﹁魏・呉・蜀の政治的社会的独自性について﹂
矢
野
主
税
目 次
序第一節 後漢末の全国的士大夫社会の成立 一全士大夫団との相違t
第二節 三国時代の政治的分裂と社会的分裂
序
川勝義雄氏の主張によれば︑魏晋貴族は後漢末期に成立した中国
の全地域的な士大夫団を基底にもち︑その中の代表的士大夫の家か
ら生まれたものであるといわれ︑それについて︑次のような説明を
されたことがある︒ ﹁ここにおいて既に全国的な名聲を得ている代表的士大夫は勿
論︑地方に於て多少とも名を知られた士大夫は漸次各軍団の傘下
に集まることとなった︒この間にも軍閥相互の戦いは続き︑弱者
は強者に併呑され︑多くの小軍閥は大軍閥の下に統合され︑結局
三国鼎立の状態となるのである︒而して士大夫の大部分︑殊に士
大夫団の中心的存在即ち頴川及び北海のグループは魏の傘下に入
つたが︑猶呉羅の中へもその一部は入って行った︒諸葛氏一族は
夫々三国に於て最高首礪部となっていたし︑代表的士大夫主恩は
蜀に於て︑面隠は呉において夫々最高の地位を占めていた︒その
上これらの各国に分属せる士大夫の間には依然として共通の感情 が失われず︑相互の連絡さえも保たれている︒彼らはその属する 軍閥国家の対立抗争を越えて連絡を維持していたのである︒即ち 所謂士大夫団の園は︑互に排除し合う三つの軍閥国家の圓の底 に夫々の部分を包む第四の圓を構成していたと理解してよかろ う︒﹂ ﹁即ち︑輿論一清流統一体tその発展としての全士大︐夫団 の構造からして︑その代表者は強く輿論に支持されて出てきたも のであり︑魏晋貴族がこの代表者をもって始まる以上︑これまた その背景に士大夫全体の輿論によって支持されているという性格 をもつ︒﹂ ﹁即ち魏晋貴族は君主からの︑上からの保証によって
国でなく︑士大夫の輿論からの︑下からの保証によって成立してい るのである︒従ってこれらの貴族は王朝の交替を超越して存在す
る︒﹂︵﹁シナ中世の貴族政治の成立について︵史林・3314︶﹂︶
この考えによれば︑魏晋貴族社会成立の前提に︑全士大夫団の存
在があり︑それは三つの対立した軍閥国家とは別に︑その底に︑そ
れらを包みこむものとして存在していたとする︒最近の川勝氏の説
明は︑この以前の説明と多少かわっている︒例えば﹁貴族制社会の
成立﹂ ︵岩波講座︑ ﹁世界歴史5︑古代5﹂所収︶では︑ 次のような内容の発言をされてい
る︒すなわち︑貴族制社会をきりひらいた主役は権道派とよぶべき
人々であったが︑もっとも広く憶えれば︑権道派を中心として︑党
人︑逸民をもひっくるめた︑いわば清流系知識人であったと考えて
よい︑と︒このような氏の説明は︑前説から可なり後退したかの歩
一
長崎大学教育学部社会科学論叢第二五号
をいだかせるのであるが︑しかし︑必ずしもそうではないようにも
みえる︒というのは︑同論文の別のところでは︑次のようにも述べ
られているからである︒
﹁かれら知識入は自分では武力をもたないにもかかわらず︑大農
乱期に発生する強弱さまざまの権力体を相互に結びつけ︑曹操の
もとに整序してゆくことによって権力体相互の結節点を握るこ.と
になるのである︒しかもかれら知識人は長期にわたる濁流勢力と
の対決を通して︑たがいに横の連帯が準備されていた︒権力体長
互の結節点を握るこれらの知識人に︑横に連帯する権力媒介層と
しての社会層1つまり﹁士﹂の階層を形成する︒かれらは上部権
力を背景にもっことによって︑下部権力たる地方豪族より優位に
立ち︑その武人領主化を抑えるとともに︑下部権力をバックにし
たいわゆる﹁民の望﹂として︑上部権力をささえながらも︑その
方向を規制した︒﹂
と︒これによれば︑後漢心の田上事件以後の混乱期を乗り切った人
々︑そういう在野の知識人達が︑濁流勢力との対決によって横の連帯をつくっていたが︑それらは﹁士﹂の階層を形成することによっ
て︑下部権力も上部権力をも︑ 共にその規制下におくこととなっ
た︑というもののようである︒ということは︑後漢末から三国時代
にかけて︑清流グループを中心とする社会階層は大同団結をなし︑
全国的に連帯していたのであり︑その連帯の影響のもとに︑貴族制
社会成立への方向を規制していった︑というようである︒
もしこう理解できるとすれば︑川勝氏はやはり前説のように︑清流グループを中心にする全士大夫の成立と連帯は︑後錐末から三国
時代にかけて連続していたとされるようである︒
以上にみた如く︑川勝氏は現在においても︑後壁隣の清流グルー
プ︑それらによる全士大夫団の統一と連帯︑その中心的家々からの
二
貴族の出現という考え方をされていると理解してよかろう︒−私はこ
の考に対して︑貴族は魏という特定の政治社会から生まれたと考え
て︑川勝説に多少の批判を加えたことがあった︵裸譲⑭灘懸鯉嵐鈷瓢
輔鵜識量胤か︶︵史︶︒更にまた東晋初頭に顕著にみられる︑所謂翁人︑二
人という社会的︐対立は︑実は三国時代の政治的対立の時代に発生し
たと考えた︵﹁雪鬼︑北人対立問題の一考察﹂ ︵長大史学第︸輯︶︶が︑そのことは︑・三国時代にその
ような社会的対立を生ぜしめるような政治的︑社会的状態があった
ことを意味するのではなかろうか︒とすれば︑三国時代に後漢以来
の全士大夫団なるものが存続していたといえるのか否か︑三つの軍
事国家のほかに︑それらを包み込むものとしての︑全地域的な士大
夫団なるものが考えられるのかどうか︑疑いなきを得ない︒私は以
下において︑そのような全地域的な全士大夫団なるものが︑果して
存在したのかどうかについて考えてみたい︒
第一節後漢末の全国的士大夫社会の成立 一全士大夫団との相違i
私は別稿︵近く出版予定の﹁門閥社会成立史﹂所収の﹁曹操集団の性格の一考察﹂︶において︑華北地帯という地
域的限定はあるにしても︑ 曹操集団のもつ一種の超郷党的︑ 超地
方的性格を指摘し︑ それは後漢心における︑ 士大夫生活圏の拡大
と︑生活の場の中央への集中という事実を前提としていることをの
べた︒後漢末期には︑そういう空間的な︑全国的拡がりが︑京師と
いう一地点に集約され︑そこに全国的士大夫社会を成立させていた
という事情がみられる︒
しかし︑この後漢末期の全国的士大夫社会の成立ということは︑
川勝氏が主張される﹁全士大夫団﹂の成立とは︑必ずしも同じでは
