先島諸島におけるアワ用農具の形態と地域性
著者 賀納 章雄
雑誌名 関西大学博物館紀要
巻 3
ページ 218‑240
発行年 1997‑03‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/16543
南西諸島においては︑大多数の島々が十分な水に恵まれないため︑必
然的に畑作中心の農業が営まれている︒その主要な畑作物は一七世紀よ
①り以前ではアワやムギ・キビなどであったが︑一七世紀になって製糖技
術とサツマイモが中国から伝来して︑それまでの農業は一変することに
なる︒
製糖技術の伝来によってサトウキビは︑当初︑上納物として薩摩藩・
琉球王府による搾取の対象となるが︑明治以降は換金作物として栽培さ
れるようになって︑その栽培面積は拡大され︑現在に至っている︒また︑
サツマイモはその栽培と食し方がアワやムギなどに比べ容易なことから︑
日常の主食として広く栽培されるようになり︑食料確保のため耕地の大
部分がサツマイモ栽培に当てられるという状況となっていく︒そして︑
こうした状況は昭和三○年代まで続くことになる︒
このように一七世紀以降は︑サトウキビ・サツマイモの栽培が畑地の
|はじめに 先島諸島におけるアワ用農具の形態と地域性
多くの割合を占めるようになり︑他の作物はこれに押されてその栽培面
積は減少していくこととなる︒しかし︑アワやムギなどの旧来の作物は
栽培面積は少なくはなるものの︑近年まで南西諸島全域において栽培さ
②れていた︒
アワは︑先島諸島でその栽培の比重が高く︑近年まで比較的盛んに栽
培されていた︒現在でも︑伊良部島や竹富島などにおいては祭祀用など
③としてアワが栽培されている︒このように︑先島諸島においてアワ栽培
の比重が高く︑近年までその栽培が残存する要因としては︑かつてアワ
が本来的にその地域の主作物として広く栽培されていたことにもよるで
あろうが︑政策的な要因もあげられる︒それは近世から近代にかけて施
④行された人頭税制で︑水田のほとんどない宮古諸島においてはアワが本
租とされ︑八重山諸島でもアワが夫賃︵夫役税︶として徴収されたこと
の影響︑そして︑サトウキビの作付制限によるこの地域へのサトウキビ
栽培の導入の遅れが︑租税の対象であるとともに自給的作物でもあった
⑤アワを残存させる一因となったものと考えられる︒
さて︑このような先島諸島におけるアワ栽培の比重の高さと符合する
賀 納 章雄
一
一
一
八
培過程の諸作業に使われ
る一農具としての紹介程度にとどまるものであり︑それ自体の形態や特
徴を詳しく論じているものは少ない︒
島 伊良
、lu
。
O
多良間島 宮古諸島
延
島 諸
先
、
八重山諸島
簿.
、
西
壱・嘩
金、
、 黒島
、
。
与那国島
誤
諸
・.・ ・・ 島
9コ 波照間島
0 50km
ー−
先島諸島位置図 図1
ように︑この地域にはア
ワ栽培のための専用農具
が存在する︒アワの専用
農具については︑南西諸
島ではトカラ列島の悪石
しんちゅう島で収穫用の真鐡製の
⑥爪があったという報告も
あるが︑筆者の管見によ
れば︑専用農具は南西諸
島では︑悪石島および先
島諸島でしか確認してい
ない︒ここでいう専用農
具とは収穫具である穂刈
り用の鎌と︑アワを脱穀
する時に使用する木すり
臼と石臼を指す︒これら
の専用農具に関しては今
までにも主に民俗学の方
面から報告されてもいる
が︑その多くがアワの栽 穂刈り鎌については︑上江洲均が沖縄の民具の一つとして紹介してお⑦り︑日野巌が日本本土から東南アジアにかけての穀物の摘穂による収穫
⑧法についてまとめる中で穂刈り鎌に触れている︒また︑琉球大学民俗ク
ラブの報告の中で︑穂刈り鎌の各島間の名称や形態の差異について若干
⑨述べられてもいる︒
これに対してアワ用の臼はというと︑筆者自身はこれを総合的にまと
⑩めたというものを今のところは知らない︒この大きな原因としては︑ア
ワ栽培の衰退にともない農具自体も消失しつつあることによる︒したが
って︑これらの保存および記録は緊急の課題といえるであろう︒その点
は︑穂刈り鎌についても同様である︒
本稿では︑各島の教育委員会や資料館などで保存されているアワ用農
具を中心に︑急速に消失しつつあるアワ用農具の記録をも目的としなが
ら︑その形態やその地域的展開について考察を行う︒その上で︑先島諸
島におけるアワ用農具存在の意味を考えてみたい︒
南西諸島においては︑アワの収穫は穂刈りで行われるのが一般的であ
る︒穂刈りとは︑穂のすぐ下のところか︑少し長めに茎を残した状態で
穂を刈り取っていく収穫法である︒奄美諸島や沖縄諸島においては︑そ
の作業に際しては普通の鎌や小刀などの道具を使用したり︑もしくは素
⑪手で穂をちぎっていくというが︑先島諸島では︑穂刈り作業で専用の小
⑫形鎌が用いられる︒
二穂刈り鎌
九
山
−− 、
−−−〜
LbⅡ︐〃〃″〃︐
〃ロ・″0▽卜
①
②
⑤
④
⑥
!
