人間の発達における「生物的なもの」と
「社会的なもの」との相互関係をめぐって
心理形成をめぐる最近のソビエト心理学界の論争について(その4)
坂 元 忠 芳
(1) はじめに一問題の設定
ソビエト心理学と教育学において,人間の発達における「生物的なもの」(又 は「自然的なもの*」)と「社会的なもの」との相互関係についての議論がおこ ったのは,最近のことではない。それはソビエトの教育学と心理学がマルクス 主i義的立場を確立していく20年代から30年代にかけて,もっともするどい,中 心的な議論の一つとなったものである。
当時この問題を主に論じたのは児童学であったが,それは人間の発達の一般 的特性と個別的特性とが,どの程度,各個体がこの世に生れてくるときに携え てくるものによって,また,この世に生まれて以後の社会的・生活的条件によ って決定されるか,という問題をめぐる論議であった。
*次に述べるように「生物的なもの」(6HonorHqecKMti)は「自然的なもの」(npHpo
AHblth)さらに「生得的なもの」(Bpo>K,lteHHblti)「遺伝的なもの」(Hacπe双cTBeHH曲)とは同じ概念ではない。しかし,ここでは過去の議論のテーマとして並記しておく。
そして児童学はこの問題を人間発達における遺伝的ファクタ・一・一と環境的ファ クターの関連問題として解決しようとし,後に児童学批判で明らかにされたよ うに,人間の発達を,生物学的要因と社会的要因,遺伝とある種の不変的な環 境との影響によって宿命的に条件づけられているという「法則」を提出し,そ
の理論を「問題児」や知能的におくれた子ども,神経症の子どもなどのアンヶ 一トやテストによる選別に具体化して,大きな損害をソビエトの教育全体に与
えた。
児童学のあやまりは,心理学的には人間の能力を生物的なものと社会的なも
のの二つのファクターの形而上学的併存と平行的影響によって説明したところ にあった*。しかもその際,生物的なものを生得的なものや遺伝的なものと同 一視することによって,そのあやまりをいっそう拡大させた。だが,ソビエト 心理学のこの分野の研究は,児童学批判以後,これらの概念を区別しながら,そ れらと社会的なものとの相互関係を研究するという方向を進んだのである**。
*K.K. nnaToHoB, Hpo6AeMbi cnoco6HocTe負,1972, cTp,123
**TaM>Ke, CTP,124.50年代にはいって,研究は,高次神経活動にかんするパヴロフ学説を心理学 のなかに方法論的にとりいれることによって,新しい展開をみせはじめた。人 間の発達における生物的なものと社会的なもの,遺伝的なものと獲得的なもの との関係が高次神経活動における無条件反射と条件反射との関係と結びつけら れて研究されるようになった。しかし,30年代の児童学の生物学的偏向に対す
る激しい批判やソビエトの遺伝学におけるその後のルイセンコ的わい曲などの 影響もあって,人間の発達における遺伝的なもの,生得的なもの,また生物的 なものに対する研究は全体としてめざましい発展をとげたとはいえなかった。
この問題が教育学と心理学の分野で大きな方法論的関心をひくようになり,論 議と論争が活発におこなわれるようになったのは,私の知るかぎりではようや
く60年代のなかば以後のことである。
すなわち,1969年のソ連邦教育科学アカデミアの教育学理論・歴史部会でコ ロリョフやプリプコ・一ヴァらが,人間の生物的なものと社会的なものの発達の 相互関係に対する教育の役割に注目し,とりわけ,生物的なものの研究を強調し
て,A. r. XpanKoBa, BHoπorHqecKoe H couHaJlbHoe B pa3BHTHn HΦopMHpoBaHHH
qenoBeKa《CoBeTcKaH ne八aroFHKa》1g6g, N・.3(ブリプコーヴァ「人間の発達 と形成における生物的なものと社会的なもの」)やΦ,Φ,KoponeB, BHoπor四e
cKoe H colluanbHoe B pa3BvaTMM qe・πoBeKa B OcHoBHblc HanPaBJIeHKva MeTo八〇no rHgecKHx HcJleAoBaHH B o6JlacTH HeAarorHKH 《CoBeTcKaH I−leAaromKa》 , 1969,N・.4,(コロリョフ「人間の発達における生物的なものと社会的なもの」)など
の論文を発表することになったこと,また心理学界でも,人格の問題にかんす
る1970年のシンポジウム(3月10〜12日)でこの問題が中心的な理論問題の一
つになったこと,またそ虞以前から,雑誌『哲学の諸問題』や『自然』などで,
現代人の心理発達における遺伝的なものと獲得的なものとの相互関係や遺伝的 前提における心理的なものと生理的なものとの相互関係にかんする問題が論争 のテーマになり,ドゥプロフスキー一,イリエンコフ,プラトーノブ,ブルシュ
リンスキーらがZL H,,Zly6poBcKvava, Mo3r H ncHxKKa(O Heo60cHoBaHHocTH ΦHJIocoΦcKoro oTpHUaHHH rlcHxotPH3HoJlorHqecKoti npo6neMbi《BonpocbIΦHJIoco ΦHH》1968, No.8.(ドゥブロフスキー「脳と心理」),