ないのである︒川勝氏の全士大夫団は︑前述の引用文によると︑後
漢末の清流勢力は︑中央並に地方における全士大夫の支持を得て︑
全士大夫団ともいうべき大同団結をなし︑それに属する全国的に名
を知られた代表的士大夫或は地方的士大夫は︑三国のそれぞれの軍
閥の中に入っていったが︑そのような場合にもその統一性を失うこ
となく︑大きな潜勢力として存在し続けた︑というものであった︒
ここで気がつくことは︑川勝氏のいわれる全士大夫団は︑地域的
に全国に及ぶ士大夫団であること︑更にそれは︑後漢末の清流勢力
を中心にしての同志的結合であったということの二点であろう︒こ
れに対して︑私のいう全国的士大夫社会というのは︑直接的に地域
的な拡がりをさすのではなく︑そのような拡がりが京師に集中した
結果における状態をさしているのである︒ということは︑全国的な
規模で︑人材が地方から中央へ集中し︑そこに現実の生活の場をもっているということである︒勿論︑そのことは後漢の清流勢力なる
ものとは︑直接的な関係はないわけである︒
先ず︑ 全国から京師へ士大夫が集中し︑ そこに生活の場をおい
た︑ということについてみると︑既に別論︵前掲﹁曹操集団の性絡の一考察﹂︶において︑
後些末には有能な士大夫が全国から京師に集中し︑生活の根擦を京
師におく社会階層の成立について述べ︑それらの人々は︑も早地方
郷党から離れ︑京師において国家権力に依存することによって生活
していた︑と考えられることを説いた︒
更に又︑別の論文︵﹁門閥社会成立史﹂所収﹁後漢末期の郷邑の実態について﹂︶において︑後漢末の婚姻
においては︑地方郷党という地縁関係を伴った婚姻のほかに︑出身
地を異にする︑地縁関係の全くない婚姻が行われているのをみた︒
それは中央官僚家の間にみられる現象で︑このことは︑踏中央官僚の
生活が︑社会的にも地方郷党とは縁のないものとなっていることを
示すものである︒
これらによれば︑地方郡県という地理的な郷党一そういう地縁関
係を超えて︑全国から京師に集まった人々が︑彼等のみによる﹃種
﹁魏︑呉︑蜀の政治的︑社会的独自性について﹂ ︵矢野︶ の中央的な郷党一超地縁的な郷党1をつくり上げていたことは明らかである︒この中央的郷党社会を︑その生活の場は京師であるが故に・又全国から集まった人々を包みこむが故に︑ ﹁全国的士大夫社会﹂と名ずけてもおかしくはないであろう︒しかし︑そこに集まった人々は︑ 既に地方ではなくて︑ 中央を自らの郷党と考えるが故に︑川勝氏のいわれるような︑全士大夫団が全国に生活の場をもつという如きものとは異っている︑といわねばなるまい︒ 次に︑これは清流勢力とは直接的には関係ない︑という点についてであるが︑このことについては︑ ﹁門閥貴族の系譜試論再説﹂(史
w雑誌八十一⁝一〇︶参照︶の中で説明しておいた︒ この論文の中で説いているの
は︑後漢末には各地に名士と評価される人々があったし︑中央にお
いても太学を中心にして︑ ﹁男君︑八俊︑三顧︑二恩︑八厨﹂とよ
ばれる名士が選ばれていた︒川勝氏の意見では︑そういう中央の名
士と清流勢力の代表的人物とは同一であるとされるが︑私は名士と
清流勢力とは同じではないと考える︒名士は社会的評価であり︑清
流勢力は政治的存在であるからである︒しかも︑中央の名士が全国
各地の出身者から︵前出︑ ﹁志操集団の性格の一考察﹂参照︶︑太学において選ばれていること
は︑それらが地方郷党の名士一例えば山陽郡の名士集団とは違った
次元のものである︑すなわち︑それらは超郷党名士であったことを
示すものである︑というようなことであった︒ 以上の二点からみて︑京師すなわち中央には︑全国から集まった
にしても︑も.早地方とは縁のない︑中央官僚を中心とした士大夫社
会が成立していた︑と考えてよいようである︒それは必ずしも︑川
勝氏がいわれるような沸地域的な拡がりをもち︑清流勢力を中心に
した士大夫団という如きものではなかったといえよう︒
このように︑私は後漢末には京師において︑全国的士大夫社会が成立していたと考えるが︑後漢朝の衰微と共に︑三つの軍閥国家の
三
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対立時代へとうつ﹁ってゆく︒では︑そのような軍閥国家の成立につ
れて︑ 全国的士大夫社会はどのような変化をとげたものであろう
か︒或は又︑川勝氏の主張のように︑軍閥国家の対立を超えて︑現
実的にはそれぞれの国家に属する士大夫達を統一する潜在的な力と
しての全士大夫団なるものが︑果してなお存在していたものであろ
うか︒
第二節 三国時代の政治的分裂と社会的分裂
第一項 後漢末の地方政情
後漢末黄巾の大乱は︑皇甫嵩等の努力によって一応平定されたと
はいうものの︑その後に残ったものは︑各地における反唇︑反中央
の政情で︑ ﹁漢柞二軸﹂︵後漢紀25︑鷲帝紀巾−平四年十一月の条︶という空気は一般的であっ
た︒そのような状況の下で︑ 中央においては宙官諌獄の謀がすす
み︑遂に中平六年五月には︑蓑紹によって二千玉人にのぼる公益一
掃が行なわれた︵粧熟ハ年の条︶︒丁度その時︑兵を率いて京師にのりこ
んできた井州牧董卓は︑献帝を擁して政権を握ったが︑それを快し
としない人々は︑名門蓑紹を盟主として反歩車の兵を起すに至った
(全繧Q6︑献帝紀︶︒ この時以降︑後漢朝は各地に独立的な勢力がおこり︑い
わばすでに分裂の状態に入ったようである︒例えば︑呉志︵7︶張
昭伝斐注にひく曝書には︑図幅五年頃の情勢について︑
是時天下分裂︒檀命者衆︒
とのべたり︑呉志︵14︶怪談伝にも︑
近蓑紹︑劉表各有国土︒土地非狭︒人衆意弱︒
とのべている如くであった︒勿論周知のように︑その後天下は大体
蓑紹と曹操の二大勢力にほぼまとめられ︑多くの地方勢力はこれに
附随する有様となったが︑建安五年十一月︑衰紹が宙渡の戦に敗れ
四
てから以降︑ 大勢は曹氏に傾き︑ 政治権力は専ら曹操の手に握ら
れ︑︐豊里十八年魏公をへて︑二十﹃年男王にすすみ︑いよく後漢
に代るべき新しい王朝建設への道を歩んだ︒
ζれに対して地方勢力は漸次勢を失っていったが︑ただ孫権︑劉
備のみがあくまで対立して︑遂に介音十三年︑孫権︑辛辛の聯合軍
は︑ 荊州を征討して勢にのって南下した曹操の大軍を赤壁に破っ
