 三絃が和応するにように勘案せよという別勅に よって、付物︵伴奏楽器︶が加わり拍子が付けられ、 ﹁朗詠的催馬楽﹂から 脱却した呂の﹁席田﹂ ﹁安名尊﹂が奏された。この文化年間の再興が今日の 伝承の基となった。 このように江戸時代の催馬楽の復興は宮廷儀礼の復興にともなって、 主に 堂上楽家の綾小路家が行ったものであった。綾小路家は歌物の家であり、 地 下楽人から﹁朗詠之様少替たるうたひもの﹂と評されたように、 朗詠が律で あったことが影響したためか、 あるいは律の五声を無意識下に前提に据えて しまっていたためか、 呂律を正しく歌い分けることができず、 再興催馬楽で は 呂 歌 の 音 階 が 大 い に 混 乱 し て い た ら し い 。 平 出 論 文 に よ る と 豊 原 陽 秋 ︵一八二六∼一八四八︶は﹁豊原家楽録﹂に次のような証言を残している。 ﹁余兼テ呂歌ノコトヲ案ルニ 、今世ノ歌ヒ様呂ニアラズ 。大カタハ盤渉カ リテ神仙ノ様ナリ。律角也。商・角・羽カリテ、宮・徵メルナリ。 ﹂ 双調の呂の五声は、本来は双調︵ G ︶・ 黄鐘︵ A ︶・ 盤渉︵ B ︶・ 壹越︵ D ︶・ 平調︵ E ︶となるべきところを、 当時の呂は第三音が上がって神仙︵ C ︶す なわち律角になっており、その他の音も上下しているというのである (10) 。 もちろん綾小路家も催馬楽の復興が完成していないことは十分に承知し ていた。 当初は必要に迫られて止む無く行っていたに過ぎなかったのかも知 れないが、 江戸後期になると堂上楽家も復興に並々ならぬ使命感を持つに至 り、 音楽としてより適した姿を求めて、 地下楽家の助力を乞うなど努力を惜 しまなかった (11) 。しかし、 江戸時代には楽譜を整えるに止まり、 実唱面では完 成するには至らず 、呂の問題は拍子の問題とともに明治以降に持ち越され た。 明治になると催馬楽の伝承は堂上楽家の手を離れ、 地下楽家で組織された 雅楽局 ︵現在の宮内庁楽部︶ に移る。そして明治九年 ︵一八七六︶ の定譜 において 、江戸時代に再興された ﹁安名尊﹂ ﹁席田﹂ ﹁山城﹂ ﹁蓑山﹂ ﹁伊勢 海﹂ ﹁更衣﹂の六曲が定され、教習されるようになった。しかし明治後期 に至ってもなお容易に実唱できるものになっていなかったことは、 山井基清 ︵一八八五∼一九七〇︶の次の証言から知られる ︹山井一九六六   まえが き︺ 。 ﹁私がまだ二十歳以前 、といえば今から六十年近くも昔のことになるが 、 当時牛込見附内に在った宮内省の雅楽練習所で教えられた催馬楽は 、安名 尊 ・山城 ・席田 ・蓑山 ・伊勢海 ・更衣の六首だけであった 。 ︵中略︶当時 、 宮中で催馬楽の唱奏が必要とされる場合は、せいぜい一、 二回ぐらいで、一 回もその必要のなかった年さえあった。しかも、 唱奏される場合はいつも更 衣か、 伊勢海のどちらかに決まっていて、 他の四首が唱奏されることは一回 もなかった。 この四首のうちで、 安名尊と席田は、 たまに練習所のおさらいの曲目に出

(5)

