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と「社会的なもの」との相互関係をめぐ

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人間の発達における「生物学的なもの」

と「社会的なもの」との相互関係をめぐ

って(その2)

一心理形成をめぐる最近のソビエト心理学界の  論争について(その五)一

坂 元 忠 芳

一、素質をめぐる見解の対立

 これまで述べてきたことからも明らかなように,ソビエト心理学では素質

(3anaTKZ)の概念が従来からも承認されてきた。しかし,遺伝的,生得的な能 力と,誕生後に社会的,歴史的に形成される能力との間にどのような相互関係 が存在するかについて,多様な意見があることと関連して,素質の内容と構造 についても見解が分かれている。

 ブルシュリンスキーは,さきの論文のなかで,「人格の発達の遺伝的前提に おける生物学的なものと心理的なものとの相互関係について」という章をもう けて,とくにこの問題を論じている。

 *O cooTHo皿eHHH 6HoJlorHqcKoro H collHam)Horo B pa3BHTHH JIHqHocTH,

 BKH. TeopeTHqeKHe npo6neMbi ncKxonorHvaπngHocTH ,cTp.105以下  そこでさしあたり,この研究にそって問題構造を明らかにしてみよう。

 ブルシュリンスキーによれぽ,30〜40年代のソビエト心理学における生得的 なものと獲i得的なものとの相互関係の問題は,とりわけ,人間能力の深い考察を

この時期にはじめたチェプロフ(6.M. Teq,・mOB)の論文に多くをおっている。

 チェプロフは,「能力と才能」(cfioco6HocTH H oAaperlHocTb 1941)という有 名な論文のなかで,能力の発達の基礎に横たわる素質は生得的なものであり,

それは,能力の「解剖学一生理学的特殊性」(aHaToMo・−tpva3HonornqecKne oco6eH−

HOCTb)であるという有名な命題を明らかにした。(前掲書105ページ)*

(2)

  *原文はBpo》KAeHHblMH MopYT 6blTb nHmb aHaToMo−Opva3HonorHqecKHe

 oco6eHHocTH・T・e・3aAaTKH, KoTopble Jle>KaT B ocHoBe pa3BHTHfi cnoco6HocTe最,

 caMva》Ke cnoco6HocTH BcerAa flBnfiroTcfl pe3ynblTaToM pa3BHTHfl.「解剖学一生  理学的特殊性,すなわち諸能力の発達の基礎に横たわる素質だけが生得的でありう

 る,諸能力自身はつねに発達の結果である。」B.M. TennoB, Hpo6neMbi llHAKBK−

 ・[IYa bHblx pa3・πHqH勇,1961. cTp.11。)

 この命題はひとくちにいえぽ,生得的なものは,もっぱら解剖学一生理学的

      

なものであって,そのなかには心理的なものは含まれていないという見解であ る(106ページ)。ブルシュリンスキーは,この見解が,その後のソビエト心理 学でひろく行われてきたことを挙げ,それが能力の「生得説」を克服する唯一 の方法だと考えられてきたことを紹介している。つまり,生理学的なものぼか

りでなく,直接心理的な性質が素質のなかに含まれているとすれば,心理的な ものの生得性をみとめねぽならないというわけである。

 しかし,その後,素質の問題にたいして,本質的にこれとは違った解決の方 向をとる研究者がでてきた。

 例えば,コヴァリョフ(A.T. KoBaJieB)やミャシシチェフ(B. H. MflcHllleB)

らは,もしも素質を人間の解剖学一生理学的特性とだけ考えるならば,素質が,

その後,心理的なものに,すなわち能力に転化することを説明することは困難 であり,素質のなかに心理的なものの萌芽がすでに含まれているとする見解を 導入する方向むかっている*。(105ページ)

 *文献は,A. T. KoBaneB, B. H. M∬cM−eB, ncHxHqecKvae oco6eHHocTH

 ueJloBeKa, JI・・1960, cTp. 45−46, va Ap.

 フルシュリソスキーによれば,コスチュークもまたそのような方向をとって おり,彼は,素質を解剖学一生理学的カテゴリーとしてだけでなく,心理学的 カテゴリーとしても考察しようとしている*。そして,その際,彼は複雑な無 条件反射(本能)のなかで,生理学的一身体的なものと,心理的なもの(例えば,

飢え,性欲,怒りなどの強い情動体験)とをわかつことは不可能だとするパヴ ロフ学説に依拠して理論を展開している。(106ページ)

 *文献は,r. C. KocTK)K, HcvaxonorvaqecKHe Bonpochl coenvaHeH朋06yqeHHfl c  npoH3BoAHTeJIHHHhlM Tpy八〇M・《BonpocbI ncvaxonorHM》,1960,レlo.6, cTp.15.

 こうしたなかで,ブルシュリンスキー自身も,人格の遺伝的前提のなかにす

(3)

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でに心理的なものの存在を否定することはできないという見解をとっている。

 ところで,ブルシュリンスキーによれば,チェプロフに代表される見解,すな わち生得的なものは生理学的なものとして,また獲i得的なものは心理的なもの

としてあらわれるという見解とこれらの見解との対立を克服するためには,心

      e      

理的性質についての基本的なテーゼー心理現象は,個人と外界(外的作用からは

       

じまる)との相互作用の過程ではじめて発生するという一テーゼを検討しなけ ればならない。このテーゼは,一口でいえば,与えられた個人における心理的な ものの発生は,それと外的世界との最初の「出会い」に根拠をもつが,いかな

       e   

る場合にも心理的なものは内的条件が外界の作用をうけて発生するとするもの である。これは,外的なものと切り離された,内的な愛着(BJIeqeHHe)からも

っぱら心理的なものが発生するとするフロイトの学説とは対立するものであり,

ルビソシュテインが,心理形成における弁証法的決定論で強調したテーゼであ

る*。

  *ブルシュリソスキーはその際,ルビソシュテイソのつぎのことばを引用している。

      e の      e      e  

   「実際には,その客観と結びつけられることによってのみ,愛着は,多かれ少なか

       e              

 れ不定の傾向から,現実力に転化するのである。初等的な生物的要求に帰着しないと  ころの,志向や感情における客観の役割はいっそう顕著である。……現実の事物や現

 象は,このようにして心理現象の発生そのものにそもそものはじめから参与しており,

 心理現象は,まさにこれらの事物や現象を反映している。」(傍点筆者r存在と意識』

 上,241〜2ペー一…ジ)

