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エーバハルト・ユンゲル『キリスト教信仰の中心としての、神なき者の義認の福音—エキュメニズムを目指す神学的研究—』(1)

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(1)

一 エーバハルト・ユンゲル﹃キリスト教信仰の中心としての、神なき者の義認の福音

エキュメニズムを目指す神学的研究

﹄ ︵ 1︶ [翻訳]

エーバハルト・ユンゲル﹃キリスト教信仰の中心としての、神なき者

の義認の福音

エキュメニズムを目指す神学的研究

﹄ ︵

1︶

Eber

har

d Jüngel

:

Das Evangelium von der R

echtfer

tigung des Gottlosen als Zentr

um

des christlichen Gl

aubens

̶

Eine theologische Studie in ök

umenischer Absicht.

Mohr Siebeck, 1998, 2011

6

. ︶

︵佐々木

勝彦

訳︶

  目次   第六版への序   第五版への序   第四版への序   第三版への序   第二版への序   第一版への序 第一章   序   一   単純なことを理解することのむずかしさ   二   問題になっていること   三   義認

日常的用語法   四   ﹁この条項がなければ、世界は死と闇にすぎない﹂    1   カインの記憶    2   十字架につけられたイエス・キリスト 第二章   義認条項の神学的機能

(2)

二   一   宗教改革における高い評価   二   神学的留保      カール・バルトとの対決   三   明らかに低い評価    1   神概念    2   罪概念    3   近代人の自由の理解    4   神の存在についての問い   四   解釈学的カテゴリーとしての義認論 第三章   義認の出来事

神の義   一   正義の伝統的概念    1   律法と正義の称賛    2   神の属性としての義    3   各 人 に 彼 の も の を

プ ラ ト ン と ア リ ス ト テ レ ス 以 来 の 正義   二   神の義のキリスト教的概念    1   関係概念としての神の義    2   この表現のパウロ的用法    3   神の怒りと神の義    4   神の義の啓示の場としての福音    5   マルティン・ルターの宗教改革的発見    6   神は、われわれを義とするがゆえに、義である    7   神の義とわれわれの義   三   イエス・キリストの人格における神の義の出来事    1   神の人間性の出来事としての神の義    2   神の自己対応の出来事としての、イエス・キリストの存在    3   三一の神の存在における義の出来事    4   恵みの行為としての神の裁き 第四章   罪の不真実   一   罪の認識    1   悪と罪の規定根拠としての神関係    2   罪人の自己同一化    3   罪 の 認 識 根 拠 と し て の 福 音

律 法 と 福 音 の 正 し い 区 別 のために   二   悪の総括概念としての罪    1   悪の本質    2   嘘の罪   三   罪の実行者および罪の奴隷としての人間    1   行為および権力としての罪    2   罪の両極性に対する聖書の証言    3   原罪

誤った概念か ?     ︵ a︶   神学史的想起     ︵ b︶   原罪の表現

peccatum haer editarium [遺伝的罪]     ︵ c︶   いつもすでに罪人

peccatum originale [原罪]     ︵ d︶   根底からの罪人

peccatum radicale [根元的罪]     ︵ e︶   人生についての錯覚に巻き込まれることとしての原罪

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三 エーバハルト・ユンゲル﹃キリスト教信仰の中心としての、神なき者の義認の福音

エキュメニズムを目指す神学的研究

﹄ ︵ 1︶    4   人間は罪を犯さざるをえないのか ?    5   罪の帰結   四   不信仰としての罪    1   罪の力の増大としてのキリスト者の不信仰    2   神の義の強奪としての不信仰    3   不信仰の悪循環    4   善と悪を区別しようとする不信仰の欲求    5   高慢と、愚かさへの墜落の悪循環    6   罪責としての不信仰

