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瀬戸大橋の橋脚の島の人々の生活と教育と地域課題 : 開通から満20周年を目前にして-香川大学学術情報リポジトリ

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瀬戸大橋の橋脚の島の人々の生活と教育と地域課題

一開通から満20周年を目前にしてー

渡 遁 安 男

崎 浜

Abstract

聡  渡 逢 友 明

 This study is aimed to nnd and solve problems such as lifb,education and welfare ofpeople in threeislands by interviewing. The islands:“Yoshima” “lwakurgjima” and “Hituishijima”alleneallpiers of Seto-ohashl which is thelongest bridge combined with railways in the world.

【キーワード】瀬戸大橋、地域社会と教育、へき地敦育 1.はじめに一問題意識一      犬  私たちが瀬戸大橋を行き来するJRマリンライナーに乗ると七分ほどで通り過ぎてしまう橋脚の 三つの島々である「与・島」、「岩黒島」、「櫃石島」は開通してから2008年、4月10日で満20周年、を迎え ることになったが、これらの島々が瀬戸大橋の開通によってどのように変化してきたのだろうか、 という疑問に対して、幸いにも執筆者の一人(渡擾安男)の手元には、20年・ほど前に3ケ年にわたっ てそれらの島々を調査した結果が残っていた。そこで今回、当時の調査結果の比較や現在の三つの 島の比較検討を試みてみたいと思った。 2.調査研究の目的と方法  調査研究の目的は、橋脚の島々の人々の生活と教育と福祉などの方面について調査し、それぞれ の島の地域課題を明らかにし、それらの課題解決の手助けとなることである。  ところで、20年、ほど前、学会でこれらの三島でのアンケート調査による数量的調査成果を発表し たところ、質問の最後のほうで、小さな島々でミしかも戸数も人口も少ない島々で数量的調査はど れほど意昧があるかという指摘を頂いた。そこで今回は、質的な聴き取り調査(ヒヤリング調査) という方法を用いた。調査期間は2007年、5月から8月までの4ヶ月間であった。  瀬戸内海は宮本常一ら民俗学者達によって調査され尽くされているが、柳田國男から竹内利美ら に至る民俗学の説に学びつつ、教育学の方法論も加えて調査してきた。 渡逼安男 崎浜 聡 渡逼友明 香川大学教育学部 教授 香川大学大学院敦育学研究科院生 香川大学大学院教育学研究科院生 −63−

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渡 逼 安 男  崎 浜 聡  渡 逼 友 明 3.橋脚の島々の実態調査  (1)与島一与島に住む人々の声を中心にー   ①騒音に9いて    瀬戸大橋開通時に住民からは「騒音に困る⊥という声を聞くことがあったが、現在ではその   当時に比べるとこの声は少なくなっている。例えば、橋に近い地域(与島の穴部地区など)に   は防音対策がなされており、住民の方の話だと、「自動車の音よりJRの音の方が目立つ」、   「南風の時に少し聞こえるが、あまり気にしていない」と言う声が聞かれた。 ②現在の住みやすさについて  瀬戸大橋が開通したことにより、「交通の使は良くなった」、「救急車、などの急を要するもの に関して言えば大変早くなったので、安心できる」との声が聞かれたが、その他については開 通前と比べて何ら変化はないようである。 ③生活上で困つていること       こ  若い人がいったん出て行ってしまうと帰って来ないため、高齢化と過疎化が急速に進んでい る。昔は、石材・塩業・汽船(20杯)などの業種が栄えていたのだが、今は石材も減り、若者 も減っていった。ちなみに、現在の石材業は3軒にのうぢ一軒は小与島)になっている。  漁業については私たちの見解とは異なり、昔からほとんど行なわれていないそうである。民 宿は20年、前には2軒あったぞうだが、現在はまったく営まれていない。  多いときには、それぞれ30人から40人程度の子どもたちで賑わっていた小学校・中学校も、 6∼7年前には休校となり、子どもたちの姿が消えてしまっ7ている。現在の中学校は、全く利 用されておらず、手入れをする方が一人おられるが、荒廃の感は否めなかった。 ④生活について  食料品については近くの商店で購入することができるが、ほとんど鮮魚類は取り扱っていな い。洋服や薬については坂出まで足を運んでいるとのことである。  病院はなく、週に1度診療所に医者が回診にやってくる程度である。昔から農業は行なわれ ておらず、自分達が食べる分だけを耕作している。  以前は島から出る時や他の島へ行く時などには定期船を利用していたが、現在は観光船のみ である、。よって、船を利用したい時は、電話をして呼ぶが、そうするとタクシーよりも料金は 高くなると言うことである。  その他の交通については、島内の人で車を持っている人は通行料が半額となるため、自家用 車で坂出などへ行くが、車を持っていない人達はバスを利用していると言う。ただし、開通時 には多くの観光客は訪れるということもあり、路線バスが1時間に2本というダイヤであった が、現在では、観光客の減少にともなって2時間に1本と減少してしまった。  また、ガソリン'は月に1回(通常毎月17日)給油車が運んで来るが、冬場はストーブに使用 する灯油も必要なため月に2∼3回に増えるようである。 ⑤地域の活動について  自治会をはじめとして、婦人会や老人会、敬老会などがあるが、青年会はない。老人会は60 歳以上の希望者が入っており、与島だけではなく三島で一つの会となっている。また、敬老会 は75歳以上の住民で構成されている。        −64−