 ところでブルシュリンスキー一一・によれば,その場合,検討されねぽならないの は,心理的なものの発生における最初の外的作用の重要な役割を重視する見解

      

が,外的なものと内的なものとの相互関係を,人間の誕生以前と以後との境界 でとりわけ性格づけるといる点である。(108〜9ページ)もしも心理的なもの

が,この境界で,すなわち,個人の誕生の瞬間から発生するとすれば,もっと も単純な感覚や感情の発生に導くところの,基礎的な刺激,信号,客体(光の,

触覚の,音の,味の)などが最初の外的作用として位置づけられることになる。

生活の最初から,人間にたいする外的世界の作用は,誕生以前に形成された複 雑な内的諸条件によって媒介されることになる。その場合,内的諸条件とは,

いうまでもなく,大脳の解剖学一生理学的システムであり,とくに,誕生以前

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に形成された生理学的素質である。

 そして,この考え方にたてば,例えば,もっとも原初的な諸感覚でさえも,

定位反射にとどまらず,誕生後に形成されるところの,特別な条件反射を前 提とすることになる。ルビソシュティソのいう「種々の感覚の特殊性」は,

明らかに,「さまざまな刺激にとって共通の定位反射によっては決して説明 することはできない」ということぽをここでブルシュリンスキーは引用してい

る*。

  *ルビンシュテイソr存在と意識』下,268ページ,訳は原文によって若干あらため  てある。

 したがって,ここでは,各種類の感覚にとって基本的な意義をもつのは,そ の感覚にたいする特別な条件反応であり,それは,無条件的な,生得的な,遺 伝によって強化されていると同様に,条件的な,獲得的なものとして,もたら

されるものとされる。(109ページ)

 フルシュリンスキe−・一・は,このような特殊な感覚の発生を,視覚を例にあげて 説明している。例えぽ,視覚装置(3PHTe」lblHblth npn60p)の,全く特殊な無条件 反射的反応をひきおこすのは,光の外からの作用によってもたらされた眼の光 覚細胞(CBeTOqYBCTBHTe」lbHblVI KneTOK)における視紅の分化であり,遺伝性に

よって定着されるこのようなタイプの反射が各分析器の反射活動(条件反射)

の発生学的基盤(reHeTvaqecKmb ocHoB)を形づくる。そして,このような発生 学的基盤のうえにはじめて,もっとも初歩的な心理現象(感覚)が,外的な光 の作用の影響のもとに発生することになる。

 こうして,ブルシュリンスキーは,心理的なものが誕生後に発生するとする 立場からすれば,人間の心理の発生は次のように説明されるというのである。

 「この場合には,もっとも簡単な心理現象は,遺伝的,そして生得的な素質

      .      e         

      の発生的基盤の上に,最初の外的作用の影響のもとに発生する。後者(遺伝的,

生得的素質)は,誕生以前にただ解剖学的,生理学的なものとしてのみ形成さ れるものであって,その後の子どもにおける心理的なものの出現へと導くとこ

       

ろの,あらゆる外的作用を媒介する心理的内的条件としてはまだ形成されてい

ない。」(109ぺe・一・・ジ,傍点筆者)

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ところが,このような意見にたいして,素質をたんに生理学的なものとしてで はなく,生理学的一心理的なものとしてみるという考え方をたてると,問題はも

っと複雑になってくる。この立場にたつ人々には,心理的なものの最初の発現

      

は,出生後ではなくて,個体発生(受胎)のかなり早い時期に,すなわち,誕

      

生の瞬間以前の最初の数ヵ月にすでにおこるというのである。(110ページ)

 ブルシュリンスキーは,この点での実験と観察は,厳密にはむつかしく,ソ ビエト心理学界でもまだ,系統的な形ではやられていないが,しかしそれは,

きわめて興味深い研究テーマであると述べている。

 ブルシュリンスキーによれば,個体発生における誕生以前の時期は,きわめ て特殊なものであり,発達の他のすべての段階に比べてより類似性をもたない 事は,原理的には明らかである。彼はこれを,生れてくる人間と外的環境との 相互作用のごつの水準一生理学的水準と心理的水準から考察している。

 生理学的観点からは,誕生前の子どもの発達は,正常な妊娠の場合には,一般 に,外界から或程度まで相対的にきり離されて進む。胎児に必要な栄養をはじめ,

胎児の発達の諸条件は,外界からではなくて,母親の体内から獲得される。こ

      

うして,胎児の外界からの相対的な隔離は,その最初の解剖学的一生理学的発

達をさまたげるよりは助けることになる。その結果,出生以前の段階におけ

       

る子どもの解剖学的一生理的発達は,おそらく或程度まで,自然発生的に 進む。したがって,妊婦の「戦略」は生れてくる子どもを,できるだけ,外界    

からくる直接的な刺激から守ることにあるとされる。

 ブルシュリンスキーは,こう云いながら,この点にこそ出発点における,生 理学的なものと心理的なものとの間の基本的な差異が現れるのだと述べている。

(110ページ)

 ところで,心理的なものは,生理学的なものと違って,発生的にはずっとおく れて登場するぼかりでなく,発生の最初から,外的世界とはなれがたく結びつ

いている。心理現象は外的作用とともにはじまる。(110〜111ページ)そして,

後に述べるように,その外的作用は,誕生の瞬間からではなくて,誕生以前の 段階ですでに胎児に影響を与えるのである。ブルシュリソスキーは,心理的な

ものは,外界との関係においてはじめて生れるという反映論の立場にたって,

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生得的,遺伝的素質が,解剖学一生理学的形成であるばかりでなく,心理一生 理学的形成でもあるという問題を解決しようとする*。

  *ブルシュリソスキーは,「このような(外界との)関係の欠如は,心理的なものの  欠如を意味する。こうしたことが反映論の核心である」と述べている。そして,この  決定論の原則は生得的一遺伝的素質が,解剖学一生理学的形成であるばかりでなく,

 心理一生理学的形成でもあるという,ここで考察している観点と絶対に相いれないよ  うに対立するかのようだと述べている。そして,心理的なものに対する普遍的な性格  づけを主張する見解のもとで,次のようなあい入れない二者択一がおこなわれてきた  ことを明らかにしている。すなわち,一方で心理的なものは誕生以前の時期に,素質

       

       

      

