車屋謡本刊本考 : 鳥養道?が作った謡本
著者 伊海 孝充
出版者 法政大学能楽研究所
雑誌名 能楽研究
巻 44
ページ 1‑52
発行年 2020‑03‑25
URL http://doi.org/10.15002/00023224
1 車屋謡本刊本考 ─鳥養道晣が作った謡本─
車屋謡本刊本考 ─鳥養道晣が作った謡本─
伊 海 孝 充
一 車屋謡本版本研究の問題点
天正(一五七三~一五九三)~慶長(一五九六~一六一五)年間に書写・刊行された下掛リ謡本に「車屋謡本」と呼ばれる一群がある。これは、書家であり金春喜勝の弟子だったらしい謡の専門家の鳥養道晣が書写・節付をした写本と彼自身が制作に関与した刊本のことを指す。「車屋」は彼の屋号であったと考えられているが、その由来ははっきりしない (注1)。衣笠一閑『堺鑑』(天和三年(一六八三))に「車屋本ト世ニ用ハ是也」と紹介されているように、車屋謡本については江戸時代のいくつかの資料の中ですでに言及されているが、本格的に研究が進展するのは近代まで待たなければならない。まず、野上豊一郎は、自身が入手した松山城主・加藤嘉明手沢本と伝えられる伝本(現法政大学能楽研究所蔵本。通称「野上
本」)をもとに、その来歴と金春流詞章の変遷などを分析した「謡曲車屋本考」(『文学』一九三四年四月)と「謡曲原典批判の一例」(同八月。両論ともに『能の再生』(岩波書店、一九三五年)所収)を発表した。その後江島伊兵衛が本格的な車屋謡本研究を展開した『車屋本之研究』(鴻山文庫、一九四四年(実際の刊行は翌年らしい))を刊行し、ようやくこの謡本の全体像が見え始めてきた。その後、車屋謡本は下掛リ本文の変遷を考える上で、重要な資料であると認識されるようになったが、この謡本自体
ら屋題問の究研本刊本謡車をに、る入に察考な的体具点前整記か代時戸江に、うよす理がどな』鑑堺『く。おてし 味と意義を考えてみたい。 のである。この本がいかに制作されたのかを考えることによって、出版黎明期における謡本刊行という行為自体の意 代のはじめから本格的に始まる出版の歴史の中で、謡本は一、二を争う出版数をほこるが、その出発点が車屋謡本な であるという点を重要視し、謡本史におけるこの本の特質と制作意義を考察するものである。周知のとおり、江戸時 本分析が一連の研究の締括となるはずだったが、本稿はそれが出発点となる。すなわち、車屋謡本が謡本刊本の嚆矢 そ表の研究から学んだことが少なくないが、本稿の研究目的は表のそれと乖離している。表の車屋謡本研究では、版 と、本言の表るす関に本刊の屋車前以れそや」考新「及謡本て稿こ手究研た、まい。ない法し必結論はのずしも一致 表が、るす似近に究研のる。は性向方すあでのもるに念丹構完築い。なはでもす指目をの補考さやれた「新」の継承 地書見的学誌謡を本版本屋らかを分析するとともに、成立背景検討の車そで未は、「新考」る考本察となってい稿 た。 しては、「第三章整版車屋謡本について」「第四章偽車屋本と古活字車屋謡本について」の二章分が用意されてい にた。頭冒稿各の」考新「は、っましてっなと稿完未びた全たて関に本版び謡屋車が、たい本れさ示が次目の体研究 謡本研究の決定版となるはずであったが、二〇一〇年に表が急逝したため、写本数種と版本の分析がなされぬまま、 かにするとともに、書写順序などを解明し。この一連の論考は主要伝本を網羅した極めて詳密な研究であり、車屋た 2(注) わに回八を記)略と」考下「新と以(」考新」本謡屋車「「りたに、発析表ら明色特の本各もをを分細詳の本諸本謡し、屋車な 度を高さに進展せ究け、研本謡屋車受を究研ののた年は二江てけかに年三〇〇~表七八九一は表る。あで章島 2 の研究はほとんどなされなかったと言ってよい。
3 車屋謡本刊本考 ─鳥養道晣が作った謡本─
鳥養道晣が書写・刊行した謡本を「車屋本」と呼ぶことは知られていたが、表記・定義など不明確な点が多かった。それらを整理したのが「新考(一)」である。本稿は基本的にその定義に従うが、重要な点を二点確認しておく。一つは、「とりかい」の表記と「宗晣」「道晣」の名である。「とりかい」は『言経卿記』をはじめとする歴史史料が「鳥飼」と表記することが多かったため、研究でもそれに倣うのが常であった。しかし、本人は「鳥養」とのみ書き、「鳥飼」の用例は一例もないことを表は指摘している。また、鳥養道晣は「宗晣」「道晣」という二つの法名を用いているが、文禄三年(一五九四)以前に「道晣」と名のるようになったらしい。しばらく併用している時期もあったようで、どの時点で改名したのかが判然としないが、本稿では文禄三年以降の彼の動向を検討することになるので、扱う資料の書写・刊行年に関わらず一貫として「道晣」の名を用いることとする。そして、もう一つが「車屋謡本」の定義である (注3)。車屋謡本は概ね江戸時代から鳥養道晣が制作に関わる謡本と理解されていたが、表は「道晣(宗晣)が書写または節付した写本謡本と整版車屋謡本」とかなり限定して定義した(「新考
(一)」)。しかし、その後国会図書館蔵鳥養宗晣・鳥養休右署判一番綴本(通称「国会本」)を検討する中で、「休右(休右衛門)」が道晣の子息・新蔵であると判明したため、鳥養道晣父子が書写・節付・出版した謡本、とその定義は広げられるかたちで修正された(「新考(六)」)。車屋謡本の生成過程を知る上で重要な史料となる山科言経の日記『言経卿記』を参観すると、道晣の謡本書写・収集活動は、新蔵をはじめとする子息たちの助力も不可欠であったこと、とくに新蔵は主体的に関与していたことは容易に想像できるので、首肯すべき修正である。本稿では、この表の定義に従い考察していくが、道晣父子が関与した謡本のみを「車屋謡本」と称すると、道晣父子がどの版本を刊行したのか、という重要な問題が生ずる。「車屋謡本」と称する刊本謡本は、整版本・古活字本・擬車屋本の三種が存在するが、後述するように、先行研究では整版本が古活字本に先んじて刊行され、整版本制作の
