ディルリク制度からディルリク・カザー制度へ *
18
世紀のオスマン朝およびヨーロッパ諸国における近世国家体制をめぐって 多 田 守From Dirlik System to Dirlik-Kaza System
Problems of the Early-Modern State System in the Eighteenth Century Ottoman Empire and European Countries
T ADA , Mamoru
Under the Ottoman Empire during the second half of the eighteenth century, systems were organized at the kaza (district) level for the mobilization of soldiers, tax collection, and maintenance of public order in districts such as Göynük and Ankara in central and western Anatolia. Soldiers, full-time or otherwise, were mobilized under the tevzihane (household apportionment) instituted in each kaza. Tevzi defterleri (apportionment registers) were prepared in each kaza to facilitate efficient tax collection, and the teftiş (activities of public order maintenance) by the mutasarrıf (governor of a sub-province) and vali (provincial governor) were institutionalized in the kaza unit. I refer to this new system, formed mainly by the ayan (local notables), as the dirlik-kaza system.
Nonetheless, the dirlik system continued to be the foundation of the government, and illegal taxation by the askerī (ruling class) and looting by part-time soldiers released from the army continued unabated. Thus, the dirlik-kaza system could be regarded as a type of government that emerged in the transition from the dirlik system to the modern system of governance.
However, the Russo-Ottoman wars broke out again, and the Ottoman Empire suffered crushing defeats. As a result, at the end of the eighteenth century, the Ottoman Empire was forced into further reforms of the military, fiscal, and other systems.
At the time, reforms of these systems were also an urgent matter in many European countries. During the eighteenth century, the Ottoman Empire and such European countries were faced with several similar problems.
This article discusses how the systems of military mobilization, tax collection, and maintenance of public order were transformed in Göynük district and
Keywords: kaza, ayan, dirlik system, dirlik-kaza system, European Countries
キーワード:
郡,地方名士,ディルリク制度,ディルリク・カザー制度,ヨーロッパ諸国* 小論は,東京外国大学アジア・アフリカ言語文化研究所の共同利用・共同研究課題「近世イスラム 国家と周辺世界」
(
研究代表 近藤信彰)
における研究成果の一部である。作成にあたり,研究会の 皆さんより,数多くの貴重なご意見をいただいた。ここに記し,謝意を表する次第である。はじめに
かつて,17–18世紀のオスマン朝はすでに 盛りを過ぎた斜陽国家と捉えられ,このよう な理解のもとに諸事象の究明がなされてい た。しかし
Halil İnalcık
たちの取り組みを 契機に,同時期の軍事,社会面などの諸分野 における動揺は,諸状況の変化に対応して いった同王朝の模索の表徴として捉えられる ようになった。そしてさらにその後,諸変化 の究明にあたり,内的ダイナミズムという視 点の重要性が提唱され,研究領域は一層拡大 され,またその深化が図られていった。その 結果,しだいに従前の衰退史観は見直され,現在ではこれまでの研究成果をふまえ,新た な歴史像の提示が唱えられるまでにいたって いる1)。しかしその一方で,同時期における 出来事をより正確に理解するにあたり,非常 に重要な事柄であるにもかかわらず,今なお
解明されていない諸点が数多く残存している のも事実である。たとえば,同王朝において 統治の根幹をなしたディルリク(
dirlik )制
度2)は,とりわけ16
世紀末以降,諸情勢の 変化に対応するべく手が加えられていき,し だいに形骸化していった。しかしながら,そ れでは果たして政府は安定した統治の継続を 図るべく,どのような手立てを模索していっ たのか。そしてそのような取り組みにより統 治形態に何らかの変容が見られたのかどう か,といった制度史的な観点からの究明は,これまでほとんどなされてこなかった。以上 の事柄が明らかになると,17–18世紀はもと より,来たる
19
世紀における諸事象につい ても,より正しく歴史的文脈の中に位置づけ ることが可能となる。他方,先学により同時 期におけるヨーロッパ諸国との比較史研究 の有用性が唱えられている[Faroqhi 1994:573]。周知のごとく,近世ヨーロッパ諸国 its surrounding regions in the eighteenth century, providing a case study of the transformation of the government system in the Ottoman Empire. Since various reforms were also made in European countries, we may be able to discern that the approaching demise of the early-modern state system.
はじめに
Ⅰ. 郡を舞台に展開された動員,徴税,治安 維持活動
1. 動員 2. 徴税
3. 治安維持
Ⅱ. ディルリク・カザー制度の出現
Ⅲ. 18世紀のオスマン朝ならびにヨーロッ パ諸国における近世国家体制の動揺 おわりに
1 )