⑦ 16 1111 ⑧ ⑨I
i⑪
図2各島の穂刈り鎌 ⑬三斗
⑭c、 ○これは︑宮古島や伊良部島でアーカイイザラ︑多良間島でイルラ︑竹
富島や黒島でイラナ︑イナラなどとよばれるもので︑握った時に手のひ
らに収まるか少しはみ出るか程度の柄に短めの刃をもつ鎌である︒その
形状については大きくニタイプに分かれ︑短い柄に短い刃を差し込んだ
タイプ︵以下Aタイプとよぶ︶と︑普通の鎌をそのまま小形化したよう
なタイプ︵以下Bタイプとよぶ︶がある︒ここでは︑筆者の実見するこ
とのできた穂刈り鎌を中心に︑その形状と使用方法などについてまとめ
平良市総合博物館所蔵]
実際に使用されたものではないが︑農家の人に作ってもらったものが
一点ある︒柄の長さが約一五センチで︑柄の上端から約一センチのとこ
ろに約四センチ長の刃がつけられている︒そして︑柄の下端部に紐を通
すための直径約一センチの穴があけられている︒刃は普通の鎌の刃を切
断したものが使用されており︑元の刃先方向が柄に打ち込まれている︒
伊良部町中央公民館所蔵][伊良部島こ図
2I
②︑③
二点の穂刈り鎌がある︒②は︑約一七センチの柄に約六センチ長の刃
がついているが︑刃の上約一センチの柄の部分には直径約ニセンチの穴
があけられている︒この穴は︑次にみる多良間島の穂刈り鎌と同様に︑
指をかけるためのものと考えられる︒③は︑柄の長さが約︱ニ・五セン
チで約三センチ長の刃がつく︒柄の上端部は︑刃を正面に向けてみた場
合はY字状を呈するが︑ H呂古島益凶
2I
① ︵一︶各島の穂刈り鎌 てみる
︒
刃を取り付けている部分で柄が縦に大きく割れ
図3 多良間島の穂刈り鎌
多良間村歴史民俗資料館所蔵]
現在︑実際に使用された穂刈り鎌は残っておらず︑復元されたものが
一点ある︒柄の長さは約一八センチで︑約ニセンチ長の刃がついている︒
そして柄の刃取り付け部の上に直径約ニセンチの指かけ用の穴があけら
れている︒また柄下端部には紐を通すための穴があけられている︒
[竹
富島
二図
2ー④ー⑨喜宝院蒐集館所蔵]
六点の穂刈り鎌をみることができた︒柄の長さが約︱‑1
一四
セン
チ
で︑柄の上端から約一ーニ・五センチのところに長さ約三1七センチの
刃が付けられている︒刃は普通の鎌の刃の折れたものなどを柄に打ち込
んでいるようで︑例えば⑦や⑧をみると︑元は刃先方向にあった部分が [多良間島二図3
ない
︒
~
に釘が打ち込まれ︑刃がと る︒また︑⑧は︑刃の上部 い部分であったと考えられ 元は何らか刃物の中子に近 部分がややすぽまっており︑ の刃先部分は︑上端と下端 柄に打ち込まれている︒⑦ ており︑木切れをかませて刃をとめている︒このことから︑元は②のように︑柄に指かけ用の穴があいていたものが︑柄の縦割れによって柄上端部が切り取られ︑現況の形になったものとも考えられる︒なお︑両方の穂刈り鎌とも刃を左側に向けてみた場合︑刃と柄の取り付け部分付近に窪みが認められる︒また︑③には紐を通すための穴があるが︑②には
められている︒
これらの穂刈り鎌の柄下端部の形状に注目すると︑大きくは次の三つ
のタイプに分けられる︒
①刃を左側に向けた場合︑柄下端部が正面方向とその裏面で柄の太さ
の約三分の一ずつカットされたタイプ︵④︑⑤︑⑥︶︒
②柄下端部のカットの方向が①のタイプのものと九○度ずれたタイプ
︵⑦︶︒
③柄下端部のカット方向は①のタイプと同じであるが︑刃を正面方向
に向けてみた場合︑その形状が模形となるタイプ︵⑧︑⑨︶︒
これら柄下端部のカットされた部分には紐を通すための穴があけられ
ているが︑⑥と⑧については︑穴は途中で止まり貫通してはいない︒
なお︑すべての穂刈り鎌を刃を左に向けてみた場合︑いずれも柄の刃
付け根付近が窪んでいた︒そして︑④の柄は︑木皮をつけたままのもの
であるが︑窪みの部分と刃の取り付け部付近で木皮が剥がれていた︒
﹇波照間島恥図21⑩︑⑪沖縄県立博物館所蔵﹈
二点収蔵されており︑これらは上江洲によって紹介されているもので
⑬あるが︑⑩は︑約一四・五センチの柄に三センチ長の刃をもち︑⑪は︑
約一二・五センチの柄に三・五センチ長の刃をもつ︒両者とも刃を正面
に向けた場合︑柄上端部の左側部分が柄の太さの約五分の三ほどカット
されており︑⑩は上端から約二・五〜三センチ︑⑪は約二〜三センチの
長さでカットされ︑カットされたところから約一センチ下のところで刃
が取り付けられている︒そして刃を左側に向けた場合︑刃と柄の付け根
部分が窪んでいた︒ なお︑上江洲によると︑柄上端部がカットされていることについては︑アワ穂を刈り取って束にする際︑口にくわえるためということであるが︑確かに柄下端部には紐を通すための穴はあけられていない︒また︑⑪の柄上端部は︑口にくわえたことによるものなのかはわからないが︑表面が若干摩滅していた︒﹇石垣島皿図21⑫〜⑭石垣市立八重山博物館所蔵﹈穂刈り鎌として三点が展示されている︒これらはいずれも普通の鎌を小形にしたタイプである︒⑫は︑柄の長さが約一二センチ︑刃の長さが約六センチ︵背部は約八センチ︶であり︑刃を左側に向けてみた場合︑柄の左側面に刃を装着するための切り込みがあり︑針金で締められている︒刃は普通の鎌の刃の先端部分を切ったものを使用しているようである︒⑬は︑柄の長さが約二・五センチ︑刃の長さが約六・五センチ︵背部は約七・五センチ︶であり︑刃は針金で締めてとめられているが︑柄の両側面が割れてしまっている︒⑭は︑柄の長さが約一二・五センチ︑刃の長さが約一○・五センチであり︑柄上部の両側面に切り込みがあり︑そこに刃を入れ︑鉄製の輪と釘によって柄にとめられている︒⑫と⑬に比べ柄と刃との角度が大きく開いている︒
なお︑⑭は︑その柄と刃の加工具合から既製品であると判断され︑⑬
の刃についても既製の小形の刃が使われているようである︒
以上が筆者の観察することのできた穂刈り鎌である︒Aタイプの穂刈
り鎌については︑その柄の形状にいくらかの特徴的な差異があり︑これ
については後ほど詳しく述べることにするが︑短い柄に短い刃を取りつ 一一一一一一
︵二︶使用方法
それでは︑これら穂刈り鎌を使っての穂刈り作業とはどのようなもの
であったのか︒まず︑穂刈り鎌の持ち方であるが︑Aタイプのものにつ
いてみると︑図4は竹富島喜宝院蒐集館で再現してもらったものである︒
人差し指を柄の先端にかけ︑親指を刃の根元に添え︑その親指でアワ穂
の下の茎を押さえて刈り取ったという︒波照間島では人によってそれぞ
れ違いがあったというが︑話者aの持ち方としては︑柄を握り︑柄の先
端に人差し指をかけたという︒また︑伊良部島や多良間島の指かけ用の
穴をもつ穂刈り鎌の存在は︑柄の先端方向に指をかけて柄を握るという
持ち方が︑Aタイプの持ち方として一般的であったことを示すものであ
⑮ろう︒
次にBタイプの持ち方であるが︑筆者はその実例をみてはいないので
あるが︑Bタイプの穂刈り鎌について話をしてくれた宮古島の話者bは︑ けたタイプのものとしては先島諸島に広くみられ︑報告資料などから石
⑭垣島や黒島においてもAタイプの存在が知ることができる︒また︑Bタ
イプの穂刈り鎌については石垣島でのみ実見できたが︑波照間島で聞く
ところではBタイプも穂刈りで使用したといい︵話者a︑女性︑一九二
○年代生︾名石︶︑宮古島においても古い草刈り鎌の刃と柄を切断して自
分で作ったという話を聞くことができ︵話者b︑男性︑一九二○年代生
︾川満︶︑Bタイプも広く使用されていたものと考えられる︒なお︑宮古
島の事例にあるように︑穂刈り鎌︵A・Bタイプとも︶のほとんどは個々
の栽培者によって自作されたようである︒
︽ 罫 一 望 一 二 毒 一 一 心
Ⅱ 一 卦 華 一 一 い
︾ 砲 州 必 一 卦 恥 一 岬 一
↓
︑
◇
↑ 耐 印
◇ 識
︑
−
.