∂・B・HnbleHKoB, HcvaxHKa H Mo3r(OTBeT刀〔. H.丑y6poBcKoMy) 《BonpocbI (1)vanocotpliH》1968, No.11.(イリエンコフ「心理と脳」(ドゥブロフスキー一
への回答)
,[[,H,丑yopoBcKH藍, no HoBoAY cTaTH∂, B, HJIbeHKoBa《HcnxHKa H Mo3r》
《BonpocbiΦHπocoΦHH》,1969, No.3.(ドゥブロフスキー「イリエンコフ の論文『心理と脳』について」
B・n・・CM・p・…E・ile・P… M・3rg ・1 n・・x・K・《B・Hp・・HΦ・・…Φ・・》
1969,No.3.(スミルノブ「脳と心理再論」)
jM,几AxyHAoB, A, B, Ba》KHoB, M, C, CnyllKmb, HayqHaH 3HaqHMocTb−−
npe》KAe Bcero《Bonpocbl(i)MJIOCO(PHu》1970, No.8.(アフンドブ,バジュノ
ブ,スルツキー「科学的意義 とりわけ」)
A,B, Bpy】[HJIHHcKH銘, O HacneAcTBeHHblx npe双nocbmKax ncuxHqecKoro pa3BHTH∬
qenoBeKa《Bonpocbi OpMJIocoOpHll》1970, N・,9.(ブルシュリンスキー「人間 の心理的発達における遺伝的前提について」)
K・K・ IlnaToHoB, CouHanbHoe M 6HoπorHqecKoe B cTpyKType HqHocTM,
《BonpocbiΦ朋ocoΦHH》1970, N・.9.(フ゜ラトーノブ 「人格の構i造におけ る社会的なものと生物的なもの」)
B,H, CaroToBcKnti, OqeM cnop? 《BonpoH Φ湖ocoΦHH》1970, No.9.
(サガトフスキー「何についての論争か」)
などの諸論文を次々と発表したこと,こうしたことが,入間の発達における 生物的なもの,自然的なもの,生得的なもの,遺伝的なものの相違,またそれ
らと社会的なものとの関係,さらに能力と素質における生得的なものと心理的
なものとの関係,心理発達における個人的差異,などの諸問題に新しい研究の 照明をあてることになった。現在,人間の発達における生物的なもの又は自然 的なものと社会的なものとの相互関係の解明は,これらの諸問題をいわぽ全体
として含み込む形で展開されている*。
*これらの論議についてふれた著書は私の見たものでは,前記ByAHpoBa, nπaToHoB のもののほか,双,M,双y6poBcKH蕗, ncHxnvecKne fiBneHne H Mo3r,1971・があ
る。
ところで,本章でとりあげるテーマは,これらの論議のすべてではない。本 章では,前章から引きつづき明らかにしてきた,ヴイゴッキー学派とルピンシ
ュティソ学派の間のとりわけ「内化理論」をめぐる論争の文派のなかにこのテ ーマをすえてとりあえず論争の問題点を明らかにすることである。
(2) レオンチェフの見解
児童学批判以後,ソビエトの教育学と心理学は,人間の心理が遺伝によって 宿命的に決定されるとする諸見解と,それらの諸見解が心理学の上に導いてき た人種的民族的差別の思想に対して,科学的教育学と心理学,心理学の立場か ら一貫して批判してきた。そして基本的には,生物学主義を克服し,人間心理 の生物的・社会的決定の問題にたいして弁証法的決定論の方法を豊かにしてき たと大すじではいうことができる。しかし,人間の発達における生物的なもの と社会的なものとの相互関係の問題に対して二つの大きな研究路線がわかれて きた。ブルシュリソスキーは,従来からもこの問題にたいして研究を続けてき た1人であるが,彼が,最近発表した論文「人格の発達における生物的なもの と社会的なものとの相互関係について」でも,この問題について,方法論的に 一応の総括をおこない,この問題をめぐってレオソチェフとルビンシュティン
の間に見解の対立があったことをあげている。そこで,以下まず私なりにレォ
ンチェフとルビソシュテインのこの問題に対する見解を検討し,その後で,ブ
ルシュリンスキー自身の総括にもふれてみることにしたい。
さて,レオンチェフのこのテーマに関する代表的な論文は「人間の心理にお ける生物的なものと社会的なもの」(BHomrHqecKoe H couHanbHoe B ncvaxvaKe
qeJloBeKa, npo6neMbl pa3BvaTvafi flcllxvaKli, BTopoe va3AaHHe,1965.)(松野,木村訳
r認識の心理学』世界書院 所収)である。
レオンチェフはこの論文のはじめに,人間の心理的機能や能力の発達が一一つ の世代に定着し,さらに次の世代に伝えられていくメカニズムについて述べて いる。結論的にいえば,それは形態学的に継承される素質の形で発展するので はない。人間における生物学的遺伝の作用は,この4〜5万年の間に,すなわ ち最終的にヒトの現代型が生物学的に形成され,人類社会が歴史以前の状態か