これまでの研究史については,[多田2017: 24]を参照。
2 )
オスマン朝では,一般的にアスケリー(
支配者層)
には徴税権が授与され,彼らはその代償として 軍役を果たすとともに,安定的な租税収入の確保もあいまって当該地域の治安維持にも責任を負っ た。それゆえこのしくみは,軍事,行財政そして治安維持,すなわち統治体制の根幹をなす制度で あった。徴税権はその額に応じて3
種類に分類されたが,中でも規模が最も小さかった部類を指す ティマールを授与された者が圧倒的に多かったことから,この制度は一般的にティマール制度と呼 ばれている。ただ,17世紀にはいって以降しだいにティマールル・スィパーヒー(
ティマールを 授与された在郷騎士)
の没落が進行し,その結果彼らによって担われていた軍役,徴税そして治安 維持活動は形骸化し始め,16
世紀におけるそれらとは大きく様変わりしていった。そこで小論では,時代の経過とともにその内実を変化させながらも,統治の要として存続した同制度が担った役割を より正しく評価するために,授与される徴税権の総称であるディルリクなる語を用いて,ディルリ ク制度と呼ぶこととする。
における統治体制については,近年様々な角 度より捉え直され,新たな近世国家像が浮か び上がって来ている3)。
さて,以前筆者は別稿にて,17世紀のオ スマン朝における統治体制の変容を明らかに するべく,西北アナトリアの一地域,とりわ けボル
( Bolu )
郡およびその周辺地域を対 象に,ディルリク制度の限界に直面した,特 に同世紀末に政府によって打ち出された対応 策を中心に検討し,さらにヨーロッパ諸国に おける諸状況との比較,対照をも行った[多 田2017: 23–46]。そして,オスマン朝政府
は従来のごときディルリク制度に依拠したア スケリーによる統治のしくみがもはや機能不 全に陥ったことを認めざるをえなくなり,郡(
カザー)
を枠組みとして動員,徴税ならび に治安維持活動の一端を公にアーヤーン(地 方名士)
に委ね,換言すれば彼らを体制内に 取り込むことにより危機を乗り越え,さらに はそれを通してディルリク制度の存続を図ろ うとしたことを明らかにした。また,同様な 危機にヨーロッパ諸国も直面し,やはりいず れの国においても地方有力者との関係強化を 通じて克服しようとしたこと,すなわちオス マン朝であれヨーロッパ諸国であれ,時を同 じくして同様な歴史的展開が見られたことに ついても指摘した。では,このような対応策はその後の
18
世 紀においてどのような展開をもたらすことと なったのであろうか。そこで小論では,まず 郡を枠組みとしたアーヤーンを中心とする動 員,徴税そして治安維持のしくみが,どのよ うな進展をみたのかについて具体的に明らか にする。次いでこのような展開が,従来のディ ルリク制度といかなる関係にあったのか,統 治体制に何らかの変容が見られたのかについ て検討を加えるとともに,その歴史的意義に ついても言及する。周知のごとく,18世紀 はアーヤーンが統治に深く関わった時代であり,先学により幾多の研究成果が報告されて いる。もちろんそれらをもふまえながら,あ くまでも制度史的な観点から分析を試みるこ ととする。そして,やはりオスマン朝におけ る歴史的展開を世界史的な観点からもながめ るべく,同時期のヨーロッパ諸国との比較,
検討をも行うこととする。
なお小論においても,対象地域として西北 アナトリア地域をとりあげる。ただ
18
世紀 は,前世紀末以来明確となってきた軍事関係 費を中心とした大量の資金調達,すなわち財 政の重要性が一層顕著となった時代であっ た。それゆえ別稿で中心的にとりあげたボル 郡の近隣に位置し,しかも同世紀後半に集中 しているとは言え,当時の地方現場における 財務関係の史料が比較的まとまった形で残 されているギョイニュク(Göynük )郡での
諸状況に焦点をあてつつ,同じくヒュダー ヴェンディギャール( Hüdavendigār )
県に 属した他の諸郡,あるいは周辺のムドゥルヌ( Mudurnu )
,ボルそしてアンカラ( Ankara )
郡からの諸情報をも利用しつつ考察を進めて いくこととする。Ⅰ.郡を舞台に展開された
動員,徴税,治安維持活動1
. 動員17
世紀末,長期にわたった対オーストリア 戦争は,これまでになく悲惨な結末を迎えた にもかかわらず,周知のようにオスマン軍団 の再建は容易に進まなかった。すでに,この 長期戦争中よりイェニチェリの掌握はしだい に困難となっており[BoŞS 839 A-6611: 3R;840: 73L; 842: 65R–66L; 843: 61L; Raşid 4:
122–123, 142–143] ( R
は右段,Lは左段を 示す),その上戦争終了直後には,アナトリ ア地方のレアーヤー(
被支配者層)
が大挙イ スタンブルを訪れ,イェニチェリの資格を3 )
近世ヨーロッパ史研究の近年の動向については,[多田2017: 24]参照。
手にしたり[BoŞS 844: 68L–67R],さらに
1739
年には株のごとく彼らの名義が売買さ れることが認められるなど,イェニチェリを めぐる混乱はその度を深めていった[BoŞS846: 12L–13R; Uzunçarşılı 1984: 493;
Aksan 2007: 85]。またアナトリア出身の傭兵
であるセクバン・サルジャ( sekban・sarıca )
についても,その俸給化が一度決定されな がら結局見送られ[İnalcık 1980: 302–303],一層の混乱を招く有様であった。
ただ,このように施策が右往左往する間に も,ロシア,オーストリアあるいはイランな どとの間に断続的に戦端が開かれた。前述し たごとく腐敗の度を深めるイェニチェリ等 のカプクルの出征忌避は常態化し[Özkaya
1985: 31, 37],またティマールル・スィパー
ヒーの減少に歯止めはかからず[Raşid 3:137–138],自ずと政府は前述の対オースト
リア戦争時同様,州,県,郡の枠組みのもとに,カプクル見習い兵であったセルデンゲチティ
( serdengeçti )
の み な ら ず 銃 士( tüfengci )
をはじめ志願兵(gönüllü )や在郷イェニ
チェリ(yerli yeniçeri )などの名のもとにカ
プ ク ル の 補 充[Raşid 3: 55–56; BoŞS 842:67R–L, 68L]を,あるいは非正規兵 ( levend )
の大量調達を行っていった。とりわけ後者の 増加には目を見はるものがあり,1768–74年 の対ロシア戦争では,100年前に比べ約10
倍にも達し,伝統的なティマールル・スィ パーヒーに取って代わる存在となっていった[Aksan 1998: 26; 2007: 57]。
そこで,非正規兵がいかにして調達され たのか,対イラン戦争時におけるアンカラ 郡を例にとり紹介する。1725/1138年冬季 におけるハマダン
( Hamadan )
城塞の守備 兵として,各県にいる騎兵非正規兵(süvari
levend )の内,馬や武具を備え,戦闘能力の
ある勇敢な若者たちの中から
1000
名が動員 されることとなった。そして,この任務をお びたボル郡のヴォイヴォダ(郡レヴェルの徴 税官)
であったイブラヒム・アガ( İbrahim Ağa )
およびユースフ・アガ( Yusuf Ağa )
によって,アンカラ県より130
名が調達さ れることとなり,そこで同県内のすべての郡 の代表者が集まって割り振りが行われ,ア ンカラ郡に37
名が割り当てられることと なった4)。そしてさらに,この内の13
名が 同郡に従属したカサバ(Kasaba )
,バジゥ( Bacı )
,チュクルジャク( Çukurcak )
の3
郷(nahiye )に,残りの 24
名がアンカラの 町に割り振られることとなった[AŞS 787:201–199]。