 のなかにすでに発生するが,それは外的世界との何らかの本質的な関係の外で,自然  発生的に発現するという見解。他方で,外的世界と心理的なものとの関係は,心理的  なものの発生をまさに性格づけており,したがって,心理的なものは,外的世界の作  用がはじまる誕生初期の時期より以前には決してあらわれないとする見解。ブルシュ

 リソスキt−一・は,この対立の克服を強調するのである。

 その際,ブルシュリンスキーは,胎児における純粋に生理学的なものから生 理一心理学的なものへの発展の道すじにおける,もっと細かな転化,微視的な 段階,様々な中間の段階が研究されなければならないことを強調する。この研 究は,これまで少ししかやられてこなかったものであるが,このことを考慮に 入れれぽ,従来の対立は解消されるだろうというのである。

二、対立を克服するブルシュリンスキーの見解一誕生以前の   生理一心理学的なもの一

 ブルシュリンスキーによれば,外界からくる,そして,心理的なものの発生 にとって本質的である個々の刺激が,まれにではあるが,誕生以前の発達の後 期に胎児にまで達することをアプリオリに否定することはできない。だから,

誕生以前に或程度の,生理一心理学的性質の形成を否定することはできない。

このような仮説は,多分,例えば,音楽的,言語的,その他の音にかんして,

許される。(だが,もちろん,光の刺激や信号に関してはそうではない。)そし て,こうした仮説をとる場合には,力強い,母胎の内部に貫徹する音に対する

「反応」が可能になればなるほど,誕生してくる聴覚分析器の解剖一生理学的

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(部分的には遺伝的)性質は,与えられた瞬間に対して,より多く発達してく ることが云えそうである。

 こうして,強力に発達した遺伝的一生得的な解剖一生理学的聴覚的素質が存 在する場合に,もっとも簡単な,無条件反射的反応が成立し,それがくりか

えされるならぽ,誕生以前にすでに,外的作用の影響のもとで,感覚的印象

(qyBcTBeHHoe BneqaTneHqe)または,もっとも簡単な感覚タイプの,もっとも 基礎的な心理現象が発生したことを意味する。

 ブルシュリソスキーは,彼の仮説を基礎づけるものとして,ルビンシュティ ソの云う感覚形成の二つの側面を挙げている。それは,第一に,刺激を受容す るのに適合した感性的装置によって遂行される,初歩的な,よりプリミティブ な,たんなる感覚的区別の結果,暫定的に,最初の感覚的印象として標示され

うるものであり,第二には,第一のものとは区別されるところの,刺激の感性 的分化の結果,これらの刺激を生物体の応答的反応とたがいに関係づける総合 的行為をとおしてつくりあげられる,より狭い意味での感覚である*。

 *ルビンシュテイソ『存在と意識』上,110ページ

 こうして,プルシュリソスキーによれば,もっとも簡単な,心理的なものは,

二つの段階を経て形成される。最初,外的作用の影響のもとで,初歩的な感覚 的印象が発生する。その発生的基礎は,受容器の遺伝的に強化された,無条件 反射の構造と機能的特性である。次に,すでに発生した,もっとも簡単な心理 現象としての感覚的印象の,遺伝的・無条件反射的基礎が,条件反射的信号結 合によっておおわれるにしたがって,固有な意味での感覚が発生する。

 (112ページ)

 ブルシュリソスキーは,印象(BneqaT」leHMe)と感覚(olllyUeHlle)とのこの ような差異は,生理学的なものから,生理一心理的なものへの発達の過程での

移行的段階の一つを示す可能性を与えると述べている。(112ペー・一一ジ)

 よく知られているように,胎児は,誕生以前に母胎のなかで,かなりはっき りと自己の運動的能動性(ABHTare bHaA aKTvaBHocTb)を示す。さらに,科学的 文献には,もっと複雑な現象,例えぽ,指しやぶりや,子宮内での叫び声が存 在することが記されている。ブルシュリソスキーによれぽ,すべてこれらは,

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おそらく,もっとも簡単な感覚的印象の発生を可能にするものである。

 こうして,ブルシュリンスキー一は,次のように結論づける。

  「すなわち,もっとも複雑な無条件反射においても心理的なものを生理学的 なものから区別することは不可能であるという,イ・ぺ・パヴロフとその他の著 者たちの視点が仮説的に具体化されることになり,したがって,素質は,統一

した心理一生理学的形成(物)として考えられねぽならない」(113ページ)と。

 そして,これに近い見解を,人間の誕生以前の時期を研究しているぺ・カ・

アノーヒン(n.K. AHOXIiH)とその共同研究者たちがとっていることを紹介し,

彼らの次のような結論を引用する。

  「我々が特殊に人間的と考えるもの,誕生以後,人間によって獲得されると 考えるものの多くは・実際は,我々の本性のなかで,神経構造の定着された相 互関係の形式で用意され,我々の遺伝学の中に含まれている。」と*。(113ペー

ジ)

  *文献はn.K. AHoxqH,3aTBopqecKoe coTpY,IIHHqecTBOφHπocoΦoB c

 ΦH3KoπoraMH・一 《JleHHHcKa5i TeopHH oTpa>Ke}IHH H coBpeMeHIIaH Hayl〈a》,

 M,1966,CTP.291.

 このようにして,ブルシュリソスキーは,誕生以前における生理学的なものと 心理的なものの相互関係を,心理一生理学的なものの発生によって説明するの であるが,この際彼は,心理的なものをもっぱら外的作用との関係で考え,生理 学的なものを外的影響と全く切りはなされた,もっぱら内的なものとして考え

ているのではない。彼によれば,生理学的なものももちろん外的条件との関係 で発生する。(例えば胎児の生長とそれに必要な栄養物質との関係。)しかしそ れは心理的なものが外的条件と関係する仕方とは異なる。心理的なものは,解 剖一生理学的素質を基礎にして,外的なものと内的なものとの,はるかに複雑 で特別な相互作用の過程で,とりわけ,外的世界が,心理的なものの形成にふ さわしい刺激として,特別の感覚器官一視覚・聴覚・その他の感覚的自然 一に作用しはじめることによって形成される。そして,生理学的なものの発 生にとっては,このような条件は必ずしも必然的なものではない。だから,両 者の発生は,そもそものはじめから,内的なものと外的なものとの相互作用の

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客観的に異なる水準でおこなわれるのである。(114ページ)