人間の忘恩    7   自分自身の内側へと曲がり込んでいる人間︵ homo incur va -tus in se ︶    8   言語喪失としての不信仰と、人間の救済の願い 第五章   義とされた罪人      ︵宗教改革の︶ 排他的不変化詞の意味   一   キリストのみ ︵ solus Christus ︶    1   イエス・キリストの排他性と包括性    2   神のみであるがゆえに、キリストのみ    3   イエス・キリストの代理的犠牲の死     ︵ a︶   理解の問題     ︵ b︶   罪の告白と、失われた全体性の告白としての犠牲     ︵ c︶   犠牲の約束と問題性     ︵ d︶   旧約聖書の贖罪制度     ︵ e︶   世界のサクラメントとしてのキリスト     ︵ f︶  神の自己献身としてのキリストの死     ︵ g︶   キ リ ス ト 者 の 生 活 の た め の メ タ フ ァ ー[ 隠 喩 ] と し て の犠牲    4   ト リ エ ン ト 公 会 議 と 第 二 バ チ カ ン 公 会 議 に お け る︽ キ リ ス トのみ︾という排他的不変化詞   二   恵みに基づいてのみ ︵ sola gratia ︶    1   恵み ︱︱ 法と神学における恵み    2   神と人間の愛の交わりの構成要素としての恵み    3   恵みのみ ︱︱ 神学的論争    4   恵みか、業績か    5   ト リ エ ン ト 公 会 議 に お け る︽ 恵 み の み ︾ と い う 排 他 的 不 変 化詞     ︵ a︶   恵みに基づいてのみ ?     ︵ b︶   恵みの概念における諸々の差異     ︵ c︶   注がれた恵み     ︵ d︶   人間のうちに働く力としての恵み ?   三   言葉によってのみ︵ solo verbo ︶    1   法的行為としての神なき者の義認    2   内的人間の革新    3   義人で同時に罪人    4   原 │ 分割としての義認の判決    5   福音によってのみ    6   言葉とサクラメント   四   信仰によってのみ ︵ sola fide ︶

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四    1   自己発見と自己忘却としての信仰    2   救いの確信としての信仰    3   ﹁信仰が人格を作る﹂    4   聖 な る 者 の 交 わ り と し て の 信 仰 者 の 共 同 体

す べ て の 信仰者の普遍的祭司性   第六章   神の義に基づく生   一   人生についての錯覚からの解放   二   礼拝に生きる生活   三   人格的存在の優位性   四   この世の正義

第六版への序

本書をもう一度通読しなかったわけではなかったが、ひとりの 注意深い読者がひとつの誤植をみつけてくれた。それは、本文が 印 刷 さ れ る 際 に、 わ た し 自 身 が す で に み つ け て お く べ き も の で あ っ た。 つ ま り、 一 九 二 頁 ︵ 原 文 ︶、 上 か ら 七 行 目 の simus は、 simul の 誤 植 で あ る。 こ の 訂 正 は ど う し て も 必 要 で あ る。 な ぜ な らその神学的了解は、今や現実に、ここで挫折してはならないか らである。 テュービンゲン   二〇一一年   一〇月 エーバハルト・ユンゲル

第五版への序

教 皇 ベ ネ デ ィ ク ト 十 六 世 の 最 初 の 回 勅︽ 神 は 愛 で あ る[ DEUS C ARIT AS EST ]︾ を 福 音 主 義 の キ リ ス ト 者 の 目 で 読 む 者 は、 こ の 回勅の表題の解釈を視野に入れつつ、さらに広がり、また深まる エキュメニカルな一致を確認することができる。しかし本書の第 四版の序のなかで提起された諸々の問いは、その緊急性をまった く失っていない。それどころかまったく反対に、それらはますま す焦眉の問題になっている。それらに答えるには、もちろんあの 忍耐が、つまり息の長い情熱と同様の根気が必要である。わたし は、神学と教会のなかで責任を負っているすべてのひとが、二つ のもの、つまりあの性急さとこの息の長い情熱の双方をもつこと を願っている。 テュービンゲン   二〇〇六年   九月 エーバハルト・ユンゲル

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五 エーバハルト・ユンゲル﹃キリスト教信仰の中心としての、神なき者の義認の福音

エキュメニズムを目指す神学的研究

﹄ ︵ 1︶

第四版への序

その後、教会同士の了解はどうなったのだろうか ?   どうした らそれは進展できるのだろうか ?   それは進展すべきものなのだ ろうか ?   本研究は ﹁エキュメニズムを目指して﹂ 書かれたため、 このような問いが、筆者に幾分激しくかつ執拗に迫ってくる。 目下のところ、本来、答えはより広範な問いのうちにのみあり うる。ルーテル教会とローマ・カトリック教会が、それによって 教会が立ち、また倒れる条項を視野に入れつつ、みいだしたと主 張した一致は、どれほどの深みに達しているのだろうか ?   そし てそれは、どれほどの広がりに達しているのだろうか ?   あちら とこちらの教会の生活にとって、またひとりのキリスト者の生活 にとって、このような一致は、知覚しうる諸々の結果をもたらさ なかったのだろうか ?   ベルリンで開かれた、エキュメニズムに 関 す る 第 一 回 ド イ ツ 教 会 会 議 の 補 遺 の な か で 明 確 に 表 明 さ れ た、 エキュメニズムに批判的な叱責の言葉を思い起こすとき、そして ご く 最 近 の エ キ ュ メ ニ ズ ム に 関 す る 教 会 会 議 を 念 頭 に 置 き つ つ、 すでに現在生じている諸々の争いに注意を払うとき、義認の教理 の核心に関するほめたたえられた了解は、一体、現実に何に到達 したのかという問いが執拗に迫ってくる。エキュメニズムの停滞 の原因は、本当に、双方の側において義認論条項という共通の要 素が、 キリスト教的生活に刻印するその力が、 もはや説得力をまっ たくもたなくなったことにあるのだろうか ?   本研究の最後の章 で 語 ら れ た、 神 の 義 に 基 づ く 生 活 の 諸 々 の 根 本 的 特 徴

