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子どもと相互的な関係にある保育者の専門性とは

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原著論文

子どもと相互的な関係にある保育者の専門性とは

田代和美

大妻女子大学家政学部児童学科

What is the Professionalism of a Nursery Teacher Who Interacts with Children ?

Kazumi Tashiro

Key Words :

保育者の専門性,保育者の眼差し,子どもの眼差し,我と汝,ケアリング

要旨

本論の目的は、子どもと相互的な関係にある保育 者の専門性について検討することである。本論では まず、先に行った保育者の眼差しに関する研究にお いて不明確であった、保育者が省察において子ども の眼差しを振り返ることと保育者が感覚的世界の身 体を呼び覚ますこととの関係を文献を通して再検討 した。その上で子どもの姿に成長が見られた事例か ら、子どもが育つことと保育者が自分の眼差しを一 時的に脇に置いて、子どもの眼差しで物事を見よう とする姿勢との関係を読み解き、自分の眼差しを一 時的に脇に置いて、子どもの眼差しで物事を見よう とする姿勢を保育者の専門性の一側面として位置づ けた。最後に保育者が子どもの眼差しで物事を見よ うとする姿勢が保育者と子どもとの直接的なかかわ りおよび省察において果たす役割を、ブーバーの

『我と汝』を導きとしながら検討することを通して、

子どもと相互的な関係にある保育者の専門性につい て考察した。

はじめに

保育者養成の仕事に携わる中で、また保育の現場 で保育者の方々と一緒に子どものことを話し合う中 で、筆者は自分の眼差しを一時的に脇に置いて、子 どもの眼差しで物事を見ようとする姿勢が保育者に は不可欠であると考えている。田代(2016)では、

保育者の眼差しが変わるとなぜ子どもの姿が変わる のかを、意識の基礎となる感覚的世界の身体を論じ たメルロ=ポンティの著作を踏まえて検討した。そ の上で、保育者の専門性とは、子どもの姿には自分

の眼差しが書き込まれていると自覚し、省察におい て子どもの眼差しを自分の感覚的世界の身体を呼び 覚まして振り返り、かつ自分の眼差しを振り返るこ とで、子どもの眼差しに応じた眼差しを向けること であると考察した。具体的には、子どもが自分の眼 差しをどのように捉えているのかに保育者が気付い たことで子どもの姿が変化した事例を踏まえて、事 例における保育者は、自分の眼差しを一時的に脇に 置いて、自分の感覚的世界の身体を呼び覚まして子 どもの眼差しに移行し、子どもの眼差しで自分の眼 差しを捉えた。その結果、申し訳なかったというよ うな情動が働いたことで、眼差しが変化したと考察 した。しかし、この考察では保育者が感覚的世界の 身体を呼び覚ますことと保育者が子どもの眼差しに 移行しようとすることおよび保育者の情動が働くこ との関係を明確に記述できていないため、子どもの 眼差しの省察についてはさらなる検討が必要であ る。

本論ではこれらの関係を検討した上で、子どもの 姿に成長が認められた事例から、子どもが育つこと と保育者が自分の眼差しを一時的に脇に置いて、子 どもの眼差しで物事を見ようとする姿勢との関係を 読み解きたい。さらに、保育者が子どもの眼差しで 物事を見ようとする姿勢が、保育者の子どもとの直 接的なかかわりおよび省察において果たす機能を検 討することを通して、子どもと相互的な関係にある 保育者の専門性について考察したい。

1 他者理解と感覚的世界の身体

田代(2016)では、メルロ=ポンティの『見える ものと見えないもの』に基づいて、子どもと保育者

(2)

の関係を意識の基礎となる感覚的世界の身体が絡み 合う関係として考察した。大人である保育者の感覚 的世界の身体は意識に覆われていることが多いが、

子どもと共感している時には保育者の感覚的世界の 身体は呼び覚まされている。また保育後の省察にお いて子どもの眼差しに移行する際には、保育者は感 覚的世界の身体を呼び覚ましていると捉えた。山口

(2002)は、メルロ=ポンティと同様に、「ここ」と

「そこ」の区別が生じていない匿名的間身体性を、

自他の身体の区別が発生する基盤に位置づけ、この 匿名的間身体性は大人の日常生活でも働いていると 捉える立場に立つ。そして「自他の身体の区別がつ かないような下層が働いているからこそ、スポーツ を見て自分がしているかのような爽快感や、劇や映 画を見る楽しみ、また、人の悲しみが、自然に映っ てきたり、その場の雰囲気に包まれるといったこと が可能に」1)なったり、「人が泣いているのを見て悲 しくなったり、笑っているのを見て愉快になったり する」2)のだと述べる。

