心理の形成をめぐる最近のソビエト心理学界の
論争について ︵その二︶
坂 元 忠 芳
三︑心理形成における内的なものと外的なものの関連をめぐって
川 心理の社会的決定における外的条件と内的条件との相互関連
前章で述べてきたことからも推察されるように︑ルビンシュテイソとレオンチェフの論争問題の中心は︑心理の決
定における外的条件と内的条件の関連についての両者の見解の基本的くいちがいであった︒レオンチェフによれば︑
心理発達の出発点と必要条件は︑外的条件によって決定され︑内的条件もまた︑外的条件からの作用によって発生し︑
発達する︒そして︑心理的なものは主として客体からみちびかれる︒矢川徳光氏は︑論文﹁人格心理学・人格教育学
の諸問題︵中︶ーソ連における最近の動向﹂︵﹃教育﹄一九七七年十月号︶ のなかで︑ レオンチェフが︑人間の達成物
の獲得は︑世界にたいする主体の事実的なかかわりあいの発展過程のなかで実現されるが︑このかかわりあいは﹁主
体﹂にも﹁主体の意識﹂にも依存しないで︑ ﹁主体がそこで生活している具体的・歴史的・社会的な諸条件﹂とその なかでの生活によって規定されると述べていることを紹介している︒レオソチェフによれば︑人間の心理発達の見と 2
おしは︑もっぱら﹁生活機構や生活体制﹂の問題である︒矢川氏は︑このレオンチェフの考え方が︑心理的・人格的
発達における内と外との決定要因の相互関連を否定して︑外からの決定要因を一面的に強調する機械論であると評し
ている︒矢川氏の批評するように︑レオソチェフの見解がはたしてそうなのかどうか︑ということについては︑レオ
ソチェフの見解にそくして︑たち入って論じなければならないがこの章ではさしあたって︑ルビンシュテインの云
うところをきくとところからはじめよう︒
一口でいえば︑ルビンシュテイソの見解の核心は︑心理決定における外的作用と内的条件との相互連関を︑発達の
はじめからつねにみとめるところにある︒ルビンシュテインは︑周知のように︑主著﹃存在と意識﹄のなかで︑すべ
ての現象において︑外的作用は内的条件を介して働くという有名な命題を提出し︑それを心理的なものの形成におい
て具体化している︒ルビンシュテイソによれば︑心理形成における外的作用と内的条件の弁証法的な相互連関は︑も
っとも単純な動物から︑高等動物︑さらに人間へと発展していくにしたがって質を変えていくが︑そのことをとおし
て内的条件もまた複雑になっていき︑人間に固有の内的条件の総体を形づくっていく︒したがって︑あらゆる心理的
なものの決定は︑内的諸条件を介しておこなわれるのであり︑それはつねに外的作用が︑それをとおして屈折して働
くところのこの内的条件の総体と結びつけられる︒だから︑ルビンシュテイソの見解では︑人間の系統発生において
も個体発生においてもそもそものはじめから︑外的作用と相互に関連している主体の作用をぬきにして︑心理の決定
はありえない︒そしてその際︑心理は人間が対象に働きかける活動を内において調節しながら︑外なる対象を反映す
る過程で︑形成されていくのである︒心理における外的作用と内的条件の相互作用は︑心理活動におけるこの調節と
反映の二つの役割によって具体化されるのである︒
ブディローワは︑さきの著書で︑このルビンシュテインの原理を︑とくに一節をもうけて解説している︵=二ニペ
30
ージ以下︶︒
すなわち︑ブディローワによれば︑外なるものと内なるものは︑心理発達の一つのプロセスのなかにふくみこまれ
て統一されており︑あれこれの外的作用の受容は︑その作用が働きかける内的条件によって条件づけられている︒し
かしそれと同時に︑その内的条件自身は︑外的作用によって︑つくられながらたえまなく変えられ︑ひきつづく外的
作用をうける際の発達の過程の流れの条件を変えていく︵ゴニ三ページ︶︒
ブディローワは︑その記述で︑ルビンシュテインの見解が︑何よりも心理発達の外と内の条件をきりはなす理論に
対立していることを強調している︒すなわちルビンシュテインの見解は︑心理の決定をもっぱら外的条件によって説
明し︑その内的規定性を全くみとめない考え方にも︑また心理の決定要因を全く個人の内部に移して︑心理的なもの の先天性をもっぱら強調する考え方にも︑ともに対立している︵二二二ページ︶︒
* ブディローワは︑さきの書物で︑ルビンシュテインとレオンチェフとに代表される見解の違いを紹介しながら︑レオンチェ
フにとつては︑心理の二重の役割︑活動の二重的性格の研究が必要であると強調している︒ ﹁︵他方にとっては︶︑内的な心理
的条件と外的に条件づけられた心理活動の内的合法則性の研究が︑同じように︑理論的・実践的活動の心理学的研究が︑基本
的課題である︒このような課題は︑人間と世界の相互作用における心理的なるものの位置︑心理の二重的性格ー客観的現実
にたいする反映的性格と活動にたいする調節的性格︑ーと同時に︑活動の二重的役割−反映の条件でありながら︑同時
に︑活動がこの反映によって調整されるーによって決定される︒﹂ ︵二七二ページ︶
こうして結論的にいえば︑心理のにない手11主体の問題に対して︑ルビンシュテイソの見解は︑レオンチェフのそ
れとはかなりニューアンスを異にしている︒レオンチェフによれば︑すでに述べたように︑︑心理的なものは人間の活動
の産物としての客体のなかには︑前もって心理が﹁肉体化﹂されており︵⑳O口﹄O巨①↓●⇔㍍o︶︑それが﹁占有﹂によって︑ ユ ﹁再肉体化﹂されて︑ふたたび人間のものとなったものである︒だから︑心理のにない手はもともと客体にあり︑そ 3
れが主体に内化されるわけである︒これに対してルビンシュテインは︑心理的なもののにない手は︑もともと行為の
主体である人間人格だけであると述べている︒ブディローワは︑ルビンシュテインにあって第一義的な意味をもつの
はなによりも人格であると述べているが︑それは︑内と外の相互作用が内的条件の総体である人格の形成を介してし
か働き得ないということを意味している︒
ルビンシュテイソは︑どんな任意の心理現象の解明の際にも︑人格は﹁すべての外的作用がそれを通して屈折する
ところの内的諸条件の全一的総体﹂︵窪臣飴ooodo×∨目oo↓ぴこ・=胃℃①臣国×∨20切富︶としてあらわれると述べてい
る辞 苦 ○°﹄°℃∨O臣巨弓而罫鐸コ盲エ貝§匡民自鴇民⑰的ω切国↓塁目9×O白O﹃§O昌゜一一メ ﹃心理学﹄︵上︶一六五ページ
これは︑いわゆる心理学研究における﹁人格原理﹂として︑ひろくソビエト心理学界で歴史的に承認されてきたも
のであるが︑ブディローワは︑このことについて︑ ﹁このような人格の理解は︑様々な心理的水準としての内的諸条
