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妙見信仰の今様 : 『梁塵秘抄』二八七番歌をめぐ って

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妙見信仰の今様 : 『梁塵秘抄』二八七番歌をめぐ って

著者 植木 朝子

雑誌名 同志社国文学

号 81

ページ 79‑89

発行年 2014‑11‑20

権利 同志社大学国文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014307

(2)

妙 見 信 仰 の 今 様

﹃ ︱

梁 塵 秘 抄

﹄ 二 八 七 番 歌 を め ぐ っ て ︱

植 木 朝 子

は 北の 北に ぞお はし ます 衆生 願ひ を満 てむ とて 空に は星 とぞ 見え たま ふ①

﹃梁 塵秘 抄﹄ 二八 七番 歌で ある

︒﹁ 珍し い星 の信 仰の 歌謡 で︑ 異彩 を放 つも のと いえ よう②

﹂と 評さ れる とこ ろで ある が︑ 院政 期に は妙 見信 仰が 隆盛 を極 めて おり

︑こ の歌 謡は

︑﹁ 珍し い﹂ とい うよ りは

︑ むし ろ︑ まさ に﹁ 今様

﹂の

︑流 行の 信仰 を掬 い上 げた もの と考 えら れる

︒本 稿で は︑ 妙見 信仰 の流 れを 辿り

︑二 八七 番歌 の新 しさ を確 認し た上 で︑ 当該 今様 を含 む﹃ 梁塵 秘抄

﹄巻 二・ 四句 神歌

・仏 歌の 配列 につ いて 考え てみ たい

︒ 一︑ 妙見 大悲 者

﹃梁 塵秘 抄﹄ 二八 七番 歌が 歌う 妙見 大悲 者と は妙 見菩 薩の こと で あり

︑妙 見信 仰の 基づ く仏 典と して あげ られ るの は﹃ 七仏 八菩 薩所

説大 陀羅 尼神 呪経

﹄で ある

︒ 我北 辰菩 薩名 曰妙 見︒ 今欲 説神 呪擁 護諸 国土

︒所 作甚 奇特 故名 曰妙 見︒ 處於 閻浮 提︒ 衆星 中最 勝︒ 神仙 中之 仙︒ 菩薩 之大 将︒ 光目 諸菩 薩︒ 曠済 諸群 生︒ 有大 神呪 名故 奈波

︒擁 護国 土佐 諸国 王消 災却 敵莫 不由 之③

︒ すな わち

︑北 辰菩 薩を 名づ けて 妙見 とも 言う

︒星 の中 で最 も優 れ︑ 神仙 の中 の仙

︑菩 薩の 大将 たる もの であ って

︑広 く衆 生を 救う

︒国 土を 守護 し︑ 帝王 を助 け︑ 災い を消 し︑ 敵を 退け る︒

「北 辰﹂ はす なわ ち北 極星 であ るが

︑北 斗七 星と しば しば 混同 さ れた

︒頼 瑜︵ 一二 二六

~一 三〇 四︶ の記 した

﹃秘 鈔問 答﹄ 巻十 二に は︑ 問︒ 今此 菩薩 名妙 見有 何故 乎 答︒ 七仏 所説 神呪 経云

︒我 北辰 菩薩 名曰 妙見

︒今 欲説 神呪 擁護 妙見 信仰 の今 様

七九

(3)