大塚(2009)3)は、フッサールの感情移入論の射 程を超えた、日常的に遂行されている感情移入の豊 かさと複雑さを論じる中で、他者の立場になって考 えるという言葉には、少なくとも以下の

3

つの場合 が想定できると 述べる。① 自分の視点や感情を一 方的に他者へと移入し、他者を擬似的な自己と見な す場合。② 他者へと自己を移入する場合。この場 合には、他者の視点や感情に自己を重ね合わせるこ とから、他者を単に認識することまで、さまざなレ ベルが想定される。③ 上記の山口(2002)の例に あるように、他者の視点や感情が自己へと移入して くる場合である。そして ③ の浸透的な意識の在り 方が、② の他者へと自己を重ね合わせる他者理解 を基づけていると述べる。

大塚が述べる ③ の浸透的な意識の在り方、つま り山口の述べる匿名的間身体性が基盤となる意識の 在り方が、② の他者の視点や感情に自己を重ね合 わせる他者理解を基づけていることを踏まえると、

② の他者の視点や感情に自己を重ね合わせて理解 しようとすることで ③ の匿名的身体性が働いて、

他者の視点や感情が自己へと移入してくると考える ことができる。田代(2016)では、保育者が感覚的 世界の身体を呼び覚まして子どもの眼差しに移行し た結果、子どもの思いが伝わってきて保育者の情動 が働いたと捉えたのだが、保育者が自分の眼差しを 一時的に脇に置いて、子どもの眼差しで見ようとす ること、つまり ② の他者の視点や感情に自己を重

ね合わせようとすること自体は、感覚的世界の身体 を呼び覚ます以前の、子ども理解を遂行しようとす る意識である。意識的に子どもの視点や感情に自己 を重ね合わせようとするプロセスで、それを基づけ ている感覚的世界の身体が呼び覚まされて、③ 浸 透的に子どもの感情が移入してくることで保育者の 眼差しが変わったと訂正する必要がある。つまり、

子どもの眼差しの省察においては、保育者が一時的 に自分の眼差しを脇に置いて、子どもの眼差しで物 事を見ようとするプロセスで、保育者の感覚的世界 の身体が呼び覚まされ、子どもの思いや願いが伝 わってきて、保育者の眼差しが変化すると訂正する 必要がある。

2 子どもの眼差しで物事を見ようとする姿勢 とケアリングおよび我汝関係

子どもの眼差しで物事を見ようとする姿勢につい ては、教育哲学者ネル・ノディングズ(1984)も、

ケアリング関係におけるケアする人の意識を論じる 中で取り上げている。田代(2011)では、子どもの 主体としての思いや願いを理解しようとする保育者 を養成するための手がかりを得ることを目的とし て、ノディングズのケアリングにおけるケアする人 のありかたについて検討した。ノディングズは、

empathy

の定義が「思い巡らす対象に身を置いて考 え、十分に理解する能力」と定義されている、つま り自分を相手に投影することとして理解されがちで あることを批判し、共感とは自己を他者に投影する の で は な く「 他 者 を 私 自 身 の 中 に 受 け 止 め

(receive)、その人と一緒に見たり感じたりするの である。私は二重になる」4)のだと述べる。ノディ ングズのケアリング関係におけるケアする人の意識 においては、受け止める姿勢が重要なのであるが、

この受け止める姿勢に関しては、以下のように述べ られている。「ケアリングには、私たちの個人的な 準拠枠を離れて、他の人の準拠枠に踏み入ることが 含まれる。ケアするとき、私たちは他の人の視点、

実在するニーズ、その人が私たちに期待することを 考える。私たちの注意、心的な専心没頭はケアされ る人にあって私たちにはない。」5)「あたかも、彼の 目と自分の目が一体になって彼の描く場面を見てい るかのようである。」6)「私が他の人を受け止めてい るとき、私はその人と完全に一体になっている。こ の関係は、さしあたって、ブーバーが『我と汝』で 述べた関係とまさに同じである。」7)「ケアする人は

(3)