件をそれらの相互連関において研究することを要求し︑様々な水準の心理活動の合法則性を混同しないように注意さ
せ︑人格の構成要素︵×o目○は㊦胃︶が︑様々の条件に依存していることを解明する必要性︑その構造︵自苫×⊇官︶に
おける堅固な核︵∨自o書臣oo日Oo︶︑堅固な構成要素︵吉苔o茸国c・慧×o自o器工↓︶を解明する必要性を示唆してい
る﹂ ︵ブディローワ前掲書三一四ページ︶と述べている︒
ルビソシュテイソは︑のちに分析するように︑このような人格構造が︑人格形成の過程にあずかる様々なレベルの
心理活動の相互連関によってつくられていくことを強調して︑独自の人格構造論を展開するのであるが︑その流れ
をくむレニソグラード学派の人格構造論とレオンチェフの人格構造論とはするどく対立している︒その対比について
は︑のちに︑章をもうけてくわしく論ずるつもりであるが︑ここで問題になっている文脈からだけさしあたって︑レ
32
オンチェフの人格論をひと口に特徴づけると︑それは︑人格を︑具体的な社会的諸関係の中での活動の構造と動機の
階層性においてみる考えであり︑レニングラード学派が展開する︑神経的力動性をもふくむ人格の構造を全く否定す
る考え方である︒それは︑すでに両者の見解の対立の歴史的経過のところでもふれたように︑彼が何よりも対象的活
動そのものを心理学の直接の対象にして︑心理活動の様々なレベルの相互関係の分析を対象的活動の分析と切りはな
す傾向をもつものとして批判する︑彼の見解によく示されている︒それは︑いうまでもなく︑レオンチェフの﹁占有﹂
理論から直接導き出されるものであるが︑彼はこの立場から︑外的作用と内的条件との相互作用にたいするルビンシ
ュテインの方法を︑かってのSlR理論の変種としてきびしく批判するのである︒こうして論争は︑心理決定におけ
る活動の役割についての見解の対立へと発展していくのである︒そこで我々としては両者の違いをなによりも活動概
念の相異から考察していかねばならない︒
② 心理決定における対象的活動の役割
レオソチェフはすでにのべたように︑最近︑﹃活動・意識・人格﹄ ︵垣60o需﹄臣o自甘Ooω=臣国P垣↑田エoo↓〜﹂O誤︶
という著書を発表したが︑そのなかに︑﹁心理学における活動の問題﹂という論文が収録されている︒レオンチェフ
は︑そのなかで彼の活動論を展開しているが︑彼はそこで︑私の知る限り︑はじめてルビソシュテインを名ざしで批
判している︒
レオソチェフは︑論文の冒頭で︑ソビエト心理学が提起した一連の重要なマルクス主義的カテゴリーの一つとし
て︑ ﹁対象的活動﹂を挙げ︑これがそれまでの心理学のいわゆる﹁二項分析方式﹂のもっていた方法論的欠陥を︑根
本的に克服するものであることを強調する︒ ヨ レオソチェフにょれば︑様々な傾向をもつ従来の﹁唯心論的﹂心理学にしても︑行動主義的心理学にしても︑いず 3
れも方法論的観点から︑共通の欠陥をもっている︒それはひと口にいえば︑ω主体の受容系にたいする作用←②この 4 3 作用によってひきおこされる客観的および主観的な応答現象という二つの項から心理形成を説明しようとする傾向で
ある︒
それは︑前世紀の精神物理学や生理学的心理学では︑意識の諸要素とそれを生みだす様々な刺激の相互関係︵パラ \ メーター︶への注目となってあらわれ︑行動主義心理学では︑有名なS←R︵刺激ー反応︶図式となってあらわれ
た︒しかし︑ ﹁この図式の欠点は︑主体と対象的世界との現実的結合が行なわれる内容豊かな過程−主体の対象的
活動︵コ℃oいζゆ目飴い⇔ロコ需目国06目︶1>古宣⇔葺とは異なる↓位江σqパΦ津 を研究の視野から除いていることであ
る︒﹂︵ロΦO出弓●⑦ロロ↓鈎冨豪PO弓写べ朝︶
ところが︑ルビンシュテインの﹁外的原因は内的諸条件を介して作用する﹂という︑それとしては疑いもなく正し
い定式は︑もしも︑この内的諸条件が当の作用を受けている主体のその時の状態を意味するならば︑S←R図式のな
かに︑原則的に新しいものは何ももちこんではいないとレオンチェフはいうのである︒
レオンチェフは︑二項分析図式は︑その背後に﹁直接性の公準﹂ ︵コo自吉自工①コo︒℃Φい6↓・・巾臣oo昌︶︵ウズナーゼ のことば︶ー働く作用とそれを受ける主体とのあいだに媒介物をおかないという公理1をもっており︑そのこと
が︑その後の心理学の中に︑この図式を克服する根強い試みを生みだしたと述べ︑その代表的なものとして︑外的作
用の効果は︑外的作用の主体による屈折に︑すなわち主体の内的状態を特徴づけている心理的︽仲介変数︾︵口℃01
家①民鴇o貞匡⑦コ而℃Φ苦①臣匡o︶︵トールマンその他︶に依存するという考え方を挙げている︒そして︑ルビンシュテイ
ンの定式は︑この仲介変数の導入と基本的には変わらないというのである︒
* レオンチェフが参考にしている文献は︑垣゜エ゜×臣長ωPコo貝×o担o弓鵠頑⑦△苔㊦琴o﹄o戸ooロo臣四﹀ゴ這Φ◎百↓や窃︒︒である︒
レオンチェフは次のように述べている︒
﹁無生物でさえその状態をかえるときには︑他の物との相互作用において現われてくるではないか︒じめじめした
やわらかい土では足跡ははっきりと残るが︑かわいて固まってしまった土ではそうではない︒このことは動物と人間
でより明瞭にあらわれる︒空腹の動物は食物刺激にたいし満腹の動物とはちがった反応をするだろうし︑フヅトボー
ルに興味をもっている人間は︑その試合結果に関する報道にたいし︑興味をもたない人間とは全く別の反応を示すの
である︒ 仲介変数という概念の導入は︑疑いもなく行動の分析を豊富なものにしている︒しかしこの導入は︑すでに述べた
直接性の公準を少しも撤回させはしないのである︒問題はこういうことだ︒つまり問題になっている変数は︑仲介的
コ
なものではあるが︑しかし︑それは主体自身の内的状態という意味でのみ仲介的なのである︒﹂
矢川徳光氏は︑さきの論文で︑このレオンチェフのルビンシュテイン批判は︑全く正鵠を射ていないと論評してい
るが︑その場合︑レオソチェフのこの﹁主体自身の内的状態﹂の理解の内容に立ち入る必要がある︒そして︑さきに
挙げたルビソシュテインの内的諸条件の総体から人格を理解しようとする方向と︑このレオンチェフの理解の基本的 相違がどこからくるのかを解明しなければならな︐い︒
* 矢川氏はさきの論文でレオンチェフが﹁直接性の公準﹂の立場にたっていると論評しているが︑これはあやまりであり︑レ
オンチェフの立場はその逆である︒
だが︑いましばらくレオンチェフのいうところをきこう︒
レオンチェフは︑現代心理学は︑いま述べたような二項図式の各項の間に︑様々な媒介項を置く試みを続けたが︑
