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スミスの贈罪論田中正司

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(1)

論 説

ア ダ ム ス ミ ス の 贈 罪 論

田 中 正 司

八 七 六 五 四 一三 二

目次

自然神学講義復元方法

贈罪論と正義論の関係

瞳罪節の思想史的文脈

﹁天文学史﹂科学論の意義﹃道徳感情論﹄の神学的構造

腰罪論の論理的帰結

順罪節削除の理由

啓蒙の社会科学の主題

一 自 然 神 学 講 義 復 元 方 法

1アダム・スミスの﹁道徳哲学﹂講義の第一部門をなしていたスミスの﹁自然神学﹂講義については︑早くからその

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商 経 論 叢 第27巻 第3号

重要性がそれなりに指摘されてきた︒たとえば︑ビッタ←ンは︑ヲダム・ス︑︑︑スの道徳理論と自然的自由の学説が

事あるたびに彼の自然神学の必然的結果とみなされている以上︑彼の神学的見解と形而上学的見解との関係がいかな

るものであったかを探求することが適切で蒙Lとして︑両者の関係について詳細な議論農開している︒しかし︑

スミスは神学については付随的にしなn及しておらず︑百然神学L嚢については原資料だけでなく︑﹃法学嚢﹄

のような学生による講義イトも発見されていないため︑スミスの自然神学思想についての論及は大部分推測によ︑b

ざるをえないという致命的制約をもっている︒スミスの自然神学思想が︑スミス体系の﹁失われた環﹂として注目さ

れながら・薯入った研究がされないままにとどまってきた最大の原因はそΨ﹂にあったといえるであうつ︒

しかし・スミスが百然神学﹂講義で展開していたであろう自然神学思想をそれなりに復元する}﹂とを通して︑ス

ミスの神学思想と彼の社会科学体系との関連を窺い知る手掛りは︑全くない訳ではない︒

箪は・スミスの諸著作の中に散見されるスースの宗教・神学思想の内在分析を通して︑自然神学を根幹とする彼

の神学思想を復元する方法である︒スースの宗教・神学思想については︑関連のある原文が通常想像されるほど繋

には乏しくは亀Lということもできるが︑とりわけ︑最近の研究動向にみ・bれるよ・つに︑ス︑︑︑スの学問方法論をな

す﹁天文学史﹂の認識論と神学観の光に照らして﹃道徳感情論﹂と﹃困口田論﹄の宗教.神学思想をみる接近法は︑ス

ミスの自然神学講義の内容を窺う恰好の手掛りをなすものとして︑不可欠の意義をもっている︒これまでの研究史で

も・たとえば・リンドグレンは︑ジョン・ミラふスミスの自然神学講義の第二の主題をなしていたと証言している

﹁宗教の基礎をなす人間精神の諸原理﹂の問題については︑﹁彼の占代宗教論と近代のキリスト教セクト論の分析が少

からぬ光を与麓﹂として・スースが天文学史Lで展開していた多神教批判の・つちにス︑︑︑スの自然神学講義の第二

の主題をなしていたといわれる宗教の人間学的根拠論をみている︒他方︑スミスの自然神学講義の第一の主題をなし

(3)