そ の 結果、神なき者の義認の福音の、生活を新たにする力が経験され る よ う に な る

は、 ど の よ う に し て 補 充 さ れ う る の だ ろ う か ?   信仰告白を異にする諸教会がまさに了解し合えないことに 関しては、了解は不必要なのではないか ?   最終的に克服できな い相違は、教会の職務の権威と聖書の権威の関係が問題であると ころにあるのではないのではないか ?   そして何が本来的なもの な の か ?   あ ち ら と こ ち ら で 何 が 権 威 と し て 考 慮 さ れ て い る の か ?   全体を丹念にチェックした第四版が、同じような問いを呼 び起こすきっかけになるとしても、それはまだ余分なものではな いだろう。 テュービンゲン   懺悔と祈りの日   二〇〇四年 エーバハルト・ユンゲル

第三版への序

本書が出版されて一年もたたないうちに、その第三版が印刷さ れたことを著者が喜ぶとしても、それは単なる学究的うぬぼれか

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六 ら生じたものではない。むしろこの薄い書物が、 男女の牧師たち、 宗教の教師たち、そして真剣にキリスト者であろうとし、それゆ えに基本的な方向づけを尋ね求めるその他の多くの、福音主義と カトリックの社会人によって、明らかに、キリスト教のよりよい 自己理解を提示するものとして認められたことを、わたしは喜ん でいる。まさにそれは、たしかに、この出版の根底にあった意図 であった。すなわちそれは、キリスト者とその教会を助けて、福 音にふさわしい自己理解をえさせることであった。そしてこの意 図の実現が、教派主義的独善としてではなく、現実に、非妥協的 な姿勢にもかかわらず︽エキュメニズムを目指して︾執筆された 研究として受け入れられたことにより、わたしはこう確信してい る。つまりこの小著は、個々の論争点にもかかわらず、すべての 人 を ひ と つ に す る た め に ︵ ヨ ハ ネ 一 七 ・ 二 一 ︶、 そ の や り 方 で 貢 献 することができる、と。 まさにそれゆえ新版においては、少なくとも、最近数カ月の間 に、義認論の核心におけるエキュメニカルな了解の試みに関する 対決を規定した議論に言及したいと考えている。わたしはあえて 次のことを想起しておきたい。つまりバチカンとルーテル世界連 盟の間で取り決められた︽義認の教理に関する共同宣言︾をわた し が あ る 程 度 明 確 に 批 判 し た こ と、 そ し て わ た し の み る と こ ろ、 まずわたしだけがそうしたことである。この干渉の目的は、もち ろんエキュメニカルな合意を阻止することではなかった。わたし の批判を通じて、少なくとも百六十名以上の福音主義神学の教授 たちが抗議の声を挙げ、その批判は強化された。しかしながらわ た し は、 男 女 の 同 僚 た ち に よ る 抗 議 を 取 り 入 れ る こ と が で き な か っ た

わ た し は 多 く の 点 で そ れ に 同 意 し、 し か も 少 な か ら ぬ文言がわたしによって提案されていたにもかかわらず。なぜな ら若干の言明は、教派主義的不毛性の表現のように思われたから で あ る。 バ チ カ ン が、 類 比 的 な 教 派 主 義 的 不 毛 性 を も っ て

そ し て そ れ が た と え た し か に﹁ 偉 大 な 力 ﹂ を も っ て で は な い と し て も、 し か し﹁ 多 く の 策 略 ﹂ を も っ て

反 応 す る こ とができるという単なる可能性は、わたしにとって﹁ルター、す べてを越えるルター﹂と歌い始める十分な理由とは決してならな かった。たしかにマルティン・ルターは、彼のようなひとを探し 求める教会の教師である。そして使徒パウロの後に、神なき者の 義認の福音をルターほどに根本的に考え抜き、そして印象的な仕 方で主張した神学者はいなかった。しかしルターは、特に、その 不可謬の神学的権威に祭り上げられることを断固として禁じたが ゆ え に、 教 会 の 比 類 な き 教 師 で あ る。 ﹁ ル タ ー は 何 者 か ?   す べ ての教えはわたしのものではない。わたしはだれのためにも十字 架にかけられてはいない。貧しく、悪臭を放つ、蛆だらけの袋で あるわたしが、どのようにして人びとに、わたしの邪悪な名前を

(7)