その試みが︑この公準の内部からいわれているかぎりは︑基本的には何も変化をおこさなかったといい︑その代表的
35
な例として︑ホワイトの文化学やランゲの心理学におけるサイ.ハネティクス・アプローチなどを挙げている︒例えば
ホワイトの文化学は︑人間と人間社会の発生によって︑それまでの︑有機体と環境との直接的自足的結合に代わっ
て︑言語的記号ーシンボルによる文化的刺激が生み出されたとするもので︑これによって︑人間の有機体1文化的刺
激−行動という三項図式が提出されているものである︒しかしレオソチェフは︑この定式化も︑結局は︑心理研究を︑
意識現象の圏内にとじ込めて︑文化的刺激−人間の行動という二項図式を根本的に変えるものではないと述べてい
る︒またサイバネティクスは︑制御と情報の理論によって︑生物的システムの過程と非生物的・機械的システムの過
程をひとしく扱う方法を生みだすことによって︑心理学に多くのものをもたらした︒しかし︑制御︑情報過程︑自己
調節系などの概念も︑結局︑刺激←反応という二項図式を複雑に媒介的にするだけで︑﹁直接性の公準﹂を廃棄する
ことができなかったと︑レオンチェフは述べている︒
こうして︑レオンチェフは︑この問題を解決するためには︑二項図式と決定的に異なる別の図式︑すなわち対象的
活動︵創qoσQo昌︒︒鼠ロ合昏弓餌誌σqパo芭の導入によって︑人間と環境とをつなぐ︑三項図式を提起しなければならないと
いうのである︒
レオンチェフは︑たんなる刺激にたいする行動や︑また活動を実現させる神経生理的過程ではなくて︑人間がまさ
に対象に能動的に働きかける活動そのものを︑心理学は対象にしなければならないと強調する︒そして︑客体の作用
−主体の活動とそれに応じた条件・目的および手段ー主体の状態の変化1という図式を提起する︒
﹁われわれは意識が周囲のもろもろの事物現象によって決定されるということを認める立場にたつか︵筆者注11二
項図式︶︑あるいは︑マルクスの表現によると人間の生活の現実的過程以外の何ものでもないとされるところの人々
の社会的存在によって︑意識が決定されると主張する立場︵筆者注⊥二項図式︶に立つかである︒﹂
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ここでレオソチェフが言おうとしていることは明瞭である︒すなわちそれは︑客体の主体に対する様々な反映の︑
意識のレベルにおけるメカニズムが問題なのではなくて︑そのような反映を主体にひらくものとしての︑具体的な対
象に働きかけ︑対象を変革しつつ主体自身が変革されていく活動そのものが問題なのだということである︒活動の結
果としておこる︑客体の主体への反映の意識的構造ではなくて︑反映を可能にする対象的活動自身の構造が問題なの
である︒ ︵そして︑後に述べるように︑この点が︑活動概念を同じように心理学に導入するルビソシュテイソの見解
と非常に異なる点となるのである︒︶
レオンチェフは︑活動について次のように述べている︒
﹁活動は肉体的︑物質的主体の生活の加法的単位︵e這§臣§o員臣芦飴︶ではなくて︑分子的︵ζo目℃臣泊︶単位
である︒もっとせまい意味︑すなわち心理学的水準では︑これは︑心理的反映ーその現実的機能は対象的世界にお
いて主体を方向づける︵O℃民6工↓国噂Oo口飴↓げ︶ことにあるーによって媒介された生活の単位である︒﹂ ︵前掲書⇔昌゜
。。ヒー︒︒N︶
レオソチェフは︑活動を刺激にたいするたんなる反応や反応の総体とは考えていない︒それは︑一定の目的を達成
するために︑一定の条件のもとで︑一定の手段をつかってする対象世界への能動的働きかけの総体であって︑ ﹁自己
の構造︵o弓oo呈ゆ︶︑自己の内的な移行︵目Φ℃o×o≒︶と転化︵コΦ℃oロ冨日Φ目o︶︑自己の発達をもつ系﹂である︒︵o弓゜
。。m︶
心理学はこのような生活の単位としての活動をその心理反映とのかかわりで研究するが︑レオンチェフによれば︑
その際まず︑このカテゴリーを全面的に︑最も重要な依存関係と被決定性︵ωOじd民口国﹈≦OO↓ぴ 寓 員⑦↓O℃﹈≦S工㏄貝民笛q︶におい
てとりあげなければならない・つまり活動の構造・活動の特殊な曇轡・活動の鍾と形態を研究しなければならな訂
い︒
③ 対象的活動の構造と心理的反映
ところで︑心理学はどのようなアスペクトと内容をもって︑活動のこれらの問題を研究するのであろうか︒ことば
をかえていえば︑対象的活動を研究する心理学の特殊性はどこにあるのだろうか︒
レオンチェフによれば︑人間の心理学は︑人間の活動の誕生と活動の内的構造を研究することによって︑心理的反
映の特性を明らかにする︒レオンチェフはこれを︑動物から人間へと心理の発達過程をたどりながら︑次のように試
みている︒彼によれば︑動物の心理の発達も︑動物じしんの活動をとおしての対象性の獲得によって展開されていく︒
心理的反映の形態の最初のあらわれである被刺激性︵ざ旨ぴ一犀9︶さらにそれの感受性︵・・⑦霧︷ず岸$・・︶や感受能力へ
の転化も︑動物の活動の発達による対象的内容の複雑化と結びついている︒レオンチェフは︑障害物を前にした動物
の心理的発達の例をあげている︒
例えば︑障害物にそって動物が動く場合には︑その動きは︑障害物の形に似てくる︒障害物を動物がとびこえる場
合には︑その動きは︑障害物の位置する客観的距離に従属してくる︒また障害物を動物がうかいする場合には︑その
動きは︑障害物とその他の対象間の関係に従属してくる︒こうして動物のなかに発達する心理的反映は︑動物の活動
の対象的内容の発達にしたがう︒
レオンチェフは︑対象的世界の心理的反映は外的作用によって直接に生れるのではないという︒そうではなくて︑
さきの例にも見られるように︑それは︑主体が対象的世界との実践的接触をおこなう過程︑したがって対象的世界の
独立的諸特性︑諸関係に必然的に従属せざるをえない過程にしたがって生まれるのである︒レオンチェフが︑発達が
もっぱら外的なるものによって決定されるといっているのは︑こういう意味である︒
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その場合︑活動は対象︵客体︶と主観的産物︵主体の︶の関係の力動性をそれ自身で表現している︒すなわち第一
に︑対象は︑活動の諸過程を制御する第一次の﹁求心化装置﹂︵阜合而℃⑦胃鵠○勺︶である︵対象←活動過程︶︒そして︑
活動の対象的内容を定着し︑安定化し︑自己にになう主観的産物としての対象の像が︑第二次的なものとなる︵活動