子どもを受け止め、2人の目を通してケアされる人 の世界を眺める。マルティン ・ ブーバーは、この相 互に関連し合うプロセスを「包括」と呼んだ。ケア する人は、2元的な視点をもち、自分の極とケアさ れる人の極の両方から物事を見ることができる。も し、そうでなければ、子どもの教育環境を準備する ことは、非常に困難であるだろう。」8)これらのノ ディングズの記述は、前述した大塚(2009)の ① 自分の視点や感情を一方的に他者へと移入すること を投影として否定しており、ケアリング関係におけ るケアする人の受け止める姿勢とは、② の他者の 視点や感情に自己を重ね合わせようとする姿勢、一 時的に自分の眼差しを脇に置いて、相手の(子ど も)の眼差しで物事を見ようとする姿勢であると捉 えていることを示す。

ノディングズ(2002)では、同様に

empathy

投影という意味で理解されることを批判し、ケアリ ングにおけるケアされる人への注目(attention)の 感情的な状態をより綿密に捉えているのはむしろ

sympathy

であり、それは物の振動が他の物の共振 を引き起こす物体間の調和の関係として説明できる と述べる。またノディングズ(1984)では、受け止 めが生じる意識のモードについて、「受け止めるこ とは、基本的には知識の問題ではなく、心情と感受 性の問題」9)であると述べている。それは合理的な 客観性のモードではなく「感受的―直感的モード」

という「よく理解されていない過程によって、私た ちに対象を受け止めること、すなわち私たちをその 存在の中に静かに投入することを可能にする」10) である。またこの意識のモードは、「操作的な努力 をやめたときに偶然に生じうる」11)とも述べる。こ のモードは、相手(子ども)を対象化しない関係で 生じるモード、つまり本論での一時的に自分の眼差 しを脇に置いて、子どもの眼差しで物事を見ようと するモードであり、 それによって感覚的世界の身体 が呼び覚まされて、子どもの思いや願いが伝わって くることに重なる。これらのことから、ケアリング において受け止めるものとは、伝わってくる相手

(子ども)の思いや願いであると捉えることができ る。

ノディングズがケアリングの基盤として引用する ブーバーの『我と汝』における我汝関係について山 口(2004)12)は、人が他の人に対して、全身全霊で

「語りかける」ときに成り立つ関係であること。我 汝関係そのものが、理性の臨界で生じていること。

この関係が理性を包んでしまう、超理性的なもの、

言葉にならない、普通では理解しがたい逆説的事態 を含んでいると述べる。そして、この人と人との直 向きな向かい合いについて述べる中で、ブーバーの

「この我汝関係が、その偉大さと力強さを示すのは、

特に精神的な共通性がなくとも、各自が相手に特定 の人格として向き合い、相手を人格としてみとめ、

受容し、肯定し、相手の身になってある状況内の相 手にとっての体験を、その人固有の経験のプロセス をたどってありのままに現前化するときである」13)

という言葉を引用する。「相手の身になってある状 況内の相手にとっての体験を、その人固有の経験の プロセスをたどってありのままに現前化する」こと は、上記の大塚(2009)の感情移入の ② 他者の視 点や感情に自己を重ね合わせようとする他者理解に 重なる。保育者が一時的に自分の眼差しを脇に置い て、子どもの眼差しで物事を見ようとする姿勢をよ り具体化すると、ブーバーの述べる「その子ども固 有の経験のプロセスを辿ろうとすること」となり、

それは保育者が子どもと直向きに向かい合う我汝関 係の中で生じると捉えることができる。

ノディングズのケアリングにおけるケアする人の 受け止める姿勢、そしてノディングズのケアリング の基盤となっているブーバーの我汝関係における汝 固有の経験のプロセスを辿ろうとすることは、いず れにおいても前述の大塚(2009)における ② 他者 の視点や感情に自己を重ね合わせようとする他者理 解に重なる。保育者が自分の眼差しを一旦脇に置い て子どもの眼差しで物事を見ようとする姿勢、その 子固有の経験のプロセスを辿ろうとする姿勢は、子 どもを汝とする直向きな向かい合いの関係にある保 育者の姿勢であり、またそれによって感覚的世界の 身体が呼び覚まされて、その子の思いや願いが伝 わってくるのだと考えられる。

3 子どもが育つことと保育者がその子どもの 眼差しで物事を見ようとする姿勢との関係 上記を踏まえて、以下では子どもの姿に成長が認 められた事例から、子どもが育つことと保育者が自 分の眼差しを一時的に脇に置いて、子どもの眼差し でその子固有の経験のプロセスを辿ろうとする姿勢 との関係を読み解きたい。