諸国 土︒ 所作 甚奇 特故 曰妙 見︿ 文﹀ 問︒ 如経 者妙 見北 辰同 体歟

︒若 爾尊 星王 ト北 極ト 一別 体乎 答︒ 御記 曰︒ 妙見 尊星 王ト 北斗 ト北 辰ノ 北極 トノ 同異

︒当 流他 流説 云不 同︒ 大理 趣房 寂円 云︒ 智証 尊星 王者 妙見 也︒ 即北 辰也

︒ 北辰 者七 星軸 星也

︒北 斗諸 北辰 上如 蓋是 也︒ 論実 皆総 北斗 也︒ 常喜 院云

︒実 心阿 闍梨 云︒ 三井 云尊 星王 トハ 東寺 云妙 見也 云々

︒ 当流 口伝 云︒ 妙見 北辰 一法 也︒ 北斗 法又 同之

︒妙 見諸 星上 首也

︒ 北斗 眷属 也︒ 妙見 法与 北斗 法開 合不 同也

︒合 時云 妙見

︒開 時云 北斗

︒妙 見種 種利 益方 便之 時七 星顕 云々

︒故 妙見 持七 星︒ 是表 其旨 云々

︒最 秘事 也云 々④

︒ とあ り︑ 妙見 と北 辰が 同体 であ るか

︑尊 星王 と北 極と は一 つか 別か とい う問 いを 立て て問 題点 を整 理し てい る︒ この 点に つい ては 諸説 ある が︑ 要す るに

︑寺 門三 井寺 でい うと ころ の尊 星王 は東 密︵ 真言 密教

︶で いう 妙見 と同 じも ので

︑妙 見と 北辰

︵北 極星

︶も 同じ もの であ る︒ 妙見 は諸 星の 王で あり

︑北 斗七 星は 妙見 の眷 属で ある

︑と する

︒台 密︵ 天台 密教

︶の 長宴

︵一

〇一 六~ 一〇 八一

︶も

︑﹃ 四十 帖決

﹄巻 七︑ 長久 三年

︵一

〇四 二︶ 四月 上旬 記﹁ 妙見 十二

﹂の 項に おい て︑ 北辰 ハ妙 見也

︒紫 宮ノ 中心 ノ星 ノ下 ニ当 テ有 之︒ 此妙 見ト 者即 是尊 星王 也⑤

と記 して おり

︑本 稿で は︑ ひと まず

︑妙 見= 北辰

=尊 星王

=北 極星 であ り︑ 北斗 七星 とは 別の もの であ ると 捉え てお く︒ 妙見 菩薩 の本 地に つい ては

︑﹃ 阿娑 縛抄

﹄が 智証 大師 の説 とし て

﹁妙 見ハ 吉祥 天也⑥

︒﹂ とす る︒ 覚禅

︵一 一四 三~

?︶ 撰﹃ 覚禅 抄﹄ も 智証 大師 の説 を引 いて

︑﹁ 此尊 在昭 蔵中

︒毘 盧遮 那第 二身

︒此 為吉 祥天

︒﹂ とす るが

︑他 に﹁ 龍雲 闍梨 云︒ 尊星 王観 音母 也︒ 故世 界有 其縁 云々

︒︿ 或云

︒妙 見観 音故 観音 名妙 眼⑦

︒﹀

﹂と も見 え︑ 観音 を本 地と する 考え 方の 存在 が知 られ る︒

﹁大 悲者

﹂は 普通 には 観音 を指 すか ら︑ 二八 七番 歌が

︑﹁ 妙見 大悲 者﹂ と歌 うの は︑ 本地 とし ての 観音 を意 識し た表 現と 思わ れる

︒ま た︑ 衆生 に対 する 慈し みと いう

﹁大 悲﹂ の原 義か らし て︑ 当該 今様 の﹁ 衆生 願ひ を満 てむ とて

﹂の 句と

﹁大 悲者

﹂の 語は よく 対応 して いる と言 えよ う︒ 二︑ 妙見 信仰 の流 れ 妙見 信仰 につ いて は︑ これ まで に多 くの 研究 が重 ねら れて いる⑧

︒ ここ では

︑先 学の 指摘 によ りな がら 妙見 信仰 の流 れを 簡単 に辿 り︑ 特に

︑今 様の 流行 した 院政 期の 妙見 信仰 の様 相を 確認 して おき たい

︒ 妙見 信仰 は︑ 早く 奈良 時代 から 見ら れ︑ 天平 勝宝 四年

︵七 五二

︶ の﹃ 正倉 院文 書﹄ に妙 見菩 薩の 名の 存す るこ とが 指摘 され てい る︒

﹁仏 像彩 色料 注文

﹂と して

﹁薬 師像 一躯 千手 千眼 菩薩 一躯 妙見

妙見 信仰 の今 様

八〇

(4)

菩薩 一躯

︿並 彩色 者﹀

﹂と 見え るも ので ある⑨

︒ま た︑ 比叡 山八 部院 にも

︑妙 見菩 薩像 が安 置さ れて おり

︑﹃ 叡岳 要記

﹄に よれ ば︑ この 高さ 一尺 六寸 の妙 見菩 薩は

︑伝 教大 師最 澄自 作の 像で あり

︑当 院は

︑ 延暦 九年

︵七 九〇

︶︑ 最澄 が草 創し たも のと いう⑩

︒ さら に︑ 弘仁 年間

︵八 一〇

~八 二四

︶に 成立 した

﹃日 本霊 異記

﹄ の中 にも

︑次 のよ うな 妙見 菩薩 の霊 験譚 が見 られ る︒ 絹 の衣 を盗 まし め妙 現菩 薩に 帰

ひて 倐

其の 絹の 衣を 得 る 縁

上巻 三十 四︶ 妙見 菩薩 変

して 異

しき 形を 示し 盗人 を顕 す縁

︵下 巻五

︶ 網を 用て 漁 る夫 海の 中の 難 に値 ひて 妙見 菩薩 を憑

ひて 命 を全 くす るこ と得 る縁

︵下 巻三 十二⑪

) これ らは

︑妙 見菩 薩に 祈る こと によ って 盗ま れた 絹が 戻る

︑盗 人 が顕 れる

︑海 難を 逃れ ると いっ た現 世利 益的 な霊 験譚 であ って

︑妙 見菩 薩の 特性 が顕 著と は言 いに くい

︒し かし

︑最 後の 一話 は︑ 北極 星の 航海 を導 く力 に対 する 信仰 を背 景に した もの であ ろう

︒円 仁の

﹃入 唐求 法巡 礼行 記﹄ にも 承和 五年

︵八 三八

︶六 月︑ 嵐に 遭い 漂流 する 間に

︑口 に観 音・ 妙見 を称 えた とこ ろ︑ 陸地 に流 れ着 いた こと を記 す⑫

︒先 に︑ 妙見 の本 地を 観音 とす る説 を示 した が︑ 観音 と妙 見 は航 海安 全を 祈る 対象 とし て並 んで おり

︑﹁ 妙見 大悲 者﹂ とい う呼 称の 背景 には こう した 連想 関係 もあ った もの か︒

﹃日 本霊 異記

﹄下 巻五 には

︑ 河内 国安

宿

の部 内に

︑信 有り

︒妙 見菩 薩の 為に 燃 を 献

処な り︒ 畿

に年 ごと に燃 燈を 奉る

︒ とあ って

︑民 間に おい て︑ 妙見 菩薩 に灯 火を ささ げ︑ これ を祀 って いた こと が知 られ る︒ これ は宮 廷に も取 り入 れら れ︑ 年中 行事 化し た︒

﹃類 聚国 史﹄ 巻十

・神 祇・ 雑祭 に延 暦十 五年

︵七 九六

︶三 月十 九日 のこ とと して

︑ 勅︒ 禁祭 北辰

︒朝 制已 久︒ 而所 司侮 慢︒ 不事 禁止

︒今 京畿 吏民

︒ 毎至 春秋

□月

︒棄 職忘 業︒ 相集 其場

︒男 女混 淆︒ 事難 潔清

︒□

□□ 祐︒ 反招 其殃

︒自 今以 後︒ 殊加 禁断

︒若 不獲 已︒ 毎人 異日

︒ 莫令 会集

︒若 乖此 制︒ 法師 者送 名綱 所︒ 俗人 者処 違勅 罪⑬

︒ とあ るこ とか ら︑ 延暦 十五 年に はす でに

︑妙 見菩 薩に 灯火 を奉 って 祀る こと が宮 廷に 定着 して いた こと がわ かる

︒こ こで は︑ 仕事 もな げう って 男女 が群 集す るた めの 風紀 の乱 れを 問題 視し

︑特 定の 日に 集ま って 民間 が妙 見菩 薩を 祀る こと を禁 じて いる が︑ この こと は︑ 妙見 菩薩 に寄 せる 人々 の信 仰の 強さ を浮 かび 上が らせ てい ると 言え よう さ ︒ て︑ 天皇 の北 辰献 燈は

︑御 斎焼 燈︑ 御燈 潔斎

︑御 斎︑ 御斎 奉燈

︑ 潔斎 奉燈 など 様々 な呼 び方 があ った

︒﹁ 御燈

﹂と 単記 され るよ うに なっ たの は︑ 貞観 十年

︵八 六八

︶以 降の こと であ る︵

﹃三 代実 録⑭

﹄︶

︒ 妙見 信仰 の今 様

八一

(5)