た︒この時以降︑魏︑呉︑蜀三国鼎立の大勢は定まったといってよ
い︒ 勿論︑魏︑呉︑蜀という王朝の正式の出発は少しおくれた︒魏は
建安二五年正月曹操が死んだ後︑ そめ子曹 が父をついで漢の丞
相︑魏王となったが︑その年十一月には後漢の禅譲によって帝位に
つき︑黄初と改元した︒魏帝国の成立である︒魏帝国の成立を伝聞した劉備はその翌年四月帝位につき︑無権は黄初二年魏帝によって
呉王に封ぜられ︑魏に屈服した如き形をとったが︑しかし実質的に
は独立し︑翌年黄武と改元した︒この頃呉が独立の気概をもってい
たことは︑雄志︵2︶孫権伝に︑黄初二年魏文帝の下に賦した趙盗
が︑文帝の馬身の人物についての質問に対して︑
﹁三子畢生不害︑其仁也︒取荊州番兵不血刃︑是其智也︒擦三州
虎視於天下︑是其雄也︒単身於陛下︑是其略也︒﹂
といっているのは︑呉王が魏に屈じているのは︑一時的な策略にす
ぎぬと反揆していることによっても伺える︒正式に帝位についたの
は︑魏の太和三年にあたる黄龍元年夏四月のことであった︒このよ
うに︑魏︑蜀肉呉が相ついで独立体制をととのえたのは︑大体西歴
二百二十年頃のことであった︒
第二項呉︑蜀政権の政治的性格一その地方性についてt
はじめに魏政権の政治的性格についてのべるべきであろうが︑こ
れについては別に論じたので︵上掲﹁曹魏政権の性格についての一考察﹂︶︑詳細はそれにゆず
ることにする︒ただ関係部分の要点をのべれば︑曹魏政権は後漢社
会の末期に成立レた超郷党的性格をうけつぎ︑中央性︑全国性をもっていたといえる︒それは政治的にも社会的にもそうであった︒た
だし︑魏が華北地帯のみを占有していたという現実の故に︑後漢社
会のそういう超郷党性を︑地域限定的に継承したということになろ
う︒そういう意味においては︑・曹魏政権下の政治や社会は︑やはり
一種の地方性をもっていたといえないことはない︒
第一目 地方政権としての呉政権
次に︑呉政権はその政権下の士大夫社会と︑どのような政治的︑︐社会的関係にあったであろうか︒ここではまず︑政治的な面から考
えてみよう︒
いま︑呉志︵2︶孫権伝をみるに︑商策が死んだ直後︑建安五年
頃の呉の勢力の状態について次の如く述べている︒
﹁是時︒下洛会稽︑呉郡︑丹陽︑豫章︑盧陵︒然深前之地︒猶未
鑑従︒而天下英豪︒布在州郡︒商旅寄寓之士︒以安危去就為意︒
未有君臣之固︒張昭︑周喩嬉嬉︑権可與共成大業︒故主心而服事
焉︒曹公表権為討虜将軍︑領会稽太守︒屯呉︒⁝⁝待張昭以師傳
之礼︒而虚辞︑十三︑呂範等為業︒手招延俊秀︒聰求名士︒魯
粛︑諸葛理等︒始為賓客︒分部諸将︒鎮撫山越︒討不従事︒﹂
と︒これによれば︑当時孫権の勢力の及ぶ範囲はなお揚子江下流域
の一部であり︑多難な状態にあったようである︒しかも︑孫王と江
南士大夫との間柄は︑なお浮動的であったとみえる︒この頃︑・孫権
の周辺にあった重要な支持者とみちれる者は︑張昭︑周楡︑三下︑
呂範︑魯粛︑諸葛理などの︑ごく少数の人々であったらしい︒
とごろが︑これと同じ時期の政情について︑呉志︵2︶孫権伝麻
﹁魏︑呉︑蜀の政治的︑社会的独自性について﹂ ︵矢野︶ 注には︑ ﹁傳子日︒孫策墨入明鑑独断︒ 勇蓋天下︒ 以父堅戦死︒少而合 其兵︒将爆弾讐︒転闘千里︒画素江南之地︒︑諌其名豪︒威行都 国︒及権継其癖︒有張子布以為腹心︒有産遜︑諸葛理︑歩驚以為 股肱︒雨空範︑朱塗以為爪牙︒分任退職︒乗間︑伺隙︒兵不妄動︒ 故戦塵敗︒而江南安︒﹂といっている︒これによれば︑前記の人物の外に︑鶏魚︑歩鷲︑呂範︑朱然などの人々が︑孫権の周辺にあって孫氏勢力を支えていたものであろ一う︒ ところが更に︑呉志︵3︶孫皓伝襲注所引の陸機著辮亡論によるに︑呉政権を支えていた人々の名をあげて︑ ﹁於是張昭為師傳︒周喩︑陸公︑魯粛︑呂蒙急電︒奥意腹心︒出 作股肱︒甘寧︑凌統︑程普︑賀斉︑朱桓︑朱然之徒︒奮其威︒韓 当︑播韓︑黄蓋︑蒋藩︑周泰之属︒宣其力◎風雅則諸葛理︑張 承︑歩驚︑以聲名光国︒政事則顧雍︑藩溶︑呂範︑呂岳︑虚器任 半漁︒奇偉則虞翻︑陸続︑張温︑張惇︑以四道空話︒奉掻巻趙 盗︑沈巧以敏達延誉︒術数則呉範︑趙達意機祥諸徳︒薬価︑陳武 殺身以衛主︒︑酪統︑劉基強面以二期謀︒無二笄︑挙不失︒﹂とのべている︒ここで陸機は︑前掲の人々を含めながら︑呉政権を支えた人々を網羅しているようである︒全部で三十五名である︒ さて︑全国性︑中央性を多分に含みながらも︑黄河流域を申心としたという地域限定性をもっていた曹操政権の人的構成に対比した時︑以上のような人材を以て構成された呉政権は︑どのような性格のものと考えられるであろうか︒ 以上三十五名のうち︑呉志に列伝をもつ人々の分類をみるに︑呉志︵7︶にのせられているもの四名パ張承は昭の子であるので一応省略︶︑呉六八9︶た含まれるもの職名︑呉志︵10︶に含まれるも
五9
長崎大学教育学部社会科学論叢第二五号
の十名︑呉志︵11︶に三生︑呉志︵12︶に四名︑呉志︵13︶一名︑
呉志︵15︶に二名噂呉志︵16︶ 一名︑呉志︵18︶二名である︒する
と︑呉志︵7︶︑ ︵9︶︑ ︵10︶︑ ︵11︶︑ ︵12︶に含まれた人々
が圧倒的に多いことが注目される︒これだけで二十四名となるが︑
これは呉志に専伝のない人々を省いて考えれば︑実に八割にあたる
人数である︒
では︑ 呉志列伝の編纂はどのような規準で行われたのであろう
か︒このことを考えるために︑拙稿︑ ﹁列伝の性格−魏志と宋書の
場合﹂︵長崎大学教育学部社会科学論叢23号︶の議論をふり返ってみよう︒私がこの小論で扱
ったのは魏志の場合であるが︑呉志も亦三国志の一部である以上︑
魏々と同じ編纂の原則が用いられていたと考えてさしつかえあるま
い︒いま︑この小論の関係部分を引用してみょう︒
﹁以上によって︑魏志列伝︑宋書列伝の編纂基準について︑概括
的結論をだすとすれば︑前者においては﹁為人﹂と﹁政治的活動
︵H政権との密着度︶﹂︑後者にあっては﹁家格﹂と﹁政権との
結びつき︵11政権との密着度︶﹂というようにいえそうである︒
⁝⁝そういう考え方を原則的に認めた場合︑一方では魏志列伝に
よって︑魏政権の人的構成を論ずる手掛りが得られようし︑他方
には︑謹書や轡屋書の列伝をもとにして︑宿る家の門閥社会内に
おける地位を︑可なり客観的に位置づけることも可能なはずであ