︑
︾ 一
︾ 口
. 一
保︶︒
このように︑A・B両タイプの穂刈
り鎌の持ち方としては︑片手で穂刈りをする場合︑親指が刃部付近に添
えられることが一般的であったといえ︑Aタイプに関しては︑人差し指
を柄の先端部にかけて握ることが一般的であったようである︒
それでは︑実際の穂刈り作業はどのようなものであったのであろうか︒
Bタイプを使用するという宮古島の事例では︑穂の下一○センチくらい
を親指で押さえつけて刈り取り︑一本刈るごとにそれをカゴヘ入れると
いう場合と︑穂の下三○〜四○センチを刈り取り︑刈り取った穂を別の
手に持ち︑ある程度になったら草の葉で穂を束ねるという場合があり︑
後者のやり方では普通の鎌を使うこともあったという︵話者b︶︒Aタイ
プを使用する波照間島では︑穂の下一○センチくらいを一本ずつ刈り取 照騨嘱 穂刈りに際しては穂の下を親指で押さえて刈り取ったといい︑親指が刃部付近に添えられていたことがわかる︒こ
方れは竹富島の事例にもあるように︑お
ち持そらく片手だけで穂刈りをしようとし
卿た場合︑アワの穂をとらえるためには
り刈親指を刃部付近に添える必要があった穂ことによるものであろう︒なお︑石垣
4図島においてもBタイプを用いて片手で
穂刈りをしたという話を聞くことがで
きた︵話者C︑女性︑生年代不詳恥白
一 一 一 一 一 一 一
︵三︶形態的特徴
以上︑各島の穂刈り鎌の全体的な形状と︑それを用いての穂刈り作業
の内容をみてみたが︑ここで穂刈り鎌の使用方法をも踏まえて︑各島の
穂刈り鎌の細部の形態について検討を加えてみたい︒ただし︑Bタイプ
の穂刈り鎌については︑石垣島の三点のみしか実例を得ていないので︑
ここでは︑特に記さない限りAタイプの穂刈り鎌を中心に述べることに
する︒
まず初めに︑穂刈り鎌の刃部であるが︑その形状やその長さ︑幅など
にはあまり統一性はみられない︒これは穂刈り鎌に使用されている刃が︑
普通の鎌などの刃の折れたものを再使用されているためで︑再使用され
た刃の種類や部位によって大きさが異なってしまったことによるものと り︑刈り取った穂を別の手に持ち︑手に一杯になったらアワの葉で束ねたといい︵話者a︶︑同じく竹富島では︑穂の下二○センチくらいのところを刈り取り︑穂が二○本くらいになったらアワの葉で束ねたという︵話者d︑男性︑一九○○年代生:西屋敷︶︒これらの事例では︑アワを刈り取る位置が若干異なってはいるが︑刈り取られた穂は︑刈り取るごとにカゴなどに入れていく場合と︑片手にある程度の量になるまで持ってから束ねていくという場合があったようである︒そして︑刈り取り作業自体に穂刈り鎌のタイプの違いによる差異はあまり認められない︒
なお︑穂刈り鎌の柄はおおむね手のひらサイズであり︑刃も短いが︑
これは一本一本のアワ穂を鎌でとらえる際︑柄や刃が他の穂に引っかか
るなどして邪魔にならないサイズであるといえる︒ 考えられる︒ところが︑刃の形状から︑本来は刃の先端方向であったとみられる部分が柄に挿入されている穂刈り鎌が多く認められた︒これは︑多くの柄には刃を取り付けるための切り込みなどといった加工痕があまり顕著に認めることができないことから︑柄に刃を取り付ける際には︑柄にごく簡単な切り込みを入れるか︑もしくは何も加工せずに刃を打ち込んでいったものと考えられる︒したがって︑刃の挿入部分が少しでも先細りしている方が︑取り付けるのに都合がよかったものと考えられる︒
次に柄の部分についてをみると︑まず︑展示用に作成された未使用の
穂刈り鎌を除いて︑柄の刃取り付け部付近がすべて窪んでいることを指
摘できる︒これは︑穂刈り鎌の持ち方として︑アワ穂を押さえるために
親指を刃の根元付近に添えることが一般的であったことから︑穂刈り鎌
の長年にわたる使用で親指の押圧によって窪んでしまったものと考えら
れる︒そして︑今回実見したものについては︑刃部を左側に向けてみた
場合︑その窪みがすべて正面側にみられることから︑これらの穂刈り鎌
は右手で使用されたことがわかる︒なお︑Bタイプの鎌にはこのような
窪みは認められなかった︒
そして次に柄の上端部に着目すると︑この部分は先述したように人差
し指をかけるのが一般的であった︒この点で指かけ穴をもつ伊良部島と
多良間島の穂刈り鎌は︑柄が機能的に発展したものといえるだろう︒そ
して他の穂刈り鎌に関しても︑波照間島の穂刈り鎌の先端部分は柄の太
さの五分の三ほどがカットされているが︑これは穂刈り鎌を口でくわえ
るためというが︑指をかけるという視点でみると︑指が安定するように
このカット部分が機能したとも考えられる︒また︑カットされて指かけ
四
1いえる︵図5︶︒この柄先端
皀 型 一 J 弓 佃 一 口
:
図部の傾斜については︑先端
5
部分を別段加工していない
他の穂刈り鎌にも同様にみられ︑穂刈り鎌の柄先端部分は指をかける部
分であるという意識をもって︑柄が作られたということが考えられる︒
そして︑伊良部島でみられた先端部分がY字状の穂刈り鎌についても︑
先述したように︑元々は指かけ穴であったところが割れてしまって︑今
のような形になったという可能性もあるが︑いずれにしても指をかける
という点では有利な形状であるといえる︒
以上のように柄の先端部分の形状をみると︑この部分が指をかける箇
所であるという意識をもって作られていることを指摘できる︒そして︑
これらは形状的に大きく次の四つのタイプに分けることができる︒
標準タイプ先島諸島に広くみられる先端部分に特別な加工をもた
ないもの︒
穴あきタイプ伊良部島・多良間島でみられた指かけ穴をもつもの︒
Y字タイプ伊良部島でみられた先端部分がY字状を呈するもの︒
へらタイプ波照間島でみられた先端部分がカットされ︑へら状に
なったもの︒
このように︑穂刈り鎌は柄の先端部分の形状によって四タイプに分け 鎌に当たる部分については︑り馴刃部側の側面から反対側に即かけて傾斜しており︑指を剛かけやすくしているものと波いえる︵図5︶︒この柄先端5図部の傾斜については︑先端 られるのであるが︑その形状的変遷を考えると︑やはり標準タイプが基
⑮本的な形態として先島諸島に広く分布しており︑それがそれぞれ他のタ
イプに展開していったものと考えられる︒そして︑これらのタイプの中
でどれが形状的に一番発展したものなのかということになるが︑これに
は様々な視点があろうが︑指をかけるという機能を考えた場合︑やはり
穴あきタイプが機能的に充実したものといえるであろう︒それでは︑こ
の機能的発展を遂げるに至った背景には何があったのかということにな
るが︑この点については四章で述べることにする︒
なお︑柄の先端部分の形状をもって︑穂刈り鎌のタイプ分けを行った
のであるが︑柄の下端部分についても︑竹富島の事例でみたように︑い
くつかの形状がみられる︒しかし︑現時点で筆者は︑柄の下端部分が︑
穂刈り作業でどのような機能を果たしていたのかについてははっきりと
つかめておらず︑その形状差が何を意味するのかは明確ではない︒よっ
てここでは事実報告のみにとどめておく︒