ア ダ ム ・ス ミス の 賄 罪 論  

3 ていたといわれる﹁神の存在と属性の証明﹂の問題については︑スミスが神の存在と来世における矯正的正義の有効

性に同意していたことを認めながらも︑それらの点についての﹁彼の同意は︑占代ストアの一神教に対するスミスの

認識論的反論からみて︑マクフィーがのべたように︑信仰の問題で︑厳密に合理的な意味での証明の問題ではなかっ

たという方が道理に合っているようにみ葱﹂としている・リンドグレンやマクフィ訂やラファエルらは・こうした

﹁天文学史﹂の占代宗教論解釈に基づく﹁天文学史﹂⁝﹃道徳感情論﹄1﹃国富論﹄の三者の宗教思想の対比的考察の

上にスミスの宗教論を再構成することを通して︑スミスが宗教の機能・役割を道徳教育に求めていた点にスミスの宗

教.神学思想の意義と特色を求めているといえるであろう︒これに対し︑酒井進氏は︑スミスがヒュームの認識批判

を継承しながら︑ヒュームの懐疑輩義を批判・克服する論理を構築することを通して︑﹁哲学による神の存在証明﹂を

行.た点に芙文学史Lの巌を求めて境︒こうした解釈の当否についての具体鞍珊及は・本稿の主題ではないの

で一切割愛する他ないが︑上述のような形の内在的接近は︑必ずしもスミスの宗教・神学思想が立脚していた当時の

自然神学思想についての知識を前提するものではないため︑スミス思想の暗黙の神学的仮定(§卑理①黛冨︒δα9一8一鋤印

︒・¢ヨ℃怠︒口)を見抜くことができずに︑スミスが﹃道徳感情論﹂や﹃国富論﹄で展開していた寮教思想(宗教の社会的効

用論)と︑﹃感情論﹄のn然的義務論のベースをなしていた神学観ないしスミス思想の神学的前提とを混同し︑スミス

神学の†題についての正しい認識に到達しえないままに終るおそれなしとしない︒こうした難点は︑最近の﹁天文学

史﹂ベースのスミス神学思想解釈が︑﹁天文学史﹂と﹃感情論﹄との聞にみられる神学観の転姿の事実に↑分な注意を

払うことなく︑﹁天文学史﹂の方法をそのまま﹃感情論﹄に機械的に適用している点にも端的に示されているといえる

であろう︒

こうした内在的方法と異なる第二の方法としては︑スミスの自然神学講義の基礎ないしモデルをなしていたハチス

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商 経 論 叢 第27巻 第3号

ンの自然神学思想と・その前提をなしていたクラークやバトラーその他のイングランドのそれや︑ケイムズその他の

当時のスコットランドの自然神学思想︑さらにはトマス・リードやドゥーガルド.ステユアートらの後代のそれとの

対比的考察によるスミスの自然神学思想の文脈分析を通して︑スミスの自然神学思想を復元する方法が考えられる︒

この方法は︑当時の自然神学思想が当面していた課題についての知識を欠く場合︑往々にして見逃されがちな﹃道徳

感情論﹄の暗黙の削得や思考の棒組を浮き彫りにし︑これまで不当に近代的に解されてきた﹃感情論﹄や﹃国富論﹄

の辞句のもつ含奮を明らかにする方法として︑前述のテキスト分析︑とりわけ﹁天文学史﹂の認識批判と一体的に展

開されるとき︑大きな有効性を発揮することであろう︒

筆者は︑こうした問題意識から︑前稿において極めて不十分ながら︑スミスの自然神学思想の直接のべースをなし

ていたと考えられるカーマイケルーハチスンーケイムズの自然神学思想の文脈分析を試みたが︑従来のスミス解釈の

通説的見解は︑主として上の第一の方法に基づいてスミスの宗教・神学思想を解釈してきたように思われる︒従来の

通説が︑﹃道徳感情論﹄の宗教・神学思想の特色を彼が﹃感情論﹄で展開した観察者の同感に基づく﹁義務の自然的感

覚﹂(鵠Oゴ﹂﹁叫}ωO訂ωΦOhα信一賓)の理論を神の名においてG︒帥口耳蕊Nδおロする︑自然理論の宗教化論(その帰結としての宗教

の社会的効用・機能論)を展開した点に求める一方︑その間に散見されるスミスの神学観は︑ストア的な楽観的理神論の

表現か︑でなければ︑自らの思想の近代性を隠すための紋切型の表現に他ならないとしてきたのも︑こうした接近

方法と無関係ではないといえるであろう︒これまでの通説では︑﹁スミスの主要な学説は⁝⁝最終的な神学的裁可に

対する彼の信仰とは全く独立して鹿﹂との解釈の上に︑スースが﹃感情論﹄の第三部で人間の自然の感情に基づく

道徳の規則を神の命令として神聖化し︑﹁宗教の恐怖が義務の自然的感覚を強化﹂(↓フ歳ω噸閏[伊声7臼N一トσ)するとしてい

た点にスミスの宗教・神学思想の積極的な意義が求められるだけで︑﹃感情論﹄の各所に色濃く展開されている神学的

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ア ダ ム ・ス ミ ス の 贈 罪 論  

5 な自然観は︑理神論的世界観の表現でないとすれば︑﹁自らの宗教的確信の非正統性をぼかす﹂ための胤..‑袈か・﹁読

者の同意を取りつける﹂ためのレトリックにすぎ施と考えられていたのである・スミスは・たしかに﹃矯論﹄第

三部や﹃国富論﹄第五編で﹁宗教の固有の機能﹂を﹁義務の自然的感覚﹂を強化する点に求める宗教の社会的効用論

を展開している︒しかし︑こうした天間の道徳を最後に神学的に裁可Lするという﹁あとからの駕..訊﹂(謝では・

スミスの展開した作用妙目的の地上の倫理自体の動態は理解できないだけでなく︑スミスはストアや同時代の理神論

にも反対していた事実が注意される要がある︒スミスの古代ストアや近代の理神論者との相違点が︑キリスト教的な

信仰を前提した自然観を鯖し︑百然に対する神の究極的支配を燕Lしていた点にあることは・リンドグレンも指

摘する通りであるが︑スミスは︑ストアや理神論者とちがって︑それなりの信仰をもっていただけでなく︑啓示を是

認していた節すらみられないでは亀︒しかし・問題の核心は・彼が啓示を承認していたかどうかという点にではな

く︑彼の理論が︑何らかの啓示.信仰に立脚する"宗教"の自然化論として︑当時の長老派カルヴァン主義の神学理

論を前提した上で︑その自然主義化を主題にしていた点にある︒スミスが﹃感情論﹄の第一・二部で展開した公平な

観察者の同感を唯一の原理とする義務の自然的感覚論は︑当時のスコットランド教会が依拠していた長老派カルヴァ

ン主義の神学観と︑それに基づくキリスト教的信仰を事実として前提した上で︑それを自然主義化しようとした当時

の自然神学思想の伝統に立脚する﹁神学の自然化﹂論として展開されたものにすぎず︑彼が﹃感情論﹄の第三部その

他で展開した﹁自然(理論)の神学化﹂論は︑上述のような形で自然化した理論を改あて裾ク.,聖︒,‑化することによっ

てその効用を強化しようとしたものに他ならない次第が注意される要がある︒

﹃感情論﹄の﹁義務の自然的感覚﹂の理論がこうした神学的前提に立脚していた次第は︑ハチスンケイムズの自然

神学の文脈分析からも知られる︒私は︑前稿において﹃感情論﹄の自然神学的構造・枠組を窺い知る手掛りを︑第一

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に︑当時のスコットランド啓蒙思想家たちの﹁自然神学﹂思想の共通の根幹をなしていた神の﹁デザイン論証﹂のた

めの百然の構造﹂思想が﹃感情論﹄においてもそのまま継承され︑それが﹃感情論﹂の基底をなしている点︑第二

に・こうした﹁自然の構造﹂の狡知性(手段妙目的の適合性)論証のツールとしてのケイムズ的な偶然論が﹃感情論﹂の

論理的支柱をなしている点︑第三に︑この世の地上の正義の前提条件として︑来世の﹁矯正的正義﹂の存在を認めて

いた点に見い出捻・その上でさらにご・つした自然神学的枠組に対応する形で︑ケイムズの展開した道徳的欺髄論

と同じような論理が﹃感情論﹂の"自然"理論の根幹をなしている次第をも明らかにした︒スミスの﹃道徳感情論﹂

は・ハチスンを中心とする当時の自然神学の伝統の上に展開されたものであったのであるが︑ハチスンやケイムズの

自然神学思想と異なるスミスの自然神学観の独自性は︑贈罪論が正義論の中で展開されている点にある︒

二 贋 罪 論 と 正 義 論 の 関 係

スミスは﹃感情論﹄の第二部第二編﹁正義と慈恵について﹂の第三章﹁臼然のこの構造の効用について﹂の一1五

版の最終節で︑次のような議論を展開している︒

神が徳を愛し悪徳を憎むのは︑社会の幸福を増進するからだというのは︑﹁自然の教説﹂ではなく︑﹁哲学の人為的

な学説﹂にすぎ偽・われわれの百然の感情Lは︑莞全な徳性Lが︑われわれのみなりず神にと.ても愛と報償の

自然の対象であることを信じさせるが︑われわれは︑神の神聖さの前では︑﹁人間の徳性の弱さと不完全さ﹂が報償に

価する以上に︑悪が刑罰に価するのではないかと恐れる︒人間は︑﹁無限に完全な存在﹂の前では︑自分の値うち︑自

分の行為の﹁不完全な適宜性﹂に信頼を感じることができない︒仲問の前では︑彼らのより大きな不完全さに較べて︑

自分を高く考えることもできるが︑無限の創造者の前では事情がちがう︒そのような存在の前では︑自分の小ささと

(7)

