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クライエントが環境に適合することの意味について の検討 : 環境のなかにひとが存在することを手が かりに

著者 田嶋 英行

雑誌名 評論・社会科学

号 109

ページ 63‑99

発行年 2014‑07‑20

権利 同志社大学社会学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013702

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要約:ソーシャルワークは,クライエントの「存在を基盤にしたよりよい状態の増進」を 図ることを目標としている。彼らがその環境と相互に影響し合う接点に介入し,さらに彼 らが環境と「適合」することを目指していく。ただしその環境は,これまで,おもに自然 科学としての生態学にもとづいて捉えられてきた。しかしながらクライエントは,もとも と生態学が対象とするような有機体一般とは異なり,「実存」としてさらには「世界内存 在」として存在する。それゆえ本稿では,クライエントが実際にそのように実存すること をもとに,そもそも彼らにおける環境とは何かを明確にしたうえで,さらにそれら両者が 適合することの意味を明らかにする。

キーワード:クライエント,環境,適合,実存,存在

目次 1.はじめに

2.「生活モデル」におけるクライエントの環境の捉え方とその課題 2−1.「生活モデル」におけるクライエントとその環境

2−2.「環境のなかのひと」および「ひとと環境」の概念の実際 2−3.「環境のなかのひと」および「ひとと環境」の概念における課題 3.人間が環境のなかに存在する(ある)ということ

4.クライエントにとって周囲にも!!があるということについて 5.クライエントが他!!とともにあるということについて 6.現象学における「還元」とHeideggerによる存在論 7.Krillの援助枠組みにおける「環境」とその適合のあり方 8.被投的存在としてクライエントを理解すること 9.クライエントがその「環境」に適合することの意味 10.おわりに

1.はじめに

ソーシャルワークは現在のところ,改変の動きがありつつも,周知の通りInternational

────────────

同志社大学大学院社会学研究科博士後期課程

201421日受付,査読審査を経て2014425日掲載決定

論文

クライエントが環境に適合することの意味 についての検討

──環境のなかにひとが存在することを手がかりに──

田嶋英行

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Federation of Social Workers(以下,IFSWと称す)によって,以下のように定義されて いる(1)。すなわち「ソーシャルワーク専門職は,人間の福利(ウェルビーイング)の増 進を目指して,社会の変革を進め,人間関係における問題解決を図り,人びとのエンパ ワーメントと解放を促していく。ソーシャルワークは,人間の行動と社会システムに関 する理論を利用して,人びとがその環境と相互に影響し合う接点に介入する。人権と社 会正義の原理は,ソーシャルワークの拠り所とする基盤である」(IFSW 2000)と。し たがってソーシャルワークおよびソーシャルワーク専門職は,「人間の福利(ウェルビ ーイング)の増進」を目指す,すなわち「人間の存在(being)を基盤にしたよりよい 状態の増進を目標」(田中2010 : 5)とするのである。なおここでいう「人間の福利

(ウェルビーイング)」は,あくまでその「よりよい状態」という現!!!!!を意味して いるというようにも理解できる。ここでいう現!!とは,すなわち,「誰もがすでに暗々 裡に見知っており,もう馴染んでおり,それでいて気付かず,しかし,改めて振返って みればなるほどそうだと納得せざるをえないような,そうした誰によっても見うるよう な,現に提示されているもの」(渡邊2010 : 112)のことである。したがってそれはそ れとして,実際にあ!!!!としてのみ取り扱えばよいのであり,「存在(あること)」と いう,本稿においてこれから述べるような哲学的な意味はそもそも有していない,と解 釈することもたしかに可能ではある。しかしながらソーシャルワークにおいては,クラ イエントが自ら置かれている状況(たとえば失業や障害,疾病,要介護といったさまざ まな状況)の改善や解決を図りつつも,一方で,自らの存在そのものが与えられている こと自体を肯定できるようにしていくことが求められるのであり,したがってこの「人 間の福利(ウェルビーイング)」には,彼ら自身が「あること(存在)」そのものの意味 も含んでいると考えられることになる。

このようにソーシャルワークは,クライエントの「存在を基盤にしたよりよい状態の 増進」を図ることを目標とするのであるが,その際には彼ら自身が「その環境と相互に 影響し合う接点に介入する」ことになる。一方Council on Social Work Education(以 下,CSWEと称す)もまた,教育的な方針および公認の基準(Educational Policy and Accreditation Standards)について述べる際に,「ひとと環境の構成」(CSWE 2008)を強 調している。つまりソーシャルワークは,クライエントとその環境の両者に,同時に焦 点を当てていくのである。かつてHarriet Bartlettがソーシャルワーク実践の「共通基 盤」について論じた際に,「人びとと環境の相互作用(interaction)」(Bartlett 1970 : 101)

を強調するということがあったものの,現在におけるソーシャルワークにそのような視 点を直接的にもたらしたのは,すなわち生態学(ecology)である。Alex GittermanとCarel

Germainによれば,「生態学理論は,有機体(organism)と環境(environment)の相互

依存を強調することから,われわれがひとと環境(person-and-environment)という概念

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をもって歴史的に傾注してきたソーシャルワークの隠喩(metaphor)として,とりわけ ふさわしいものとなる。この生態学的隠喩は,人びとを援助し,かつ人間が社会的に機 能することによって成長し,健康を得て,さらに満足することを支える応答的な環境の 形成を促す,という社会的な目的を専門家が実践することを助ける」(Gitterman &

Germain 2008 : 51)という。有機体一般とその環境の相互依存を強調する生態学のメタ ファー(隠喩)として,ひとと環境の関係を捉えるのに活用していったのが,すなわち

「生活モデル(life model)」である。この「モデル」はひとえに,ひとと環境の交互作 用(transaction)に焦点を当てていくのであり,そしてそれは現在のところ,「ソーシャ ルワーク世界における中核となるモデル」(中村2010 : 133)として位置づけられてい る。先に挙げた「定義」や「教育的な方針および公認の基準」は,このモデルにおける 観点を積極的に導入していったと考えられるのである。

