東 洋 学 報第一〇〇巻
第一号
論 説
18世紀前半のエーゲ地方における
勃興期の「アーヤーン」
「匪賊」サルベイオウル・ムスタファの 事例から
末 森 晴 賀
は じ め に
1730年代,オスマン朝のエーゲ地方で,サルベイオウル・ムスタ ファという「匪賊úDলƯHúলÕ\Ɨ」が現れた。彼は1732年頃から政府に よって討伐される1739年までの数年間,出身地のデニズリ周辺から オスマン朝最大の貿易港イズミルに至るエーゲ地方各地で殺人や略 奪を行って地方一帯を荒らした。彼の活動はスルタン・マフムト 1 世 期(1730–54年)最大の内憂と言われたほど,当時のオスマン朝を揺 るがす問題となっていた(1)。
「匪賊」サルベイオウル・ムスタファが出現した18世紀は,オスマ ン朝の地方支配が動揺する中,地方ではアーヤーン(Dދ\ƗQ)と呼ば れる人々が登場し割拠する現象が見られた時代である。アーヤーン は,アラビア語の「目ދD\Q」の複数形で,イスラム王朝下で広く見 られる名士を指す言葉である。しかし,オスマン朝の場合,とりわ け18世紀に各地で台頭した自立的な人物あるいはその家系を指し,
彼らは財産や兵力を有して出身地の郡など地域社会に影響力を行使 した。彼らは18世紀後半に至って,17世紀末に導入された終身徴税 請負制のもと,現地での徴税を請け負い,また自らも農場経営を行っ て富を蓄積し,私兵集団を抱えるようになった。さらに,政府から 県レベルの総督代理(müWHVHOOLm,県総督代理)や郡レベルの徴税官
(vR\vRGD,郡徴税官)といった地方官職を付与されて公的な形で出身 地を中心に地方社会を支配した['ø$, 4:195–198, ³Æ\DQ´ (E\ g 0HUW)]。
18世紀のオスマン朝地方社会に特徴的なアーヤーンに関して,こ
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18世紀前半のエーゲ地方における勃興期の﹁アーヤーン﹂末森
れまでさまざまな角度から研究が進められてきた。øQDOFÕN[1977:
27–52]は,オスマン朝の地方行政におけるアーヤーンの役割につい て,彼らが地方官職を得て地方行政に進出していったことを論じた。
永田[1974]やg]ND\D[1977]らは,18世紀中盤以降に自らの地域 社会における役割を政府に認めさせようとするアーヤーンの働きか けの結果新たに生まれた「アーヤーン職」という「官職」を取り上 げ,地方行政におけるその役割を検討している。また,永田[1997]
や0F*RZDQ[1994]らは,アーヤーン台頭の背景を明らかにすべく
彼らの経済基盤に注目し,徴税請負や農地経営が台頭の原動力であっ たことを明らかにした。
また,アーヤーンの個別事例を取り扱う研究もなされ,「匪賊」サ ルベイオウル・ムスタファの活動したエーゲ地方のアーヤーンにつ いて,8OXoD\[1955]が各地のアーヤーンや家系を紹介している。
また,9HLQVWHLQ[1975]はエーゲ地方において特に重要なアーヤー ン家系であるマニサのカラオスマンオウル家とベルガマのアラブオ ウル家を比較し,*üQD\[2006]はアラブオウル家を倒してベルガ マを中心に支配したサアンジュル・ヴェリーについて検討している。
さらに,永田[2009]もカラオスマンオウル家の経歴や経済基盤,
地域における活動などを詳細に明らかにした。
ところが,アーヤーンが地方に割拠した18世紀後半の状況につい て明らかにされてきた一方,それ以前の18世紀前半については史料 的制約が多く不明な点が多い。この時期に関する研究は,管見の限 りほとんど存在せず,特にエーゲ地方に関しては永田らのカラオス マンオウル家の家系研究において,政府に命じられた任務以外の活 動などはほとんど明らかになっていない。しかし,9HLQVWHLQ[1975:
131–132]やg]ND\D[1977: 137–149]が指摘するように,アーヤー
ンは18世紀後半に至って官職獲得,徴税請負,農地経営といった特 徴を備えて形成された存在であり,18世紀前半は後に形成されるアー ヤーンの祖型が出現した時期にあたる。したがって,アーヤーンを 含む18世紀オスマン朝における地方勢力の台頭を理解するためには,
その契機である18世紀前半の状況が明らかにされる必要があろう。
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このように重要な意味を持ちながら史料的な制約もあって不明な 点の多い18世紀前半の地方の状況について,その手掛かりを与える 出来事が,同時期に登場した「匪賊」サルベイオウル・ムスタファ の騒乱である。この「匪賊」の騒乱は,単にその規模の大きさだけ でなく,18世紀後半にエーゲ地方で最も強大な家系にのし上がるカ ラオスマンオウル家の祖にあたるカラオスマンオウル・ハジ・ムス タファも討伐に加わっていたことから,18世紀後半のアーヤーン割 拠につながる重要な事件として位置づけられる[8OXoD\ 1955: 17–20 hONHU 1989: 652 永田 2009: 43]。ゆえに,「匪賊」サルベイオウルの 活動から,「アーヤーン」勃興期の18世紀前半における地方の動きが 明らかにできよう。
「匪賊」サルベイオウルに関して,8OXoD\ [1955: 88–91]は勅令等 のオスマン文書を用いて,略奪や殺人といった彼の行動を時系列に
辿り,(UWDú[2007]はさらに法廷文書等のオスマン文書を用いつつ,
サルベイオウルの活動や彼と住民や政府との関係を分析した。しか し,いずれもオスマン朝側の史料のみを利用しているため,各地で 殺人や略奪を行い住民に被害を与えるという,オスマン政府から見 たサルベイオウルの一側面が明らかにされたにとどまる。これに対
し,hONHU[1989]はオスマン文書に加えイギリスの外交文書も用い
ているが,オスマン文書には見えないイズミル襲撃の他は専らオス マン語史料のみを用いており,他の先行研究と同様サルベイオウル に対してオスマン政府中心の見方に立っている。
しかし,永田[2009: 43註14]がサルベイオウルをカラオスマンオ ウル家の「地域のライバル」と表現し,「オスマン側の文書では,つ ねに『匪賊』という政府寄りの視点から言及されるこうした人物の 社会的背景については,現場からの視点で再検証する必要がある」