を改めて考えるためにも、本稿では擬車屋謡本を参観しつつ、整版本と古活字本の関係を再考してみたい。 (注4) も最古本の一つと考えられている。それがなぜ整版本で、その後の古活字本へと移行したのだろうか。こうした問題 がその逆の歴史を辿ったのだろか。また車屋謡本は、謡本として最初の刊本であっただけでなく、和本の版本として 4 みに道晣が関与したと考えられている。多くの和本が古活字本から整版本へと移行していったが、なぜ車屋謡本だけ
二 車屋謡本刊行の道程─『言経卿記』から─
現存する車屋謡本刊本を見るまえに、史料からこの謡本の刊行過程を探ってみたい。車屋謡本や道晣の動向を考える上で、藤原北家四条流の山科家十三代当主である山科言経(一五四三~一六一一)の日記『言経卿記』の記事が有益であることは夙に知られている。もともと江島がこの資料の有効性について初めて言及したが、表が道晣手沢本である鴻山文庫蔵吉川家旧蔵本(通称「吉川小本」)を考察する中で、『言経卿記』に記されている道晣と言経との謡本の貸し借り記事を通して、道晣手沢本の形成過程を分析している(「新考(三)」)。この史料は車屋謡本刊本成立を辿る上でも極めて有益である。『言経卿記』には文禄三年(一五九三)頃から道晣の名が見え始める。同四年撰述が始まる『謡抄』の編纂に二人とも関わっているので、この作業を通して昵懇の仲となっていたと想像される。道晣と言経の交流は謡本の貸し借りから始まるが、二人の間を行き来する謡本は珍しい曲が多く、互いのコレクションの充実を目的としていたことがわかる。ただし、単に所蔵謡本が増えることに執着していたわけではなく、この時期が『謡抄』編纂時期でもあったこともあいまって、その内容にも関心が増していったと考えられる。『言経卿記』にはたびたび道晣や新蔵が謡に関する「不審」を尋ねる記事が見られるが、道晣側が言経へ向けた「不審」なので、その内容は謡い方ではなく、文句の解釈に
5 車屋謡本刊本考 ─鳥養道晣が作った謡本─
ついての疑問が多かったのだろう。この「不審」の質問は文禄四年末からはじまるが、特に慶長二年(一五九七)から同五年かけて回数が増え、同四年には「謡本の書様の不審」(九月十日条)、「謡本文字不審」(十月十日条)、「謡本カナ不審」
(十月二十六日条)など具体的な問が記されている。またこの時期には〝遠い曲〟だけではなく、江戸時代版本の内組百番に含まれるような〝近い曲〟を道晣が言経に借りることも増える。こうした状況を考えると、道晣は慶長二年頃から徐々に車屋謡本刊行に関わる作業に着手し、同四年ごろにこの事業が本格化したと考えて大過ないだろう。こうして準備が進められた謡本は、慶長五年ごろから形になり始める。そして『言経卿記』同六年三月六日条に次の記事が見られる(大日本古記録『言経卿記』(岩波書店)による)。
うたいのほん卅はんしん上候よしひろう候へはおもしろく覺しめし候よし、よく〳〵心え候て申とて候、かしく 山しな中納言とのへ 就新刊謠之本進上女房奉書如此候、別而可有頂戴候也、依状如件、
三月五日 判 道せつ右は後陽成天皇に献上した謡本に対して頂戴した女房奉書と、仲介した言経の道晣宛の添え状の写しであるが、ここから道晣が慶長五年までに「新刊謠之本」を「卅はん(三十番)」刊行し、それを後陽成天皇へ進上したことがわかる。また次の『堺鑑』の記事に拠れば、その後車屋謡本が道晣によって七十五番まで刊行されたことになる。
車屋道説 金春太夫ノ弟子也當津ニ来ツテ車屋中濱ニ住シテ家流ノ中ヨリ一流撰出シテ聲ヲ吟シ自筆ニシテ板ニ彫行車屋本
6
ト世ニ用ハ是也元ハ七十五番ナルヲ再加増シテ百番トナスただし、この記事をそのまま信用できるかは疑問がある。『堺鑑』にこの記事があるということは、道晣は大坂で車屋謡本を刊行したと考えるのが自然であるが、『言経卿記』を見る限り、道晣は京都で謡本を制作していたはずである。また波線部のように「金春流ながら独自の謡を編み出して一派を形成した」(「新考(一)」)というもの、道晣の活動を過大評価しているように思える。そう考えると、傍線部のように道晣が七十五番からさらに百番の謡本を刊行したというもの疑わしいが、車屋謡本が七十番程度刊行されたのは確実なので、この「七十五番」は全刊行数の目安として、まずは天皇に献上された三十番について考えたい。先行研究にも言及されているように、その三十番の全曲名はわからないが、次の『言経卿記』の記事からそれに含まれる可能性が高い十一番が判明する。
A 慶長五年一月二十三日 鳥飼道晣来了、謠之本板本三輪・老松・蟻通等送了、祝着之由申了 B 慶長五年三月二十日 道晣ヨリ刊謠之本相生・浮舟・玉鬘・かんたん・通小町等五番送了、新蔵持来了 C 慶長五年三月二十八日 道晣ヨリ刊謠之本源氏供養・野宮・忠慶等送了このように「板本」「刊謡之本」とあるので、四角で囲んだ十一曲が刊本であったこと、さらにAの記事に「祝着之由」とあるので、この刊本が道晣によって刊行された最初の車屋謡本である可能性が高いこと、さらに刊行が慶長五年一月頃にはじまったことがわかる。「蟻通等」とあるので、この時この三曲だけでなく、もっと多くの曲が刊行さ