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瀕戸大橋の橋脚の島の人々の生活と敦育と地域課題  毎月1日には、浦城のお宮掃除が行われる。行事についても、三島合同で行われるものもあ る○      ●       ■  −   ・ ⑥年中行事・について  寺では従来通り年中行事がたくさんあり、お盆の8月14日には盆踊りも行われる。また、天 津神社のお祭りは10月10日に行われているが、若者が少なくなるにつれて、御神輿の担ぎ手が いなくなってしまい、以前ほど盛大さはないようである。以上のように島の年中行事について も過疎化の影響が現われていると言え、よう。  また、お接待についても伺うことができ、与ヽ島では春に前日から二日間にかけて準備をして 山まで運び、赤飯をふるまう風習があるようである。 ⑦今後の島への期待について  島の将来に対する希望はあるが、学校がないので子どもはもちろんのこと親世代の30∼50代 の方も出て行ってしまい若い人々がおらず、高齢者ばかりとなっているため、「どうしようも ない」という言葉をインタビュー中に伺った。したがって、島に対する「期待」よりも「遅すぎ た」という方が大きい。なぜなら、「現在の人口より増えるということは望めないので期待は 持てない」という声が多く聞かれたからである。例えば、「瀬戸大橋の通行料が無料になれば 若い人々が帰ってきて変わるかもしれないが、それも現実的には難しいのは分かっている」、 「現在はフィッシャーマンズ・ワーフがあるため、ある程度は観光客が島を訪れているが、も しもそのフィヅシャーマンズ・ワーフさえ経営を終えてしまえば、いっそう灯が消えたように 過疎化してしまうのではないか?」などである。  空ぎ家も増えているが、その管理について自治会は関与せず、もとの住民の家族に任:せてい るとのことである。  さらに、瀬戸大橋開通時から20年澗も手付かずのままの空き地もあるのだが、その土地を利 用して地元で何かしようと思っても、やはり若者が少ないために、それを実行できるような有 志がいないのが現状だ。  このような様々な面で影響を出している過疎化の原因について、住民の方は、「瀬戸大橋開 通により若い人が島外へ出て行ってしまったのは事奥であるが、橋ができなかったとしても、 そもそも石を採りすぎて島の石材がなくなってしまい、職がなくなったということも過疎の 原因として考えられる。だから、何が原因だったかということは、一概には言えない」とおっ しゃっていた。 ⑧島への愛着  現在も島に住んでいる人々は、島に愛着を持ち、元気な間は住んでいたいと思っている。 ⑨考察  瀬戸大橋ができて、良くも悪くも、与島の生詣環境は大きな影響を受けて本日に至ってい る。島外への移動手段に車が使えるようになり、便利な住環境になったはずであるが、島には 車はほとんど見られなかったし、島民が利用している姿を見ることはほとんどなかった。それ は、島に住んでいる人々がほとんど高齢者であるためであるが、逆説的に「車、がなければ、生、 活に不便な島」になってしまったという与島の現状を如実に表しているのではないかと感じた。  与島の産業はかつて、塩田業、石材業、汽船類を主としていたが、石材業がなくなり、それ        −65−