ある園の

4

歳児クラスの

A

君は、3歳児クラスで 生活していたときには、保育者の指示を聞かずに集 団行動ができない子どもであると保育者に眼差され

(4)

ていた。3歳児クラスの

2

月には、散歩の前の集ま り時間に集まらずに積み木をいじっていたために

「Aちゃんは散歩に行かないのね?」と咎めるよう な口調で保育者に言われて「行きたい!」と応える が、そのまま積み木をいじり続けていた。保育者が

「今、何の時間?」と言って積み木を取り上げよう とすると「やめろー」と大声を出して長い積み木を 振り回す。積み木を取り上げようとする保育者から 逃げて走りながら「ベロベロバーだ。ほら見てごら ん、ベロベロバーだ」といってニヤニヤと笑ってい る。「危ないからやめなさい。」「散歩に行けなく なっちゃうよ」などと注意をされると目をつり上げ て「そんなことかんけーねえだろ」とすごむような 口調で応答したり、「できればね〜」ととぼけた口 調で応答していた。

4

歳児クラスになり、担任が替わってもこのよう な言動は変わらなかった。しかし以下の

5

月の片付 けの場面での

A

君と

B

保育者とのやりとりでは、A 君の姿に変化の兆しがみられた。

ままごとコーナーで棚から次々におもちゃを出し ていた

A

君は、片付けの時間になると近くにあっ たカプラ(積み木)の箱をひっくり返し、色別に分 けて立ててある色鉛筆立てをひっくり返すなどして 散らかし始める。B先生に片付けるように言われる と「B先生〜へたくそだから〜へーたくそ〜」と言 い、片付け始める

B

先生の邪魔をする。体を抱き かかえられると「やめてー!」と叫んで離れ、カプ ラを

B

先生に投げつける。B先生が「痛かったあ

A

ちゃん」というが、A君は聞こえていないふりをし ている。B先生が「Aちゃん聞いてるね」と言うと

A

君は「聞いてない」と応える。「聞いてるね」「聞 いてない」のやりとりを

2

度繰り返した後、B先生 は「聞いてるじゃん」と笑いながら言う。そして

「ほんとにもう、B先生怒っちゃう」と言うと、A 君は「ぜんぜん怖くないもんね〜B先生の怒り方

〜」と言ってさらに散らかそうとする。B先生が

「Aちゃんと、私、当分お話しできないわ」と言う

A

君は「私ってだーれ?私ってだーれ?」とか らかうように言う。このようなやりとりの後に

B

先生は「色鉛筆を一緒に片付けよう」と言うが、A 君は聞こえていないふりをする。「Aちゃん、やる ときはやって」と言う

B

先生に

A

君は「何を〜」

ととぼけた様子で言う。B先生が「色別に。色わか んないの?」と挑発するように言うと

A

君は「い いの。いいんだよもう、いいんだよ」と言ってニヤ ニヤしながらバイバイと手を振ってその場を離れて

いく。B先生が「次のことができませんよ」と冷静 な声で言うと、A君は「うるせー」と言ってあくび をしてから「なあんだよもーう!」と文句を言いな がら戻ってきて色鉛筆を片付け始める。そして少し 離れた場所で他の片付けをしていた

B

先生に向かっ て「一緒にやるって言ったのにめんどくせー」と言 う。それを聞いた

B

先生は「一緒にやりますよ〜。

A

ちゃんがやる気になってくれたらやりますよ〜」

と嬉しそうに言いながら

A

君のところに来て、一 緒に色鉛筆を拾って色別に片付ける。「めんどく せーこれめんどくせー」と言いながらも

A

君が色 鉛筆を色別に分けて片付けていると、B先生は「で もめんどくせーと言いながらもやっているからえら いじゃない」と笑いながら言う。

A

君は文句を言いながらも

B

先生と一緒に片付 けることを楽しんでいた。B先生は、A君とかかわ る場面で、叱ってかかわりを終えたり、かかわりを 拒絶することがなかった。A君とのかかわりにおい ては、時に挑発的な言葉をかけて

A

君のプライド をくすぐりながら一緒に楽しい場が成立するよう に、また

A

君とのやりとりや一緒に片付けること を楽しいと感じていることを表現していた。A君も 乱暴な表現ではあるが、B先生に自分と一緒に片付 けて欲しいと求める姿があった。これは