︵七十九︶ されることはあったが、 いつも混乱につぐ混乱で、 中途でやめなければなら ないのが常であった。 ﹂ 山井基清は明治一八年 ︵一八八五︶の生まれであるので 、この話は明治 三八年︵一九〇五︶頃のこととなる。 ﹁伊勢海﹂ ﹁更衣﹂は律で、 ﹁唱奏され ることは一回もなかった﹂という﹁安名尊﹂ ﹁山城﹂ ﹁席田﹂ ﹁蓑山﹂はいず れも呂である。 ここに呂の問題が豊原陽秋の時代からまったく進展していな かったことが知られるのである。そして、 その後も呂の問題は棚上げの状態 のままで一世紀以上が経過し、 現在に至るまで正式な場での演奏はほとんど 行われず (12) 、試みに歌う場合は律に変えるのが例になっている (13) 。 もちろん理論上の構成音は﹃楽家録﹄以来判明しているので、 明治初期に 編纂された ﹃音楽略解 (14) ﹄ でも催馬楽の呂歌の旋律は理論通りの呂の七声で記 述されており、 それに則って実唱することは不可能ではない。事実、 明治以 降にはそうした試みもあり、 ︹伊庭一九三四︺では呂の﹁席田﹂が冒頭部分 を除いて理論通りの音階音で録音されている (15) 。また、 民間団体の例ではある が、 筆者もかつて呂の﹁安名尊﹂を復曲してみたことがあるが、 その際も理 論通りの呂の音階で実演を行った (16) 。 しかし、 呂を理論に適った音階で演奏すると、 現在の伝承者や現行の雅楽 に馴染んでいる聴衆には、 平安時代の本来の催馬楽がどのようなものであっ たか誰も知らないはずなのにも拘らず、 何故か催馬楽らしく 0 0 0 聴こえないので ある (17) 。何故そのようなことになるのか。呂の音階への違和感は、 平安時代に 存した呂律の平行調的な関係性が失われたことにも原因があるように思わ れるが、 それに加えて、 中世以降の歌謡では律が優勢となっているため、 伝 統的な歌謡=律という固定観念から逃れられなくなっているためなのでは ないか (18) 。 そしてそうした認識を江戸時代以来の国学的な催馬楽観が増幅して いるのではないか。

三 

二つの催馬楽観

堂上楽家によって失われた催馬楽の再興が行われた江戸時代には国学が 起こり、 国学者も催馬楽に注目するようになっていた。室町中期に著された 一条兼良著 ﹃梁塵愚案抄﹄ の版本が寛文八年 ︵一六六八︶ に刊行されたのを 皮切りに、 明和三年︵一七六六︶には賀茂真淵﹃神楽歌考﹄ ﹃催馬楽考﹄ 、 文 政二年 ︵一八一九︶には小山田与清 ﹃楽章類語抄﹄ 、天保五年 ︵一八三四︶ には橘守部﹃神楽催馬楽歌入綾﹄ 、嘉永五年︵一八五二︶には吉田蕃教﹃神 楽歌催馬楽弁解﹄など、 催馬楽の注釈書や研究書が相次いで著された。国学 者の催馬楽研究は歌意から古の直き心を探るところに主眼があった。 そのた め﹃楽章類語抄﹄に﹁催馬楽略譜は字の左右に墨譜を附て曲節を示したり、 これも学者に用なきがゆゑに書ず﹂ 、﹃神楽催馬楽歌入綾﹄には﹁かゝる音楽 のうへは、 其家々のひめ事もありときけば、 付たる節はもとより、 口伝めき たるすぢどもは皆憚りて一つも載せず。ただうたよむ人のために、 うたの心 詞をとくのみぞありける 。 ﹂と見えるように 、国学者は音振 ︵旋律や拍子︶ は歌意の理解に関係ないとして、 あるいは楽家への憚りから、 ほとんど考察 に及んでいない。 江戸末期に至ると吉田蕃教が神楽には無い律呂の別が催馬 楽にあることを疑問に思い、 ﹁律といふは声をはりて強くうたふ也、うたふ 調へは楽人のわさ也、 呂ハ声をさけてうとふ、 律にむかへる調へなり﹂ ︵ ﹃神 楽歌催馬楽弁解﹄ ︶と謡に影響されたかのような呂律の解釈を施すが、やは り詳しいことは専門の家の領域であるとしてそれ以上の追求はしなかった。 管見の限りでは伴信友のみは音振を考察した形跡があり、 ﹃古詠考﹄ に ﹁又 催馬楽は 、正しくもと唐ざまの楽の調にあはせて歌うたふ曲なり 、 ︵中略︶ 古のうたひたる歌のふりとはきこえず、すべてなつかしからず﹂と述べる。 催馬楽の音振は唐楽等に基づいているのであるから、 音振を考慮に入れれば 国学者の当然の帰結として﹁なつかしからず﹂という評価になるのである (19) 。

(6)