と述べるように,多角的にサルベイオウルの実像を捉えなおす必要 があろう。
そこで,本稿では,オスマン語史料に加えて欧文史料も用いるこ とで,オスマン政府中心の見方を乗り越えて,「匪賊」サルベイオウ ルの活動を多角的に検討し直す。その際,先行研究の成果を踏まえ
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つつ,これまで用いられた史料を読み直し,先行研究でまだ使われ ていないフランス語新聞などの欧文史料を利用する。特にフランス 語新聞は,オスマン語史料とは性格が異なるため「匪賊」を相対化 して分析する際に有効である。また,イズミルやイスタンブル在住 の領事や特派員らから同時期に仕入れた情報をもとに作成している ため,サルベイオウルの出自やイズミル周辺等における彼の行動に ついて,他の史料には出てこない情報を提供してくれる。オスマン 語の史料としては,枢機勅令簿など先行研究で用いられた史料や,
先行研究でまだ使われていない首相府オスマン文書館所蔵の地方か らの上奏などオスマン文書の他,9DNތDQüvLV 6XEKv 0HKmHG (IHQGL, Subhî TarihiやùHmދGkQv]kGH )ÕQGÕNOÕOÕ 6üOH\mDQ (IHQGL, 0UұLұWWHYkULK といった年代記を用いる。また,フランス語新聞は,*D]HWWH3DULV 1631) や0HUFXUHGH)UDQFH を用いる(2)。
以下,第 1 章では,「匪賊」サルベイオウル・ムスタファが登場し た18世紀前半の時代背景を概観する。第 2 章で,サルベイオウルの 出自や活動を分析し,第 3 章で,サルベイオウルが討伐される経緯 を明らかにする。これらの分析から,「アーヤーン」勃興期の18世紀 前半における「匪賊」の姿が明らかにされる。
第 1 章 18世紀前半のエーゲ地方
1683年に対オーストリア戦争,いわゆる第二次ウィーン包囲が始 まって以降,オスマン朝の支配体制は動揺し,アナトリアは混乱に 陥った。同時に,9HLQVWHLQが述べるように,18世紀前半はアーヤー ン形成途上の時期にあたり,エーゲ地方では様々な武装勢力が登場 した。その中には,同世紀後半にアーヤーンとして知られる家系の 祖にあたる者たちがいた。例えば,カラオスマンオウル・ハジ・ム スタファや,アラシェヒルのオメル・アガやその兄弟のアリー,ア クヒサルのハジ・シャバンオウルである。このうち,カラオスマン オウル・ハジ・ムスタファの父親は在郷騎士(VLSƗKƯ)の出身で,主 に出身地周辺の徴税に携わっており,ハジ・ムスタファもまた父親 と同じ徴税業務を行っていたことが知られている[永田 2009: 42–43
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ANWHSH 1971: 370 g]ND\D 1977: 146]。
これら武装勢力の出現に対し,オスマン朝は彼らの取り込みある いは討伐を行って地方支配の維持を図った。18世紀のオスマン朝で は,政府が様々な社会的・政治的階層を体制の内に取り込んで国の 支配を可能にしており[6DO]mDQQ 1993], 政府は常套手段として自ら に反抗的な人物を取り込み手なずけていた[BDUNH\ 1994: 237–238]。
例えば,上で挙げた「アーヤーン」は,政府から対外戦争への出征 など軍事面での協力を要請されて政府に取り込まれている[永田 2009: 42–43 ANWHSH 1971: 370 g]ND\D 1977:146]。
一方で,政府に反抗的な者らは,「匪賊」として討伐の対象とされ た。これら「匪賊」には,地方長官やアーヤーン配下の戦地からの 脱走者や,戦争終結後に解雇された傭兵,17世紀以降周辺地域から エーゲ地方に大量流入した遊牧民など様々な出自の者が含まれる。
彼らは10数名から100名程度の徒党を組み,イズミル周辺のほか,イ ズミルに通じるエーゲ地方の主要街道上で,キャラヴァンや商人,
旅行者などを襲撃し,殺害して財産を略奪し,周辺の農村を攻撃し て飼葉や馬,ラバ,食料,女などを略奪した[8OXoD\ 1955: 59–91
&H]DU 2013: 201–205, 250–251]。
また,政府に取り込まれて「匪賊」から後にアーヤーンとなった 者もいた。例えば,18世紀前半にエーゲ地方に現れた出自の不明な 匪賊,スラジャル・ヒンメトは,討伐軍に追われ財産も没収された が,1743年に私兵を連れて出征するという条件の下で政府から恩赦 を与えられている。後に彼の子孫はマニサに来て定着し,同地のアー ヤーンの仲間入りをしたという[8OXoD\ 1955: 87]。
18世紀前半のエーゲ地方に出現した「アーヤーン」と「匪賊」に ついて,8OXoD\[1955: 56–57]は「18世紀後半にカラオスマンオウ ル家のような強力な家系が覇権を握ったことは,この類の匪賊が消 滅する要因となった」と述べる。つまり,18世紀前半から後半にか けて様々な武装勢力が淘汰され,政府に協力しつつ勝ち残った者が 政府から官職も得てアーヤーンとなっていったのである。その中で 18世紀前半は,政府に協力的な者,反抗的な者など多様な武装勢力
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が地方に出現した時代であり,そのような武装勢力の一人が,「匪 賊」サルベイオウル・ムスタファであった。
第 2 章 「匪賊」サルベイオウル・ムスタファの騒乱
第 1 節 サルベイオウル・ムスタファの出自と経済基盤
本節では,オスマン文書の中で「匪賊 úDলƯHúলÕ\Ɨ」と表現される サルベイオウル・ムスタファの出自と経済基盤について検討する。
彼は,「キュタヒヤ県エズィネイ・ラズキェ郡に付随するサライとい う名前の村の住民」(3)であった。サライ村はエーゲ地方の内陸部に あるエズィネイ・ラズキェ郡の中心地であり,東西にのびる街道上 に位置していた(4)。
