芥川龍之介﹁英雄の器﹂と項羽︵堀︶一 一
明治四十三年︵一九一〇︶二月十日発行の東京府立第三中学校﹁学
友会雑誌﹂第十五号には、在学した芥川の﹁木曾義仲論﹂が載る。ま
さに若き芥川龍之介の文章力はもとより、その学力、知力の秀逸さを
も物語る文章で、﹃平家物語﹄﹃源平盛衰記﹄などの資料に基づきつつ、
義仲を﹁革命の健児中の革命の健児﹂として高く評価し、その﹁野性
の児﹂の生き方に深く共感共鳴している。義仲は﹁二 革命軍﹂の中
に、﹁将門、将を出すと云へるが如く、我木曾義仲も亦、将門の出な
りき。﹂と登場し、父義賢の死後、木曾の中原兼遠に撫育される生い
立ちを記しては、﹁時に彼は年僅に二歳、彼のローマンチツクなる生
涯は、既に是に兆せし也。﹂と紹介する。同工異曲の言い回しは義仲
の死にいたる﹁三 最後﹂の中に、﹁然り、彼は成功と共に失敗を得
たり。彼が粟津の敗死は既に彼が、懸軍長駆、白旗をひるがへして洛
陽に入れるの日に兆したり。﹂とも見えているが、それはそれとして 興味深いのは、﹁義仲論﹂の文中、表現上、漢楚興亡に名高い項羽を
とらえた箇所の認められることである。
最初の例は、﹁一 平氏政府﹂の終わりで、源三位頼政を捉えて、
﹁彼は、ルーテルたらざるもヨハネスフツス也。項羽 00たらざるも陳勝
呉広也。﹂と例える中に見える。頼政の﹁革命の風雲を動かし﹂た歴
史的な役割は、ルーテルや項羽のそれには当たらないものの、その端
緒を開く貴重な存在である。これは頼政に対する評価であるが、第二
の例は義仲に直に関わるものであるから注意を要する。先に引用した
﹁二 革命軍﹂の文のあと、義仲を育んだ木曾の土地柄をいうのにつ
づいて、﹁然らば彼が家庭は如何。﹂と転ずると、﹁麻中の蓬をして直
からしむるものは、蓬辺の麻 1也。英雄の児をして英雄の児たらしむる
ものは其家庭也。﹂と明言して、
是ハミルカルありて始めてハンニバルあり、項梁ありて始めて項
羽あり、信秀ありて始めて信長あるの所以、鄭家の奴学ばずして、
詩を歌ふ 2の所以にあらずや。 早稲田大学大学院教育学研究科紀要 第三十一号 二○二一年三月
芥川龍之介「英雄の器」と項羽
堀 誠
芥川龍之介﹁英雄の器﹂と項羽︵堀︶二
という。当然、義仲における中三権頭兼遠︵中原兼遠︶なる乳人にし
て彼を撫育する達識な武人の存在を説いたもので、さらには、この義
仲における兼遠を﹁より朴素なる張良﹂、ライバル頼朝における北条
四郎時政を﹁より老猾なる范増﹂と対比的に捉えているところも面白
い。確かに父なき義仲と項羽とを戦陣に在らしめたのは、兼遠であり
項梁であったことは、すでに見たように異論のないところである。次
いで第三の例は、﹁三 最後﹂において義仲と兼平の死を捉えるとと
もに、﹁其燃ゆるが如き血性と、烈々たる青雲の念とを抱い﹂た義仲
が﹁多くの短所と弱点とを有するに関らず、吾人は唯其愛すべく、敬
すべく、慕ふべく、仰ぐべき、真個の英雄児たるに愧ぢざるを想見せ
ずンばあらず。﹂と評しては、南宋の岳飛 3、西楚の項羽、明の王叔英 4
の死を列記する。かくて彼らの死を義仲に重ね、﹁彼豈之に恥ぢむや﹂
以下、義仲の火の如き赤誠を抱いたままの死を意味づける。
﹁義仲論﹂に現れる項羽を考えてみるとき、芥川はやはり本邦の風
雲児木曾義仲の中に、中国の西楚の覇王、項羽に相通ずる相似面を看
ていたに違いない。相似た環境や境涯は、誰もが共有できるものでは
ない。項羽もまた季父項梁に養育され、反秦の動きの中で項氏の声望
を担って勇躍した。しかるに劉邦との天下取りには万事休して、烏江
に自刎して果てたのが三十一歳。周知の通り、項羽には﹁虞や虞や若
を奈何せん﹂と苦悶を詠出した虞美人のあったのに対して、義仲にも
巴なる女武者のあったことも知られる。巴は名残の戦を目にものみせ
て戦場を離脱する一方、かくて今井四郎兼平と主従二騎となって自害 を遂げるべく粟津の松原へ愛馬を駆ける義仲。ころは正月二十一日の入相ばかりの時候の悪条件も重なって、薄氷の張った深田に討ち入
れ、鬼葦毛も﹁あふれどもあふれども、打てども打てどもはたらかず﹂
という瞬間に、ふと兼平の姿を求めて﹁ふりあふ﹂いだ隙に内兜を射
られて不覚の死を遂げた。﹁討死﹂という弓矢取りの﹁ながき疵﹂を
被った義仲もまた三十一歳の境涯であった。義仲と項羽はまさに相似
形の人生を負った武人であったことを確認したい。
二
芥川は、大正七年︵一九一八︶一月一日発行の雑誌﹃人文﹄第三巻
第一号に﹁英雄の器﹂と題する短篇を発表している 5。
﹁何しろ項羽と云ふ男は、英雄の器ぢゃないですな。﹂
漢の大将呂馬通は、ただでさえ長い顔を、一層長くしながら、疎
らな髭を撫でて、こう云った。︵棒線筆者。以下同様。︶
この﹁漢の大将呂馬通﹂の発言にはじまり、彼の項羽に対する人
物評を軸として、最後に﹁だから、英雄の器だったのさ。﹂と半ば独
り言のように答える劉邦。人物評の部分には、烏江での自刃、天命
の主張などをめぐって項羽の器が問われる。芥川は、この敗将項羽に
人間的な興味を覚え、その器量と人生に大いなる魅力を感じとってい
たか。この作品の創作と素材を考えるに、漢楚の興亡を記す正史﹃史記﹄
﹁項羽本紀﹂には﹁呂馬童 ゝ﹂と記して、﹁呂馬通 ゝ﹂の名は現れない。そ
芥川龍之介﹁英雄の器﹂と項羽︵堀︶三 の﹃史記﹄の表記を確かめるに、烏江で最期の戦に臨んだ項羽は、
乃令騎皆下馬步行、持短兵接戦。独籍所殺漢軍数百人。項王身亦
被十余創。︵乃ち騎をして皆馬より下りて步行し、短兵を持ちて
接戦せしむ。独り籍の殺す所の漢軍は数百人。項王身 みづからも亦た十
余創を被る。︶
白兵戦を命じて自ら漢軍の兵数百人を殺害し、その身に十余創を被る
中、敵軍に旧知の姿を認めて声をかける。