︵八十︶ ところで、 江戸中期には国学者とは全く異なる目線で催馬楽をみるものも い た 。 そ れ は 鈴 木 蘭 園 ︵ 一 七 四 一 ∼ 一 七 九 〇 ︶ 、 浦 上 玉 堂 ︵ 一 七 四 五 ∼ 一八二〇︶等の七絃琴を嗜んだ琴士である。 ﹃玉堂雑記﹄に﹁催馬楽はみな 古楽の合唱歌にて其声律は唐国の古に本つきたるものなり﹂ ﹁所謂詩の国風 にして其声は元三代の古国より伝来れる楽曲﹂等と見えるように、 琴士は催 馬楽の旋律が漢土由来の古楽であることに注目し、 詩経国風に重ねて催馬楽 を捉えた。そして蘭園、 玉堂等は、 中村惕斎、 荻生徂徠等によって啓かれた 儒学的な古楽復興の精神のもと、 宮中で行われていた再興とは無関係に、 平 安時代の楽譜を手がかりにして独自の復曲を試みていた (20) 。その様子は、 伴蒿 蹊﹃閑田耕筆﹄に﹁催馬楽の楽曲にあふもの多しと、 常に鈴木氏かたられし が 、みづからうたひ 、また笛にあはせ 、箏にのせてきかされしことも有り き。是おもしろきことなり。いづれの曲も、 かくやうにうたひものにあはま しかば、俗楽を捨て、これによる人も有べきものをと嘆息したりし。 ﹂と記 されている。 もっとも誰にも正解は分からないものであったから周囲は戸惑 いもみせ、 ﹁近来大仏にありし鈴木何がしは、今の催馬楽、むかしの声振に あらずとて、 仁智要録、 三五要録などより考合せて、 わたくしにうたひ出せ りしかど、まことのむかしの声振ともおもひなされず﹂ ︵橋本経亮﹃橘窓自 語﹄ ︶などと記されもした。 琴士の試みた復曲の内容についてはここでは立ち入らないが、 彼等は国学 者とは異なる催馬楽観を持ち、 ﹃玉堂雑記﹄に﹁此道に深く志、古書に考へ 求めば千載絶たる緒も継ざらんやは﹂と見えるように、 音楽としての復興を 切に望んでいたのはたしかであった。 しかしこうした江戸中期の琴士の試み はその後に継承するものがいなく、 一時のものに終わってしまい、 今日の催 馬楽研究にはほとんど影響を残していない。 催馬楽は風俗 ︵民謡︶ の歌詞を唐楽風の旋律にのせて歌うものであったか ら、 音振からみるか、 歌詞からみるかで想起する催馬楽像は大きく異なって くる 。国学者は神楽と催馬楽を共に研究するのを常としたため ﹁神楽催馬 楽﹂の枠組みが形作られ、 近代以降の研究や催馬楽観に大きな影響を及ぼし てきた 。しかし 、江戸時代の国学者の研究は音振が失われてしまった時代 に、 そのほとんどが音振を除外して行われたものであったことには留意する 必要があろう。音振の面では神楽と催馬楽は、 ︵互いに影響関係はあったと しても︶ 基本構造が全く異なるからである。神楽は呂律の別などは無く一貫 した五音の音組織で作られている︹遠藤二〇一一、 二〇一二︺のに対し、催 馬楽は唐楽に準じた七声に立脚し呂律に別けて唱われた。 平安時代に催馬楽 は楽に由来する音振に特徴があると見られていたことは、 ﹃梁塵秘抄口伝集﹄ 巻十一に﹁催馬楽がくの催馬楽の拍子に唱て、もと其楽より起るなるべし。 風俗の音声、みじかく、節にいやしめる声のあり。其ふりをかへて唱なり。 本は催馬楽と云楽の音ニめぐりて唱つゝるもの也﹂ ︵傍線引用者︶とあるこ とに端的に示されているように筆者には思われる。 このように見ると琴士の 催馬楽観も改めて位置づけ直す必要性を感じざるを得ない。

おわりに

年の初めの、例︵ためし︶とて、終わりなき世の、めでたさを 松竹たてて、門ごとに、祝う今日こそ、たのしけれ 千家尊福作のこの歌詞を見て、 どのような旋律を想起するだろうか。もちろ ん上真行作曲の唱歌﹁一月一日﹂を知っている人は、 ニ長調で作曲されたか の旋律を立ちどころに想起するであろう。しかし、 旋律を知らなければどう か。歌詞が置かれた文脈次第では、 朗詠風の旋律や謡風の節を想起しても不 思議ではないし、七 ・ 五の四句からなる歌詞の構成から、今様を想起するこ とすらあり得るであろう。もし旋律が失われて長い年月が過ぎ、 ニ長調がい かなる音組織か解らなくなり、 覚え書き程度の楽譜しか伝来していなかった としたら、 旋律を正しく復元することは果たして可能か。江戸時代の催馬楽 の復興の際に直面していたのは、喩えるならそのような問題であった。