←その主観的産物︶︒つまり︑活動は︑対象に制約されるが︑同時に︑対象に自己の動きをあわせ︑対象の像を主
観のなかに生み出す︒その際活動は﹁対象←活動過程﹂という移行と﹁活動←その主観的産物﹂という移行とを同
時におこなうのである︒しかし活動は諸々の過程がその産物という形で移行することを主体の極でおこなうだけで はない︒第二に活動は︑客体を変形することによって︑その主体の動きを客体に刻印する︒活動の移行は主体の極
においてもおこなわれる︒活動は﹁主観的産物←活動﹂ ﹁活動過程←対象﹂という遠心過程を同時にふくむのであ
る︒
* ここの部分のレオンチェフの記述は必ずしも明瞭に展開されてはいない︒動物の心理の形成が客体のなかにどのように刻印
されていくかはここでは展開されていない︒そして客体に関する記述が人間活動の問題へと突然移っている︒
ところで︑レナソチェフは活動が抽こなう︑この主体から客体への移行は︑人間の場合にはいっそう明瞭におこ
なわれると述べている︒つまり︑心理的像によって調節される主体の活動は︑その客観的産物の﹁動かぬ特性﹂ ︵巨プo昌エ⑱団一σQΦ霧冨εへと移行するのである︒
* レオンチェフは︑これをマルクスの著作から引用している︒︵全集二三巻︑一九二ページ︶
ところでレオソチェフにょれば︑このような移行をふくむ活動の対象性のなかに心理の発達構造をみようとする見
地︑1すなわち︑心理の対象的本性についての見解は︑対象にかかわる心理の内容のなかに︑対象の認識ばかりで なく要求︵ロo巷而⑳ぎ自■︶や情動︵ω筈o長﹄・︶をも位置づける︒つまり︑認識過程だけがもっばら対象の心理構造への 3
移行としてとらえられ︑要求・情動過程は︑もともと主体に存在している本性が︑対象の圧力によって︑その表われ
を変えるだけの状態.過程としてとらえられて︑両者を活動の構造のなかで分離してしまう見解を批判する見地へと
導く︒ 要求や情動もまた︑活動と心理の対象性のなかに位置づけられるのである︒その場合︑レオソチェフは︑対象的世
界のなかで主体の具体的活動を方向づけ︑調節するものとしての要求ーレオソチェフによれば︑これだけが心理学
の本来の研究対象であるーを︑一定の方向をもったどのような活動をもひきおこすことのできない︑たんなる有機
体の欠乏状態としてのみあらわれてくる欲求から区別すべきだと述べている︒
. これはレオンチェフによれば︑ ﹁内的条件としての欲求﹂であり︑生物学的作用の活性化︑運動機能の充進︑方向づけられ
ていない探索運動にあらわれる運動領域の一般的興奮に限定される︒また情動の場合も︑主体の対象的活動と結びついた本来
の情動や感情が︑対象のない︑活動的に無力な状態と区別される︒
こうしてレオンチェフは︑動物には類似物をもたない︑たんなる有機体の生物学的な﹁心理的﹂性質から解放され
ていく︑人間的な心理の構造を問題にしていく︒つまり︑外的な︑感性的・実践的活動こそが︑人間の活動の発生的
に最も最初の︑そして基本的な形式であり︑このような活動を心理学の対象にすることが︑従来の心理学における意
識と外的活動の断絶を克服することになるというのである︒
しかし︑レオンチェフはここで重要な自問自答をおこなう︒外的実践活動はどのような形で心理学の課題のなかに
入ってくるのかと︒この最も重要なーそしてこの点にこそルビンシュテインとの違いもあらわれてくる問題につい
て︑彼は次のように述べている︒
﹁すべての経験的に与えられた実在と同様︑活動はいろいろな科学によって研究されうる︒活動の生理学を研究す
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ることも可能だが︑それと同じく︑また︑たとえば政治経済学あるいは社会学における活動の研究も正当である︒外
的実践活動は︑本来の心理学的研究から除外することはできない︒しかし︑この最後の命題は本質的にさまざまな理
解が可能である︒﹂
レオンチェフはこう述べて︑ルビンシュテインの活動概念のとり上げ方の﹁一面性﹂を指摘するのである︒
ルビソシュテインは︑すでに﹁マルクスの著作における心理学の問題﹂ ︵一九三四年︶という︑彼の理論の出発と
なった有名な論文で︑マルクスの﹁一八四四年の経済学・哲学手稿﹂のなかから︑人間的心理学について述べた部分
を引用しながら︑心理学のなかに実践的活動を導入すべきことを強調している︒マルクスは︑ふつうの物質的産業の
うちに︑人間的本質的諸力︵日雪︒・o法宮ゲo笥o°︒05育餌︷宮︶の開かれた書物を眼の前にもっていること︑この書物がと
じられたままの心理学はあふれるばかりの内容をもつ現実的な実在的科学となり得ないこと︑科学としての心理学
は︑人間的活動が広範囲にくりひろげた富を無視してはならないことを論じたが︑ルビンシュテイソは︑このマルク
スの思想を心理学がしっかりとうけとめなければならないことを強調したのである︒
ルビンシュテインは︑その後の論文でも︑心理学の領域に︑ ﹁心理的な﹂知的な活動だけでなく︑人々がそれによ
って自然をかえ︑社会を再構築していく実践的活動を含めなければならないことを強調したが︑しかし︑心理学的研
究の直接の対象を限定して︑それは﹁これらの活動の特異な心理学的内容︑その動機づけおよび調節﹂だけであり︑
さらに︑ ﹁これらのものによって︑諸行為は︑感覚・知覚・意識に反映された行為遂行の客観的諸条件に応じて行な
ロ ロ
われるようになるのであり︑そのような活動の特異な心理学的内容︑動機づけ︑調整﹂が心理学研究の対象となるの
だと述べたのである︒
* レオンチェフの引用による︒引用文献は﹃心理学﹄上巻︑六ニー三ページ︒○ロ゜で盲臣巳↓急評コ℃臣ロ国目匡国旨昌
41
℃80︒民↓国ロq目o国×o﹄oづ国拝﹂≦こ一8ぷ自⑰S°
レオンチェフは︑このルビソシュテインの見解を︑実践的活動を心理学的研究の対象にしている点では賛同しなが
らも︑それを﹁感覚・知覚﹂という形で︑一般的にいえば︑ ﹁活動の制御︑調整をその機能とする意識という形で登
場する活動内容によってのみ﹂そうしていることを一面的であると批判する︒そして﹁この主張は︑心理的反映その
ものである意識が主体の対象的活動によってうみだされる︑という根本的な事実を捨象しているからである﹂と述べ
ている︒ ルビンシュテインが︑レオンチェフの言うように︑このような事実を捨象しているかどうかは︑彼の意識論をたん
ねんに検討してみなければならない︒しかしとりあえずここでいえることは︑対象的活動と意識の形成の関係につい
て︑両者の見解は重大なくい違いを含んでいることが明らかだということである︒だがいましばらく︑レオンチェフ