サルベイオウルの父親は,「サルベイオウル(=サルベイの息子)」(5) という名前が示す通り,サルベイという。フランス語新聞は彼を「官 人(RI¿FLHU)[0HUFXUH -DQvLHU 1739: 140]」と言及するが,オスマン朝 における高官の人名録である 6LFLOOLµ2VPƗQƯなど,オスマン史料中 でそれを証明する情報は見当たらないため,事実か否か定かではな い。一方で,彼は「オスマン帝国で最も金持ちの一人に数えられる
[0HUFXUH -DQvLHU 1739: 140]」ほど富を有する人物でもあった他,人々 に善行を施したことで知られていた(6)。
サルベイオウルの経済基盤は,父親から受け継いだ財産であった。
彼の父親であるサルベイが亡くなった時,その財産の大部分は政府 に没収されたというが,それでも多くの財産がサルベイオウルに残 されたという[0HUFXUH -DQvLHU 1739: 140–141]。彼が相続した財産額 や内容は具体的にわからないが,政府から恩赦の際に発せられた次 の勅令にはその財産の一部が記述されている。
一緒にわが帝王の戦争に行き,最善を尽くすのであれば,おま え(サルベイオウル)が望むように,[おまえの]生命,財産や物 品,下僕(KDGHmH),兵,家畜,その他のものに危害を加えない
[9HVLNDODU: #59]。
この一文から,彼は財産や数々の物品,家畜,私兵などを所有し ていたことがわかる。このうち,私兵の数は少なくとも150名にの
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ぼったという[hONHU 1989: 639]。他にも,彼には出身地付近に +DV という名の農場(oLIWOLN)があった(7)。また,討伐後に彼の財産没収 に関して出された勅令から,その財産の額の一部が読み取れる。
ニフ郡クズルジャ村のタスルオウル・ユースフという名前の人 物に,ある日,殺された匪賊であるサルベイオウルが10,000ク ルシュの現金や多くの物品を預けたことを,言行の正しさで知 られる信頼のおける人物より知らされたので,とにかく急いで
[サルベイオウルの財産を]確保し,続けて我が幸福の門(イス タンブル)に引き渡すことが命じられ…(8)。
ここから,彼には少なくとも彼の出身地域が属するデニズリから 毎年上がる税収の約 5 分の 1 に相当する10,000クルシュ(9)の現金や 物品があったことが明らかである。以上から,サルベイオウルはエー ゲ地方の出身で,出身地周辺に農場や家畜などの資産を有し多くの 私兵も抱えていた勃興期の「アーヤーン」であった。
第 2 節 サルベイオウル・ムスタファの活動
エーゲ地方の「アーヤーン」であったサルベイオウルが,父親の 死後「匪賊」として活動するようになった経緯については三つの説 がある。一つ目は,父サルベイが亡くなった時,政府が財産の大部 分を没収した上に,サルベイオウルの姉妹までも連行したというも のである。サルベイオウルは政府に財産の弁償を訴えたが聞きいれ られなかったため,政府に激しい恨みを抱いていたという [0HUFXUH -DQvLHU 1739: 140–141]。
ただし,注意したいのは財産没収の理由は不明であるものの,オ スマン朝は官人や富裕層を対象に頻繁に財産没収を行っており,と りわけ官人の場合,その財産は死後に国庫に帰するものであるとす る認識があった(10)。したがって,サルベイオウルが政府に恨みを抱 いていた理由は,財産没収自体ではなく,別のところにあったと考 えられる。
これに示唆を与えるのが,二つ目の説である。サルベイオウルは,
後宮の権力者である黒人宦官長の庇護下にありギュゼルヒサルに住
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む官人の不正を政府に訴えたが,かえって逆恨みを買うことになり,
その官人に家を襲撃されたうえ,彼の母親や姉妹が暴行されたとい うものである[hONHU 1989: 638–639]。これと似た話が三つ目の説で あり,ゲンチュ・アリーという人物がサルベイオウルの家を焼き払 おうとしたというものである[9HVLNDODU: #59]。この二つの説は,彼 が出身地域周辺の官人やそれに関係する人物に危害を加えられたこ とを示している。
これら三つの説を考慮すると,サルベイオウルは父親の財産没収 という名目で政府と結託した自身のライバルになるような官人ある いはそれに関係する人物から圧力を受けたのではないかと推察され る。次で見るように,彼が活動を始めた頃,出身地周辺の住民や官 人に対する襲撃が目立つのはこのことを裏付けていると考えられよ う。
先行研究を含むオスマン語史料から確認できるサルベイオウルの 活動は次の通りである。
1732年 6 月,サルベイオウルはサライ村の住民の家を襲撃し,そ の妻を捕えて監禁した上に殺害して市場に晒した。翌1733年10月に 近郊のヒサル村に住む複数の住民を襲撃し,殺害して財産を略奪し た。1734年にはサライ村に砦を築き,エズィネイ・ラズキェ郡から 政府に納められる税金を全て強奪した。1734年中頃にアレッポへ逃 亡して1735年の冬頃に故郷に帰還したが,その時彼は政府の討伐軍 に敗北し,ホナズ城に撤退する。その後,城に迫った討伐軍の包囲 を突破して逃亡した[hONHU 1989: 639–640 (UWDú 2007: 404]。
1735年 5 月29日,サルベイオウルの出身地方の中心地であるデニ ズリの郡徴税官やその兄弟,郎党を襲撃し,数人を殺害して財産を 略奪した。また,近郊に住む別の住民の家も焼き払った。その後,
サルンジャク橋という場所で「トカトの隊商(11)」を略奪した後,ア ラシェヒルでは商人を数名殺害し,その財産を略奪した。さらに,
そこから北方に位置するギョルデスに向かい,町を包囲して50名を 殺害し,数人を捕虜にした。1735年 8 月にはスィマヴやスンドゥル グ周辺に向かい,ウシャクやギョクチェダウなどへ逃亡した後,エ
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スキシェヒル近郊のエミール山に身を潜めた(12)。
1736年,政府に対ロシア・オーストリア戦争に出征する条件で一 旦赦され,戦地に向かったものの途中で故郷に引き返した。その際,