7 車屋謡本刊本考 ─鳥養道晣が作った謡本─
れたとも想像されるが、Bで五曲以上、Cで三曲以上と徐々に刊行されているので、一度数十曲というように大部で刊行したのではなく、少しずつ断続的に制作し続けていたと推測される。言経に届けられた刊本について言及した記事は、右の三つしか見当たらないが、Aの記事直後から、それ以前には見られなかった謡本の「校合」という語が散見できる点に注意をしたい。近世以前の「校合」という言葉も、今日と同じように文字や記事の記載を他本と比較などを通して、訂正・加筆することを意味するが、道晣はこれを言経に依頼するようになったのである(この校合した謡本は、新蔵が使いとして持参することはあったが、すべて道晣へ戻している)。これらの記事を全掲すると、【表1】のようになる。この「校合」が版下を作る過程の作業なのか、完成した版下の最終確認のような作業なのか、もしくはすでに版本として刷ったあとの校正作業なのか判然としないが、車屋謡本版本制作時期の「校合」なので、この版本に関わる作業の一環であったのは確実だろう (注5)。そう考えられると、先の十一曲以外に《杜若》・《百万》・《女郎花》・《船橋》・《道成寺》の五曲が献上本の中に含まれていた可能性が高く、《誓願寺》・《白楽天》・《矢立鴨》・《金札》・《難波梅》・《俊寛》・《隅田川》の六曲がその後に刊行されたこと
【表1】『言経卿記』に見える「校合」関係記事
年 月日 校合冊数 校合した曲 備考
慶長5 1/23 三輪・老松・蟻通等の版本が完成 2/5 1 記載なし 校合後の戻し 2/8 4 記載なし 校合後の戻し
2/8 4か5 記載なし 晩に新蔵が追加で持参・戻し 3/7 不明 記載なし 謡の不審も尋ねる 3/9 2 杜若・百万 百万は追加で届く・戻し 3/12 3 女郎花・船橋・道成寺 道成寺は追加で届く・戻し 3/16 2 記載なし 校合後の戻し
3/20 相生・浮舟・玉鬘・かんたん・通小町等の版本が完成 3/28 源氏供養・野宮・忠慶等の版本が完成
4/8 2 記載なし 校合後の戻し 7/21 2 記載なし 校合後の戻し 8/29 2 記載なし 謡本の校合
9/2 9 記載なし 校合後の戻し 慶長6 2/22 4 記載なし 新蔵が道晣の依頼を連絡
3/6 後陽成天皇へ30番の版本を献上 3/6 4 記載なし 2/22の分を戻したか
7/5 1 誓願寺 1冊を戻す
8/15 2 白楽天・矢立鴨 依頼のみ
9/2 2 白楽天・矢立鴨 子息忠介を介して戻す
10/30 1 金札 依頼のみ
11/4 1 不明 依頼のみらしい
11/8 2 不明 10/30と11/8分の戻し 12/3 3 難波梅・俊寛・角田川 3冊を戻す
版本の諸本を概観し、各種の制作背景を考えてみたい。 備されており、そのうちの〝選りすぐり〟が献上されたと考えるべきではないだろうか。以下、このことを踏まえて と、後陽成帝に車屋謡本を献上した段階で三十曲分だけが作成されていたわけではなく、実際はその倍近い曲数が準 う道晣が「七十五番」の謡本を刊行したのなら、そのすべてが慶長六年までに刊行された蓋然性が高い。そう考える こを業事後のそる。なにとだっ蔵でま年六長慶は、のた新たなどいが』鑑堺『が、るれらよえ考もとだい継き引がう で記事が欠けているので、その間に亡くなった蓋然性は高いと思。そう仮定すると、道晣自身が謡本の制作ができう (注6) 『言経卿記』は慶長七年八月十九日から同年十月末まある。でのく想像さこの後まもなれ、亡なったと考えくられる (所労)日の記事には「鳥飼道晣、診脉了、所労同篇也」と病に変化がないとあるので、長く病床に伏せていたことが 回、言経が道晣の脈の診断に出かける記事の中で道晣の名が見え、その後彼の動静を伝える記事はない。同年五月六 そう考えるのは、道晣の没年と関係する。彼の没年は明らかになっていないが、慶長七年三月から六月にかけて五 ろうか。 れ以降も制作作業は続いていたが、道晣が刊行した謡本の大部分は献上以前に刊行作業が終わっていたのではないだ 見献本謡のへ皇天と、る度を』記卿経言『い。高が性後、上校言経こで、のるいてっ行を正の程曲十に内年六長慶は 五十曲、あるいはそれ以上の曲が完成したか、刊行準備に入っていた可能~後陽成天皇への献上以前に、すでに四十 らの曲と刊行された十一曲に重複があったとも考えられるが、言経に校正を依頼しなかった曲もあったと考えると、 この校正された曲数を見ると、後陽成天皇に版本を献上する前の慶長五年だけで、三十曲以上に及んでいる。これ 8 ・《隅田川》の二曲は整版本・古活字本ともに現存していない。になるが、最後に校正された《俊寛》
9 車屋謡本刊本考 ─鳥養道晣が作った謡本─
三 古活字車屋謡本の諸本
古活字車屋謡本と整版謡本は合計十四の伝本の中に合計八十七曲種所収されている(本稿末「【表2】車屋謡本刊本(系)所収曲一覧」参照)。本節ではまず、古活字本諸本を紹介し、各種の特徴を分析していく。
①天理大学附属天理図書館蔵古活字車屋謡本(以下、「天理活本」) 十一冊[書誌]袋綴。二番綴。後補雲母刷模様色替り表紙(二三・五糎×一八・〇糎)。表紙中央の長形題簽(一一・二糎×六・〇糎程度)に曲名を刻す。内題あり。半丁七行。一行十五字内外。版心に曲名の一字と丁付を刻す。各冊、表紙見返し・一丁目に天理大学附属図書館の蔵書印。小塩冊に「正山?」の蔵書印。松虫冊裏表紙見返しに「五金子」、柏崎裏見返しに「留十日か」、嵐山最終丁・裏見返しに墨書。[所収曲]※雲母模様の名称は『鴻山文庫本の研究 謡本の部』の光悦謡本表紙模様一覧を参照。〈閲覧済の分(六冊)〉海士・千手組(雲母模様(大蔦)入白灰色表紙。外題「海士/千手重衡」。墨付二十三丁)。鸕鷀羽・融組(雲母模様(籬の花)入白表紙。外題「鸕鷀羽/融」。