収穫されたアワの脱穀作業の方法は地域や農家によって異なるが︑作
業の大体の流れとしては︑アワの穂を乾燥した後︑唐竿のような棒の類
で叩いたり︑臼と杵で搗いたり︑または足で踏むなどして脱粒が行われ
る︒そして︑この脱粒作業に引き続いて︑もしくは殻つきのままでおい
だっかくておいて︑必要に応じて脱殻が行われる︒この作業には臼・杵や︑木す
り臼︑石臼などが使用される︒そして︑殻を排除した後に再び臼・杵で
三木すり臼・石臼
五
︵一︶各島の木すり臼
﹇宮古島図71A平良市総合博物館所蔵﹈
一点展示されている︒上臼と下臼はそれぞれ別の木すり臼として使わ
れていたものである︒上臼の高さは約四三センチ︑擦り合わせ面︵以下
作業面という︶の径︵以下径という︶が約二八・五センチとなる︒下臼
は作業面までの高さが約二八センチ︑作業面の高さが約一○センチ︑芯
棒の高さが約三六センチ︑径が約三○センチとなる︒そして作業面には
上臼・下臼ともに溝がない︒ みる︒
“
上臼
I
高さ (c、)
マバ
旨径榊
下臼
図6 木すり臼計測部位(三輪、注⑮文献を参考とする)
搗いて精白されて︑やっとアワは
食べられる状態となる︒
このような作業工程の中で︑先
島諸島においては︑脱殻作業に使
用される道具にアワ用の木すり臼
と石臼がある︒木すり臼は︑宮古
島でユニピキスウス︑竹富島でア
ーヒキウスなどとよばれ︑石臼は
石垣島でアーピィキィウシィとよ
ばれるものであるが︑ここでは︑
筆者の実見することのできたアワ
用の木すり臼と石臼を中心に︑そ
の形態と使用方法などをまとめて
以上が筆者の実見した木すり臼であるが︑この他に波照間島にもかっ
て木すり臼が存在したといい︵話者a︶︑石垣島においてもアワ専用とい
えるかどうかわからないが︑アワの殻を取る時に木すり臼が使われ︑使
用する時にコメ︑アワ︑キビなどの穀物にあわせて︑木すり臼を鑿で削
⑰りながら調整して使ったという︒ ﹇伊良部島皿図71B伊良部町中央公民館所蔵﹈
一点収蔵されている︒径は約二七センチで︑上臼の高さ約四二センチ︑
下臼は作業面までの高さ約二五センチ︑作業面の高さ約九センチ︑芯棒
の高さ約三七センチとなる︒そして宮古島の木すり臼と同様︑上臼・下
臼ともに作業面には溝がない︒
﹇多良間島図71C多良間村歴史民俗資料館所蔵﹈
一点収蔵されている︒この木すり臼については未計測であるが︑前記
の二点と同様に作業面には溝がない︒
﹇竹富島︾図71D喜宝院蒐集館所蔵﹈
一点展示されている︒径は約二三センチで︑上臼の高さ約五五センチ︑
下臼は作業面までの高さ約三五センチ︑作業面の高さ約五センチ︑芯棒
の高さ約五六・五センチとなる︒この木すり臼の作業面には溝があり︑
はっきりと刻まれて確認のできる溝は上臼に一四本︑下臼に二五本ある︒
︵二︶各島の石臼
﹇波照間島皿図81A話者a所蔵﹈
きめの細かい砂岩製で︑上臼の高さ約一二センチ︑下臼の高さ約一二 一二一一ハ
ニ ニ 七
図7 各島のアワ用木すり臼
図8 各島のアワ用石臼(A・Bともに右:上臼、左:下臼)
センチであり︑径が約三四センチとなる︒溝のパターンをみると︑下臼
⑬
は四分画七溝式である︒上臼については溝がほとんどすり減っており︑
溝のパターンははっきりとはしないが︑残存している溝から本来は四分
画のパターンをもっていたものと考えられる︒
[小
浜島
二凶
8│B小浜民俗資料館所蔵]
波照間島の石臼と同様にきめの細かい砂岩製である︒上臼の高さは約
︱ニセンチ︑下臼の高さ約一ーセンチ︑径が約三三センチとなる︒溝の
パターンは︑下臼が四分画の様相をもつが︑一部にパターンの乱れがあ
る︒上臼の溝のパターンについてはほとんどすり減ってしまってわから
a )
︒ 選をし一升くらいになったら箕︵ソーギ︶
いくつかの作業工程によっ で殻を飛ばし︑それを臼
以上の二点が筆者の観察することのできたアワ用の石臼であるが︑石 臼については︑先に名称のところでみたように石垣島や︑他に黒島や竹
富島などでその存在が知られる︒
︵三︶使用方法
それ
では
︑ アワ用の木すり臼と石臼を使用しての脱穀作業とは︑
ような内容であったのであろうか︒
多良間島では︑唐竿︵フリィマポー︶
して
︑
ない
︒
ニニ八ど
の
でアワの穂を叩いて脱粒し︑殻
つきの状態でアワの実を保存し︑必要に応じて木すり臼でひき︑その後︑
み
臼・杵で完全に殻を外し︑量の少ない時は箕︵ムイジョーキ︶を用いて︑
む し ろ ま す
量の多い時は筵の上で枡を使って風選をしたという︵話者e︑男性︑生
年代
不詳
こ塩
川︶
︒ 波照間島では︑乾燥させた穂の束を一束ずつ臼・杵で揚いて脱粒を行 い︑脱粒したものを石臼に二回ほど通し︑量の多い時は枡ですくって風 杵で揚いて精白をした後にやっと食べられるようになったという︵話者
このように脱穀作業は先述もしたように︑
て成り立っており︑アワ用の臼が使用される脱殻作業についても︑
アワ
を臼でひいた後には実と殻とをより分ける作業が必要となってくる︒そ
アワ用の臼を使用したとしてもアワの実から殻を完全に外すには︑
波照間島でアワの実を二回程度石臼に通したといい︑多良間島でも木す
り臼でひいた後︑改めて臼・杵で搗かなければならないといい︑かなり
⑳手間のかかるものであった︒
ちなみにアワ用の臼を使わない地域の事例をみると︑奄美諸島の沖永
良部島で聞いた話であるが︑筵の上にアワの穂をひとまとめにしておき︑
五︑六人が労働歌を歌ってその回りをまわりながら棒で叩いて脱粒を行
ふるいい︑脱粒した実は箭三イ︶で分けるが︑脱粒しきれていない穂もある
ので︑この作業を二〜五回繰り返した︒そして︑脱粒した実はまず足で
踏み︑筋を用いて実と殻をより分けるが︑その作業は三回くらい繰り返
され︑次に普通の木すり臼︵スルシィ︶を用いて実をすり︑箕︵ファラ︶
で残っている殻をとばして︑臼・杵で搗いて精白したという︵話者f︑
女性︑一九一○年代生卵畦布︶・この事例でも脱殻の作業は二つの工程に
よって行われており︑脱殻作業には相当の手間を要したものと考えられ
つく︾◎
それでは︑アワ用の臼を使用した場合と使用しない場合とでは︑脱殻
作業にどれくらいの効率の差が生じるのであろうか︒これを具体的に示
すことは難しいのであるが︑宮古島の事例で︑アワ用の木すり臼を使っ
て脱殻したものを︑臼・杵で精白するのには一升で約三○分かかったと
いい︑これは︑脱殻から精白までの作業を︑木すり臼を用いずに臼・杵
@だけで行った場合の約三倍の能率であったという報告もある︒
さて︑次にアワ用の臼の操作方法はどのようなものであったのであろ
うか︒まず︑木すり臼についてであるが︑この使い方は︑下臼からの芯
棒を受ける上臼中央にあいた穴にアワの実を通して︑上臼を連続して半
回転させて実をすっていくというものである︒そして︑その作業を行う ︵四︶形態的特徴以上︑アワ用の臼の形態とその使用方法についてまとめてみた︒ここでこれらを元にして︑アワ用の臼の特徴について検討してみたい︒
まず木すり臼についてであるが︑一番の特徴は作業面にある︒宮古島.