のいうことをきこう︒
レオソチェフは︑外的対象的活動が︑心理学研究の前では︑ただその背後にある内的心的過程によって制御される
活動としてのみあらわれるという考え︑本来の心理学研究は︑活動自体を研究する平面に移らないでも前進するとい
う考えはまちがっているといい切る︒レオンチェフは︑外的活動が︑それを制御する心理的な像︑目的表象あるいは
目的の思惟的図式に一面的に依存している場合には︑この考え方に賛同できるが︑しかし実際はそうではない︒ ﹁活
動は︑必然的に︑人間に抵抗し︑活動を拒んだり︑変えたり︑豊かなものにしたりする諸対象との実践的接触をおこ
なわざるをえない︒いいかえると︑まさに外的活動において内的心理的諸過程の世界︵ス℃∨っ︶が︑いわば︑この内的
世界に高圧的におしいってくる︵口翻①∩↓=O bd℃Sed但弓ぴ6拍︶客観的対象的世界に向って︑開放される︵冨ω苦匡×毘国o︶ので
ある﹂と述べている︒
42
ここではレオソチェフは︑明らかに外的実践的活動が対象の抵抗をうけながら︑対象を変革していくダイナ︑︑︑ズム
を自己の展開のうちにもちつつ︑それが外的なものを主観のなかにひらいていく機能をもつものと考えている︒つま
り︑対象的活動は﹁対象的現実に主体を置き︑その現実を主観的形態に変換する︵巷①o㊤①ωo・︒飴国o︶という機能﹂
をもつものとして︑心理学の対象にすえられるのである︒
ところで︑外的実践的活動を心理学の出発点とするレオソチェフのこのような考え方は︑当然︑主観的形態に変形
されるものの発生⇔時婚へと導くことは明らかである︒ここでわれわれは︑レオソチェフの﹁占有﹂の理論をもう一
度想いおこすことが必要である︒すなわちレオソチェフは︑人間はその発達のはじめから︑対象的活動を方向づけ︑
調節する人間的欲求を︑歴史的遺伝をとおして次の世代にうけつぐのであるが︑それは︑文化の﹁占有﹂をとおして
はじめて具体的に発現するという考え方に導かれる︒レォンチェフによれば︑そのような発現は︑はじめは外的過程
をとおって行われるのである︒
活動は﹁その発達の当初の段階では⁝⁝必然的に外的過程の形をとる﹂ ﹁したがって心理的な像は︑主体と対象
的現実とを実践的に結びつけるこれらの過程の産物であることをここで証明する必要はあるまい︒初期の発生的段階
では︑心理的反映の本性と特質の科学的解明は︑これらの外的諸過程の研究を基礎にする以外不可能であることは明
白である﹂とレオンチェフはいい切るのである︵傍点筆者︶︒
しかし︑ここでレオソチェフが証明不要と考え︑明白であると考えていることをもう少しつきつめてみる必要があ
ると思われる︒というのは︑後に述べるように︑ルビンシュテイソの後継者たちは︑彼らの批判を︑レオンチェフの
この問題提起に向けているからである︒
すなわち︑活動がもし︑レオソチェフのいうように︑発達の最初の段階で︑外的過程の形をとるとするならば︑そ
43
の活動を発生させるところの人間的要求の前提となる内的条件は︑どのように形成されるのか︒少なくとも︑そのよ
うな要求の可能態がどのように主体のなかに形成されていくのか︑ということが当然明らかにされなければならな
い︒レオンチェフは︑対象的活動をひきおこす要求を︑たんなる有機体の欠乏状態としてあらわれる欲求と区別する のであるから︑当然︑そのような要求の発生の条件を明らかにしなければならないということになる︒
* この問題を︑個体発生のレベルで追求していけば︑人間的能力の遺伝のメカニズムの問題︑すなわち︑主体の発生における
遺伝子の結合の展開を問題としなければならないだろう︒精子は卵子のなかにおし入ることによって︑遺伝子を外から伝える
のであるが︑その作用は︑卵子の内なる遺伝状況をぬきにしては成立しない︒この点をめぐって︑内なるものと外なるものと
の発生と相互関係の問題を原理的に考察しなければならない︒
レオンチェフは︑この問題に対して︑後に﹁内化﹂をもって解明しようとするのであるが︑ここでは︑この問題
が︑こうした重大な理論問題を提起していることに注意をおくのにとどめて︑もう少しこの点についてレオソチェフ
の見解をきこう︒
レォンチェフは︑いまのべたような見地から︑外的過程の研究をおこなうことは︑行動主義のように︑心理の研究
を行動の研究にとりかえることではなくて︑心理の本性の非神秘化をすすめるためであると述べている︒ところで︑
このようにいうレオソチェフの見解には︑活動の発生の当初から︑内的なるものをみとめることは︑神秘的な﹁心的
能力﹂の存在を承認すること以外の何ものでもないというふくみがあるように思われる︒その際︑レオンチェフは︑
神秘的な﹁心的能力﹂とは︑主体の受容器に落ちてくる外的刺激の影響のもとで︑主体の脳の内部に︑つまり︑平行
的におこる現象の生理的な過程の次元で︑人間に世界を照らし出す一種の内的な光がおこる︑といったとらえ方だと
述べている︒ことばをかえていえば︑それは︑あたかも像の放射がうまれ︑それが︑その後で主体によって︑まわり
の空間に局在化され︑ ﹁客観化﹂されるかのようにとらえることだというのである︒
44
このレオンチェフの見解には︑さきに彼がルビンシュテイソのテーゼも結局はそうであると批判した︑あの二項図
式が心理学研究の上でどんなに複雑化され︑そこからさまざまな心理学的カテゴリーがゆたかに生みだされたとして
も︑それらはとどのつまり︑根底にこのような心理活動と心理的能力の神秘化を含まざるをえないという批判が横た
わっているように思われる︒
もっとも︑レオンチェフは︑ここで主体の内的条件をとおして屈折されるというそれとしては正しいルビンシュテ
インのテーゼが︑結局は︑このような心理的能力の神秘化への傾向をふくんでいることを︑あからさまに指摘しては
いない︒しかし彼は︑ルビンシュテインのいう内的諸条件の全一体がどのように形成されかという解明こそが心理学
にとって必要なのであり︑それは彼のように屈折を強調するだけでは解決されないということを言いたかったのだと
考えられる︒
このことから︑我々としてはさしあたって︑次のことを明らかにすることが重要な課題となってくるであろう︒す
なわち︑ルビソシュテインとその後継者たちは︑内的諸条件と外的作用の弁証法的な相互連関の究明のなかで︑内的
諸条件そのものの形成を具体的にどのように追求しようとしているか︒またレオンチェフについていえば︑彼はルビ
ソシュテインの活動論と内的諸条件の全一体において人格をとらえようとする理論を正しくとらえているかどうか︒
そこに誤解がないかどうか︒とくに︑ルビンシュテインにあって︑原則的には正しい命題がまだ充分に発展させられ