墨付十七丁)。松蟲・紅葉狩組(雲母模様(大蔦)入白表紙。外題「松むし/紅葉狩」。墨付十七丁)。小塩・率都婆小町組(表紙剥落。墨付二十一丁)。嵐山・清経組(雲母模様(松山満月)入原装白表紙。外題「■らし山・■経(■は剥落)」。墨付十八丁)。柏崎・通小町組(後補金銀箔散白茶表紙。外題「柏
崎/通小町」。墨付二十四丁)。
。(墨付十八丁)蕉・野宮組 町・組(墨付十七丁)。鸚鵡小岸東弁居士組(墨付十六丁)。芭慶船井筒・兼平組(墨付二十丁)。帝・女養郎花組(墨付十八丁)。皇老・ 10 〉(五冊)〈未見の分
②法政大学鴻山文庫蔵古活字車屋謡本(以下、「鴻山活本」) 十九冊[書誌]袋綴。一番綴。後補刷毛染紺表紙(二一・一×一八・〇)。九冊は表紙を補修する。一部の冊に左肩長形刷題簽が残り、書題簽の冊もあり。版式は天理活本と同じ。全冊本文一丁目に鴻山文庫の蔵書印。[所収曲]八嶋(紺表紙。題簽剥落。墨付十三丁)・三輪(紺表紙。左肩刷題簽。墨付十丁)・金札(紺表紙。左肩題簽に「金札」と墨書。墨付六丁)・杜若(紺表紙。左肩刷
題簽(大部分剥落)。墨付九丁)・安宅(紺表紙。題簽剥落。墨付十二丁)・井筒(紺表紙。題簽剥落。墨付九丁)・野宮(紺表紙。左肩刷題簽。墨付九丁)・葛城(紺
表紙。左肩刷題簽。墨付八丁)・夕顔(紺表紙。題簽剥落。墨付八丁)・昭君(後補表紙。題簽なし。墨付十丁)・皇帝(後補表紙。題簽なし。墨付七丁)・檜垣(後
補表紙。題簽なし。墨付八丁)・恒正(後補表紙。題簽なし。墨付八丁)・難波梅(後補表紙。題簽なし。墨付九丁)・行家(紺表紙。左肩題簽に「金札」と墨書。
墨付四丁)・遊行柳(紺表紙。左肩刷題簽(大部分剥落)。墨付十丁)・鸚鵡小町(後補表紙。左肩刷題簽。墨付十丁)・鉄輪(後補表紙。題簽なし。墨付七丁)
③上野学園大学日本音楽史研究所蔵古活字車屋謡本(以下、「上野古本」) 一冊[書誌]袋綴。後補雲母刷大蔦模様入白表紙(二三・五糎×一八・〇糎)。中央に長形題簽(一一・五糎×五・六糎)に「山婆
11 車屋謡本刊本考 ─鳥養道晣が作った謡本─
道成寺」と刻す。虫損大。版式は天理活本と同じ。本文末に上野学園大学の蔵書印。[所収曲]山婆・道成寺
三種は袋綴本であることは変わらないが、鴻山活本は一番綴本、他の二種が二番綴本である。表紙は、鴻山活本が紺表紙、天理活本は雲母刷模様入表紙に改装表紙が混在し、上野活本は天理活本と同種の表紙を用いている。なお、同じ二番綴であることも踏まえると、上野学園本は天理本の離れであろう。「新考(一)」には古活字本の伝本として、三都古典会本と京都美術クラブ本を紹介しているが、これらが現在の天理活本である(同誌にあがっている中尾松泉本(二番綴本
「三輪・槿」は現所在不明)。問題は鴻山活本の紺表紙と天理活本・上野活本の雲母模様刷表紙が原装であるか否かであるが、共に後補表紙である可能性が高い。天理活本の表紙は光悦謡本のそれと類似するが、光悦謡本の雲母刷模様と酷似した図柄となっているものの、それよりも模様が大ぶりであり、同版関係にあるわけではなく、車屋謡本の表紙が光悦謡本のそれを模したものと考えられる。また題簽に光悦流書体で曲名が刻されているが、その題簽は雲母刷模様を隠すように付している。表紙や題簽が古活字車屋謡本ために作られたものというより、様々な材料を寄せ集めて作った感が強い。一方、鴻山活本の紺表紙は一見原装のように見えるが、天理活本よりも本の高さがかなり低く、半紙本としては小ぶりであり、綴じ糸の位置を直した跡も見える。さらに表が指摘するように、本書の刷題簽は江戸初期刊観世流謡本中本と同版であるが(『鴻山文庫本の研究』)、紺表紙も同謡本群と酷似している。車屋謡本刊行時に同時代の観世流謡本の装
伝本の先後関係を考える上で有効であるが、天理活本の虫損が激しいために、十一冊中五冊が閲覧不可となっている み一覧」参照)、合計三十九曲のが収現存している。この重複曲は各曲所と重鴻山活本と天理活本本で複しており(「車屋謡本版 ・《野宮》の四曲のみが・《皇帝》・《鸚鵡小町》古活字本の所収曲は三種合わせて四十三曲であり、そのうち《井筒》 れる。 12 丁を流用したとは考えづらいので、原装から観世流謡本の表紙・題簽を利用するかたちで現装に改修されたと考えら
(現在、さらに閲覧可能冊が減少)。重複曲の四曲は、すべて閲覧不可の冊に含まれているので、今回は未見のままである。そのため、各種の先後関係は明確に把握しづらいが、版面や活字の状態を比べると、鴻山活本の方が天理活本より活字の摩滅が目立つ。各種がはじめからセットとして制作されたかは不明だが、天理古本の方が先印本であると考えておきたい。版式は半丁七行で、一行は単活字十五字分で組まれている。活字数が正確には把握できないが、頻繁に用いられる平仮名「の」の活字を例にとると、二十種以上はあると思われ、中には現存諸本の中で二、三回程度しか使用されていないものもある。連彫活字は単活字二字分、三字分のものがほとんどで、三字分に「存候へは」(A《安宅》