る︒﹂と︒この三八に関する部分についての説明を︑この小論によって更
に補ってみると︑
﹁さて結論的にいえば︑今迄の列伝は﹁為人﹂と﹁政治活動﹂と
いう見地から判断して︑ 一つのグループと考えられる人物を以
て︑ 一つの伝をたてたといえよう︒ このことは著者陳寿によっ
て︑そこに含まれている人々が︑人間的にも政治的にも︑同類項
六
として評価されたということであろう︒⁝⁝ところで︑︐もう畔づ
確かめておきたいのは︑政治活動に基づく政治的評価についてで
ある︒︷⁝⁝その政治活動をとり上げる場合︑政権どのかかわり合
いの度合︑いわば密着度に応じて区別されているわけである︒と
いうことは︑同一列伝に含まれている入物は︑それぞれ政権との
密着度合が大体相等しいということであろう︒とすれば︑我々は
同一列伝に含まれている人物を︑そのような政治評価を唄えられ
たものとして取扱うこともできる筈である︒﹂−
ということになる︒このような考え方は︑呉志の列伝についても同
様であるといえよう︒上にみたように︑孫氏政権の支持者として陸
機があげた人々が︑ 一定の列伝に数多く含まれているということ
も︑実はこのことを裏書きするものといえよう︒
では実際はどうであったろうか︒ いま︑呉志︵7︶︑ ︵9︶︑
︵10︶︑ ︵11︶︑ ︵12︶の順に︑それらの列伝の特色と︑・上述の人
々と政権との関係について考えてみよう︒いま︑呉志︵7︶の最後
の評をみるに︑
﹁評日︒細面受遺輔佐︒功勲克挙︒忠審方量︒動不為己︒而以厳
見禅︒以高見外︒既不庭宰相︒又不登師保︒従容闘巷︒養老而
巳︒以此明権不謡言也︒顧雍依杖為業︒而将之智局︒重重究極栄︑位︒諸葛理︑歩驚並以徳書芸検︒見器当世︒﹂
という︒この呉志︵7︶に伝をもつものは︑張昭︑顧雍︑諸葛瑛︑
歩鷲の四人であるが︑これらの人々は孫氏政権の樹立及びその経営
に極めて重要な役割をもった人々であった︒例えば︑建安五年孫策
が死に臨んだ時のことについて︑呉志︵1︶孫策伝に︑
﹁︵愚策︶創製︒雪景下等主日︒中国方乱︒夫以呉越之衆︑三江
心学︒足以観成敗︒公溶岩門弟︒﹂
とみえ︑或は呉志︵7︶張昭伝には
﹁策臨亡︒富強権官昭︒昭率藁思立而輔之︒上表漢室︒下移属
城︒中外将校︒各令奉職︒﹂
ともみえ︑昭伝の斐注には︑
﹁呉歴日︒策玉織日︒若仲里重任事者︒糞便自取之︒正復不漁
捷︒緩歩西帰︒亦無所慮︒﹂
とさえみえている︒これらによれば︑孫策が後事の全権を張昭に委
ねたこと明らかであり︑それは現実に張昭の孫権輔弼となって現わ
れている︒呉志︵7︶張昭伝斐注によるに︑
﹁呉書日︒是時天下分裂︒檀命者衆︒孫策参事日浅︒為業悪顔︒
一旦傾陽︒士民狼狽︒頗有同異︒及昭輔権︒霊鑑百姓︒諸侯賓旅
寄寓之士︒得用懸濁︒権毎出征︒留昭留守︒領幕府事︒⁝⁝自省
希復将帥︒常在左右︒為謀蒲江︒権以昭旧臣︒待遇尤重︒﹂
とみえる如くであった︒
その他︑顧雍についてはその伝︵呉志7︶に︑ ﹁詔書︒故丞相雍
至徳忠賢︒母国以礼︒而三重廃絶︒朕甚慾之︒﹂
という如く︑その至徳忠賢は公認されていたというであり︑諸葛理
についてはその伝︵違警7︶に︑
﹁時或言︒理趣遣親人︒與︵劉︶備相聞︑権日︒孤與子喩有死生
不易之誓︒.子楡不負孤︒猶孤之不負子楡也︒﹂
とみえるように︑孫権との間に生死一貫しての信頼関係があったわ
けであり︑或は又歩遺伝︵呉越7︶にも︑
﹁鷲前後薦達屈滞︒救解革製︒書数十上︒権錐不能悉納︒然時采
其言︒多士済頼︒赤烏九年代陸畑野丞相︒﹂
とみえている︒
ただ︑これらの人々において異るところは︑下痢は孫策に重用さ
れた人であり︑孫権からは前代以来の﹁旧臣﹂として尊重されてい
たので︑張昭伝によれば︑
﹁魏︑呉︑蜀め政治的︑社会的独自性について﹂ ︵矢野︶ ﹁︵権︶楽日︒上国士人︒入隊則離断︒出撃則虫尽︒孤之敬君亦 為至 ︒﹂とあるように︑孫権にとっては一目おかねばならぬ人物であった︒然るに他の三人は︑孫権によって重用された人物であったので︑そのことが陸機によって︑ ﹁張昭為師傳﹂として特別あつかいされている所以であろう︒何れにしても︑これらの人々は政治的柱石として孫氏政権を支えた人々であった︒ 次に︑呉志︵9︶にみえる人々︑すなわち周全︑魯粛︑呂蒙三人は︑軍事的に呉政権を支えた人々であった︒陸機はこれに対して︑その叢話陸遜を加えている︒この中︑周喩︑呂蒙は張昭と共に孫策以来の旧臣であった︒いま呉志︵9︶の評をみるに︑ ﹁評日︒愚慮乗漢相之資︒挾天子而掃落下︒新狂暴城︒杖威東 下︒干時議者莫不疑武︒周楡︑魯粛建独断之明︒出衆人之表︒実 奇才也︒呂皇尊而有謀断︒識軍計謡︒郵普禽関羽︒最卑語者︒初 錐軽果妄殺︒終於克己︒有国士露量︒里道武将国難乎︐孫権之 論︒優劣翼壁︒故載録焉︒﹂という︒孫権の論というのは︑呉志︵9︶呂蒙伝に︑ ﹁孫権與陸軍論回目︑魯粛及蒙日︒公開雄烈︒胎略業人︒遂破孟 徳︒開拓荊州︒云々︒﹂とみえるもので︑この条に公界︵口周覧︶︑子敬︵H魯・粛︶︑子明
︵H呂蒙︶三人についての孫権の意見がのべられているが︑そこで
はこの三人が軍略家として極めてすぐれた人物であり︑難壁にとっ
ては危急存亡の事件であった赤壁の戦において曹操の勢力の南下を
阻止し︑荊州を占篠していた蜀の関羽勢力を追い出して︑呉の勢力
を三州にのばしたことなどを称揚している︒これらの事件は︑孫氏
にとっては江東を地盤として確保し︑更に荊州に勢力をのばして︑
やがて呉政権を樹立するに至る大切な段階であった︒
七
長崎大学教育学部社会科学論叢第二五号
ところが陸機は︑この三人に加えて陸遜をあげている︒それは理
由のないことではなかった︒呉志︵13︶黒旗伝をみるに︑
﹁評日︒劉備天下称雄︒一世所揮b陸遜春秋方壮︒威名未習︒催︐
而克之︒岡不如志︒予既奇遜之謀略︒又歎権之識︒所以済大事
也︒及遜忠誠苦難憂国之身︒庶幾社稜之臣莫︒﹂
とみえている︒これは陸遜が荊州平定に功があったと同時に︑その
後荊州確保の為の︑劉備との交戦に功労があったことを述べている
のであろうが︑小心が彼を評して︑発墨の臣にちかきか︑どい?て
いるのをみても︑その武功が高く評価されていたことを知りうるで
あろう︒ ︑
次に呉志︵10︶についてみよう︒ここに含まれている人々は︑程
普︑黄蓋︑韓当︑整準︑周泰︑陳武︑︑董襲︑甘寧︑凌統︑徐盛︑濡