伊良部島・多良間島で実見した木すり臼は︑上臼と下臼の作業面には溝
がまったく刻まれていなかった︒そして︑竹富島の木すり臼は︑一般的
なコメ用の木すり臼に比べて溝の数がたいへん少ない︒アワ用の木すり
臼と同じく喜宝院蒐集館に展示されていたコメ用の木すり臼の溝をみる
と︑上臼に五七本︑下臼に五二本が刻まれていた︒それに対して︑アワ
用の臼では︑上臼でコメ用の約四分の一︑下臼で約二分の一の溝しか刻
まれていなかった︒
このアワ用の木すり臼の作業面の形態には︑おそらくアワの実のサイ には︑一人の場合では両足をのばして座り︑上臼側面にほぼ対になって取りつけられている二本の縄を左右交互にひっぱって行うが︑二人で臼
︑をはさんで座って︑同様の作業をすることもあったという︒
次に石臼の場合であるが︑これは上臼にあけられた供給口からアワの
実を入れていき︑上臼の側面につけられた取手をまわしてひいていく︒
そして︑波照間島と小浜島の石臼はともに︑ものくばりの方向から反時
⑳計回りで上臼をまわしたことがわかる︒
このように︑アワ用の臼はその操作方法をみる限り︑一般的な用途︑
つまり︑コメの籾すりや粉ひきで使われる臼の操作方法と何ら変わると
ころはないようである︒
九
ズが大きく関係するのではないかと考えられる︒つまり︑アワの実はコ
メに比べ非常に小さいものであるが︑溝の多い木すり臼を用いてアワを
脱殻しようとすれば︑おそらく溝の間にアワ粒が入り込むなどして︑ア
ワ粒を効率良く作業面でとらえてひくことができないのではないかと考
えられる︒よって︑アワ用の木すり臼は︑上臼と下臼の密着性を高める
ことが必要とされ︑結果的に作業面の溝の数を減らすか︑溝をなくす工
夫が凝らされたのであろう︒沖永良部島のように︑アワの脱殻にコメ用
の木すり臼が使用されることもあるが︑アワ用とコメ用の木すり臼を比
較した場合︑やはりアワにはアワ用の方が適し︑作業効率も高かったも
のと推測できる︒
このように︑アワ用の木すり臼は上臼と下臼との密着性を高めている
という点に特徴があるといえる︒それでは︑同じアワ用の木すり臼であ
って︑溝のあるものとないものとを比較するとどうであろうか︒まず︑
作業効率の面についてどちらが優れているのかということについては︑
筆者自身は現在のところ確認できていない︒しかし︑形態的な側面でみ
ると︑本来的に木すり臼はコメすり用として用いられ︑溝が多く刻まれ
ているものが一般的であり︑南西諸島に木すり臼が伝来した当初は︑当
⑳然溝のある木すり臼が伝わったものと考えられる︒この点でアワ用の木
すり臼をみると︑溝なしの臼の方が︑アワ用として特化した形態のもの
であるといえるであろう︒
さて︑次に石臼に関してはというと︑石臼は波照間島と小浜島での二
点を実見しただけであるが︑これらはいずれも砂岩製であった︒この石
臼の特徴は︑奄美諸島から先島諸島にかけて広くみられる豆腐作りや粉 ⑳ひき用に用いられる火成岩製の石臼と比べると︑溝が浅くて細いことにある︒そして石質が非常にきめ細かい︒しかし︑木すり臼のように溝が極端に少ないということはない︒では︑アワ用の石臼のどのような点がアワ用としての特質であるのであろうか︒これについても火成岩製の石臼と比較すると理解しやすいようである︒
伊良部島と西表島においては︑火成岩製の石臼を使用してのアワの脱
殻作業を聞くことができたのであるが︑その内容は次のようなものであ
⑳った・伊良部島では︑豆腐作り用の石臼を用いてアワの脱殻をする時に
は︑そのままでアワをひくと実が割れてしまうので︑上臼と下臼の間に
木板を挟み︑上臼と木板との間でアワ粒をすり合わせたという︒また︑
西表島でも粉ひき用の石臼を用いて脱殻する時は︑アワの実が粉になら
ないように︑上臼と下臼の受軸に輪状のかませを入れ︑上臼と下臼の間
にすき間を作って使用したという︑これらのことから︑火成岩製の石臼
@をそのままの状態で使うとアワの実が割れてしまうようである︒そして
逆にいえば︑きめの細かい砂岩製の石臼を使うことによって︑アワの実
を割らずに殻を外すことができたということがわかる︒つまり︑アワ用
の石臼の一番の特質はその石質にあるといえる︒実見はしていないが︑
この二点以外のアワ用の石臼といわれるものについても︑少なくともそ
の石材は火成岩製ではなく︑おそらく砂岩製のものであろうと推測でき
つ︵︾︒
一
一 一
一
一
○
︵一︶穂刈り鎌の地域的展開
二章でみたように︑穂刈り鎌の形態は大きくAタイプとBタイプに分
かれる︒さらに︑Aタイプについては柄の形状から︑標準タイプ︑穴あ
きタイプ︑Y字タイプ︑へらタイプの四タイプに分けられた︒そして︑
Aタイプの中でも特に穴あきタイプが形状的に発展したものであるとし
た︒この穴あきタイプの穂刈り鎌については後ほど取りあげることにし
て︑ここではAタイプとBタイプの穂刈り鎌の先島諸島における展開を
みてみることにする︒
先述のょうに︑Aタイプの穂刈り鎌は先島諸島に広く分布している︒
Bタイプの穂刈り鎌についても︑実見できたのは石垣島のみであったが︑
波照間島や宮古島などでも︑Bタイプの穂刈り鎌が使われたとの証言を
得ることができたので︑先島諸島に広く分布したのではないかとした︒
ところが︑波照間島の話者aにBタイプの写真をみてもらい話を聞いた 前章までに︑筆者の実見したアワ用農具について︑その形態と使用方法に関してまとめ︑その形態的特徴を明らかにした︒その結果︑アワ用の穂刈り鎌・臼と一口にいっても︑そこには様々な特徴のあることがわかった︒この章ではこれらのアワ用農具の形態的特徴を足がかりとして︑アワ用農具が先島諸島においてどのような地域的展開をみせたのかについて考察してみることにする︒
四アワ用農具の地域性
ところ︑Bタイプの穂刈り鎌を﹁カマ﹂とよび︑Aタイプのものを﹁イララ﹂とよんだ︒このことは︑同じ穂刈りに使用される鎌であっても︑話者aにとってはそれぞれ別のものとして認識されていたことになる︒これに対して︑石垣島においてはAタイプ.Bタイプともにイラナ・イララなどとよばれている︒穂刈り鎌や普通の鎌のよび名については各島によって差異があり︑上
江洲均によると︑沖縄本島付近では普通の鎌をイラナ︑イレナ︑宮古で
ズザラ︑イザラとよび︑竹富島でガシ︑波照間島でガッキャと誠り︑A
タイプのような穂刈り鎌をイララとよんで︑沖縄本島の普通の鎌を指す
⑳イラナ系の名称になるという︒このことを考慮に入れると︑波照間島で
は名称の上で穂刈り鎌と普通の鎌とは明確に区分されており︑波照間島
の話者aがBタイプの穂刈り鎌をカマ︵ガッキャ︶として認識したこと
は︑Bタイプの穂刈り鎌が︑Aタイプの穂刈り鎌とは本来的に別系統の