顧見漢騎司馬呂馬童曰、﹁若非吾故人乎。﹂馬童面之、指王翳曰、
﹁此項王也。﹂項王乃曰、﹁吾聞漢購我頭千金、邑万戶。吾為若德。﹂
乃自刎而死。︵顧みて漢の騎司馬の呂馬童を見て曰く、﹁若 なんぢ 吾が 故人に非ずや﹂と。馬童 之に面 そむき、王翳に指さして曰く、﹁此 れ項王なり﹂と。項王乃ち曰く、﹁吾聞くならく漢 我が頭 かうべを千 金、邑万戶に購ふと。吾 若が為に德せしめん﹂と。乃ち自刎し
て死す。︶
﹁若 吾が故人に非ずや﹂と声をかけた項王。千金と邑万戸の懸賞
金のかかった自らの首級を恵んでやると言い放った相手こそ、﹁漢の
騎司馬﹂の﹁呂馬童﹂であり、職位も﹁漢の大将﹂と記さない。ここ
に項王は自刎して果てるが、その間、呂馬童は顔を背けて王翳に﹁此
れ項王なり﹂と指さして教える。かくて王翳は項王の首級を取り、郎
中騎の楊喜、騎司馬の呂馬童、郎中の呂勝、楊武がその一体︵四肢の
一︶を得て、論功行賞で呂馬童は中水侯に、王翳は杜衍侯に、楊喜は
赤泉侯に、楊武が吳防侯に、呂勝が涅陽侯に封ぜられたと記す。因み に、編年体の宋の司馬光の撰した﹃資治通鑑﹄第十一卷﹁漢紀三﹂﹁太
祖高皇帝中﹂には﹃史記﹄に同じく﹁漢騎司馬呂馬童﹂と記し、元の
曽先之の撰した﹃十八史略﹄巻二﹁西漢﹂には項王の自刎を記すのみ
である。
では、﹁漢の大将呂馬通﹂の表記は何に依拠したものか。それは﹁英
雄の器﹂を叙述する芥川自身の読書に由来する。その表記はどこに所
在するか。項羽の最期を伝える史的な記載は、﹃史記﹄等の史伝の記
事を離れて、語り物の世界にも恰好の話材として存在する。いわゆる
﹁説 シユオ話 ホア﹂︵講釈︶の﹁講史﹂︵歴史講談︶の世界でも敷衍せられ、本邦
においてはそれらの演義小説書を和読した通俗軍談物が登場する。江
戸の元禄八年︵一六九五︶には、明の大業堂﹃重刻西漢通俗演義﹄あ
るいは金閶書業堂﹃新刻剣嘯閣批評西漢演義伝﹄という中国通俗小説
書に拠って撰述されたと考えられる﹃通俗漢楚軍談﹄が世に問われ、
人気を博したことが知られる 6。全十五巻の内、七巻までが夢梅軒章峯、
八卷以降が称好軒徽庵の訳。この﹃通俗漢楚軍談﹄巻十二﹁項羽烏江 ニ
自 ミツカラ刎 クビハヌ﹂において、先に引用した﹃史記﹄の白兵戦に及んだ項王が
漢の呂馬道に声をかける場面は次のように叙述される。
今ハ叶ジ、是マデナリト思ヒ定テ、後ヲ顧レバ漢ノ大将軍呂馬通、
戟ヲ挙テ向ヒ来ル、項王声ヲ揚テ、汝ハ吾故人ニアラズヤト云ニ、
其声恰モ石山ノ崩レ、鳴神ノ落カゝルガ如ナレバ、呂馬通馬ノ上
ニ畏スクンデ動コトヲ得ズ、首ヲ仰デ正シク視コト能ズ、震ヒ声
ニテ申ケルハ、臣ハ誠ニ大王ノ故人ナリ、大王何事ヲ付嘱セント
芥川龍之介﹁英雄の器﹂と項羽︵堀︶四 カ欲シ玉フ、項王ノ曰、我キク 漢王三軍ニ触テ、若 モシ項羽ガ首ヲ
取得タル者ニハ、千金ヲ与テ万戸侯ニ封ゼント云シトカヤ、我モ
ト汝ト故旧ノ好アレバ、今コノ首ヲ汝ニ与ルゾ、早ク漢王ニ上テ、
万戸侯ニ封ゼラレ、千金ノ恩賞ヲ受ヨト云アヘズ、了ニ剣ヲ援 ヌイテ 自ラ刎 クビハネテ失 ウセニケリ、
かくて首をくれてやると言い放って自刎して果てるクライマックス
を迎えるが、ここに﹁漢の大将軍﹂として登場する人物名にこそ﹁呂
馬通﹂の表記を認める。もちろん﹃西漢演義伝﹄でも巻七﹁楚覇王烏
江自刎﹂に、
忽於衆漢将中見大将呂馬通曰、﹁爾非吾故人乎。﹂馬通近前側視、
不敢正面。恐被短兵所傷。乃言曰、﹁臣実大王故人、不知我王有
何相嘱。﹂王曰、﹁吾聞漢購我頭千金賞、万戶侯。吾与爾旧有恩徳。﹂
遂拔剣。︵忽ち衆漢将の中に大将の呂馬通を見て曰く、﹁爾 吾が 故人に非ずや﹂と。馬通近づき前 すすみて側視し、敢へて正面せず。
短兵を被りて傷つけらるるを恐る。乃ち言ひて曰く、﹁臣実に大
王の故人なり、知らず我が王何を相嘱するかを﹂と。王曰く、﹁吾
聞けり漢 我が頭を千金の賞、万戶侯に購ふと。吾 爾の旧く恩
徳有るに与へん﹂と。遂に剣を抜く。︶
と﹁大将呂馬通﹂の字句が確認できる。この日中の文献の比照によっ
て、﹃通俗漢楚軍談﹄の訓読ならざる意訳を加味した和読の文体の叙
述の方法も明らかになるが、この﹁呂馬通﹂の表記に関して贅言す
れば、﹃西漢通俗演義﹄や﹃西漢演義伝﹄の成立に先んじて、元の至 治年間︵一三二一~一三二三︶に刊行された﹁全相平話﹂五種︵国立公文書館内閣文庫蔵︶の中の﹃前漢書続集﹄︵﹃呂后斬韓信﹄とも称さ
れる︶にもこの表記が確認される。﹁全相平話﹂は上図・下文の体裁
をもち、往時の話芸の様相を留めるテキストであるが、﹃前漢書続集﹄
は前漢時代の歴史を語った平 かたりもの話で、書名に﹁続集﹂と明示するからに
は前置する﹁正集﹂が存在したにちがいない。しかし、これは現存せ
ず、﹁続集﹂は冒頭、
昔大漢五年十一月某日、項王自刎而死、年三十一歳。︵昔 大漢
五年十一月某日、項王自刎して死す、年三十一歳。︶
と始まり、項王の首を持った五人が漢王劉邦に謁見すれば、﹁誰か吾
が弟を殺せしか﹂と哭して問い、王医 翳らが﹁臣等の殺す所に非ず、項
王自刎して死せり。﹂と奏すると、漢王は五侯に封ずる。
時項王既死、王医 翳等五人見漢王、将項王頭各争功、言已誅項王。
漢王親視項王首、哭曰、﹁誰殺吾弟?﹂漢王見五侯功不定、故如
此哭之。王医等曰、﹁非臣等所殺、項王自刎而死。﹂漢王封五侯。
呂馬通中水侯、王医射行侯、楊喜赤泉侯、楊武呉防侯、呂勝混陽
侯。漢王既封五侯、漢王伝令於衆軍曰、﹁若得項王家属、無得駆
虜殺害、与吾家属無異矣。﹂︵時に項王既に死し、王医 翳等五人 漢 王に見へ、項王の頭を将って各 おのおの功を争ひ、已に項王を誅すと 言ふ。漢王親 みづから項王の首を視て、哭して曰く、﹁誰か吾が弟を殺 す﹂と。漢王 五侯の功定まらざるを見て、故に此くの如く之を