ア ダ ム ・ス ミ ス の 腰 罪 論  

7 弱さが薄敬と報償の対象となるとは考えられず︑逆に︑無数の義務の侵犯が彼を刑罰の対象たらしめることを感じる︒

神の怒りが人間のような﹁いやしい虫けら﹂に落ちない理由をみることができない︒それでも幸福でありたいと願う

としたら︑彼はそれを﹁神の正義﹂にではなく︑﹁神の慈恵﹂に懇願する他はない︒﹁悔恨﹂は︑そのような人間にふ

さわしい感情であるが︑彼はその有効性にさえ不信を抱き︑英知的な神でさえ︑弱い人間と同様︑罪を許すことはな

いのではないかと恐れる︒神の正義が人間の犯すさまざまな罪と両立しうるようになるためには︑何らかの﹁贈罪

(無o器ヨΦ黛ごが彼のためになされねばならないと考えられるが︑﹁啓示﹂は︑あらゆる点でこうした自然の本源的な期

待に合致し︑最もおそれ多い順罪がわれわれの﹁さまざまな逸脱と不正﹂(罪悪)に対してなされてきたことを示して

いる(↓ζω曽舜は,ω・路ZgPζ.一島山置)︒

スミスが﹃感情論﹄の第二部第二編第三章の末尾で展開したこの順罪論については︑周知のように永い解釈史があ

るが︑グラスゴウ全集版の編者の指摘するように︑﹁この節は︑キリスト教の啓示を結論で断固として裏書きしている

点でも︑(人間のようないやしい虫けらには神の怒りが落ちない理由はありえないというような)より初期の︹キリス

ト教徒の︺敬慶的な慣用句の誇張的な修辞の点でも︑スミスにとっては異例なもので﹂︑﹃感情論﹄の自然的義務の理論

とは関係ない﹁キリスト教的贈罪説の正統的な見解﹂の表明に他なら施とする解釈が雇的である・スミスが﹃感

情論﹄の六版でこの節全体を削除し︑それに代えるに︑﹁正しい者への報償のための場所とともに︑悪人の処罰のため

に用意された場所として︑極楽とともに地獄が存在したのである﹂(↓り晶ω"口︒口・らQ︒一凶̀竃・一轟α)という﹁無味乾燥な文章

を代替した﹂ことから︑その事実をスミスの信仰放棄ないし﹁スミスが正統信仰により懐疑的にな伝魍﹂証左とみる

のも︑同じ見解を裏返えしたものに他ならないといえよう︒﹃感情論﹄の購罪節は︑﹁彼が︹グラスゴウの︺教授である

ことを辞めたときには最早必要がなくなった長老派教会管理牧師層への鼻薬にす乱発﹂・正義論そのものとは関係が

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商 経 論 叢 第27巻 第3号

ないと考えられていたのである︒しかし︑スミスが贈罪について論及しているのは︑必ずしもこれが唯一の個所では

ない︒

(20)スコットが発見した初期の正義論草稿では次のような議論が展開されている︒

①﹁概惚は・われわれにとってと同様︑それ自身のために︑それ以上のことは考えるまでもなく︑愛と報償の自然

の正しい対象であるのに対し︑悪は憎悪と刑罰の対象であるが︑われわれは神の神聖さの前では不完全な人間の特性

が報償に価する以上に︑悪が刑罰に価するように思われるのではないかと恐れがちである︒人間は︑そうした完全な

聖浄さの前では︑自分の功績にほとんど信頼を感じえず︑自分の行為の無数の汚点と不完全さを想起するとき︑報償

の希望よりも︑刑罰を恐れるにちがいない︒神の正義は︑人類の犯罪に対する何らかの贈罪︑何かの償いを要求する

ことなしには満足されえないと考えられるが︑啓示は︑この贈罪が少なくとも人類のうちのより価値のある部分に対

(22)して要求されただけでなく︑支払われたことをわれわれに教えている﹂︒

②若干の場合には︑見張り中に眠ってしまった歩哨が戦時立法によって死刑に処されるように︑公益視点だけから

刑罰が課されることがあるが︑われわれの心はそのきびしさについてゆけない︒逆に︑忘恩の謀殺者が刑罰をまぬか

れる場合には︑われわれは大きく憤慨し︑人類の不正義のため地上ではきびしく罰されなかった罪に対する来世にお

(23)ける神の報復を要求する︒

③人類は正義の侵犯を同等者には絶対に許さないので︑侵犯された人間は憤慨をし復讐をすることに人々が拍手

かっさいし︑ついてくると考えるが︑各人が自分が侵害されたと感じるときに自分の手で復讐することになると︑市

民社会は血の海になってしまうので︑不偏の人格としての為政者の手による正義の執行が必要になる︒法と市民的為

政者の制度の起源はそこにある︒

(9)

ア ダ ム ・ス ミス の 賦 罪 論  

9 ④正義には配分的正義と交換的正義とがあるが︑前者の遵守が慈恵の徳を構成する︒この慈恵の諸規則は︑ゆるや

かで不正確であるが︑刑罰の諸規則もゆるく不正確で︑厳密には一般規則化しえない︒しかし妥当性を欠いた刑罰は︑

(24)罪人に対する侵害である︒

以上のような草稿の議論は︑草稿では観察者の同感論がいまだ成立していない意絶︑④を除き︑全体として﹁﹃道徳

(26)感情論﹄の印刷原文の他の章節と照応しており﹂︑とくに︑①②は︑第二部第二編第三章の﹁自然の構造の効用﹂論と

(27)同じであるが︑草稿では贈罪論が正義論の前に展開されていることが﹃感情論﹄との相違点として注目される︒グラ

スゴウ全集版の編者は︑このような草稿の構成に対し︑①の順罪論以外の﹁草稿の圧倒的大部分をなす草稿の残余は︑

(28)いわゆる順罪節と何も照応しない﹂とのべ︑﹁グラスゴウの道徳哲学教授として行った講義の一部である﹂草稿の主題

とする﹁講義は︑もとより正義に関するものであり︑キリスト教の晒罪説に関する一文は︑比較的末梢的なものであ

(29)る﹂としているが︑スミスはなぜ正義論に関する講義原稿そのものというより︑全体の講義計画書ともいうべき文書

の冒饗・文書全体の四分のぢのスペースをさいて正義論の導入ないし前提的な形で・﹃感情論﹄の贈罪節と同じよ

うな議論を展開したのであろうか︒この問題は︑それとして考究さるべき問題であるにもかかわらず︑従来掘り下げ

て問われることなく︑相対的に付随的・末梢的な問題とされるにとどまり︑長老派の教会関係者や牧師志願の学生層

()を考えての偽装ないし修辞にすぎないと解されてきたのであった︒こうしたとらえ方は︑スミスが﹃感情論﹄の

随所で展開している﹁自然の指導者﹂とか︑﹁自然のこの体系を工夫した英知﹂︑﹁摂理の計画﹂︑﹁創造主の摂理的配

慮﹂等の成句を﹁たんなる邸.聾.艦な藁﹂・ないし百らの宗教的確信の非正統性をぼ論Lための修辞または偽

装とみる解釈と同工異曲の発想であるが︑贈罪論が正義論の文脈で論じられるのは︑必ずしも正義論の主題と関係の

ない付随的・末梢的な問題ではない次第が注意される要がある︒

(10)

その次第を明らかにするため︑次に﹃感情論﹂正義論の構成を再検討してみることにしよう︒

スミスは︑﹃感情論﹄第︑一部第二編の第一章で﹁正義と慈恵﹂の﹁.一つの徳性の比較﹂を行ったのち︑第二章で﹁正

義の感覚﹂が﹁悔恨﹂ないし﹁処罰に価する﹂との一=匹ΦωΦ詳の意識に基づく次第を明らかにしている︒その上で︑﹁自

然のこの構造の効用について﹂と題する第三章で次のような議論を展開している︒

ω正義は︑社会の人黒柱なので︑正義を侵反すると処罰に価するとの一一一山ΦωΦ二の意識をもつように人間はn然に

構成されており︑すべての手段は意図された目的に適合するように作られているので︑人間も秩序維持という目的を

考えて行動する必要はない︒

②正義は︑個別の侵害に対する憤慨妙同感感情に基づくので︑社会の一般的利害への関心によるのではない︒

㈹若rの場合には︑歩哨の例にみられるように︑公益視点で判断せざるをえない事例もあるが︑人間の自然の感情

は︑それに伴う処罰のきびしさについてゆけない︒逆に︑忘恩の謀殺や不正にはきびしい神の正義を墓の向こうまで

要求するものである︒

ωしかし︑人間は神の正義に価しない弱く不完全な罪深い存在なので︑神のものである正義の純粋性が人間の犯す

さまざまな罪と両立しうるようになるためには︑何らかの贈罪が彼のたあになされることが必要であるが︑啓示はそ

れがなされたことを示している︒

スミスの贈罪論は︑このような﹁自然の構造の効用﹂章の第四節として展開されたものであるが︑ここで第一に注

目されることは︑﹁正義の感覚﹂が人間の自然の構造に基づくとされている点である︒彼がこうした﹁人間の自然の構

造﹂という自然神学的観念を下敷にした上で︑正義の原理を侵害を受けた当事者の憤慨感情に対する観察者の同感に

求めることによって︑効用正義論を批判していることは明白であるが︑こうした﹁人間の自然の構造﹂に基づく自然

(11)

ア ダ ム ・ ス ミ ス の 贈 罪 論  

11 憲

的正義の原理としての同感は︑感覚特有ρ︑︑仕をもたざるをえないものであった︒ハチスンやヒュームが︑スミス

に先立って︑正義の根本原理を被害嶋,れに対する観察者の同感に求めながら︑そうした感情原理に基づくけヘノリノ

熱 鞘 翫 辱 ゾ 懸 讐 訟 霧 灘 欝 璽 雑 細

者の同感﹂という人ー人関係原理とならんで︑感覚に基づく道徳判断の客観性の根拠(同感のk観性克服原瑚)を﹁状況

に即した適宜性(ω繭ε鋤二8巴等8ユΦ¢)﹂のうちに求める視点が含まれているといえよう︒﹃道徳感情論﹂から﹃法学

講義﹄をへて﹃国富論﹂に至るスミスの最大の思想セ題がこうした﹁観察者の同感﹂と﹁状況に即した適宜性﹂原理

⁝ ( 34 )