ら歴史的発展の段階一客観的な社会法則の作用によって貫徹される過程一 へ移行してからは,人類がなしとげた心理発達の領域における獲得にたいして,
直接的には拡がっていない。人びとの能力の発達における成果は,特別な形で,
すなわち外的一対象的な形で,公開的な形で定着され,世代から世代へと伝え られていく(前掲者51ページ)。だから動物では生物学的遺伝の作用によって 達成されるものが,人間では,子どもの心理の「人間化」の過程によって達成
されるのである。そしてこの過程はすでに述べたように,個人による文化遺産 の習得(ycBoeHHe)又は占有(npHcBoeHHe)の過程にほかならない。したがっ て人間に固有の能力は,彼の脳に潜在的に存在しているものではない。潜在的 に脳に含まれているのは,あれこれの人間に固有な能力ではなくて,これらの 諸能力を形成する能力にすぎない。
いいかえれぽ,生物学的に遺伝された諸特性は人間においては「彼の心理機能 や能力を形成するひとつの条件にしかすぎない」(もちろんそれは重要な役割 を演ずる条件であるが)。そしてそれらの系は「生物学的特性によって決定さ れる」のではないが,やはり「生物学的な諸特性に依存している」。
ところで,人間形成を決定するもうひとつの条件は,レオンチェフによれば
「幾世代もの無数の人々が労働とたたかいにおいて創りあげた周囲の事物や現 象の世界」であり,「この世界こそ人間を本当の意味で人間にする」(84ページ)
レォソチェフはこのように述べたあとで,人間の高次心理諸過程を,形式と
内容の関係として規定している。すなわち,心理過程の形態学的「要因」に依
存する純粋に力動的なもろもろの特殊性は,それらの形式に,また,心理諸過 程によって表現される機能およびそれらの構造は,それらの内容に帰着させら れる。人間心理の過程の形式的側面は生物学的に決定され,内容的側面は社会 的に決定されるというのである。その場合,心理諸過程を決定する主要な側面 は,いうまでもなく内容的側面である。
ここでレオソチェフが強調していることは,かって児童学が主張したように,
生物的なものと遺伝的なものとを同一視したり,生物的なものと社会的なもの を形而上学的に分離して,それらのファクターを機械的に結びつけようとする ことへの批判である。レオンチェフによれば,遺伝によって伝えられる人間の 性質は生物学的特性生に依存している。しかし真に人間的な性質や能力は,生 物学的特性によって決定されるのではなく,なによりも,対象的活動をとおし て内化されていくのであり,その場合,生物的なものは人間の高次心理諸過程 を,したがって,人間に固有な能力の形成過程を形式として貫いているにすぎ ず,だから,生物的なものは,高次心理諸過程の内容的側面となることはでき ない。内容はもっぱら社会的に決定されるのである。
こうして,レオンチェフは,人間が生れつきそなわっているようにみえる,
したがって生物的・形態学的にのみ存在しているようにみえる能力が,実は後 天的に,したがって社会的に形成されることを具体的に聴知覚の分析で明らか にしようとする。
彼は,音の高さ(基本的周波数)を弁別する聴覚能力が,生得的ではなくて,
後天的に形成されることを証明するために,(→まず,被験者に,提示音の高さ に合わせて,声に出して歌うように要求し,その結果,発声を導入することに
よって,被験者の識別閾が低下すること,すなわち,音高がよりよく識別でき ること。⇔また,全く音高聴覚能力の形成されていない被験者(いわゆる音 痴)に対して,その声域内で与えられた知覚音を声に出して歌わせることによ
って,音高感覚が形成されていくこと。⇔そして最後に,被験者に,それと同
じ周波数の音を,圧力を音に変える装置の板をおすことによってつくらせなが
ら,聴覚器官の代わりに振動感覚器官をつかって,音高を識別することができ
ることを明らかにしている。
レオンチェフは,このような一連の実験によって,人間に固有な能力が,後 天的に獲i得される,一定の器官あるいは諸器官のはたらきの結果であるという 仮説を証明しようとしている。それを彼は,人間においてはじめて個体発生的
に形成される複雑な機能的反射系であるといい,「機能的器官」(ウフトムスキ ー)の形成として位置づけている。レオンチェフによれば,この「機能的器 官」の特性は,まず第一に,いったん形成されると,その後は単一の器官とし
て働くようになることである。したがってそれは,いかにも生得的能力のよう にみえるが実際はそうではない。第二に,その働きが安定していることである。
それは脳の細胞が連結される結果形成されるが,その結合はふつうの条件反射 のようには消去しない(例えぽ,手で触れて知覚される形態を手で触れなくて
も視覚する能力のように)。第三に,反射の単純な連鎖あるいはいわゆる 「力 動的ステレオタイプ」とは違った形成のしかたをすることである。その結合は,
運動性効果をもつ自立的な諸反射過程を単一の複合反射作用に統合するもので あり,それははじめ外的運動成分をもち,その後抑制され,行為全体が最初の 構造を変えてますます短縮化される結果,あたかもはじめから全一的な生得的 能力をもった器官として,機能する安定した状態が生れるようになる。第四に,