七 エーバハルト・ユンゲル﹃キリスト教信仰の中心としての、神なき者の義認の福音

エキュメニズムを目指す神学的研究

﹄ ︵ 1︶ もってキリストの子どもと呼ばれるようになるのか。そうではな い、愛する友よ ⋮⋮﹂ ︵ W A8, 685.6 -10 ︶。 繰り返すが、教会のこの教師に耳を傾け、彼から学ぶ覚悟のあ る者は、ありあまるほど報われる。わたしはこれを試みた。まさ にこれゆえに、今、わたしは教授たちによる最も新しい抗議行動 と、これに伴う、その他の神学的にややわたしに近い立場に立つ 同僚の筆になる批判的意見書の前に、 幾分困惑しつつ立っている。 最 近 の 抗 議 は、 こ の 前 の 春 に 公 示 さ れ た、 ︽ 共 同 宣 言 ︾ を 補 足 す る︽共同確認︾と、 それに属する︽付録︾に向けられている。 ︽共 同 宣 言 ︾ に 対 す る こ の︽ 補 遺 ︾ に お い て は、 わ た し の 判 断 で は

シ ュ ラ イ ア マ ハ ー の 表 現 を 用 い る と

あ の︽ 調 停 定 式︾が提示されている。それは、十六世紀のあからさまな相互排 斥は時代遅れであると説明することを可能にしている。 人間は ︽信 仰 に よ っ て の み ︵ sola fide ︶︾ 義 と さ れ、 こ う し て 義 と さ れ た ひ と は︽ 義 人 で あ る と 同 時 に 罪 び と︵

simul iustus et peccator

︶︾ で あ るとの、今や共同で言明された諸々の宗教改革的主張が、ここで はその宗教改革的意味に逆らい、トリエント公会議で決定された 義認の意味で解釈されており、その結果、われわれは結局ひとつ の超カトリック主義的テキストに関わっているとの異論に、わた しはまったく同意することができない。 そして次のような主張は、 パウロ的義認論のグロテスクな誤解を示している。 つまりそれは、 教皇庁の信仰聖省長官が、イタリアのある新聞のインタビュー記 事のなかで、そのテキストを、たしかに反宗教改革的に、たしか に反パウロ主義的に解釈し、しかも﹁正しくない者はやはり義と さ れ な い ﹂ と い う 彼 の 主 張 と 共 に、 ﹁ ロ ー マ・ カ ト リ ッ ク 教 会 は 神 な き 者 の 義 認 の 福 音 ︵ ロ ー マ 四 ・ 五 ︶ を 否 認 す る ﹂︵ epd -Dok u-m entati on N r. 36/99 : Str ei t um di e T exte zur R echtfer ti gungsl ehr e ︵ 18 ︶, 30. A ugust 1999, 1 ︶ と表明した。枢機卿ヨセフ ・ ラッツイン ガーは、まさにこのインタビューの最も攻撃的な文章のためにル ターを引き合いに出すことができた。もっと腹立たしいのは、あ のインタビューが一連の最も遺憾な諸々の表現を含んでいたこと で あ る。 そ れ ら に は、 今 日、 ル タ ー 派 の 人 び と は、 ﹁ 彼 ら は 義 認 と い う こ と で 何 を 理 解 し て い る の か ﹂ と い う 問 い に、 ﹁ い つ も [ !] 非 常 に 貧 弱 な 答 え し か ﹂ 得 ら れ な い と い う 厚 か ま し い コ メ ン ト も つ い て い る ︵ aaO ., 6 ︶。 あ の 枢 機 卿 は、 ル タ ー 派 の ど の よ うな人びとと交際しているのだろうか ? 新 版 へ の こ の 序 は、 ︽ 共 同 宣 言 ︾ へ の あ の︽ 補 遺 ︾ と 福 音 主 義 の若干の大学教員たちによって表明された諸々の異論に対し、わ た し の 立 場 を よ り 正 確 に 説 明 し、 そ し て 基 礎 づ け る 場 で は な い。 その代わりにわたしの書いた二つの出版物を挙げておくので、是 非、 参 照 し て い た だ き た い。 ひ と つ は、

Ein wichtiger Schritt.