 このように説明しながら,ブルシュリソスキーは,心理的なものの発生とそ の発達を次のように規定づけている。

 「かくして,人間にあっては,心理的なものは,遺伝的な,そして生得的な 素質を基礎に,最初の外的作用の結果発生し,徐々に複雑化する,心理的に調 整される行為,一般的には,一定の具体的・歴史的諸条件における与えられた

       

個人の活動の過程で発達していく。」(114ページ)

三、ブルシュリンスキーの「内化理論」批判

 さて,ブルシュリソスキーのこのような規定は,すでに述べたように,心理 的なものの発生を,外的作用と無関係に説明するフロイトの不完全なテーゼへ の批判をふくんでいるのであるが,それは,同時に,心理的なものをもっぱら 外的なものからのみ説明する「内化理論」への批判をも必然的にふくんでいる。

 ブルシュリソスキーによれば,心理学における 「内化理論」(それは,思考 行為を内的な局面に内化され,転化された知的・実際的な行為と考えたジャネ にはじまる)は,すでに検討したように,不可避的に・誕生後における心理的 なものの発生をすべて外的な活動と外的行為から説明するために・誕生時にお いて胎児がおこなう最初の外的行為の内部にすでに・もっとも簡単な心理的な ものが存在していることを否定してしまう。したがって「内化理論」は内と外 との関係を誕生前と誕生後とに画然とわけてしまう。それ故,心理的なものは・

誕生後にしか形成されないということがそこでは当然の前提とされており,誕 生前には人間的なものはほとんど形成されないままでいるとされる。したがっ

て,外的行為ははじめから内的なものをふくんでおり,任意の行為は・純粋に

       

生理学的な反応と違って,常に心理的な現象を基礎に調整されるというルビン シュティソのテーゼとするどく対立するのである。ブルシュリソスキー・は・誕 生以前における心理的なものの発生という仮説を提出することによって・この ルビソシュティソの仮説を誕生時の状態においても確認し・誕生以前と以後と を非人間的と人間的とに機械的に分けることへとみちびく「内化理論」の今日 的見解をするどく批判するのである。

(10)

 とりわけブルシュリンスキーの批判は,誕生後において,はじめに行為(外

      e      

的・実践的な)が発生し,後になってはじめて,それを基礎にして,その内化の 結果,心理的なものが発生するという「内化理論」の核心にむけられる。彼によ れば,(若干あらっぼく説明すると前おきされているが)個体発生のはじめに

       エレメンタル

おいても,もっとも最初の,もっとも基礎的な行為と,そしてもっとも最初の,

       

もっとも簡単な心理現象とは,同時におこる。というのは,前者は後者なしに は存在しないからである。(116ページ)だが,厳密にいえば,もっとも基礎的 な,発生的に最初の心理現象,すなわち感覚的印象は,おそらく最初の行為よ

  の      

りも若干はやくさえあらわれる。例えば,最初の光の外的刺激は,新生児の視 覚装置に働きかけるが,それにふさわしい分析器の,遺伝的に,そして誕生以 前に用意された性質は,眼の光覚細胞における視紅の無条件反射,遺伝的に定 着された反応をもたらす。そしてその結果,重要な,そしてもっとも簡単な,

ことばの完全に厳密な意味における最初の心理的現象としての,感覚印象があ らわれる。そして,これによって,視覚行為がはじまるのである。そして,こ のような例は,もっとも最初のもっとも簡単な心理現象の形成にとって生物学 的・遺伝的素質およびその他の分析器の生得的な性質の重要な役割を示してい る。こうして,新生児が外的世界と最初に出会う瞬間に,このような素質が発 達していればいるだけ,それだけ,子どもの心理生活はよりはやく,より強く はじまるのであり,またそれは,後に形成されるところの,しかし,はじめは 全く基礎的な活動を基礎にして,より成功的に発達していくのである。(116

ページ)

 ところで,ブルシュリンスキe−…による心理現象の基礎としての素質にたいす るこのような重視は,さらに「内化理論」の個体の差異の無視に対する批判を 生みだす。すなわち,心理的なものの形成をもっぱら誕生以後の外的行為から のみ説明する「内化理論」は,心理的なものの個体的差異を説明するモメント の否定へと必然的に導かれるというのである。

 ひきつづく人間の発達過程において,きわめて強く表現される,そして根絶 することのできない,人々の心理における個体的差異は,その起源を,遺伝的素 質と,誕生以前の生活にもっている。もちろん,個体の差異をすぐさまそれに

(11)

83

すべて帰着させることはできないけれども,素質の差異がその後の発達に及ぼ す大きな影響を否定することはできない。ところが,「内化理論」は,行為の 出現において,それ以前に与えられた性質の何らかの本質的な個人的差異を排 除するか,個人的差異の発生を否定する。つまり,「内化理論」の論理は,一 般的に心理的なものの,そしてとりわけ,心理的なものの個人的差異の内的諸 条件としての,遺伝的,生得的素質を心理的なものと切りはなし,心理的なも

のの形成におけるそれらの役割を否定する。その結果,ブルシュリソスキーに よれぽ,それ自身,議論の余地なく,一般的にみとめられる,心理的なものの より高い段階への移行としての,「内化」の事実は,全く対立する立場によっ て,まるで異なる説明を与えられることになる。

 第一の立場は,ルビンシュテインの見解を発展させたブルシュリンスキーの ものであるが,それは,心理的なものは外的な作用の結果,発生する,そして 外的作用によって個人と外的世界との相互作用がはじまり,その外的作用は・

まさに,素質やその他の遺伝的内的諸条件に媒介されるというものである。

(116〜7ページ)

 第二の立場は,ヴィゴッキーtの理論を発展させたレオソチェフのもので,心 理的なものは,徐々に内的なものになっていくところの,外的行為の「内化」

の結果発生するというものである。

 もちろん,ブルシュリソスキーは,この対立の底に横たわる共通性を強調し た上で,以上の定式化をおこなっていることに注意しなけれぽならない。その 共通性とは,両方とも正当に,O心理的なものの発生の過程で,外的なものの 優先していること,⇔人間の行為の生活による形成をみとめていることである。

動物の本能と違って,人間の行為と操作,まして行動は,遺伝によってあらか じめ与えられたり,定着されたりするものではなくて,様々な形で評価されて いる遺伝的基礎の上に,個人の発達の進行のなかで形成される。