藤原 実資

︵九 五七

~一

〇四 六︶ の﹃ 小野 宮年 中行 事﹄ およ び後 醍醐 天皇

︵一 二八 八~ 一三 三九

︶の

﹃建 武年 中行 事﹄ を中 心に

︑こ の

﹁御 燈﹂ の次 第を まと める と︑ 次の 如く であ る︒ 妙見 菩薩 の祭 月は 三月 と九 月で あり

︑一 日二 日と 潔斎 した 天皇 は︑ 三日

︑浴 湯後

︑衣 冠束 帯を 着け て清 涼殿 の所 定の 座に 着く

︒そ の前 に贖 物が 供せ られ る︒ 続い て陪 膳役 が宮 主か ら渡 され た大 麻を 持参 する

︒天 皇は この 大麻 を撫 でて 息を 吹き かけ ると

︑こ れは 陪膳 役の 手を 経て 宮主 に返 還さ れる

︒宮 主が 北に 向か って 祝詞 を奏 して いる 間に

︑天 皇は 解縄 をひ いて 燈の 覆い を除 き︑ 人形 を取 り上 げて 撒米 を撒 き︑ 北極 星に 向か って 三拝 する

︒天 皇の 北辰 献燈 が清 涼殿 で行 われ てい る間

︑内 蔵寮 の官 人が 妙見 供養 の場 へ派 遣さ れて 献燈 をし た⑮

︒ 建保 二年

︵一 二一 四︶ 以後 に成 立し た﹃ 年中 行事 秘抄

﹄に

︑﹁ 桓 武遷 都之 後︑ 登霊 巌寺 供奉 御燈⑯

︒﹂ とあ るの で︑ 桓武 天皇 は献 燈の 場に 自ら 臨ん だこ とが 窺わ れる が︑ 年中 行事 化し た御 燈に おい ては

︑ 献燈 の場 への 天皇 臨幸 は踏 襲さ れて いな いら しい

︒献 燈の 場は

︑同 じく

﹃年 中行 事秘 抄﹄ に﹁ 内蔵 寮謂 被定 可奉 御燈 寺︒ 依不 慥旧 例︒ 召右 大将 問之

︒奏 曰︒ 貞観 以来 於霊 巌寺 被奉

︒寛 平初 用月 林寺

︒後 用円 城寺

︒故 因旧 例︒ 於霊 巌寺 可奉 状仰 了︒

﹂と ある のに よれ ば︑ 一時

︑月 林寺

︑円 城寺 を用 いた こと もあ った が︑ 結局

︑霊 巌寺 に定

めら れた らし い︒ 時代 は下 るが

︑安 永九 年︵ 一七 八〇

︶刊 の﹃ 都名 所図 会﹄ に︑ 石

は鷹 峰北 にあ り︒ 両岩 あつ て︑ その 高さ 数丈

︑門 を構 ゆる に似 たり

︒こ れを 霊巌 寺の 石門 とい ふ︒ むか し円 行法 師入 唐し て青 竜寺 の義 真に 両部 の密 教を 授か り︑ 承和 六年 に帰 朝し て霊 巌寺 を開 きし その 地な りと ぞ⑰

︒ とあ る︒ この 霊巌 寺と 巨岩 のこ とは

︑﹃ 今昔 物語 集﹄ 巻三 十一 ノ第 二十

﹁霊 巌寺 別当

︑砕 巌語

﹂に 見え てい る︒ その 冒頭 は次 の如 くで ある

︒ 今昔

︑北 山ニ 霊巌 寺ト 云フ 寺有 ケリ

︒此 ノ寺 ハ︑ 妙見 ノ現 ジ給 フ所 也︒ 寺ノ 前ニ

︑三 町許 テ巌

有リ ケリ

︒人 ノ 屈 テ通 ル許 ノ穴 ニテ ゾ有 ケル

︒万

ノ人 皆参 リ 仕 リテ

︑験 新

タ也 ケ レバ

︑僧 房共 数

造リ 重ネ テ︑ 脺

事無 限シ

︒而 ル間

︑ ノ天 皇御 目ヲ 病

セ給 ヒケ レバ

︑彼 ノ霊 巌寺 ニ行

可有

議有 ケル ニ⁝

⁝⑱

この 記述 から

︑妙 見が 北の 方角 と結 びつ き︑ 霊巌 寺が 人々 の信 仰を 集め てい たこ と︑ 特に 眼病 に効 果が ある とさ れて いた こと が窺 われ る︒ この 話で は︑ 寺僧 が巨 岩を 焼き 砕い たた めに 寺が 滅び てし まっ たこ とが 語ら れて いる が︑ 妙見 を祀 る妙 見堂 は中 世頃 まで 遺存 して いた とい う⑲

妙見 信仰 の今 様

八二

(6)