十丁表)、「ふしぎやな」(B《夕顔》三丁表)など四字・五字を刻すものが文字数の多い活字となる。その中で「のらすとも」(C《八島》七丁表)もあり、これが現存する古活字車屋謡本の中で、唯一の四字分連彫活字だと思われる(【写真1】)。この活字は《八島》七丁表四行目の行頭に載せられ、前行の末「縦名」から続けて「縦(たとえ)名のらすとも」と読むことで初めて意味を成す活字である。古活字本には、「ふしぎやな」のよ 【写真1】A《安宅》十丁表B《夕顔》三丁表C《八島》七丁表
13 車屋謡本刊本考 ─鳥養道晣が作った謡本─
うに謡曲内に頻出する語句だけでなく、その活字だけでは意味が想定しにくい連彫活字も散見される。鈴木広光は木活字が鋳造活字に比べ、必要になればすぐに制作できる分、「場」への依存度が高いことを指摘しているが(「古活字版の
タイポグラフィ」『國文学 文字のちから─写本・デザイン・かな・漢字・修復』(八月臨時増刊号、二〇〇七年十二月)、後『日本語活字印刷史』(名古屋大学出版会、
二〇一五年)所収)、「のらすとも」などは使い回された活字ではなく、その場で必要に応じて彫造されたものなのだろう。こうした活字がどれほどあるのかは、この本の制作環境・時期を考える上で有益な情報となるが、現段階では調査が不十分である。今後の課題としたい。古活字謡本の場合、版式の面で問題となるのは、文字部分よりも節部分である。楽譜の一種である謡本は、節を示すゴマ点だけでなく、その他の節記号、役名、役の変更を示す庵点などが文字の隣や間に刻されるので、他の和本よりも技術的困難が伴う。これらの処理がどのように行われているかは、必ずしも明確に把握されていない。例えば、光悦謡本では文字行間に節の活字の行が組まれ、そこにゴマ点・節記号や役名の活字が載せられ、帖装本の場合は庵点を手書きで書き加え、袋綴本の場合は文字行に刻されるかスタンプのように押されていると考えられているが、この手法がすべての古活字謡本で採用されているかは不明である。古活字車屋本では庵点についてのみ「「〽」印は下の文字と一緒に刻されているらしい」(『鴻山文庫本之研究 謡本の部』)と指摘されているが、節の行について言及はない。古活字車屋謡本の場合、光悦謡本とは異なる手法が採られていたと考えられる。その根拠は、上音よりも高い音で謡うことを示すシオリを示す記号である。この記号は「しほる」という平仮名を崩したかたちで表記するが、写本でも版本でも一つの謡本内で様々な崩し方で表記されるのが常であり、付される位置も各箇所まちまちである。古活字車屋謡本も同様であり、例えば《八島》《三輪》の全シオリ記号を比べてみると、いくつかのものは類似するが、すべて違う形であることがわかる(【写真2】)。これは全冊挙げても同じことであり、近似するものはあるにしろ、同一
つまり、匡郭・界をもつ古活字本の界や版心と同じように印刷されたと思われる。そう考えると、シオリ記号が整版 うに、文字行の間にはめ込まれているのではないだろうよの字行とは考え難いので、節のだけが細長い一つの活か。 それでは古活字車屋謡本の節・役名がどのように印刷されたのだろうか。節まで文字活字と一緒に刻されているこ になるので、別の方法であったと考えるのが自然であろう。 のものはない。もし、このシオリ記事が活字やスタンプで作られていたとしたら、ほぼ使い捨てであったということ 14 【写真2】
《八島》のシオリ記号
《三輪》のシオリ記号
15 車屋謡本刊本考 ─鳥養道晣が作った謡本─
本のようにすべて異なることの説明がつくし、技術的にも最も合理的な方法だと思われる。ただし、古活字版は必ずしも合理性を目指して作られている本ではない。シオリ活字を使い捨てのように彫造していた可能性もないわけではないが、本論では右の説を有力視しておきたい。なお、庵点は手書きでもなく、スタンプでもないので、やはり文字行の活字と一緒に刻されたと考えておく。
四 整版車屋謡本の諸本
次に、整版車屋謡本の諸本を紹介する。①法政大学鴻山文庫蔵整版車屋謡本茶色表紙一番綴本(以下、「鴻山茶本」) 二冊[書誌]袋綴。一番綴。二曲所収。後補装栗皮色表紙(二四・〇糎×一八・三糎)。左肩長形題簽剥落。本文料紙は楮紙。内題なり(各曲曲名)。半丁六行。版心に曲名の一字目と丁付を刻す。奥付なし。本文末に「沙弥道晣(花押)」の印を押捺。表紙見返しの裏などに「芦田藤十郎」などの墨書がある。各冊一丁目に鴻山文庫の蔵書印。[所収曲]三輪(墨付八丁)・八嶋(墨付十一丁)[備考]表紙裏貼りに、医学書の刊本『口訣集下』の反故紙が用いられている。延宝九年(一六八一)刊『医方口訣集』と同版であるが、この本は宝暦四年(一七五四)などにも再版されている。どの版であるかは不明。
紙が一体で綴じられているので、表紙・裏表紙は《芭蕉》のものであり、それを五番綴に改装したと考えられる。 《芭蕉》と裏表『鴻山文庫本の研究』が指摘するように、喉に綴穴の跡があるので、改装本であることが確実である。 [備考] ・弓八幡海士(墨付十一丁)・道成寺(墨付五丁)(墨付九丁)(墨付八丁)・小督・芭蕉(墨付九丁) [所収曲] )。末に道晣の印を押捺。一丁目に鴻山文庫の蔵書印。「海士」の版心の曲名表記は「蜑」(ただし、版式は他本と同一 (二四。後補横長題簽に曲名を墨書。本文料紙は楮紙。五糎)・四糎×一八・袋綴。五番綴。五曲所収。後補薄紅色表紙 [書誌] 16 一冊)「鴻山五番綴本」(以下、②法政大学鴻山文庫整版車屋謡本袋綴五番綴本
③法政大学鴻山文庫蔵整版車屋本紺表紙一番綴本(以下、「鴻山紺本」) 一冊[書誌]袋綴。一番綴。一曲所収。藍色表紙(二三・四糎×一八・二糎)。左肩長形題簽剥落。裏表紙もほぼ剥落。本文料紙は楮紙。版式は他本と同一。末に道晣の印を押捺。一丁目に鴻山文庫の蔵書印。[所収曲]通小町(墨付七丁)[備考]『鴻山文庫の研究』は本書を原装としているが、装丁の状態が悪く判断しづらい。伝本の中では、若干本自体が小さ