哭す。王医等曰く、﹁臣等の殺す所に非ず、項王自刎して死す﹂と。
芥川龍之介﹁英雄の器﹂と項羽︵堀︶五 漢王 五侯に封ず。呂馬通は中水侯、王医は射行侯、楊喜は赤泉
侯、楊武は呉防侯、呂勝は混陽侯なり。漢王既に五侯に封じ、漢
王 衆軍に伝令して曰く、﹁若し項王の家属を得ば、駆虜殺害す
るを得る無く、吾が家属と異なる無かれ﹂と。︶
かくて﹁中水侯﹂に封ぜられたのが﹁呂馬通﹂であった。﹁呂馬通﹂
の表記が﹃通俗漢楚軍談﹄の基づく明の通俗小説書に先んじて﹃前漢
書続集﹄にも用例を確認できる事実によれば、いわゆる﹁全相平話﹂
を含めた講史小説の類においては、﹁童﹂と音が通じる﹁通﹂字に転
じて﹁呂馬通﹂の呼称が一般的になったと考えられる。芥川が﹁英雄
の器﹂の創作に際して、その漢楚興亡史の下敷きとした所伝は、こう
した中国の講史小説に基づいた江戸以来の定評ある﹃通俗漢楚軍談﹄
の読書に依ると推測することができる。これは﹁呂馬通﹂の職位を
伴った人名表記の一致だけに依るのではなく、﹁英雄の器﹂の記載内
容からも確認がなし得ることを前もって指摘しておきたい 7。
三
しからば、芥川は﹃通俗漢楚軍談﹄のいかなるテキストを読んだ
か。﹃通俗漢楚軍談﹄は、明治期に入っても、同十五年︵一八八二︶
に松川半山画の和装本﹃飜刻通俗漢楚軍談﹄四巻︵半紙判︶、また﹁沈
香閣蔵﹂の﹃通俗漢楚軍談﹄といった版本式のものが印行される一
方、洋装本として同十七年︵一八八四︶九月には今古堂︵横田兼太郎
出版︶の﹃通俗絵本漢楚軍談﹄、同十九年︵一八八六︶四月には上田 屋覚張栄三郎の﹃通俗漢楚軍談﹄︵ボール表紙本︶、同九月には森仙
吉翻刻・鶴声社の﹃通俗漢楚軍談﹄︵四六判クロース装釘︶、同二十
年︵一八八七︶十一月には今古堂︵瀧川三代太郎出版︶の﹃通俗絵
本漢楚軍談﹄、さらに同二十七年︵一八九四︶四月には博文館編輯局
校訂﹁帝国文庫﹂第二十編に﹃校訂呉越軍談・校訂漢楚軍談﹄などが
相次いで印行されている。明治も末の四十四年︵一九一一︶八月には
早稲田大学出版部﹃通俗二十一史﹄第二巻﹁列国志後編︵一名、呉越
軍談︶・漢楚軍談﹂、明治四十五︵一一九一二年︶一月には﹁有朋堂文
庫﹂︵国文編、明治四十四年~大正五年︶の石川核校訂﹃通俗漢楚軍
談﹄が発行される。日清・日露の戦勝を踏まえて軍談物が隆盛ともな
り、なかんずく﹃通俗二十一史﹄は歴代中国の軍談を大成する大きな
存在でもあり、昭和四年︵一九二九︶には﹁物語支那史大系﹂第二巻
として再編集される。
芥川が生前に蔵した和・漢・洋の書籍類は日本近代文学館に所蔵さ
れる。その和漢書類は昭和四十六年︵一九七一︶三月に寄贈されたも
ので、その数は四六五点一八二二冊に及ぶ。昭和五十二年︵一九七七︶
七月に発行された﹃芥川龍之介文庫目録﹄︵﹁日本近代文学館所蔵資料
目録2﹂、日本近代文学館︶﹁概要﹂︵大久保乙彦︶には、
漢籍︵一部日本で翻刻されたものを含む︶は一八八点一一七七冊
ある。大部のものには、﹃淵鑑類函﹄︵
48冊︶﹃戯考﹄︵
31冊︶﹃元
詩選﹄︵
36冊︶﹃香艶叢書﹄︵
80冊︶﹃太平広記﹄︵
48冊︶﹃唐詩百名
家全集﹄︵
40冊︶﹃唐代叢書﹄︵
36冊︶﹃佩文韻府﹄︵
60冊︶﹃明詩綜﹄
芥川龍之介﹁英雄の器﹂と項羽︵堀︶六
︵
32末たれさ行刊に期初国民清冊書、釈解典古り、あがどな︶小
説類も多い。
と紹介される。この漢籍類には、四大奇書の一つ﹁西遊記﹂の清代刊
本﹃西遊真詮﹄や清の抱甕老人﹃今古奇観﹄、﹃陳眉公批西廂記原本﹄ 8
や孔尚任の﹃桃花扇伝奇﹄といった中国の通俗小説や戯曲の類も蔵さ
れるが、先に示した明の通俗小説書は探し出せず、和書に﹃通俗漢楚
軍談﹄の書名も認められない。しかし、一つの読書の手掛かりとして
注目すべきは、目録﹁和漢書Ⅱ﹂に﹃通俗二十一史﹄の蔵書を認める
ことである。ただし、同全十二巻の内、第一巻﹁十二朝軍談 列国志 前編 明治
44 ・7﹂、第八巻﹁南北朝軍談隋煬帝外史明治
44・ 12﹂
の二冊が著録されるのみである。ここに当該の第二巻は含まれないも
のの、この﹃通俗二十一史﹄の著録を一つの事実と認め、それを論拠
として推察すれば、芥川の読んだテキストを﹃通俗二十一史﹄第二巻
に想定することもまた一つの理のあるところである。
﹃通俗漢楚軍談﹄の江戸の版本は、すでに引用したとおり、漢字カ 0
タカナ 000交じりで、ルビ付きの文体である。これに対して、明治期に翻 刻されたものは、基本的にカタカナをひらがな 0000に改めると同時に、そ
の表記も和文訳を強く意識してひらがな化を進め、読みやすいテキス
ト作りをしている体である。﹃通俗二十一史﹄の場合も、忠実にカタ
カナをひらがなに改めてはいるが、部分的に返り点を添えた漢文表記
を温存して原本の趣きを留めてもいる。
こうした﹃通俗漢楚軍談﹄の翻刻・受容の様相の中で、仮に芥川が ﹃通俗二十一史﹄に依ったとすれば、そのテキストは引用した版本に
よるテキストの漢字カタカナ交じり文の﹁カタカナ﹂を﹁ひらがな﹂
に置き換えればよいものといえる。とりあえずは﹃通俗漢楚軍談﹄の
版本の表記によって引用したことを記しておく。
四
﹃論語﹄﹁述而﹂篇に載る﹁子不語怪力乱神。︵子は怪・力・乱・神
を語らず。︶﹂の一条は、いわゆる六朝の﹁志怪﹂小説の﹁怪を志す﹂
の解説に引用されることが少なくないが、その﹁怪・力・乱・神﹂は
いつの世にも多くの人々の関心の的となる事象である。﹁力﹂は類い
稀な力、怪力、また超自然的な力でもある。﹃史記﹄﹁項羽本紀﹂には、
項羽は身の丈八尺余で、
力能扛鼎︵力能く鼎を扛 あぐ︶。
と記される。鼎を持ち上げるという行為を通して、極めて大力の持ち