ものであったということを示すものではないだろうか︒つまり︑波照間
島において︑アワ用の穂刈り鎌は本来Aタイプのイララであり︑小形の
ガッキャ︵Bタイプ︶は穂刈り用としては二次的なものであったという
可能性が考えられる︒
これに対して︑石垣島ではAタイプ.Bタイプともにイラナ系のよび
名となり︑どちらも同等の穂刈り鎌として認識されていることになる︒
しかし︑これは推測になるが︑実は石垣島においても本来的な穂刈り鎌
はAタイプであって︑Bタイプは二次的なものであったということも考
えられるのである︒それは︑波照間島での穂刈り鎌の名称の区分が︑果
たして波照間島だけに限られたものなのかということにある︒そして︑
一一一一一一
在も販売されているのを確認した︵図9︶︒この鎌の用途については残念
ながらわからなかったが︑アワの穂刈り用でないことは確かである︒つ
まり︑Bタイプの鎌については穂刈り以外に他の用途もあったというこ
とが考えられる︒そして他に用途があるという点で︑Bタイプの鎌は︑
Aタイプのものよりも普及しやすい要素を有していたといえ︑逆に︑B
タイプの鎌は本来的にアワ専用のものではなかったという可能性が考え
られる︒やや推測の域を出ないが︑このBタイプのもつ要素と波照間島
の事例を勘案すると︑石垣島においても︑本来的な穂刈り鎌はやはりA
タイプのものであって︑Bタイプの鎌は穂刈り用としては後出のもので
あり︑Bタイプの普及によりその名称もイラナ系と混同されていったと
いう可能性が考えられるのである︒
さて︑上述のごとく穂刈り鎌の名称は各島によって異なる︒これらを
まとめたのが表1である︒同表には︑沖縄諸島も含めて普通の鎌の名称
もあげておいた︒これをみると︑一部に八重山諸島で普通の鎌をイラナ
系の名称でよぶような事例もあるが︑おおむね先ほどみた上江洲のいう
市販の小形鎌(左)
図9
Bタイプの穂刈り
鎌には既製品のあ
ることはすでに触
れたが︑筆者は︑
本稿でみたBタイ
プの穂刈り鎌とほ
ぼ同様の鎌が︑石
垣島の金物店で現 名称の地域的変化がよくわかる︒そして︑穂刈り鎌の名称に着目するとさらに興味深い点に気付く︒それは︑宮古島と伊良部島では穂刈り鎌が
表1 鎌の名称
○注⑭b文献所収の表をもとに作成。番号は参考文献を示し、番号のないものは聞き取りによる
アーカイイザラ︑
アーカイザラな
どとよばれ︑普
通の鎌の名称に
当たるイザラの
前に﹁アワを刈
る﹂という意味
の﹁アーカイ﹂
をつけて穂刈り
鎌の名称となっ
ている︒これに
対して︑多良間
島および八重山
諸島ではそのほ
とんどが︑沖縄
諸島での普通の
鎌の名称に当た
るイラナ系の名
称がそのまま穂
刈り鎌の名称と
なっている︒こ 一一一一一一一
沖繩諸島 宮古諸島 八重山諸島
普通の鎌 イラナ、カマ、ハマ、ハマー(本島北部(1)) イララ、イヤラ、イラナ、イラン(本島中南部(1)) イラナ、エレナ、イレーラ、エレラ(久米島(1)) イルラ、イレナ(伊平屋島(1))イナナ(久高島)
イララ(伊是名島(1)、粟国島、久米島(2))
イげラ(宮古島)ウザラ(宮古島(1)) ズげラ(宮古島(1))イャラ(宮古島(3))
ザラ(宮古島(1)、伊良部島)
カマ(宮古島(1))
ガシ(竹富島)イノリャ(竹富島(1)) カキ(西表島(1))イラナ(西表島)
ガギィ(石垣島(5))ガーキ(石垣島(1)) ガッキ、ガキ(黒島(1))かキス(小浜島)
ガッチャ(波照間島(1))イララ(与那国島(6))
穂刈り鎌 アーカイイげラ(宮古島、伊良部島)
アーカイサラ(伊良部島)
アーカリげラ(伊良部島(4))
イルラ(多良間島)
イラナ(竹富島、石垣島、黒島(1))
イララ(波照間島、石垣島、新城島(7))
イノリャ(竹富島(1))イネラ(竹富島(1)) イナラ(竹富島、黒島)アーカルガーツ(小 浜島(1))
のように︑先島諸島の東側と西側とで穂刈り鎌の名称に大きな違いがあ
り︑普通の鎌の名称とも併せてみていくと︑沖縄諸島︑先島諸島の東半
と西半というように大きくは三つの地域に分けることができる︒この名
称の地域的差異は︑琉球諸島における鎌の広がり方を考える上でたいへ
ん興味深い事実といえる︒しかし︑ここではこれ以上論ずる資料がない
ので︑穂刈り鎌の名称において先島諸島内で地域的差異がみられること
の指摘にとどめておくことにする︒
なお︑八重山諸島の小浜島での穂刈り鎌の名称はアーカルガーッとな
り︑宮古島などでの名称と同様に︑普通の鎌の名称の前に形容詞をつけ
て穂刈り鎌の名称となっている︒筆者自身はその穂刈り鎌について直接
確認はしておらず︑どのような形状のものなのかはわからないが︑今後︑
宮古諸島から八重山諸島にかけての穂刈り鎌の名称の変遷を辿るのに興
味深い事例といえる︒
︵二︶アワ用臼の地域的展開
三章でみたように︑アワ用の木すり臼は先島諸島全般に分布している︒
これに対して︑アワ用の石臼は八重山諸島では広く分布するようである
が︑筆者の知り得た限りでは宮古諸島でその存在は確認できなかった︒
果たして︑このアワ用石臼の分布に偏りがあるのは一体どのような要因
によるのか︒
これに関して波照間島で次のような話を聞くことができた︒それは︑
アワ用石臼の石材を波照間島では﹁トイシ﹂とよび︑西表島から石をも
ってきて︑波照間島で石臼に加工したという︵話者a︶︒この事例による と︑波照間島で使用されたアワ用石臼の石材が西表島からもたらされたことがわかるのであるが︑他の島の石臼についてはどうであろうか︒これについて筆者は現在のところ波照間島の事例の他は知り得ていないが︑おそらく他の島でも西表島産の石材が使われた可能性が高いと考えている︒それは︑アワ用石臼の存在を確認できた島は波照間島の他に︑石垣島︑黒島︑竹富島︑小浜島などであるが︑アワ用石臼の石材がすべて砂岩であると仮定するならば︑これらの島からその石材を一番容易に入手できるところは︑砂岩層が広範に広がっている西表島と考えられるから
⑳である︒そして︑このアワ用石臼の石材産地の在り方を考えると︑八重
山諸島にアワ用石臼の分布が偏っていることもうなずける︒
このように︑先島諸島内におけるアワ用石臼の分布の偏りは︑石材産
地という問題が要因として大きく影響しているものと考えられるが︑実
は木すり臼についても宮古と八重山の両諸島間で差異がみられるのであ
る︒その差異とは︑木すり臼は確かに両諸島において存在したのではあ
るが︑八重山諸島ではかなり早い時期から使用されなくなってしまった
ようなのである︒
波照間島では話者aが︑むかし自分の母親が木すり臼を使っていたと
いう話を聞いたといい︑木すり臼を実見した竹富島においてもほとんど
⑳は石臼を用いて脱殻を行うようである︒これについては︑おそらく八重