さて非正規兵調達に際しては,一般的に政 府により直接郡単位に割り当てられたイェニ チェリなどのカプクルの場合とは異なり,ま ず政府によって各州あるいは県単位に割当数 が提示され,その後の各県あるいは郡への割 り振りについては,各々の代表者たちに委ね られた。これは次節で述べるように,彼らの 経費が戦時支援税
( imdad-ı seferiye )
など により賄われたためであったと考えられる。表Ⅰをご覧いただきたい。前述の守備兵調達 時期頃のアンカラ県内における各郡への平時 支援税(
imdad-ı hazariye
あるいはimdad-ı masarif-i hazariye )
および戦時支援税の割 当額ならびに各郡の納税戸(avarızhane )数
と今期の兵士動員数との関係をまとめたもの である。とりわけ両支援税の割当割合に基づ いた場合の兵士割当数(⑫)と実際の兵士割 当数(
①)
とがまったく一致することに目 が奪われる。ところで,アンカラ郡におけ る町部と3
郷との割当割合は,同郡におけ4 )
当初200
名割り当てられたが,同県からの減免要求により70
名減じられた。アンカラ郡以外に関 しては,ヤバンアーバード( Yabanābād )
郡に20
名,アヤシュ( Ayaş )
郡に20
名,ムルタザアーバー ド( Murtazaābād )
郡に15
名,ショルバ( Şorba )
郡に15
名,チュブクアーバード( Çubukābād )
郡に17
名,ヨリュク( Yörük )
郡に6
名が割り当てられた。るサールヤーネ(郡が支払わなければなら なかった税や費用のこと
)
5)の納入割当率で あった概ね2:1
の割合[AŞS 791: 352–353,388–389; 792: 316]に酷似している。これ
は,アンカラの町の割当戸( tevzihane )
数6)が
274.5
であったのに対して3
郷の合計は134.125 (
カサバ97.5,バジゥ 19.625,チュ
クルジャク17[AŞS 783: 394–395; 787: 589;
792: 331] )で,おそらくこの割合に基づい
たものではないかと考えられる7)。そしてさ らに,アンカラの町ではこの人数が
274.5
割 当戸に割り振られ,11+1/3割当戸につき1
名の非正規兵が割り当てられた。具体的には,割当戸数の合計が
34
となるようにいくつか の街区( mahalle )
が組み合わされ,これが8
グループ形成され,各々に3
名が割り当て られたのであった[AŞS 787: 198–201]。こ れは,別稿で筆者が指摘した,前世紀のアン カラ郡における工兵( beldar )
やボル郡にお ける民兵招集(nefir-i ām )などに際しての
納税戸数に基づく動員形態とまったく同じで ある[多田2017: 28]。
一方,世紀末における対ロシア戦争中の
1788/1202
年に,ヒュダーヴェンディギャール県内のイェニジェ・イ・タラクル
( Yenice-i
taraklı )
,ギョイニュクそしてギュニュズュ( Günyüzü )
の3
郡に合計27
名の騎兵非正 規 兵(süvari asker
す な わ ちsüvari levend
のこと)の動員が命じられた(表Ⅱ参照)。 検証対象がわずかとは言え,この場合におい ても両支援税額あるいは納税戸数の占める割 合が兵士割当(
①)
の目安であったことが窺 える(
⑧,⑨)
。果たして,非正規兵の動員 に際しての各県あるいは郡へのその人数割当 にあたっては,各々への両支援税割当割合や 納税戸数が,そしてさらに郡内におけるそれ に関しては割当戸数や納税戸数が重要な拠り 所となっていたことは明らかである8)。とり わけ両支援税については,これら自体が元来 兵士調達のために設けられた税であったこと を思い起こせば当然のこととも言えよう9)。ただ,動員において各郡の担税力が関係し たのは非正規兵だけではなく,イェニチェリ などのカプクル調達にあたっても大いに考慮 されたようである。それらの動員にあたって は,全体の動員数,たとえば
1787/1201
年 の場合だと50000〜60000名が確定された後,各州あるいは各県に割り振られ,最終的にい ずれの郡から何名調達されるのかが決定さ れた[GŞS 1385: 61R]10)。その際,イスタ
5 ) vilāyet masrafı
あるいはvilāyet masarifi
とも呼ばれる。ただこの両語は,単に郡業務に関係した 費用のみを指す場合もある[AŞS 814: 321]。なお郡関係費用については,別にkaza masrafı
とい う呼び名もある[AŞS 871: 403]。6 )
政府は納税戸数に基づきアヴァールズ( avarız )
諸税を課したが,18世紀を通じてその数にほと んど変化は見られず(
[多田2015: 表Ⅰ]参照 )
,当然のことながらしだいに実際の担税力との間に 齟齬をきたすようになっていった。そこで,このずれを修正して,少しでも実態に照らして税を割 り当てるべく各郡で設定されたのが割当戸であった。それゆえ,後者の方がより現状を反映したも のであったと言える。割当戸については,本稿,注23
参照。なお,後述するように両支援税につ いても18
世紀を通じてほぼ固定化されており(
本稿,注20
参照)
,やはり世紀がくだるに伴い現 実との乖離が進行していったものと考えられる。7 )
バジゥとチュクルジャクについては納税戸数を利用した。両郷内の割当にあたっては,常に村ごと に割当額が記され,割当戸数が明記されていない。それゆえ,この数が割当に際しても長らく利用 されたものと考えられる。8 )
各県や郡への割り振りにあたり割当戸数が利用されなかったのは,諸状況の違いのゆえに,この数 の設定基準が各郡により異なっていたためと考えられる。9 )
前述のバジゥおよびチュクルジャク郷では,兵士一人あたりにつき17
クルシュ,計221
クルシュ が各村に割り当てられた。現実には前述の諸税だけでは,調達作業は困難だったようである[AŞS787: 199]。なお 17
世紀においても,非正規兵調達に際しての費用が,しばしば彼らに関係する諸県や諸郡のアヴァールズ諸税よりあてられたことがあった[Uluçay 1944: 187–188]。
10 ) 17
世紀においても各州,県あるいは郡に動員の割当がなされたが,これほど整備されたものでは なかった[多田2017: 27]。
ンブルのイェニチェリ長官(
Yeniçeri Ağası )
は手もとに有していた各郡のアスケリー名簿[GŞS 1385: 3L]を利用した模様で,召集を 担当した第
68
大隊(orta )の長であるトゥ
ルナジゥ・バシゥ( Turnacıbaşı )
によって 郡ごとに割当人数を記した台帳がもたらさ れ,動員が行われた。さて,表Ⅲをご覧いただきたい。これは,
世紀後半に勃発した二度の対ロシア戦争頃に イェニチェリの調達を命じられたいくつかの 郡における,動員割当数と各郡の戦時および 平時支援税の割当額や納税戸数との関係を表 したものである。前年に各郡に命じられた動 員数における不足分について早急の調達が催 促された
C
の場合は別として,やはり動員 割当数(
①)
と両支援税額あるいは納税戸 数との間における強い相関関係が窺われる(
⑧,⑨)
。実はA
の調達を命じた通達文書 には,担税力( tahammül )
とアスケリーの 多寡に応じて人数が割り当てられたと記され ている。おそらく,担税力に在郷のアスケリー 数,さらには前回の出征状況などをもふまえ つつ,決定されたものと考えられる。ただ,この担税力は世紀がくだり戦費が増 大の一途を辿るにつれ,ますます重要な割当 要素となっていったと考えられる。後述する ように,カプクル,非正規兵を問わず,出征 忌避は一層ひどくなっていき,兵士の確保そ してそれに伴う出費は,どんどん膨れ上がっ ていったのである[GŞS 1385: 13L, 39L]。
その結果,イェニチェリ,セルデンゲチティ の調達に際して,郡民よりアヴァールズ諸税 とは別に税が徴収されるようになった。た とえば,ロシア−トルコ戦争中の