 ここで本能ということばは,行為への衝動だけでなく,行為自身の構造が,

遺伝的に強化されるところの反応の意味である。したがって,本能は遺伝的に ステレオタイプ化された反応であり,人間においては,ことばの厳密な意味に おいて,例えば,新生児の吸う行為のような,基礎的な行為の最小限の量だけ

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が,それに関係させられる*。

*ブルシュリンスキーの引用している文献はC.・1 1.Py6HH田TefiH, OcHoBbl. ncvax−

onorvava, CTP,383。そして,人間においては動物と違って,もっとも簡単な行為に

おいてさえ,e行為に対する衝動,一般的に行為の動機づけと(⇒あれこれの具体的 な行為の形での,行為の実現という二つの構成要素が関係づけられて,心理的なも のの本質を構成することになる。(117ページ)つまり,人間においては,行為の遂 行様式,行為の全体としての構造は,動物の本能のように,元来生得的(Bpo}KZ(eHHblta)

         エレメソタル

なものではなく,基礎的な行為自身にやがてなっていくところのある構成要素が,

         ■       

おそらく,ある程度まで,生得的なものであり得るのである。ブルシュリンスキーに ょれぽ,このような構成要素となるのは,有機体の「愛着」(BJIeqeHKe)であり,そ して,この愛着は,客体に対する構え(yCTaHoB,TleHvae)にしたがって現実の力にな っていく。例えば,もっとも簡単な食ぺることへの要求(ml−eBblil fioTpe6HocTb)

のなかに,このような有機体の愛着が存在すると彼はいうのである。したがって,愛

      e      ロ      ■     の      

着が本能と異なる点は,そのなかにすでに全体としての行為ではなくて,行為への衝

       

動だけが定着されている点である*。

*引用文献はJI.C. Py6HHrllTetiH, TaM.}Ke

 プルシュリンスキーは,このように人間の愛着について述ぺながら,同時に,

行為への衝動が,つねに生活とともに,個体発生的な発達の過程で形成されて いくことを述べている。(117ページ)つまり,愛着の内容をなす行為への衝動 は,ある程度までは,生得的なものではあるが,それは,つねに行為の構造の なかで固定化されているのではなくて,それ自身発達の過程で形成されもする。

そして,おそらくこの点が,もっぱら本能をそなえて生れてきて,死ぬまでそ れを固定化させて生きていく動物と人間との本質的違いである。

 しかもブルシュリンスキーによれば,このような人間的な行為の初期の形成 にっいての考察が,まさに,さきに述べた,もっとも簡単な心理現象としての 感覚的印象の理解を基礎づけることになる。すなわち,外的作用によって,行 為よりも若干はやくあらわれる感覚的印象は,最初の行為と,その後のそれに 関係する,感覚の発達のための必要な,心理的内的諸条件を前提として発生す るのであるが,有機体の愛着こそ,ある程度まで生得的に形成された,遺伝的 前提として,この感覚的印象の土台をなすのである。

 そして,ブルシュリンスキーは,すべて以上のことから,「内化理論」と違

(13)

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って心理的なものが,最初から,つねに,任意の行為,行動,一般的には活動 の調整に,それらの発生と発達にしたがって,参加することを強調するのであ る。つまり,彼によれば,心理的なものは,行為,行動,活動の実現にとって

     e    

元来必要な条件であると同時に,それらの発達とともに,発達し,複雑になっ

       

ていく結果でもある。

 こうして,ブルシュリンスキーの理論は全体として,素質と,個人の心理的 発達の出発となる内的・遺伝的条件にかんする人間個人の差異の重視が特徴的 となるのであるが,彼は,このことは,決して能力の人種的差別の立場を必然 的にとることを意味しないという。人種的差別は,遺伝と素質自身における質 的優劣を公然とみとめることであり,人間の能力における運命的な差別をみと める理論である。ブルシュリンスキーのいう個人的差異はやがて人間的個性へ

と発展していく能力の差異の土台への着目であり,社会主義から共産主義への プロセスは,こうした個人の差異を全く否定するものではないといい切るので ある。(この個人的差異の問題については,章をあらためて論じたい。)

四、素質と能力の関係についてのプラトーノブの見解

 素質と能力について,ブルシュリンスキーとほぼ同一の見解をとっていると みられるのはプラトー・一・ノフである。プラトー・ノフは,すでに述べたように,

『能力の諸問題』(K.K. n刀aToHoB, npo6neMbl cfioco6HocTeti,1972.や『心理

学のシステムについて』(OcHcTeMe ficvaxonorHH,1972.)においてレオソチェ

フらの能力論を強く批判している一人であるが,とくに,能力における生得的 なものと獲得的なものとの関係,素質と能力との関係にかんする見解には重要       デイナミカな論点が見出される。彼は,主著『能力の諸問題』の第五章「能力の力動性」

(AvaHaMMKa cnoco6HocTeti)でとくに「素質と能力」という節をもうけて自己の 見解を展開している。

 プラトー・一・ノフは,ブルシュリンスキPtと同様,チェプロフの素質論を批判す るところからはじめている。

 チェプロフは,論文「才能の問題」(flpo6neMa oAapeHHocTll,《CoBeTcKafl

neAarorvaKa》,1940. cTp.4〜5.)のなかで,「我々はもっとも簡潔に,能力とは,

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発達中の素質であるということができる。」と述べているが,彼は後に(1961 年)この簡単な定式化を捨てて,次のように定式化した。

 「生得的なものとなることができるのは,ただ,解剖学的・生理学的特殊性,

すなわち,能力の発達の基礎に横たわる素質であって,能力そのものは,常に

発達の結果である*。」(129ページ)

 *プラトーノフが引用する文献はB.M. TennoB, npo6neMbi HHAHBHAYanbHblx

 pa3angHH, M,1961.である。

 チェプロフはこれによって,素質が,能力の発達の一条件であることを強調 したが,これは明らかに能力のなかに一定の位置を占める素質が厳密に一定の 種類の活動へ人間をあらかじめ決定的に準備するという心理形態学説にたいす

る批判を含むものであった。チェプPフの理論は,その意味で遺伝と素質を能 力の発達において決定的なものとみなす考え方への批難から自己を守っており,

その後の素質の研究においても重要な役割をはたした。

 しかしプラトーノフによれば,この定式化は,正しいとはいえず,方法論的 にも正確ではない。すなわち,エプロフは,生得的なものをもっぱら生物学的 なもの,獲得的なものを心理的なもの(能力)とみなしているが,これはプラ