主であったことを特記するが、実をいえば、﹁英雄の器﹂にもこの﹁鼎﹂
をめぐる話題が登場する。呂馬通は項羽の強さに着目して語る。
﹁それは強いことは強いです。何しろ塗山の禹王廟にある石の鼎
さえ枉げると云うのですからな。現に今日の戦でもです。私は一
時命はないものだと思いました。李佐が殺される、王恒が殺され
る。その勢いと云ったら、ありません。それは実際、強いことは
強いですな。﹂
この前半にいう﹁塗山の禹王廟にある石の鼎さえ枉げる﹂の記載を
芥川龍之介﹁英雄の器﹂と項羽︵堀︶七 考えるに、﹃通俗漢楚軍談﹄巻一﹁項羽会稽城 ニ興 ス
レ 兵 ヲ﹂には、会稽塗山
の麓を根城とする于英・桓楚という勇猛な盗賊二人を自軍に引き入れ
るべく訪ねた項羽が、﹁足下の勇力を試みて若 もし万人に敵する力あらば
我等二人相従はん﹂との二人の提案に応じて、桓楚がいう﹁禹王の廟﹂
の﹁石の鼎﹂を訪ねて見れば、﹁高七尺、囲五尺ニシテ重サ五千斤ト
云伝﹂えたる大きな鼎。果たして項王はそれをものともせず、
乃チ立ヨリテ一タビ推バ其鼎忽ニ倒タルヲ又引起シテ三度ニ及ケ
ルガ、強チニ力ヲ出セル体ニモアラズ、イト易ゲニ見ヘケレバ、
于英・桓楚は驚いて、
足下ノ力マコトニ天下ニ敵スベシ、
項羽は笑って、
是等ノ事ヲ何ゾ奇特トスルニ足ラン。
と答えるや、
鼎ノ足ヘ手ヲ入、中ニ持アゲテ廟ヲ三遍走リ軽々ト旧ノ処ニ打置
テ顔色ヲモ変ゼザリシカバ、
于英・桓楚は地に拝伏して、
足下ハ真ニ天神ナリ。我等ネカハクハ命ヲ棄テ相従ハン。
と、項羽を﹁天神﹂と褒めそやし、山上に伴い酒宴となるドラマチッ
クな項羽の勇力の話題を展開する。
これこそが﹁英雄の器﹂において呂馬通が口にした﹁塗山の禹王廟
にある石の鼎さえ枉げる﹂の由来に他なるまい。因みに、先の明治
十九年四月刊の覚張栄三郎﹃通俗武王軍談﹄のボール表紙には、右手 に大筆を握って文字を書き、肩ぬぎした左手で鼎を掲げもつ項羽が描かれる。上記の鼎の話題は、もちろん、﹃西漢演義伝﹄では巻一﹁会
稽城項梁起義﹂にあり、﹃通俗漢楚軍談﹄では標題の﹁項梁﹂の名が
﹁項羽﹂に変っている。後に﹁四面楚歌﹂の戦況に陥り、﹁力抜山兮気
蓋世︵力は山を抜き気は世を蓋ふ︶﹂と詠った項羽であれば、その﹁山
を抜﹂く力そのものを示す鼎の話題は人物形象に欠くべからざる重要
なモチーフであったというべきである。
加えて、呂馬通の発言の後半にある﹁今日の戦﹂で李佐・王恒が項
王に殺されたという事実についてである。この漢軍の二将の殺害につ
いても﹃通俗漢楚軍談﹄巻十二﹁項羽烏江自刎﹂に次の記載を認める。
僅か二十八騎に打ちなされた項王がその手勢を率いて漢兵を籠絡して
みせる場面︵後述︶で、
項王チツトモ踉 タメラハズ鎗ヲ挙テ三方ノ敵ニ渡アヒ、矢庭ニ漢ノ大将
李佑都尉王恒二人ヲ馬ヨリ斬落シ、并ニ士卒数百人ヲ討取ケルガ、
と﹁李佑﹂なる﹁漢の大将﹂と﹁王恒﹂なる﹁都尉﹂の名前が挙げら
れる。﹁英雄の器﹂で呂馬通が語り明かしたのは﹁李佐 ゝ﹂と﹁王恒﹂ の二名で、﹁李佐 ゝ﹂は一見確かに﹁李佑 ゝ﹂とは異なる。﹃通俗漢楚軍談﹄
のみならず、﹃西漢演義伝﹄にも巻七﹁楚覇王烏江自刎﹂に、
項王挙鎗往来馳驟于三処、以身為羽翼、復斬漢将李佑、都尉王恒、
殺漢兵数百人。及査楚卒、止亡其二騎。︵項王 鎗を挙げて往来
して三処に馳驟し、身を以って羽翼と為り、復た漢将李佑、都尉
王恒を斬り、漢兵数百人を殺す。楚卒を査するに及びては、止だ
芥川龍之介﹁英雄の器﹂と項羽︵堀︶八 其の二騎を亡 うしなふのみ。︶
と﹁李佑﹂﹁王恒﹂の二人の名を挙げ、その二人の名が﹃通俗漢楚軍談﹄
にもそのまま継承されていることが明らかになる。これを踏まえてみ
れば、﹁英雄の器﹂における﹁李佐 ゝ﹂の表記は、おそらく﹁李佑 ゝ﹂の﹁佑﹂
字を﹁佐﹂字に誤記、あるいは芥川が筆写した﹁右﹂の微妙な字画に
対する判読上のミスに由来するものと推察される 9。
これらの記事の対比を通して、芥川が﹃通俗漢楚軍談﹄に基づいて
二つの話題を摘記しつつ呂馬通の言動を描いていたことが明らかに分
かる。
五
呂馬通は項羽の﹁英雄の器﹂を問題にする。﹁器﹂字は、祭器が並
べられた形を表す﹁㗊﹂と犠牲として捧げられる﹁犬﹂とによる会意
文字で、祭祀に用いられる祭器の意から、うつわの意味に広く使われ、
容器、器具、また器量、才能の意味も表す。﹁英雄の器﹂にこだわる
呂馬通は﹁しかしです。﹂と切り出す。
﹁しかし、英雄の器じゃありません。その証拠は、やはり今日の
戦ですな。烏江に追いつめられた時の楚の軍は、たった二十八騎
です。雲霞のような味方の大軍に対して、戦った所が、仕方あり
ません。それに、烏江の亭長は、わざわざ迎えに出て、江東へ舟
で渡そうと云ったそうですな。もし項羽に英雄の器があれば、垢
を含んでも、烏江を渡るです。そうして捲土重来するです。面目 なぞをかまっている場合じゃありません。﹂
項王は﹁英雄の器﹂でないと否定し、その証拠として﹁今日の戦﹂
を挙げる。その論評の中で、今日の戦で打ちなされた僅か二十八騎の
手勢で戦う意味と捲土重来を期して烏江を渡ることへの拒絶を問題視
する。この発言に対して、﹁鼻の高い、眼光の鋭い顔﹂が問い返す。
﹁すると、英雄の器と云うのは、勘定に明いと云う事かね。﹂
﹁勘定に明い﹂とは、打ちなされた二十八騎で最期の戦をするより
は、むしろ烏江の亭長の丁重な出迎えの意を素直に受け入れ、江東へ
渡り捲土重来を期すという選択肢
︱
現実には項王が固辞したその対極にある決断に他なるまい。
こう問い返されるや、やや反り身になって、その顔の主を﹁時々ち
らりと眺めながら、勢いよく手真似をして、しゃべり出した﹂呂馬通。
﹁いやそう云うつもりじゃないです。
︱