に基づく正義の自然法を歴史的に特定化する点にあったことは︑前著で詳説した通りであるが︑こうしたそのときど

きの状況に即した正義が文字通り地上の正義にすぎないことは明らかである︒﹃感情論﹄はこうした地上の正義の原理

の確立を主題とするものであったが︑正義の原理を観察者の同感に求めるこうした人‑人関係倫理の客観性は︑その

ときどきの状況における人聞相互間の地ヒの交通関係の規制原理としての妥当性に基づく相対的なものにすぎず︑そ

のときどきの状況を超える普遍性をもつものではない︒のみならず︑こうした地上の正義の判定圭体である﹁現実の

観察者﹂の同感は︑こうした状況に即した適宜性すらもたず︑当事者の状況的適宜性判断と対疏する場合がある︒そ

の典型が︑世論と良心とが対蹉する場合である︒現実の観察者(利害関係のない世間↓般の公平な観察者)の同感の集約と

しての世論が当事者のおかれた状況に即した適宜性をもたぬ場合︑当事者は﹁想像上の(内なる)公平な観察者﹂に訴

える他ないが︑そのとき﹁内なる観察者﹂としての良心の支えになるのは︑人‑人関係や個別の状況を超えた原理(効

用か神の権威)しかない︒効用原理を否定していたスミスが︑カラスの経験にかんがみ︑﹃感情論﹄六版で世論を超える

(12)

良心の支柱として﹁神の正義﹂を強調したのはそのためであったが︑スミスは六版になってはじめて神の正義を持ち

出したのではない︒彼は初版以来一貫して﹁神の正義﹂に言及しているだけでなく︑不正義が﹁処罰に価するという

われわれの感覚は︑それを墓の向うまで追求する﹂(一﹁竃Qo︑目.口5らQ・一トの・リム・一幽卜σ)ものであるとのべている︒スミスは︑利

害関係のない公平な観察者の同感(世論)を直接の原理とする地上の正義が不卜分な場合︑人間の自然的正義感は来世

における﹁神の正義﹂の実現に求めずには止まないと考えていたのであるが︑こうした人間の自然の感情を原理とす

る﹃感情論﹄の自然的正義論が神の正義を前提していることは︑腰罪節に先立つ第二部第二編第三章の効用正義論批

判の原文からも明らかである︒﹁社会の一般的利害﹂ないし社会存立の必要を正義の原理とする効用正義論とちがっ

て︑﹁侵害を受けたその個人への関心﹂(一﹁ζω"同︻・頃"ω.一〇脚ζ.一心O)から出発するスミスの自然的正義論は︑地上の共同

生活の要請から生まれる第三者の立場の論理を唯一の原理とするものではなく︑神の正義の存在を前提するものとし

⁝ ( 35 )

て︑地上の正義の原理としての﹁公平な観察者の同感﹂(世論)を超える原理を最初から内蔵していたのである︒

前述の賄罪節は︑このような正義論の文脈の中で︑右のω1㈹の正義論の補足として展開されたものであったので

あるが︑こうした﹃感情論﹄正義論の内実と構成は︑賄罪論が必ずしも正義論と無関係ではないことを示していると

いえるであろう︒スミスは︑人間が罪を犯すと︑自然に蝋悔恨﹂を感じ︑﹁処罰に価する﹂との﹁≡αΦωΦ﹁ごの意識を

もつ反面︑不正義には憤慨し︑墓の向うまで正義を求めるように自然に構成(︒9︒︒§三巴)されているとした上で︑そ

うした人間の自然の悔恨ないし憤慨感情に対する第三者の同感感情に立脚する地上の正義の判定主体としての人間

は︑弱く不完全で罪深いものでしかないため︑人間が﹁神の代理人﹂として正義を語りうるようになるためには贈罪

が不可欠であるとしたのである︒彼が︑草稿で正義論の冒頭に贈罪論を展開していたのも︑人間が悔恨その他の人間

の自然の感覚に基づく正義の主体になるためには︑その前提に人間の不完全さと罪深さを免罪する神の宥恕・贈罪が

(13)

ア ダ ム ・ス ミス の 賦 罪 論 13

必要であると考えたために他ならないといえるであろう︒

(36)﹃感情論﹄では一見こうした草稿の構成とは逆に︑贈罪論が正義論の末尾で論じられる形になっているか︑第二部第

二編の﹁正義と慈恵﹂論は︑全体として﹁人間の自然の構造﹂に基づく﹁正義の感覚﹂について論じたもので︑その

第三章末尾の贈罪節は︑そうした自然の感覚に基づく正義が贈罪を前提せずには成り立ちえない次第を事後的に明か

にすることによって︑人闇の自然の横造に基づく地上の正義を正当化しようとしたものに他ならないので︑本質的に

は贈罪論を正義論の前提としていた草稿の構造ととくに異なるものではないといえよう︒スミスがこの贈罪節に続く

次の第二部第三編で道徳感情に対する偶然の影響について論じたのも︑必ずしもスコットのいうような﹁理想的な排

(肝) ・⁝

列からほど遠い﹂ことではなく︑贈罪を前提する人間の道徳的行為が偶然に媒介されてはじめて成立する次第をみて

いたたあに他ならない︒スミスは︑そのような形で第二部で購罪を前提してはじめて成り立つ正義の自然的感覚につ

いて論じたのち︑第三部で改めて正義の一般諸規則論としての法の原理論を展開したのである︒

﹃感情論﹄の正義論と正義論草稿は全体として同じような前提に立脚していたのであるが︑いずれにしても以上の考

察で贈罪節が﹃感情論﹄の正義論と全く関係のない︑自らの思想の非正統性をぼかすためのたんなる偽装ないし修辞

にすぎぬものではないことだけは︑とりあえず確認できるであろう︒しかし︑スミスがなぜ贈罪論を正義論の不可欠

の条件と考えたかの理由は︑以上のような﹃感情論﹄の正義論における贈罪節の位置付けだけでは︑依然として不明

でしかない︒この疑問に答えるためには︑スミスの自然神学観の思想史的文脈をたずねる要がある︒

三 順 罪 節 の 思 想 史 的 文 脈

一八世紀初頭のスコットランドは︑厳格なカルヴァン主義長老派の支配下にあったが︑カルヴァンやノックスその

(14)