このように「生活モデル」は,ひとと環境の交互作用に焦点を当てていくのである が,それは最終的にはそれら両者が適合する(adapt)ことを目指していくことになる。

なぜなら適合していること自体が,「人間としての成長およびその存在を基盤にしたよ りよい状態を支援する(supports human growth and well-being)」(Gitterman & Germain 2008 : 55)からである。ただしここで問題になってくるのが,人間は有機体一般とは異 なり,実存(Existenz)として「自分の存在することへ向かって自分を関わらせつつ存 在する」(茅野1968 : 93)(2),ということについてである。

この「生活モデル」は,ソーシャルワーク実践に生態学的視点を取り入れたという点 で,たしかに画期的であった。なぜならそれによって,前述の通り,クライエント自身 とその環境の両者に,同時に焦点を当てていくことができるようになったからである。

生態学においてはそもそも,「生物と環境の間のバランスのとれた相互依存関係につい て追究する」(中村2010 : 133)が,このモデルではその生態学の特徴を,ひとと環境 の関係を捉えていくのに援用していくのである。

「生活モデル」においては,ひとがその環境と充分に適合している場合には,ひとは

「個人的および環境的資源における充分な利用可能性に気づく」(Gitterman & Germain 2008 : 54)とされる。しかしながらそうでない場合には,ひとの外部にある生活ストレ ッサー,すなわち「現実のまたは実際の損害や喪失,もしくは将来の脅威としての損害 や喪失(たとえば病気,死別,失業,困難が生じる過渡期,個人間における摩擦,数え きれないほどの他の苦痛をともなう生活上の問題や出来事)」(Gitterman & Germain 2008 : 60)が,その内部に「生理学的あるいは情緒的,もしくはそれら両者をともなっ た結果(consequence)」(Gitterman & Germain 2008 : 60)としてのストレスを生じさせ ると捉えていくことになる(3)

そもそもソーシャルワークにおける「生活モデル」では,生態学という自然科学の一

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分野を援用しているので,自然科学者を規範とするソーシャルワーク専門職が,クライ エントを外!!から,外部にある生活ストレッサーおよびその内部に生じるストレスをあ くまで客観的に捉えていくことになる。しかしながら一方で,それによっては,彼らが さまざまなものや他者を失ってしまったことについて自ら問いかけ,さらに悲嘆に打ち ひしがれるというあくまで主観的な事態については,充分に把握することができない。

そして実際にそれを把握するためには,個々のクライエントがどのようにその事態を経 験しているのかという,いわば内!!の視点によって捉えていかなければならない。その ためにはまず,クライエントは生態学が対象とする有機体一般とは異なり,実存として

「自分の存在することへ向かって自分を関わらせつつ存在する」という原!!に立ち戻っ て考える必要がある。そしてこの概念を基軸にして,彼らにおけるいわゆる生活ストレ ッサーおよびストレスについて,解釈していくことが求められるのである。

本稿ではまず,あくまで実存として存在するクライエントがその環境をどのように規 定しているのか検討し,いわゆる生活ストレッサーおよびストレスが彼らにとってどの ような影響を及ぼすのか解釈したうえで,彼らがその環境と適合するということがどの ように生じ,さらにはそれが彼ら自身にとってどのような意味をもつのか明らかにして いく。これは「生活モデル」のように,クライエントを外!!から観察するのではなく,

彼ら一人ひとりにおける内!!の視点から,彼ら自身の存在を捉え直そうとするのであ る。

なおこれまでソーシャルワークの領域において,クライエントが実存として存在して いることについては,1970年前後からの数十年間,おもに北米で展開された実存主義 ソーシャルワーク(existential social work)において論じられてきたという経緯がある。

ただしそのなかでも,クライエントがあくまで実存として存在していることを基盤に,

彼らとその環境のあり方について論じている先行研究として挙げられるのは,Donald

Krillによるものの!!である。彼は米国において,臨床ソーシャルワーカーおよびソー

シャルワーク研究者として活躍した人物である。のちほど検討していくが,彼は実存と して存在するクライエントのあり方に応じて,その環境が形成されることについては示 しているものの,本稿が明らかにしようとしている,クライエントがその環境と適合す るということがどのように生じ,さらにそれが彼ら自身にとってどのような意味をもつ のかについては,必ずしも充分に明らかにしているとはいえない。したがって本稿で は,Krillによって提示された実存として存在するクライエントとその環境のあり方を 充分に踏まえつつ,彼らがその環境と適合するということがどのように生じ,さらに彼 ら自身におけるその意味について明らかにしていく。

クライエントが環境に適合することの意味についての検討 66

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2.「生活モデル」におけるクライエントの環境の捉え方とその課題

ここでは「ソーシャルワーク世界における中核となるモデル」としての「生活モデ ル」が,クライエントおよびその環境について,これまでどのように捉えてきたのかに ついて概観する。そしてその作業を通じてこのモデルにおいては,クライエントおよび 環境について,ソーシャルワーク専門職の立場からそれらを外!!から把握することは可 能であるものの,一方でクライエント自身における内!!の視点からみた場合,彼らがそ の環境と適合するということがはたしてどのようなことかについては,充分に明らかに することができないことについて述べていく。

2−1.「生活モデル」におけるクライエントとその環境

「生活モデル」ではそもそも,クライエントとその生活を,生態学における生物と環 境の関わりにな!!!!捉えていく。そもそも生態学的思考においては,「人間と環境の 交換という互恵関係(reciprocity)に焦点を当てて」(Gitterman & Germain 2008 : 53)お り,さらにそれは人間と環境が「時が経つにつれて,互いに形づくり,かつ影響を与え 合っている」(Gitterman & Germain 2008 : 53)とみていくことになる。これはいわゆる

「直線的な思考」(Gitterman & Germain 2008 : 53),すなわち「先行する(実験的もしく は治療的)変数Aがある一定の時点でBに影響を及ぼすものの,一方でA自体は何 ら変更することなく,そのまま維持されると仮定する」(Gitterman & Germain 2008 :