(7)

︵八十一︶ 催馬楽の復興、 ことに呂の復興が上手くいかない原因の一は、 律が変化し たことにより、 平安時代の呂律の関係性が回復できないことに求められると 一応は考えられる。しかし唐楽では呂の双調が依然として健在であるので、 そればかりが原因とはいえまい (21) 。 かつて再興催馬楽の拍子を問題にした林謙 三は ﹁近世の復興曲は一応白紙にもどし古楽譜そのものについて新らしい手 がかりを求めて解決する他はない﹂ ︹林一九五九   四頁︺と述べた。その後 も古楽譜の研究が十分になされてきたとは言い難いので、 林が切り開いた古 楽譜研究を進展させることが前提ではあるが、学術的な復元にとどまらず、 伝承曲として呂の催馬楽を回復するには、 それに加えて日本音楽における呂 音階の復権や催馬楽観の再構築なども俎上にのせていく必要があるように 筆者には思われる。 1   ︹李二〇〇一︺でも、詳細に考証されている。 2   本稿は、京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センターの共同研究﹁近世日本における 儒学の楽思想に関する思想史 ・ 文化史 ・ 音楽学的アプローチ﹂ ︵研究代表者   武内恵美 子︶における二〇一五年五月三一日の口頭発表をもとに、加筆したものである。 3   同書では呂律の中間として半呂半律を掲げるが、本稿の論点に直接には関係しないの でここでは略す。 4   ﹃仁智要録﹄の律の調絃法等から知られる。なお、 この問題は︹遠藤二〇〇五︺で詳し く論じた。 5   律の五声は安然﹃悉曇蔵﹄に記されたものを平安末期から鎌倉期にかけての天台声明 家が理論付けたことにはじまると考えられる。その早い例は天福元年︵一二三三︶に 成った湛智著﹃声明用心集﹄である。なお、同書では律の五声は神楽で用いることか ら﹁日本ノ五音﹂とし、 呂の七声を﹁辰旦ノ七音﹂ 、 律の七声を﹁印度ノ五七音﹂とす る。 6   律の旋律の変化は、このことと表裏の関係にあると思われる。 7   中根元圭の音律論については︹遠藤   二〇一四︺で論じた。 8   ﹃楽家録﹄と中村惕斎等の研究の関係については、 ︹馬淵一九九五︺に既に指摘がある。 9   熊沢蕃山も江戸時代前期に呂の小歌が存したことを伝聞のかたちで記すが、 蕃山は ﹁日 本にて自然におこりたるうたひ物には、此いきなし﹂と考えていたため﹁律呂の学あ りし人、わざと作て、ふしをつけ置きたるか﹂ ︵﹃雅楽解﹄ ︶と解した。 10   かつてここに記されている通りの音高で再現してみたことがあるが、凄まじい音響と なり、当時の苦労の一端を実感した。 11   呂律の問題ではないが、只拍子の復興にあたって綾小路俊資は地下楽人の安倍季良に 相談し、 ﹃三五要録﹄を参照せよという助言を得、 老齢の俊資は自身で行うことは困難 なので 、息子の有長に託し 、当家伝来の楽譜と少しは変わってしまってもよいから 、 ﹃三五要録﹄を参照して、 とにかく習いやすく、 面白くきこえ、 付物︵伴奏楽器︶に合 うものを考えて後代に伝えて欲しいと記した文書を残している ︵﹃催馬楽只拍子勘考心 得﹄ ︶。