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渡 擾 安 男  崎 浜 聡  渡 逼 友 明 と関連の深い汽船も平行してなくなった。産業がなくなった与島は特に若い人たちの働く場が なくなり、ますます島民の流出と高齢化を加速させてしまうことにつながったのである。6、 7年前に小・中学校が休校になり、仕事や子どもが教育を受けられる環境を求めて、坂出に多 くの若い人たちが出て行くという悪循環に陥って、高齢化、島の衰退(限界集落への傾向)に 歯止めがかからない状態になったのだろう。  こうした状況を見ていると、現在における与為の過疎の状態は、瀬戸大橋ができたことに よって過疎を促進させることにつながったかもしれない。しかし、産業がないことを考える と、結果としての過疎化は避けられなかったのではないだろうか。  瀬戸大橋ができたということで、当初はフィッシャ・¬マンズ・ワーフなどへの観光客が大勢 来ていたが、それが継続したものではなかったことが、島の活性化につなげられなかった要因 だろう。与・島には「車。で降りられる唯一の島」という、観光客から見ても、その利便性は気軽 に足を運ばせられるメリットがある。その利点を活かして、フィッシャーマンズ・ワーフ内の オアシスパーク瀬戸大橋、遊覧ヘリコプター、瀬戸大橋遊覧などをアピールして、も、う少し観 光客の呼び込みに力を入れたら観光客が増え、島の活性化の第一歩になるのではないだろう か。       ▽ 今回訪れた他の島と比べても、明らかに過疎化は進行し、今後が懸念されている与・島だが、 インタビューをした福井琴江さんのように、島に愛着を持ち、元気なうちは与島で暮らしたい と前向きな気持ちで日々を過ごしている島民の力強さやたくましさを垣間見ることもできた。 ただし、他の島は、小・中学校があること自体が大きな島の活性化につながり、明るさをもた らしている。やはり、若い人たちの力が島の存続・活性化のために欠かせないということが今 回の調査全体を通じて痛感させられた。産業がなくなり、島には観光ぐらいしか望みがないか もしれない。まだ、与・島は観光業に関しては伸びる余地があると思う。それは、瀬戸大橋のメ リットを生かす道を考えることである。瀬戸大橋が架かってからの影響ばかりを後ろ向きにと らえるのではなく、福井さんのように、島民が希望を持って生きることが、島全体の活力とな り、観光客から見て、魅力ある与島へと発展することに繋がっていくのではないだろうか。 (2)岩黒島      \・      ▽  与島の調査では、4∼5人の方から聴き取りを行い項目ごとにまとめたが、岩黒島・櫃石島に おいては、インフォーマントごとに報告し、その方のライフ・ヒストリーを紹介してみたいと思 う。      ∧ ①インフォーマントの中村呈子さん(60歳パこよると、岩黒島には現在、約35戸の家があり、 一人暮らしの家も多い。普段は空き家だが、盆や正。月、供養などの時だけ京阪神方面から帰っ てくる家もある。  2007年度の行事予定とその内容は以下の通りである。 −66−

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瀬戸大橋の橋脚の島の人々の生活と教育と地域課題 (表1)2007年度岩黒島行事予定と内容 行事予定日 行 事 名 内   容 4月10日 愛宕神社祭 5月3日 観音様ご開帳 お接待を行う(菓子・ジュース)。 6月12日 大天狗寺社祭 その年の当番の者が、なます・空豆とジャガイモの煮物、お神酒等を準備する。 8月14日 盆 踊 り 供養などがあれば、お接待を受けられる。 10月7日 初田寺社大祭 小・中学生が参加する。中学生の女の子の中から巫女役を決め、舞を踊る。 1月10日 恵比寿寺社祭 その年の当番の者が、なますやお神酒等を供える。 (2007年7月の聴き取り調査より)  瀬戸大橋ができたこ。とによって、岩黒島の人々は確かに便利になったようである。橋ができ るまでは、島民は米や肉、魚、日用品など必要なものは「岩本商店」で買っていたが、橋がで きたことにより自家用車で岡山県の児島方面に買い物に出かけることができるようになった。 島民はゲートの通行料が半額になるが、それでも高桧・坂出方面へ出るよりも児島方面へ出る ほうが安いため、島民は児島方面へ出ることのほうが多いようである。  また、岩黒島には現在、小学生8人、中学生2人の計10人が島内にある学校に通っている が、幼椎園児や乳児もいるので、子どもはまだ居るだろうということである。岩黒島には幼稚 園がないため、幼稚園児は隣の櫃石島までバスで通っている。学校白よ給食がなく、子どもた ちはお昼に一度家に帰って昼食をとる。  しかし、橋ができて便利になったとはいえ、良いことばかりではないようである。橋を通る 電車や車、の騒音には慣れたが、それでも早朝と夕方に通る貨物列車、の音は気になるということ である。また、枚急車、や消防車は櫃石島経由で来るため、到着までに時間がかかる。そのた め、島の中で若い人たちによって消防団が組織され亡いる。ボヤ騒ぎが起こった時も島民でバ ケツリレーをして消火にあたったそうである。 ②インフォーマントの岩本美鈴さん(53歳)によると、岩本さんは、民宿岩本で女将をされて いる。民宿岩本は、岩黒島の中心ともいえる場所に、海に面して建っている。二階の部屋から は海を見渡すことができ、右手には瀬戸大橋が見える。私たちは民宿岩本の自慢の魚料理を昼 食にいただいた後に、岩本さんにお話を聞いた。  岩本美鈴さんは生。まれも育ちも岩黒島の方である。瀬戸大橋ができる前までは、民宿は経営 しておらず、岩本商店という商店を営んでいた。現在の岩本さんのお仕事は民宿の女将として 島内の郵便配達、国勢調査、水道のメーター計測の仕事など、島にとって欠かせない仕事を引 き受けている。ところで、なぜ岩本さんは商店から民宿へと仕事を変えなければならなかった のだろうか。岩本さんによれば、瀬戸大橋の完成が大きく影響していると言う。  瀬戸大橋ができる前は、島民の買い物はもっぱら島の中でのものであった。島から出るには 船を使わなければならないからだ。そのため岩本商店では、お米や肉、魚などの食料品はもち ろん様々な日用品や雑貨などを取り揃えていた。しかし、瀬戸大橋の完成に伴い、島民たちは 自家用車。で岡山方面(特に児島)に買い物に出られるようになったため、岩本商店での売り上 げは同時に減少の一途をたどったのである。現在では、なかなか買い物に出ることのできない 高齢者の方のために一部を残しているだけだという。こうして商店の利用者の減少を受けて、 民宿を始めたのである。民宿を始めた当初は、本州から来る観光客がたくさん来ていたが、阪        −67− g ゛ Q   へ