17 車屋謡本刊本考 ─鳥養道晣が作った謡本─
く、後年に装丁し直したという印象を受ける。
④法政大学鴻山文庫蔵整版車屋謡本包背装五番綴本(以下、「鴻山包背装本」) 七冊[書誌]包背装。五番綴。三十五曲所収。左肩大型題簽に曲名を墨書。各冊表紙・題簽の大きさ・色は各冊異なる。右肩「奴留」という張り紙あり。第一葉裏に曲名を墨書。本文料紙は楮紙。版式は他本と同一。末に道晣の印を押捺。各冊一丁目に鴻山文庫の蔵書印。[曲名]1 茶色表紙(二四・八糎×一八・七糎)。灰色題簽。所収曲「当麻(墨付九丁)・田村(墨付十丁)・三輪(墨付八丁)・鵺(墨付九 丁)・百萬(墨付八丁)」2 茶色表紙(二五・〇糎×一八・七糎)。灰色題簽。所収曲「西行桜(墨付七丁)・軒端梅(墨付七丁)・二人静(墨付八丁)・采女(墨付九丁)・蟻通(墨付八丁)」。3 茶色表紙(二五・三糎×一八・七糎)。灰色題簽。所収曲「葛城(墨付八丁)・兼平(墨付十丁)・黒塚(墨付八丁)・夕顔(墨付七
丁)・小督(墨付九丁)」。4 焦茶色表紙(二五・二糎×一八・七糎)。白茶色題簽。所収曲「鸕鷀羽(墨付七丁)・呉服(墨付八丁)・金札(墨付六丁)・姨捨(墨付九丁)・通小町(墨付七丁)」。5 焦茶色表紙(二五・〇糎×一八・七糎)。白茶色題簽。所収曲「邯鄲(墨付七丁)・忠度(墨付九丁)・楊貴妃(墨付八丁)・山婆(墨付十一丁)・率都婆小町(墨付十丁)」。
18 八墨付七丁)・道盛(墨付・丁)松朝長(墨付十一丁)・烏(老6×焦茶色表紙(二五・二糎一曲「八・七糎)。灰色題簽。所収頭
(墨付八丁)・誓願寺(墨付九丁)」。7 焦茶色表紙(二四・八糎×一八・七糎)。朱色題簽。所収曲「三井寺(墨付十丁)・松風村雨(墨付十二丁)・芭蕉(墨付九
丁)・女郎花(墨付九丁)・錦木(墨付十一丁)」。[備考]岩国吉川家旧蔵本で、『車屋本之研究』では「吉川整版本乙」とする。『鴻山文庫本の研究』によると、本を解体すると別々の中綴の穴が残っていることがわかるらしい。本来は一番綴の本を五番綴本に改装したと考えられる。同じく『鴻山文庫本の研究』は、書題簽の文字は道晣の直筆で、7の朱色題簽のみ後人の追補とし、第一丁裏の曲名も道晣の自筆とする。
⑤法政大学鴻山文庫蔵整版車屋謡本二番綴本(以下、「鴻山二番綴本」) 三十五冊[書誌]袋綴。二番綴(一冊のみ三番綴)。七十一曲所収。後補藍色表紙(二五・二糎×一七・八糎)。左肩金泥入鳥の子紙大型書題簽に所収曲名を墨書。表紙右肩に「利」の張り紙。本本料紙は厚手の楮紙。版式は他本と同一。末に道晣の印を押捺。各冊末に鴻山文庫の蔵書印。[所収曲]相生(墨付九丁)・邯鄲(墨付七丁)。難波梅(墨付九丁)・弓八幡(墨付八丁)。老松(墨付七丁)・養老(墨付九丁)。白楽天(墨付八丁)・矢卓鴨
(墨付八丁)。真盛(墨付十一丁)・忠度(墨付九丁)。道盛(墨付八丁)・朝長(墨付十一丁)。浮舟(墨付七丁)・江口(墨付九丁)。杜若(墨付七丁)・
19 車屋謡本刊本考 ─鳥養道晣が作った謡本─
自然居士(墨付十丁)。楊貴妃(墨付八丁)・率都婆小町(墨付十丁)。黒塚(墨付八丁)・田村(墨付十丁)。放生河(墨付八丁)・烏頭(墨付八
丁)・葵上(墨付六丁)。金札(墨付六丁)・八嶋(墨付十一丁)。芭蕉(墨付九丁)・采女(墨付九丁)。井筒(墨付七丁)・野宮(墨付八丁)。籠太鼓(墨
付五丁)・呉服(墨付八丁)。二人静(墨付八丁)・湯屋(墨付十一丁)。松風村雨(墨付十二丁)・柏崎(墨付十二丁)。軒端梅(墨付七丁)・定家(墨付
十丁)。融(墨付九丁)・関寺小町(墨付九丁)。羽衣(墨付七丁)・葛城(墨付八丁)。百萬(墨付八丁)・源氏供養(墨付九丁)。山婆(墨付十一丁)・西行桜(墨付七丁)。女郎花(墨付九丁)・道成寺(墨付五丁)。三輪(墨付八丁)・鸕鷀羽(墨付七丁)。龍田(墨付九丁)・海士(墨付十一丁)。兼平
(墨付十丁)・千寿(墨付九丁)。小塩(墨付八丁)・姨捨(墨付九丁)。玉鬘(墨付七丁)・三井寺(墨付十丁)。通小町(墨付七丁)・夕顔(墨付七丁)。小督(墨付九丁)・蟻通(墨付八丁)。船橋(墨付七丁)・錦木(墨付十一丁)。藤渡(墨付八丁)・鵺(墨付九丁)。誓願寺(墨付九丁)・天鼓(墨付十丁)。鵜飼(墨付八丁)・昭君(墨付八丁)。春日龍神(墨付八丁)・当麻(墨付九丁)。[備考]吉川家旧蔵本で『車屋本之研究』では「吉川整版本甲」とする。
⑥天理大学附属天理図書館蔵整版車屋謡本(以下、「天理整版本」) 十二冊[書誌]袋綴。三番綴。三十六曲所収。後補栗皮色表紙(二四・七糎×一八・〇糎)。左肩横長筆題簽(八・五糎×十一・二糎)本本料紙は厚手の楮紙。版式は他本と同一。末に道晣の印を押捺。所蔵先資料名「謡本」(九一一・六イ一二三)。[所収曲](括弧内は外題の表記)湯屋・女郎花(女郎華)・二人静。海士(海人)・鵺・西行桜。相生・呉服・難波梅。白楽天・金札・春日龍神。采女(うねめ)・姨捨・源氏供養。龍田・養老・放生川。浮舟(うき舟)・小督・芭蕉。三輪・葛城(かつらき)・蟻通。羽
喉に改装の跡があるので、後に三番綴にされた本だと考えられる。 [備考] 20 衣・当麻・自然居士(題簽剥落)。八嶋・田村・真盛。江口・夕顔(ゆふかほ)・楊貴妃。天鼓・昭君・邯鄲。