トーノフによれば,生物学的なものと社会的なものとの関係を能力における生 得的なものと獲得的なものとの関係として理解しているにすぎないというので

ある。しかも,その場合,チェプロフは,たしかに,人間の全体的な能力ばか りでなく,その全体を構成する個々の能力をみとめているが,素質については,

もっぽら,全体としての能力を支えている生理学的土台だけを問題にしている だけで,したがって,個々の能力の構成要素がどのように素質と結びついている かは,問題にならない。チェプロフは,誕生した子どもは,最初は,ただ神経

       e     の       ロ       

力動性(He加OAHHaMHKa)のいっそうの発達の生得的可能性をもっているだけ

で,誕生後の能力がどのような素質の構造と結びついて発達していくかは明ら かにしていない。

 そこでプラトーノブは,このようなチエプロフの理解には,かくれた生理・

心理学的平行論がみられると批判するのである。ここでいう心理・生理学的平 行論とは,能力の発達における生理学的なものと心理的なものとの関係を充分

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に明らかにせず,心理的なものの発達が同時に,生理学的なものの発達でもあ るとする考え方である。

       

 したがって,チェプロフにあっては,個々の能力に内在する個々の素質の存在 はみとめられず,能力全体の構造と素質の構造を発達論的に明らかにすること はできない。彼にあっては,素質は生理学的なものとしてみとめられるだけだか

ら,素質もまた一種の能力として,能力構造のなかに位置づけられることがない。

 プラトー一・・一ノフは,このように批判しながら,チェプロフにおける素質と能力 の一種の分離論には,40〜50年代のソビエト心理学において支配的であったあ やまった傾向一生理学的なものとしての高次神経活動は同時に心理現象でも

ある一が反映していると述べている。

 つまり,チェプロフの考え方にそくしていえば,能力発達の可能性として存 在している生理学的土台は,実際に誕生後の高次神経活動によって現実化する

のであって,そこでは誕生以前にすでに形成されている一種の能力としての素 質が,現実に誕生後に発達していく諸能力にどのようにかかわっているかはほ とんど問題にならず,ただ可能性として存在する生理学的なものを土台にして,

それが活動をとおして心理的なものと平行して発達していくことだけが問題に されるのである。そこには,実体として存在している,そしてブルシュリソス キーの見解一それはプラトーノブの見解でもある一によって,すでにみて きたような心理的なものの発達の萌芽をふくむ実体としての心理・生理学的な 性質一一定の構造をもった一と誕生後の能力とは事実上切り離されている。

 プラトーノフによれぽ,チェプロフにも影響を与えた,このような心理・生 理学的平行論の克服が進められるのは,ようやく60年代に入ってからであり,

それは心理学者,生理学者,哲学者たちによる,高次神経活動の生理学の哲学 的諸問題にかんする全ソ連邦会議の準備・討論(1962年),資料の公判(1963 年)などによって行われた。そして高次神経活動のパヴロフ的理解が深められ

ることによって,大脳皮質の神経力動性と心理現象との密接な結びつきが明ら かにされ,高次神経活動の発生と発達において,生理学的なものと心理的なもの の結びつきの構造が次第に研究されるようになったのである。そして後に述べ るプラトーノフ自身の能力と素質の構造にかんする仮説もまたそのような研究

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を土台にして生まれてきたことがここで示唆されるのである。(130〜1ページ)

 プラトーノフによれば,高次神経活動における生理学的なものと心理的なも のとの統一一についての理論は,両者を同一視することではない。それは,両者 の関係を発生的に,また構造的に追求することである。彼は,各素質が能力に 転化する場合に,どのように心理的なものが,生理学的なものとかかわりなが

ら発生してくるか,その場合の可能性の現実性への転化を明らかにしなければ ならないと強調する。

 例えぽ,彼は,アヴェロンの野生児や狼少女カマラは,非人間的な環境のな かで,複雑な能力が発達しなかっただけでなく,生理学的メカニズムの発達も 破壊されていたかも知れないという。何故なら,アヴェロンの野生児もカマラ も,遂にことばを習得することができなかった,ということは,人間的な交流 の欠如が,解剖学的・生理学的素質の上に,いわぽ積み上げされた心理現象

      

にたいしてだけでなく,まさに,素質そのものの発達にたいしても現われたと 考えられるからである。(133ページ)こうして,プラトーノフは,子どもの誕 生以前においてだけでなく,誕生以後においても,解剖学的・生理学的なもの

と,心理的なものとを切り離してはならないと強調するのである。

 こうして,プラトーノフの見解は,必然的に素質をどう規定するか,また能 力の構造のなかに素質がどのようにおりこまれているかという問題へと発展し

ていく。

五、素質と能力の構造における生得的なもの,生物学的なもの,

  社会的なものの位置

 プラトーノブは『心理学のシステムについて』のなかで,素質を次のように 定義づけている。

       フオyド

 「素質一これは,一部は,遺伝的蓄積によって,一部は,誕生前の発達の 条件によって条件づけられた,個人の形態学的,生理学的,および心理的性質 の発達の,生得的な潜在可能性である。」(171ページ)

 プラトーノフは,素質を反射の生理学的,および心理学的形態であるとも考        

え,したがって,それを,生理学的・心理学的能力として把握している。そし

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てその発達の可能性は,環境の影響と個人の活動をとおして,現実性へと転化

していく。

 ここで,われわれは,プラトーノブが素質における「遺伝的なもの」と「生得的な もの」(6pomu.qeHHblva)とをまず区別していることに注目する必要がある。すなわ ち,遺伝的なものは,遺伝子によって与えられたものであり,それはすべて生 得的なもの,または「生まれつきのもの」(叩叩o即eHHoe)には違いないが,生 得的なものがすべて遺伝的なものであるとは限らない。なぜなら,全体として 胎児は,いちぢるしく,胎児の発生以前の子宮内の環境に依存するからであり,