他の改革者たちの思想的支柱をなしていたアウグスチヌス神学は︑﹁原罪と人間の生来的腐敗﹂を強調するペシミズム

(38)に立脚していたのであった︒これに対し︑﹁万人ではなく若.Trの人間だけが永遠の至福をチ定されている﹂という﹁神

(39)(40)﹁人文主義や世俗倫理につながる側面﹂の恩寵ないし撰び﹂の信仰に肱脚するカルヴァンの9茜αΦ質毛印巨の教説は︑

をもってはいたが︑その前提をなすf定説の信仰は︑ミルトンをして﹁たとい地獄に堕されようとも︑私はこのよう

()な神を絶対に尊敬することはできない﹂と語らしめるほど︑恐るべき不合理な教理であった︒﹁ハチスンが﹂︑﹁自然の

構造﹂分析を通してn然の中に神のデザインをみることによって︑﹁カルヴァン主義の予定と撰びの教説と根本的に対

(42)立する自由セ義的なキリスト教像を学生たちに提供した﹂といわれる一つの背景はそこにある︒ハチスンやその後継

の穏健派知識人たちは︑カルヴァンセ義の理論的支柱をなしていた原罪と予定のドグマをあからさまに否認すること

なしに︑神の存在と属性が自然の構造分析を通して論証されうる次第を明らかにすることによって︑啓示を前提しな

くとも︑信仰が擁護されうることを示そうとしたのである︒ハチスンを開祖とするスコットランドの啓蒙思想家たち

は︑﹁人間のn然の構造﹂のうちに神のデザインをみる﹁自然神学﹂埋論を構築することによって︑アウグスチヌス的

カルヴァン主義のドグマから脱出することを﹁啓蒙﹂のt題としていたのである︒しかし︑ハチスンやモダレーツは︑

神の設計した﹁自然の構造﹂の自律性を完全には論証しえなかったため︑仁愛その他の社会的感情が﹁人間の自然の

(43)構造﹂に基づく次第を形而上学的に強調せざるをえなかったのであった︒

こうしたハチスンの自然の構造分析の非経験性をきびしく批判することを通して︑それに凱脚していたハチスンの

目的因説と仁愛セ義的実践道徳論の難点を衝いたのが︑デヴィド・ヒュームであった︒ヒュームは︑自然の中にその

α①ω帥αqロΦきoo簿ユく費としての神のデザイン(目的因)をみようとしたニュートンやハチスンその他の自然神学思想の

認識論的難点を衝くことによって︑ハチスンの情念道徳論の非経験性を暴露したのである︒

(15)

ア ダ ム ・ス ミ ス の 順 罪 論  

15 こうしたヒュームの認識批判に直面して︑自然神学観そのものを大きく転換させることによって︑ヒュームの批判

に対処しようとしたのがケイムズであった︒ケイムズが︑その道徳論の展開にあたって︑ハチスン的な目的因論証で

はなく︑逆に︑デザイン論証を迂回する形で︑予定説の信仰に基づく目的因の支配を前提した論理を展開した所以は

そこにある︒彼は︑前稿で詳説したように︑宇宙の万物が人間をも含めて必然法則の支配下にあり︑すべては予定さ

れ決定されているとしながらも︑それがみえないことから︑人間には偶然・自由の余地があるかのごとく感じる感覚

に欺臓されて︑インダストリに精を出し︑道徳的感情をもつことが神の意図した目的である自然の必然法則の実現に

資する結果になるとしたのである︒このケイムズの理論は︑普遍的な必然法則の支配を前提した上で︑それがみえな

いことから生まれる偶然・自由の感覚に基づく人間の自由な行動のうちに道徳感情の成蹉可能性を問おうとしたもの

であったが︑人間の行為がすべて必然法則の支配下にあり︑自由は﹁感覚の欺隔﹂の産物でしかないとしたら︑人間

の行為の道徳性も所詮欺臓的なものでしかないことになってしまうであろう︒ケイムズの﹁道徳的必然﹂論が︑道徳

を破壊し︑神に対する人間の責任を否定するものとして︑はげしく糾弾・追及され︑彼自身も自分の理論が

﹁善悪無差別の白由﹂論につながる側面をもっていたことを認めた所以はそこにあるが︑スミスがグラスゴウで︑﹁道

徳哲学﹂の講義をする傍ら︑﹃道徳感情論﹄の執筆を準備していた時期のスコットランドの思想状況は︑以上のような

ものであった︒こうした当時の思想状況︑とりわけ︑前述のようなハチスンの自然神学観に対するヒュームの認識批

判と︑それに対するケイムズの対応とその帰結をスミスが身近かな問題として受け止めた上で︑自然神学講義をして

いたであろうことは︑ほぼ確かであるといえよう︒自然神学を根幹とするスミスの道徳哲学体系が︑こうした問題︑

とりわけ︑ケイムズの展開した道徳的欺隔理論に対するリプライであったのではないかとの理論的仮説の下にスミス

の道徳哲学体系の再講成を意図することが︑必ずしも見当ちがいの独断ではないと愚考する根拠はここにある︒

(16)

しかし︑こうした文脈分析の帰結として想定される理論的仮説を検証するためには︑スミス自身が︑どのような

形でヒュームの認識批判の影響下に自らの思想を形成していったかを知る必要がある︒その手掛りをなすのが︑﹃道徳

感情論﹄に先立って︑ヒュームの認識批判の影響下に執筆されたと考えられる﹁天文学史﹂である︒

四 ﹁ 天 文 学 史 ﹂ 科 学 論 の 意 義

スミスの﹁天文学史﹂は︑周知のように︑異常な見慣れぬ対象に当面するとき自然に驚異の感情にかられる人間の

想像力の働きによる︑自然の﹁みえない結合連鎖﹂(随口く一︒︒筐①8暮8鉱品︒訂一霧)の発見を主題とするものであった︒

彼が︑その次第を天文学の歴史に即して論証した﹁天文学史﹂の中で︑﹁予期せぬ出来事はほとんどすべてみえない設

計存在の恣意のせいにし﹂(舅塵・﹁自然の不規則な出来事はすべてみえない知的な存在の依枯贔屓か不興か︑

神々やデーモン︑魔女︑魔神︑妖精のせいにする﹂(国℃ρお)原始人の習性を否定した理由は︑そこにある︒スミスは︑

自然の結合原理の探求を哲学(科学)の主題としたため︑自然の不規則性をすべて﹁ジュピターのみえない手﹂(電︒︒耀

お)のせいにする多神教をきびしく批判することになったのであるが︑このようなスミスの思想態度が︑物理的な自然

の探究に目的因を持ちこむことを否定し︑﹁自然の働きの記録の代りに︑自然の意図に関する推測を代用することの不

条理を指摘し煙﹂ベイコンの目的因批判の精神に依拠していることは明らかである︒スミスは︑ベイコンに従って︑

自然探究にさいしては自然の意図の推測はすべきでないとしていたのであるが︑このようなスミスの考え方は︑ベイ

コンやヒュ!ムと同様︑結果からの原因の論証としてのデザイン論証の原理的否定を含意するものであったといえる

であろう︒自然の観察を通してその考案者のデザインを明らかにしようとするデザイン論証は︑自然の構造の経験

観察と類比を通して︑合目的的な自然の考案者としての一神の存在と属性を論証しようとするものなので︑自然の不

(17)

ア ダ ム ・ス ミス の 順 罪 論  

17 規則性のうちに神々の恣意をみる多神教とは本質的に異なっているが︑自然の究極原理を﹁何らかのみえない設計能

力の指示﹂(国℃ρお)に求あることを拒否する﹁天文学史﹂の論理は︑自然のうちにその究極原因としての神のデザイ

ンを見い出そうとするデザイン論証の精神とは根本的に相容れないからである︒﹁天文学史﹂の自然観が︑﹁自然の仁

愛的な目的﹂や﹁自然の摂理的な配慮﹂(国]℃m甲矯一α①り一①釦)を強調する﹁外部感覚論﹂や﹃道徳感情論﹄の有機的.神学的

自然観とちがって︑無色透明.純粋無機的で設計者の手を感じさせないのも︑自然の中に神の手をみることを拒否す

るこうした方法態度によるといえよう︒スミスは︑自然そのものの中に神の手をみむことを排し︑自然をそれとして

冷徹な科学者の目で純粋経験的に観察することを通して︑自然の﹁隠された連鎖﹂を明らかにする点に﹁科学﹂の課

題を求めていたのであるが︑こうした軸天文学史﹂の認識方法論が︑ベイコンの方法とともに・酒井進のいうよ臥麗・

ヒュームの認識批判を踏まえたものであったことは明らかである︒スミスは︑﹁天文学史﹂で︑﹁結果と原因という言

葉は︑"相関的〃な用語にすぎないので︑論点先取の虚偽(℃Φ蔓δ胃ヨ島9)を犯すことなしに︑前者から後者に移る

︹箪の襲からその原因を推論する︺}芝はでき偽﹂としたヒュ去の因果律批判の論理に従って・輩から原因を推

論するデザイン論証の原理的難点をすでにはっきりと見抜いていたのである︒

しかし︑彼がベイコンやヒュームの影響下に目的因論証(︾﹁αq億ヨΦ葺ぎヨ閃ヨ巴O鋤・︒︒①︒︒)を否定していたということ

は︑必ずしも神の存在証明そのものが不可能であるとスミスが考えていたことを意味しない︒スミスは・ヒュームの

いうように事物間の"相互的な適応や適合"以上の特定のデザインは経験的には論証しえないとしても・﹁はじまりの

あるものには原因がある﹂限り︑その原因としての神の存在証明はでき論・考"えていたように思われる・

周知のように︑スミスは︑﹁天文学史﹂その他の中で古代の天文学や物理学が宇宙を法則的に動く﹁完全な機械﹂で

あるとする機械類比によって︑その考案者としての神の存在を類比した点に一神起の起源をみている︒その点をより

(18)