璋︑丁奉の十二名であるが︑陸機があげているのは︑里馬︑丁奉を
除いた十人である︒この伝に列含まれている人々は︑︑武将として活
躍した︑人々であった︒邑智︵10︶の評によれば︑
﹁悪日︒註解諸将︒混書表之虎臣︒孫中之所掌待也︒﹂
とみえる如くであ︐つた︒これらの中︑程普︑弊誌︑韓当などは孫堅︑
以来の古くからの武将で︑例えば︑程普伝︵呉志10︶に︑
﹁豊麗︒嗣興張昭等量輔孫権︒⁝⁝先出諸将︒普最年長︒時人聖誕
配置︒﹂
とみえる如く︑武将連の先輩格として活動した︒これち十人の武将
達は軍政的な面よりも︑寧ろ実戦面での活動をした人々であρた︒
次に呉志︵11︶をみるに︑半旗︑朱鷺︑呂範︑朱桓の四人がみえ
るが︑陸機は朱治のみはあ︑げていない︒呉志︵1!︶の評をみるに︑
﹁評日︒朱治︑呂範以旧臣任用︒朱然︑朱桓以勇烈著聞︒﹂
とみえるのみである︒しかし︑前引素子によれば︑呂範と書置は孫
権の爪牙として活動しているので︑とれらの人々は共に権の重んず 亘るところであろうが︑それは単なる武将としてではなく︑寧ろ彼等を腹心として信頼したということφようである︒ 例えば︑呉志げ
︵11︶呂範爆睡注には︑
﹁江表伝日︒⁝⁝︵孫権︶日︒糞痴歎魯子等比郵禺︒呂子国軍呉
漢︒⁝⁝呂子衡忠篤亮直︒性錐好奢︑然軍国公為先︒﹂
とみえる如く︑孫権が呂範を後漢の呉漢に比したとみえ︑朱然伝に
よると︑ ﹁寝射二年︒後漸増篤︒権書為減膳︒夜為不辣︒中使讐薬軽食之
物︒黒黒於道b﹂
とみえ・て︑君臣の間の親密さが伺われ︑.朱桓伝には︑
﹁︵孫権︶日︒今憲虜愚存︒王塗寸心︒孤当與君恩定天下︒欲令
君督五百人︒専共一面︒以図進取︒想君疾未復発也︒﹂
とみえて︑その信任のほどが伺われる︒この伝には︑こういう孫権
が人間的信頼をよせる腹心をあつめたものといえよう︒
では次に︑呉志︵12︶についてみよう︒こごには︑虞翻︑陸績︑
張温︑酪統︑陸瑠︑吾粂︑朱擦の七人が含まれているが︑陸機があ
ザているのは︑虞翻︑陸続︑張温︑酪統の四名である︒この中酪統
については︑ ﹁金側以補高官﹂と評し︑他の三人については﹁以調
議挙正﹂と評している︒陸機の評の﹁表現に相違はあっても︑時政を
批判して︑適正な方向にむかわせようということは同様であろうか
ら︑ζれらの人々が同伝に含まれていても不思議ではない︒三斜伝
に︑ ﹁虞翻尚歯名盛︒寵潜戸州令士︒年亦差長︒皆與会友善︒孫.権勢
事︒言為奏曹擦︒以直道見禅︒﹂
とみえたり︑露量伝に︑
﹁将軍酪統表具温日︒⁝⁝温非親綱︒距非愛訳者也︒昔之君子︒
皆抑私忽︒以増君明d彼独行下汐前︒臣恥︐廃之於後︒故遂発宿懐
於今日︒納愚二二聖徳︒門鑑心於明朝︒非有念於三身也︒臨終不
納︒﹂とみえる如き︑直言の徒であったらしい︒勿論︑そういう直諌の士
であることによって︑ 孫権の政治姿勢を批判したわけでもあるの
で︑例えば︑
﹁劉成折日︒二二以剛直遭忌害者︒其人実非同類土ハ事也︒﹂
以上によって明らかな如く︑呉志も魏志と同じように︑人間的に という如き評もでてくるわけである︒ (三J注引︶
も政治的にも同類項としての人々が︑同じ伝に納められているので
あるが︑しかし︑陸機の人物評価は︑必ずしも陳寿と同じではなかった︒陸機によれば︑それぞれの﹁政権とのかかわりあい方﹂によ
って分類されているようであるが︑それらは必ずも呉志で同伝とさ
れていないことは︑一々あげるまでもない︒このようなことは︑陳
寿と陸機の見解の相違であるから︑とり立てて問題にするには当ら
ない︒しかし問題は︑これらの人々が︑高湿政権を支え︑それに密
着した人々であったということである︒従って︑これらの人々と孫
氏政権との関係をみることによって︑孫氏政権の性格を考えてみよ
馳つ︒ まず︑これらの人々はどの地方の出身で︑どんな場合に孫氏勢力
に参加することになったのであろうか︒その為に︑簡単な表をつく
ってみよう︒
呉政権君臣関係表︵呉志及び襲注諸書による︒︶
人 名 孫氏と出身地 の出会
張 昭彰城人 台 策
出会の性格蒙竺出会の場所
召 見︑師友之礼 豪族.?﹁魏︑呉︑蜀の政治的︑社会的独自性について﹂ ︵矢野︶ 江 南 周 楡癒三人陸 遜呉軍人魯 粛臨准人呂 蒙汝南人甘 寧巴郡人凌 三訂郡人程 普右北平三賀 斉会稽毒素 桓呉郡人気 然丹陽人韓 當遼西人藩 璋東郡人影 蓋零陵人蒋 欽九江人周 泰九江人諸葛一丁軍人 孫 策孫 権孫 権孫 策孫 権孫 権孫 堅孫 策孫 権孫 策孫 堅孫 権孫 堅孫 策孫 斗酒 権 召見︑友 入召 見?三三推挙召 見周楡︑呂蒙推 挙父孫運命召 見?孫策孝廉召 見回 見権親友︑召 見随 従随 従随 従士 従権姉靖弘啓推挙 ︑後漢官僚・後漢官僚江東大族豪 族不 明豪 族
9・
豪 族
後漢官僚
豪 族
9・
9・
家 貧豪 族
9・
寒 門
豪 族 盧 .江江 南江 南−江 南呉 郡江 南江 北会 富江 三鼎 郡江 北呉 郡長 沙?
江北︵寿春︶
江北︵寿春︶
江 南
九
長崎大学教育学部社会科学論叢第二五号
歩 鷺臼照建 \臣 ︑γ ノ
顧 雍呉郡入
播 藩武三人
呂 範汝引入
呂 岱広陵人
虞 翻会稽人
堕 七頁に ま呉郡人
張 墨汁判人
張 淳呉郡人
臣 客南陽人
沈 巧呉郡人
呉 範会稽国
都 達河南人
董 襲会稽人
陳 武盧町人
駆 統会稽人 孫 権孫 策孫 権孫 策孫 権孫 策孫 策孫 権孫 権
9・
?・
孫 権
孫 権7・
孫 策孫 策
孫 誤 写 見回郡推挙降 附召 見突 従召 見︑友 人召 見?召 見辟 召
?・9・
随 従
9・・
随 従
随 巨
砲 見 豪 族?後漢官僚豪 族家 年三 族?豪 事後漢官僚豪 族豪 族?
0﹁・
豪 族?
豪 族
9・
9・
9・
豪 族 江 南呉 郡荊 州寿 春江 南会 稽呉 郡呉 三江 南︑江 南?江 南江 南?江 南会 稽寿 春
江 南? 劉 基東莱入 孫 権 辟 召親 友後漢官僚 一〇江 南
さて︑この表の分析に入る前に︑呉の勢力の伸張過程について考
えてみよう︒というのは︑これらの人々の孫氏勢力への参加と︑そ
の勢力伸張とは大きな関係があるはずであるからである︒ ω孫堅時代︒孫堅は三二を討つのを名として挙兵したが︑江北地
方で転戦していたので︑まだ独立した勢力として江南に定着する︑
というところまではいかなかった︒ ②孫策時代︒ところが堅が死するや︑その長子策は周喩以下の士