項羽はですな。項羽は、今日戦の始まる前に、二十八人の部下の前で﹃項羽を亡すものは
天だ。人力の不足ではない。その証拠には、これだけの軍勢で、
必ず漢の軍を三度破って見せる﹄と云ったそうです。そうして、
実際三度どころか、九度も勝っているです。私に云わせると、そ
れが卑怯だと思うのですな、自分の失敗を天にかずける
︱
天こそいい迷惑です。それも烏江を渡って、江東の健児を糾合して、
再び中原の鹿を争った後でなら、仕方がないですよ。が、そう
じゃない。立派に生きられる所を、死んでいるです。私が項羽を
英雄の器でないとするのは、勘定に暗かったからばかりではない
芥川龍之介﹁英雄の器﹂と項羽︵堀︶九 です。一切を天命でごまかそうとする
︱
それがいかんですな。英雄と云うものは、そんなものじゃないと思うです。蕭丞相のよ
うな学者は、どう云われるか知らんですが。﹂
﹁二十八騎﹂とは、﹁四面楚歌﹂する状況下で﹁抜山蓋世﹂の歌を
詠じて苦悶する項王の目の前で、虞美人がその剣を握って舞い自ら
命を絶った後、項王は江東への路を尋ねた農夫に騙されて大沢に迷
いこみ、力弱り兵も討ちなされながら最期まで付き従った将兵の数で
ある。﹃通俗漢楚軍談﹄巻十二﹁項羽烏江自刎﹂によれば、その僅か
二十八騎で、一夜を興教院に明かし一飯を恵まれ、夜半の一場の夢に、
五色の雲に乗った漢王が大江の面に浮かび出た一輪の紅日を懐の中に
抱いて去らんとするのを、追いついて奪い取らんとすれば漢王が雲の
中より一足で蹴落として西方へ飛び去るに、祥光陰々として異香紛々
たるに驚き醒める。大いに嘆息して﹁天命有 アリ
レ 在 アルコト不レ 可レ 強 シフ﹂という
言葉も終わらぬうちに、雲のごとき漢兵の鬨の声に再び戦場の人とな
り、烏江に馬を駆けたのである。
かくて昨夜の夢も只事ならず思われて、﹁運命スデニ尽タリ決シテ
逃ベカラズ﹂と士卒に向かって思いを伝える中に、呂馬通がいう﹁必
ず漢の軍を三度破って見せる﹂﹁実際三度どころか、九度も戦ってい
るです﹂に関わる言動が見える。
﹃史記﹄﹁項羽本紀﹂にも二十八騎の記載はもとより、この戦いに関
する記述もあるが、いま﹃通俗漢楚軍談﹄巻十二によれば、
我兵ヲ起シテヨリ八个年ノ間数百度ノ合戦ニ、凡ソ当ル所ノ者ハ 破レ、撃ツ所ノ者ハ悉ク服シテ、未ダ一度モ敗北セズ、了ニ天下ニ覇王タリシガ、今此ノ如クニ困ラルヽハ、是ワガ勇力ナキニアラズ、天ノ我ヲ亡セルナリ、今日ワレ死戦ヲ決セン、若三タビ戦
テ之ニ勝バ、汝等明ニ天ノ我ヲ亡シテ、其勇ナキニアラザルコト
ヲ知ルベシトテ、僅ニ二十八騎ヲ四手ニ分テ討テ向バ、漢ノ兵鼓
躁シテ攻囲コト益急ナリ、項王又士卒ニ向テ我イマ敵ノ大将一人
ヲ斬テ路ヲ開ン、汝等早ク東山ノ下ニ到リ三処ニ分テ我ヲ待、必
ズ違コト勿レト云バ、士卒声ヲ揃テ、願ハ陛下ノ命ニ従ント云、
下命すると同時に、二十八騎を四手に分けて打って出て、一人の漢
将を打ち落とし、敵を威嚇しつつ、東山の下の三処に分かれて待たせ、
漢の大軍が三処に殺到すれば、鎗を挙げて三方の敵と渡り合う項羽。
かくてこの戦いで斬り落とされたのが、すでに記した李佑・王恒の二
人であった。一方、楚の兵は二人討たれただけで、漢の呂勝・楊武も
敵わず敗走する。さらに一日の間に漢の大軍と三度ならず九度戦った
さまを記しては、
項王一日ノ間ニ、漢ノ大軍ト九タビ戦テ、大将九人、士卒千余人
ヲ討取シカドモ、其身ハ更ニ一手ノ疵ヲモ被ズ、左右ニ向テ如何ニ
我向 サキニ申セシ言相違セリヤト問ニ、士卒ミナ拝伏シ、陛下サキニ
三タビ戦テ一人ノ大将ヲ斬ント宣シガ、今日九タビ戦テ九人ノ大
将、千余人ノ兵ヲ斬玉フハ、兎角申スニ言ナシ、陛下ハ真ニ天神
ナリト云ケレバ、項王打笑ヒ、馬ヲ飛シテ烏江ノ北ノ岸ニ到シニ、
と獅子奮迅を記す。こここに項王を﹁天神﹂とまで称賛する﹃通俗漢
芥川龍之介﹁英雄の器﹂と項羽︵堀︶一〇
楚軍談﹄の記載は﹃西漢演義伝﹄巻七﹁覇王烏江自刎﹂にも、
一日之間、凡経九戦、殺漢大将九人、殺兵一千余人。乃謂其騎曰、
﹁吾之与漢戦果何如。﹂衆騎皆伏曰、﹁大王真天神也。﹂霸王一日九
戦、遂衝出重囲、到大江北岸、地名烏江。︵一日の間、凡そ九戦
を経て、漢の大将九人を殺し、兵一千余人を殺す。乃ち其の騎に
謂ひて曰く、﹁吾の漢との戦果は何如﹂と。衆騎皆伏して曰く、﹁大
王は真の天 ゝゝ神なり﹂と。霸王一日に九戦して、遂に衝きて重囲を
出で、大江の北岸、地名は烏江に到る。︶
と定着することが明白であるが、同時にこの項羽に対する﹁天神﹂の
位置づけは、これに先立つ﹃通俗漢楚軍談﹄巻十二﹁九里山十面埋
伏﹂︵﹃西漢演義伝﹄では巻七︶の終盤にも、一日に漢の名将六十余人
と戦って﹁我イカニ力弱タルカ﹂との項羽の問いに、諸将が、
陛下ハ誠ニ天 ゝゝ神ナリ。今日ノ御挙動古今例少ク覚ヘ候フ︵略︶。
と地に拝伏して答える場面にも認められる。﹁塗山の禹王廟にある石
の鼎﹂の典拠となる巻一の話題以来の﹁天神﹂の字句は、話材として
一貫したものになっている。そして﹁英雄の器﹂における呂馬通の言
動は、﹃史記﹄に類する﹃西漢演義伝﹄の記事や﹃通俗漢楚軍談﹄の
記述と内容的に齟齬するものでないことも明らかになる。
六
﹁英雄の器﹂の呂馬通は、項羽の﹁英雄の器﹂に対する疑念を絶え
ず抱く。﹁生きられるところを、死んでいる﹂項羽の生き方に対する 不信は拭いされない。九度も戦いに勝ちながら、﹁自分の失敗を天に
かずける﹂行為を﹁卑怯﹂と見なす。絶命の窮地から生き延びること
は、呂馬通の生き方には必須のものといってよい。わざわざ迎えに出
た烏江の亭長がいう江東へ舟で渡すとの申し出を退ける項羽を﹁勘定
に暗い﹂と判断するか。項羽が﹁英雄の器﹂でないのは﹁勘定に暗かっ
たばかりではない﹂と主張し、その項羽の死に到る行動に対して憤懣