集約的に表現した網占代物理学史﹂の言葉を引用すれば︑﹁宇宙が︑普遍的な法則によって支配され︑それ自体(と︑

その中に存在するすべての種)の保存と繁栄という全般的目的を指向する完全な機械︑首尾一貫した機構とみなされるよ

うになるや否や︑宇宙と人間の技術によって作られる機械との明確な類似が︑必然的に世界の最初の形成にさいして

も・人間の技術に似ているけれども︑人間の技術が生み出す機械よりも世界の方がすぐれている分だけはるかにすぐ

れた技術が使用されたにちがいないとの確信を哲人たちに与えた︒⁝⁝それで︑無知が迷信を生んだように︑科学が

神の啓示によって教化されていない国民の間に現れた最初の一神教を生誕させたのである﹂(電ω﹄一ωム)と︑スミスは

考えたのである︒この論理が︑ヒュームの批判対象であった類比論に立脚していることは明らかである︒スミスが︑

上述のような占代の哲学者の思想を自説とは断定嘉︑ニューンがこうした機琵に基づく神の存在証明をより

強力に展開した次第について言及を避けた理由も︑そこにあったのではないかと推測される︒しかし︑上の機械類比

は二般のデザイン論証のように︑自然の諸現象から直接その原因としての神の存在と属性を論証するものではなく︑

自然の一般法則の探求を通して明らかにされる宇宙の構造の機械との類比から︑その考案者としての神の存在を因果

論的に論証しようとしたものであった︒スミスの州天文学史﹂の神観念が︑自然科学的な神学観(﹁科学としての神学﹂(51)観)に立脚していたといわれる所以はここにあるが︑こうした自然科学的な神観念は︑︽自然︾を︽機械︾と同じ合理

的な法則性に従うものとした上で︑その創造者(第一原因)に神をみる考え方に立脚するもので︑スミスのいう﹁n然

の創造者﹂としての神観念とも両立しうるといえよう︒スミスは︑前述のような無機的自然観に対応する自然h機械

観の上に︑その考案者としての神観念を因果的に導いていたのである︒しかし︑こうした因果的な命題から導かれる

科学的な神観念は︑神の存在証明の手段たりえても︑神の属性(性格や人格性等)についての知識は何ら与えるものでは

な(磁︒ヒュームの批判を踏まえた上で神の存在を科学的に証明しようとしたスミスが︑その帰結としての科学的神観念

(19)

ア ダ ム ・ス ミ ス の 贈 罪 論  

19 にダウトを感じていたのではないかと考えられる根拠はそこにあるが︑その手掛りをなすのが彼のストア批判である︒

スミスは︑﹁天文学史﹂の中で︑上述のような科学観に基づく一神観念を提出したストア思想を次のように批判して

いる︒

第一に︑スミスによれば︑一神教を生み出した﹂科学的自然体系Lは︑称賛すべきもので崇高でさえあるが・それ

はあくまでも︑﹁自然のそうしない限り結びつかない不整合な諸現象を結びつけるための想像力のたんなる創案﹂にす

ぎず︑﹁自然がそのさまざまな働きを束ねるさいに使用する本当の連鎖(器巴oゴ巴塁)﹂(国℃ω﹄Oα)ではない︒こうした

自然の真実の連鎖と創造力の産物を区別しないで︑自然法則の科学的解明から神を類比するのは︑認識論的に問題が

あるだけでなく︑それでは客観的な法則の支配下にありながら︑その真実の連鎖がみえないことから生まれる人間の

問題は理解できない︑とスミスは考えたのである︒

ストアの第二の難点は︑ストアの機械的な自然観では︑人間を含めた万物が科学的に解明される自然の必然法則に

従うものとされるため︑人間には道徳的︑目由の余地がありえない点にある︒リンドグレンの言葉を借りていえば︑コ

神教の神は︑自然そのものの支配者とみなされ⁝⁝彼の支配は︑宇宙の全体系のたんなる部分にすぎない人間のつま

らぬ道徳によってではなく︑彼自身の本性の内的必然性によって決定されると考えられていた﹂ので︑二神教徒は︑

自然の通常の過程を差し止めることを意図する行為を容認することができず︑⁝⁝人間は︑自然の偉人な体系のたん

なる部分にすぎない彼のつましい位置を意識して︑かりそめにでも︑そうした卓越した英知によって支配される壮麗

で精巧な有機的組織体を撹乱しないように気づかうこと以外はなしえないし・すべきで亀﹂とされたのである・

スミスは︑こうしたストア的一神教の難点を漠然と感じながらも︑﹁天文学史﹂や﹁物理学史﹂ではいまだ上述のよ

うな科学的神観念に立脚するストア的一神教の難点についての明確な指摘はなされていない︒スミスがストアの科学

(20)

的自然観の道徳論的欠陥について明示的な批判をしたのは︑周知のように︑﹃感情論﹄になってからで︑それも六版で

主として行われたものに他ならない︒にもかかわらず︑スミスは︑﹁天文学史﹂や﹁物理学史﹂の分析を通して︑自然

法則の普遍的妥当性を信じるストア的必然論ないしそれに対応する科学的一神論によれば︑人間には偶然.自由の余

地はなく︑人間も物体や動植物と同じく自然の必然法則に従う他ないが︑人間には自然の必然法則は分らず︑かりに

分っても︑人間は必ずしもそれに従わず︑逆に︑自然法則を逸脱してさまざまな罪を犯す点にこそ生きた人間の問題

が成立する基盤があることを自覚するようになったのである︒

スミスが﹃感情論﹂で︑ハチスン的なデザイン論証とは反対に︑自然の必然法則の支配とその創造者としての神のミリ  デザイン(目的因)と人格神の仁愛(贈罪)を前提した議論を展開するに至った認識論的根拠はそこにある︒スミスは︑

昊 文 学 史 L や ﹁ 物 理 学 史 ﹂ の 分 析 を 契 讐 ・ 人 間 に は 轟 な ﹁機 ﹂ 類 比 が 妥 当 嘉 ︑ 逆 に ︑ 自 然 蘭 か ら 逸 脱 し て

罪を犯すところに生身の人間の問題が成立する次第を自覚するようになったことから︑自然の﹁みえない結合連鎖﹂

の発見を主題とし︑不規則性を﹁みえない設計力﹂の働きに帰することを否定していた﹁天文学史﹂とは逆に︑自ら

の罪深さに対する何らかの救いを求めずには止まない人間本性の事実からの論証を溢題とすることとなったのであ

る︒﹃道徳感情論﹂の神観念がすぐれてキリスト教的な性格をもつ所以はそこにある︒スミスは︑デザイン論証が完全

には不可能で︑さりとて科学の神では人間の問題は解けないことの自覚から︑﹃感情論﹂では神のデザインとキリスト

教的な人格神の仁愛(晒罪)を前提した議論を展開することになったのである︒

五 ﹃道 徳 感 情 論 ﹄ の 神 学 的 構 造

﹁デザインの存在がアダム.スミスの道徳哲学の基礎で麓Lとい・つ言葉がスース思想の核心を衝いた見解である

(21)