サルベイオウルは通過した郡から金銭を徴収し,故郷近くのホナズ 城で冬を越す間,翌春に出征することを理由に周辺の村々から糧食 を徴収した。また,デニズリの隊長(VHUGDU)を自分の側に呼び寄せ,
サルベイオウル自身のためにデニズリの郡徴税官職を確保するよう 命じ,言うことを聞かないデニズリの財務係(GHIWHUGDU)を殺害した。
そして,デニズリの郡徴税官職の証書を奪って台帳に登録させて同 職を強奪し,デニズリ周辺の各町(NDVDED)に 1,2 人の部隊長を任 命して「郡徴税官になった」と言って圧政を行った[(UWDú 2007: 407]。
その後,サルベイオウルは再び「匪賊」として政府に追われる身 となった。1737年に彼はギョルデス郡に逃亡し,同郡のイネ村にあ る自身の支持者が守る塔に籠城した。討伐軍に塔ごと包囲された後,
塔から脱出して再び逃亡する(13)。
以上,オスマン文書から見えるサルベイオウルの姿は,「人を殺 し,追い剥ぎをし,財産を略奪し」たり,「大勢の匪賊を集めて彼ら の頭となり,彼らと一致団結して人々の財産を不当に奪い,幾度か ムスリムを殺害」したというものである(14)。一方,フランス語新聞 はサルベイオウルと住民の関係について以下のように述べる。
サルベイ[オウル]は最初,隊商や,町やいなかの住民に対し てすこぶる優しく,大変良く世話をし,名を上げて好かれよう としていた。ラクダ曳きが,危険が潜んでいたり,自らの商品 に対する利益が少ない場所へ行くとき,[サルベイオウルは]彼 らの道を変えさせ,保護し護衛を付けて,より多くの利益が見 込める地方へと連れて行った。彼(サルベイオウル)はこの案内 を通して,自分がアナトリア各地の物の多寡を熟知し,良い友 人たちがいることをも示したのであった。〈中略〉彼(サルベイ オウル)の財産が不足し始めると,村や町,都市に課した貢納
(FRQWULEXWLRQ)に頼り,違反すれば武力で制裁を加えた。それで もまだ不十分であったので,隊商から金銭や毛織物,最上品を
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取り上げるという方法に出た[0HUFXUH -DQvLHU 1739: 141–142]。
この史料からは,地域住民や隊商を保護していたサルベイオウル の姿が明らかになる。おそらく彼は,保護の名目で貢納ないし手数 料も徴収していたことであろう。史料で言及されるように,時が経 つにつれてそれは次第に貢納徴収の側面が強くなり,都市や村,あ るいは隊商から強制的に金銭や物品を徴収するようになった。後に 見るイズミル襲撃の際に「行軍費[hONHU 1989: 645–647]」として金 品等を要求したように,貢納の徴収に際して一応の名目も設けてい た。このように,彼は保護と同時に貢納の徴収を通して地域住民や 交易に影響力を行使したのである。ただし,その行動は公権力の裏 打ちがあったわけではなく,私的に行うものであったため,政府に してみると「人々の財産を不当に奪う」ことであった[9HVLNDODU:
#72]。
また,オスマン朝の年代記で「サルベイザーデ(サルベイオウル)
と呼ばれる邪悪の根源たる有名な匪賊が,アイドゥン方面で反乱を 起こし,10,000人以上の悪党どもと一緒にこの地方を荒らし回」っ たという記述がある[Subhî: 500]。このことから,彼の影響力が及 んだ範囲は,出身地周辺に加えて基本的にエーゲ地方のアイドゥン を中心とする地域であったと見ることができる。また,彼はデニズ リの東方にあるホナズやウシュクル方面にも影響力を行使していた
[3RFRFNH: 81]。
サルベイオウルは拠点となる城を築いており,それが出身地東方 に位置するホナズ城である。城の周りには11門の大砲が設置され,
内部には貯蔵用や貯水用の塔があり,防衛や徴収物の保管に適して いた(15)。こうした複数の拠点を中心に,彼は自ら赴くか,自身の部 下を現地に派遣して住民や隊商の保護や貢納の徴収を行っていたの である。
また,サルベイオウルの下には「10,000人以上」とも言われる支 持者がいた[Subhî: 500]。「彼(サルベイオウル)は不満を持つ者たち から成る一団を形成した[0HUFXUH -DQvLHU 1739: 140–141]。」と言わ れるように,彼らもまた政府に反抗的な者たちであったと考えられ
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る。彼らの出身は,サルベイオウルの出身地周辺のみならずエーゲ 地方の広範囲にわたる(16)。彼らの出自についてその多くは不明であ
るが,「部隊長E|OüNEDúÕ」と呼ばれる人物が少なくとも10名確認でき
る。「部隊長」とは,イェニチェリ軍団に属する部隊の隊長や傭兵の 隊長など,広くオスマン朝下の様々な軍事集団の長を指して用いら れた語である [PkNDOLQ, 1:242, ³B|OüNEDúÕ´]。ここで言う「部隊長」が 何を指すのかは明らかでないが,少なくとも兵力を有する人物であっ たことは確かである。また,農場の管理人(NHWKüGD)の名も見られ る[(UWDú 2007: 404]。サルベイオウルの支持者らは,彼に協力して 戦闘を行ったり,サルベイオウルに派遣されて各地で貢納の徴収を 行っていた(17)。ウシュクルではサルベイオウルの代理として影響力 を行使していた人物もいた[3RFRFNH: 81]。また,次に引用する史料 に見えるように,サルベイオウルや他の仲間を匿ったり援助する者 もいた。
この匪賊(サルベイオウル)の仲間たちのうち 3 人の匪賊を捕虜 にした。他の匪賊について彼らに尋ねると,「わたしたちは,12 名の騎兵とサルベイオウルの部隊長の一人であるサル・ヒュセ イン部隊長と一緒に,ギュゼルヒサルゥ・ハミド郡のシェイフ・
ヒュセインという名の人物の家に隠れていました。」と答えた。
そこで,このシェイフ・ヒュセインを捕まえて,この匪賊につ いて尋ねると,「この匪賊たちが往来していたのは事実です。」
と答えた。さらに,このシェイフ・ヒュセインについて,ハミ ドにある七つの郡の住民たちに尋ねると,各々が,「このシェイ フ・ヒュセインは常に役に立たない者たちを手助けし,手元に 置いており,わたしたちはみな彼(シェイフ・ヒュセイン)やそ の息子に苦しめられてきました。これまで,[シェイフ・ヒュセ インが]前述の匪賊たちを匿っていたことを知っています。」と 答えた[BOA, 0' 141: 93 #256]。