﹃今 昔物 語集

﹄引 用部 分の 欠字 は︑ 天皇 名の 明記 を期 した もの だ が︑ 東北 本に は﹁ 三条

﹂と 異本 を傍 書す る︒ 三条 天皇 が目 を病 んだ こと は︑ 諸書 に見 え︑ よく 知ら れて いる

︒﹃ 大鏡

﹄に よれ ば︑ 三条 天皇 に憑 りつ いた 桓算 が正 体を 現し て︑

﹁御 首に 乗り ゐて

︑左 右の 羽を うち おほ ひ申 した るに

︑う ちは ぶき 動か す折 に︑ すこ し御 覧ず るな り⑳

﹂と 述べ たと いう

︒﹃ 小右 記﹄ にも

﹁主 上︵

=三 条天 皇︶ 御 目事

︑賀 静所 為也

︑居 御前

︑翼 を開 時︿ 仁者

﹀︑ 御目 乎不 御覧 也﹂

︵長 和四 年︵ 一〇 一五

︶五 月七 日条㉑

︶と

︑似 た話 を載 せる

︒こ のよ うに

︑三 条天 皇の 眼疾 は︑ もと 僧侶 で翼 を有 する 物の 怪の しわ ざと され た︒ 一方

︑同 じく 目を 病ん だ一 条天 皇は

︑妙 見の 祟り によ ると いう 占の 結果 を得 て︑ 霊巌 寺の 妙見 堂に 使い を遣 った とこ ろ︑ 破損 が激 しか った ため

︑す ぐに 修理 させ たと いう

︵﹃ 権記

﹄長 保元 年

︵九 九九

︶十 二月 九日 条㉒

︶︒ さて

︑以 上の よう な北 辰献 燈は 院政 期に も引 き続 き行 われ たが

︑ 特に

︑白 河院 は妙 見信 仰に 篤く

︑晩 年に は︑ 鳥羽 院・ 待賢 門院 を伴 って

︑賀 茂川 岸に 臨幸 し︑ 史上 に例 を見 ない 華麗 な川 岸御 燈祓 を営 んで いる

︵﹃ 長秋 記﹄ 大治 四年

︵一 一二 九︶ 三月 三日 条㉓

︶︒ 後白 河院 は︑ 記録 上︑ 特に 盛大 に北 辰献 燈を 行っ たと いう わけ で はな いが

︑中 西用 康の 調査 整理 によ れば

︑在 位中

︑久 寿二 年︵ 一一 五五

︶九 月︑ 保元 元年

︵一 一五 六︶ 九月 に献 燈の 営ま れた こと が確

かめ られ る︵

﹃兵 範記㉔

﹄︶

︒ さら に︑ 院政 期に 至っ て盛 んに 行な われ るよ うに なっ たも のに

︑ 尊星 王法 があ る︒ 天慶 八年

︵九 四五

︶五 月︑ 天台 座主 義海 が修 した のが 尊星 王法 の初 見と され るが㉕

︑頻 繁に 営ま れる よう にな った のは

︑ 十一 世紀 頃か らで ある㉖

︒尊 星王

︵= 妙見 菩薩

=北 極星

︶を 本尊 とす るこ の修 法は

︑妙 見菩 薩を 中心 に北 斗七 星二 十八 宿な どを 配し た曼 荼羅 を懸 け︑ その 前に 壇を 設け

︑護 摩を 焚い て妙 見を 供養 する もの で︑ 院政 期に 至っ てま すま す流 行し た︒

﹃阿 婆縛 抄﹄ に﹁ 此ノ 法ハ 三井 寺ノ 秘法 也︒

﹂と ある よう に︑ 寺門 独自 の秘 法と して 重ん じら れる よう にな った ので ある

︒﹃ 阿婆 縛抄

﹄は

︑尊 星王 法の 先蹤 とし て︑ 鳥羽 院が 眼病 の祈 りに 妙見 供を 修し たこ とを 挙げ るが

︑眼 病に 苦し んだ 三条 天皇 が︑ 尊星 王像 を描 かせ て︑ 三井 寺の 阿闍 梨慶 祚に 開眼 供養 させ たこ と︵

﹃小 右記

﹄長 和四 年︵ 一〇 一五

︶閏 六月 八日

~十 日条㉗

︶を 併せ 考え ると

︑寺 門と 尊星 王法 の関 わり はも う少 し遡 れる 可能 性も あろ う︒ なお

︑尊 星王 法と 同様 に︑ 北の 星を 祀る 修法 に北 斗法 があ る︒ 北 斗法 で懸 ける 曼荼 羅の 中心 部に は妙 見の 代わ りに 仏眼 また は一 字金 輪を 描い たが

︑北 斗七 星が 北極 星の 眷属 であ ると いう 考え 方か らす ると

︑尊 星王 法と 北斗 法は

︑根 を同 じく する もの と言 って よい

︒ 院政 期の 北斗 法の 特徴 とし ては

︑前 代に 見ら れな い七 壇北 斗法 と 妙見 信仰 の今 様

八三

(7)

大北 斗法 の成 立が 指摘 され てい る︒ 七壇 北斗 法は

︑普 通の 北斗 法の よう な大 壇・ 護摩 壇の 二壇 立て では なく

︑七 星に ちな み七 壇立 てで 修す るも の︑ 大北 斗法 は大 壇・ 護摩 壇の 二壇 に加 え六 小壇 を立 てる もの であ る︒ 院政 期の 数量 的功 徳主 義を 強く 反映 した もの で︑ 修法 形式 の壮 大化 多壇 化の 流れ に成 立し たと 考え られ てい るが㉘

︑こ の大 北斗 法は 永厳

︵一

〇七 五~ 一一 五一

︶撰 の﹃ 要尊 法﹄

﹁北 斗﹂ の項 に﹁ 大北 斗法 成就 院大 僧正

︵= 寛助

︶白 川院 御時 始被 行之㉙

﹂と あ って

︑白 河院 の意 向で 創始 され たこ とが わか る︒ 白河 院は

︑尊 星王 法だ けで なく

︑北 斗法 をも しば しば 行っ てい る︒ また

︑天 仁二 年

︵一 一〇 九︶ 二月 二十 七日 には

︑白 河院 の御 願に より

︑法 勝寺 北門 のか たわ らに 建て られ た北 斗曼 荼羅 堂の 堂供 養が 行わ れて いる

︵﹃ 殿暦

﹄同 日条㉚

︶︒ 大江 匡房 の願 文に よれ ば︑ この 北斗 曼荼 羅堂 に は︑ 一字 金輪 仏頂 如来 をは じめ

︑北 斗七 星︑ 九執 曜天

︑十 二宮 神︑ 二十 八宿 など の像

︑都 合五 十六 体の 星宿 神が 置か れた㉛

︒こ のよ うに 白河 院は 豪華 な立 体の 星曼 荼羅 を造 りあ げた ので あっ て︑ 人目 を驚 かす よう な妙 見信 仰の 華や かさ が知 られ よう