53)思考ではなく,むしろAの行動がBに影響を及ぼし一方のBの変化自体もまた

Aに影響を及ぼすというように,「時が経つにつれて,相互に影響を及ぼし合う継続的 な円環(loop)」(Gitterman & Germain 2008 : 53)として捉えられ得るものである。この

「円環におけるそれぞれの要素は,直接的に,もしくは間接的に他のすべての要素に影 響を及ぼす」(Gitterman & Germain 2008 : 53)のであり,「結果として,原因と結果と いう単純で直線的な概念は,意味を失う」(Gitterman & Germain 2008 : 53)。そしてこ のことについて,人間とその環境の関わりに援用するならば,その行動が環境に影響を 及ぼし,一方では環境が人間自体の行動に影響を及ぼすという「円環」がみられる,と いうようにみていくことになるのである。

さらに人間と環境における「円環」が充分に機能している場合には,すなわちそれら 両者が充分に適合している場合には,前述の通り,人間は「個人的および環境的資源に おける充分な利用可能性に気づく」ものの,そうでない場合には,人間の外部にある生 活ストレッサー,すなわち「現実のまたは実際の損害や喪失,もしくは将来の脅威とし ての損害や喪失」が,その内部に「生理学的あるいは情緒的,もしくはそれら両者をと

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もなった結果」としてのストレスを生じさせる。ただしこのモデルは,あくまで生態学 という自然科学をメタファーとして成立しているため,必然的に,生態学を専攻する自 然科学者の隠喩としてのソーシャルワーク専門職が,クライエントとその環境を外!!か ら客観的に捉えていくことになる。

Germainによれば「ソーシャルワークにおける専門職の目的は,人びとにおける適合

の可能性と,彼らの環境における『滋養的』な質に対する二元的で同時的な関心から生 じる」(Germain 1979 : 8)という。またGermainおよびMartin Bloomは「ひとと環境」

という概念を,「分析する際の構成単位(unit of analysis)」(Germain & Bloom 1999 : 11)として規定している。なぜならこの概念自体が,「応用社会科学において,分析を 展開していく際の適当な構成単位(appropriate unit)」(Germain & Bloom 1999 : 11)で あると考えられるからであり,さらに両者は以下のように述べている(Germain & Bloom 1999 : 18−20)。

ひとと環境の関係性の定式化においてコロンを用いるのは,このわれわれの分析の対象に ついて,ひとか環境かといったように互いに分離してしまうのではなく,むしろそれが全体 的もしくは統一的なシステムであることを強調するためである。このひとと環境の統一性を 理解する際に,われわれは,社会文化的環境における個人的もしくは集合的な人間行動の交 互作用的な側面を記述したり,説明したり,さらには予期したりする作業道具を構築するた め,生態学の科学(the science of ecology)から隠喩的に用いた一連の概念を提示する。

ソーシャルワークの世界においては,この「ひとと環境」という概念によって,クラ イエントと彼ら自身を取り巻く環境の双方に同時に焦点を当てることができるようにな り,「個人か社会か」という,いわゆる「振り子」の論争に終止符を打つことができる ようになった。

Germainによれば「生態学は,一般システム理論の形態をとる」(Germain 1979 : 7)

のであり,そしてこの観点こそが「人間と,彼ら自身が機能することになる物質的およ び社会的環境両者における交互作用の本質とその結果を洞察する」(Germain 1979 : 7)

ことを可能にするという。またこの生態学自体は「生活体同士の間と,生活体とその環 境における他の側面の間の関係性にかかわるシステム思考者(system thinkers)として あり続ける生態学者」(Germain 1979 : 7)によって展開されることになる。それゆえこ の生態学を基盤にした「生活モデル」においても,必然的に,科学者をメタファーとす るソーシャルワーク専門職が,クライエントとその環境をあくまで外!!から客観的に観 察および分析する。したがってこのモデルにおいては,クライエントおよび環境につい ては,それらを外!!から把握することは可能であるものの,一方でクライエント自身に おける内!!の視点からみた場合,彼らがその環境と適合するということがはたしてどの

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ようなことかについては,不明なまま据え置かれることになる。

2−2.「環境のなかのひと」および「ひとと環境」の概念の実際

これまで述べてきたような生態学を基盤にした観点は,周知の通り,その後のソーシ ャルワークにおける理論的枠組みの形成およびその実践のあり方に,多大な影響を及ぼ してきた。そもそも「状況のなかのひと(person in the situation)」という概念が,「従 来からソーシャルワークにおける重要な援助概念として位置づけられて」(岩間2010 :

81)きてはいたものの,「1970年代に入るとソーシャルワークにシステム理論が本格的

に導入され,続いてエコロジカル・パースペクティブ(生態学的視座)に基づいたこの エコロジカル・ソーシャルワークの台頭に伴って,『環境のなかの人(person in the

environment)』と表現されるようにも」(岩間2010 : 81)なっていったのである。

たとえばCarol Meyerを始めとする一連のソーシャルワーク論の論者は,一般システ

ム理論の思考を併せもったエコシステム的視座(eco-systems perspective)について論じ ている。とりわけ一般システム論的な視点については,「ソーシャルワークにおける事 例の組織系統的側面(the systemic properties)を理解してくのに役立つ」(Meyer 1983 a :

31)という。Geoffery GriefおよびArthur Lynchによれば,この視座は「実践者が,ひ

とと環境の共有領域(interface)を強調する一方で,それら両者における貴重でかつ影 響を及ぼす側面すべてにその関心を向けさせる」(Grief & Lynch 1983 : 68)という。さ らにそれは,「ソーシャルワークに共通基盤があるのかという問いを解決する1つの試 みとなる」(Grief & Lynch 1983 : 68)。実際にMeyerによればこの視座自体は,援助の 対象がたとえ家族であっても,もしくは集団であっても,さらには個人であっても,い かなる実践の水準にも対応することが可能であるという(Meyer 1983 b : 78)。しかしそ れはあくまで,ソーシャルワーク専門職が「ひとと環境の相互作用におけるより良い適 合的接合(a better adaptive fit for the person-environment interaction)」(Grief & Lynch 1983 : 67)を目指していくのであり,したがってクライエントおよび環境については,