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渡 逼 安 男  崎 浜 聡  渡 遜 友 明 神大震災が起きた後は、その影響によって観光客は減ってしまった。今では、観光客というよ り、釣りに来る人たちが多いようだ。岡山県などからメバルやチヌを目当てに夜釣りをしに最 終バスで来る人たちも多いという。このように現在の岩黒島は観光という点では停滞気昧であ るといえる。  次に私たちは、瀬戸大橋ができたことで島民の生話がどのように変化したかを聞いた。ま ず、仕事面では、岩黒島では漁業が盛んであったが、瀬戸大橋ができたことで潮の流れが変わ り、近年での漁獲量の減少に少なからず影響しているだろうということであった。そのため瀬 戸大橋建設の前に、岩黒島の漁師達には多額の補償金が出ている。岩黒島の中で目立、っていた 新築の家々は、その補償金を利用して建てられたようである。漁獲量が減少したとはいえ、漁 師の方々は漁業を続けているとのことであった。  また、島での教育環境においては、島内に小学校と中学校があり、子ども達はその学校に 通っている。しかし、島内には幼稚園がないので、幼児達は送迎バスで櫃石島の幼稚園に通っ ている。瀬戸大橋ができたことで、子どもの敦育環境が拡大したといえるだろう。  最後に島の行事4こついてであるが、島では年5回程度の祭りがあり、それぞれ当番の方が準 備等をして、お接待をしているという。また、島の中には、公民館の横にゲートボールの練習 場があった。島ではゲートボールが盛んであり、毎週の月曜・水曜・金曜に練習が行われて いる。年に数回、岩黒島や与島、櫃石島などの島同士の人が集まり「ふれあい運動会」として、 ゲートボールの試合も開催されている。 ③考察  今回岩黒島の調査に出かけてみて、驚いたことは私たちが調査に行く前に持っていた印象と 実際の島の状況が違っていたことであった。私たちは島ということだけで、どこか寂しくさび れた印象をもっていたのだが、実際に岩黒島に到着すると出迎えてくれたのは、島の小学生達 が作成したという「ようこそ」の看板であった。そこから島の小・中学校に続く道では、島内 を案内するマップなども子ども達の手作りで貼られており、子ども達の元気なパワーを感じな がら島内を歩いたが、その途中に目立っていたのは、新築の家である。私たちの予想は、木造 の古い家ばかりであろうというものであったのでこの光景は衝撃的であった。薪築の家がある ということは、これからずっとこの島に住んでいくということに違いないので、様々な面で不 便な島での生活を想像すると意外であった。  しかしながら、島の方にヒヤリングしていく中で、岩黒島は決してさびれていく運命ではな いことを確信した。そのように思ったのは、予想より生活は瀬戸大橋のおかけで、不便ではな いことも確かであったが、一番はこの島で生活している子ども達である。家から聞こえてくる 幼子の泣き声から、元気よく居間に放り投げられたランドセルから、リビングルームに飾られ た子どもの笑顔の写真から、この島には未来につながる子ども達がいることを感じ取ることが できた。  そして、子・ども達の存在が何よりも地域にとっての「宝物」であると思った。それは島に限っ たことではなく、どんな地域においても、どれほどその地域が経済的に発展している所であろ うと、未来にその地域で生活していく担い手・がいないと意昧がないのだ。そして、未来を担。う 子どもから、過去を伝授していく高齢者まで、各世代が揃い、そして互いに関係性を持つこと によってその場所は初めて地域として活性化するのではないかと思った。そしてそうあるため には、岩黒島のような小さな地域にも生活や福祉や教育の面が充実していなければならないと 思った。