同じ課題にたいしてことなる構造によって応答することができることである。
このことによって,能力の補償作用のほとんど無限の可能性が説明される。
レオソチェフはこのような実験をとおして,人間に固有の能力が何よりも,
彼が生活する歴史的一社会的条件によって決定されること,したがって,能力 が生物学的遺伝によって宿命的に制約されるという見解がいかに非科学的なも のであるかを証明しようとしている。レオソチェフによる「機能的器官」の概 念の導入は人間の心理過程における生物的なものと社会的なものとの関係をと
くかぎとなっている。
(3) レオンチェフの見解の吟味とルビンシュテインの批判
このようなレオソチェフの見解を,ルビソシュテイソのそれと対置して,次
に明らかにしてみよう。
レオンチェフの見解は,人間の能力をその類的本質と結びつけ,社会的・歴 史的に把える上で,きわめて重要な視点を提出している。レオンチェフによれ ば,能力とは人間がある社会的に有用な活動をうまく遂行することのできる人 間的性質であり,それは,人間に共通の原初的な能力,たとえぽ聴覚感受性一 そのなかにはレオンチェフの実験した音高の聴覚感受性がふくまれている一と 結びついている。このような類的本質の神経学的土台が「機能的器官」である。
ところで,この「機能的器官」の重要性をみとめる点では,ルビソシュテイン はレオソチェフと共通している。このことは,ルビソシュティソが,さきにあ げたレオンチェフの聴覚実験をきわめて重視していることからも明らかであ
る*。
*ルビンシュテイソ「能力の問題と心理学理論の諸問題」rソビエト心理学研究』
No,20.長沢訳
ところでルビンシュティソによれば,人間の類的本質の基礎であるもろもろの 感受性*の神経学的基体は,無条件結合と条件結合との融合である。例えば,
ものの空間的性質や関係を視覚によって把握する活動は,複雑な感性的活動で ある。そのなかには,生得的な無条件反射的構成要素だけでなく,一定の活動 の過程で形成される条件反射的構成要素も含まれている。それは明らかに両者 を含む全体として機能している。
*この場合,このことぽをルビソシュティソは,広い意味で使っている。それは感覚 能力ぼかりでなく,情緒をも愛着をも含む広い意味に理解される感動を受けとる能 力,または力動的傾向を含んでいる。
「機能的器官」は,このような機能を遂行するのに適応した系にほかならな い。例えぼ,空間の性質や関係を知覚するには対象の像をつくり出さなければ ぽならない。つまり同じものを距離をおいてみても同じ大きさにみえるという 知覚の能力が形成されるためには,分析器のなかに神経学的,形態学的に定着 された機能一距離とものの大きさを調整して,その間を関係づける一が形成さ れねばならない。そしてそれは,具体的な心理活動をとおして形成される*。
*ルビソシュテイソr存在と意識』下,395−6ページ
こうして「機能的器官」のなかには,生得的なものを土台にして,すでに獲
得されたものがそれと一つに結びあわされている。人間の能力は,このような
「機能的器官」の形成を土台として,社会的活動によって発達していく。その 意味で「機能的器官」の形成は能力発達の重要な一つの段階である。ここで強 調しなければならないのは,「機能的器官」はすでに生物的なものと社会的な ものとの結合でもあるということである。それは神経学的機能の系であるとい
う意味では生物的であるが,同時に,社会的に決定される心理学的機能の系 であるという意味では社会的である。「機能的器官」は,形態学的に定着され た生理学的機能をも,後天的な社会的活動の心理学的機能をも表現している。
つまり「機能的器官」ということば自身が,生理的・生物的なものと心理的な ものとの統一を表現しているのである。ルビンシュティンはこのように論を進 めていく。
ルビンシュテインは,さらに人間の類的本質としての「機能的器官」の形成 を基礎に,それぞれの具体的能力の発達の土台になるところの,彼が「自然的 能力」と呼んでいる能力の形成を問題にする。
ルビンシュテインはこの「自然的能力」の発達を音楽的能力の発達にそくし て展開している。例えば,作曲家や演奏家が具体的に示す多様な音楽的能力の 基礎には,人間が世代のなかで受けついできた音楽を知覚するという類的本質
としての聴覚の一一ma的特質一聴覚的分析器による音の感受性一が横たわってい
る。音楽的能力の出発点となるこの感受性は,人によって鋭さに違いはあって
も, 「機能的器官」の一部である。しかし音楽家は,さらにそのうえに音楽的
活動の過程でこの音楽的聴覚のうえに,様ざまな音の連関を感じとる能力を定
着させていく。音楽家は音にたいする鋭い感受性をもとに,この世界に存在す
るさまざまな音の印象を能動的に交流し,それらの音を音楽化し,例えぽ母国
語にある音楽的構成や,民謡の音楽的構成や古典音楽の音楽的模範などから学
びつつ,音に関する能動的な自己の操作を身につけていく。そして,このこと
をとおして,彼はその一一般的な「機能的器官」だけでなく,具体的な音楽分野
の活動能力の形成においても,あたかも 「生れつき」「自然的」と見られるよ
うな能力の強固な部分をつくり上げていくのである。ルビンシュテインは,多