1787/1201
年に,イスマイル城塞防衛のために400
名 のイェニチェリがアンカラ県内の諸郡に割り当てられた際,彼らに与えられる
1
名あ たり35
クルシュの特別手当( ikramiye )
に ついては,割当人数に応じて各郡のレアー ヤ ー よ り 徴 収 さ れ た[AŞS 176: 252, 261,277, 280]。さらに付言するならば,前述し
た
1788/1202
年における騎兵非正規兵の出征にあたっても,1名につき
30
クルシュの 入隊手当( bahşiş )
が,前年においては俸給( ulufe )
,割当食料(tayināt )および秣の代
金などとともに国庫(hazine-i amire )より
支払われたのに,この度は兵士を送り出す,まさにその郡内のレアーヤーにより調達さ れたのであった[GŞS 1385: 57L, 80L]。そ して
1792
年7
月13
日/ 1206
年ズィルカデ月25
日付でブルサ(Bursa )郡より 250
名の兵 士の動員が命じられた際には,必要経費とし て1
名につき100
クルシュもの税金が地元 民より徴収されたのであった[BuŞS B-84:97L]。
では,イェニチェリは郡内からどのように 調達されたのであろうか。そこで,彼らの動 員の実態をより明らかにするべく,1784年
9
月22
日/ 1198
年ズィルカデ月7
日付のギョ イニュク郡における動員名簿[GŞS 1385:10R–L]を例にとり,検討を試みる
11)。この 名簿には,総勢200
名の出征兵士の名前と 各人の出身街区あるいは村名が記載されてい る。そして表Ⅳは,同名簿の記載順に街区,村名ならびに各々の出征兵士数をまとめたも のである。約
1/6
がギョイニュクの町より調 達されたことが分かるが,各地からの兵士数 にこれといった規則性は見あたらない。そこで,前述したごとく動員には担税力も 大いに関わっていたことから,当時のレアー ヤーの生産力を最もよく表す指標であった割 当戸数との関係を手がかりに調べて見る。た
11 )
小論では,ギョイニュク郡内の街区名,村名,その他の地名およびアーヤーンなどを除く一般のレ アーヤーの名前については,ローマ字で表記することとする。これは同郡の諸状況については,い まだに広く一般的に紹介されておらず,名称をより正確に伝えるためである。ただ表Ⅷ,表Ⅸおよ び表Ⅺにおいては,異なる表記が混在し見ににくくなるのを避けるために,すべての地名や人名を ローマ字表記で統一した。だし,やはり非正規兵と同様に,いくつかの 街区や村々が組み合わされて同数の割当戸数 のグループが設定され,各々に割り当てられ たことも十分考えられることから,郡内を地 勢的な観点から
9
区画12)に分け,各区画単 位で出征兵士数と割当戸数との比較,対照 を試みる。表Ⅴは,動員名簿作成後間もな い1785
年2–3
月/ 1199
年レビユルエッヴェ ル月頃に作成された税割当簿(tevzi defteri )
[GŞS 1385: 23R]13)において記されていた各 街区や村々の割当戸数と出征兵士数とを,前 述の
9
区画ごとにまとめ,一覧にしたもの である。ただし,動員名簿に登場した村々の 内の18
村については,税割当簿に見られな いことから(
表Ⅳ参照)
,検討の対象外とし た14)。また6
名の兵士が出征したŞıhlar
村 についても,A,E,GそしてH
のいずれの 区画に属する村なのか特定できなかったこと から除外した。このように,比較,対照は決 して完全なものではないが,区画ごとになが めると,一見して町部では1
割当戸につき5
名,村落部では2
名を目安に割り当てられ たことが窺える。それゆえ,町および村落部 における割当戸総数(
町部=6.8,村落部=66.1 )を,各
々5
倍あるいは2
倍すると,34 名,約132
名となり,実際に調達された33
名,130
名に近似する。一方,出征兵士がいなかっ た村々が多数存在することも目にはいる。ど うも,以上の事柄をふまえると,いずれもレ アーヤーから徴発した前述の工兵,民兵招集 および騎兵非正規兵(アンカラの町部)の場 合などと同様な形態で調達されたのではない かと考えられる。すなわち,アーヤーンは近 隣のいくつかの街区や村々を組み合わせてグ ループを形成させ,各グループ内に居住する イェニチェリに対して,出征しなければならない人数を割り当てたのである。恐らく,町 部に関しては全街区で
1
グループが形成され1
割当戸につき5
名の割合で,また村落部に ついては割当戸数の合計値が1
であれ2
であ れ整数値になるように村々が組み合わされ,各グループに
1
割当戸につき2
名の割合で割 り当てられたのではないかと考えられる。実は,対象外とした
4
ワクフ村について は,1768年12
月11
日付の税割当簿[GŞS1383: 8L–9R]において各村 1
割当戸と登録 されている。史料の残存状況のゆえに,前述 の1785
年2–3
月頃に作成された税割当簿に,時期的に最も近寄った過去のそれが同割当簿 である。ただ少々時が経過しているものの,
たとえばワクフ村に近接した各街区の割当戸 数について言えば,両期の戸数はまったく同 数である。それゆえ,同村々についても大き な変化はなかったものと考えられる。すると,
仮に
1785
年頃において4
ワクフ村で1グルー プを形成したとして,前述した村落部におけ る割合で兵士を割り当てたとすると8
名とな り,実際に調達された7
名にやはり近似する のである。なお,町部と村落部とで割当割合 が異なるが,これについては,前述した前世 紀末のボル地方における民兵招集の際にも見 られた事柄である。村落部では3.25,町部
では4.5
納税戸が形成され,各々に1
名割り 当てられている[多田2017: 28]。果たして,
組み合わせの実態はどのようなものであった のか,税と動員とにおける割当村の相異はい かなる背景によるものなのかなど,究明され なければならない数々の問題点が残されてい るものの,少なくともこの時期,非正規兵の みならずイェニチェリ調達にあたっても,割 当戸数に依拠したそれが主要な手立てとなっ ていたことは疑いない。
12 )
[多田2009: 52; 2015: 236
注17, 249]参照。町部 ( N
区画)
を加えて,9区画となる。13 )
税割当簿については本稿,注23
参照。14 )
解読不能な3
村を含め14
村( 24
名)
は一般村落,そして4
村( 7
名)
はワクフ村である。なおBayındır
村については,税割当簿においてよくSarıcalar
村の箇所で一緒に記載されていることから,同村の
2
名については表Ⅴにおいては後者の村の割当人数に加えた。ここで,先に触れた出征忌避がどのよう なものであったのかについて紹介しておく。
1784
年1
月24
日–2月2
日/ 1198
年 レ ビ ユ ルエッヴェル月上旬付の歩兵イェニチェリ( piyade yeniçeri )
動員[GŞS 1385: 3L]に 関して,その督促命令が同年ラマザン月上旬,ズィルヒッジェ月中旬,同月下旬に発せられ
[GŞS 1385: 9L, 13R–L],1785/1199年の イェニチェリ,兵器工(
cebeci )
,砲手( topçı )
などのそれについても[GŞS 1385: 21R],1785
年3
月22
日–3月31
日/ 1199
年ジュマ デルウーラー月中旬[GŞS 1385: 25L]お よ び1785
年12
月4
日–12月13
日/ 1200
年 サフェル月上旬に[GŞS 1385: 39L],また1787
年1
月1
日–10日/1201
年レビユルエッ ヴェル月中旬付のイェニチェリ等のそれでは[GŞS 1385: 55R–L, 56L],1787年
3
月11
日–3月20
日/ 1201
年ジュマデルウーラー月 下旬に[GŞS 1385: 61R],さらには1787