このシェイフ・ヒュセインという人物は,仲間を匿えるだけの家 屋と財力を有していたため,富裕な人物であったと考えられる。他 にも,ギョルデスにいるサルベイオウルの部隊長の一人が,自身の
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守る塔でサルベイオウルを匿っている[9HVLNDODU: #60]。
サルベイオウルがエーゲ地方の住民や交易に影響力を行使したこ とは,政府にとって国家秩序への脅威となった。そこで,政府はヴェ ズィール位の高官をサルベイオウルの活動するアイドゥン県の行政 官兼徴税官(mXতDৢৢÕO,県徴税官)として派遣し,討伐にあたらせた(18)。 ところが,折しも対ロシア・オーストリア戦争(1736–39年)が勃 発する中,政府はなかなかサルベイオウルを討伐できずにいた。そ こで,政府はこれまでの態度から一転して,彼を討伐する代わりに 体制内に取り込むことで,地方支配を維持しようとした。政府は対 ロシア・オーストリア戦争に出征することを条件にサルベイオウル を赦し,オスマン朝のスルタンからの贈り物も届けたのであった。
この時,政府はサルベイオウルに宛てた勅令の中で彼を「匪賊」と は呼ばず,「サルベイザーデ・ムスタファ〈彼の栄光が増しますよう に〉」と祈願文付きで呼び掛けるなど,それまでとは打って変わって 態度を軟化させている。さらに,サルベイオウルが一旦これを受け 入れオスマン軍のもとに向かったものの,チャナッカレのラプセキ 付近まで来てから故郷に引き返し,スルタンからの贈り物も返して しまったことに対しても,「冬の間は家に滞在して,周囲にいるムス リム戦士たちを連れて行く伝令(müEƗúLU)が来たら立ち上がり,[サ ルベイオウルの]側にいる腹心の部下や,戦いに長けた勇敢な若者 たちとひとつの場所にとどまることなく来て,わが帝王の軍に合流 する準備をととのえるように」と命じて寛大な態度を示している
[9HVLNDODU: #59]。
サルベイオウルに対して政府によって高官が討伐のために派遣さ れ,対ロシア・オーストリア戦争が勃発した折は討伐できない代わ りに政府に取り込みを図られるほど,サルベイオウルはエーゲ地方 に大きな影響力を及ぼす強大な勢力であったのである。
第 3 節 サルベイオウル・ムスタファの港町イズミル襲撃 1737年以降,それまでエーゲ地方の内陸部を中心に活動していた サルベイオウルは,エーゲ地方の西端に位置する港町イズミル方面
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に進出した。16世紀まで小さな港町であったイズミルは,17世紀後 半以降に対ヨーロッパ貿易の拠点として急速に発展し,「商業等で栄 える,帝国で最も豊かな都市のひとつ[0HUFXUH -DQvLHU 1739: 140–
141]」とまで言われるほどに成長し,オスマン朝随一の貿易港とし て知られるようになった。町にはムスリムやギリシア正教徒,アル メニア正教徒,ユダヤ教徒といった非ムスリムに加え,イズミルの 主な交易相手であるイギリス人やフランス人,オランダ人などのヨー ロッパ人も居住していた[*RIImDQ 2005: 86–90]。イズミルからヨー ロッパには,イラン産の生糸や後背地産の綿花などの農作物,アン カラ産のヤギ毛などが輸出された。このうち当時イズミルからヨー ロッパへ輸出された最も重要な商品は,アナトリアを通って運ばれ たイラン産の生糸である(19)。
サルベイオウルはまず,イズミル近郊のボス山に拠点となる城を 築いた(20)。東西に長くのびる高原のようなボス山は 7 つの郡境に接 し,アラシェヒル,マニサ,アイドゥン県の主都ティレ,イズミル といった重要な都市に近く,山を取り囲むように何本もの主要街道 が走る交通の要衝であった。それゆえ「地方を跋扈する盗賊どもが 蔓延る[0HUFXUH -DQvLHU 1739: 140–141]」と言われた地であった。彼 はこの城に徴収物を納めて保管した[0HUFXUH -XLQ, 1738, 1: 1206–1207 LELG, -DQvLHU 1739: 140–141]。そして,「サルベイ[オウル]という名 のトルコ人が,スミルナ(イズミル)の周辺を大混乱に陥れている。
彼は近隣のあらゆる町や村から貢納を徴収し,いくつかの隊商を略 奪した[0HUFXUH -XLQ, 1738, 1: 1206–1207]」とあるように,イズミル 周辺地域で貢納の徴収や略奪を行い住民や交易に影響力を行使した。
1738年になると,サルベイオウルはついにイズミルに進軍するこ とを決める。同年 3 月にイズミルから約50キロ離れたトゥルグトル という町を襲撃し,同月14日に彼とその軍団がイズミル付近に到着 すると,彼は自らの副官を隊長とする3,000人の分隊をイズミルへ派 遣した(21)。分隊がイズミルの目の前に到着すると,住民の代表が副 官 の も と に 出 向 い て 来 た[0HUFXUH -DQvLHU 1739: 142 hONHU 1989:
645–647 )UDQJDNLV6\UHWW 1992: 58–59]。
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明け方,[住民の代表は] 町を略奪から守るため,サルベイ[オ ウル]の副官の一人である反乱者たちの司令官に貢納の支払い と会見を申し出た。彼はそのどちらにも同意し,無謀にも町の 中に入城し,[町の]代表から手厚いもてなしを受けた。彼(副 官)は15,000ピアストル(30ケセ)(22)と贈り物を受け取ったの ち,[町から]引き上げた[0HUFXUH -DQvLHU 1739: 142–143]。
町を攻撃しない代わりに貢納を支払うという住民側の嘆願を聞き 入れて,副官は攻撃を加えずに町の中に入った。彼は町の代表から 手厚くもてなされ,約束の金銭のほかに贈り物を受け取った。その 後町から撤退し,イズミル周辺にあるヨーロッパ人の家屋を襲撃し 略奪した後,3 月18日には周辺地域からも引き上げた[hONHU 1989:
645–647]。