Deutschen Allgemeinen Sonntagsblattes

Nr

.23, am 4. Juni 1999

(8)

八 で あ る

こ れ は あ の︽ 補 遺 ︾ に 対 す る 最 初 の 評 論 で あ る。 も う ひ と つ は , Kar dinale Pr

obleme. Stimmen der Zeit

︵ Nr . 11/1999 ︶ で あ る

こ ち ら の 方 が よ り 詳 し い 内 容 に な っ て い る。 こ こ に みいだされるのは、 神なき者の義認の福音がわれわれの時代の ︽言 語 ︾ に 翻 訳 さ れ る だ け で な く、 ︽ 教 会 の 実 践 ︾ に お い て も こ の 実 践を導く真理として貫徹されるべきであるとの要求である。 こ の 要 求 と 不 可 避 的 に 結 び つ い て い る の は、 ︽ 義 認 論 の 諸 々 の 基本的真理における︾エキュメニカルな︽コンセンサス︾は、教 皇による、紀元二千年を祝う記念祭の免償の告知といかにして調 和しうるのかという問いである。 そしてさらに差し迫った問いは、 あの合意は、ローマ・カトリック教会の目からみると、福音主義 のキリスト教徒とカトリック教徒の間には相変わらず聖餐の交わ りは存在しえないという霊的な不快感と、いかにして調和しうる の か と い う 問 い で あ る。 ︽ 共 同 宣 言 ︾ の 著 者 た ち が 最 後 の と こ ろ で︵ Nr . 44 ︶ は っ き り と 行 っ て い る よ う に、 わ れ わ れ は、 た と え ︽ユーカリスト[聖餐式] ︾を共に祝う資格が与えられないことを 知 っ て い る と し て も、 ﹁ 教 会 の 分 裂 を 克 服 す る た め の 決 定 的 な こ の 一 歩 の た め に ﹂、 本 当 に、 共 に﹁ 主 に 感 謝 す る こ と ﹂ ︵ εὐχ αριστεɩ ̑ν ︶ ができるのだろうか ? この版では、 本文がほんのわずかだけ修正されている。それは、 ボンの同僚のヴォルフガング・シュラーゲの好意的批判のおかげ であり、彼には深く感謝している。義認と、業による裁きとの関 係についてもっと厳密に論じて欲しいとの彼の望みには、近いう ちに、永遠の生命に関する著書によって答えたいと願っている。 テュービンゲン   一九九九年一〇月 エーバハルト・ユンゲル

第二版への序

本書は、出版後、間もなく絶版になってしまった。喜ばしいこ とに、これまで示された反応はほとんどが好意的であった。第二 版では、若干の提案を喜んで受け入れた。激しい論争のように誤 解 さ れ う る 若 干 の 定 式

そ れ ら は 決 し て そ の よ う に 考 え ら れ ていなかったにもかかわらず

を︽柔らかな表現にした︾ 。い く つ か の 誤 植 を 取 り 除 き、 時 折 み ら れ た 誤 り も 訂 正 し て お い た。 読 者 に は、 是 非 次 の 文 献 を 参 照 し て い た だ き た い。 そ れ は、

Amica Exegesis einer römischen Note. ZThk Beihef

t 10 : Zur R echt -fer tigungslehr e, 1998, 252 -279 ︶ と、 テ ュ ー ビ ン ゲ ン の 同 僚 で カ ト リックのベルント・ヨッヒェン・ヒルベラトと交わした意見交換 ︵ Her der K or respondenz 53. 22 -26, 154 -157, 1999. ︶ である。わたし

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九 エーバハルト・ユンゲル﹃キリスト教信仰の中心としての、神なき者の義認の福音