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       −68-瀬戸大橋の橋脚の島の人々の生活と教育と地域課題  そして、何よりも今の岩黒島に必要なのは、観光客の呼び込みである。震災の後、減ってし まった観光客だが、効果的なアピー-ルができれぱ、瀬戸内海を見渡せで、ゆっくりと体と心を 休めることできるこの島の魅力は県内に限らず県外の人にも伝わる。岩黒島の活性化を目指し て、いかにして瀬戸大橋からの呼び込みをしていくかが、これからの課題であり、鍵であるだ ろう。 (3)橿石島   ・、  ①櫃石島についての地理的・統計的数宇などを最初掲げておく。   【所在地】香川県坂出市   【面積】0.85平方メートル   【周囲】5.4キロメートル   【標高】79メートル   【戸数】113戸(実質は103戸)   【児童・生徒数】幼稚園12∼13人、小学校13∼14人、中学校5人 ②池田勉さん(自治会長)へのインタビューから要点を述べることにしたい。  ②−1:瀬戸大橋について   櫃石島に車で入るためにはカードが必要である。このカードは免許証1枚につき、半額  カードが発行され、車、を待っていない人には、全額カードが発行される。現在は、島外の大  工、仕出屋などの業者もカードを所有できるようになり、便利になったということである。  しかし、香川や岡山に週に何回も行くことでの交通費も「馬鹿にならない」ということであっ  た。交通費さえ安ければ、もっと便利になるとおっしやっていた。   騒音についてだが、最初はやはり気になったそうであるが、今でも、西風が強いに日は騒  音が気になることもあるが、架橋から約20年、が経つと、もう「慣れてしまった」とのことで  ある。 ②−2:櫃石島の産業について  漁師である池田さんから、漁業についても色々なことを話してくださった。櫃石島では、 タイ、メバル、スズキ、マダコ、手長ダコ、エビ、タイラギ貝などが獲れる。漁獲量と瀬戸 大橋との因果関係はわからないが、漁獲量は横ばいか下がり気昧となっている。タイラギ貝 の出稼ぎで佐賀県の有明海近くから獲りに来る人がいる。また、若い人で、跡を継いで漁師 になる人も多いらしい。 ②−3:香川・岡山との関係について  行政サービスは香川県や坂出市から受けている。例え、ば、医者が週に2回坂出から診察に 来る。消防や款急も坂出からである。漁業組合の本拠地も坂出にある。また、高校も多くの 人が坂出に行くということである。しかし、櫃石島は目の前に岡山があり、坂出に行くより も、岡山に行くほうが近いことから、生活圈は瀬戸大橋ができる前から岡山だったそうであ る。業者も岡山の業者が多く、買い物も岡山で済ませることが多い。水も瀬戸大橋を利用し て、岡山の高梁川から分けてもらっている。坂出からも診察に来るが、岡山の下津井の病院 から送迎用のバスが出ているため、診察も岡山を利用する人が多い。 −69−