のわだかまりを覚える呂馬通である。
そもそも﹃通俗漢楚軍談﹄巻十二﹁項羽烏江自刎﹂で、烏江で舟を
用意して待ち受けていた亭長はいかに乗船を促したか。
烏江ノ亭ノ長、一艘ノ舟ヲ用意シテ相マチ、項王ニ向テ申ケルハ、
江東ハ小ナリト云トモ、地方千里アリ、陛下彼ニ至テ勢ヲ集玉ハ
バ、尚数十万ニ及ン、早々ニ御渡アリテ、必ズ大事ヲ誤玉フナ、
況ヤ此処ニ臣ガ此舟ヨリ外ニハ一艘モナシ、漢ノ兵タトヒ追来ル
トモ、争カ江ヲ渡ルコトヲ得ン、
﹃史記﹄の記載に翻ってみれば、
烏江亭長檥船待。謂項王曰、﹁江東雖小、地方千里、衆数十万人。
亦足王也。願大王急渡。今独臣有船。漢軍至、無以渡。﹂︵烏江の
亭長 船を檥して待つ。項王に謂ひて曰く、﹁江東は小なりと雖
も、地は方千里、衆は数十万人あり。亦た王たるに足るなり。願
はくは大王急ぎ渡らんことを。今独り臣のみ船有り、漢軍至るも、
以て渡る無し﹂と。︶
とおよそ同様の文言が展開する。この亭長の勧めを聞いた項王は﹃通
芥川龍之介﹁英雄の器﹂と項羽︵堀︶一一 俗漢楚軍談﹄巻十二に続けていう。
項王長嘆シテ曰、天既ニ我ヲ亡セリ、縦ヒ江ヲ渡トモ、了ニ免コ
ト能ジ、殊サラワレ昔シ江東ノ子弟八千人ヲ率ヒ来リシガ、今一
人モナクナリヌレバ、江東ノ父老、深ク我ヲ恨ン、縦ヒ若恨ズシ
テ、憐デ王トストモ、我何ノ面目アリテカ之ニ見ン、彼或ハ言ズ
トモ、我安ゾ独リ心ニ愧ザルベキ、︵略︶
この部分も﹃史記﹄の記載に翻ってみれば、
項王笑曰、﹁天之亡我、我何渡為。且籍与江東子弟八千人、渡江
而西、今無一人還。縦江東父兄憐而王我、我何面目見之。縦彼不
言、籍独不愧於心乎。﹂︵項王笑ひて曰く、﹁天の我を亡ぼすに、
我何ぞ渡ることを為さん。且つ籍は江東の子弟八千人と、江を渡
りて西するも、今一人として還る無し。縦ひ江東の父兄憐れみて
我を王とするも、我何の面目ありて之に見えんや。縦ひ彼れ言は
ざるも、籍独り心に愧ぢざらんや﹂と。︶
とほぼ同様の文言が並んでいる。
烏江の亭長の進言は、およそ﹃史記﹄の記載と同様のものであるけ
れども、﹃通俗漢楚軍談﹄巻十二では亭長は重ねて強く説得を試みる
のである。
陛下甚ダ悞レリ、夫勝負ハ兵家ノ常ノ習、漢王昔シ睢水ニ陛下ト
戦テ大ニ敗レ、三十余万ノ兵ヲ失テ、睢水ノ大河モ屍ニセカレテ
流ザリシトカヤ、去トモ漢王志ヲ墜ズ、只一人山ヲ越、水ヲ渡リ、
或ハ古井ノ中ヘ隠ナンドシテ命ヲ扶カリ、了ニ此ノ如ク盛ナルニ 至レリ、今日陛下ノ敗軍モ、尚昔シ漢王ノ睢水ニ敗シ時ノ如シ、
少キ忍デ計ヲ運玉ハバ、大業再ビ図ツベシ、如何ナレバ区々トシ
テ、角機量ノ狭コトヲ宣ゾ、去バ古ヨリ図 ハカル
二 大事 ヲ一 者 ハ、不レ 矜 ツヽシマ
二 細
行 ヲ一 ト云リ、漢ノ兵早追来ン、陛下タダ速ニ渡玉ヘ、
睢水の流れを妨げるまでの漢王の敗北は、前二〇五年の彭城の戦いに
おけるもので、漢王は古井戸に隠れて九死に一生を得たことを記す 0。
その漢王の﹁細行﹂を憚らぬ度量の広さを説いて、﹁機量の狭き﹂項
王に烏江を渡るよう促したことは、同じく﹃西漢演義伝﹄巻七には、
勝負乃兵家之常。昔漢王睢水与大王交兵、被大王一陣、殺漢兵
三十余万、睢水為之不流。此時漢王独自逃難、落于井中、幾不能
免。遂忍而至此。大王今日之敗、猶夫漢也。何必区区以八千子
弟而言。是何所見之小耶。故曰、﹁図大図者不矜細行。王可急渡。
漢兵将至矣。︵勝負乃ち兵家の常なり。昔 漢王 睢水に大王と 兵を交へ、大王の一陣を被り、漢兵三十余万を殺され、睢水 之 が為に流れず。此の時 漢王独り自ら難を逃れ、井中に落ち、幾 んど免るる能はず。遂に忍んで此に至る。大王 今日の敗は、猶 ほ夫 かの漢のごときなり。何ぞ必ずしも区区として八千の子弟を以 て言はんや。是れ何ぞ見る所の小なるや。故 もとより曰く、﹁大を図 る者は細行を矜 あはれまず﹂と。王 急ぎ渡るべし。漢兵 将に至らん
とす。︶
とあるのに基づく。さらに項王がこれを聞き入れず、
御辺ノ言好ト云トモ、我心甚ダ之ヲ愧、モシ漢ノ兵追来ラバ、只
芥川龍之介﹁英雄の器﹂と項羽︵堀︶一二
早々ニ首ヲ渡ンノミ、
と自らの決断を伝えたことも、﹃西漢演義伝﹄巻七に、
汝言雖善、吾心独甚愧。若漢兵至、惟付之一死耳。︵汝の言善し
と雖も、吾が心独り甚だ愧ず。若し漢兵至らば、惟だ之に一死を
付すのみ。︶
と記される通りである。
ここに語られる睢水での窮地に漢王が古い井戸に隠れたとの所行
は、遡って﹃通俗漢楚軍談﹄巻八﹁項羽大 ニ戦 フ二 彭城 ニ一 ﹂に、睢水におい
て大敗を喫した漢王が﹁天命スデニ尽タリ﹂と思う中、
不思議ヤ漢王マコトニ天ノ祐ヤ有ケン、忽チ東南ノ方ヨリ一陣ノ
狂風サツト吹来テ沙ヲ飄シ石ヲ飛シ、俄ニ大霧深ク起掩ヒ、須臾
ノ間ニ四方黒暗ニナリテ咫尺ノ間モ見ワケ難カリケレバ、楚ノ軍
勢大ニ驚キ怕レテ、蛛ノ子ヲ散スガ如クミナ四角八方ヘ散乱ス、
天の助けとも思われる狂風と大霧に救われ、不思議と思いつつ進むに、
霧イヨイヨ深ク前後蒙々トシテ東西ヲ知ガタケレバ、アキレ果テ
立玉ヒシニ、一条ノ白光隠々トシテ路ヲ照シ、其ノ明ナルコト
杲々トシテ白日ノ如クナリシカバ、弥深ク怪ミ之ヲ指南ニ馬ヲ飛
シテ二十里余リ馳給ヒケレバ、漸々風定リ霧モ程ナク晴ニケリ、
と白光に導かれて救われる一方、さらに項王が差し向けた丁公・雍歯
に追撃され、その追撃の執拗さに、﹁事ノ急ナルヲ見テ、今ハ遁ヌ所
ゾト思ヒ已ニ自害セン﹂とするとき、
イヤイヤ事叶ザラン期に臨デ自害センコトハ最安カルベシ、一マ ヅ隠レテ見バヤ、
と、傍らの荊棘の茂った一つの古井に飛び入る。追っ手の雍歯は夜中
の暗闇で古井ありとはつゆ知らず駆け抜けたため、思いがけぬ見逃し
に九死に一生を得た漢王は、井戸から逃れ出て、鳩の杖をついた老翁