A

君が、B 先生は自分の求めに応じてくれる、自分は

B

先生 に応えてもらえる存在であると感じ始めている姿と 捉えられる。このような日々のかかわりを通して、

A

君は、A君の存在を好意的に見ている

B

先生の眼 差しを捉えて書き込むことで、自分は

B

先生に好 かれている、自分は

B

先生に思いを聞いてもらえ る存在であると感じ取っているのだと考えられる。

B

先生は、A君について「自分をアピールすると 絶対に怒られる(ことを繰り返してきた

:

以下括 弧内は筆者の加筆)けれど、あの年齢にしたら、

やって悪いことは大してしていない」ことを「わ かってあげたい。」「ダメというのではなく、もっと 自分の思いを出していいんだよと伝えたい。」「自分 を好きになってくれる存在が園にいると(感じても らえると)いうことがまず第

1」だと筆者に語った。

B

先生は、自分の応答については語ったが、A君を どのように理解しているかについては「自分をア ピールすると絶対に怒られる(ことを繰り返してき た)」以外には語ってはいない。しかし自分の応答 についての語りから、その前提としての

B

先生の

A

君についての理解が読み取れる。「やって悪いこ

(5)

とは大してしていないとわかってあげたい」という 言葉からは、悪いことをする子どもとして見られて きたという理解がある。「ダメというのではなく、

もっと自分の思いを出していいんだよ」という言葉 からは、自分の思いを出すと止められ、叱られてき たという理解がある。「自分を好きになってくれる 存在が園にいるということがまず第

1」という言葉

からは、自分のことを好きだと思ってくれる存在が 園にいないと感じているという理解がある。これら の理解に共通するのは、保育の場での保育者とのや りとりが、A君の眼差しにはどのように映っている のかを

A

君の眼差しで見て、A君固有の経験のプ ロセスを辿ろうとすることで感じ取ることができる 理解だという点である。保育者に逆らったり保育者 を怒らせたりすることになってしまう

A

君の行動 を、A君の経験のプロセスとして辿ろうとすること で、自分の思いを受け止めてもらえずに、悪い子だ と眼差され、それを捉えて書き込んでそうなってし まっていることが読み取れ、また自分のことを好き になって欲しい、自分の存在を受け止めて欲しいと いう

A

君の想いが、感覚的世界の身体で浸透的に 伝わってくるのだと捉えられる。その思いが伝わっ てくるから、B先生は「いつ

A

ちゃんに怒られる かびくびく」しながらも、「もっと自分の思いを出 していいんだよ」と伝えたい。悪いことをしている のではない、悪い子ではないと「わかってあげた い」。「自分を好きになってくれる存在が園にいると

(感じてもらえると)いうことがまず第

1」だとい

A

君への応答を導き出したのだと考えられる。

7

月のある朝、保育室の前で挨拶をするやいなや

B

先生が筆者に「先生、これ見て。Aちゃんが作っ たの、すごいでしょ」と画用紙に赤と黄色のビニー ルテープを貼って、鉛筆で線を加えたアンパンマン の絵を見せてくれた。A君が制作に取り組む姿など 想像がつかなかった筆者は驚きつつも傍にいた

A

君に「すごいねえ」と話し、アンパンマンの絵の胴 体に貼ってある黄色のビニールテープを指して「こ れは何?」と尋ねた。B先生は「私も聞いちゃっ た。おへそ?って」と笑いながら言った。A君は

「ちょっと来て」と筆者を手招きして保育室の奥に ある扉付きの先生用の物入れに行き、「ここ開けて。

先生じゃないと開けちゃだめだから」と言った。そ んな言葉を話す

A

君に驚きつつ筆者は「ちょっと 待ってね。B先生に聞いてくるね」と言い、B先生 に来てもらって物入れを開けてもらった。すると

A

君は、「あそこにある」と指を指して、B先生にア ンパンマンの紙芝居を出してもらい、紙芝居を見せ ながら、筆者が尋ねた黄色のビニールテープが、ア ンパンマンの胸についているマークであることを教 えてくれたのである。

プールに入った後、その絵はクラスでみんなに紹 介され、A君は嬉しそうにしていた。A君が物入れ から出してもらったアンパンマンの紙芝居は昼食前 の紙芝居のひとつとして読まれ、A君は一番前で見 入っていた。また昼食前には

A

君が、「そういえば 今日は誰も泣いていないねえ〜」と誰に向かってで もなく嬉しそうに話す場面があり、B先生も嬉しそ うに「ホントだーだあれも泣いていないねえ」と応 える場面もあった。その日の