山諸島ではアワ用の脱殻具として石臼が普及したため︑石臼が木すり臼
⑪にとって替わったことが原因であると考えられる︒そして反対に︑石臼
が普及しなかった宮古諸島においては木すり臼が長く使用されることに
なったものと考えられる︒つまりアワ用の脱殻具についていえば︑宮古
一一一一一一一一
表2 各島の木すり臼・石臼の名称
○注⑭b文献所収の表をもとに作成。番号は参考文献を示し、番号のないものは聞き取りによる
諸島は木すり臼使用地域であり︑八重山諸島は石臼使用地域であるとい
えるであろう︒
以上のように︑アワ用の臼については宮古諸島と八重山諸島との間で
明確な地域差がみられるのだが︑その名称に関してはどうであろうか︒
アワ用だけでなく︑一般的な木すり臼・石臼も含めて︑琉球諸島におけ
るその名称をまとめたのが表2である︒これをみると︑臼に関する名称
についても穂刈り鎌と同様に地域的な変化が認められ︑アワ用の臼に関
しては宮古諸島と八重山諸島との間で大きく分かれるようである︒
上江洲によれば木すり臼の名称については︑シリウーシ︑シルシなど
の﹁擦り臼﹂系と︑ピキウスといった﹁ひき臼﹂系の名称に大別される
⑫といい︑この表中の木すり臼の名称もすべてこの二系統の内に当てはま
っている︒そして︑﹁擦り臼﹂系もしくは﹁ひき臼﹂系の基本的な名称の
前にコメを意味する﹁メー﹂や﹁マイ﹂︑またはアワを意味する﹁アー﹂
などといった言葉がついて︑その木すり臼の脱殻対象作物を示すものも
みられる︒
ここで︑この脱殻対象の作物名を冠する名称に注目すると︑基本的に
コメを脱殻の対象とする沖縄諸島の木すり臼の用例では︑木すり臼を指
す基本的名称の前にコメを意味する語を冠するものと︑冠しないものと
がみられる︒また︑コメ用の他に︑アワ用の臼もある八重山諸島の用例
をみても︑対象作物を冠しているものと︑冠しないものがみられる︒し
かし︑アワ用木すり臼を実見した竹富島ではコメ用のものをマイヒキウ
ス︑アワ用のものをアーヒキウスとよび︑対象とする作物名を冠してコ
メ用とアワ用とが区別されていた︒これは石臼についてもみられ︑製粉
四
沖繩諸島 宮古諸島 八重山諸島
木すり臼 一般用一アワ用
メーピキウシ、メーフィキウシ、メーピキウス、ピキウス(本島北部(1))
スリウス、シーリウーシー、ンニシリウーシ(本島中南部(1)) イニシリウーシ(本島沖縄市(8))シリウシ(渡名喜島(9))
フミチウーシ(伊平屋島(1))シルシ(久米島(1))
ユニキスウス(宮古島)ユニヒキウス(宮古島(1)) ユニスツウス、ユニズツウシ(池間島(1)) アーヒキウス(宮古島(1))
アーヒキウシ、アーヒツウス(池間島(1)) ピツウス(池間島(1))ヒキウース(伊良部島(1)) ビィシィウス(多良間島)ビスキスウス(多良間島)
マイヒキウス(竹富島)ピキウス(波 照間島(1))
ピィキィウシィ(石垣島(5))
ウス(石垣島(1)、波照間島(1)) クモース(小浜島(1)) アーヒキウス(竹富島)
石臼
一般用一アワ用 トーフウス、トーフウース、ヒキウース(本島北部(1))トーフウーシ、がラかラウーシ、ヒキウース、トーフウス(本島 中南部(1))
ヒチウーシ、イシウーシー(久米島(1))ヒキウス(渡名喜島(9))
ヒキウシ、トーフウシ(伊平屋島(1))
ウス(宮古島(1))
イスウス(大神島(1)、伊良部島(1)) イシウス(宮古島(1)、池間島(1)、伊良部島(1))
シュシ(石垣島l1))イシウシィ(石垣島(5)) イシュシ(石垣島)フス(石垣島(1)) イスィウス(砿島ll))イシウス(値島(11) ウシ(黒島(1))ピッキィウス(波照間島(1))
アーピィキィウシィ(石垣島(5))
アーピキウシ(黒島(10) アーイシス(小浜島)
や豆腐作りに使用される石臼は︑主にヒチウーシ︑イシウーシ︑トーフ
⑬ウーシという三通りのよび方があるというが︑石垣島では普通の石臼を
イシウシィとよび︑アワ用についてはアーピィキィウシイとよんで︑ひ
き臼を意味する名称の前にアワを指す﹁アー﹂を冠して普通の石臼と区
別している︒これは︑黒島のアワ用石臼についても同様である︒このよ
うに︑八重山諸島ではアワ用の臼をよぶのに︑それ自体を指し示す独立
した名称はなく︑木すり臼・石臼を意味する基本的な名称の前にアワと
いう言葉を冠してよぶのが一般的であった︒
これに対して︑宮古諸島での名称はやや相違をみせている︒宮古諸島
においてもアワ用木すり臼の名称には︑木すり臼を示す基本的名称の前
に﹁アー﹂をつけてよぶものもあるが︑伊良部島ではヒキウース︑多良
間島でピスキスウスなどとよび︑特にアワを示す語を冠せずとも︑それだ
⑭けでアワ用の木すり臼の名称となっているものもみられる︒おそらくこ
の理由としては︑宮古諸島では一部地域を除いてでしか稲作は行われて
おらず︑稲作の影響が非常に少なかった︒そして︑反対にアワ栽培がた
いへん盛んな地域であった︒また︑筆者は宮古諸島でコメ用の木すり臼
⑮をいまだ確認していないのであるが︑コメ作りが少なくアワ栽培が盛ん
であったこの地域においては︑本来はコメ用であったはずの木すり臼が
いつしかアワ専用となり︑木すり臼の名称の前にわざわざアワ用という
意味の語をつけずとも︑アワ用として木すり臼の用途が明らかであった
ということではないだろうか︒
このように︑臼の名称についても宮古諸島と八重山諸島との間に地域
的差異がみられるのであるが︑この場合については︑宮古諸島と八重山 ︵三︶宮古・八重山諸島間の地域比較以上のように︑先島諸島におけるアワ用農具の地域的展開をみると︑おおむね宮古諸島と八重山諸島を境にして︑何らかの地域的差異がみられることがわかった︒これらの地域的差異は︑先島諸島内の自然環境や歴史的︑社会的環境などの違いがもたらしたものであり︑各事象によってその原因は一様ではない︒
ところで︑アワ用農具の地域的展開をみる中で穂刈り鎌と臼との間で
共通する点がある︒その共通点とは︑形態的に発展を遂げたと考えられ
るアワ用農具が︑穂刈り鎌と木すり臼のどちらについても宮古諸島にお
いてみられることである︒穂刈り鎌についてはその使用方法の点から︑
穴あきタイプが形状的に一番発展したタイプであるとしたが︑この穴あ
きタイプは︑伊良部島と多良間島において確認できた︒そして︑コメ用
との比較から︑溝なしのものが形態的に特化したものであるとした木す
り臼については︑宮古島・伊良部島・多良間島でみることができた︒こ
のように︑宮古諸島において形態的に発展したアワ用農具が認められる
のは偶然とは思われず︑やはり宮古諸島でのアワ栽培をめぐる背景に︑
アワ用農具の形態的発展を遂げさせた要因があるものと考えられる︒そ