ていないことをとりあげて︑逆に命題そのものを間違っていると判断していないかどうか︒またルビンシュテインの
命題にたいして︑レオンチェフ自身が対置しようとしている対象的活動の理論が︑未知の部分を具体化しようとして
かえって一面性をまねいてはいないかどうか︒とりわけ︑さきにのべたように︑彼が人間的活動の初発をつくりだす ら 内的要求の発生をどのようにとらえているか︑総じてレオンチェフは︑主体の形成の問題をどのようにとらえている 4
か︑等々の問題の解明が必要になってくる︒ 6 4 ④ アンツィフェローワによるレオンチェフの活動論批判
アソツィフェローワはアブリハノーワとともに︑心理学研究の方法論に関する論文で︑これまで︑レオソチェフの
方法論をきびしく批判してきた一人である︒彼女はまた︑現代ソビエト心理学の方法論を諸外国の心理学の研究をふ まえて深めようとしている一人である︒
* 彼女にはこの分野で最近︑次のような代表的研究がある︒
ロ゜=°﹀国貝国◆唱8c︒二≦曽Φ噂§﹄吉旨えg吉国員gc︒8℃∨軌①美工o陣ロ2×o﹄o≡演HΦべ吟・
その彼女が︑ ﹁心理と活動の結びつきの原理及び心理学の方法論﹂︵ロ゜芦﹀=長◆ΦOOo︒ぶコO臣長コo切頴ω国月国×s臣
国い⑦胃o自工oo§=苦ゆ↓o戸o﹄o﹃§ロ§×o﹄o弓目︑文献10︶という論文で︑レオンチェフの活動論を批判している︒
アンツィフェローワはまず︑三〇年代以後の心理と活動︑意識と活動の相互関係にかんする研究の問題点を概括す
ることからはじめている︒ソビエト心理学界で︑はやくから︑この問題について提起したのはルビンシュテインであ
ったが︑彼は︑すでに述べたように︑マルクスの初期の著作から学びながら︑心理・意識と活動との﹁統=︵6い臣o↓ロo︶
タ ム の原理を発展させた︒しかし当時この﹁統=という術語は︑一般的に意識と活動とを研究においてしっかり結びつ
けるということ︑すなわち︑活動は意識なしにはありえず︑また意識は活動なしには存在しないということを意味す
るにとどまっており︑両者の具体的な関係を明らかにするものではなかった︒その上﹁統一﹂ということばのもつ欠
陥は︑それが何か全く自立的な二つの現象を結びつけるかのような印象を与えたことであった︵同書︑五九ページ︶︒
また︑心理過程は活動との﹁統一﹂においてのみ存在するという指摘が︑心理過程そのものは活動の特徴づけをもた
ないというあやまった結論を導くこともあった︒もっとも︑この結論は︑その後の実験的研究のなかで急速に否定
されていった︒さらに︑ ﹁統一﹂の原理は︑例えば︑発達の原理といった他の原理と明瞭に結びつけられていなかっ
た︒
その後︑活動と意識の統一についての研究は︑このような欠陥を次第に克服しながら︑活動から出発して︑そのな
かにあらわれる意識と心理のプロセスの解明へと向かっていった︒そして︑活動は外的なもの︑意識は内的なものと
おさえて︑その上で両者を﹁統一﹂する考え方が次第に改められていった︒ルビンシュテイソがのちに明らかにした
ように︑活動自身が外的なものと内的なものとの統一であって︑意識と心理は︑活動の内的な特徴づけであるという
見解がたてられていった︒そして意識と心理は︑ ﹁活動の側面︑あるいは引き離しがたい部分﹂であり︑活動は︑
﹁内側と外側から特徴づけられる若干の統一したシステム﹂︵=①×o弓︵壱飴偏﹄oo召塁⇔§↓o§×昌買↓ゆ言鵠而呂餌国寓
od
フ壱ゆ臣急国odエΦ巨出m■o↓oOo=g︶ ﹁その内部で心理が機能するシステム﹂︵↓o§︒↓o家ぶ臣鴇盲×○弓o喝息魯苫×−
員国o臣O∨o↓口⇔国×員①︶︵前掲書︑六一ページ︶とみなされるようになった︒
こうして研究は︑意識と活動を統一する心理研究のカテゴリーの発見へと向かった︒
ルビンシュテインは︑﹃一般心理学の基礎﹄︵一九四〇年︶のなかで︑たんなる意識でもなく︑たんなる活動でもなく︑
また両者の相互関係でもない︑心理によって調整される主体と周囲の世界との相互作用として︑﹁行為﹂︵いΦ=∩↓一W匡①︶ という概念を提出したが︑これは︑其の後︑様々な種類の統一した﹁活動﹂という︑より適切な概念におきかえられた︒
* アンツィフェローワは︑方法論が豊かにされ具体化されるなかで︑﹁心理研究の客体の現実的な単位︵O窪﹄臣飴①誉§唇︶
は︑行為それ自身ではなくて︑様々な統一した活動︵官ω§臣広oロΦsδn↓臣o垣⑦ぬ富﹄臣o⇔↓民︶である︒個々の行為の意味
は︑異なる動機によって動かされる︑様々な活動の体系のなかで︑直接対立するものへと変えられ得る︒行為は活動の小細胞
︵§Φ↓o貞㏄︶である﹂︵同上︑六二ページ︶という見解がたてられたと述べている︒ こうして意識・心理と活動との関係の問題は︑活動の対象的内容と構造の構成︵自℃∩い忌鶏ぎ08駕℃※臣s⑦国 4
Φもo㊦§o⇔弓苫×司旨ひ︼貝Φ国弓o﹄ひエo自=︶の研究へと具体化されていった︵六四ページ︶︒ 8 4 そして︑この研究を推進した代表者の一人として︑レオンチェフが登場するのである︒
すなわち︑レオソチェフは︑後に主体と客体の間の三項図式として位置づけられた︑活動を構成する三つのモメン
トー活動の動機︑目的︑条件というカテゴリーを提出する︒
彼の考えによると︑活動はまず︑活動するものの目的︵貝6﹄ぴ︶をふくむ︒そして︑それは当面する対象︵目ゆい家o↓︶
の変革のみとおしー未来の結果を意味する︒活動はさらに︑この目的の性格と対象の特殊性によって決定される︑一
連の活動の諸手段ー活動の道具︑方法iと活動を行うための人間の技能と習熟︵︶こ≦Φ=国⑳﹀ =飴口dぴ一×︶をふくむ︒そして
活動の対象と様々な活動の諸手段︑人間の知識・技能・習熟などは活動の条件を形づくる︒しかし︑活動の性格を決
定するのはなによりもその動機である︒目的は活動の当面する課題を提出するが︑それは活動のタイプを明らかには
しない︵前掲書︑六六ページ︶︒みたところ同じ目的が︑全く違ったさまざまな動機のもとで生れるということはよ
くある︒つまり︑人間がどのような目標にむかって努力するのかという活動の動機こそが︑活動のタイプを最終的に
決めるのである︒そしてそれはなによりも人間の要求︑願望︑関心としてあられる︒こうしてレナンチェフにあって
は動機︑目的︑条件が活動の対象的内容を形づくるものとされ︑この三つの構成要素の各々を特徴づける︑心理の単
位として︑活動︵トO国↓Φ自=O∩弓ぴ︶︑行為︵垣m青↓o︒国o︶︑操作︵o目o官長自q︶がえらびわけられるのである︒すなわち︑