エキュメニズムを目指す神学的研究

﹄ ︵ 1︶ 自身の教派の仲間との、意志の疎通は同じように有望なものであ ろうか ?   もしも本書がそのようなものになるのであれば、わた しはもう一度こう言いたい。これまでカトリックの神学者たちに よって寛大に受け入れられたのとまったく同様に、フィンランド のルター派の人びとにより寛大に受け入れられたことに、わたし は満足するであろう、と。 し か し な ぜ そ の よ う に 遠 方 へ と 思 い を は せ る の だ ろ う か ?   Ma teria ldien st des K on fes sions ku ndlic hen In stitu ts Ben sh eim ︵ MdKI 50 [ 1999 ], Hef t 1, 19f. ︶ において、本書はたしかに次のよ う に 認 め ら れ て い る。 そ れ は、 ﹁ 義 認 の 範 例 の 解 釈 学 的、 実 存 解 明的、 そして生活実践的遂行力を確信したい﹂ すべてのひとにとっ て、 ﹁ 極 め て 有 益 な ﹂ 本 で あ る。 し か し な が ら こ の よ う に 称 賛 さ れた本も、 それが﹁あまりにドイツ的な本﹂であるということで、 手厳しく非難されている。本書の釈義的﹁保証人たち﹂として挙 げられているのは、 R・ブルトマン、 G・ボルンカム 、 そしてケー ゼ マ ン だ け で あ る。 し か し 特 に 本 書 が 失 望 さ せ て い る の は、 ﹁ エ キュメニカルな解釈の問題へとさらに前進する考察を探究してい る﹂人びとである。われわれは、今このことについて何と言うべ きであろうか ?   わたしはこの評論家に、たしかに彼によって意 図された意味においてではないが、かなり同意しなければならな い。特殊な﹁エキュメニカルな解釈学﹂が存在しなければならな いというこの前提を、 わたしはすでに致命的なものと考えていた。 エキュメニカルな神学はたしかに理解に関する諸々の困難な問題 に直面している。しかしこの諸問題の解決にとって必要不可欠な 解 釈 学 は、 す べ て の ︵ 文 書 に よ る、 あ る い は 口 頭 に よ る ︶ 生 活 表 現 の 理 解 に と っ て 必 要 不 可 欠 な 技 法 論 に 他 な ら な い。 ﹁ 神 学 思 想 は、 ⋮⋮ そ の 考 え ら れ て い る 存 在 の 諸 制 約 ︵ die Bedingungen seines Gedachtseins ︶ を 省 察 せ ず に 済 ま す こ と を 許 さ れ て い な い ﹂ というのが、わたしの見解でもある。その評論家は次のことを見 落としているように思われる。つまり、この小著の第一部全体が このような省察を行おうとしているのであって、特にわたしの師 であるカール・バルトとの︽論拠に関する︾対決において、しか しまたたしかに J・ G・フィヒテとの議論においてもそれを行お うとしている。それにもかかわらず、われわれはあの要求のもと で明らかに何か別のことを理解している。多くの﹁エキュメニス ト﹂の典型であるあの評論家は、ある思想の真理要求を相対化し うるために、この思想の﹁考えられている存在の諸制約に対する 省察﹂を要求する。その真理要求は明らかに宣教のレベルへと追 い や ら れ て い る。 ﹁︽ 断 言 ︾︵ ル タ ー︶ を 敢 行 す る 宣 教 と 神 学 的 思 想の相違﹂が強調されている。これは、今やもちろん、ルターが ︽断言︾ のもとで理解したことを侮辱している。 あたかも断言は ︽考

(10)

一〇 えられる︾ことを要求せず、したがってその考えられている存在 の制約を省察せずに済ませることができるかのようではないか !   ル タ ー の 文 書 De ser vo arbitrio の 冒 頭 の 部 分 を し っ か り と 読 む な らば、直ちに次のことが明らかになるはずである。つまり、宗教 改 革 の 神 学 に と っ て、 ﹁ 宣 教 ﹂ と﹁ 神 学 思 想 ﹂ は︽ こ の よ う に ︾ 相違するという主張は受け入れられない。その評論家がわたしの 小 著 に 欠 け て い る と 嘆 く﹁ メ タ │ 省 察 ﹂ へ の 意 志 が﹁ 共 同 宣 言 ﹂ に認められるということは、明らかに︽省察︾の概念を前提とし て お り、 こ の 概 念 は、 事 実、 ︽ 思 惟 ︾ に 関 す る わ た し の 理 解 と 一 致しない。 さらに、同じ評論家の他の嘆きに対してひとこと述べておきた い。それは、 わたしはまさにブルトマン、 ボルンカム、 そしてケー ゼマンだけを釈義の﹁証人﹂として取り上げているがゆえに、わ たしの聖書釈義は、明らかに一九七〇年代の立場を越えていない との嘆きである。明らかにこの評論家は、彼によって批判される 者は自分の釈義的判断力をもっていないということを前提として いる。事実、わたしは本書において、テーマに関する目下の諸々 の釈義的論争について詳述することを意識的に断念した。わたし は、わたしの博士論文﹃パウロとイエス﹄のなかで確かめられう るこれに関連する諸々の論究を、次のような理由だけで継続しよ うとしなかったわけではなかった。つまり、第一版への序におい て 述 べ た よ う に、 わ た し は 学 会 に 属 し て い な い 読 者 を 考 慮 し て、 学 術 的 文 献 を 引 き 合 い に 出 す こ と を﹁ 完 全 に 断 念 し た ﹂。 わ た し は最も新しい釈義の諸々の着想も取り扱おうとしなかった。なぜ な ら そ れ ら は、 あ ま り に し ば し ば、 ﹁ た と え 他 の 諸 々 の 動 機 と、 ま さ に 対 立 す る 諸 々 の 目 的 設 定 が 含 ま れ て い る と し て も ﹂︵ K. K er telge. Ar t. R echtfer tigung   II. Neues T estament, TRE 28, 1997, 286 -307, 300, 4f ︶、 あ の よ り 古 い 立 場 の 変 種 に す ぎ な い か ら で あ る。 と こ ろ が、 例 え ば、 カ ト リ ッ ク の わ た し の 同 僚 ミ ヒ ァ エ ル・ テ オ バ ル ト に よ っ て ︵ ア ン グ ロ サ ク ソ ン 系 の 釈 義 と の 関 連 で、 ま た そ れ に 対 し て ︶ 主 張 さ れ た 理 解 の 場 合 に は、 事 情 が 異 な っ て い る。その理解によると、ガラテヤ二 ・ 一六とローマ三 ・ 二八のなか で、義認の使信のために言及されている﹁根拠となる文﹂はパウ ロ以前の﹁生活の座﹂をもっている。すなわちそれは原始キリス ト教の伝道の状況である。 そのなかで重要だったのは、 異邦人 ︵キ リ ス ト 者 ︶ を 律 法 の 遵 守 に 依 存 せ ず に 終 末 時 の 神 の 民 と し て 認 め ることであった。その場合、義認の使信は本来︽教会論的に︾方 向づけられていた。この理解によると、パウロの場合、義認のケ リュグマの︽人間論的︾妥当性はたしかにすでに視野に入ってい たが、異邦人を終末時の神の民に組み込むという課題がもはや問 題 に な ら な く な っ た と き、 そ れ は 初 め て 支 配 的 な 視 点 と な っ た ︵エフェ二 ・ 五、 八以下参照︶ 。これはもっともらしく思われる理解