ソーシャルワーク専門職の立場から,それらを外!!から把握することは可能であるもの の,一方でクライエントにおける内!!の視点からみた場合,彼らがその環境と適合する ということがはたしてどのようなことかについては,不明なままとなる。

そしてSuzanne Dworak-Peckによれば,「環境のなかのひと(person-in-environment)

という概念は,ソーシャルワーク専門職が「社会的役割を遂行するとき困難に直面する ひとを理解し支援する際に役立つ」(Dworak-Peck 1994 : x)といい,さらにそれは人び とが「社会的に機能する際の問題を分類するための普遍的言語(universal language)を 提供することが可能になる」(Dworak-Peck 1994 : xi)という。つまりこの概念は「デー タを収集しかつ配置し,問題を起こしている関連性のある要素について結論づけ,さら

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に問題を和らげ解決することを可能にする介入方法を選択する仕組みを提供する」

(Karls & Wandrei 1994 a : 7)のである。またこの概念の基本的構造は,「要素Ⅰ:社会 的機能における問題」(Karls & Wandrei 1994 a : 24),「要素Ⅱ:環境における問題」(Karls

& Wandrei 1994 a : 28),「要素Ⅲ:精神衛生上の問題」(Karls & Wandrei 1994 a : 34),

「要素Ⅳ:身体上の健康の問題」(Karls & Wandrei 1994 a : 35)の4つから成り立ってい る。

この「環境のなかのひと」という概念を,ソーシャルワーク専門職が実際に,日々の 実 践 に お い て 活 躍 す る こ と が で き る よ う マ ニ ュ ア ル 化 し たJames KarlsとMaura

O’Keefeによれば,まず「要素Ⅰ」については,「クライエントにおける社会的役割お

よび関係性の機能において,彼ら自身が経験する問題を特定する」(Karls & O’Keefe 2008 : 4)という。つぎに「要素Ⅱ」については,クライエントが「社会的に機能する ことに影響を及ぼす現在の彼ら自身の環境における問題」(Karls & O’Keefe 2008 : 5)

を特定するという。さらに「要素Ⅲ」については,クライエント自身の精神衛生上の機 能を表わすことになる(Karls & O’ Keefe 2008 : 6)という。さいごに「要素Ⅳ」につい ては,彼らの身体上における健康の機能を表現する(Karls & O’Keefe 2008 : 6)とい う。つまりこれら4つの要素を把握することによって,クライエントにおける「社会的 機能上の問題とストレングスを評価する」(Karls & O’Keefe 2008 : 1)のである。この ように「環境のなかのひと」という概念は,たしかにクライエントとその環境を外!!か らよりシステマティックに把握することは可能であるものの,一方でクライエント自身 における内!!の視点からみた場合に,彼らがその環境と適合するということがはたして どのようなことかについては,やはり不明のままである。

つぎにSuzan Kemp, James Whittaker, Elizabeth Tracyの3者は,生態学的視座をもと に「ひとと環境(person-environment)」という概念を基盤にしたソーシャルワーク論を 展開している(Kemp et al. 1997)。ただしここで注目すべきは,「環境」を規定する際 にクライエント自身の積極的な関与を強調している点である(Kemp et al. 1997 : 92)。

Kempらの「人間および環境という要因間における相互作用(interaction)について,

より複雑な見方をすることによって,提示されている論点(issue)についてのクライエ ント自身の定義づけが変わる」(Kemp et al. 1997 : 92)という指摘は,たしかに重視す べきであると考えられはするものの,しかしながら一方でこのこと自体は,ク!!!!!!!!!ソーシャルワーク専門職とともに,自!!!!!!!!!!!!!!!!!!こ とによって可能となる。したがってそれはクライエントおよび環境について,クライエ ント自身がソーシャルワーク専門職とともに,それらを外!!から把握することを可能に するものの,一方でクライエントにおける内!!の視点からみた場合,彼らがその環境と 適合するということがはたしてどのようなことかについては,充分に明らかにすること

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ができない。

さらにGeorge Applebyは,「環境のなかのひと(person-in-environment)」という概念 を も と に し た ソ ー シ ャ ル ワ ー ク 論 を 展 開 し て い る。Applebyに よ れ ば「抑 圧

(oppression)が,マイノリティや弱い立場にある人びとにおける経験を理解するのに,

共通の概念枠組みとなるであろう。この概念は実践家にとって,現実的および潜在的な 社会的かつ心理学的障壁(barriers)をともなった社会的環境のなかで,クライエント の経験をシステマティックに中心的に位置づけることを助ける」(Appleby 2010 : 10)

という。つまりこの場合においてもやはり,ソーシャルワーク専門職(実践家)が,ク ライエント(さらにはその経験)と(障壁としての)環境の2者を対象化していくこと になり,したがってそれは,それら両者をあくまで外!!から把握することを可能にする ものの,一方でクライエントにおける内!!の視点からみた場合に,彼らにとって環境が どのようなものであり,さらには彼らとその環境と適合するということがはたしてどの ようなことかについては,やはり充分に明らかにすることができない。

またElizabeth Hutchisonは,ソーシャルワークの介入を導き出す「ひとと環境(person

and environment)」という概念について念入りに描き出し,さらにそれを最新のものに している(Hutchison 2011 : 7)。そしてその際には,「多次元的アプローチ(multidimensional approach)」(Hutchison 2011 : 7)という方法を採用している。この多次元的アプローチ は,1)個人的次元(Hutchison 2011 : 10),2)環境的次元(Hutchison 2011 : 13),3)時 間的次元(Hutchison 2011 : 15)の3つの次元から成り立っている。1)の次元では,生 物学的人間,心理学的人間,スピリチュアルな人間の3つを扱っており,2)の次元で は,身体的環境,文化,社会制度および社会構造,一対の関係性(dyads),家族,小集 団,公的機関,コミュニティ,社会運動の9つを扱っている。さらに3)では,時計の 時間,出来事の時間,そして過去・現在・未来という一直線の時間の3つを扱っている