活動が全体として動機によって性格づけられているとすれば︑行為は目的によって︑決定され︑操作は活動の条件に
応ずるとされるのである︵同︑六六ページ︶︒
この対象的活動の内容図式はレオソチェフに特殊のものであるが︑彼は︑各々のカテゴリーの違いを︑歴史の学習
をしている生徒の例を挙げて説明している︒もし生徒が︑明日ある試験に受かるために歴史の教科書を読むことに熱
り
中しているならば︑彼の学習は活動ではなくて行為である︒何故ならば︑この場合︑学習は本を読むという当面の目
的に関係しているからであり︑彼の活動としてあらわれるのは学習の動機をなしている試験の準備だからである︒
* アンツィフェローワは︑﹀°江゜ロ8工司ひゆPコ℃092記唱器c︒§§口o民§§≧こ一〇ΦOの文献を挙げている︒
しかしもしこれと違って︑生徒が︑歴史の本を読むこと自身に熱中しているならば︑彼の活動はまさに歴史につい
ての学習となる︒
さて︑アンツィフェローワは︑さきの論文で︑このような活動のシェマは︑非常に一般的であり︑極端にスタティ
スティックなものであるが︑それでもきわめて大きな方法論的意義をもっていると批評している︒というのは︑それ
は︑意識と活動の統一を活動の内的な構造としてとらえようとする重要な試みであると考えられるからである︒しか
し︑そのことはこのシェマが本質的な欠陥をもっていないことを意味するものではない ︵同︑六六ページ︶︒彼女に
よれば︑ ﹁その欠陥のうちのもっとも大きいものは︑提案されている︑活動の対象的内容の構造のなかに︑その結果
又は産物が欠如していることである︒﹂そして︑活動の産物が︑活動の種類またはタイプを決定するのは疑問の余地
のないことであり︑これこそが活動を行為や操作に分けることを条件づけるというのである︒そして彼女は次のよう
に述べる︒
﹁この欠陥は︑ソビエト心理学がすでに早くから︑活動の結果のなかに︑活動のプロセスそのものが︑人間の能
力と技能が︑体現されていること︑心理のこのような客体化︑人間の意識が︑彼の活動のいっそうの発達の条件で
もあるということについての思想を発展させはじめていたということによっていっそうパラドキシカルになってい
る︒﹂ ︵同上︑六六ぺージ︶ ここでアソツィフェローワが強調していることは︑活動の過程で︑人間は対象に働きかけ︑これを変化させていく 4
が︑同時に︑そのなかで活動の結果・産物として︑人間の主体の能力と技能を体現しつつあること︒活動の対象的内 0 5 容のなかに︑そのような主体の内面的な形成の過程を︑活動の一つ一つの結果として︵対象の変革の結果と同時に︶︑
体現していることを研究のなかにくみこんでいかなければ︑その全体をリアルにとらえることができないということ
であると思われる︒レオンチェフは︑活動を定式づけて︑ ﹁我々は︑所与のプロセスが︑全体として︑志向されてい
るもの︵その対象︶が︑あたえられた活動へと主体を動機づけるところの︑客観的なるもの︑つまり︑動機と常に合
致しているということによって心理学的に性格づけられているプロセスを活動と名づけている︒﹂︵﹀°コ゜ロmo胃●Φb・
コ℃09而家宮冨ωo︒国苔泊口o国×臣さ﹂㊤Oぷo司℃°凱四︒︒︶とのべているが︑この定式づけは明らかに︑レオンチェフが活動を
もっぱらそれが志向する対象からのみ導いており︵アソツィフェローワ︑前掲書︑六六ページ︶︑活動の心理的単位を
もっぱら対象にかかわる構造だけからひきだしていることを示している︒それは︑私のみるところ︑活動の過程で内的
な産物が活動の結果に体現されながら︑それ自身刻々に形成されていくことを充分みないで︑その内容を︑むしろそ
の活動の間は固定してしまう傾向をはらんでいるように思われる︵それは後になって内化されて主体のものになるの
である︶︒したがって︑この図式では諸手段のなかにふくまれる人間の知識にしても︑それまでの活動で習得した結
果としてだけとり上げられ︑活動のなかで︑習得され︑さらには創造されるところの動的に変化するものとしては
とらえられていないように思われる︒ところが︑このような内的な意識の発展︑すなわち︑アンツィフェローワによ
れば︑活動のプロセスがその中に体現している活動の結果そのものが︑その都度︑活動の発展の内的な連鎖をも形成
するのである︒つまり活動の連鎖はもっぱら活動の対象に外的にかかわるものとしてとらえられた動機や目的︑諸条
件によって条件づけられるばかりでなく︑内的に形成される心理自身によって条件づけられるのである︒こうしてア
ソツィフェローワは︑レオンチェフが提出する活動の環を形成する行為や操作などの概念が︑もっぱら︑活動がむか
う目標のみによって決定されていることを批判するのである︒おそらくアソツィフェローワのいうように考えなけれ
ば︑レオンチェフのいう活動が行為に︑行為そのものが活動に転化する原因を解明することは困難であると思われ
る︒例えば試験準備のためにおこなっていた歴史の学習が︑それ自身でおもしろくなって︑試験の準備には全く興味
を失ってしまうような生徒の意識の変化が︑どのようにして生れるかは説明することが困難である︒アンツィフェロ
ーワは︑レオソチェフの見解のなかに活動における内と外との弁証法的な相互浸透のリアルな考察の欠如を見てとっ
たに違いない︒
そしてアンツィフェローワの批判はレオンチェフのシェマそのものにもむけられる︒すなわち︑アンツィフェロー
ワは︑さきにのべたレオンチェフの一面的見解が︑活動の単位としての動機︑目的などを結果として︑図式的︑機械的
に分ける原因ともなっていると批判するのである︒彼女は次のように述べている︒
﹁さらに︑活動のあたえられたシェマのなかには︑活動の動機︵呂O司国co︶と目的︵貝oき︶とが︑根拠もなく︑す
るどく対置させられている︒しかしながら︑活動の動機そのものもまた︑より具体的な目的に従属する目的であ
る︒例えば︑ウズナーゼ︵垣゜コ゜之ω民昌ωΦ︶は︑あれこれの行為の動機をも目的と呼んでいる︒ウズナーゼは書いて
いる︒主体が板をけずっている場合に︑彼がそれによって学習しているのか︑労働しているのか︑または気晴しを
しているのかがまだはっきりしていないなら︑彼の行為をけずることとして定義することは︑彼の行動の本質を表
現しないことを意味する︒ことばを代えていえば︑彼がいかなる目的によって導かれているかは︑明らかではない
のであると︒﹂ ︵前掲書︑六七ページ︶
つまりレオンチェフがのべている動機と目的とは︑ある活動の直接の目的がよりさきの目的に従属している場合を ユ いったにすぎないのであって︑このように︑動機と目的とをするどく区別することは機械的だというのである︒そう 5