くの個別的な研究にもとついて,リムスキーコルサコフの聴覚の形成が,色彩
的感覚と結びついていた(例えば,ドミ,ソ,シは青味がかった(いくらか暗 い)金色,レ,ファ,変ラ,シは黄味,青味がかったすみれ色)のに対して,
ムソルグスキーのそれが言語的抑揚と強く結びついていたことを挙げている*。
*r存在と意識』下,409−410ページ。
これらの音楽的能力が「自然的能力」といわれるのは,ルビンシュテイソに よれば,音楽家の音楽的能力が,聴覚に強固な形で定着され,音楽家のあたか も「生れつき」の資産であるかのようにに転化するからである。
ルビンシュテインのいう「自然的能力」は,音楽家の文字どおりの,生得的 な聴覚的感受性がそのまま音楽的能力に投影されているのではない。それは音 楽活動によって社会的に獲得されたものに依存している。同時にルビンシュテ インは,「自然的能力」が,生得的なものや,その後の大脳の皮質活動の性質 に依存していないと結論することはできないことを強調している。ルビンシュ テインにあっては,「機能的器官」(一般的能力)のレベルばかりでなく,具体 的な活動分野における能力のレベルにおいても,生物的なものと社会的なもの が結合して,いわば,生れつきの能力にも比せられるような自然性を獲得して いくのである。
ルビソシュテインは,社会的に仕上げられた人間の諸活動の様式が一般化さ れ,そのなかに客観的にたくわえられている内容を捨象され,ステレオタイプ 化されることによって,反射的に作用する人間の自然的能力が発展してくるこ とを挙げて,社会的なものが彼のいう「自然的」なもの一社会的なものと生物 的なものの統一としての一に転化していく弁証法を強調している。
この点においてルビンシュティンの見解は,レオンチェフの見解と明白にく いちがってくるのである。私見によれば,二人の意見の相異は二つの側面にお いて明らかになる。
そのひとつは「機能的器官」の内容についての二人の見解の中にはやくも内 在していたものである。すでに述べたように,「機能的器官」が社会的なもの
と生物的なものとの統一であるとみる点では,レオンチェフとルビンシュテイ
ンは共通している。レオンチェフもルビンシュティソもともにそのことを強調
している。しかし,レオンチェフが音聴覚についての実験のまとめのところで
のべているように,機能的器官をもっぱら複雑な条件反射作用の結合としてみ ているのに対して,ルビソシュティンは,そこに無条件反射と条件反射のステ
レオタイプ化した結合をみている。例えばレオンチェフが第14回国際心理学会 の報告のなかで,人間のあらめる心理的特質と心理過程は「生存中に形成され る,大脳結合一条件反射の力動的体系の所産」であるとしたテーゼに対して,
ルビンシュテイソはそれらの無条件反射的基礎をも考慮に入れなければならな
いことを強調している**。
*11胆ToHoB, Hpo6neMbi cnoco6HocTetl,1972, cTp.126より引用。文献はA. H.
JIeoHTbeB, npHpoAa HΦopMHpoBaHHe ncHxMqecKvax cBothcTB H npoueccoB qeJloBeKa,《Bonpocbi noHxonorvaM》1958, No.1, cTp.24
**ルピソシュテインr存在と意識』下,396ページ
それは別のところでも,レオンチェフが「機能的器官」の形成における条件 反射結合の系を重視するあまり,客体の作用効果の特性を媒介する内的条件と
しての無条件的基礎を見おとしていることをルビンシュテインが批判している ことにもあらわれている*。
*ルビソシュテインr能力の問題と心理学理論の諸問題』rソビエト心理学研究』
No.20,8ページ
ここから,後天的に形成される人間の類的本質における生物的なものと社会 的なものの結合にたいする二人の見解の相異が明らかになる。一口にいえぽそ れは,生物的なものと社会的なものの結合のなかに,先天的に形成される無条 件的反射の系一高等動物にも共通する一を結びつけて考えるか考えないかの対
立である。
このことは,後にも述べるように,誕生時における先天的なものとその後後 天的に獲得されるものとの間の関係についての両者の見解の対立にも関係して
くる。レオンチェフが,獲得的なものから生得的なものを相対的にきりはなし,
生得的なものを生物的に比較的大きく依存するものとしてとらえ,それを社会 的なものに対立させるのに対して,ルビンシュティンが,生得的なものにおい てすでに生物的なるものと社会的なるものの相互作用を考慮していることが挙 げられる。
このことと関連して,両者の意見のもうひとつの相異が明らかとなる。それ
は後天的に形成される能力における生物的なものと社会的なものとの結合につ いての考え方の対立である。
すでに述べたように,レオンチェフは,心理的特質の発達における生物的な ものと社会的なものの関連を形式と内容の関係として規定している。これに対 して,ルビンシュテインは,人間の一般的な類的能力のレベルだけでなく,特 殊な分野の能力のレベルにおいても,あたかも「自然的なもの」へと転化して いく発達の構造があり,それを生物的なものと社会的なものとの統一において 把えている。誤解をおそれずにいえば,そこには社会的なものが生物的なもの へとあたかも転化していくかにみえる個体発達の法則への着目がある。ルビン シュテイソはこのことを「自然的能力」の形成における両者の内容の相互移行,