こうしたところに綾小路家が真に音楽としての再興を企図していたことの一端 が窺える。なお、只拍子の催馬楽は今日ではその存在すら忘れ去れている。 12   一九三五年生まれの元宮内庁楽部楽師の某氏によると同氏は呂の筆頭の﹁安名尊﹂を 公式の場で歌ったことは一度もないとの由である。 13   ︹芝二〇〇二︺収録の﹁安名尊﹂ 、︹多一九九四︺収録の﹁席田﹂ ﹁美濃山﹂ 、 二〇一五年 二月の国立劇場雅楽公演における宮内庁楽部演奏による﹁山城﹂など。 14   明治初期に上真節、 林広守、 東儀季煕、 山井景順、 芝鎮、 岩田通徳、 橋本寧等によっ て編纂された。催馬楽の歌譜は音高を明記した独自の線譜で示されている。 15   これ以前の昭和五、 六年︵一九三〇、 三一︶に近衛直麿と兼常清佐の雅楽の理論と実際 をめぐる論争があった。両氏の論争は兼常清佐、莊一著﹃日本音楽集成   第一   雅楽   第一輯   催馬楽﹄ ︵南葵音楽図書館︶ で兼常が催馬楽を陰旋で採譜したことには じまる。近衛は陰旋では雅楽の理論に合わないとして、兼常の採譜を批判するが、兼 常は実際に唱っているとおりに採譜した反論する。そして、兼常は理論と実際が合わ ないのなら、実際に合わせた理論を作るべきだと主張するに至る。この論争を踏まえ ると 、この録音では近衛が敢えて理論に合わせた実唱を試みた可能性が考えられる 。 なお、両氏の論争は、近衛直麿﹁雅楽譜の欧風化ー兼常清佐の完成されたー﹂ ︵﹃音楽 世界﹄二 −十一︶ 、兼常清佐﹁雅楽の譜について﹂ ︵﹃音楽世界﹄二 −十二︶ 、近衛直麿 ﹁再び兼常博士に﹂ ︵﹃音楽世界﹄三 −一︶ 、兼常清佐 ﹁旧雅楽論の放棄﹂ ︵﹃音楽世界﹄ 三 −二︶に拠る。   16   二〇一三年十二月二五日に四谷区民ホールで行われた伶楽舎雅楽コンサート no. 27 ﹃大 名の楽しんだ雅楽∼徳川治宝をめぐって∼﹄ 。 17   ﹃催馬楽訳譜﹄ に古楽譜研究の成果に基づき理論に適った音高で旋律を記した山井基清 も 、あとがきで ﹁かつて催馬楽を習ったことがある人は 、本書の催馬楽訳譜を見て 、 それが自分の習った催馬楽とあまりに違うので 、おそらく驚嘆されることであろう﹂ と述懐している。 18   再興催馬楽の律では音律面での違和感を感じる者はほとんどいない。 19   伴信友は自身の国学的な音楽観を﹁そも/\大御国の楽︵あそひ︶の主意は、漢国に て礼楽など事々しく云ふ楽とは、其ノ意ばへいたく違ひて、笑しくおもしろき態を尽 くして、人の健ひ踈︵あら︶ぶる心を和︵なぐ︶さめ、上下の情互にうちとけ悦懌し むる事にて﹂と述べる︵ ﹃神楽催馬楽私論﹄ ︶ 20   鈴木蘭園の復曲の楽譜の伝存は確認されていないが 、浦上玉堂の復曲は ﹃玉堂琴譜﹄ に収められている。その他、毛利壺邱の復曲譜が伝存している。