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渡 逼 安 男  崎 浜 聡  渡 逼 友 明 ③−4:池田勉さんへのインタビューを終えて  櫃石島でも、若者の数が滅り高齢者が増える少子高齢化が進んでおり、その影響は都市部 よりも深刻に思えた。池田さんがもう少し若者に住んでほしいとおしゃっていた意味がなん となく分かったような気がした。若者に住んでもらうために、櫃石島をあげてのイベントな どを行っているが、イベントをする意味があるのか、イベントをすることで本当に若者が住 んでくれるのか、イペントを行うよりも住環境を整備したほうがよいのではないか、など半 信半疑の状態であることがわかった。       ‥  瀬戸大橋ができたことにより、生活は便利になったと言え、るが、通行料、少子高齢化など 問題はたくさんあると実感した。インタビューを通して、現状をしっかりと受け止めつつ、 今後の課題を把握すること、そして、課題改善のために努力することが必要だと思った。し かし、ただ便利さだけを追求するのではなく、本来持っている島の良さ、人々の温かさを残 しながら、発展していってほしいと思った。       ■ ■ ㎜      ■ ③東山美枝子さん(婦人会長)へのインタビューから要点を述べることにしたい。  ③−1:瀬戸大橋について   橋ができる以前は、水を島の井戸に頼っていたので、水不足の際には大変困ったそうであ る。水不足の時にわざわざ実家のある児島(岡山県)まで帰って洗濯したというエピソード  がある。今は岡山県から瀬戸大橋を利用した水管によって給水が行われている。   騒音問題については、場所によってはうるさいそうであるが、生活をしている場所セは問  題はないが、学校付近(橋を造る際に埋め立、てられた場所)はうるさい。   東山さんは、騒音よりも通行料の高さの方がデメリットであると感じている。買い物や通  院など、日常の用事は島外で済ませるため、頻繁に車。を利用して岡山県の児島まで出て行  く。毎月、□座から引き落とされる通行料も一、般の通行料の半額とはいえ、かなりの額にな  るという。 ③−2:櫃石島の婦人会について  現在、会員数は41名である。会長1名、副会長2名で構成されている。多くの場合、子ど もを産み、子育てが一応落ち着いた、30歳くらいの女性が入会する。島内には60歳から入れ  る老人会もあるが、80歳をすぎた方も婦人会に入っている。老人会という響きよりも婦人会  という響きを好まれる方もいるそうである。  婦人会の活動は、敬老会、運動会、菊祭りに参加し、お年寄りにお弁当を作ったり、手作  りの料理を振舞う食事会を開いたりして、福祉活動を行っている。主。な活動場所は、港のそ  ばにある「老人いこいの家」や学校のそばにある「公民館」である。 ③−3:束山美枝子さんへのインタビューを終えて  今では香川県が水不足で悩んでいても、櫃石島の人々は、岡山県から水が通っているため 困ることがない、というのは興昧深かった。さらに、岡山県に頼っているのは水だけではな く、通院や買い物など、生活に必要な多くのものであった。それにも関わらず、櫃石島が香 川県に位置づけられていることに違和感があった。  現在、島民として不便に思うことが通行料の高さである。橋ができる以前は船を使わなけ れば島から出られなかったが、今では通行料さえ払えば、自由に自動車で島から出られるの である。簡単に島の内外を行き来できない島の暮らしを通行料で変えられるなら、通行料の       −70−

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瀬戸大橋の橋脚の島の人々の生活と教育と地域諜題 高さは仕方のないことではなかろうか、と感じた。しかし、実際に払う側としたら、通行料 さえなければ、島の外へ出る頻度も増え、るし、もっと便利な生活に変わるだろうと思う。  瀬戸大橋の通行料が無料になったら、感覚的に、橋で陸と繋がった島は、海に囲まれた島 ではなくなる。完全な陸続きの島になるのではないだろうか。瀬戸大橋を渡る際に、通行科 を払わせることは、一般自動車に対しては当然のことである。ただ、橋脚の土、地を提供した 島の人々に負担をかけるのは当然のことなのだろうか、ということには疑問を感じた。 4.三づの島々の特徴と比較  (1)世帯数、人口 (表2)3島の世帯数、 人口

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面 積 汗方km) 世帯数肺) 人口(人)  人口の増減 (昭和60と比較) 与 島 1,10 76 148 −459 岩黒島 0,,16 32 94 −3 櫃石島 0,,85 97 236 −119       (平或17年・国勢調査より)  表2より、三島とも瀬戸大橋開通後も人口は減少していることがわかる。しかし、その人口の 増減の著しさは、減少の実数、割合とも「与島>櫃石島>岩黒島」の順に表すことができる。ま た、どの島にも家族で暮らす世帯もあるが、独居老人が多い。   犬     と (2)産業  [3島の主な産業]  ・与島  観光(フィッシャーマンズ・ワーフ)\  ・岩黒島 漁業(剌網漁業と撒き餌釣りを中心とした沿岸漁業)、民宿。  ・櫃石島 漁業(潜水による立、貝採取と底引き網漁業)、民宿。  与島は瀬戸大橋ができる前は、塩業、石材業、石材を運ぶための汽船が主な産業であったが、 瀬戸大橋建設によって、石材が採れなくなったため、多くの石材、汽船業者が廃業になった。現 在、塩田跡地はフィッシャーマンズ・ワーフという観光施設に変わっている。  岩黒島、櫃石島も瀬戸大橋ができた際、漁業をやめて、本州へ出稼ぎに行く人もいた。その一 部の人たちは島に戻り、再び漁業をしている人もいる。また、二つの島には民宿もあり、本州か ら泊まりに来る客が多い。または、岡山から夜釣りに来る客もいる。  与島が瀬戸大橋によって、以前の産業が廃れてしまったのに対して、岩黒、櫃石島は漁業を継 ぐ人は減ってしまったものの、廃れてはいない。 (3)教育環境  [3島の学校状況・幼稚園施設状況]  ・与島  幼・小・中学校はともに休校  ・岩黒島 小学校一児童数7名       中学校一生徒数3名  ・櫃石島 幼稚園一園児数13名       小学校一児童数11名 71