一方,サルベイオウルの襲来はイズミルの住民に大きな衝撃をも たらした。イズミルからヨーロッパに輸出される商品は全て,エー ゲ地方の陸路を通ってイズミルに運び込まれていたが,当時イズミ ル周辺の街道はサルベイオウルの影響下にあった。ゆえに,商品を 運ぶ隊商は安全に通行できず,町では商品が品薄となり商業は打撃 を受けた[3RFRFNH: 38 0HUFXUH -DQvLHU 1739: 142–143]。さらに,彼 はイズミルの町自体を占拠する勢いであった。
そこで,事前にサルベイオウルがイズミルを狙っているとの情報 を得ると,住民は町の防衛に取り掛かった。行政官は城壁の他にも 新たに門を建設し,その上に大砲を設置してサルベイオウルの襲撃 に備えた。しかし,それでも迫り来るサルベイオウルに対し,軍事 的に太刀打ちできないと考えた町の行政官や名士は,サルベイオウ ルの副官が到着すると,彼に町を攻撃しないよう嘆願して町に招き 入れた。その後,サルベイオウルの副官と分隊は町から撤退したが,
イズミルを再び襲撃する構えを見せていたため,再度の襲撃を恐れ た商人の大部分が町から出て行ってしまった。そこで,住民は政府 に何度も救援要請を行った[*D]HWWH, QR7,14 )HvULHU 1739: 73 0HUFXUH -XLQ 1738: 1207 3RFRFNH: 38]。
さらに,イズミルのヨーロッパ人も巻き込む事態へと発展した。
一一一
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イズミルの主な交易相手として町に滞在するヨーロッパ人は,サル ベイオウルがイズミル周辺をおさえてイズミルの交易に被害を与え たうえに,イズミルに迫って町を破壊し略奪することを危惧してい た。そこで,サルベイオウルがイズミル襲撃を目論んでいると知る や自ら門を造って大砲を設置し,彼がイズミルに迫るとイズミルの 港に停泊する船に財産を持って避難した。その時,オランダ領事は 海に面した家の側に貨物船をつないで有事の際に撤退できるように し,大砲や手投げ弾で家の入口を防衛した他,仲間を武装させて見 回りや情報収集にあたらせたという[0HUFXUH -DQvLHU 1739: 143]。そ の後,サルベイオウルは一旦撤退したが,その際にイズミル周辺に あるヨーロッパ人の家屋が略奪された。こうした事態を受けて,ヨー ロッパ人は首都イスタンブル駐在の各国の大使を通してオスマン政 府に訴え出た[0HUFXUH -DQvLHU 1739: 143 3RFRFNH: 38 hONHU 1989:
646]。
こうして,サルベイオウルがイズミル周辺地域をおさえて交易に 影響を及ぼした上にイズミルの占拠を試みたことは,ヨーロッパ人 を含むイズミルの住民に衝撃を与えた。さらに,イズミルの主な交 易相手であるヨーロッパ人が揃ってイスタンブルの大使を通してオ スマン政府に圧力をかけたことで,事態はオスマン朝国内の問題に とどまらず,ヨーロッパ諸国も巻き込む国際問題へと発展した。ゆ えに,政府は本格的にサルベイオウルの討伐へと動かざるを得なく なったのである。
第 3 章 「匪賊」サルベイオウル・ムスタファ討伐
第 1 節 政府によるサルベイオウル・ムスタファの討伐
サルベイオウルがヨーロッパとの貿易で栄える港町イズミルを圧 迫したことで,オスマン朝の国内のみならずヨーロッパ人も巻き込 む国際問題と化し,それまで討伐の姿勢にありながらも出征を条件 にサルベイオウルを赦すこともあった政府の態度も一変した。1739 年,政府はシェイヒュルイスラーム(úH\KüOLVOƗm)であるエッセイイ ド・ムスタファから,サルベイオウルの殺害を許可するファトワー
一一〇
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を取り付けた(23)。シェイヒュルイスラームのファトワーは,16世紀 以降,対外戦争の開始やスルタンの改廃といった政治的に重要な事 項を政府が正当化する手段として用いられてきた['ø$, 39: 91–96,
ùH\KüOLVOkm (E\ 0 øSúLUOL)]。こうして,サルベイオウルは法的にも 殺害されうる匪賊となったのである。また,サルベイオウルの討伐 の中心を担ったのは,基本的にアイドゥン県徴税官であったが(24), 加えて匪賊討伐の実績があるラッカ総督(vƗOī)のアフメト・パシャ も討伐を命じられた[9HVLNDODU: #68, #72]。
イズミル襲撃後,早速2,000人から成る討伐軍がイズミル方面へ派 遣された。しかし,軍中でサルベイオウルの恐ろしさが知れ渡って いたため,討伐軍の兵士らはサルベイオウル襲来の誤報を聞いただ けで軍営を放棄し逃亡してしまった[0HUFXUH -DQvLHU 1739: 143–144]。
一方,サルベイオウルは自らのもとに討伐軍が差し向けられたこと を知ると,アラシェヒル近郊の切り立った岩山にある城に籠城した。
総勢20,000名にのぼる討伐軍が城に迫ったが,峻厳な地形ゆえ大砲 の弾が城まで届かず,このときの攻略は失敗に終わった(25)。 サルベイオウルは,この城を去るとホナズ城に向かい,そこで再 び立て籠もった。ここでも討伐軍に城を包囲され,貯水塔や貯蔵塔 が破壊される事態に陥ったものの,ある晩城から討伐軍の総司令官 の軍営に襲撃を仕掛け,総司令官ともども討伐軍を蹴散らした。そ の際に討伐軍の軍営に残っていた武器や荷物を獲得し,軍備を増強 したと言われる。一方,同じ頃にイズミル近郊に留まっていた彼の 分隊は,討伐軍に撃破され大勢が殺害された[ùHPұGkQv]kGH, 1: 85 Subhî: 500 9HVLNDODU: #68 0HUFXUH -DQvLHU 1739: 143–144]。
防衛が困難になったホナズ城を脱出してから,サルベイオウルは アラシェヒルに行って町を15日間包囲したが,その後は討伐軍から 逃げるためギョクチェダウやタヴァスなど各地を転々とした。彼が アイドゥン県イェニシェヒル付近の山上の城に立て籠った際,近く にある塔を守っていた討伐軍の攻撃を受け,70時間余り交戦したの ち大敗北を喫した。この戦いで彼は大勢の仲間を失い自身も傷を負っ たので,わずかな手勢を連れて故郷のサライ村に逃亡し,身を隠し