転化,統一としておさえている。
*ルビソシュテインはこのような「自然的能力」の形成の問題を,別のところでは個 人が具体的な活動に際して発揮する能力のなかにあたかも彼が「生れつき」もって いるような「一般的能力」の体系が結びついていると述べている。
(r一般心理学の基礎』第二版,645ページ)
ここでいう能力の「自然的なもの」とは,いうまでもなく,古い心理形態学 の構想のなかでくりかえしいわれてきた,生物体の神経系,脳の構造的特質の 強調と同じものではない。それは彼が自然的能力を社会的・歴史的条件と切り はなす人種論的形態学説に一貫して反対していることからも明らかである。社 会的一歴史的発展の過程で形成されていく人間の能力において,社会的なもの を自然的なものと対立させたり,社会的本性と自然的本性とを対立させること へのそれは批判であり,そのような対立を克服しながら,両者における関係の 科学的な追求一まだ基本的な視点とわく組みが示されたにすぎないが一を行お うとしているのである。ルビンシュテインの基本的命題は,人間の自然そのも のが歴史の所産であり,したがって,「自然的能力」は,系統発生においてだけ でなく,個体発生においても,社会的一歴史的に形成されていくということで
ある。
この点からみれば,レオンチェフのいう心理諸過程の決定における内容と形
式の関連はどうなるのだろうか。
周知のように,マルクス主義哲学においては,「形式」と「内容」の概念は,
すべての事物の運動にそなわるものをとらえる基本的カテゴリーとして位置づ けられる。一般に,事物の内容とは,それらの対象の部分(要素)や,それと その他の対象との相互作用の総体をさす。また形式とは,このような内容が内 部において組織されていることをさす。ことばをかえていえば,存在するすべ ての対象の諸要素やその過程をまとめて一定の存在や一定の過程にするものは 形式であり,そのようにまとめられているものが内容である。ところで唯物弁 証法の立場からいえぽ,形式と内容はたがいに対立し,矛盾しあう性格をもっ ている。形式が比較的固定されていて比較的変らない性格をもつのに対して,
内容は動的で移りゆく性質をもっている。内容が動的であるのに,事物を一定 の形態に保持させるのは形式にほかならない。しかし,内容が発展するにした がって,内容は自己の古い形式を棄てて,新しい形式を要求するようになる。
運動を主動するのはいうまでもなく内容である*。
*ΦopMa H coAep>KaHlie,(ΦHpocoΦcKHe li)HuHKnoneAHπ, T,5, cTp,383).,森宏
一,古在由重r哲学辞典』青木書店参照。
ところでこのような基本的原則から,レオンチェフのいう心理形成における 生物的なものと社会的なものとの関係を検討してみると,さきにみたようにレ オソチェフは,心理形成における比較的安定し固定したものとして,生物的な ものによる決定を挙げていることが明らかである。その場合,心理における生 物的なものは社会的なものによる決定が一つの過程をとおってあらわれる,い わばわく組みとしてとらえられている。それが,レオンチェフによって,生物 的な決定が心理形成における形式的側面とみなされている主な理由である。レ
オソチェフによれぽ生物的なものによる決定はヒトが今日のように成立してき て以来,ほとんどかわらないプPセスとしておさえられている。ホモサピエン スの生物的成熟をレオソチェフはそのようにみている。もちろん,それは,社 会的作用によって変化するが,しかしそれは社会的なものを決定的に動かすこ
とはできない。
レオンチェフによれば,生物的なものによる決定はあらかじめ定められてお
り,ほとんど社会的なものにしたがって現象するだけのものとしておさえられ
ている。しかし,私見によればこれは一般的に現象における内容と形式の関係 であるとはいい難い。たしかに形式は内容にくらべて変化しにくい。しかしそ れは,内容のいかんによらず,あらかじめ決定されているものではない。生物 的なものは,社会的なものによって今日もなお,個体発生の面でも形態学的に 動いている。社会的なものによって生物的なものが変化をこうむることは,胎 児に対する否定的な社会的作用が,胎児の生物的なものの成熟に大きな障害に なることをみても明らかである。
このことは,生物的なものと社会的なものとの関係を,内容と形式の関係と して規定するレオンチェフの哲学的基礎づけが,生物的なもののなかに彼がこ めた意味と必ずしも一致していないことを示している。
生物的なものは,心理過程の社会的決定に対して主導的な役割をはたさない・
しかし,生物的なものは,社会的なものと同様,人間心理の形成の過程を決定 する内容のひとつといわなければならない。社会的なものも生物的なものもと
もに人間心理の形成における内容の側面である。そしてこの内容の相互浸透に よって,個体における心理発達の形式一その構造と段階が決定される。