れは︑木すり臼の名称のところでも触れたが︑おそらく宮古諸島でのア
ワ栽培の比重の高さと稲作の影響の少なさという点にあると思われる︒
その辺りを具体的にみてみると次のようになる︒ 諸島との農業形態の違いが名称に変化を生じさせたものといえるである︑︽●ノ︒
一
一 一 一
一
石
宮古諸島では近年までアワ栽培が盛んであったことは先にも述べたが︑
アワが盛んに栽培された点は八重山諸島も同様である︒ただし︑この両
諸島を比較すると︑アワ栽培をめぐる背景には相違点もみられる︒その
違いとはまず第一に土地条件の差異がある︒それは前述のように︑宮古
諸島は隆起珊瑚礁の島々からなり︑耕地のほとんどが畑地であり︑水田
はごく限られた一部の地域にしかなかったのに対して︑八重山諸島では
石垣島︑西表島︑与那国島など︑山地性で水の確保に有利な島々があり︑
これらの島々では水稲栽培が盛んであり︑隆起珊瑚礁からなる竹富島や
黒島などの島民が︑コメを作るために西表島へ出作りをしたことはよく
⑯知られている︒このように八重山諸島と比べると︑宮古諸島ではその農
業がほとんど畑作のみで成り立っている︒そして︑この土地条件が大き
く影響した結果︑第二の相違点として︑近世から近代にかけて先島諸島
において施行された人頭税の本租の違いがあげられる︒すなわち︑八重
山諸島でコメが本租とされ︑宮古諸島ではアワが本租として徴収された
のであるが︑宮古諸島ではアワが租税の根幹として位置づけられること
になり︑その結果︑政策的影響を強く受けることになり︑納税のために
もアワを作らざるを得なくなったという状況がある︒
以上の二点︑つまり土地条件と政策的内容の相違が両諸島間にみられ︑
アワ栽培に比重を置かざるを得なくなった宮古諸島において︑結果的に
アワ栽培の道具が発展し︑宮古諸島と八重山諸島との間にアワ用農具の
形態的差異が現われたものと考えられるのである︒ 以上︑アワ用農具の形態を中心として︑その地域的展開についてみてきた︒果たしてアワ用農具の形態はアワに対する作業効率が高まるように︑形状または材質が順応していったものといえる︒すなわち︑穂刈り鎌は片手でアワの穂を一本ずつ刈り取っていくという作業内容に順応し︑手のひらサイズ程度の柄をもつ小形の鎌になったものといえ︑アワ用の臼についてはアワの実に適応するように工夫され︑木すり臼の場合︑アワ粒の極小さに適応するように上臼と下臼の作業面の密着性が高められ︑石臼はアワの実を割らないようにその石質に特徴がみられた︒
このように︑アワ用農具は基本的に今みた点に順応していったものと
いえるが︑その形態の細部にいたっては同一器種の中にあってもいくら
かの形態的差異があり︑それらの形態的差異のいくつかには明らかな地
域性がみられた︒そして︑その地域性はおおむね宮古諸島と八重山諸島
との対比でとらえることができた︒ここで︑本稿でみたアワ用農具の地
域性とその要因についてまとめると次のようになる︒
①アワ用の石臼と木すり臼の分布にみられる︑八重山諸島と宮古諸島
との地域的対比は石臼の石材産地がその分布に影響している︒
③機能的に発展した穂刈り鎌と木すり臼が宮古諸島にみられるのは︑
自然条件の制約と政策的影響を受けた宮古諸島のアワ栽培の比重の高
さが要因となる︒
⑧形態的側面だけでなく︑アワ用農具の名称に関しても宮古諸島と八
五おわりに
一二二一ハこのように︑先島諸島における自然環境や歴史的︑社会的環境などア
ワ栽培をめぐる背景の地域的差異によって︑アワ用農具はその形態や名
称に地域性をみせるのである︒しかし︑その形態差などがすべて地域性
を示すものではなく︑穂刈り鎌のAタイプとBタイプの形態差にみたよ
うに︑他の要因を考えなければならない場合もある︒
さて︑アワ用農具は上述のように先島諸島において展開したのである
が︑アワ栽培の衰退とともにその姿を消していくことになる︒それは︑
アワ用農具というものがアワ以外にあまり使い道がないということもあ
⑰り︑また︑アワを栽培するにあたって絶対に必要不可欠であるというも
のでもなく︑穂刈りは普通の鎌を使ってでもできるし︑手でちぎって穂
を摘んでも行えるものであり︑脱殻についても先にみたようにアワ用の
ものを使わずとも︑多種多様な方法が可能であった︒かつてアワを栽培
していた人に話を聞いても︑同一地域内であってもアワ用のものを使用
する人もいれば︑他の道具を使って作業を行う人もいたという︒このよ
うに︑アワ用農具はその絶対的必要性の欠如ということから急速に使用
されなくなっていき︑その現存数もかなり減少しつつある︒
最後になるが︑先島諸島におけるアワ用農具の存在をどのように位置
づけることができるであろうか︒それは︑まず第一に︑先島諸島におけ
るアワ栽培の比重の高さを示す指標となるものといえる︒第二に︑その 重山諸島との間で差異がみられた︒そのうち︑木すり臼の名称の差異は②と同様︑宮古諸島でのアワ栽培の比重の高さと稲作の影響の少なさにある︒
︵注︶
①一四七七年に与那国島に漂着した朝鮮済州島人の琉球諸島での見聞を記
載した﹃李朝実録﹄︵成宗大王実録巻一○五︶から︑一五世紀の琉球諸島でア
ワやムギなどが広く栽培されていたことが知られる︒佐々木高明﹁南島にお
ける畑作農耕技術の伝統﹂︵九学会連合沖縄調査委員会編﹃沖縄l自然・文 ﹇付記﹈本稿をまとめるにあたりましては︑石野のぶ氏︑長田一男氏︑沖縄県立博物館太田健一氏︑平良市総合博物館砂川玄正氏・小禄裕子氏︑石垣市立八重山博物館大濱憲二氏︑喜宝院蒐集館上勢頭芳徳氏︑伊良部町教育委員会福里弘行氏︑多良間村教育委員会友利哲市氏︑小浜民俗資料館をはじめとしてたいへん多くの方々にご協力をいただきました︒心より感謝したします︒また︑本稿掲載にあたり多くの労をとっていただきました橋本征治先生に心よりお礼申しあげます︒ 形態差などから︑先島諸島内におけるアワ栽培に関わる背景の地域差を現出させる指標であるといえる︒第三に︑アワ用農具にみられる諸特徴から︑アワ栽培に対する人々の創意工夫の痕跡が読み取れ︑アワ栽培自体の特徴を窺い知る資料となる点であるといえる︒この三点がアワ用農具に対する位置づけとしてあげられるであろう︒
以上︑アワ用農具に関して論考をすすめてきたのであるが︑本稿で取
り上げた資料はごく限られたものであり︑今後新出の資料などによって︑
その内容を修正しなければならない可能性は十分にあることを最後につ
け加えておく︒
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一 一
一
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