年3
月21
日–4月9
日/1201
年ジュマデルアー ヒレ月上旬–中旬付の歩兵イェニチェリのそ れ で も[GŞS 1385: 59L–60R],1787年12
月11
日–12月20
日/1202
年 レ ビ ユ ル ア ヒ ル月上旬に督促状が発せられており[GŞS1385: 78R],調達や出立を催促する通達は後
を絶たなかった。しかし,これほど催促の命令が発せられ ても,「カーディーやアーヤーンたちの反応 は鈍く」[GŞS 1385: 13L],また「いまだに アーヤーンなどの怠慢により出立にいたって いない」[GŞS 1385: 25L]有様で,たとえ 出立したとしても「人数が欠けたままで送り 出されたり」[GŞS 1385: 21R],「非常に多 くの兵士が街道で,あるいは到着した港で 逃亡し,行方をくらましたり」[GŞS 1385:
13L],
「行軍途上で2, 3
日逗留したり」[GŞS1385: 39L]して,予定通りの動員にはほど
遠い状況にあった。そして仮に任地に到着し たとしても,兵士の中には農民(çiftçi )
,浮 浪者,牧人あるいは戦闘行為に耐えられない 者[GŞS 1385: 21L, 64L, 65L]までも含ま れている有様であった。実は,前述の1787
年3
月21
日–4月9
日付の3740
名の歩兵イェ ニチェリの動員命令は,まさにこのような忌 避行動により兵士の補充ができず追加で発 せられた命令であった。それゆえ,アスケ リーに属する者に限らず戦闘能力を有するレ アーヤーにまで調達の対象が拡大された場合 もあったが[GŞS 1385: 56L],状況になん ら変わりはなかったようである。事実ギョ イニュク郡でも,1787/1201年にオェズュ( Özü )やイスマイル城塞方面への援軍とし
て200
名のイェニチェリ動員が命じられた が,出立したのはわずか7, 80名にすぎなかっ た[GŞS 1385: 65L]。なお,前述した
1784
年9
月22
日付の歩 兵イェニチェリ動員名簿では,出征兵士すべ ての名前にbeşe
という語が付され,アスケ リーに属する者であることが示されている。しかし以上のごとき状況を踏まえると,全員 イェニチェリあるいはアスケリーに属する者 たちであったと理解するのはとても困難であ る15)。果たしてこのような有様では,前述し たごとくイェニチェリなどの調達割当基準 は,ますますアスケリーの多寡よりも,担税 力に左右されるようになっていったに違いな い[GŞS 1385: 39L]。
ところで周知のごとく,各郡において動 員に深く関わったのはアーヤーンであった
[Cezar, M. 1965: 351; 永田
1974: 43; İnalcık
15 )
ボル郡の1686
年11
月19
日/ 1098
年ムハッレム月3
日付における村に居住していたアスケリーの 調査名簿においても,すべての者の名にbeşe
が付されている[BoŞS 835: 53R–L]。なおAksan
は,イェニチェリの新兵はその多くがレアーヤーより補充された[Aksan 2002: 68–69; 2007: 62–64]
と,また文書においては常にアスケリーとレアーヤーとの別が意識された内容とはなっているもの の,実際にはイェニチェリと非正規兵との差異はかなり曖昧なものであった[Aksan 1998: 35]と 述べている。
1980: 326; Özkaya 1994: 119–124]。すでに,
前世紀末における対オーストリア戦争を契 機に,広く兵士全般のそれに関わるように な っ て き て お り[多 田
2017: 29], 今 世 紀
にはいりより一層重要な役割を担うように なっていった。事実ギョイニュク郡において も,たとえば1751–52/1165–1166
年頃に歩 兵,騎兵併せて200
名の非正規兵の出陣が 命じられた際,彼らが中心となって調達され た[GŞS 1378: 24L]。また非正規兵の調達 に限らず,イェニチェリなどのそれにあたっ ても彼らの責任および差配のもとに進めら れ[GŞS 1385: 21R, 65L, 67L],従前通り兵 士の保証人を引き受け[GŞS 1385: 10R–L,11R, 13R, 21R],出征部隊の指揮官につい
ても,彼らの話し合いより決定された。たと えばギョイニュク郡では地元のアーヤーンの 一人で,かつイェニチェリ第13
中隊( bölük )
の一員でもあったナッカシュ・アフメト・ア ガ・ビン・メフメト(Nakkaş Ahmed Ağa bin Mehmed )
が任命され,出征した[GŞS1385: 10R]。
ただ,彼らの活動はこれらにとどまらな かった。おそらく前述したごとき出征忌避に 伴う兵力不足にすみやかに対処するべく,す でに先学も指摘しているように[永田
1974:
52, 67–68],政府の命令により彼ら自らが従
者を引き連れ出征するようになったのであ る16)。たとえば,対ロシア戦争では1771
年2
月16
日–4月15
日/ 1184
年 ズ ィ ル カ デ 月–ズィルヒッジャ月頃,イズニク,ギョル
バザール( Gölbazārı )
,ボル,カスタモヌ( Kastamonu )郡 な ど の 11
郡 か ら32
名 の アーヤーンが総勢5470
名の従者を従え出陣 し17),また同戦争終了後に勃発した対イラン戦争では,1775年
9
月17
日/1189
年レジェ ブ月21
日付で発せられた命令により,ギョ イニュク郡のアーヤーンであるキルジレル リ・ヒュセイン・アガ(Kilcilerli Hüseyin Ağa )
,イブシル・アガ( İbşir Ağa )
たちが バグダード,バスラ方面へと向かった[GŞS1384: 25R]。もはやアーヤーンの存在なくし
ては,動員業務の遂行はもとより兵力の確保 はなしえない状況となっていったのである。な お, 前 述 の
1771
年2
月16
日–4月15
日 頃の通達文書において,出征を命じられた アーヤーンの名前や引率兵士の数が郡名の下 にまとめられていたことは,アーヤーンの出 征にあたっても,郡という枠組みが念頭に置 かれていたことが窺える。世紀がくだるにつれ,動員や兵力確保に関 わる出費は増大し,またその一方で出征忌避 が蔓延していった。そこでより確実に兵士が 確保されるために,非正規兵やカプクルを問 わず,郡単位の動員ならびに割当戸や納税戸 数に依拠した割当が一般化していった。それ ゆえ,調達業務や保証人引き受けなどを通し てアーヤーンの役割はますます増大し,つい には彼らに直接出征命令がくだされるように なり,郡のみならずオスマン朝内における彼 らの影響力は一気に高まっていったと考えら れる。また,一部のカプクルおよびカプハル クあるいは激減したティマールル・スィパー ヒーを除き,オスマン軍団のかなりの部分を 郡ごとに割り当てられた兵士たちが占めるよ うになった。兵役の一般化,すなわちアスケ リーとレアーヤーとの別の一層の曖昧化と捉 えられる。ただ,納税戸のみならず両支援税 についても
18
世紀を通じてその額に大きな 変化は見られなかった。それゆえ18
世紀末16 )
すでに1743
年には,一部アナトリア地方のアーヤーンたちが対イラン戦争において出征を命じら れている[Özkaya 1994: 121; Adanır 2006: 173]。17 )
最も多かったのは400
名を命じられたボル郡のチャトラドゥ・オグル・イブラヒム( Çatladı oğlu
İbrahim )
で,最も少なかったのはアクヤズ( Akyazı )
郡のムザク・オグル・ハージゥ・ムスタファ( Muzak oğlu Hacı Mustafa )
で30
名,そして郡別ではアンカラ郡が1200
名で最も多かった[AŞS843: 231]。
ともなると,各州あるいは県,さらには郡に,