大夫の協力を得て︑ ﹁及渡江居江都﹂︵呉志!︶といわれているよう
に︑江南の地にうつり︑しかも︑ ﹁兵財千丁騎数千匹︒賓客願従者
数百人︒比至歴陽兵衆五六千︒策母先回十三回歴陽︒策又徒母阜
陵︒渡江転闘︒所向皆破︒莫敢当其鋒︒﹄︵呉志1︶とか︑ ﹁遂廃兵
渡漸江︒接会稽︒⁝⁝蓋更置長吏︒策自領会稽太守︒﹂ ︵呉志1︶
といわれるように︑徐々に勢力を確立し︑建安元年の頃に一応安定した基礎をきづき上げたようである︒この頃の状態について︑呉志
︵1︶孫策伝には︑ ﹁策自領会稽太守︒復以︵策舅︶呉景為丹陽太守︒以孫貢調豫章
太守︒分豫章為盧陵郡︒以高弟輔為題下太守︒丹陽光治為呉羅太
守︒彰城張昭︑広陵張紘・秦松︒陳端等為謀主︒﹂
とみえ︑ことに孫氏一門による江南支配の形がととのった様子が伺える︒けれども︑孫氏はなお忠実な漢臣として︑曹操の支配下にあり曹氏と婚姻を結んでその地位を安定ならしめていた︒その孫策も建安五年に死んだ︒ 個孫権時代︒孫策のあとを孫権がついだ建安五年頃は︑可なり安
定した力となっていたものの︑まだ孫氏政権といえるものではなかった︒その頃の状態について︑呉志︵2︶孫権伝には︑すでに引用し
炉Unμ ︑ナヂカバく ﹁是時︑有惟会稽︑呉々︑丹陽︑豫章︑鷹陵︒然叢雨無地︒猶未
評言︒下天下直豪︒布在州郡︒芝煮寄寓之士︒以安危去就聖意︒未
有君臣之固︒昭張︑周喩等謂︒権可與成大業︒故委心音服事焉︒
曹公表権為三宮将軍︒領会稽太守︒屯呉︒使丞之郡︑行文書事︐︒待
与野以師伝典礼︒馬筏喩︑程普︑呂高等将率︒招延俊秀︒聴求名
士︒魯粛︑諸葛理等始為賓客︒﹂
とみえる︒ここで注目されるのは︑一応江南一帯の各郡を支配下に
おいたものの︑その地にある士大夫達と孫氏との間は︑なお﹁未有
君臣荒石﹂といわれる状態であったことである︒ということは︑孫
氏勢力はまだ奇策孫権という個人を中心にした豪族集団ともいうべ
きもので︑おな漢臣の立場にあり︑独自の孫氏政権といべうきもの
ではなかったのである︒その指揮初元年魏国が成立し︑翌黄初二年
に劉備の蜀漢が自立したが︑薄髭はなお自立せず︑黄初年二には魏
文帝から呉王に封ぜられている︒勿論︑孫権が魏に心服していたわ
けではないとこは︑ ﹁無権外帯事忌︒而誠心不款︒魏民報侍中辛毘
尚書桓階與黒黒︒井野任子︒権辞譲不受︒﹂︵呉志2︶漏洩伝︑黄武元
年の条︶というところでも明らかである︒しかしこれを契機として魏
の江南への圧力が加わってきたので︑遂に孫権は意を決して︑ ﹁権
遂改年︒臨江皇位︒﹂︵軸上︶にみられる如く︑魏の黄砂三年を改め
て︑呉の黄武元年と定め︑魏と対立する姿勢をとり︑蜀漢と手を握
るに至った︒ 翌黄武二年四月︑ 璽臣は信号に帝位につくことを勧
めたが許さず︑ようやく黄武八年に帝位につき︑黄龍と改元した︒
この黄武二年のことにつき︑孫権伝︵呉越2︶の遊学に︑
﹁江表伝日︒権辞譲日︒漢家三篶︒不能存救︒亦何心而競乎︒藁
臣称天命符端︒固重以請︒﹂
とみえるところによれば︑孫権が許さなかったとはいえ︑翠送達ば
﹁魏︑呉︑蜀の政治的︑社会的独自性について﹂ ︵矢野︶ 呉帝国の樹立を目前のものとしたに違いない︒恐らくこの頃には︑且ハ政権の実質的成立があったとみてよいであろう︒ かくて︑魏呉︑蜀のそれぞれの政権は殆ど時を同じにして成立した︒呉についていえば︑孫堅の江北時代︑孫策の江東時代︑孫権の呉国時代へとうつり変っていったと考えられる︒ ここで前表についてみるに︑孫堅時代にその部下となった三人は︑黄蓋について出会の場所が明らかではないものの︑ 何れも江北の出身者であり︑江北で部下となり︑江北で転戦していたと考えてよい︒ところが孫策時代となると︑十三名簿六名は江南出身である︒このことは︑孫策が父の死と共に江南に還り︑江南において会稽郡を中心として勢力を扶流していったことと相慮ずるものであろう︒更に孫権時代となるや︑十六書中八名が江南出身者である︒このようにみてくると︑孫堅時代には殆どなかったといってもよい江南出身の有力な支持者が︑鼠落︑孫権時代となるや︑彼等に従った有力者の半数に達したということになる︒ しかし︑全体的にみた場合︑出身郡の明らかな三十二名中︑僅かに十四名が江南出身者であるにすぎない︒勿論その中には︑呉郡の朱︑張㍉顧︑陸の名族︑会稽郡の賀氏などのように︑後漢時代から高級官僚家であり︑且つは豪族であった家々も含まれてはいる︒しかも︑それらが孫策時代がら細砂勢力に参加しているのをみれば︑それらが孫氏勢力の拡大︑孫氏政権の樹立に大きな力となったであろうことは想像にかたくない︒ しかし︑陸機が孫氏政権の中核として︑その股肱腹心としたところの人々は張昭︑音速︑陛遜︑魯粛︑呂二等であった︒その他の人々は︑それぞれの長所をもちながら政権を支えていたとしても︑それは部分的に貢献したものとしか認めていない︒ところが政権の中核とみちれた人々のうち︑江南出身は僅かに陸士一人にすぎず︑他は
二
長崎大学教育学部社会科学論叢第二五号
皆江北出身の人々であった︒このように︑平氏政権の中核に江北出
身者がおり︑全体的にみても︑江北出身がより多くを占めていると
いうことは︑塗孫氏政権というよりも︑寧ろ全国的な性格をもつとい
えないことはないように思われる︒ − けれども︑直ちに孫氏政権を全国的性格の政権といい切れるかど
うか︑というのは︑本貫は江北につけていた人々といえども︑・現実
には江南に生活の場をおき︑江南においてζそ孫氏と君臣関係をも
つようになったことは︑表を一瞥しただけで明らかであるからであ
る︒ζのことは︑現実には江南に居住し︑その地縁によってはじめて孫氏との関係を生じた人々であったことを示している︒或は又︑孫
策に従った人々のうち︑四人までが寿春附近においてであった︒そ
れは策が謄躍に従って寿春に居住していたという地縁関係によるも
のであろう︵呉志1斐注引締表伝参照︶︒すなわち︑江南に本貫を
もたなかった人々には︑張昭︵呉志7︶や諸葛理︵呉志7︶の伝に
みえる如く︑漢末の乱をさけて江東に流れてきた人々が多く︑彼等
は安住の地を求めて江南に渡ってきたので︑たとえ形式的には彰城
人︵張昭︶とか︑瑛邪人︵諸葛瑳︶といわれていたとしても︑現実には故郷をすてた人々であり︑生活の場を江南に求めた人々であっ