ア ダ ム ・ス ミス の 贈 罪 論  

21 といいうる根拠が︑以上の点にあることは明らかである︒スミスは︑ハチスン的目的因論証に対するヒュームの認識

批判に触発された﹁天文学史﹂の分析を契機にたどりついた機械と人間との差異の認識から・﹃感情論﹄において改め

て﹁自然の創造者﹂としての神のデザインと人格神の仁愛を静提(仮定)した理論を展開することになったのである︒

﹃感情論﹄は︑キリスト教的な信仰と何ら矛盾するものではなく︑逆に︑神のデザインとキリストの贈罪を多くの人間

が認めている事実の承認か.b出発したものであ.たのであるが︑こうしたデザイン静提の道徳哲学が可能になるため

には︑ストア的必然論においては問われることのなかった必然と自巾の関係が問題にならざるをえない︒神の設計し

た自然の必然法則の支配を認める場合︑自然の一部としての人間の降肝の可能性ないし根拠が改めて問われざるをえ

ないからである︒

﹁自由と必然﹂の問題が占来さまざま形で問題にされてきた一つの背景はそこにあったが︑ヒュームは・周知のよう

に︑﹁恒常的接合﹂以上の必然法則の認識可能性を否定していただけでなく︑必然法則の起動因としての目的因をも認

めなかったため︑人間が必然法則の拘束下にあることをとくに問題にする必要があるとは考えなかったのであっ(姻︒

彼が︑必然法則からの自由の論理の確甑を人間の行為の条件としてとくに要請することなく︑﹁唯一の実在原因(↓冨

︒コξ..山一︒鋤二︒︒.ごとしての人間の行為の必然法則の科学的解明をセ題としたのはそのたあであったが︑ケイムズのよ

うに︑﹁人間の行為がすべて純粋の物質を支配する法則と同じく必起的な働きをする普遍的な法則によって支配され

ており︑⁝⁝万物が道徳界でも物質界と同様︑摂理によって確立された定められた法則によって軌鯉﹂ことを承認す

る場合︑人間の道徳的自由の可能性が改めて問われざるをえないことになるであろう︒ケイムズが﹁自由と必然﹂論

を﹃道徳.自然宗教原理試論集﹄の第一部の﹁道徳原理論﹂の中心主題とした理由がそこにあったことはすでにみた

通りであるが︑スミスは︑人間が﹁自然の不可変の諸法則によって受難する﹂(一門リ晶ω︺自りもゆ幽卜σQQゆり謡・鱒のO)場合があること

(22)

を認あているだけで︑ケイムズのように人間の行為がすべて必然法則に規定されているとは明言していない︒スミス

は・ロックやヒューム︑ケイムズらとちがって︑﹁臼由と必然﹂の問題を正面から取り上げることはなかったのである

が︑スミスのストア批判は︑スミスの主題も人間を含めた万物が自然の必然法則に従うとするストア的必然論を前提

した上で︑それからの解放の論理を構築する点にあったことを示しているといえよう︒

目的因説を前提する場合︑必然的に当面するこうした﹁n由と必然﹂の問題に対し︑ケイムズは︑既述のように﹃試

論集﹄の第一部の﹁自由と必然﹂章でカルヴァン的予定説の信仰に基づく自然の必然法則の支配を前提した上で︑そ

れが﹁隠されて﹂いて﹁みえない﹂ことから生まれる﹁偶然・自巾の感覚﹂に欺隔されて︑目的の期成因(作用因)と

しての人間が自由に活動することが神の意図した目的ー必然法則の実現につながるとしたのであった︒

スミスは・こうした論理を展開したケイムズとはちがって︑カルヴァン的予定説の信仰を承認していることをウエ

ストミンスター信仰告白に署名した以外にはどこでも明言していないが︑スミスも︑ケイムズと同様︑﹁自然の不可変

の法則﹂(必然法則)とその起動因としての目的因と﹁神の永遠の正義﹂の支配を前提した上で︑弱く不完全な存在でし

かない人間にはそれが﹁はっきり認知﹂されず︑﹁摂理の意図も⁝⁝詳しく啓示されて﹂いないため︑﹁この世の項細

な業務に精を出すことが可能になる﹂(一門ツ﹄ω圃自同.トこ.ω一ツ州〇一①'ζ・一⑩㎝)次第を認めている︒こうした自由な行動から隼まれ

る﹁われわれのさまざまな逸脱と不正﹂角ζω﹄﹄.ψ誌Z9ρζ﹂画轟)が﹁神の正義﹂と柑容れないことは前述の贈罪

節の叙述の示す通りであるが︑スミスは︑こうした﹁人間のさまざまな罪﹂は(順罪)信仰によって義とされるだけで

なく︑贈罪が完全に行われると︑人間は﹁自己利害関心から災難を避ける動機をもちえなくなってしまう﹂(↓ζω.目.

ρ団︒︒.ζ.器一)ので︑自然は︑人間が手段の適合性を追求することが自然に意図された目的を実現する結果になるよう

に・万物を作ったのであると︑スミスは考えていたのである︒前稿で引用したスミスの原文を重ねて抜粋すれば︑人

(23)

ア ダ ム ・ ス ミ ス の 贈 罪 論 23

間が﹁自然の不可変の法則によって受難する﹂とき︑﹁彼女が授ける償いは︑非常に人きなものではあるが︑それらの

法則が科する受難を完全に償うには長分でない︒そうであることもまた適当ではない︒自然が完全に償うと︑人間は

自己利害関心から災難を回避する動機をもたなくなる⁝⁝ため︑自然は彼女の親のような配慮から︑彼が懸命にすべ

てのそうした災難を回避するように意図したのである﹂(↓ζρ臼鱒N︒︒.ζ﹄①O山)︑とされていたのである︒

こうした思想は︑必ずしもそれほど体系的に展開されたものではなく︑自説を補強するため︑一版と六版で挿入され

たものにすぎないので︑これらの断片を安易に前述の贈罪節に結びつけることは危険であるが︑スミスが﹃感情論﹄

の論理展開に当って︑カルヴァン主義の予定説や撰びの教説を当然のことながら前提した上で自らの理論を展開して

いた次第を想起するとき︑L述の断片と贈罪節との関連もおのずから明らかになることであろう︒スミスは︑カル

ヴァン主義的な神学思想に従って︑神によってあらかじあ予定された自然の必然法則の支配(予定説の信仰)︑その起動

因としての目的因を前提しながら︑それがみえないため︑自然法則を逸脱して自由に走る人間の行為を瞳罪(信仰)に

よって義とし︑神の目的期成のための作用因の活動として容認する一方︑贈罪(神の恩寵に基づく救済11撰び)が偶然に

左右されることから︑摂理の意図が﹁はっきり認知されぬ﹂ままに︑﹁この世の環細な業務に精を出し﹂︑手段の適合

性を追求することが自然の意図の実現につながる︑と考えていたとの想定が成り立つからである︒こうした考え方を

より定式化すれば︑スミスは︑神の予定した自然の必然法則(その起動因としての日的因)の支配11認知不能妙法則乖離

妙無差別(無制約)の自由月原罪‑不正義妙贈罪1ー(撰び)11偶然ー目的期成因(作用因)の自曲"手段の適合性追求妙

目的因ー1自然の必然法則実現というシェーマに従った論理を展開していたとみることができるであろう︒

このシェーマがカルヴァン的な予定と撰びの教説を前提した論理であることはいうまでもないが︑スミスの自然神

学観の基本的枠組がかりにこのようなものであったとすれば︑スミスの自然神学観の思想史的意義と独自性は︑ケイ

(24)