(Hutchison 2011 : 11−12)。つまりそれは人間とその生活を,この3つの次元によって多 次元的に把握していこうとするのである。ただしこの場合においてもやはり,ソーシャ ルワーク専門職は,クライエントとその環境を外!!から把握することになるものの,一 方でクライエントにおける内!!の視点からみた場合,彼らにとって環境がどのようなも のであり,さらに彼らとその環境と適合するということがはたしてどのようなことかに ついて,充分に明らかにすることができない。

そしてMel Gray, John Coates, Tiani Hetheringtonは,これまでソーシャルワークの領 域 で 受 け 継 が れ て き た「環 境 の な か の ひ と(person-in-environment)」に「環 境 問 題

(environmental issues)」(Gray et al. 2013 a : 17)を組み込むという試みをおこなってい る。それによって,ソーシャルワークにおける「新たな環境」(Gray et al. 2013 b : 303)

の観点を確立していこうとしているのである。具体的にはソーシャルワークの実践に,

クライエントが環境に適合することの意味についての検討 71

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1)天然資源の破壊についての言及,2)地球規模の温暖化と気候の変動,3)有毒物質 の産出とゴミの廃棄,4)大気,土壌,水質の汚染,5)持続可能な発展と食糧の安全 性,6)自然災害と心的外傷をともなう出来事,以上6つの観点を取り入れていこうと する(Gray et al. 2013 b : 298−311)。この Grayらによる試みは,ソーシャルワークにお いてこれまで「環境」という概念をあくまでメタファーとして取り込むことによって,

クライエントの周囲にあるひとやものを表現してきたことを踏まえつつ,新たに生態学 におけるその本!!!!!!を取り入れていこうとするのである。そしてその背景には,

「ひとのウェルビーイングは,他者や自然の残りの部分(others and the rest of nature)」

に影響される」(Gray et al. 2013 b : 304−305)という信条がある。すなわち「繁栄しか つ健康である地球において生きることが,ひとの健康とウェルビーイングに不可欠」

(Gray et al. 2013 b : 305)なのである。このGrayらによる試みは,ソーシャルワークに おける「環境」の概念をより広範なものにする可能性を秘めつつ,一方でソーシャルワ ーク専門職は隠喩としてというよりも,むしろ却って直接的に,生態学者としてクライ エントとその環境を観察しかつ分析するという立場をとっていくことになる。したがっ てクライエントとその環境を外!!から把握することになるものの,やはり,クライエン トにおける内!!の視点からみた場合に,彼らにとって環境がどのようなものであり,さ らに彼らとその環境と適合するということがはたしてどのようなことかについては,明 らかにすることができない。

一方でMichael Zapfは,ソーシャルワークにおける「環境のなかのひと(person-in-

environment)」の概念について,この概念を使用することによって「環境からひとを引 き離すことを強化することになり,それによって,環境を二次的なものとしてもしくは 補助的なものとして,さらにはひとを一次的なものとして位置づける」(Zapf 2009 : 189)ことになると指摘している。つまりこの概念が,ひとと環境の一体性について強 調しつつも,結果的にはそれら両者を別箇に扱うようになる「欠陥(deficits)」(Zapf 2009 : 194)について,懸念を表明しているのである。そこでソーシャルワークに,新 たに「場所(place)」(Zapf 2009 : 188)という概念を導入することの必要性について唱 えている。この概念を取り入れることによって,クライエントが自らの「場所でよく生 きる」(Zapf 2009 : 190)ことを表現することが可能になるというのである。またこの概 念には,「自然の世界と人間の歴史,活動,そして野心」(Zapf 2009 : 189)が含まれて いるという。

たしかにZapf は,「ひとと環境」もしくは「環境のなかのひと」という概念が本質 的に抱える課題,すなわち,それら両者の一体性を強調しているにもかかわらず,実際 にはそれらを別箇に扱っていることについて,指摘してはいる。ただしそのような事態 というものは,そもそもソーシャルワーク専門職自身が「ひとを環境から引き離す」か

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らこそ生じるわけであり,クライエントとその環境をあくまで外!!から把握するからこ そ生み出されるわけである。さらに新たに,「場所」という概念を自ら導入することに よってそれを解決しようと試みるのであるが,実際には新たな概念を示唆するだけで,

それが具体的にどのように「ひと」と「環境」を包含することを可能にするかについて は,充分に明らかしているとはいえない。つまり必ずしも,それらを一体的に捉えてい く方法論を提示しているわけではないのである。その作業はあくまで,「次世代のソー シャルワークの実践家および理論家に託されている」(Zapf 2009 : 194)。

このように,ソーシャルワーク実践における「環境のなかのひと」もしくは「ひとと 環境」という概念は,クライエントおよび環境については,それらを外!!から把握する ことは可能であるものの,一方でクライエント自身における内!!の視点からみた場合に は,彼らがその環境と適合するということがはたしてどのようなことかについては,一!!!!,不明なまま据え置かれることになるのである。

2−3.「環境のなかのひと」および「ひとと環境」の概念における課題

これまでのソーシャルワークは,これまでみてきたように,生態学的思考もしくはそ の観点を積極的に取り入れていくことによって,クライエントとその環境の両者に焦点 を当てていくことを可能にした。そしてこのことは,「環境のなかのひと」および「ひ とと環境」という概念において,端的に表れていると考えられるのである。しかしなが らそれらにおいては,科学者をメタファーとするソーシャルワーク専門職が,両者を,