戚氏の歓待を受け、戚姫に巡りあうという仕儀。この一節も﹃西漢演
義伝﹄によれば、巻五﹁楚覇王彭城大戦﹂の後半、﹁正在危急之際︵正
に危急の際に在りて︶﹂以下、﹁夜深、就与戚氏同寝。︵夜深くして、
就ち戚氏と同 ともに寝ぬ。︶﹂に基づくことを付言する。
このような﹃通俗漢楚軍談﹄巻十二における烏江の亭長の二度にわ
たる執拗な説得を見る時、﹁英雄の器﹂において漢王自らがいう﹁勘
定に明い﹂は、窮地にあっても生きる道筋を探り、生への飽くなき執
着を見せる生き方を意味するように解される。井戸に逃げ隠れて九死
に一生を得た劉邦の生きざまはそれを象徴するもので、その強い執念
と強運とを挙例されては、元来劉邦と性分を異にする項羽はその生き
方に一線を画して即座に拒絶し、劉邦のごとき生き方を追随する思い
は毛頭ない。項王はまさに一途で、自らの勇力を信じながら、戦況利
あらざる現実に天の我を亡ぼす運命を知覚したと解される。
七
﹁英雄の器﹂において、﹁蕭丞相のような学者は、どう云われるか知
らんですが。﹂と自らの発言を締めくくった呂馬通に対して、﹁鼻の高
い顔だけが、思いがけなく、一種の感動を、眼の中に現した。黒い瞳
芥川龍之介﹁英雄の器﹂と項羽︵堀︶一三 が、熱を持ったように、かがやいて来たのである。﹂と記す一方、
﹁そうかね。項羽はそんな事を云ったかね。﹂
と尋ねる劉邦。﹁そんな事﹂とは、呂馬通の発言に見えた﹁項羽を亡
すものは天だ。人力の不足ではない。その証拠には、これだけの軍勢
で、必ず漢の軍を三度破って見せる﹂との項羽の発言自体を指す。
﹁云ったそうです。﹂
﹁長い顔を上下に、大きく動かした﹂呂馬通はさらに項羽を論評する。
﹁弱いじゃないですか。いや、少くとも男らしくないじゃないで
すか。英雄と云うものは、天と戦うものだろうと思うですが。﹂
呂馬通は﹁天﹂と戦うのが﹁英雄﹂というや、劉邦が﹁そうさ。﹂
と肯定するのに対して、
﹁天命を知っても尚、戦うものだろうと思うですが。﹂
と畳みかければ、劉邦はこれにも﹁そうさ。﹂と応じる。
﹁天と戦﹂い、﹁天命を知っても尚、戦う﹂とは、項王を説得した烏
江の亭長の言辞の中に語られる、かつて漢王が天命に抗って、井戸に
も隠れて窮地を脱した生きざまそのものである。﹁そうさ。﹂は、そう
した自らの過去を劉邦自身がすべて肯定するが如くでもある。
天命に関しては、前引の﹃通俗漢楚軍談﹄巻十二﹁項羽烏江自刎﹂
の冒頭において、一場の夢に日輪を奪われた項王は﹁天命有 アリ
レ 在 アルコト不レ可レ 強 シフ﹂云々の言葉も終わらぬうちに、漢兵の鬨の声に再び戦場の人
となる。雲のごとき漢の兵の中で﹁楚賊速ニ首ヲ渡セ﹂と呼ばわる大
将の灌嬰に怒って戦いを交えるが、殺到した楊武・呂勝・柴武・靳歙 らとは戦うことを好まず、駆け抜ける。五十里走って烏江に到れば、
漢兵が畳々として野山に満ちるさまを目の当たりに見る。かくて項王
が、﹁我タトヒ翼アリトモ、容易ク此囲ヲ出ルコト能ジ、況ヤ昨夜ノ
夢モ只事ナラズ﹂と悟り、﹁運命スデニ尽タリ決シテ逃ベカラズ﹂と
士卒に向かって覚悟を伝えた言葉は、すでに引用したとおりである。
﹁すると項羽は
︱
﹂呂馬通はさらに問いかける。﹁劉邦は鋭い眼光をあげて、じっと秋を
またたいている灯火の光を見た。そうして、半ば独り言のように、徐
にこう答えた。﹂と導き出されるのが、末尾の言である。
﹁だから、英雄の器だったのさ。﹂
この呂馬通と劉邦の問答は、﹃通俗漢楚軍談﹄には依拠せず、芥川
が独自に描いたものである。俗に﹁両雄並び立たず﹂というが、まさ
に天下を取った劉邦のもう一方で、その対極にある項羽の生き方も
また真理である。﹁天命スデニ尽タリ﹂と知覚した劉邦が井戸に息を
ひそめて窮地を脱した事例を、今窮地にある項王が間近く烏江の亭長
から聞かされては、かえって江東に渡るという窮余の一策へ一線を踏
み越える余地をすべて否定しさる項羽でもあった。むしろ、生への飽
くなき執念は項羽には無用で、﹁運命スデニ尽タリ決シテ逃ベカラズ﹂
と自覚した項羽にとっては自刎こそが最期の美学であった。劉邦のい
う﹁だから﹂の語は、天命を知る者こそが導き得る、同様の立場にあっ
た他者の美学への容認でもあり、天下を制した者であればこその好敵
手たる英雄への愛惜ともいえる。﹁英雄の器﹂とは、ある意味では自
芥川龍之介﹁英雄の器﹂と項羽︵堀︶一四
らの勇力を信じて自刎した項羽ヘの哀挽の辞ともいえる。
八
項羽が嘆息して立つ烏江の亭長の姿を見て愛馬烏騅を贈ったことは
﹃史記﹄にも記されるが、﹃通俗漢楚軍談﹄巻十二﹁項羽烏江自刎﹂で
は、亭長は烏騅を舟に乗せて漕ぎだしたものの、
烏騅ナヲモ別ヲ惜ミ、人影ノ見ル程ハ、此方ヲノミ詠 ナガメシガ、已ニ
二町バカリ推出シケル時、苦ゲニ続テ数声永ク嘶キ、只一跳ニ大
江ノ中ヘ飛入シハ、誠ニ哀ト云モ愚ナリ、
と烏騅の入水を記す。これも﹃西漢演義伝﹄では巻七﹁楚覇王烏江自
刎﹂に定着する一節に他ならない。﹁全相平話﹂の﹃前漢書続集﹄の
場合は、前置する﹁正集﹂が失われるため、烏騅の一躍に関わる叙述
の有無は探るべくもない。
項羽と義仲とが相似する境涯を有することはすでに述べたとおりで
ある。烏騅の最期の一躍は、木曾義仲の鬼葦毛が深田にはまった場面
を想起させる一節である。入相時に深田に陥って、﹁あふれどもあふ
れども、打てども打てどもはたらか﹂ぬ鬼葦毛に対して、﹁烏騅﹂は
いまだ強く逞しく、自ら一躍して健気な最期を遂げる。﹁木曾最期﹂
における鬼葦毛とはまた異なる烏騅の最期でもある。
人馬一体となって駆ける戦場で、井中に遁れて人事を尽くし天の加
護を待った劉邦に対して、烏江の亭長に烏騅を贈り自ら退路を断って