ムズ的な予定説の論理に基づく必然‑ー不可知11偶然・自由ー欺隔論の中間に原罪妙贈罪論を導入することによって︑

ケイムズ的な﹁道徳的必然﹂論の難点を除去した点に求められることになるであろう︒ケイムズのように︑道徳感情

の根拠を必然法則がみえないことから生まれる﹁偶然・自由の欺隔的感覚﹂に求めるだけでは︑自由は道徳性を伴わ

ぬ﹁善悪無差別の自由﹂たらざるをえないが︑法則を逸脱して自由に走る人間の行為が贈罪(信仰)によって義とされ︑

神の目的期成のための作用因の活動として認知されれば︑人間の自由な活動も︑必然法則がみえないためのたんなる

欺購の産物ではなく︑逆に︑神の正義にかなったものとなるからである︒

しかし︑こうした贈罪論を中核とするスミス神学の最大の核心は︑自然法則がみえないことから生まれる人間の自

由な行為が契機になって︑逆に神の設定した作用妙目的の自然の客観法則が実現されるという︑自由11作用妙目的ー

必然の論理が道徳哲学体系の根幹をなしている点にある︒スミスは人間を含む万物にみられる作用妙目的の論理の普

遍性を強調しているが︑この論理はすべての場合に自由を前提するものではない︒﹁宇宙のあらゆる部分において︑わ

れわれは諸手段がそれらによって生み出すことが意図されている目的に見事な技巧で適合させられているのをみる︒

われわれは動植物のメカニズムにおいて︑いかにすべてのものが自然の二大目的である個体の維持と種の増殖を促進

するように工夫されているかに感嘆する﹂(ハ門7繭Qo.口.口・ω.O"7臼一ω①)︒﹁あらゆる目的は︑︹このように︺自然がその獲得の

ために樹立しておいた手段によってのみ獲得さるべきである﹂(一門7臼gQ響目︻■笛.一〇噌7臼国一Φ)が︑その作用の仕方11作用因と

目的因の関係は︑動植物や物体の場合と人間の場合とでは根本的に異なる︒﹁両者は︑共通の目的因をもつが︑作用因

は二つの場合に根本的にちがった形で機能しうるとしばしば主張されている︒"自然の〃行動はつねに"良い〃行動で

あるが︑全くの物理的必然からなる非理性的物体は︑自然の諸法則に従いそれから乖離する可能性はないのに対し︑

人間は︑自由意志を与えられているので︑この世の︑または来世の刑罰という犠牲を伴いはするが︑自然の諸法則か

(25)

ア ダ ム ・ス ミ ス の 賊 罪 論 25

(64)ら逸脱しうる﹂︒物体の場合には︑作用妙目的の自然法則が物理的に貫徹するので︑それからの逸脱は問題にならない

が︑人間は︑自由意志を与えられているので︑作用妙目的の論理の機能の仕方が︑物体や動植物の場合と大きく異な

り︑自由に媒介される︒

人間の抱く道徳感情と自然法則との乖離が生まれる根拠も︑そこにある︒しばしば引用される﹁勤勉な悪漢﹂の例

の示すように︑﹁自然が⁝⁝人間に従うように促す規則は︑自然が自ら守る規則とはちがう︒自然は︑あらゆる美徳と

悪徳に対し︑前者を奨励し後者を抑制するのに最もよく適した正確な報償または処罰を与える︒彼女は︑唯一この考

慮だけによって指導され︑人間の感情や情念の中に含まれているように思われるさまざまな度合の値打と欠陥にはほ

とんど顧慮を払わない︒人間は︑反対に︑それだけに顧慮を払い︑あらゆる美徳とあらゆる悪徳の状態を彼自身がそ

れに対して認める度合の愛と尊敬ならびに軽蔑と嫌悪に正確に比例させようと努めるのが常である﹂(目竃︒6哺扇.姻P竃■

量からである︒しかし︑﹁このような乖離の可能性も・神の諺爵の一部で麓﹂・﹁両者はともに・世界の秩序と人間

本性の完成と幸福という︑同一の偉大な目的を促進するようにもくろまれている﹂(↓7角Qり曽目,9㊤"ツ﹄噛トこ一Qo)ので︑別段支

障はないが︑人間の場合には︑作用因圭体の自由な活動を前提するため︑自由に伴う道徳的責任が問題にならざるを

(66)えない︒スミスが︑作用妙目的の論理の実現が人間の場合には自由妙必然の形をとることから生まれる道徳的責任の

問題に淫目することなく︑人間も自然の諸法則に無条件に従うべきであるとしていたストアの道徳的無関心論(自然

法則11道徳法原理論)を批判した理由の一つはそこにある︒

スミスは︑ストアとちがって人間界における作用妙目的の論理の主体性︑人間の自由に伴う責任の問題に注目して

いたのであるが︑この臼由目作用妙目的論の意義と特色は︑ストア的必然論やロック的自由論︑さらにはケイムズ的

欺隔論とちがって︑目的の期成因としての作用因の論理を鍵にして自由妙必然論が展開されている点にある︒周知の

(26)

ように︑ストアは︑自由を自然の必然法則の観照妙服従のうちにみていたのに対し︑ロックは︑欲望の一時停止妙選

択のうちに必然からの自由の余地を見い出したのであった︒他方︑ケイムズは︑既述のように︑自巾は必然法則がみ

えないことから生まれる﹁感覚の欺隔﹂の産物にすぎぬとしていたのであった︒ケイムズの近代性は︑こうした欺隔

的な偶然ないし自由の感覚が必然の実現を可能ならしめるとした点にあるが︑n由n体はあくまで欺隔にすぎぬとし

た点で︑いずれも自由と必然とを対凱的にとらえる思想伝統に立脚するものであったといえるであろう︒こうした先

行思想と異なるスミス思想の特色は︑目的の期成因としての作用因の自由な活動が逆に目的(必然)そのものの実現を

可能ならしめるとした点にあるが︑その意義を理解するためには︑この論理の認識論的性格を明確にする要がある︒

既述のように︑スミスは︑ハチスンやケイムズ同様︑自然の必然法則の支配・貫徹を肯定した論理を展開している︒

こうした想定は︑スミスが認識論的には︑ハチスンやケイムズと同様︑実在論と主知圭義の思想伝統に立脚していた

ことを窺わせるが︑スミスは︑その一方でヒュームの認識批判を認めていたため︑自然からの推論としてのデザイン

論証を迂回する形で︑目的閃と必然法則の支配を前提(仮定)したトで︑その内実をデザインの唯一の有効化因として

の﹁自由な行為者﹂の行動の経験観察を通して明らかにしようとしたのであった︒この論理は︑事実上﹁唯一の実在

原因﹂としての人間の自由な活動の法則性を経験的に解明しようとしたヒュームと同じであるが︑ヒュームは︑原因

‑結果間には恒常的接合以上の必然的関係はなく︑目的の期成(有効化)因としての作用因の存在をあらかじめ想定す

(67)ることは︑論証点を予め仮定することであるとして︑﹁因果律にΦhh一︒δ口︒蜜(有効化・期成.作用)の観念を結びつける﹂

(68)ことを否定し︑結果から逆にその原因を特定する乎段とされていた一作用因の存在を否定した﹂のであった︒このよ

うなヒュームの作用‑目的因論批判は︑個別を超える実在の認識可能性を.否定する唯名論の思想伝統とも対応してい

ると考えられるが︑こうしたヒュームの思想は︑人間を目的因説ド必然論の制約から解放する反面︑自然の客観法則

参照

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