た︒換言すれば︑彼等は最早江南の人々であった︑といっても過言
ではないのである︒このことの真実性についてはあとでもふれる︒
では︑陸遜︑張昭︑周楡︑魯粛︑呂蒙という中核の人々について
はどうか.というに︑周喩を除いては︑すべて江南において買った人
々であった︒いま︑その周喩と孫策との関係について︑その伝︵呉
志9︶をみるに︑ ﹁周喩字公理︒食草野人也︒従祖父景︑景子忠︒皆為漢太尉︒父
異洛陽令︒職長是丈即製︒初孫堅興義兵︒討董卓︒徒言表芸︒堅子
策与楡同年︒独落着善︒喩善道南大宅︒悪童策︒升版面母︒有無 =一
通共︒喩従父尚為丹田太守︒喩事省之︒会策將東亜︒到冒用︒︐馳
事忌喩︒︑喩將兵迎策︒策大喜巳︒吾得卿︒事蛇卵︒・ゴ⁝及渡江撃
秣陵︒⁝⁝進入曲阿︒劉蘇奔走︒而策之衆己数万 ︒因謂楡日︒吾
以此衆取呉︑会︒平山越乃足︒卿忌事丹陽﹂︒
とみえている︒これによれば︑孫策と周喩の関は︑孫堅が周喩の故
郷に住居をかまえて︑同年の友人として親しい関係をもってからで
ある︒ということは︑この二人は仮埋の生活という地縁関係によっ
て結ばれたわけで︑その後鼻策が渡江南下した時に︑周喩も同行し
たのであるから︑繋縛が江南人でもなく︑江南において関係をもっ
たわけではないにしても︑ 二人は地縁によって.結ばれた仲であっ
た︒それは寿春で砲撃に従った人々とて︑同様であったであろう︒
以上のようにみてくると︑孫氏集団は江南という地縁関係を中心
として生まれた一中には江北における地縁関係による人々もまじえ
てはいたがし地域集団であったといえよう︒それはただ地域的にそ
うであったというだけではなく︑人的構成においてもそうであった
と考えられ︑孫氏政権はいわばそういう一種の地方政権であった︑
といえるであろう︒
第二目 地方政権としての蜀政権
蜀漢帝国は劉備によって︑建安廿六年四月にたてられた︒魏の黄
初二年のことである︒劉備は前漢景帝の子︑中山王勝の子孫といわ
れ︑勝の子貞が琢県に封ぜられて以降︑ここを本貫地としたので︑
琢郡琢県の人とされている︵蜀志2先主伝︶︒祖︑父は共に下級官
僚であったが︑先主︵劉備︶の生活については︑
﹁少孤︒與母聖慮即席為業︒﹂ ︵蜀志2先主伝︶
とみえるから︑父は早く死に︑その故に経済的に苦しかったもので
あろう︒従って︑遊学するほどの十分な鯨裕はなかったらしいが︑
同族の援助にたよって学業をつづけた︒しかし︑彼の後援者があら
われた︒蜀志︵2︶先主伝によると︑
﹁中山大商張世平︑蘇墾等︒此貝累千金︒販馬周旋於琢県︒見運脚
之︒乃多與金財︒先主由是得用合徒衆︒璽帝末黄巾起︒州郡各挙
兵︒先主率尊属︒従校尉郷保元黄巾︒有功除安喜尉︒﹂
という︒これら中山の大商から財力をめぐまれて衆兵をあつめ︑更
に露帝末の世情混乱に乗じて武力を有効に用い︑徐々に官界に進出
していった︒しかし︑彼には有効な一族も︑背景となるべき郷党勢
力もなかったらしく︑あちらこちらの勢力の間を転々とするほかは
なかった︒その彼に︑ 一つの転機がやってきた︒それは徐州・刺史陶
謙にその人物を認められたことである︒彼の伝︵蜀志2︶によると
﹁︵徐州刺史陶︶謙衝撃︒謂別駕庭竺日︒非早耳不能安此上也︒
謙死︒竺率州人迎先主︒先主未敢当︒下邸陳登謂先主日︒今漢室
陵遅︒海内傾覆︒立功立事︒在於今日︒筑州殴富︒戸口百万︒欲
屈使君撫臨州事︒⁝⁝先主遂領挙挙︒﹂
といわれている如くで︑これ以降劉備は︑地方の一勢力として行動
することになる︒これ興平元年のことであった︒後各地に転戦した
が︑建安六年劉表をたよって荊州に入り︑建安十三年曹操が荊州征
討を行った時は︑呉と連合して曹操と赤壁に戦ってこれを破り︑遂
に荊州をその勢力下におさめた︒その後︑建安十六年丁零牧劉璋に
迎えられ︑十九年一州を奪って益州に一計の勢力を固めることとなった︒ついで︑建安廿六年に帝位にづき︑章武と号した︒
このような劉備勢力の伸張過程をみると︑大きくわけて︑徐州刺
史となるまで︑三州支配まで︑益州支配までの︑三つの段階があっ
たようである︒ ・
では︑蜀政権が樹立される直前ごろ︑蜀の勢力を支えていた重要
な人々はどのような人々であったろうか︒蜀志︵2︶先主伝︑建安十
﹁魏︑呉︑−蜀の政治的︑社会的独自性について﹂ ︵矢野︶ 九年の条によると︑ ﹁先主復領益州牧︒諸葛亮為股肱︒法正為番手︒関羽︑張飛︑馬 超聖断牙︒許靖︑倒置︑簡雍為賓友︒及董和︑本権︑李装甲︒本 ︵劉︶湖心所授用也︒呉壱︑費観等又璋軍手親也︒彰兼又璋之所 排損也︒劉巴者宿昔時却所忌中也︒皆処断顕任︒盤其事能︒有志 之士︒無不競勧︒﹂︑とみえる︒また︑蜀志︵6︶趙雲伝による之︑ 初幕主峯︒惟法正見掛︒後主膳︒諸葛亮功徳蓋世︒蒋腕︑費緯荷国 之重︒赤見詮︒陳祇園待単軸殊奨︒仁愛覇遠来帰国︒故復得誼︒︐
・於是︑・関羽︑張飛︑馬超︑鹿統︑黄斑及雲︒乃追詮︒時論為栄︒﹂
といい︑更に華軍国志㈲劉先主志の条には︑許靖︑塵竺︑簡雍の他
に孫乾︑便籍を賓友としてあげている︒恐らく華寿が省略したもの
であろう︒ これらの人々は︑死後に国家に対する功勲が認められて認を得た
人々︑−或は︑その当時劉氏勢力を支えるものと認められていた人々
であるから︑一応蜀政権成立に功績のあった人々の代表と考えてよ
かろう︒とれらの人々と︑先述の劉氏勢力伸張との関係を考えてみ
よう︒ 蜀政権君臣闘係表
︐臥囲障感奮一出会の性格一出会の場王
家 柄諸葛亮娘邪心
法 正右扶風人
関﹂羽河東人
張 飛琢郡・人 ︑第−期
皿1
1
招 聰
随 従随 従
随 従 荊 州荊 州泳 郡琢 郡 後漢官僚後漢官僚
91
E
﹁9・
一三
長崎大学教育学部社会科学論叢第二五号
馬 超右扶風人
許 靖汝南三
十 竺東海人
簡 雍琢郡人
董 和南三人
黄 椹巴西人
李 厳南陽人
血 毫陳留入
費 観江夏人
彰 羨廣漢人
劉 三三陵人
孫 乾比海人
伊 籍山陽人
趙 雲常山人
黄 忠南陽人
蒋 腕零陵入 温温
1
皿 1
皿三
二
皿
三葉
H 1
1 1
豆 降 伏降 伏随 従随 従徴 召降 三三 伏降 雪降 伏召 見辟 召辟 召随 従随 従随 従随 従 成 都成 都島 海量 郡成 都成 都成 門守 都成 都成 都成 都徐 州荊 州螂荊 州荊 州 後漢官僚豪 族長 族
9・
り・・
豪 族豪 族
先主穆皇后兄
豪 族
9・
豪 族豪 族?
9・
豪 族?