(11)

一一 エーバハルト・ユンゲル﹃キリスト教信仰の中心としての、神なき者の義認の福音

エキュメニズムを目指す神学的研究

﹄ ︵ 1︶ で あ る。 も ち ろ ん、 も と も と 教 会 論 的 意 図 も、 諸 々 の 人 間 学 的、 たしかに厳密な意味で神学的含意を含んでいることが主張されな ければならないであろう。しかしながら神のみが、誰が終末時の 神 の 民 に 属 す る の か を 決 定 す る の で あ る。

ア ン グ ロ サ ク ソ ン系の釈義においてこの関連で出会いうる理解、つまり、義認の 使信は、 異邦人キリスト者のためにユダヤ人の﹁自己同一性の印﹂ ︵ 例 え ば、 割 礼、 神 聖 な 安 息 日 の 遵 守 ︶ を 失 効 さ せ る こ と に 限 定 され、しかしユダヤ人キリスト者自身には何の意味ももたなかっ たとする理解は、わたしの考えでは、パウロが、アブラハムの義 認 と の 関 連 で 神 な き 者 の 義 認 に つ い て 語 っ て い る こ と ︵ ロ ー マ 四 ・ 五 ︶ に よ っ て、 す で に 挫 折 し て い る。 さ ら に、 パ ウ ロ が、 ﹁ ガ ラテヤの信徒への手紙﹂ と ﹁ローマの信徒への手紙﹂ のなかではっ きりと行ったように、神なき者を義とする十字架の言葉としての 福音の解釈に、大いに、しかも体系的に注目したことは、理解し が た く な る で あ ろ う。

Ed.P .Sanders ︵ P aul and P alestinian Judaism, Oxfor d, 1977. dt. :

Paulus und das palästinische Judendtum.

Ei n V er gleich zweier R eligi onsstr uktur en, S tUNT 17 [ 1985 ]︶ と J.D .G. Dunn ︵ The New P erspective on P aul,in : ders. Jesus, P aul and th e L aw . Stu dies in Ma rk a nd Ga la tia ns , 1990. 183 -214 ; ders ., Th e Justi ce of G od. A R enew ed Per sp ecti ve on Justi ficati on by Fai th, JThS NS 43 [ 1992 ], 1 -22 ︶ に反対し、わたしは E. L ohse ︵ Theologie der R echt fe rti gung i m kr iti sche n D isp ut ̶ zu e ini ge n ne ue n P er sp ek-tiven in der In terpr eta tion der Th eologie des Apos tels P au lu s, GGA 249 [ 1997 ], 66 -81 ︶ を参照するようお勧めしたい。

第一版への序

︽ 福 音 主 義 ︾ と は 何 を 意 味 す る の だ ろ う か ?   誰 が、 そ し て な ぜ福音主義者なのだろうか ?   そしてなぜ彼らはまだ存在するの だろうか ?   わたし自身が驚いたことだが、最近、このような問 い を ま す ま す 頻 繁 に 耳 に す る よ う に な っ た。 こ の よ う な 問 い は、 いわゆる公的世界においてのみならず福音主義教会の内部におい ても提起されている。そして時々、このことをごくわずかしか理 解していないのは福音主義教会であるという印象を受ける。 いつであれ、これらの問いは問われるべきものである。しかし 現 在、 再 び、 ︽ 福 音 主 義 ︾ と 呼 ば れ る の に 値 す る も の は 何 か と い うことが、いっそう集中的に問われるようになった。これは、ド イツのキリスト教界で幾分激しく展開された論争、かつての時代 が﹁福音主義の根本条項﹂つまり信仰にのみ基づく神なき者の義 認に関する信仰箇条と呼ぶのを常としていたことについての論争 と関連している。ルーテル世界連盟の代表者たちとバチカンの代 表者たちによって協定された︽義認の教理に関する共同宣言︾が