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渡 擾 安 男  崎 浜 中学校一生徒数2名 [平裁19年度5月1日現在] 聡  渡 逼 友 明 (平成18年,国勢調査より) (表3)与島・岩黒島・櫃石島の学校の概要 ○幼稚園Kindergartens 園名(公立) 所 在 地 電 話 園児数 学級数 教職員数 与島幼稚園 与島町514番地4 休  園 櫃石幼稚園 櫃石585番地17 43 − 0203 10 2 2 ○小学校 Elementaly Schools 校名(公立) 所 在 地 電 話 児童数 学級数 敦職員数 与島小学校 与島町514番地4 休  校 岩黒小学校 岩黒240番地 43づ)104 9 3 5 櫃石小学校 櫃石585番地17 43 − 0203 12 3 5 ○中学校 Lowel Secondaly Schools

校名(公立) 所 在 地 電 話 生徒数 学級数 敦職員数 与為中学校 与島町514番地4 休 校 岩黒中学校 岩黒240番地 43 − 0104 2 1 4 櫃石中学校 櫃石ち85番地17 43 − 0204 5 2 5       (『坂出市教育要覧』平威19年渡より抜粋)  岩黒島は小学校、中学校が同じ敷地、施設にあった。櫃石島は小学校、中学校が一つの敷地に あるだけでなく、幼稚園も同じ敷地にある。岩黒島の幼児は櫃石島にある幼稚園に通園バスに 乗って、通っている。 (4)生活圈      …………  与島は通院、買い物などは坂出(香川県)で済ませる。づ岩黒島、櫃石島は児島(岡山県)で済ま せる。その理由は通行料の高さにある。 (表4)通行料金(普通車)の額(通行1回あたり:単位 円) 児   島 椴 石 島 800 岩 黒 島 650 1,450 与島、与島PA 750 1,400 2,200 坂 出 北 2,650 3,350 4,050 4,850 坂   出

2,750 3,500 4,150 4,950 注1:この表は櫃石島、岩黒島、与島を通行できる自動車として本州四国連絡高速道路株式会社が指定し    たものについて適用する。 注2:この表は割引前の料金である。  表4より、通行料が高いため、岩黒島、櫃石島の人たちはあまり坂出に出かけない。与為は岡 山より坂出(香川県)に近いが、通行料金を見れば、坂出に行く頻度は、櫃石島、岩黒島の人々 が児島(岡山県)へ行く頻度に比べれば低いのではないかと予測できる。また、櫃石島は児島の 方が近いため、タクシー、仕出し、電気工、事などの業者も岡山県の業者を頼りにしている。漁船        −72−