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た。しかし,彼はついに追手に見つかり,その場で殺害された。イ ズミル襲撃から約 1 年後,1739年 5 月下旬のことであった。彼の首 級はアラシェヒル経由でイスタンブルへ送られ,トプカプ宮殿の門 前で晒し首にされた(26)。
政府はエーゲ地方の各地に伝令を送り,サルベイオウルの討伐を 触れ回った。また,そのことはイズミル駐在のヨーロッパの領事に も手紙で伝えられた。その後,政府は彼の財産を没収するとともに,
各地に残っていた彼の支持者も討伐した(27)。こうして,サルベイオ ウルの一連の活動は彼の討伐をもって終結した。
第 2 節 サルベイオウル討伐軍と「アーヤーン」
サルベイオウル討伐の主体はアイドゥン県徴税官やラッカ総督の アフメト・パシャであるが,この他にエーゲ地方各地のカーディー や郡徴税官,在郷騎士団長(NHWKüGƗ\HUL),イェニチェリ隊長(\HQLoHUL
VHUGƗUÕ)などの官人や軍人も出動を命じられた。また,官人以外に
も,地方の名士(ʻD\ƗQÕ YLOƗ\HW)や「テュルクメン(WüUNmDQ)」あるい は「テュルクメン・アシレト(WüUNmDQ DúLUHWL)」,「ユリュク(\üUüN)」 といった遊牧民にも協力が要請された(28)。
また,地方官にサルベイオウル討伐を命じる勅令の中で出身地と 個人名のみで名指しされたり,あるいはそのような勅令の写しを送 られたりして討伐を要請された者も30名ほど確認される。彼ら全員 の出自について史料からそれ以上の情報は確認できないが,中には,
カラオスマンオウル・ハジ・ムスタファやアクヒサルのハジ・シャ バンオウル,アラシェヒルのハジ・オメルといった「アーヤーン」
たちがいた。第 1 章で見たように彼らはそれ以前から軍事面で政府 に協力していた。しかし,この時この3名は史料中ではまだ「Dұ\ƗQ アーヤーン」とは呼ばれていない[9HVLNDODU: #60, #63, #69]。
このうち,カラオスマンオウル・ハジ・ムスタファは,1735年頃,
スィマヴ方面に来たサルベイオウルを追跡中にその仲間を殺害ある いは捕虜にし,その2年後にはデニズリから逃亡中のサルベイオウ ル軍と交戦し,30余名を殺害,負傷させたという記録が残っている
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[9HVLNDODU: #60 BOA, 0' 141: 69, #178]。また,彼は,討伐軍に飼葉 や糧食,羊といった食料を供給する役目を負ったり[ANWHSH 1971:
371],サルベイオウルの討伐後にはサルハン県内にいる残党勢力の 一掃を任されたりもした(29)。その功績も含め,彼は1743年に政府か らサルハン県総督代理に任命された[8OXoD\ 1955: 17 永田 2009:
43,78]。また,ラッカ総督のアフメト・パシャの補佐役(NHWKüGƗ)で
あったアラシェヒルのハジ・オメルは,最後に故郷へ逃げ帰ったサ ルベイオウルを追跡し,捕まえて首を取るという大手柄を挙げた
[ùHPұGkQv]kGH, 1: 89]。彼はサルベイオウル討伐後,正確な年代は不 明であるが,出身地アラシェヒルの郡徴税官に任命されている[8OXoD\
1955: 20]。
以上のように,エーゲ地方を中心に政府に反抗しつつ活動した「匪 賊」サルベイオウルの討伐には,カラオスマンオウル・ハジ・ムス タファのような以前から徴税や軍務を通して政府に協力していた
「アーヤーン」が加わっていた。彼らはその後,政府から地方官職を 得てアーヤーンとして地方割拠していくことになるのである。
お わ り に
第二次ウィーン包囲の失敗以降にオスマン朝の国内が混乱し,18 世紀後半にアーヤーンが地方割拠していくまでの間にあたる18世紀 前半という時代に,エーゲ地方では様々な武装勢力が出現,台頭し た。彼らは政府によって淘汰され,政府に反抗的な者は「匪賊」と して討伐という形で排除の対象とされた。本稿では,このような「匪 賊」のうち最も強大で当時オスマン朝最大の内憂と目されたサルベ イオウル・ムスタファの事例を検討した。
サルベイオウルはエーゲ地方の出身で,出身地周辺に農場や家畜 などの資産を有し,多くの私兵も持つ勃興期の「アーヤーン」であっ た。政府や出身地の官人に反抗する彼は,政府に反抗的なエーゲ地 方各地の武装集団や富裕層など多様な出自の住民を糾合し,彼らの 協力をもとに各地で私的に住民や隊商の保護や貢納の徴収を行って 地域住民や交易に影響力を行使していた。その活動範囲はエーゲ地
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方の広範囲に及び,アイドゥンを中心に出身地の東方にあるホナズ やウシュクルに加え,オスマン朝随一の貿易港で対ヨーロッパ貿易 で栄える西方のイズミル方面にまで至る。彼に対して政府の高官が 討伐に差し向けられたり,対外戦争に際して政府に取り込みを図ら れたりするほどその勢力は強大であった。
しかし,サルベイオウルがエーゲ地方の内陸から港町イズミル方 面に進出し,イズミル周辺をおさえて交易に影響を及ぼした上にイ ズミルを占拠しようと圧迫したことで,事態は国内問題にとどまら ずイズミルの主な交易相手であるヨーロッパ人も巻き込む国際問題 へと発展した。ゆえに,彼は政府に徹底的に討伐されたのである。
一方で,「匪賊」の討伐に加わって政府に協力したカラオスマンオウ ル・ハジ・ムスタファなどの「アーヤーン」は,後に政府から官職 も授けられてアーヤーンとして地方に割拠していく。
オスマン朝において地方支配の実権が在地の実力者の手に移って いった18世紀という時代,サルベイオウルはその初期に現れた「アー ヤーン」の一つの形である。彼のように強大で地域に影響を及ぼし ながら政府に反抗的な者は排除され,政府と結び付きつつ勝ち残っ た者が18世紀後半にアーヤーンとして割拠していくのである。
引用文献
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註