︒こ の木 造曼 荼羅 につ いて は︑ 大治 三年

︵一 一二 八︶ 十月 二十 二日 の﹁ 白河 法皇 八幡 一切 経供 養願 文﹂

︵藤 原敦 光﹃ 本朝 続文 粋﹄ 巻十 三︶ にも

﹁曼 陀羅 堂安 木像 北斗 曼陀 羅︒ 修北 斗法

︒﹂ と見 えて いる㉜

﹃朝 野群 載﹄ 巻三 には

︑白 河院 が修 した 北斗 法︑ 北辰 祭の 祭文

︵康 和三 年︵ 一一

〇一

︶﹁ 北斗 御修 法祭 文﹂

︑天 永四 年︵ 一一 一三

﹁北 辰祭 文﹂

︶や

︑堀 河天 皇が 修し た尊 星王 供の 告文

︵康 和二 年︑ 康 和五 年︶ が残 る㉝

︒さ らに

︑待 賢門 院も 妙見 を尊 び︑ 法金 剛院 で北 斗 曼荼 羅供 修法 を営 んだ り︵

﹃仁 和寺 御伝

﹄高 野御 室覚 法・ 大治 五年

︵一 一三

〇︶

︶︑ 寺内 に北 斗堂 を建 立し たり

︵﹃ 仁和 寺御 伝﹄ 高野 御室 覚法

・長 承四 年︵ 一一 三五

︶︶ して いる㉞

︒前 者︑ 新た に建 立し た法 金剛 院で の北 斗曼 荼羅 供修 法は

︑前 年︑ 大治 四年

︵一 一二 九︶ に没 した 白河 院の 冥福 を祈 るた めの もの であ った と考 えら れ㉟

︑女 院の 妙 見信 仰に は︑ 白河 院が 大き な影 響を 与え てい るこ とが 窺わ れよ う︒ 三井 寺と 妙見 の関 わり につ いて

︑﹃ 寺門 伝記 補録

﹄八 には

︑智 証 大師 円珍

︵八 一四

~八 九一

︶が 中国 青龍 寺の 法全 から 付与 され て持 ち帰 った もの の中 に﹁ 尊星 王菩 薩像 一體

﹂が あり

︑三 井寺 に開 創 した 唐坊 に収 蔵し たと いう 記事 が見 える㊱

︒注 目す べき は︑ 白河 院︑ 鳥羽 院に よっ て︑ 二つ の尊 星王 堂が 建て られ てい るこ とで ある

︒ 尊星 王堂

︿北 院﹀ 白河 院御 宇承 暦四 年︒ 法務 前大 僧正 隆明

︿円 満院 御室 戸︒

﹀創 一精 舎于 北院 甲地

︒安 置等 身尊 星王 菩薩

︒題 号羅 惹院

︒以 為今 上御 願寺 今年 秋八 月二 十一 日︒ 勅置 阿闍 梨三 口︒ 爰永 保元 年堂 宇回 禄︒ 堀河 院寛 治四 年︒ 上皇

︿応 徳三 御脱 屣﹀ 復興 羅惹 院︒ 添置 阿闍 梨五 口︒ 又屈 二十 龍象

︒遂 供養 畢︒

妙見 信仰 の今 様

八四

(8)

尊星 王堂

︿中 院﹀ 平等 院尊 星王 堂者

︒鳥 羽後 白河 二代 叡願 所也

︒抑 本寺 平等 院者

︒ 入道 悟円 親王 創之

︒以 在俗 一子 前大 僧正 永円 為院 主︒ 爾来 住職 数世

︒皇 子皇 孫相 継不 絶︒ 霊場 云︒ 開祖 云︒ 不尋 常碩 室也

︒是 以歴 代天 子︒ 文武 功臣

︒莫 不帰 依当 室也

︒就 中鳥 羽天 皇厚 叡信 於当 室︒ 詔建 一堂 于廓 内︒ 安置 尊星 王菩 薩像

︒令 修長 日不 断護 摩供

︒以 為鎮 国道 場︒ 大治 二年

︒太 上皇

︿保 安四 御脱 屣﹀ 宣下 三口 阿闍 梨︒ 天承 元年 亦置 三口 于平 等院

︒其 後後 白河 院︒ 慕鳥 羽聖 主芳 蹤︒ 帰依 尊星 王菩 薩︒ 興隆 平等 院︒ 永暦 二年 夏四 月七 日︒ 尊星 王堂 供養

︒太 上皇

︿保 元三 御脱 屣﹀ 臨幸

︒ 北院 と呼 ばれ る尊 星王 堂は 白河 天皇 が承 暦四 年︵ 一〇 八〇

︶に 等身 の妙 見菩 薩を 安置 した こと に始 まり

︑最 初は 羅惹 院と 号し た︒ 永保 元年

︵一

〇八 一︶

︑火 災に 遭っ たが

︑寛 治四 年︵ 一〇 九〇

︶︑ すで に 上皇 とな って いた 白河 院が 復興 した

︒ま た︑ 中院 と呼 ばれ る尊 星王 堂は

︑三 井寺 平等 院内 に鳥 羽天 皇が 一堂 を建 て︑ 尊星 王菩 薩像 を安 置し たこ とに 始ま る︒ 不断 に護 摩を たか せ︑ 鎮護 国家 のた めの 道場 とし た︒ その 後︑ 後白 河院 は︑ 鳥羽 院に 倣っ て妙 見菩 薩に 帰依 し︑ 永暦 二年

︵一 一六 一︶

︑尊 星王 堂供 養を 行い

︑院 自ら 臨幸 した

︒﹃ 寺 門伝 記補 録﹄ には

﹁後 白河 院︒ 慕鳥 羽聖 主芳 蹤︒ 帰依 尊星 王菩 薩︒

﹂ とあ って

︑後 白河 院の 妙見 信仰 には 鳥羽 院の 影響 があ った と見 られ

るが

︑さ らに

︑前 述し たよ うな

︑母

・待 賢門 院の 影響 も大 きか った もの と推 測さ れる

︒ こう した

︑妙 見信 仰の 高ま りと 尊星 王法 の流 行を 背景 に置 くと

﹃梁 塵秘 抄﹄ 二八 七番 歌は

︑信 仰の 流行 に注 目し た︑ まさ に﹁ 今様

﹂ の一 首だ った と言 い得 るの であ る︒ 三︑

﹃梁 塵秘 抄﹄ の配 列 冒頭 に掲 げた 二八 七番 歌は

︑﹃ 梁塵 秘抄

﹄四 句神 歌・ 仏歌 十二 首

︵実 数十 一首

︶の 最終 に位 置す る︒ 以下

︑そ の十 一首 を掲 出す る︒ 釈迦 の御

は天 竺に 玄

弘む とも 深

渡さ ずは

︑ この 世に 仏法 なか らま し︵ 二七 七︶ 釈迦 の説 法終 はり なば 摩 や迦 葉

大阿 羅漢 鶏足 山よ り慈 尊の 出で たま はう 世に 参り 会は む︵ 二七 八︶ 釈

の童

は 悉 太子 と申 しけ り 父を ば 浄

とい ひ 母こ れ善

長者 の女

︵二 七九

︶ 文殊 は誰 か迎 へ来 し 奝

こそ は迎 へし か 迎へ しか や 伴に は優

の王 や大

の仏 さて 十 六羅 漢諸

︵二 八〇

︶ 文殊 の次 をば 何と かや をい をい たう しが 子な りけ り 眉間 白

照ら すに は 十二 の菩 薩ぞ 出で たま ふ︵ 二八 一︶ 妙見 信仰 の今 様

八五

(9)