したがって素質の形成もまたそのことに大きな影響をうける。そして,こうし た生得的潜在可能性が誕生後に獲i得されるものと統一されて能力を形成してい

く。獲得されるものの形成は,人間に対する外的作用と,それに対する人間の 活動を前提としておこなわれる。

 こうして,プラトーノブは,素質と能力の形成を説明するいくつかの類似し た基本的カテゴリーを区別しながら,その相互関係を説明するのである。

  *以下の記述の順序は必ずしもプラトーノブの順序にしたがってはいない。

 すなわち,そこではまず能力形成において「遺伝的なもの」が区別される。

「遺伝的なもの」(HacneAcTBeHHoe)とは,類の遺伝子の蓄積を基礎に人間のな かに存在し,発達していくすべての能力である。

 それから,「生得的なもの」(Bpo)KAeHHoe)と「生まれつきのもの」(叩Plpo》K−

AeHHoe)が区別される。「生得的なもの」とは,彼の誕生以前の性質を基礎に,人 間のなかに存在し,成熟し,老いていくものである。それに対して,「生まれつ

きのもの」とは,すでに誕生時の瞬間において人間にそなわったすべてのもの である。ここで強調しておかなければならないのは,「生得的なもの」が誕生以 前の性質を基礎に成熟していく可能性としてとらえられているのに対して,「生 まれつきのもの」が誕生時の性質全体としてとらえられていることである。素質 が問題になるのは,その可能性であって,それは明らかに成熟し,変化していく ものとしてとらえられている。ある意味では,素質もまた発達していくのである。

 プラトーノブは,別のところで,素質を次のようにも定義づけている。

  「素質一これは,機能的器官,したがって人格の機能的構造の発達の生得

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的前提である。人格の心理的性質が,活動の条件のなかで,能力としてみなさ れなけれぽならないとすれぼ,素質は能力の生得的前提である。」(『能力の諸 問題』135ページ)ここで,プラトーノブは,素質をルピソシュテインが述べ た一般的能力としての機能的器官の形成における生得的なものとして把えてい る。すなわち,それは,機能的器官へと発達していくための潜在可能性である。

ここでもプラトーノブは,素質をたんに,誕生時の子どもの性質ではなくて,

ある意味で発達していくものとしてとらえている。

 次に,これらに対して,「獲得的なもの」が対置される。r獲得的なもの」とは,

すでに述べたように人間に対する外的作用の結果,人間のなかに発生し,発達 していくすべてのものをさしている。それはまさに後天的なものである。しか し・それは,「生得的なもの」と切り離されて定着していくのではなく,後に述 べるように,まさに両者は一つに統一された能力の溝造を形成するのである。

 そして,このようなカテゴリーと関係させて,本章で問題にしている「生物学 的なもの」,「自然的なもの」と「社会的なもの」とが区別されて定義づけられる。

 プラトーノフにあっては,「生物学的なもの」とは,人間にあって,動物と,

      ホモPギ−チュヌィその起源において全く共通なもの(相同的なもの)をさしている。(その場合,

プラトーノフは,人間における「生物学的なもの」と動物におけるそれとは必 ずしも同一のものではないことをことわっている。)

 さらに,プラトーノブは,「生物学的なもの」と「自然的なもの」とを区別して いる・「自然的なもの」とは,人間のなかで,彼に対する他の人間の影響に依存 しないすべての存在に対していわれる。私見をいえば,例えば,心臓の働きや 呼吸器の働きは,その起源において動物と共通している点でまさに「生物的な

もの」である。そして,それはまた,直接社会的な人間関係とかかわりなく存 在しているから同時に「自然的なもの」である。しかし,例えば音に対する敏 感さは,動物とも共通している点で「生物学的」なものであるが,それはすで に述べたように明らかに他の人間の影響のもとで,人間に特有に発生するもの であるから,たんに「自然的なもの」ではない。

 *プラトーノフは,ここで,「自然」(npHpo!la)と「自然的なもの」(npMponHoe)と

 いうことばの意味は若干違った意味をもっていると述べている。物質と現象の自然に

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 ついて語る時には,そのなかに心理現象や能力が当然含まれる。マルクスも「歴史自  身は,歴史と自然,人間への自然の生成の現実的部分である」と述べている。だから,

 社会もまたその広い意味では,自然の一部分である。しかし,人間への適用において,

 「自然的なもの」は,ふつうは「生得的なもの」と「生物学的なもの」と同一視して  いわれている。(プラトーノブはこれを区別しているのであるが。)もちろんルビソシ  ュテイソのいうように,「自然的なもの」と 「社会的なもの」との対立は相対的なも  のであるが。こうして,各々の心理現象,各々の人格の特徴,各々の能力には,「自

 然的なもの」,「生物的なもの」,「生得的なもの」,「無条件反射的なもの」と「社会的

 なもの」(「獲得的なもの」,「条件反射的なもの」)が,そして両者の様々な関係が含  まれるとされる。(プラトーノブ,前掲書,127ページ)

 ここで読者は,前章でルビソシュティソが「自然的」と名付けていたものと,

ここでプラトーノフのいうものとは必ずしも同じものでないことに気がつかれ たであろう。ルビソシュティンにあっては,「自然的なもの」とは,機能的器 官,およびそのうえに社会的な影響のもとで,まさに他の人間との交流によっ

て,つくり出された諸能力が,あたかも生物学的,生得的なものであるかのよ うに,人間の能力のなかに定着してくる部分をさしていた。それは,社会的な ものと生物学的なものとの統一体としてのそれであった。プラトーノブは,ル ビンシュテインのこの説を発展させながら,後にこのような能力の部分をその 能力構造のなかに位置づけたのであるが,それは「自然的なもの」とは名づけ

られていない。彼は,「自然的なもの」を,むしろ,せまく限定しながら,そ れを「社会的なもの」との統一一・において把えようとしている。プラトーノブは,

カテゴリーを整理しながら,ルビンシュテイソの見解をより具体化していこう としているというべきであろう。

 さて,プラトーノブは,っついて「社会的なもの」を区別する。能力において

「社会的なもの」とは,人類の起源と人類の歴史のなかで,社会の成員としての 人間のなかに発生し,個人の起源において,他の人間との交通の結果発生する すべてのものをさしている。これはまさに人間が社会関係のなかで特殊に人間

的・社会的に獲i得していったもののすべてをさしている。r獲得的なもの」が,

人間の自然にたいする交流のなかで形成されるものをふくんでいるのに対して,

「社会的なもの」は,人間的諸関係のなかでのみ形成されるものである。

 ところで,これらの類似のカテゴリーをプラトe−一・ノフが仕わけるのは,すで

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にくりかえし述べたことからも推察されるように,能力の形成における様々な 影響と,それの定着との関係を構造化してとらえるためである。すなわち,人 間の能力は基本的には社会的に形成されるのであるが,それがどのような自 然的,生物学的基礎の上になりたっているか,「社会的なもの」の形成のなか に,「自然的,生物学的」なものがどのように貫徹しているかを構造化してとら えるためである。ここに,さきに述べたように能力における「社会的なもの」