A

君は、B先生に素 直に甘え、時に悪態をつきつつも、ストレートに好 意を表現していた。

B

先生の好意的な眼差しを捉えて書き込み、存在 感を得ることができたことで、A君には自分の思い をそのままに表現し、相手の思いを受け止めようと する姿や相手と相互にやりとりする姿が見られ、ま た好きな遊びに取り組んでやり遂げる姿も見られる ようになった。

B

先生は、「A君はアンパンマンが大好き」なの だと話した。戦闘もののヒーローが好きな男の子が 多い中で、意外にも幼めなアンパンマンが好きであ ることについて、B先生は「正義の味方でありた い、強くなりたい」と思っているけれど「戦闘もの のような暴力的なものへ怖さがあるのではないか」

と語った。行動や言動とは不釣り合いに

A

君がア ンパンマンが大好きだということを、A君固有の経 験のプロセスを辿ろうとすることで感じ取ることが できる

B

先生の読み取りとそれに伴って

B

先生に 伝わってくる

A

君の思いである。A君にとってア ンパンマンが大好きであることに込められた思いを 感じ取ることができるから、赤と黄色のビニール テープを用意しておき、制作に取り組めるようにし ておくという

B

先生の応答が導き出されたのだと 考えられる。

この間の

A

君の姿に認められた成長は、A君固 有の経験のプロセスを辿ろうとしたことで感じ取っ

A

君の思いや願いを受けて導き出した

B

保育者 の応答との間で生じたことであったと読み取れる。

換言すれば、A君固有の経験のプロセスを辿ろうと することは、B保育者が

A

君の思いや願いを受け 取る機能を果たし、受け取った

A

君の思いや願い

(6)

から

B

保育者の応答が導き出され、その

B

保育者 の応答があったことで

A

君の姿に成長が認められ るようになったと捉えられる。このことから、保育 者が自分の眼差しを一時的に脇に置いて、子どもの 眼差しで物事を見ようとする姿勢、その子固有の経 験のプロセスを辿ろうとする姿勢は子どもの育ちを 促す保育者の専門性の一側面として位置づくものと 考える。

4 子どもの眼差しで物事を見ようとする姿勢 から考える保育者の専門性

上記において、子どもの眼差しで物事を見ようと する保育者の姿勢は子どもの育ちを促す保育者の専 門性の一側面として位置づくと考えた。自分の眼差 しを一時的に脇に置いて、子どもの眼差しで見よう とする姿勢を保育者の専門性の一側面として位置づ けたときに、保育者の専門性とはどのようなものと 言えるのだろうか。以下では、この点をブーバーの

『我と汝』とノディングズの『Caring』を導きとし ながら考えてみたい。

(1)  直接的なかかわり(出会い)関係における子 どもの眼差しで物事を見ようとする姿勢 ブーバーの『我と汝』における<なんじ>とは、

<われ―なんじ>関係の世界にある他者であり、

<それ>とは<われ―それ>関係における、<わ れ>にとっての対象である。「<なんじ>は、働きか けるとともに、働きかけられるものとして現れ」14) 関係は相互的である。「わたしが<なんじ>に働き かけるように、わたしの<なんじ>はわたしに働き かける。…中略…われわれは子供や動物から教えら れることがある」15)とブーバーは述べる。

また<われ>と<なんじ>の出会いについては、

以下の記述もある。

「<なんじ>がわたしと出合いをとげる。しかし わたしが<なんじ>と直接の関係にはいってゆく。

このように関係とは選ばれることであり、選ぶこと である。能動と受動は一つになる。なぜならば、全 存在をもって行う能動的な行為は、すべての部分的 行為の停止であり─ただ部分的行為の限界に根ざし たものにすぎぬがゆえに、─すべて能動的行為とい う感覚が消えて、受動と似たものになってしまう。

根源語<われ─なんじ>は、ただ全存在をもって 語り得るのみである。全存在への集中と融合は、わ たしの力によるのではないが、またわたしなしには 生じ得ない。」16)

<われ─なんじ>関係においては「能動と受動は 一つになる」、また「全存在への集中と融合は、わ たしの力によるのではないが、またわたしなしには 生じ得ない」という記述を、保育者が子どもの眼差 しで物事を見ようとする姿勢と関連づけて考えてみ たい。子どもがいて、その子どもとの関係に入って いくことで保育者は保育者として存在する。子ども が存在しない限り保育者として子どもとの関係には 入れないのであるから、それは保育者の力によるの ではない。しかし保育者として子どもとの関係に入 ろうとするのは、保育者自身である。保育者として 子どもとの関係に入ることは、具体的には子どもの 思いや願いを受け止めてそれに応える関係に入るこ とである。子どもの思いや願いを受け止めるために、