観音 勢至 の遣 水は 阿

とぞ 流れ 出づ る 流れ たる 薬王 大士 の前 の池 の波 は や 唵

とぞ 立ち 渡る

︵二 八二

︶ わが 身は 罪業 重く して 終に は泥

へ入 りな んず 入り ぬべ し 佉 なる 地蔵 こそ 毎日 の暁 に 必ず 来り て訪 うた まへ

︵二 八三

︶ 不動 明王 恐ろ しや 怒れ る姿 に剣 を持 ち 索

を下 げ うし ろに 火焔 燃え 上る とか やな 前に は悪 魔寄 せじ とて 降 の相

︵二 八 四︶ 釈迦 の住 所は どこ どこ ぞ 法華 経六

の自 に や 説か れ たる 文

ぞか し 常在 霊

に並 びた る 及

はそ こぞ かし

︵二 八五

︶ 極楽 浄土 の東

に 機

織る 虫こ そ桁

に住 め 西方 浄土 の灯

に 念仏 の衣 ぞ急 ぎ織 る︵ 二八 六︶ 妙見 大悲 者は 北の 北に ぞお はし ます 衆生 願ひ を満 てむ とて 空に は星 とぞ 見え たま ふ︵ 二八 七︶ これ らの 今様 は︑ 大ま かに 釈迦

︵二 七七

~二 七九

︶︑ 文殊

︵二 八

〇・ 二八 一︶

︑観 音勢 至︵ 二八 二︶

︑地 蔵︵ 二八 三︶

︑不 動明 王︵ 二 八四

︶と

︑ま ずは

︑歌 われ る仏 菩薩 によ って 並べ られ る︒ 釈迦 の三 首は

︑残 した 教え に焦 点を 当て てい る二 七七

︑釈 迦の 生涯 の最 後

︵涅 槃時

︶と 最初

︵父 母や 童名 など 誕生 時に 近い 事柄

︶を 歌っ た二

七八

・二 七九 と︑ 釈迦 の生 涯を 巡っ て時 間が 分散 され る形 にな って いる

︒次 に釈 迦如 来の 脇侍 であ る文 殊の 今様 二首 が配 置さ れ︑ 二八 一の 白毫 から 連想 され る阿 弥陀 の脇 侍と して の観 音勢 至の 歌︵ 二八 二︶

︑阿 弥陀 五尊 に含 まれ る地 蔵の 歌︵ 二八 三︶ と続 く︒ 不動 明王 は密 教で 大日 如来 の使 者と して 信仰 され た尊 格で

︑二 八三 まで の仏 菩薩 と同 列に は並 ばな いが

︑二 八三 に歌 われ る泥 犂︵ 地獄

︶と 二八 四の

﹁火 焔﹂ や﹁ 悪魔

﹂が 連想 の糸 で結 ばれ たも のか

︒二 八五

・二 八六

・二 八七 は︑ 釈迦

︑極 楽浄 土︵ 阿弥 陀︶

︑妙 見菩 薩と

︑そ れぞ れが 別々 の仏 を取 り上 げる が︑ これ らの 三首 は聖 なる

﹁場 所﹂ を問 題に して いる 点に 共通 点が ある

︒釈 迦の

﹁住 所﹂ が﹁ どこ

﹂で ある のか の問 いで 始ま る二 八五

︑極 楽浄 土の

﹁東

﹂門 のキ リギ リス を歌 う二 八六

︑﹁ 北﹂ の果 ての 妙見 菩薩 を讃 美す る二 八七 とい うよ うに

︒ そし て︑ その 場所 が︑ 現実 のこ の世 と身 近な もの とし てつ なが って いる こと に注 目し たい

︒二 八五 の釈 迦の 住所 はイ ンド の﹁ 霊鷲 山﹂ であ るが

︑し かし 仏が 身を 分け て出 現す る﹁ 余の 諸の 住所

﹂で あっ て︑ この 今様 を歌 う人 々の いる 場所 であ る可 能性 もあ る︒ 二八 六の 極楽 浄土 の東 門は おそ らく 四天 王寺 西門 のこ とで あろ う︒ 二八 七の 妙見 菩薩 のい る北 の果 ては 遥か 遠い よう では ある が︑ しか し︑ 星と して 確か に目 に見 える ので ある

︒今 様の 歌う 宗教 的世 界は

︑し ばし ば現 実に 引き つけ られ

︑今 様の 歌い 手が 実感 をも って 捉え られ るよ

妙見 信仰 の今 様

八六

(10)

うな 表現 にな って いる こと が多 いが

︑二 八五

~二 八七 の三 首も 同様 に考 えら れる であ ろう㊲

︒ 仏歌 十一 首の 配列 につ いて

︑新 大系 は﹁

﹁釈 迦の 御法

﹂で 始ま り︑ 密教 讃歌 で終 る︵ 法文 歌の 冒頭 末尾 と対 応㊳

︶︒

﹂と 指摘 する が︑ 法文 歌・ 仏歌 二十 四首 は︑

﹁釈 迦の 正覚 成る こと は﹂

︵二 二︶ から 釈迦 の 今様 が三 首並 んだ 後︑ 四首 目に すで に大 日如 来の 讃歌 が置 かれ てい る︒ 最終 歌も 真言 密教 を讃 えた 歌で はあ るが

︑冒 頭の 釈迦 如来 讃歌

︑ 末尾 の密 教讃 歌と いう 構成 が確 固た るも ので ある とも 言い にく い︒ 法文 歌・ 仏歌 二十 四首 の配 列に つい ては 論じ たこ とが ある が㊴