9・
9・
一︐爆 費 緯瀧夏人集 底 ネ汝南人夏倹覇沽国人 晶晶皿 徴 召徴 召降 伏 成 続成 都成 都 一四豪 族
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魏官僚
注 −皿皿は劉氏勢力仲張の三段階を示す
この表をながめただけでも︑卸町の勢力の伸張過程とこれらの人
々との結びつきが合致するように思われる︒華北方面で徐々に勢力
を固めていた劉備が︑劉表をたよって雌伏していた荊州における八年の間に︑後の蜀漢帝国樹立するための人的の準備を完了したよう
にみえる︒そのことは︑蜀志働三巴伝に︑
﹁︵劉︶表卒︒郭公征荊州︒先主奔江南︒荊楚論士︒従之如雲︒﹂
とみえ︑蜀志②先主伝には︑
﹁荊州豪桀帰先生者︒自益多︒表疑其心︒陰禦之︒﹂
とか︑表が卒して琢があとをついだ時のことについて︑
﹁珠左右及荊州人︑多帰先主︒﹂
などとみえることによって察せられる︒随って蜀政権は︑先主に随つた荊州人士と︑政権樹立の現地である益州の土着人士との協力に
よって支えられた政権であった︑といえるのではなかろうか︒以下︑
劉表の分折によって︑その点について考えてみよう︒
まず表を整理してみる︒
第−期出会いの地
琢郡或は六人 華北
第豆期五人 荊州 出会の性格随従5辟召1随従4招璃! 出 −身 地
︵常山︑河東︑琢郡︑東海︑
︵北海︶︵右無風︑
︵娘邪︶ 琢郡︶
南陽︑山陽︑三日︑︶
第皿期
+二人成都 下略籔楓無︑襲霧讐江臭流︶
辟召1︵肉腫︶ 召見1︵廣漢︶ 第一期の人々には︑琢郡或は華北地帯で劉備に随つた人々で出身
地も皆華北である︒これらの人々は︑関羽︑張飛などに代表される
ように︑微々たる昏々勢力に献身的に蓋した人々であった︒
第二期の人々は︑備が荊州在住の間に随従した人々であり︑ただ
諸葛亮のみは特別で︑備の懇請によって腹心となった人である︒亮
は娘邪の出身であるが︑早くから荊州に居住し︑右醇風の法正は芦
安の都から離州の劉氏に従っていたが荊州に使するに及んで劉備に
傾倒し︑これと結ぶに至った︒山陽の伊籍は若い時から同郡人論証
をたよって野州に居住していた︒南陽の黄忠︑零陵の蒋碗は︑共に
劉表の臣であったが︑思置と結ばれるに至った︒これらは多く︑荊
州という現住地の地縁によって劉備と結ばれたわけである︒ 第三期で目につくのは︑降伏七言である︒その中鷺名は劉璋の部
下として︑ 劉備の軍に直接対抗していた人々である︒ ということ
は︑その出身地が殆ど中原地帯で︑蜀地方出身は珍らしくても︑現
実の生活は蜀の地方にあった︑ということであろう︒例えば南陽の
李厳については︑その伝︵蜀志10李墨黒︶に︑
﹁荊州忠士表使歴諸郡県︒曹公入王州︒時厳⁝⁝遂西之蜀︒劉璋
以為成都令︒﹂
とあったり︑或は陳留の呉壷にいて︑蜀志︵15︶揚戯伝竪琴に︑
﹁随上竪入蜀︒劉璋時為中郎將︒將兵拒先主︒﹂
とみえたり︑或は蜀志︵8︶許靖伝によるに︑靖は故郷汝南から一
度は中央に出たが︑後に南方に流浪し︑会稽太守王朗︑交趾太守士
隻をたよった︒その後︑
﹁魏︑呉︑蜀の政治的︑社会的独自性について﹂ ︵矢野︶ ﹁劉璋遂使使招靖︒靖来入蜀︒﹂というように︑劉璋に招かれて蜀に入︑つた︒これらの人々は︑本貫は中原にあったとしても現実には動地にいたわけであろう︑それらが劉備の軍に降伏して劉備政権樹立に参加した︑ということなのであろう︒ 以上によって考えられることは︑劉備集団は二面中心の人々と︑荊州関係の人々と︑蜀土に定着していた人々とからなっていたということである︒このことは︑劉備との人間的結びつきにひかれて︑苦難の道を共に歩いた第一期︑第二期の随従の人々と︑面詰において降伏し︑或はそこで召されて政権樹立に参加した人々があった︑ということになる︒勿論それらの結びつきの機縁は︑琢郡︑荊州︑益州という地縁であるから︑この政権も一種の地縁集団という性格は免れない︒ただ︑呉政権が殆ど江南という地縁のみで形成されていたのに比ぶれば︑可なり復雑であり︑その中心に劉備という人格があったといわざるを得ない︒とはいえ︑蜀漢政権も亦︑呉政権の場合みためと同様に︑益州を中心とした地域に︑荊︑益に定着し・ていた人々を以て構成された︑ 地方政権であったと考えられるであろう︒ 第三項 鳥声蜀社会にみる地方的性格 ここでは︑呉政権︑蜀政権の下の社会における︑地方的性格について検討し︑川勝氏がいわれるような︑全国統一的な士大夫社会なるものは存在しなかったことを論証してみたい︒ 囚︑山父友関係について まず︑それぞれの社会における交友関係について考えてみよう︒−というのは︑交友・の広狭は︑ある政権下の社会が他の政権下の社会と︑どのようなかかわりをもっているか︑孤立的傾向が強いのか︑それとも政治的分裂にもかかわらず︑社.会的には連帯性が強かった
一五
長崎大学教育学部社会科学論叢第二五号
のか︑乏いうようなことを︑明らかにすると思えるからである︒
では︑その交友関係の広狭を︑どういう見地から検討する・かということになるが︑まず︑交友グループの人的構成の面から考えてみ
たい︒ e呉の社会の場合
いま呉志︵15︶鐘離婁伝の冠注によるに︑ ﹁会稽鶏魚日︒牧父
緒︑棲船都尉︒兄關︑上計吏︒少与同厚謝賛︑呉郡顧課斉名︒﹂
とみえ︑呉志︵7︶歩驚揖斐注には︑
﹁呉書日︒歳飴鷲以疾免︒與娘郡諸葛理︑彰城厳峻墨型翌冬︒並
著聲名︒為当時英俊︒﹂ ・ − −
とみえ︑或は.同じことが呉志︵8︶厳駿伝には︑
﹁避乱江東︒与諸葛理︑歩驚美名友部︒﹂
と表現され︑更に呉志︵7︶顧雍伝郡の条に
﹁郡⁝⁝少與舅陸績斉名︑而陸墨︑張敦︑ト諸等皆皆焉︒﹂ともみえ︑また︑能勢︵7︶張昭伝承の条にも︑
﹁少以才学知名︒与諸葛理︑歩驚︑厳略相友善ρ﹂
などとみえている︒これらの史料で明らかなことは︑鐘離綱や顧郡
の記録にみられるように︑ 会稽郡呉郡出身の人々︑ 呉郡出身の人
々︑それぞれの聞において﹁功名﹂であったという場合と︑或は三
冠や厳父や雪空などの記録に明らかなように︑江北出身の異郡の人
々の間において﹁斉名﹂といわれる場合があったということである︒
ということは︑呉の社会においては︑元来江南に居住していった人
々が︑ 江南出身の者の間だけの斉名グループを形成している場合
と︑江北から江南にやってきた︑しかも江北においては違った郡の出身の人々の間に︑斉名グループが形成された場合があった︑とい
うことである︒
﹁斉名﹂については︑既に筆者が﹁状の研究﹂︵史学雑誌7612︶の中で説 一六
明を−加えているものを参照されたいが︑置引の歩驚伝引の呉書と厳
峻伝とを比較してみれば明らかであろう︒ それらにみられるよう
な︑世上の・名聲を斉しうる交友グループをさす一わけである︒すると江南の斉名グループの場合は︑江南孫氏政権下の諸郡における心々
が︑︐互にその名子を斉しうするものとして︑世上の評価をうけてい
たことになるが︑それは当然ありえることであろう︒
とζうが︑江北の各地から江南にやってきた人タが江南の地にお
いて斉名グループを形成した︑ということは︑どういうことを意味
するのであろうか︒いま︑前述の歩鷺伝斐注呉書をみるに︑ ﹁︵歩
死︶与狼邪諸葛理︑彰城厳酸︒倶游呉中︒二障書名︒﹂とあり︑ま
た張承伝には︑﹁与諸葛理︑歩鷺︑厳陵相友善︒﹂とあった︒すると︑
こ.の︐四人が斉名︑の友人グループと考えてよい.︒ところが︑これらの人・
々は江南において同郡内に落ちついていたのかというと︑実はそう
ではない︑らしい︒例えば︑張承一家は丹陽郡に︑歩驚は会稽郡にお
ちついたと考えられる︵気書76張闘伝︑呉志︵7︶歩驚伝︶︒諸葛理と厳酸については明ら
かでない︒するとこれらの人々は︑江北から江南に移住した場合︑それぞれ異った時期に︑異った土地から異った土地にうつり住んだと考えてさしつかえない︒ということは︑これらの人々が斉名グループと認められたのは︑その移住郡においてではなく︑それを超えた社会においてであった︑ということであろう︒ここで考えられる
のは︑先引呉書にみる︑ ﹁倶游動中﹂とい記述である︒この場合の ﹁呉中﹂というのは︑単なる呉郡ということではなく︑江南一帯を
さすものと解さねばなるまい︒そうして前記四人が︑江南呉社会において︑斉名グループを形成したと解してこそ︑彼等の移住地︑移住郡を超えた社会の実在が明らかになるわけである︒例えば︑・呉志
︵7︶張昭伝に︑
﹁博覧衆書︒与狼邪趙晃︑東海王朗︒倶発名友善︒::..漢末大
乱︒徐方士民︒避難場土︒昭島南渡江︒﹂