(8)

︵八十二︶ 21   唐楽でも同様に現行の伝承では律が平安時代とは異なっているが、唐楽ではそれに連 動して呂が崩れているわけではない。 [本稿は 、日本学術振興会科学研究費 ﹁近世日本における楽律学の展開に関する基礎的研 究﹂による成果の一端である。 ] 参考引用文献・音源一覧 李知宣   二〇〇一年   ﹃催馬楽の音楽的研究 ー十五世紀以前の楽譜を中心に﹄ 、 お茶の水女 子大学大学院人間文化研究科博士学位論文。 伊庭孝編輯   一九三四年   ﹃日本音楽史﹄ 、コロムビア 、多忠龍 、大原重明 、東儀和太郎 、 近衛直磨、多重雄演奏、レコード。 遠藤徹   二〇〇五年   ﹃平安朝の雅楽ー古楽譜による唐楽曲の楽理的研究﹄ 、東京、東京堂 出版。 遠藤徹   二〇一一年   ﹁神楽歌の音振について﹂ ﹃朱﹄五四、 二∼一七頁。 遠藤徹   二〇一二年   ﹁神楽歌の音振の構造﹂ 日本伝統音楽研究センター研究報告七 ﹃歌と 語りの言葉とふしの研究﹄ 、五∼一八頁。 遠藤徹   二〇一四年   ﹁中根元圭著﹁律原発揮﹂の音律論に関する覚え書き﹂ ﹃東京学芸大 学紀要   芸術・スポーツ科学系﹄六六、 八三∼九八頁。 多忠麿音楽監督   一九九四年   ﹃日本古代歌謡の世界﹄ 、日本コロンビア 、東京楽所演奏 、 CD 4 枚組、 COCF-12111 -4 岸辺成雄   二〇〇〇年   ﹃江戸時代の琴士物語﹄ 、東京、有隣堂。 芝祐靖監修   二〇〇二年   ﹃雅楽大系﹄ 、ビクター伝統文化振興財団、雅楽紫絃会演奏、 C D 4 枚組︵一九六二年の LP の復刻版︶ 、 VZCG-8125 ∼ 8128 。 林謙三   一九五九年   ﹁催馬楽における拍子と歌詞のリズムについて﹂ ﹃奈良学芸大学紀要﹄ 八、 一∼二八頁。 平出久雄   一九五九年   ﹁江戸時代の宮廷音楽再興覚え書︱特に催馬楽 ・ 東遊 ・ 久米舞につ いて﹂ ﹃楽道﹄二一二 、 八∼一一頁 、同二一三 、 四∼七頁 、同二一四 、 四∼七頁 、同 二一五、 一二∼一五頁。 平野健次他   一九八九年   ﹃日本音楽大事典﹄ 、東京、平凡社。 藤原茂樹編   二〇一一年   ﹃催馬楽研究﹄ 、東京、笠間書院。 馬淵卯三郎   一九九五年   ﹁楽家録の成立﹂ ﹃大阪芸術大学紀要﹄十八。 山井基清   一九六六年   ﹃催馬楽訳譜﹄ 、東京、岩波書店。 典拠史料一覧 安倍季尚﹃楽家録﹄       ﹃覆刻日本古典全集﹄ 、現代思潮社、一九七七年。 浦上玉堂﹃玉堂雑記﹄        国会図書館所蔵の版本 小山田与清﹃楽章類語抄﹄      高野辰之編﹃日本歌謡集成二﹄ 、東京堂、一九四二年。 熊沢蕃山﹃雅楽解﹄       ﹃増訂   蕃山全集二﹄ 、名著出版、一九七八年。 斎藤元成﹃楽律要覧﹄        名古屋市左文庫所蔵の写本 橘守部﹃催馬楽入文﹄      ﹃橘守部全集七﹄ 、国書刊行会、一九二一年。 豊原統秋﹃體源鈔﹄       ﹃覆刻日本古典全集﹄ 、現代思潮社、一九七八年。 中根元圭 ﹃律原発揮﹄      江崎公子編集 ﹃音楽基礎研究文献集   第一巻﹄ 、大空社 、 一九九〇年。 中村惕斎﹃筆記律呂新書説﹄     名古屋市左文庫所蔵の写本 橋本経亮﹃橘窓自語﹄      ﹃日本随筆大成四﹄ 、吉川弘文館、一九七五年。 伴蒿蹊﹃閑田耕筆﹄       ﹃日本随筆大成一八﹄ 、吉川弘文館、一九七六年。 伴信友﹃古詠考﹄        ﹃伴信友全集五﹄ 、国書刊行会、一九〇九年。 伴信友﹃神楽催馬楽私論﹄      九州大学所蔵の写本 平岩元珍著﹃平調波良鼓﹄      宮内庁書陵部所蔵の写本 藤原孝道﹃残夜抄﹄       ﹃群書類従   管絃部﹄ 吉田蕃教﹃神楽歌催馬楽弁解﹄京都女子大学所蔵の版本 ﹃音楽略解﹄           宮内庁書陵部所蔵の写本    ﹃催馬楽只拍子勘考心得﹄     天理図書館所蔵の写本 ﹃塵芥抄﹄        法政大学鴻山文庫所蔵の写本 ﹃梁塵秘抄口伝集﹄        佐佐木信綱校訂 ﹃梁塵秘抄口伝集﹄ 、岩波書店 、一九四一 年。

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︵八十三︶

The ryo-ritsu scales of the Edo period and the restoration of saibara

E

NDŌ

Tōru

The songs called saibara which were popular in Imperial Cour t society of the Heian era declined and disappeared in the Middle Ages. Six pieces of saibara (four r yo songs, and two ritsu songs) were revived in the Edo era by studying the old scores, and these are in the cur rent reper tor y of gagaku. However, the reconstr uction of the Edo era could not reproduce the ancient cour t songs of Japan of the Heian era cor rectly and it was incomplete. Above all, it may be said that the biggest problem is the melodic aspect, where r yo becomes ritsu, and r yo cannot be distinguished from ritsu. In this paper, I consider this problem from the perspective of the change of the musical str ucture of r yo and ritsu from the Kamakura period. Secondly, I consider the possible role of the Nativist (kokugaku) thought in the background of the revival of saibara.

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