︑配 列 の上 では

︑一 首全 体の 深い 内容 とい うよ り︑ 最初 に出 てく る仏 の名 が重 視さ れて おり

︑大 まか には 釈迦 三尊

︵釈 迦・ 普賢

・文 殊︶

︑阿 弥陀 五尊

︵阿 弥陀

・観 音・ 勢至

・地 蔵・ 竜樹

︶を 意識 した 配置 にな って いる

︒四 句神 歌・ 仏歌 十一 首も 各歌 の最 初に 出て くる 仏の 名が 重視 され てい る点

︑隣 り合 う歌 がゆ るや かな 連想 の糸 で結 ばれ てい る点

︑同 様の 構成 意識 が窺 われ る︒ その 上で

︑四 句神 歌・ 仏歌 十一 首を 法文 歌・ 仏歌 二十 四首 と比 較し た時

︑集 めら れて いる 今様 が︑

﹁場 所﹂ に焦 点を 当て てい るこ とが 多く

︑従 って

︑﹃ 梁塵 秘抄

﹄を 書 物と して 享受 した 時に は︑ その 場所 の推 移を も味 わえ るよ うな 配列 にな って いる と言 える ので はな いだ ろう か︒ 先に 述べ たよ うに

︑場 所へ の関 心は

︑特 に最 後の 三首 に顕 著で ある が︑ 改め て十 一首 冒頭

を見 ると

︑二 七七 は︑ 釈迦 の御 法が

﹁天 竺﹂ にあ る︑ と歌 い︑ 二七 八は 釈迦 が涅 槃に 入っ た後

︑摩 訶迦 葉が

﹁鶏 足山

﹂に 入定 した こと を歌 う︒ すな わち

︑仏 歌十 一首 の冒 頭二 首と 末尾 三首 は天 竺か ら日 本︑ さら に具 体的 現実 的に

︑キ リギ リス の住 む四 天王 寺西 門や

︵日 本に は限 らな いが

︶人 々の 目に 見え る北 極星 を提 示す るこ とに よっ て︑ 仏の 世界 を︑ 今様 を歌 い味 わう 人々 の身 近に 引き つけ てく るよ うな 構成 にな って いる と考 えら れる ので ある

︒こ のよ うに 考え ると

︑中 ほど に置 かれ てい る文 殊の 今様 が﹁ 文殊 は誰 か迎 へ来 し 奝然 聖こ そは 迎へ しか 迎へ しか や﹂

︵二 八〇

︶と

︑文 殊像 が宋 か ら日 本に 渡来 した こと を歌 って いる こと も興 味深 い︒ 法文 歌・ 仏歌 二十 四首 の中 にも 文殊 を歌 った 今様 は収 録さ れる が︑ 文殊 はそ もそ も何 人ぞ 三世 の仏 の母 とい ます 十方 如来 諸法 の師 みな これ 文殊 の力 なり

︵三 六︶ とい う一 首で

︑文 殊菩 薩が いか なる 菩薩 であ るの かを 定義 する よう なも ので ある

︒こ れと 比べ ると

︑二 八〇 は文 殊像 の移 動と いう

︑場 所へ の意 識を 含ん だよ り具 体的 な内 容と なっ てい て︑ 同じ 仏歌 でも やや 次元 の違 うも ので ある こと が窺 われ る︒ 以上 のよ うに

︑四 句神 歌・ 仏歌 には

︑教 義そ のも のを 越え て︑ 場 所へ の興 味関 心を 軸に

︑仏 たち の世 界を 現実 世界 の中 に引 きこ もう とす る傾 向が 見出 され るが

︑﹁ 北の 北﹂ とい う遥 かさ と︑ 星と して 妙見 信仰 の今 様

八七

(11)

見え ると いう 現実 性を 併せ 持っ た二 八七 は︑ そう した 仏歌 の最 終歌 とし てふ さわ しい もの であ ると 言え よう

︒﹁ 国家 安穏

・人 民安 楽を 願う 後白 河院 の編 集意 図﹂ を見 る新 大系 の指 摘㊵

に︑ 前述 した 後白 河 院自 身の 妙見 信仰 を併 せ考 える と︑

﹃梁 塵秘 抄﹄ 中に は一 首し か見 られ ない 妙見 菩薩 の歌 が︑ 相応 の重 みを もっ て配 置さ れて いる こと が浮 かび 上が って くる ので ある