白兵戦に及んだ項羽。芥川が描く﹁英雄の器﹂の叙述を眺めてきたが、 ﹃通俗漢楚軍談﹄の読書を介した小説はさまざまな語らいの可能性を
秘めている。短篇ながらなかなかに含蓄に富み奥が深い作品である。
注︵
者と偉人の中に、中国における項梁と項羽の名が挙げられる。 時﹁家庭﹂の存在を重視すると同要に、家護例や長の庭保のたれさ示そ にい悪てっよう。境環いをとのもる。もたて直かえとくをこるなくと 直然に真っ育ぐにつこて、自しえり生た蓬は、曲ががちな性質を修正 けづ自てしず扶ば、れず生にらかる直し︶﹂に出典す語で、麻の中に中 1麻勧﹁麻中の蓬﹂は、﹃荀子﹄﹁学蓬﹂篇の﹁蓬生麻中、不扶自直︵︶ ︵ することを意味する。 と学院の雀は蒙求を囀る﹂のごく、こも達熟に然自とずば学にらさと いわゆる﹁門前の小僧習わぬ経を読む﹂や﹁勧に由来する語といい、 を暗誦したことをいう。﹁詩﹂鄭玄の家に仕える召使はみな﹃事文類聚﹄ 2をは、﹂ふ歌奴詩漢の家鄭﹁後︶ 末の者で﹁毛詩鄭箋﹂で知られる学
︵
﹃宋史﹄巻三六五にその伝が収載される。によって彫られたともいう。 た。無実の罪を着せられ誅滅されて背四親の﹁は字文母の国報忠尽﹂ の派の秦檜た謀略のめに和平が、対絶っあで将勇たっ誇を気人な的た 3岳飛︵字は鵬一挙、一一〇三~一︶ 四一︶は、北の金とって民衆の戦 ︵ 伝は伝えている。 死れて、玄妙観の銀杏樹の下で縊のし四た叔王の三英一﹄史明と﹃巻 冠ら自え、更をて衣はし浴沐い書のた﹁裾絶し隠に間入衣を﹂詞の命 状べからざる知態を為覚して、すににを詔応じてで兵募ったものの、す 楽永のちの王︵燕で﹂変の難︶帝淮が起こした兵が﹁の地に至ると、靖 4は、れ明の第二代建文帝に召さた︶王叔英︵字は原采、?~一四〇二︶
︵
載される。 5雑﹄﹃収に﹄助之蔵内石大の日或篭誌﹃︶ 影﹃ち、のの出初に﹄文人灯
︵
中月、一九八四年十月・八五年二岩波近と説小世本日ち﹃の刊。店書 ︵﹁﹂学文︱﹂国史に書房刊︶、同﹁中史講小ゆ説と通俗軍談︱読本前ま 6︵昭和五十八年十月、﹁解説﹂第三巻﹃対訳中国歴史小説選集﹄徳田武︶
芥川龍之介﹁英雄の器﹂と項羽︵堀︶一五 国小説﹄第一部、昭和六十二年五月、青裳堂書店刊︶によれば、﹃対訳中国歴史小説選集﹄の刊行に際して、﹃通俗漢楚軍談﹄の底本に金閶書業堂﹃新刻剣嘯閣批評西漢演義伝﹄を用いたが、底本は大業堂﹃重刻西漢通俗演義﹄とすべきである旨の経緯が記される。ただ両書のテキストは微細な文字の増減異同を認めるものの、およそ内容的に同様であるという。本稿での引用は、早稲田大学図書館蔵﹃新鐫絵像東西漢全伝︵鍾伯敬評︶﹄︵金閶書業堂、出版年不明︶内の﹁新刻劔嘯閣批評西漢演義伝﹂によった。また﹃通俗漢楚軍談﹄の引用は、早稲田大学図書館蔵本︵本町通心斎橋東へ入︵大坂︶、河内屋真七、出版年不明︶によった。
︵ 察している。 ジで公開される国立国図書館デ会タ談考ルよに﹄り、軍漢俗通版﹃楚 章南京望峯・二︵軒梅夢十巻︶庵徽でイトネータンッて、るしあ﹂と /06/2020KentNishi29﹁﹁英雄の器﹂の典拠は﹃通俗漢楚軍談﹄︶には、︵ bWeまた上の論考として、﹁﹁英雄の器﹂に仮託した芥川龍之介の作法﹂ に談﹄巻十二を挙げ、注そ楚の書について説明する。軍漢通て﹃しと俗 ﹁英雄の器﹂の﹁原典﹂表1﹁中国古典文学に取材した芥川作品﹂には、 化︶川芥5﹁の言科学文語国部中の古たの掲典﹂品作所し文取に学材 十号、一第巻﹄二第スリ〇サ二十一八年月、獨協大学国際教養学ウェ 7ニに長田小絵﹁芥川龍之介の翻案見ウる受容力の方策﹂︵﹃テシス・︶
︵
述こまひました。﹂と記される。お、なの聴聴介之龍川芥は﹁トーノ講 を毎目標の齣一せ、合に新しげ、挙面題くし目を目て全削を名正り、 り、利便極至すあが申とあでりまる齣を子楔に、中見製体のそす。を 海し刷印でに頃近は本行陳た上眉二︶公銭六価冊、角本西批廂記︵小 即二十齣とてしました。是が西ち六十種本の北廂でります。単分つあ 南五曲南曲の流行するに及ん北曲で本し、の体製とな西て改を記廂め 日会弁雄本年大月、五八正の︶第代記明三﹁は、に﹂廂西と秋宮漢項﹁ トてしとさがスキテの義講記支れ概る。大話講論﹄︵学那述﹃温谷文塩 曲塩義講支戯那温ト﹁ーノ講谷﹂助教授に、﹁陳公批西廂記原本﹂眉 8︶ 山西廂記﹄は元の王実甫の劇作。梨聴県立文学館に蔵される芥川の﹃ 二〇一七年二月︶に翻刻される。 姵彦・女輝・林君・庄司達也、﹁恵泉学楊園大学紀要﹂第二十九号、志 ノー教ト﹁支那戯曲講義塩谷講助授靖﹂翻刻﹂︵篠崎美生子・田中温
︵
未見。 キし得れば、芥川の読書したテスいトとして特定可能であるが、だ見 9の項羽に破れた﹁李佐﹂なる漢︶ を軍名を記した﹃通俗漢楚軍談﹄将
︵
︶﹂と見えている。て其の井口を蔽ひ、脱るるを得たり。 に漢祖雍歯の追ふ所為り、井と投有びじを網り、結蛛に中る。匿蜘 蜘其蔽網結井。有中匿投口、井蛛、得井伝相り。有す、脱。に陽滎︵厄 のは、に事記︵︶撰松袁晋・滎山﹁陽為有追、所雍歯祖漢伝、相井。厄 鈔訂漢唐地理書志﹄所収の﹃郡国﹄輯﹃重謨王清・で、中の料資史稗の 収、五一〇二﹄所考叢学文文年、研出こそ版あがとる。た察考に︶し 井がもので戸さるれ称呼と井の﹁知られ、劉邦と頼朝﹂︵﹃日中比較や厄 10井隠劉邦が項羽の追撃を井戸にれ免てかわす話題は、河南の滎陽の︶
︹付記︺二〇一九年十一月二十三日︵土︶、上海の復旦大学で﹁日中比較文学の方法︱漢文訓読を中心に︱﹂と題して、﹁井戸﹂に身を潜めて項羽の追撃をかわした劉邦と﹁臥木﹂に隠れて平家の追撃を免れた源頼朝をめぐって比較文学的に考察する機会を頂戴した。本論考は、その折、司会の鄒波氏から芥川龍之介﹁英雄の器﹂における﹁呂馬通﹂の表記についてご質問いただいたことを契機とする。多少なりともお答えになっていれば幸いである。