(1) 8OXoD\ はサルベイオウルを18世紀の同地方に登場した最も有名な匪賊 であると述べる[8OXoD\ 1955: 88–91]。また,同時代に書かれたオスマン 朝の年代記の中で,「[マフムト 1 世は]幸運で気高い帝王であった。熱心 で誠実な宰相たちに恵まれて,対立が生じたオーストリア,ロシア,イラ ン,それにサルベイオウルといった四つの敵に対して同時に立ち向かい,
勝利を収めた」と記されている[ùHPұGkQv]kGH, 1: 178]。
(2) オスマン朝の文書: %DúEDNDQOÕN 2VmDQOÕ $UúLYL(首相府オスマン文書館, BOA) 所 蔵 A(6AB+, (AOL (mLUL AEGOKDmLG ,) A(6A0',,, (AOL (mLUL AKmHG ,,,) A(6067,,, (AOL (mLUL 0XVWDID ,,,) &(9 (&HYGHW (YNDI) &0/
(&HYGHW 0DOL\H) &=B (&HYGHW =DEWL\H) A'916 0' 141 (BDEÕ AVD¿ 'LYDQÕ +mD\XQ 6LFLOOHUL 0KLmmH 'HIWHUOHUL 141)(これについては,.OELOJHの修 士論文に掲載されているファクシミリ版を利用する (ø,.OELOJH1XPDUDOÕ 0KLPPH'HIWHUL+):<NVHN/LVDQV7H]L ø]mLU: 7& (JH hQLYHUVLWHVL 6RV\DO BLOLmOHU (QVWLWV 7DULK AQDELOLm 'DOÕ, 2002))。典拠を示す際,初出は 註の中で勅令簿の略号(例えばBOA, 0' 141),勅令簿の頁,文書番号(#)
を示し,次回以降はBOA, 0' 141と略記)。 8OXoD\, YH<]\ÕOODUGD 6DUXKDQ¶GD, SS98–250の 9HVLNDODU (18世紀から19世紀前半にエーゲ地方 のサルハン県に送られた勅令等を,8OXoD\が収集しラテン文字に転写した 史料集。典拠を示す際,初出は 9HVLNDODUと略記の上,該当箇所の頁,彼が 付した文書番号(#)を示し,次回以降は文書番号のみを付す)/オスマン 朝年代記: ùHmދGkQv]kGH )ÕQGÕNOÕOÕ 6OH\mDQ (IHQGL, 0UұLұWWHYkULK, 0 ANWHSH
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(HG), øVWDQEXO: (GHEL\DW )DNOWHVL 0DWEDDVÕ,1976(ùHPұGkQv]kGHと 略 記 ) 9DNތDQYLV 6XEKv 0HKmHG (IHQGL, 6XEKv7DULKL6kPvYHùkNLU7DULKOHULLOH ELUOLNWH: øQFHOHPHYH.DUúÕODúWÕUPDOÕ0HWLQ), 0 $\GÕQHU (HG), øVWDQEXO: .LWDEHYL, 2007(Subhîと略記)/オスマン語地理書: (YOL\D dHOHEL, 6H\DKDWQDPHVL, 9, øVWDQEXO:<DSÕ .UHGL <D\ÕQODUÕ, 2005(6H\DKDWQDPHVLと略記)/フランス語新 聞: *D]HWWH 3DULV 1631), PDULV(*D]HWWHと略記) 0HUFXUHGH)UDQFH), GpGLpDX5RL, PDULV(0HUFXUHと略記)/欧文旅行記: 5 PRFRFNH, $'HVFULSWLRQ RIWKH(DVWDQG6RPH2WKHU&RXQWULHVYROSDUW2EVHUYDWLRQVRQWKH,VODQGV RIWKH$UFKLSHODJR$VLD0LQRU7KUDFH*UHHFHDQG6RPH2WKHU3DUWVRI(XURSH, /RQGRQ: PULQWHG IRU WKH $XWKRU, 1745(3RFRFNHと略記)
(3) %2$, 0' 141, S14, #42,アイドゥンの徴税官とデニズリの郡徴税官への 勅令,1148年ラビーウ 1 月中旬(1735年 8 月上旬)。
(4) デニズリは17世紀にスルタンの母后の領地(KƗৢ)に指定され,郡徴税 官が(]LQHkEkG,dDUúDmEDkEkG,*|N|\NkEkGや+RQD]kEkGといった周辺の 郡を統治していた['ø$, 'HQL]OL (E\ 7%D\NDUD), 9: 155–159]。(]LQHkEkG
(エズィネイ・ラズキェに同じ)郡の中心地がサルベイオウルの出身地で あるサライ村である。
(5) サルベイのまたの名はアリーベイであると言う[hONHU 1989: 638]。
(6) 9HVLNDODU, SS164–165, #59,サルベイオウルへの勅令,%2$, 0' 142, S151, 1149年ラジャブ月下旬(1736年11月下旬)。
(7) 9HVLNDODU, SS186–187, #73,サルベイオウルが殺害されたことに関する命 令,06 (0DQLVD ùHU¶L\\H 6LFLO) 193, SS96–97, 日付不明。
(8) %2$, &0/26710930,サルハンの県知事代理とカラオスマンオウルへの 勅令,1152年ラビーウ 1 月13日(1739年 6 月20日)原文は以下の通り。
³1LI লDĪƗVÕQGD Õ]ÕOFD NDUL\HVL¶QGH ৫DVOÕ R÷OX <njVXI QƗm NLmVH\H úDলL ELU QHKƗU mDলWnjO ৡDUÕEH\R÷OX RQ ELQ JXUXú QDলG YƗ¿U Hú\ƗVÕQÕ HmLQGH YDĪދ H\OHGLN VLলƗWÕ
ৢDতƯতDWތONHOLmƗWL WHYƗWÕUGDQ KDEHU YHULOGL÷LQH ELQƗHQ ދDODH\\LতƗOLQ ދLFƗOHWHQ তƗৢÕO YH GHUL VDދƗGHWmH ƯVƗUÕ IHUmkQÕ ROGX÷XOD´
(9) 17世紀後半,サルベイオウルの出身地域が属するデニズリの一年あたり の税収は40ユック・アクチェと20,000クルシュ(=約53,333クルシュ)
[6H\DKDWQDPHVL, 9: 98–99]であるため,18世紀前半も同じならば,彼の所
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