︒ 注

① 新間 進一 校注

・訳

新編 日本 古典 文学 全集

﹃神 楽歌

・催 馬楽

・梁 塵秘 抄・ 閑吟 集﹄

︵小 学館

二〇

〇〇 年︶ によ る︒

﹃梁 塵秘 抄﹄ の引 用は

︑以 下︑ 同書 によ る︒

② 注① 書脚 注に よる

﹃大 正新 修大 蔵経

﹄第 二十 一巻

︵大 正新 修大 蔵経 刊行 会 一九 六八 年

︿再 刊﹀

︶に よる

﹃大 正新 修大 蔵経

﹄第 七十 九巻

︵大 正新 修大 蔵経 刊行 会 一九 六九 年

︿再 刊﹀

︶に よる

︒︿

﹀内 は割 書︑ 以下

︑同 じ︒

﹃大 正新 修大 蔵経

﹄第 七十 五巻

︵大 正新 修大 蔵経 刊行 会 一九 七二 年

︿再 刊﹀

︶に よる

﹃大 日本 仏教 全書

阿娑 縛抄 六﹄

︵仏 書刊 行会

一九 一四 年︶ によ る︒

﹃阿 娑縛 抄﹄ の引 用は

︑以 下︑ 同書 によ る︒

﹃大 日本 仏教 全書

覚禅 抄六

﹄︵ 仏書 刊行 会 一九 一六 年︶ によ る︒

⑧ 本稿 で特 に参 照し た妙 見信 仰に 関わ る先 行研 究は 以下 の通 りで ある

︒ 金指 正三

﹃星 占い

・星 祭り

﹄︵ 青蛙 房 一九 七四 年︶

︑速 水侑

﹃平 安貴 族

社会 と仏 教﹄

︵吉 川弘 文館

一九 七五 年︶

︑村 山修 一﹃ 日本 陰陽 道史 総 説﹄

︵塙 書房

一九 八一 年︶

︑三 﨑良 周﹁ 園城 寺と 尊星 王法

﹂︵

﹃智 證大 師 研究

﹄同 朋舎 出版

一九 八九 年︶

︑﹃ 三井 寺の 仏教 美術

﹄︵ 上野 記念 財団 助成 研究 会 一九 九〇 年︶

︑佐 野賢 治編

﹃星 の信 仰

妙見

・虚 空蔵

︵渓 水社

一九 九四 年︶

︑武 田和 昭﹃ 星曼 荼羅 の研 究﹄

︵法 蔵館 一九 九五 年︶

︑林 温﹃ 日本 の美 術 第三 七七 号 妙見 菩薩 と星 曼荼 羅﹄

︵一 九九 七年 一〇 月︶

︑李 育娟

﹁院 政期 の北 斗信 仰と 大江 匡房

江都 督納 言願 文集

﹄﹁ 北斗 曼陀 羅堂 願文

﹂を 中心 に

﹂︵

﹃国 語国 文﹄ 第七 十二 巻第 一号

二〇

〇三 年一 月︶

︑小 峰智 行﹁ 妙見 菩薩 の信 仰と 展開

︵﹃ 密教 学研 究﹄ 第三 十九 号 二〇

〇七 年三 月︶

︑中 西用 康﹃ 妙見 信仰 の 史的 考察

﹄︵ 平泉 明事 務所

二〇

〇八 年︶

︑西 弥生

﹃中 世密 教寺 院と 修 法﹄ 勉誠 出版

二〇

〇八 年︶

︑植 野加 代子

﹃秦 氏と 妙見 信仰

﹄︵ 岩田 書院 二〇 一〇 年︶

﹃大 日本 古文 書﹄ 巻十 二︵ 追加 六︶

︵東 京帝 国大 学 一九 一八 年︶ によ る︒

﹃群 書類 従﹄ 第二 十四 輯︵ 続群 書類 従完 成会

一九 八三 年︿ 訂正 三 版﹀

︶に よる

⑪ 出雲 路修 校注

新日 本古 典文 学大 系﹃ 日本 霊異 記﹄

︵岩 波書 店 一九 九六 年︶ によ る︒

﹃日 本霊 異記

﹄の 引用 は︑ 以下

︑同 書に よる

﹃続 々群 書類 従﹄ 第十 二︵ 続群 書類 従完 成会

一九 七〇 年︶ によ る︒

﹃新 訂増 補国 史大 系﹄ 第五 巻︵ 吉川 弘文 館 一九 六五 年︶ によ る︒

⑭ 中西 用康

﹃妙 見信 仰の 史的 考察

﹄︵ 平泉 明事 務所

二〇

〇八 年︶ によ る︒

﹃群 書類 従﹄ 第六 輯︵ 続群 書類 従完 成会

一九 八三 年︿ 訂正 三版

﹀︶ に よる

⑯ 注⑮ 書に よる

妙見 信仰 の今 様

八八

(12)

⑰ 竹村 俊則 校注

﹃都 名所 図会

﹄︵ 角川 書店

一九 七六 年︶ によ る︒

⑱ 森正 人校 注 新日 本古 典文 学大 系﹃ 今昔 物語 集 五﹄

︵岩 波書 店 一 九九 六年

︶に よる

⑲ 注⑰ 書補 注に よる

︒た だし

︑中 世頃 まで の妙 見堂 遺存 を示 す根 拠は 記 され てい ない

⑳ 橘健 二 加藤 静子 校注

・訳

新編 日本 古典 文学 全集

﹃大 鏡﹄

︵小 学館 一九 九六 年︶ によ る︒

﹃増 補史 料大 成 小右 記 一﹄

︵臨 川書 店 一九 六五 年︶ によ る︒

﹃増 補史 料大 成 権記 一﹄

︵臨 川書 店 一九 六五 年︶ によ る︒

﹃増 補史 料大 成 長秋 記 一﹄

︵臨 川書 店 一九 六五 年︶ によ る︒

㉔ 注⑭ 書に よる

﹃天 台座 主記

﹄権 律師 義海 の項 に﹁ 天慶 八年 五月 十一 日始 行尊 星王 法 大法 御願 成就 故賜 年分 度者 十二 人﹂ と見 える

︵引 用は

﹃天 台座 主記

﹄比 叡山 延暦 寺開 創記 念事 務局

一九 三五 年に よる

︶︒

㉖ 速水 侑﹃ 平安 貴族 社会 と仏 教﹄

︵吉 川弘 文館

一九 七五 年︶ によ る︒

㉗ 注㉑ 書に よる

㉘ 注㉖ 書に よる

﹃大 正新 修大 蔵経

﹄第 七十 八巻

︵大 正新 修大 蔵経 刊行 会 一九 七一 年

︿再 刊﹀

︶に よる

﹃大 日本 古記 録 殿暦 三﹄

︵岩 波書 店 一九 六五 年︶ によ る︒

㉛ 山崎 誠﹃ 江都 督納 言願 文集 注解

﹄︵ 塙書 房 二〇 一〇 年︶ を参 照し た︒

﹃日 本文 学大 系﹄ 第二 十四 巻︵ 国民 図書 株式 会社

一九 二七 年︶ によ る︒

﹃史 籍集 覧﹄ 十八 冊︵ 近藤 活版 所 一九

〇一 年︶ によ る︒

﹃群 書類 従﹄ 第五 輯︵ 続群 書類 従完 成会

一九 八二 年︿ 訂正 三版

﹀︶ に よる

㉟ 中西 用康

﹃妙 見信 仰の 史的 考察

﹄︵ 平泉 明事 務所

二〇

〇八 年︶

﹃大 日本 仏教 全書

﹄︵ 仏書 刊行 会 一九 一五 年︶ によ る︒

﹃寺 門伝 記補 録﹄ の引 用は

︑以 下︑ 同書 によ る︒

㊲ 植木 朝子

﹁四 天王 寺西 門信 仰と 今様

梁塵 秘抄

﹄一 七六 番歌 をめ ぐっ て

﹂︵

﹃日 本歌 謡研 究﹄ 第四 十七 号 二〇

〇七 年一 二月

︶︒

㊳ 武石 彰夫 校注

新日 本古 典文 学大 系﹃ 梁塵 秘抄

・閑 吟集

・狂 言歌 謡﹄ 岩波 書店

一九 九三 年︶ 脚注 によ る︒

㊴ 植木 朝子

﹁地 蔵の 今様

梁塵 秘抄

﹄四 十番 歌と その 前後

︵﹃ 梁塵

研究 と資 料﹄ 第十 八号

二〇

〇〇 年一 二月

︶の ち﹃ 梁塵 秘抄 の 世界 中

世を 映す 歌謡

︵角 川学 芸出 版 二〇

〇九 年︶

㊵ 注㊳ に同 じ︒ 妙見

信仰 の今 様

八九

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