子どもの眼差しで物事を見ようとすること自体は能 動的行為であるが、それによって感覚的世界の身体 が呼び覚まされて子どもの思いや願いが伝わってく ることは受動的行為である。そしてその思いや願い に応答するのは保育者であるのだから、応答は保育 者なしには生じ得ない。子どもと保育者との相互的 な働きかけの中で、子どもの働きかけつまり子ども の思いや願いを受け取った保育者の応答は、保育者 にウエイトを置けば保育者が導き出すと言えるし、

子どもにウエイトを置けば子どもの思いや願いを受 けて導き出されるとも言える。それが「能動と受動 が似たものになってしまう」ことだと捉えられる。

子どもの思いや願いにかかわらず、保育者が初めか ら応答の仕方を決めている場合、保育者の応答は能 動的行為であっても、子どもは保育者にとって対象 としての<それ>でしかない。子どもを<それ>と して対象化することなく、子どもを<なんじ>とす る相互的な関係にある保育者は、子どもの思いや願 いを受け取る受動的側面なしに応答することはでき ないのである。逆に言えば、子どもの眼差しで物事 を見ようとする姿勢を一側面とする保育者の専門性 とは、子どもを<なんじ>とする相互的な関係にあ ることとなる。

(2)  省察における子どもの眼差しで物事を見よう とする姿勢

ブーバーの『我と汝』においては、直接的なかか わり(出会い)ではなく過去を振り返る省察におけ る子どもと保育者の関係は、<われ─それ>関係に 相当する。

「真の存在性は、現在の中に生かされ、対象性は 過去に生きる。」17)また「個々の<なんじ>は、<わ れ─なんじ>の関係が終わりに達すると、<それ>

(7)

とならなければならない。個々の<それ>は、関係 のなかにはいってゆくことにより、<なんじ>とな ることができる。」18)さらに「<なんじ>は、働きか けるとともに、働きかけられるものとして現れるが、

しかし因果の鎖にはめこまれることはなく、…中略

…ただ<それ>のみが秩序づけを行うことができる のである。事物は<なんじ>から<それ>に変わる ことによってはじめて、並列的に整理することがで きるようになる」19)と<なんじ>と<それ>の関係 について述べている。

ブーバーに従えば、<なんじ>としての子どもに ついての省察では、子どもを<それ>として対象化 して整理し、理解することになる。直接的なかかわ り(出会い)ではなく、<それ>となった過去の子 どもの姿の省察において、保育者が子どもの眼差し で物事を見ようとする姿勢をどのように考えたらよ いのだろうか。

ノディングズ(1984)はケアリング関係において、

心情、感受性を働かせて相手を受け止めることから 応答することへの間に考えることへの転換点がある と述べる。相手のありようは分析され、研究され、

解釈されるデータになるのである。しかしその際に も客観的な思考をケアリングの中核である関係的な 関心に結びつけておく必要があると述べる。転換点 以後は<それ>として相手(子ども)を理解するの だが、しかしその際にも相手(子ども)の眼差しで 物事を見る姿勢が併存していることになる。上述の

B

保育者の

A

君についての語りにおいても、A君の 眼差しで物事を見る視点と客観的な視点が併存して いた。ノディングズの記述も

B

保育者の省察も共に、

<なんじ>として相手(子ども)との関係がある上 での<それ>としての相手(子ども)の理解である。

しかし筆者が関与する省察(カンファレンス)にお ける保育者は、子どもと<われ─なんじ>関係に入 れずに、子どもが<それ>として対象化されている 場合が多い。直接的なかかわりの中で<なんじ>と して子どもと出会えずに、子どもが<それ>として 対象化されている場合には、ブーバーに従えば省察 を経ても<なんじ>としての子どもに出会うことは できないことになる。しかし子どもを<なんじ>と する相互的な関係にあることを保育者の専門性とし たときには、その子どもと<なんじ>として出会え る省察が必要になる。ブーバーもノディングズも、