概ねいつも同じ割合で割り振られてきた兵士 の数およびそれに関連して求められた調達費 用の額と,常に変化の中にあった各郡におけ る諸状況ならびにそれに伴う担税力の変動と の間に,しだいに齟齬が生まれていったこと が十分予想される。出征忌避深刻化の一因と も考えられよう。
2
. 徴税17
世紀末におけるオーストリアとの長期 戦争中,地方高官は戦時支援税などの徴収に もかかわらずその資金確保に苦慮した。そこ で戦後,彼らに対して軍役不履行や勅許状( berat )
不備などにより無主となったゼアメトやティマール
100000
アクチェ分[BoŞS842: 85L],そしてパーディシャーのハスの一
部などが授与され[BoŞS 842: 87R, 90L]18), その財政的窮乏に支援が講じられた。しかし このような対策にもかかわらず,地方高官の 財政事情は改善されず[Raşid 4: 176–177],禁止されているにもかかわらず,巡検
( devir )
税などの不法な税徴収が絶えることはなかっ た[BoŞS 844: 63R–L, 76L, 88R]。その結果,レアーヤーはアスケリーならびにアーヤー ンの邸宅やチフトリキに身を寄せ[BoŞS
844: 85L; 846: 14R],ますますその庇護下に
はいっていった。やはり別稿にて筆者が述べ たように,もはや単なるディルリクの増加で は継続的に現金調達が求められるようになっ た状況に対応できなかったのである[多田2017: 34]。
そしてこのような中,1710年に対ロシア 戦争などが勃発すると,従来にも増して大量 の非正規兵の動員が求められ,地方高官によ る不法課税(
tekālif-i şakka )や戦時支援税
などの徴収は過酷を極め,政府においても早 くも資金不足に陥り,増税を図らなければな らなくなった。戦時中であるにもかかわらず,地方高官による反乱の勃発,レアーヤーの大 量逃散,そして匪賊(
eşkıya )の跋扈をみた
前世紀末におけるがごとき状況の再来は,決 して政府の望むところではなかった。そこで 政府は,不法課税に伴う抑圧を軽減し,しか も確実な動員を確保するために,戦時支援税 徴収における一層の公正明大化を図り,直面 した課題を克服しようとした。すなわち政府 によって,1名あたり70
クルシュの見積も りのもとに[Raşid 4: 384–385],各州にお ける同税の総額が明示され,これを受けて各 州都に従属する諸県のカーディーやアーヤー ンといった代表者が集い,各県の割当額が決 められ,次いで各県都に各郡の代表者が集い,各郡への割当額が決定されるようになったの である19)。そして確定された税が前述の代表 者たちによって徴収され,地方高官に譲渡さ れ,彼らはこの収入の内の半分を自身のカプ ハルク維持の経費などのために,そしてもう 半分を非正規兵確保のために支出することと な っ た の で あ る[Uluçay 1955: 112–115]。
そしてさらに
1717
年以降においては,戦時 のみならず平時においても,新たに平時支援 税が導入されている。課税形態については戦 時のそれとまったく同様であった20)。この新18 )
その上,この直後のアフメト3
世の即位に際しても,中小ディルリク保有者は勅許状の提出および 更新の命令にもかかわらずほんのわずかな者しか応じず,またその多くの者が地元( sancak )
を 離れて生活する有様で,彼らの没落はもはや決定的であった[Ergenç 1986: 88]。なお,国庫に回 収されたディルリクは前述の高官たち以外に,従前にも増して書記官などの行政官に俸給として 割り当てられたようである。ギョイニュク郡においても,たとえばÇalıca-alanı
村,Nardin村,Danişmend-yakası
村,ギョイニュクの町とその従属地などは書記官およびその関係者のディルリクに様変わりしている[GŞS 1378: 28R; 1379: 33R; 1380: 5L]。
19 )
すでに1700
年前後より,まず各県に額が割り当てられ,それが各郡の能力に応じて割り振られて いたようであるが[BoŞS 845: 34R],果たしてどれほど制度化されたものであったのかなど,詳 細については不明である。税はカプハルクの保持と平時における治安維 持確保のために設けられたものであり,不法 課税横行の阻止はもとより,おそらく直接的 には終身徴税請負(
malikāne )制度存続の
確定21)を受け,地方高官の財政支援のため に導入されたのではないかと考えられる。な お,アナドル州のチャヴシュ(
担当役人)
た ち の 長( çavuş kethüdası )
を 務 め た 者 も,ヒュダーヴェンディギャール県内の各郡よ り俸給の一部として
10
クルシュずつ徴収す る権利が認められていた[GŞS 1379: 15R]。ディルリク以外からの収入は,しだいに役人 たちにとって欠くことのできない部分となっ ていったのである。
ただ現金の流通がなお不十分な状況にあっ た地方において,時期が定められていたとは 言え,現金による納税という徴税形態は,当 然のことながらアーヤーンをはじめとする資 産家による前納,立替を前提とする。まさに,
前世紀末レアーヤーの保護および切れ目のな い資金調達を目ざして,政府により実施され たアヴァールズ諸税等における徴税形態の転
換や終身徴税請負制度の導入と,軌を一にす る施策と言える[多田
2017: 33]。またして
も,郡を枠組みとして,アーヤーンなどの力 に依拠することにより乗り切ろうとしたので ある。周知のごとく,1726年以降県軍政官,ヴォイヴォダ,ムハッスル(県レヴェルの 徴税官),ミュテセッリム(代官)などの役 職への彼らの就任が見られ始める[Özkaya
1994: 120; Adanır 2006: 173]。1722
年 に お ける対イラン戦争の勃発が契機になったとは 言え,彼らの政治進出への環境はすでに整っ ていたと言えよう。では,このような郡を枠組みとする徴税業 務,すなわち政府や地方高官に納入されるア ヴァールズ諸税や平時支援税などの徴収は,
どのようになされたのであろうか。周知のよ うに,18世紀における諸郡では,各々独自 な表記の仕方で税割当簿が作成された。そこ で,ギョイニュク郡における税割当簿22)の 分析を通して,徴税の一端を明らかにするこ ととする23)。
まず,本郡のレアーヤーが納めた税は,
20 ) 18
世紀を通じて両支援税の額にほとんど変化は見られず[GŞS 1379: 3L, 14L; 1385: 51R, 52R;BuŞS B-116: 54R–L; B-84: 94L; AŞS787: 577; 792: 273; 850: 147; 857: 98; Cezar, Y. 1986: 59,
61–63],後述するように州総督へは年 2
回,県軍政官へは年3
回に分けて納入された。ただ,これらの税収の使途,確保されなければならなかったカプハルクや非正規兵をめぐっては,今なお曖 昧な点が存在している[Cezar, Y. 1986: 57–58]。様々な州や県における両支援税の年額について は[Cezar, Y. 1986: 59, 61–63]参照。
21 )
ディルリクの私物化,地方高官の収入減,そしてレアーヤーへの抑圧ゆえに1715
年には廃止が決 定されたが[Raşid 4: 34, 176–177],目前の戦費調達に迫られ,その後取り消されている。22 )
残存する最も古いそれは,1748年12
月/ 1162
年ムハッレム月に作成されたものである[GŞS1379: 11R–12R]。
23 )
税割当簿が作成され始めた時期やその理由ならびに作成手順などについては[Uluçay 1955:52; McGowan 1981: 158–159; Cezar, Y. 1996: 89–120; Çadırcı 1997: 148–165; Neumann 1998:
69–73; Açıkel-Sağırlı 2005: 95–103; Akkuş 2017: 32–38]参照。ボル郡では,徴税が公にアーヤー