⑦九州大学中央図書館蔵整版車屋謡本A(以下、「九大整版A本」) 七冊[書誌]袋綴。二番綴(一冊三番綴)。十五曲所収(一曲写本が同綴)。後補栗皮色表紙(二四・〇糎×一八・二)、但し弓八幡組のみ表紙破損。題簽剥落、鵜飼組のみ朱色書題簽(一五・五糎×三・〇糎)に曲名を墨書。版式は他本と同一。末に道晣の印を押捺。全曲に朱で直シあり。また本文の訂正もあり。全冊一丁目に「九州帝国大学図書館」の二種の蔵書印。一種の印に「昭和
10・ 11・ 20」の日付がある。所蔵先資料名「喜多流謡本」(国文/
28F/
喉に改修のあとが見える。もともとは一番綴で、その表紙を現在の二番綴本に再利用していると考えられる。 [備考] 弓八幡・八嶋。三輪・松風村雨。鵜飼・率都婆小町。融・春栄(写本)・夕顔。葵上・柏崎。天鼓・江口。黒塚・野宮。 [所収曲] 21)。
⑧九州大学中央図書館蔵整版車屋謡本B(以下、「九大整版B本」) 一冊[書誌]袋綴。二番綴。後補金泥草花模様入紺表紙(二四・〇糎×一八・五糎)。題簽なし。本文料紙は楮紙。版式は他本と同
21 車屋謡本刊本考 ─鳥養道晣が作った謡本─
一。末に道晣の印を押捺。曲冒頭と末に遊紙一丁ずつあり。「自然居士」冒頭遊紙に蔵書印(前掲書と同一)あり。所蔵先資料名「自然居士」(国文/
自然居士・鵺 [所収曲] 28F/8)。
⑨上野学園大学日本音楽史研究所蔵整版車屋謡本(以下、「上野整版本」) 一冊[書誌]袋綴。二番綴。後補栗皮色表紙(二三・八糎×一八・〇糎)。題簽なし。本文料紙は厚手の楮紙。二曲の間に遊紙(薄手の楮紙)あり。版式は他本と同一。末に道晣の印を押捺。所蔵先書名「整版本車屋謡本「老松・百萬」」。[所収曲]老松・百萬[備考]①⑥⑦と表紙は似るが、すべて異なる。
⑩龍谷大学図書館蔵整版混綴車屋謡本(以下、「龍大整版本」) 八十一冊(内、版本を含む冊は十九冊)[書誌]袋綴。三番綴。写本一九二曲、版本五十一曲所収。菱繋雲形模様磨出紺表紙(二四・二糎×一八・七糎)。中央上部金箔帯模様入長題簽に所収曲名を墨書。表紙・裏表紙見返しに銀箔に様々な草花模様を型押する。版式は他本と同一。
中で後年に書写されたものと親和性があり、編纂には新蔵が関与した可能性が高いこととが指摘されている。 本「い。なし複重と写考(は曲収所じ。同は丁新七)のは、の本写本謡屋車本」写本学大谷龍は、で装冊写と冊本版本 [備考] 。(写本)・●小塩・雲林院(写本)婆・▲姨捨。▲定家・▲楊貴妃・▲千寿。鼓瀧 (写本)。●通盛・敦盛弓八幡・●金札・●矢卓鴨。●放生河・白鬚・遊行柳(写本)(写本)・生田敦盛(写本)。融・山 鬘・▲浮舟。蟻通・女郎花・●昭君。▲湯屋・松風村雨・▲江口。野宮・▲采女・▲芭蕉。▲朝長・▲忠度・▲真盛。 ▲三輪。関寺小町・▲率都婆小町・▲通小町。二人静・▲籠太鼓・▲杜若。藤渡・▲烏頭・▲船橋。源氏供養・▲玉 天鼓・▲錦木・▲鵺。鵜飼・●春日龍神・▲呉服。邯鄲・西行桜・●葛城。柏崎・三井寺・●夕顔。鸕鷀羽・当麻・ (版本冊・版本を含む冊のみ。●は道晣署名印有、▲は道晣署名墨書有)[所収曲] 12811車屋本三番綴」)を押捺。所蔵先書名「謡曲集(〇二一─五一五─八一)昭和。 223878/ (九曲のみ道晣の印を押捺、他の墨書か無印。表紙右肩に図書ラベルを貼り、本文一丁目に受け入れ日を示す印
⑪法政大学能楽研究所蔵整版車屋謡本(以下、「能研整版本」) 一冊[書誌]大和綴。一番綴。後補栗皮色表紙(二五・〇糎×一八・六糎)。外題なし。版式は他本と同一。末に道晣の印を押捺。ただし墨で消され、所蔵者らしい花押が墨書されている。表紙・裏表紙・表紙見返し・裏表紙見返しに「市村」などの墨書が多数ある。数丁に版木の跡らしいものが残る。一丁目に能楽研究所の蔵書印。所蔵先資料名「整版車屋本「三井寺」」(五七〇二)。
23 車屋謡本刊本考 ─鳥養道晣が作った謡本─関係を把握するのは至難であるが、整版本の刊行を考える上で龍大整版本と鴻山包背装本が重要となる。 屋謡本刊行時に表紙があったのかも疑問に思えてしまう(その可能性は低いだろうが)。このように、装丁から各本の 改装されたものが多いが、もともとは一番綴本として刊行されたらしい。これだけ後補の表紙が多いと、そもそも車 以上のように、整版車屋謡本は十一種現存が確認できるが、本の大きさや装丁がまちまちで、後年に現在の装丁に るが、題簽の跡がないのでもともと外題がなかったらしい。 もともと袋綴だった本が破損したためか、後人が大和綴に改装している。表紙は袋綴本のときのものを再利用してい [備考] 三井寺 [所収曲]
龍大整版本は本願寺伝来であると信じられている。車屋謡本と本願寺とは緊密な関係にあり、龍谷大学図書館にはこの謡本以外にも古歌謡集・小謡色紙が所蔵されているだけでなく、本願寺末の願泉寺旧蔵曄道博士所蔵本(現所在不明)、本願寺坊官・下間少進旧蔵本(現能楽研究所蔵)も存在する。表の研究にもたびたび指摘されているように、本願寺は車屋謡本が集積する場の一つであった。また、鴻山包背装本は岩国藩吉川家旧蔵本である。現存の装丁は改装されたものだが、三種の色紙が用いられている書題簽と表紙見返しに書 【写真3】鴻山包背装本の題簽