もちろん,通俗的理解がしぼしぼおち入るように,レオソチェフは,人間の 心理的性質を生物的なものと社会的なものとに機械的に分離し,両者を発達の 過程でつぎ木するようなことをしてはいない。しかしそこには,ルビソシュテ イソと違って,生物的なものが,誕生以前の段階から一貫して社会的なものに よって,また,社会的なものと統一されて具体的な内容をもって形成されると いうことへの着目が展開されていない。そしてこれが,ルビンシュテインの強 い批判のまととなっているのである。
(4) ブルシュリンスキーの見解
以上の問題はソビエト心理学界で現在もなお討論が続行されている問題であ
る。前述のブルシュリンスキー論文もこの論議を扱っている。それを次に紹介
しよう。ブルシュリソスキーは,その論文で,ルビソシュテインの見解を発展
させながら,レオンチェフらの意見に対してするどい批判を展開している。す
でに前節の記述からも予想されるように,彼の批判の中心は,レオンチェフの 理論が人間の心理形成のそもそもの最初から,自然的で,生物的な能力と,高 次の,特殊に人間的な,その起源において社会的・歴史的な能力を画然と区別 することに対してむけられている*。
*TeopeTHqecKHe r【po6・πeMH ncHxoJlorHHπHqHocTH,1974, cTp,99.
ブルシュリンスキーによれば,その場合,前者の能力には,条件結合をすみ やかに形成したり分化したりする能力や,音信号などを分析する能力がふくめ
られている。そしてこれらの能力の多くは,人間にも高等動物にも共通してあ るものであり,直接,生得的な素質(Bpo>KneHHble 3aAaTKH)を基礎に,活動の なかではじめて形成される。したがってそこでは,個人の生活の早い段階から すでに,心理の発達の外的条件と内的条件(とりわけ生得的な条件)の相互作 用の必然性がみとめられる。
ところが,これに対して,後者の能力,たとえば,言語能力,音楽能力,構 成能力などの発達においては,出発点となる内的条件,とりわけ遺伝的素質は,
直接的にはどのような特別の役割をもはたさない。その決定ははじめから外か ら行われるだけである (99ページ)。そこでは外的条件と内的条件の相互作用 は,心理発達の出発点からではなくて,その生活の引きっつく段階においては
じめてはじまるのであり,内的諸条件は,もっぱら外的作用の影響のもとで発 生し,じょじょに発達していく(99〜100ページ)。
ブルシュリソスキーは,ここでは,レオソチェフが,条件反射を形成する生 得的な能力と,誕生後,対象的活動のなかで形成される人間固有の能力をわけ て考えたことを2種類の能力の分離論としていっそう明確に把握している*。
*この把握の仕方にはレオソチHフがの能力のわけ方への批判のためもあってか,や やレオソチェフの見解を機械的に拡大したきらいがある。レオンチェフは,条件反 射などを形成する能力を全く生物的なものと考えていたわけではないが,ブルシュ リソスキーはこれを社会的なものに対してレオンチェフ自身が生物的なものと考え ていたように把えている。なお,レオソチェフは,人間に固有な能力が発達してい く潜在的可能性として,条件反射などを形成する能力を挙げているが,これと無条 件反射の形成の能力とを同一視していない。
ブルシュリソスキーによれぽ,レオソチェフにおいては,人間に固有の能力
を形成する潜在的な能カー生物的な諸特性に依存している一は,その後の諸能 力の発達の土台にはなっても,直接その形成をつくり出すものではない。起源 において外的なものだけが人間的・歴史的なものを形成し,後にそれが内的な ものになっていく。そして遺伝的なものは,最初の段階で,それらの出発点と なるだけである。そこには特殊に人間的なものはなにひとつふくまれていない。
つまりレオンチェフにあっては,はじめにおいて純粋に生物的なものは全く社 会的なものではないのである*(100ページ)。
*このブルシュリソスキP−一・の把握も,レオソチェフの見解を拡大しているように思わ れる。しかし,それはレオソチェフの見解にも原因がある。レオンチェフは,一方 で,脳に潜在的にふくまれているものは生物的なものに依存しているといいながら,
それを生物的に決定されたものとはみなしていない。しかし,他方彼は,人間は誕 生時には動物的であると述べ,誕生時にはもっばら生物的なものに依存していると 主張している。
このようなレオンチェフの見解にたいして,ブルシュリンスキーは,ルビソ シュテイソの見解を発展させながら,自説を展開している。彼は,ルピンシュ ティンが「自然的発達と文化的発達の概念を,おそらく延長して,人間の能力 自身を自然的なもの(生物的なもの!)と固有に人間的・社会的なものに分解 し,前者に対しては内的被制約性とらせん的発達をみとめ,後者に対しては,
外部からの決定だけをとり出すことができる」として「あたかも二つの特殊な 異なる部分からわかれてなりたつ人間の二重の特質を承認する」理論を批判し ていることを紹介して*,こうした能力の二元論に反論している(前掲書,100
ページ)。
*文献はC,刀,Py6HH田TeVIH, npo6neMbl o6rueti flcnxonorHpi, M.,1g73, cTp, 224.