ンの手に委ねられた1696–97
年前後よりシャリーア法廷台帳( şerʼiye sicili )
によく見うけられ始 めるようになった。そしてその際,17世紀後半における資産調査などを通じて[BoŞS 832: 22R,39L–40R],政府により割り当てられた納税戸を基に独自に割当戸についても設定していったよう
である[BoŞS 842: 84L; 844: 75R–L]。ギョイニュク郡について言えば,前述したごとく18
世紀 を通じて納税戸数については134
前後[多田2015: 表Ⅰ]でほとんど変化がなく,割当戸数につい
ても概ね85
から80
戸程度で推移し[GŞS 1379: 11L–12R; 1385: 23R],決して大きく変動したわ けではなかった。ただし,たとえばÇubuk
村は前節で言及された1768
年12
月11
日付の税割当 簿では2.8
戸と登録されていたのに1785
年2–3
月のそれでは1.4
戸に減少され,その他6
村にお いても戸数が改訂された。基本的には,前回作成された税割当簿の戸数を踏襲しつつも,状況の変 化が明白であった村々に関しては調整がなされたようである。一方1749
年3
月12
日付で作成さ れた糧秣代替付加税( bedel-i nüzül-ü mütekaid )
の割当簿[GŞS 1379: 16L–17R]において,前 述の村の納税戸数は4.2
戸であったが,1784年12
月15
日付の同税の割当簿[GŞS 1385: 15R]↗1 )国庫に納めたアヴァールズ諸税,2 )地
方高官およびその従者に納めた税や手当な ど,3 )公務で郡内を往来する者たちに支払っ
た手当や宿営費用など,4)郡業務に関わる
経費,の4
種類に大別される。1)
につい ては,本郡は帝室厨房室(matbah-ı amire )
の鶏担当官に鶏納入を義務づけられた一団( Tavukçıbaşı
のocaklık )
に属していたこと から,それに納められた1
納税戸につき30
羽の鶏と10
羽の若鳥,同じく同者に納入さ れた1
納税戸につき50
アクチェのアヴァー ルズ代替付加税(bedel-i avarız-ı mütekaid )
および徴税経費も含めて630
アクチェの糧秣 代替税(bedel-i nüzül )
,さらには糧秣代替 付加税[GŞS 1379: 16L]などが挙げられる。なお
1 )
については,税割当簿に計上される ことはなく,鶏については郡民の手によりイ スタンブルへもたらされ,またその他のア ヴァールズ諸税については,他の多くの税や 手当などとは別に調達され,派遣されて来た 役人に譲渡された。2)
についてはアナドル 州総督とヒュダーヴェンディギャール県軍政 官に定期的に納入された平時支援税,治安維 持活動( teftiş )
税,あるいは戦時における戦 時支援税,ならびに各々の徴収に関係した彼 らの従者に支払われた手当などが挙げられる。また
3 )については政府あるいは地方高官の
役人,従者,兵士などをはじめ,公務のため に本郡を訪れたり通過したりした者たちに支 払われた手当や出費,勅令や高官により発せ られた命令であるブイルルトュ( buyrultu )
をもたらした役人に与えられた役務手当( mübaşiriye )
, 糧 食 手 当(zahire bahası )
など,あるいはキュタヒャからカスタモヌへ と向かう中隊長( bölükbaşı )
たちへの支援金などが挙げられる。そして
4 )
については,たとえば市政管理担当者
( şehirkethüdası )
や徴税担当者( tahsildar )
への報酬,駅逓( menzil )および関所( derbend )に関わる
費用[GŞS 1379: 28R; 1383: 37L, 40R],イ スタンブルやキュタヒャ(Kütahya )へ使者
を派遣した際の諸経費[GŞS 1379: 23R–L;1381: 37R, 61R; 1382: 80L],弾丸の購入[GŞS 1381: 9R]や罪人処刑のための費用[GŞS 1381: 61L, 80L]などが挙げられる
24)。なお,徴収金の内のいくらかを自主財源(
vilāyet malı )として蓄え,以後の出費にあてること
もあった[GŞS 1381: 81R]。以上,2
)
,3)
,4)の出費については税割
当簿に記載され,ギョイニュク郡内のアー ヤーンなどの中から選ばれた徴税担当者に よって,一括して徴収された。ただ前節で述 べたように,兵士の出征に際しレアーヤーは いくらかの負担を強いられたようであるが,それについては名簿に見あたらず,とりわけ その負担額が増したと考えられる
18
世紀終 わり頃になると,税割当簿には資金供出者名 とその供出額のみしか記されなくなるなど,実態はまったくつかめない状況にある。また 周知のごとく,アーヤーンたちはセルダル ルク
( serdarlık )
,アガルク( ağalık )
等々 の様々な名のもとに,レアーヤーより独自 に税を徴収しているが[GŞS 1384: 37L; 永 田1974: 39, 54, 63],もちろんこれらについ
ても名簿には計上されていない。一体レアー ヤーがどれほどの税を納めていたのかについ ては,今後の究明を待たねばならないが,い ずれにせよ税割当簿に記された額以外にも,かなりの負担を強いられていたことは間違い ない。
↗ においても同じく
4.2
戸であった。前述の税割当簿よりも経過した期間がはるかに長いにもかかわ らず,納税戸数はÇubuk
村に限らず,Akça-alanı村1
村を除いてその他のすべての村々で同じな のである。なおAkça-alanı
村の戸数は1.4
から1.2
へと減少している[GŞS 1378: 6R; 1381: 92R;1385: 15R]。誤記と思われるが,たとえ誤記でなかったとしても,ほとんど変化がなかったと捉え
ても差し支えあるまい。24 ) 2 )
,3 )
,4 )
の額が,税割当簿の中に占める割合については表Ⅵを参照。ただ3 )
と4 )
については,いずれに含まれるべき出費なのか判然としないものもあることから,両者の合計値を提示した。
次いで,徴収時期について紹介する。ま ず,前述したように現金確保が求められた ものの,特に地方現場においてはなおその 供給が難しい時代であった。そこで,平時 支援税については州総督に概ねムハッレム 月とレジェブ月の年
2
回,県軍政官にはム ハッレム月,ジュマデルウーラー月そして ラマザン月の3
回に分けて納入された。一 方,17世紀や18
世紀初頭におけるアヴァー ルズ諸税の徴収時期は幾分流動的であったが[BoŞS 839A-6611: 6L; 842: 70R; 843: 57R;
844: 63L; 845: 21R, 38R; 846: 21R; Demirci 2009: 127–129],その後は主としてズィルカ
デ月からズィルヒッジャ月にかけて徴収され ようになった(表Ⅶ参照)。すなわち,郡を 枠組みとする新たな徴税活動をふまえて,諸 税の納入時期があまり偏らないように工夫,改編された形跡が窺われるのである。なお
3 )
,4)
に関する出費については,その都度 なされたものと考えられる。さて,このように主要な諸税の徴収時期が 振り分けられ,
2 )については郡内のアーヤー
ンや街区などにより,また3 )
,4)について
は担当者や関係者により支払われた。そして 凡そ半年から1
年ほどの間に一度(表Ⅵの年 月欄参照)
,当該期間に支出された総額がまと められ,割当戸に割り振られ,徴収された25)。 当然の事ながらこのような納税形態ではいわゆる利息が発生することとなる。事実,税割 当簿には利息額が計上されており,当初は
10%であったが,ロシアとの戦争により経済
が逼迫した同世紀終り頃になると20%に上
昇している26)。では,どのような者が税の立替を引き受け たのであろうか。表Ⅷをご覧いただきたい。