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  , / / ` ’ ノ 瀬戸大橋の橋脚の島の人々の生活と教育と地域課題 の購入や葬儀まで岡山県の業者に任せる。  しかし、三島とも所在地は香川県坂出市のため、救急車、消防車などをはじめとする行政サー ビスは香川県から来るようになっている。与為は坂出に近いため、すぐに来てくれるが、岩黒、 櫃石島は遠いので時間がかかるというデメリットがある。 (5)まとめ  与島の人□が他の二島に比べて減少が著しいのは、塩、業、石材業、汽船の産業が廃れたこと、 瀬戸大橋が架かっていても、通行料が高いため、坂出へも児島へも行き来しにくいことにあると 考えられる。  それに比べ、岩黒島、櫃石島の二島は産業が残っており、通行料も与島に比べて、児島へ行く には安い。また、岩黒島、櫃石島の違いは幼稚園の有無である。櫃石島に幼稚園があるのは、島 の位置が児島に最も近く、児島へ行き来しやすいためであると考えられる。なぜなら、その便利 さから、若い人の流出が岩黒島よりも少なく、20∼30代の若い親世代がおり、小さい子どもたち がいる家族が居るからである。 5.おわりに       /         十  瀬戸大橋の橋脚の島一与島・岩黒島・櫃石島−の調査研究を通じて見えてきたものと今後の課題 を最後に述べたいと思う。 (1)僻地の法的基準と実態との格差一過疎化の進展についてー  「へき地教育振興法施行規則」における島用僻地の基準は、「本土かちの海上の距離」や「市の中 心地までの距離」、「市町村教育委員会までの距離」など所属する都道府県の中心地や本土との距 離が「僻地」を規定する重要な基準となっている。したがって、坂出市・高松市から距離が離れ ている島嶼ほど過疎化が進展していると予測される。         (表5)3島の香川県側のICと岡山県側のICの距離 島   名  (Km)【香川県】坂出ICまでの距離  (Km)【岡山県】児島ICまでの距離 与   島 8.2 7.2 岩 黒 島 1 0.2 5.3 櫃 石 島 12 3,,9 (坂出市観光課ホームページより)  しかしながら、今回の調査によって、明らかになったことは、岡山県の児島・倉敷に近い島ほ ど、現代的でモダンな雰囲気を持っていた。例えば、櫃石島でトイレを拝見したが、カラフルで 超近代的(最新型のもの)であったし、与為には民宿はないが、岩黒島と櫃石島には民宿があり、 漁業の方も盛んであった。さらには、櫃石島の自治会長さんのお宅をはじめ門構えも武家屋敷的 で、村上水軍の末裔であるとお話されているだけの風格があった。  香川県の坂出市・高松市から近い与島よりも岩黒島が、岩黒島より櫃石島の方が「活気」があ ると感じられた。距離的に岡山県に近い島々、特に櫃石島では、経済的、効率的な面から生活圈 は岡山県の児島、倉敷、岡山市などへ出かけているが、行政面は香川県・坂出市に属している。 このように行政区域と生活圈の乖離が見られる島々の人々は、両者の乖離にあっても実生活を 「たくましく生、きている」ということが言えると思う。       −73−

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渡 逢 安 男  崎 浜 聡  渡 逼 友 明 (2)騒音  20年・前の調査では「静かな、白い砂浜も失われ、うるさい島になってしまうのでは?」と詩の ような形で書いてくれる方などがあった。今回め調査では、「もう騒音に慣れてしまった」と異 口同音に答えている。 (3)通行料  橋脚の島の人々に通行料をもっと安くすべきではないのか、という考えをもっている。なぜな ら、橋を支えているのは橋脚の島の人々だからである。 (4)少子高齢化       ▽  少子高齢化が与島、小与島で加速的に進んでいるので、早急な対策を練ることが必要である。 (5)調査を終えて  「教育は百年の計」であるから、1年後、2年・後に調査にくるべきではない、と20年・ほど前に 島の調査をしていた時に島民のある方から言われたが、また、百年もしないうちに、調査に来て しまった。年・飴を考えれば仕方のないことであり、今後の研究に期待したい。 参考文献 (1)青井知夫・松原治郎・副田義也編『生活構造の理論』有斐閣、1971年。 (2)渡擾安男「瀬戸大橋架橋の島々の住民の生活意識」『瀬戸大橋架橋に伴う地域社会の社会体系・生活体系・  文化体系の変容に関する総合的研究』(昭和63年度教育研究特別経費による報告書)、香川大学教育学部、1989  年・。 (3)中嶋明勲/渡擾安男編著『変貌する地域社会の生活と教育』ミネルヴァ書房、1991年・。 【付記】この研究報告は、「日本社会教育学会」の第54回研究大会(月日:2007年・9月8日∼9月10日、 会場:東京農工大学)の自由研究発表の第11室午前(地域・地城問題)において渡撞安男が発表した 「瀬戸大橋の橋脚の島の人々の生活と教育と地域問題一開通から満20周年を目前にしてー」に加筆・ 修正。を施したものである。 【謝辞】快く調査研究に協力してくださった与為、岩黒島・櫃石島の方々に深く感謝の意を表したい。  また4調査研究に同行して、ヒヤリング調査に臨席していただいた香川大学教育学部の学生の4 年生の掛田亜希さん、3年亜の阿宅由芽さん、奥山舞子さん、金家弘枝さん、三好彩香さん、山川 莉恵さん、山崎淳士君、山本敦美さんたちにも深謝したい(学年は調査時の数字を示す)。  さらに、調査当時の香川大学大学院教育学研究科院生、の高田英治君、矢吹有樹子さんにも聴き取 り調査に協力していただいたことに深く感謝したい。 −74−

参照

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