と「生物学的なもの」とを内容と形式として機械的にとらえようとしている,

また両者を分離してとらえようとしているレオソチェフらの考え方に対するプ ラトーノブの強い批判が含まれているように思われる。これらの問題を解決す ることが,プラトーノブの能力構造論の課題である。そして,この課題は,さ きにふれた矢川徳光氏の論文において我が国に紹介されているように,プラト ーノブの人格論と結びついている。なぜならプラトーノフにあっては,能力の 問題はそれぞれの活動と結びついた人格の構成要素の問題であり,したがって 能力の全構造は人格の構造でもあるからである。

 プラトーノフの仮説によれば,人間の諸能力は,人格の力動的機能的構造の なかに位置づけられ,発生的に連関しあっている次にみられるような下位構造

(nOACTpyKTypa)によってくみたてられている。

 第一一の下位構造は,社会的に条件づけられた教育(訓育)(BocnHTaHue)の過 程によって形成される志向性(HanpaBneHHocTb)の部分であって,この部分は 人間の諸能力のなかで,道徳的な判断や意識の能力を構成する部分であり,生 物学的,自然的なものにもっとも条件づけられていない部分である。それは,

人間の活動を基本的に方向づけていく人格のもっとも重要な部分である。

 第二の下位構造は,各人の経験のなかで,教授一学習(06yqeHHe)によって 獲得される知識・技能・習熟・習慣の部分であって,この部分は,第一の下位 構造と違って,すでに,個人の生物的なものの形成によって条件づけられてい

る。私見によれば,例えば,道具がうまく使えるということは,教授一学習に よって基本的に獲得されるが,その器用さは,すでに手の機能のスムーズさを 決定するところのそれまでに成熟してきている生物学的,自然的なものによっ て条件づけられている。

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 第三の下位構造は,練習(y叩a}KHeHHe)によって形成される,情動・感覚・

思考。知覚・感情・意志・記憶などの,反映の諸形態としての心理的諸過程の 個人的な特性の部分である。そして,人格の機能的特性とよぼれるこの部分に おいては,生物学的に条件づけられる特性の影響が,すでに述べた下位構造に くらべてさらにいっそう明瞭にあらわれる。私見によれば,例えぽ,ある活動 を遂行する場合にあらわれる持続性は,感情や意志によって条件づけられるが,

その感情や意志はその時の生物学的諸条件に大きく依存している。

 第四の下位構造は,訓練(TpeHHPOBKa)によって形成される,生物学的に条 件づけられる類型学的特性であって,この部分は,脳の生理学的,さらには形 態学的な特性に依存する程度が,人間にたいする社会的影響に比べて,比較で きないほど大きい,生物学的に条件づけられた構造である。私見によれぽ,例 えば,人間の活動における興奮や抑制の易動性は訓練によって形成されるが,

それらはその人間の気質,すなわち,大脳の類型学的特性に大きく依存してい

る。

 いうまでもなく,プラトーノフにおいてはこれらの下位構造は互いに孤立し あっているのではなく,互いに浸透しあいながら,様々な活動を決定する人格 の,したがって諸能力のモメソトを形成している。プラトーノブによれば,こ れらの四つの下位構造は,互いにヒエラルキーをなして関連しあっている。高 次の社会的に条件づけられた下位構造は,その基礎に生物学的に条件づけられ た類型学的特質をもっている。

 ここでさしあたって重要なことは,プラトーノフのこれらの下位構造のそれ ぞれがどこまで科学的基礎をもっているかを検討することではなくて,諸能力 が,彼によって社会的に条件づけられているものと生物学的に条件づけられて いるものとの相互関係においてとらえられているということである。この構造 論(たとえぽ四つの下位構造が,人間の活動の種類と結びつけて定義づけられて

いるという事実)の是非については,あらためて論じなければならないが,問 題は,人格と能力を構造においてとらえるという方法論にかかわることである。

例えぽ,プディローワは,プラトーノフに具体的にみられるこのような考え方

は,アナニエフ(B.r. KHaHbeB),ミャシシチェフ(B. H. m∬cH環eB),コバリ

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ヨフ(A.T. KOBa」leB)などもとっているということを強調している。

 例えぽ,ミャシシチェフは,人格の統一を,志向性(HanpaBneHHocTb),発 達の水準(ypoBeHb pa3BHT朋),人格の構造(cTpyKTypa nMqHocTH),神経・心

理的反応性の力動性(AHHaMvaKa HepBHo−neMxHgecKoti peaKTHBHocTH) tZこよって

性格づけられていると述べている。

 また,アナニエフの指導によっておこなわれた人格の総合的研究においては,

人格の発達の多くの構成要素の分析,それらの質の相互関係のの分析が性格学 的特質(xapaKTeponorHqecKvae qepTbl)の若干の関係,知力と様々な心理運動的

(nCHXH MOTOPHblM),神経力動的,そして生長一生物化学的性格づけの関係が 解明される可能性が与えられ(ブディローワ,前掲書,325ページ),この研究

の結果が次のように決論づけられている。

 「人格の構造を決定づけるどのファクターのなかにも,相互に関係した交素 群(KoppenflUMOHHble Hne Abl),人格の関係と性質,知的およびその他の心理機 能,人間の身体的,神経力動的特性の間の,複雑に分岐した鎖が見出される。

この構造において,決定的で主導的な基盤,人格のドミナソトな構造的な統一 となるのは,人間の実際の活動の状態,社会的機能,経験を基礎に形成される

社会的性質である*。

 *引用されている文献は

  B.r. AHaHbeB. H H. M. naneth, O ncHxo刀orHqecKo最cTpyKType MqHocTH

 −BKH・《npo6 eMbl nHuHocTH》1>laTepHaJlbl cMMno3HYMa, cTp.50.

 ところで,これらの意見はいずれも,人間の諸能力を社会的なものと,神経 力動性をふくむ生物学的なものとの構造においてとらえようとする努力を示し ている。そしてこのような能力の構造的把握は,後に述べるように能力の人格 的アプローチによって支えられている。そして後にふれるようにレオンチェフ は,この人格的アプローチと人格の構造的把握に対して批判を行うのである。

この問題については,章をあらためて論じなければならない。

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