これは,ギョイニュク郡のシャリーア法廷台 帳における記述をもとに,18世紀後半に同 郡内において徴税を請負った者たちを一覧に したものである。残存していない台帳もあり,
一部に過ぎないものの,一見して大半が
3
年 以内の請負期間であったことが分かる。下請 けの請負期間が長期化,安定化したと言われ る終身徴税請負下におけるムカーター(
徴 税請負に出された税源)
であるNo 1,3,4
などに関しても同様である[Çizakça 1996:167]。地域的な慣行に基づいた,あるいは傑
出したアーヤーンがいなかったためなのか,目下のところ理由は判然としない。一方表Ⅸ は,1785/1199年における州総督への第
2
回 目の平時支援税および関連経費の納入にあた り,その立替者をまとめたものである。人数 こそ少ないものの,これを表Ⅷと対照すると,カーディー・オグル・ハージゥ・イブラヒ ム
( Kadi oğlu Hacı İbrahim )
を除く全員 の名前が(
表ⅧのMehmed
①,Ahmed①,İbrahim
⑤,İbriş参照)表Ⅷに現れること25 )
本郡内のMihāl
地区は故ニシャンジゥ・ジェディード・メフメト・パシャ( Nişancı Cedīd
Mehmed Paşa )
のワクフ村から成り,アヴァールズ諸税と平時および戦時支援税以外は免除されていた。しかも,たとえば平時支援税について言えば毎年概ね
800
クルシュ程度に固定化され,そ の上地区で一括して納められたことから,同地区には割当戸が設定されていなかった。なおアヴァー ルズ諸税や両支援税は,元来パーディシャー,両聖都,一部大臣( vezir )
の諸ワクフなどのレアー ヤーについては免除されてきていたが,その後何らかの手段でその資格を獲得する者が増加し,逆 に残ったレアーヤーへの負担が大きくなり彼らの疲弊をもたらすようになったことから,18世紀 中頃には公平を期す上でも関所守備兵( derbendci )
,駅逓係( menzilci )
などの何らかの役務に携 わっている者以外については,全員納めなければならないこととなった[GŞS 1380: 11L–12L]。26 )
立替については,すでにMustafa Akdağ
が言及しているが,彼はその詳細については一切触れて いない[Akdağ 1963: 59]。たとえばÇadırcı
[Çadırcı 1997: 164]やAçıkel-Sağırlı
[Açıkel-Sağırlı2005: 101]は,カーディー主宰のもと市政管理担当者やアーヤーンなどが集った会議において,
職務で用立てたものの当人に返金されていない費用についてはその書付に基づいて出費として台帳 に記され,レアーヤーに割り当てられ,徴収され,返却されたと述べている。しかし,たとえば書 付とはどのようなもので,誰により作成され,誰にいつ提出されたのかなど,立替から徴収にいた る実態ついては今なお不明な点が多い。
が分かる27)。すなわち徴税請負者たちが,そ の資金力を生かして立替において重要な役割 を果たしていたことが窺えるのである28)。
また,以上のごとき徴収のしくみはいつ頃 整えられたのであろうか。周知のように,17 世紀末より地方現場でも納税額および必要経 費が明確にされ,税割当簿の作成が一般化し 始めた。表Ⅹaは
1700
年前後のボル郡にお ける,表Ⅹbは18
世紀中頃のギョイニュク 郡における経費徴収状況や税割当簿の内容を 概略したものである。郡が異なるとは言え,違いは明白である。前者においては,1〜3 か月ごとに,すなわち出費が生じる度に徴収 がなされ,しかもその対象が町部と村落部,
町の人々,村落部のみ,村落部の一部など,
その時々で異なり,いささか場当たり的な感 がするのに対して,後者においては前述した ようにほぼ半年から
1
年間ごとへと期間が延 長され,割当対象についても変化がなく,徴 収業務の簡略化や費用の軽減,そして公平化 が図られている。その上,前者においては一 部の者あるいは街区などによって立て替えら れていた資金の徴収と新たな徴収との間に関 連性が見うけられないのに対して,後者にお いては現金立替に伴う利息や前回までの未納分も計上され,より意図的,一体的な徴収が なされるようになっていることが分かる。そ こで,史料上の制約により確定はしえないも のの,筆者はやはり前述の両支援税の改革,
とりわけ平時支援税の導入が一層の体系化を 促したのではないかと考える。なぜなら,な お現金確保に困難を抱える地方現場において 自然発生的に形成されたとは思われず,しか も資金力を備えたアーヤーンなどによる協力 無くしては成り立ちえないものであり,その 上主要諸税の徴収時期の振り分けなどをもふ まえると,やはり何らかの新たな施策を契機 に整えられていったと捉えるのが妥当である と考えられるからである。
ところで,政府や州総督より県軍政官のも とに派遣されてきた使者に関わる諸経費など についても,まさに平時支援税のごとく各 県,各県内の諸郡へと割り振られた。本郡の 税割当簿には見られないものの,アンカラ郡 のそれでは,この費用は県関係費(
sancak masrafı )
と呼ばれ,18世紀中頃以降頻出し 始め,しだいに用語として定着化していっ て い る[AŞS 176: 242; 826: 232; 833: 522;846: 190; 857: 106, 153; 860: 200; 861: 200;
865: 179, 296; 871: 290]。そして,19
世紀初27 )
単にメフメト・アガ( Mehmed Ağa )
,アフメト・アガ( Ahmed Ağa )
としか記されていないが,ちょうどこの時期に作成された税割当簿[GŞS 1385: 36R]
( 1785
年1
月22
日–1月31
日/ 1199
年 レビユルエッヴェル月中旬から1785
年12
月24
日/ 1200
年サフェル月1
日の出費を対象とする)
と対照すると,彼らが各々セルダル・オグル・メフメト・アガ( Serdar oğlu Mehmed Ağa )
―Serdarzade
とも呼ばれる―,そして同・アフメト・アガ( Serdar oğlu Ahmed Ağa )
であったこ とが分かる。セルダル・オグルについては本稿,注36
参照。なおカーディー・オグル・ハージゥ・イブラヒムについては,前述のあるいは
1783
年10
月4
日/ 1197
年ズィルカデ月7
日から1785
年1
月22
日–31日/ 1199
年レビユルエッヴェル月中旬における[GŞS 1385: 22R],さらには1786
年12
月22
日/ 1201
年レビユルエッヴェル月1
日から1787
年11
月11
日/ 1202
年ムハッレム月にお ける税割当簿[GŞS 1385: 72R]によると,各々の時期に734,521
そして634.5
クルシュもの立 替を行っていた資産家であったことが分かる。その上,彼の親族と思われるカーディー・オグル・メフメト・アガ
( Kadi oğlu Mehmed Ağa )
がNo. 16や 19の徴税を請負っていたことなどから (
表Ⅷの
Mehmed
⑦参照)
,目下残存している史料にはその名前が登場しなかったものの,やはり彼も何らかの形で徴税請負に関係していたものと考えられる。
28 )
その他,恐らく現金を保持する商人や職人たちが中心となって各街区も立替に携わっている。また両替商
( sarrāf )
からの借入も行われたが,恐らくこれは不意にあるいは郡の資金力を超える調達を迫られた場合に限られたものと考えられる[GŞS 1378: 30; 1381: 80; 1382: 80; 1384: 30; 1385:
72]。ギョイニュクの町よりもはるかに多くの商人や職人が在住したアンカラの町を抱えるアンカ
ラ郡でも,町在住の異教徒の商人などから多額の借金をして,突然の出費に対処した場合があった[Özdemir 1986: 99–125; AŞS 815: 154–153]。