ではなくて︑アンツィフェローワは︑レオンチェフがいう動機と目的とを活動における相対的な目的間の関係として 2 5 とらえるべきだとのべ︑活動の構造を目的の構造の形成との関連で問題にするのである︒彼女はこのことを︑マカレ
ンコの見通し路線の考え方をうけて次のように述べている︒ システム ﹁ア・エス・マカレンコは︑人間のあらゆる活動にとって︑彼のなかにもっとも近い目的と遠い目的との体系が︑
存在することの意味を明らかにした︒これらの目的の各々は︑もちろん︑人間のあれこれの積極性︵飴×↓=弱=OO↓●︶
の動機︵﹈≦O弓国oロ︶としてもあらわれる︒この意味で︑行為の具体的な目的もまた︑動機づけ︵=o目o︒①長5︒︶の機能
をもっているのである︒﹂ ︵同︑六七ぺージ︶
アソツィフェローワは︑ある課題−目的を達成するための活動のなかから︑新しい動機づけが生れ︑それによっ て︑新しい課題−目的がうまれること︑したがって総じて活動にとっての課題−目的ー動機の相互の従属とヒ ジジ エラルキーが形成されることを主張し︑その場合︑レオンチェフのように動⁝機や目的が一面的に︑すなわち︑外なる をキ 対象によって一義的にきまるのではなく︑外なるものと内なるものの相互作用によってそれらが互いに関連し︑互い
に相互に浸透しつつダイナミックに形成されることを強調するのである︒
* 対象︑課題︑目的︑動機の概念をいっそう明瞭にする必要がある︒ここではさしあたって︑次のように区別しておくことが
必要である︒すなわち︑対象は︑活動がまさにそれにむかって働きかける外なるものであり︑それは︑活動の前後の関係から
すれば︑まさに課題としてあらわれる︒そうしてその課題は活動の主体からみれば︑まさに活動の目的としてあらわれ︑その
目的の内面的な意識化が動機なのだと考えられる︒ ︵この点については機会をあらためて動機づけ論を展開したい︶
** このあとでアンツィフェローワは︑くわしく検討していけば︑レオンチェフが︑人間と周囲の世界との相互作用のプロセ スを活動・行為・操作とわけたことの欠陥が同じように指摘されると述べている︒例えばレオンチェフの見解にしたがえば︑
インステイヂユ ト人が専科大学へ入学することを目的にして︑実習労働のために工場で労働するならば︑彼の労働は︑その動機が目的と一致し
ていないが故に︑ただ行為とのみ名づけられ︑活動とは名づけられないことになると述べている︒
芥芥幹 例えばレオンチェフによれば︑活動を決定する心理的単位である動機はもっぱら対象からみちびきだされる︒レオンチ
ェフは﹁心理学における活動の問題﹂という論文のなかで︑ある活動を他の活動から区別する基礎は︑活動の対象の相違にあ
り ロ コ ロ
るといい︑﹁私が提案した用語体系によれば︑活動の対象とは活動の有効な動機のことである﹂と結論づけている︒これは活
動の対象がその動機を一義的に決定づけているという明らかな指摘である︒もつともレオンチェフは︑ここで彼独自の用語体
系において動機ということばを使っており︑さきの論文の注でも﹁活動をひきおこし︑活動を自己に向ける対象︵物質的ある
いは観念的︶として動機をとらえるというこの狭い理解は︑一般に認められている理解とは異なるが︑ここではこの問題につ
いての論争に深入りする余地はない﹂とことわっている︒
ところがルビンシュテイソの動機論はこれとは違っている︒ルビンシュテインは確かに﹁外界の諸対象および諸現象は︑認
識の客体としてばかりでなく︑行動の動因としても︑人間のなかに行動への一定の衡動を生みだす鼓舞者−動機としてもま
た現われる﹂と述べている︵﹃存在と意識﹄下︑三三三ページ︶︒ここでは動機は内的なものとしてとらえられている︒
しかし︑アソツィフェローワによれば︑レオソチェフの理論はこのように多くの欠陥をもっているにもかかわら
イソストルメント ず︑心理学の研究の方法論にとって最も重要な道具を提出したものと評価されている︒それは︑ひとくちにいえば︑
それまでの心理学における個々の自己完結した心理的機能の記述に代って︑個々の目的を達成するために動機づけら
れた︑統一的な人間の心理の研究が提出されている点である︒つまり︑心理学研究において︑人間の活動が具体的に
目ざす対象や目的との関係で︑動機をはじめとする心理的な性質の相互の連関が︑明瞭な形で︑研究対象としてうか
び上ってきている点である︒にもかかわらず︑レオソチェフの見解がその活動の構造のとらえ方において︑心理的諸
性質を外的な対象の構造から直接みちびき出すという一面性におちいっており︑外的な対象が活動によって変革され
る過程で内的な心理的性質をも変革していくところの内的な構造の形成との関係で正しくとらえられていないところ
がアソツィフェローワの批判をまねいたのである︒私のみるところ︑それはルビンシュテイソにたいするレオソチェ ヨ フの批判に典型的にみられるように︑ルビンシュテイソの活動概念を︑対象と結びついた活動から切りはなし︑内的 5
な意識の活動としてのみみられているように描くことによって︑かえってみずからの活動の構造解明を一面的・機械
的にしているように思われる︒しかしそのことを明瞭にするためにもルビンシュテインの活動論をレオンチェフのそ
れと対比しながら︑もう少しくわしく解明していかなければならない︒そしてそのこととかかわって︑レオンチェフ
の﹁内化﹂理論を検討の対象にすえなければならない︒
54
四︑ルビンシュテインの活動と心理活動の概念をめぐって
① ルビンシュテインにおける活動の概念
今日︑ソビエト心理学で︑一般に﹁活動﹂︵垣⑦胃m学コo︒↓ひ︶とよばれる概念は︑一定の目的にたいして︑一定の動
機をもって︑人間が対象に働きかけて︑ある所産をつくりだす能動的働きかけのことを指している︒周知のように︑
ルビンシュテインは︑この﹁活動﹂概念の形成にあたって︑大きな役割をはたした︒彼は︑活動の概念の成立にとっ
て︑対象︑目的︑動機︑手段︑所産の定立が不可欠であることを早くから強調していた︒
すなわち︑彼によれば︑活動は︑周囲の現実に対する人間の能動的な関係のもっとも重要な形式である︒それは︑
なによりもまず︑その際に人間がたてている︑ある目的によって決定される︒と同時に︑その目的は︑人間の人格的
なある要求の充足である動機と結びついている︒ ﹁社会的・組織的人間活動の直接の目的となるのは︑一定の社会的
機能の遂行である︒個人にとっての活動の動機となりうるのは︑その人格的要求の充足である︒﹂︵ルビソシュテイン
﹃一般心理学の基礎﹄℃∨α自巨司o書︑○⇔出Oヒ︒匡Oα巨而■︼円民×90﹃=ぷ∩弓゜﹄O︒︒︶