る山曲が「』究研の本庫文鴻っは『ていつに者後い。高によてのいてじ混も丁い強のは、感印後や丁だんじにの墨 が見られる。すなわち、龍大整版本のほとんどの曲と鴻山包背装本半数ほどの曲は、他本に対して二ミリほど版高が 一つは版面である。両本は他本に比べて版面が鮮明であり、先印である可能性が指摘されているが、版高にも類似 鴻山包背装本との二つの類似点に注目したい。 の関係だけでは明らかにできない。これは今後の課題にしておきたいが、本稿では整版本内に見られる龍大整版本と 者に移ったケース、車屋謡本の書写・制作活動が本願寺で行われたケースなど複数の経路が想定できるが、謡本諸本 い。鳥養家の資料の大半が本願寺に移り、その後その一部が吉川家に移ったケース、鳥養家からそれぞれの資料が両 携していたことなどを指摘し、鳥養家・本願寺・吉川家三者の関係を様々に推測しているが、判然としないことが多 に本下響影の本小川吉が写あの本大龍は、」七)考(新「連るはこ寺願本らか代時山石家川吉ため含を家利毛と、と な関係があった。 整版本のうち鴻山二番綴本も吉川家伝来の本である。表の研究が指摘するように、吉川家も車屋謡本との間にも密接 本川」)や大吉なけに物人な尉善原杉く、でだてたいてし来伝に家川称「宛るた理通蔵、館書図理天二附学大属天(本番十二百冊四十 つの場の一たであっか集積本本謡屋車も家同は、のたれでら吉ある。が」)小川吉(「本沢手るあで晶結の集収本謡の晣道 たということを考えると、道晣周辺で改装された可能性が高い。この道晣の痕跡が色濃く残る版本が吉川家に所蔵さ のものであり、それを版本に利用した可能性もあるが、こうした装丁の〝部品〟がある場で、現装の形にまとめられ 24 、道晣の手跡だと考えられている。題簽・表紙は本来写本】)写真3(【かれている目録は鳥養流の書体で書かれており
(ママ)」と指摘するように、墨つきの印象が一定しておらず、版高も他本とほとんど差がない曲もあるので、すべての曲のすべての丁がこの特徴を有しているわけではない。ただし、同じ鴻山文庫に所蔵されている鴻山二番綴本所収
25 車屋謡本刊本考 ─鳥養道晣が作った謡本─
の同曲を直接比較すると、明らかに版高が異なる(【写真4・5】)。こうした差異を踏まえると、調査当初は龍大整版本・鴻山包背装本が初版であり、他本はそれを被せ彫りした覆刻本である可能性も考えた。ただし、他本の版面に見られる版木の欠損部分の一部が龍大整版本・鴻山包背装本にも見られるので、版高の高低差は紙の伸縮など他の要因で生じたものだと想像される。ただし、両本は版面が鮮明であり、欠損部分が少ないので、他本より先行して印刷されたのは確実だろう。なお、この特徴は鴻山五番綴本(伝来は不明)にも見られるので、この本も先印グループに属すると考えられる。もう一つは曲末に押捺されている道晣の署名印である。『鴻山文庫本の研究』が述べるように、この印は甲種・乙種の二種類ある(【写真6】)。そのほとんどの伝本には乙種印のみが用いられているが (注7)、龍大整版本・鴻山包背装本は
【写真4】鴻山包背装本《西行桜》
【写真5】鴻山二番綴本《西行桜》
次のようになっている 26 龍大整版本 甲種…《夕顔》
乙種…《金札》《矢卓鴨》《葛城》《昭君》《春日龍神》《放生河》《通盛》《小塩》
無印…十九曲(前掲⑩参照)
墨書…二十三曲(前掲⑩参照)
鴻山包背装本 甲種…三十曲(前掲④参照)
乙種…《金札》《通盛》《松風村雨》《三輪》《二人静》つまり、甲種印は鴻山包背装本所収曲に多く用いられているので、この種が形成される過程で一時期使用されていた印だと想像される。その印が、一曲のみではあるが龍大整版本の《夕顔》にも用いられているのである。この点からも両本に何らかの関係があったことが窺える。右のように、龍大整版本所収曲のほとんどが、無印かその印を模して(もしくは写本と同じように)墨書している。通説通り整版本が道晣(もしくは鳥養家)で制作されたとしたら、この不完全な状態の本が多数存在することは、龍大整版本が道晣自身の手元に所持されていた本であることを意味しているように思える。また、鴻山包背装本は表紙・
【写真6】
甲種
(鴻山包背装本《蟻通》)
乙種
(鴻山包背装本《通盛》)
27 車屋謡本刊本考 ─鳥養道晣が作った謡本─
題簽に道晣が所持していたかのような痕跡が残る。このような特徴を有し、なおかつ先印本と目される両本に甲種印が見られるということは、この印は整版本刊行初期のごく限られた時期に使用されていた蓋然性が高い。整版本はそれほど多くの部数が刊行されたとは考え難いが、その伝本すべての先後関係を明らかにすることは難しい。また、どれだけの版を重ね、どれくらいの期間に渡って刊行されたかを解明することも困難である。ただし、龍大整版本・鴻山包背装本と鴻山五番綴本は先印で、ほぼ同時期に刷られ、それよりも版面が劣化した印象を受ける鴻山二番綴本・天理整版本などは、後年に先印本とは別の環境で刊行されたのではないだろうか。さらに鴻山二番綴本は現存する整版本全曲所収しているので、この本が刊行された整版本をすべて含む〈完成形〉を示している可能性もあるだろう )8
(注。
五 古活字本と整版本との関係
前述のとおり、慶長六年(一六〇一)に車屋謡本三十番が後陽成天皇へ進上された。これ以降にも、道晣は謡本刊行準備を続けていたが、慶長七年八月から十月の間に道晣が死去した可能性が高い。稿者は天皇への献上前までに四十~五十番、道晣の死までに七十番程度の車屋謡本が刊行されていた(もしくは刊行準備が整っていた)と推測している。先行研究は、この天皇献上本は整版本であり、古活字本はそれよりかなり後年に刊行されたと断じているが、その通説を再度確認してみたい。整版本と古活字本の先後関係については、古くから議論があり、まず川瀬一馬が「一般の活字版と整版との関係から推して、(何れにしても両者の刊行の時差は少いであらうが)、まづ活字版が出版せられ、次いで又整版として重刊せられたものと考えてよからう」(『日本書誌学之研究下』大日本雄辯會講談社、一九四三年)と、和本における古活字本と整版本の一