ブルシュリソスキーによれば,人間に固有の能力が外部からだけ組みたてら れているという考え方は,人間のなかに,真に人間的な能力と非人間的な能力 が存存していることをみとめることである。そしてそれは必然的に,能力にお ける生物的なものと社会的なものとの二元論へと導く。それは,人間自然がま さに歴史の産物であることを否定する考え方である*。
*ブルシュリソスキーは「人間の自然そのものが歴史の産物である」というマルクス
の命題にたって,系統発生においても個体発生においても純粋に生物的なものと歴
史的なものとの二元論は採用されないと述べている。「社会的なものは,生物的なも のの上に建て増しされるのではない。それは生物的なものを変形させ,媒介し,発達 させるのである(85ペー・ジ)。そしてすべての場合に,若干の人類学者が今目でも 何らかの程度において,人間の生物的進化はもちろん社会的条件の影響のもとでは あるが,継続されているという仮定は充分にゆるされると述べている(89ページ)。
しかし同時にブルシュリソスキーは人間の系統的発達と個人的発達との間の相異に ついて述ぺている。人類の歴史は長い間に労働によって,動物から人間に進化して きたものであり,したがって,新生児もたんに生物,動物として生れるのではない。
それは動物でも半動物でもない。それはただその生命過程をはじめたぼかりではあ るが,まこうことなき人間であると述べている(同上)。
ブルシュリソスキーは,このような二元論への批判を,コスチュークの見解 のなかにもみている。すなわち,コスチュークは人間の能力を自然的なものと,
高次の,特殊に人間的なものに分割する見解に反対し,人格はその特殊に人間 的な能力において,自然的本質であることを止めはしないと述ぺている*。
T,C, KocTK)K,1 lcHxonorHqecKHe Bonpocbl coe八HHeH}1∬06yqeHHH H npoti3BoA−・
21HTeπbHblM Tpv八〇M,《BonpochI rlcHxoπorHH》1960, No.6, cTp,14.
こうして彼は,すべての人間的能力のもっとも重要な構成要素としての,思 考の過程自身が,人間の器官の成熟に依存する自然的過程であると述べたマル
クスのことば*を紹介して,二元論の克服を呼びかけるのである。
K,1>SapKc,Φ,∂Hrenbc, CoqHeHHH, T.32, cTp.461.
しかし,こうした二元論は,彼によれば,ソビエト心理学界で今日むしろひ ろがっている。例えば,心理発達の「真に人間的な」段階は,子どもの誕生の 瞬間からはじまるのではなくて,彼の生活のひきつづく段階においてはじまる
とするポジョヴィチの見解*がそうである(101ぺ・一…ジ注)。
JI, M, Bo)KoBHq, JIKqHocTb H eeΦopMKpoBaHHe B双eTcKoM Bo3pacTe,
CTP, 439. H np.
ブルシュリンスキーは,このような理論の根底に,社会的・歴史的経験の習 得(yCBoeHvae)が,子どもの心理発達の「人間化」または「ヒト化」の過程で
あるという見解をみている。それは,人間はその誕生のはじめにおいては,い かなる程度においても「人間的」ではないという見方,したがって,新生児は
まだ「動物的」または「半動物的」だとする考え方である。
ところで,このような考え方を典型的に示しているのは,すでに矢川徳光氏 が指摘しているように,レオンチェフである。レオソチェフは,1970年3月11日 の人格問題にかんするシソポジウムで,新生児はまだ「ズヴェーリ」(獣)であ
って人間ではない,彼は人間にならねばならないのであり,それが「人間化」
なのだということを主張している。そして矢川氏は,このレオンチェフの発言 が,ブルシュリンスキー,プラト・一ノブ,コスチュ・一クらの批判をよびおこし,
人格発達の一元的把握の方法論をあらためて提起したことを紹介している。
*矢川徳光r人格の発達と民主教育』45−50,71−2ページ。
ここで特記しておかねぽならないのは,ブルシュリソスキーがさきの論文の 中で,このような能力の二分論がすでにヴィゴツキーの理論の出発点になって いたことに批判の眼をむけている事実である。彼はその証左として,ヴィゴツ キーの次のことばを引用している。
r言語の獲得の瞬間から,子どものあらゆる内的発達は,動物的な局面か
ら,固有に人間的な(社会的な)局面へと移行する*。」
B,E, BaplllaB. H JI, C, BblroTcKmb ncMxonorHqeKHti CnoBapb, M・・1931.
CTP.205.