それぞれ別箇に捉えていくことになる。その定義にもあるように,クライエント個人に ついては「人間の行動に関する理論」によって,そしてその環境については「社会シス テムに関する理論」によって,それぞれ説明をおこなっていこうとするのである。結果 として,「隣接諸科学の所見や法則を応用してその目標を達成するかにほとんどの力点 が置かれる」(岡本2010 : 10−11)ようになり,さらには「いかに科学的でかつ高度な 技術体系としてソーシャルワークの営みや機能を安定させ,確立していくかに重点がか けられ」(岡本2010 : 11)るようになっていった。

このようにソーシャルワークは,隣接諸科学の知見や法則を積極的に取り入れていく ことによって,たしかにその専門性を確立していくことが可能になったものの,一方で

「周辺諸科学に大きく依存し,それらによって自らの体系化,専門化を推し進めること になった結果,導入採用してきた諸科学領域の援助技術や方法においてきわめて類似し たり,重複したり,時には競合すること」(岡本2010 : 12)になり,ソーシャルワーク 専門職の「主体性や自己同一性にいささかの混乱が生じざるを得なく」(岡本2010 : 12)なっていった。つまりソーシャルワークおよびソーシャルワーク専門職が,これま であまりに科学的であろうとしてきたことによって,同じように科学性を重んじる他領

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域と差異化(差別化)を図ることに,困難が生じてきたのである。

もちろんソーシャルワークにおいても,これまでたしかに,クライエントを基盤にそ の環境を一体的に捉えようとする動きがあった。具体的な例の1つとして,「ディー プ・エコロジー(Deep Ecology)」の概念を導入しようとするものが挙げられる(Gray et al. 2013 a : 8)。なおここでいう「ディープ・エコロジー」とは,すなわち,「シャロ ー・エコロジー」という概念に相対するものである。ここでいう「シャロー・エコロジ ー」は,「現代社会において主流をなす環境保全の考え方」(井上2001 : 5)であり,そ の根底には「継続的な経済成長と環境保全は両立可能という主張」(井上2001 : 5)が ある。「経済成長と環境保全との両立の根拠は,多くの場合,科学技術の進歩に求めら れる」(井上2001 : 5)のであり,「この考え方において重視されるのは,高い能力をも つ公害防止装置やエネルギー効率のよい自動車などの機器にかかわる新しい技術の開 発,そして生物資源を『科学的』に制御・管理・利用するバイオテクノロジーなどの

『先端』科学・技術の発展」(井上2001 : 5)である。一方「ディープ・エコロジー」に おいては,人間における自然へのより深い自覚を求めるのであり,人間と他の生物すべ ては,あくまで同!!!!!!!と捉えていくことになる。「みずからを,たとえば,

個々の生物,身近な森,自分の住む地域,地球生命圏,さらに究極的には宇宙全体と同 一視」(井上2001 : 12)していくのである。それは人間が,自らを自分中心の狭い「自 我」に閉じ込めることなく,より拡大化された「自己」において生きることを目指す,

ということを意味している。つまりそれにおいては,人間がまさにこの世に生まれた瞬 間から,自然のなかで,その一部として存在していることを自!!!!!!が求められる のである。

たしかにソーシャルワークにこの「ディープ・エコロジー」を導入することで,ソー シャルワーク専門職がクライエントに自覚を促し,彼ら自身とその「環境」との適合を 可能にするかもしれない。なぜなら「みずからを,たとえば,個々の生物,身近な森,

自分の住む地域,地球生命圏,さらに究極的には宇宙全体と同一視」するようになるこ とで,自身と環境の境目を除去することになるからである。そもそも「ディープ・エコ ロジー」においては,人間と自然を同じものとして捉えていくのであり,「生命の相互 依存を強調して,生物共同体の全成員の平等の権利を主張する」(吉本2001 : 163)。そ れによって人間(クライエント)が,「自己」の領域を無限に拡大していくのである。

ただしこの「ディープ・エコロジー」は,先にも述べたように,あくまで「シャロ ー・エコロジー」に対立する概念として成立している。この従来のエコロジー思想は,

自然を「『科学的』に制御・管理・利用」しようとする。すなわち「ディープ・エコロ ジー」と「シャロー・エコロジー」は,前者の「自然からの人間の独立不可能性」(吉

本2001 : 163)と後者の「自然からの人間の独立化」(吉本2001 : 163)という,いわば

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「二律背反」(吉本2011 : 163)の関係性のうえに成り立っており,両者は互いの否定の うえに成り立っている。そして従来のソーシャルワークもまた,「隣接諸科学の知見や 法則を積極的に取り入れて」きたのであり,それゆえ人間の理性をもとに,「自然から の人間の独立化」を図るものとして規定され得ることになる。したがってこのソーシャ ルワークと,「自然からの人間の独立不可能性」を前提とする「ディープ・エコロジー」

は,明らかに,互いに相容れない関係性にある。ソーシャルワークにこの概念を導入す ることは,たしかに,クライエントとその「環境」の適合を可能にするかもしれないも のの,一方で従来の科学的ソーシャルワーク論自体は,課題を抱えたまま据え置かれる ことになる。

またこれまでソーシャルワークにおいては,クライエントとその環境のあくまで彼ら 自身の内!!!!!としての適合を,非ヨーロッパ的な思想や実践,たとえば禅(Zen)

のような仏教的要素などを導入することによって,おこなっていこうとする試みもなさ れてきた(Keefe 2011 : 293)。その一例として,「スピリチュアルな素地の醸成と個々人 の成長の源」(Keefe 2011 : 293)としての「瞑想(meditation)」(Keefe 2011 : 293)を挙 げることができる。実際にそれを実践していくことによって,「他者を助けることは,

すなわち,自分自身を助ける(to help others is to help ourselves)」(Keefe 2011 : 310)と いうことに気づき,自身と(環境の一要素としての)他者の融合を体験させようとする のである。それもまた人間(クライエント)とその環境の分離の乗り越えを可能にする と思われる。しかしながらこれもまた,従来の科学的ソーシャルワーク論とは根本的に 相容れない異質な体系を導入するものの一方で,従来のもの自体は,やはり,課題を抱 えたまま据え置かれることになると考えられるのである。