我汝関係やケアリング関係に入るには我々の姿勢が 重要であることを示唆するが、どのようにすれば我 汝関係に入れるのか、ケアリング関係に入れるのか

について述べてはいない。

しかしブーバーは認識について以下のように述べ ている。

「認識とは、向かい合うものと互いに見つめ合う ことによって、存在の本質が、認識する者に明らか になることである。認識を行う者は、現存として見 つめていた存在を、やがて対象として把握し、これ を他の対象と比較し、系列の中に秩序づけ、客観的 な記述を行い、分析しなければならない。<それ>

として把握しなければ、認識を存続させることは不 可能である。しかし、存在とわれわれが互いに見つ め合うことによって、存在は事物の中の一事物で も、過程の中の一過程でもなくなり、まさに現存的 となる。存在は現象から抽出された法則によって知 られるのではなく、存在自体が現象の中に自己を告 知することによって知られるようになるのである。

…中略…概念的知識による<それ>から、存在を取 り戻し、再び現存からながめるひとは、人間のあい だにおいて現実的に働きかけているあの認識行為の 本来の意味を実現することになるであろう。」20)

ここでの「互いに見つめ合うこと」や「存在自体 が現象の中に自己を告知すること」、「再び現存から ながめる」ことは、<それ>ではなく<なんじ>と して直接的にかかわる関係でのことを指している。

しかし「互いに見つめ合うこと」によって認識行為 の本来の意味が実現されるという記述からは、「互い に見つめ合うこと」が可能になる省察が重要である ことが導き出される。直接的なかかわりにおいて

「互いに見つめ合うこと」ができない場合に、省察を 経た後に<なんじ>として子どもと出会い、「互いに 見つめ合うこと」が可能になるためには、省察の中 で努めて子ども自身がどう見ているのかを意識化す ることが必要だということが導き出される。具体的 には<それ>となっているその子の眼差しで物事を 見ようとすること、その子固有の経験のプロセスを 辿ろうとすることである。省察はあくまで過去の出 来事を振り返ることであり、直接的な出会いではな い。省察の中での子どもはあくまで<それ>である。

しかし過去の出来事を子どもの眼差しで振り返って みることで、想像の中でではあるが、<それ>とし て対象化された子どもの「存在自体が現象の中に自 己を告知」して<なんじ>性を帯びることになる。

それによって次に出会うときに<なんじ>としての 子どもに出会いやすくなると考えることができる。

(8)

専門性とは、一般的にはその職種特有の知識 ・ 技 能を有することと定義される。保育所保育指針

(2008)では保育士の専門性を、倫理観に裏付けら れた専門的知識、技術及び判断と明記し、保育所保 育指針解説書(2008)21)では

6

項目の「専門的な知 識 ・ 技術」が解説されている。しかしそれらの専門 性を有することのみでなく、有するそれらの専門性 を一時的に脇に置き、子どもの眼差しで物事を見よ うとする姿勢をも併せ持つことが、子どもと相互的 な関係にある保育者の専門性と言えるのだと考え る。

引用文献

1)

山口一郎.現象学ことはじめ 日常に目覚める こと.日本評論社,2002, 248

2)

同上.249

3)

大塚類.施設で暮らす子どもたちの成長 他者 と共に生きることへの現象学的まなざし.東京 大学出版会,2009, 26

4) Nel Noddings. Caring : A feminine approach to ethics and moral education. University of Califor- nia Press, 1984, 30

5)

同上.24

6)

同上.31

7)

同上.32

8)

同上.63

9)

同上.32

10)

同上.34

11)

同上.30

12)

山口一郎.文化を生きる身体─間文化現象学試 論─.知泉書館,2004, 123-

124

13)

同上.144

14)

マルティン ・ ブーバー.我と汝 ・ 対話.植田重 雄訳.岩波書店,1979, 41

15)

同上.24

16)

同上.19

17)

同上.21

18)

同上.46

19)

同上.41

20)

同上.52

21)

厚生労働省.保育所保育指針解説書.フレーベ ル館,2008, 19-

20

参考文献

Nel Noddings. Starting at Home : Caring and social policy. University of California Press, 2002

田代和美.ネル ・ ノディングズのケアリングにおける

ケアする人について─ケアする人としての保育 者を養成するための手がかりを求めて─.大妻 女子大学家政系紀要.2014, 50, 49-

58

田代和美.感覚的世界の身体を生きている子どもの傍 らに在る保育者の専門性とは─メルロ=ポン ティの『見えるものと見えないもの』に基づい て─.日本家政学会誌.2016, 67(10)

, 545

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参照

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