従来のソーシャルワークにおいて,クライエントおよび環境については,それらを外!!から把握することは可能であるものの,一方でクライエント自身における内!!の視点 からみた場合,彼らがその環境と適合するということがはたしてどのようなことかにつ いては,不明なまま据え置かれることになるという課題については,「ディープ・エコ ロジー」や「瞑想」といった新たな体系を導入するのではなく,むしろそのあり方そ!!!!について,改めて検討していくことが必要となる。具体的には,クライエントが存!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!,ということに立ち戻って考えていくこと が求められるのである。なぜならソーシャルワーク自体が,本稿の冒頭でも述べたよう に,そもそも彼ら自身のウェルビーイング,すなわちその「存在を基盤にしたよりよい 状態」の増進を目的としているからである。まずは彼らがどのように存在しているのか について検討し,さらに彼ら自身がその環境をどのように規定しているのかについて,

みていくことが必要となるのである。

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クライエントはあくまで実存として,「自分の存在することへ向かって自分を関わら せつつ存在する」。したがってその「環境」についても,彼ら自身がそのように存在す ることをもとに解釈していくことが求められてくる。ただしこのことは,決して,ソー シャルワークに従来の体系とは異なった新たな体系を導入しようとする意図をもっては いない。それは,これまでソーシャルワークにおいて「隣接諸科学の所見や法則」を取 り入れることによって説明をおこなってきたクライエントとその「環境」を,彼ら自身 がある(存在する)というレベルにおいて,改めて解釈し直そうとするのである。そう することによって,彼ら自身がその環境と「適合」することで,その「存在を基盤にし たよりよい状態」を実現する道を拓いていこうとするのである。

3.人間が環境のなかに存在する(ある)ということ

ソーシャルワークの独自性は,その定義にも示されている通り,クライエントとその 環境を一体的に捉えていく,すなわち「ひとと環境」もしくは「環境のなかのひと」と いう概念をもとに,彼らが「その環境と相互に影響し合う接点に介入する」という点に ある。ただし実際には,自然科学者をメタファーとしたソーシャルワーク専門職が,自 然科学としての生態学の考えをもとにした「生活モデル」をもとに,彼ら自身とその生 活を描き出していく。しかしながらクライエントはあくまで人間であり,実存として存 在している。したがってまずは,彼ら自身がそのように存在することに,焦点を当てて いくことが求められるのである。

これまでソーシャルワーク専門職およびソーシャルワーク研究者は,たしかに,クラ イエントその環境を外!!から理解しようと努めてきた。「隣接諸科学の知見や法則を積 極的に取り入れ」ることによって,それらについての存在者(あるもの)としての知見 を蓄積していったのである。しかしながら,クライエント自身の存在(あること)につ いては,語る術をもっているとは,必ずしもいえない。

Martin Heideggerは,このような事態を「存在忘却(Seinsvergessenheit)」と呼んだ が,この現象はソーシャルワークにおいてもみられるのであり,そしてこのことは,こ れまでみてきた「ひとと環境」もしくは「環境のなかのひと」という概念において,端 的に表れていると考えられる。それらにおいては,クライエントやその環境を存在者

(あるもの)として説明することは可能であるものの,一方でそれらの存在(あること)

については,必ずしも充分に言及し得るとはいえないのである。「存在」とは,あくま で「存在する」という動!!!!!!をもつのであり,いわば「活動」(Levinas=2010 :

164)である。先のHeidegger は,この「存在者(あるもの)」と「存在(あること)」

の根本的な違!!を,「存在論的差異(ontologische Differenz)」と表現している。

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ソーシャルワークは,クライエントとその環境の双方に同時に焦点を当てていくので あり,そして直接的にそのような視点をもたらしたのは,すなわち,自然科学としての 生態学であった。「生活モデル」はこの生態学的観点を積極的に取り入れていったので あり,このモデルは必然的に,クライエントを有機体一般という自然物に見立てて捉え ていくことになる。もちろんこの場合においても,「クライエント=自然物」というよ うに,必ずしも直接的に捉えていくのではなく,隠喩(メタファー)として把握してい くことになる。

ただしこのこと自体は,先のHeideggerによる見解にもとづいて考えるならば,ごく 自然に生じるものであると考えられることになる。ソーシャルワークにおいてみられる このような事態は,近代西洋哲学の祖としてのRené Descartesにおいて,より端的に表 れているという。Heideggerによれば,Descartesは,「『エゴ・コギト』,すなわち『我 思考ス』を,『レス・コルポレア』,すなわち『物体的ナモノ』から区別する」(Heidegger

=2003 a : 232)という。つまり精神としての人間と,それを取り巻く「自然事物性」

(Heidegger=2003 a : 257)としての諸事物,という世界観をつくりあげることになって しまったのである。さらにそれは,「世界への問いをそうした自然事物性への問いへと 狭めることを,強めてしま」(Heidegger=2003 a : 257)うことになった。人間が主体

(主観)となることによって,「存在するものを確保し,すなわちまた確信〔確実化〕し うることを狙」(Heidegger=1962 : 24)うようになる。それによって,主体(主観)と しての人間がすべてのあ!!!!(存在者)として規定してしまい,先のような「存在忘 却」といった事態が生じてしまうのであるが,それはまさに,このDescartesにおける

「エゴ・コギト」および「レス・コルポレア」において,端的に表現されていると考え られるのである。つまり主観(主体)としての自我が,すべてをあ!!!!(存在者)と して,もしくは自然物の隠喩(メタファー)として捉え,さらに次に述べるTammy

Moscripのように自然物そのものとして捉えていくことは,ごく自然な成り行きと考え

られるのである。

Moscripは,クライエントを「環境のなかのひと」という概念によって把握していく

ことによって,彼らを,彼ら自身の内部および外部から影響を受けつつある者として理 解するところに,ソーシャルワークの特筆すべき強みがある,と述べている(Moscrip 2011 : 58)。ただしその際には,ソーシャルワーク専門職が脳(brain)という臓器を,

さまざまな変化に敏感に反応する「高度に従順な,そして絶えず進化する組織」(Moscrip 2011 : 58)として把握することが,「彼ら自身の生涯を通じての成長や変化,さらには 考え方や活動の柔軟性についての潜在能力を理解する助けになる」(Moscrip 2011 : 58)

という。これはつまり,クライエント自身を根本的に「臓器としての脳!」として捉えて いくことを意味しているのであり,彼らを「環境のなかのひ!!」というよりは,むしろ

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「環境のなかの脳!」として理解しているということになる。このことは主体(主観)と してのソーシャルワーク専門職が,クライエント延いては人間を,まさに自然物として 捉えていく端的な例であろう。

ソーシャルワークがあ!!!!(存在者)としてのクライエントのみならず,その「存 在を基盤にしたよりよい状態の増進」を図ることを目標とするのであれば,これまで述 べてきた事態について,より積極的に解消していく必要があるのではないであろうか。

そしてそのためには,クライエントが環境のなかにあ!!(存!!!!)ことを手がかり に,彼ら自身とその環境について解釈していく,という作業をおこなっていくことが求 められてくる。彼らが実存として存在するということをもとに,さらに彼ら自身がその 環境をどのように規定しているのか,検討していくことが必要となるのである。そして それは,つまり,クライエントを外!!から観察するのではなく,あくまで彼ら一人ひと りにおける内!!の視点から,彼ら自身の存在を捉え直そうとする試みに他ならない。

ただしこのことは,あ!!!!(存在者)としてのクライエントをエビデンス(証拠)

にもとづいて,より正確に捉えていこうとする科学の営みそのものを,必ずしも否!!!!!!!!!!。その営み自体が,正当な手続きを経たうえで,ある一定の妥当性を備 えた結論を導き出そうとするのであれば,それに対して何ら疑いをかける余地は生じ得 ない。そもそも存在とは,「そのつど,なんらかの存在者の存在」(Heidegger=2003 a : 27)であり,したがってまずはクライエントおよびその環境を,あくまで存在者のレベ ルでより正確に捉えていく必要がある。そしてそのうえで,それらがはたしてどのよう にあ!!のかを問う,存在を解釈する作業に入っていくことができるようになるのであ る。

4.クライエントにとって周囲にも

!

!

があるということについて

これまで述べてきたように,クライエントは,あくまで実存として存在している。

「自分の存在することへ向かって自分を関わらせつつ存在する」のである。このことは 彼ら自身において,決して経験的に得られることではなく,むしろあくまでそれに先立 って与えられているアプリオリな事態である。このことについては,たとえば,心理学 者や社会学者が実験や調査をおこなうことによって,ものごとを経験的に分析し,その うえで彼らが実存として自己関係的に生きている,ということを明らかにすることは,

たしかに可能であろう。しかしながらクライエント本人にとっては,そのような法則で はなく,彼ら自身があくまでそ!!!!!!!!!!!ということ自体が重要なのであ る。

クライエントにおける「環境」は,さまざまなも!!と他!!から構成される。それでは

クライエントが環境に適合することの意味についての検討 78

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彼らにおいて,周囲にも!!があるということは,そもそもどのようなことなのであろう か。Heideggerによれば,人間がその周囲にあるも!!に触れることができるのは,人間 が実存として存在しており,かつその人間に対して「世界(Welt)」が暴露され,さら にこの「世界」からも!!が接してくる場合だけであるという(Heidegger=2003 a : 140−

141)。なおここでいう「世界」とは,ものごとを成立せしめる「コンテクスト」(門脇 2008 : 58)ともいい換えられ得るものであり,したがってそれは,何らかの客体的なあ るも!!(存在者)ではないものの,却ってそれがあるも!!自体を「はなはだしく規定」

(Heidegger=2003 a : 189)する。「世界」は,あるも!!の総和として捉えられ得る性質 のものではな!!,のである。

クライエントを含めわれわれ人間は,たしかに実存として存在してはいるものの,同 時に「世界」のうちにあ!!というあり方にある。この「世界」のうちで,「そのつどす でに暴露されている世界において出会われる存在者のもとで存在」(Heidegger=2003 a :

159)するのである。Heideggerによれば,われわれが道具のような存在者をもつことが

できるのは,「配慮的な気遣い」(Heidegger=2003 a : 173)という「交!!」(Heidegger=

2003 a : 173)によってであるという。そしてそれについて,以下のように記している

(Heidegger=2003 a : 178)。

そのつど道具に合わせて裁断された交渉のうちでのみ,道具は純正におのれの存在におい ておのれを示すことができるのだが,そうした交渉,たとえば,ハンマーでもって打つこと は,この存在者を出来する事物として主題的に捕!!!!わけでもなければ,ましてやそれを 使用したからといって,道具構造そのものに通暁する知識がえられるわけでもない。ハンマ ーでもって打つことは,ただたんにハンマーの道具性格に通暁している一つの知識をもって いることではなく,それ以上適切には可能でないようにこの道具を我がものにしたというこ となのである。そうした使用しつつある交渉においては配慮的な気遣いは,そのときどきの 道具にとって構成的な手段性に服従している。

このようにわれわれは,ハンマーのような道具を見出し,かつそれを使用することに なるのであるが,ただしわれわれがそれを使いこなしているからといって,必ずしも,

それについての詳細な仕!!!!を得ている,というわけでもない。自分がしたいこと,

たとえば自宅の破損箇所を修理したいと思ったとき,このハンマーが手ごろで使い勝手 のよいものとして,自分の周囲にあるも!!として把握されるのである。そして,この道 具を使いこなすことができていればいるほど,ハンマーは,われわれにとって目立つこ ともなく,さも自分の身体の一部であるかのように思えるのである。

このようにわれわれがハンマーといった道具と交渉し,さらにそれを発見できるの は,ひとえにわれわれに「世界が『与えられている』」(Heidegger=2003 a : 189)から である。われわれはこの「世界」において,配!!!!!!!ことによって,さまざまな

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参照

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