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一二 発 表 さ れ た と き、 こ の 論 争 が 起 こ っ た。 こ の 共 同 宣 言 は、 ︽ 義 認 の教理の諸々の基本的真理における一致︾を定式化することを自 ら要求し、そしてそれゆえに最後に﹁教会の分裂を克服するため のこの決定的第一歩について﹂主なる神に感謝している。 このよき知らせをわたしは大いに喜んだ。なぜならカトリック 教徒との了解に対する情熱的な関心は、初めからわたしの神学的 実存に属していたからである。そこでわたしが学び、そして教え 始 め た ド イ ツ 民 主 共 和 国 ︵ 旧 東 ド イ ツ ︶ で は、 そ の 当 時、 無 神 論 的挑発に直面していた若い神学者にとって、それはまったく自明 なことであった。そしてまたわたしは、ドイツ民主共和国におけ るカトリック教会と福音主義教会の教師による、最初のエキュメ ニ カ ル な 研 究 サ ー ク ル の 共 同 設 立 者 の ひ と り で あ っ た。 カ ー ル・ ラーナーと彼の﹁学生たち﹂との出会いは、後に、わたしがカト リック神学における真に福音的なものを発見することに大いに役 立った。この経験は、一方で、テュービンゲンにおいて生まれた ワルター・カスパーとの友好的な隣人関係を通して、他方で、ハ ンス・キュンクとのまったく特別で友好的な友人関係を通して強 化された。しかしテュービンゲンの福音主義の神学寮とカトリッ クのヴィルヘルム神学寮の間で実践されていたエキュメニカルな 交わりも高く評価されるべき意義を有していたし、今も有してい る。今も忘れられないのは、その当時、ヴィルヘルム神学寮の長 で あ っ た キ リ ア ン・ ヌ ス と 共 に、 ロ ー マ へ ︵﹁ 使 徒 た ち の 墓 へ ﹂︶ 行った旅行と、ローマのドイツ館における諸々の出会いと議論で ある。そしてその前には、インスブルック大学の神学部の教授た ちとのかなり感動的な出会いと討論があった。このこととその他 の多くのことにより、教会の目にみえる統一への、成功を約束す る道のための堅牢な神学的基盤を探求することが、わたしにとっ て放棄しえない責任となった。 多くのことを約束しているあの︽共同宣言︾をより正確に研究 した際に、わたしを襲った失望を分かってもらうために、わたし はあらゆることに言及したいと思う。わたしの判断では、いずれ にせよルター派の側では、まさに︽教会分裂の克服のための︾堅 実な神学的基盤は据えられなかった。なぜならここでは、宗教改 革の諸々の決定的洞察が曖昧にされるか、あるいは完全に放棄さ れているからである。たしかにこの本文には、福音主義的諸教会 とローマ・カトリック教会が共通に語りうることが、種々入って いる。しかしそれらは、ローマ・カトリック教会が、一五四七年 にトリエント公会議において、義認論、特に宗教改革の義認論に 反 対 す る 解 釈 に 基 づ い て 可 決 し た 義 認 の 教 令 の 地 平 に お い て の み、またほぼその水準でなされている言明である。そしてそれゆ え に わ た し は、 ︽ 共 同 宣 言 ︾ の な か に、 そ の 力 が あ る と み な さ れ ているまさにあの突破力をみいだすことができなかった。そのた

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一三 エーバハルト・ユンゲル﹃キリスト教信仰の中心としての、神なき者の義認の福音

エキュメニズムを目指す神学的研究

﹄ ︵ 1︶ め に は、 ︽ 共 同 宣 言 ︾ は あ ま り に み じ か 過 ぎ る。 達 成 さ れ た と 称 する了解は、時折まったくあやふやであることが実証された基盤 に 基 づ い て い る。 ︽ 共 同 宣 言 ︾ の 弁 証 家 た ち が、 す べ て を 革 新 す る明晰性の代わりに、 混乱のみ

この点について、 特にルター 派の代表者たちが行ったことに関する博士論文がたしかに存在す る

を 惹 き 起 こ す 諸 々 の 論 証 を も っ て な お 答 え る と き、 わ た し は︽ エ キ ュ メ ニ ズ ム の た め に ︾ 注 意 を 喚 起 す る 責 任 を 感 じ た。 わたしは要求した。 ︽神のために、 明晰性を !︾︵ ZThK 94 [ 1997 ], 394 -406 ︶。 世 間 を 騒 が せ る 論 争 が 起 こ っ た。 こ れ に つ い て 一 般 の ジャーナリズムは、教会のそれよりもはるかに詳細かつ客観的に 伝 え た。 ︵ こ の 事 柄 に 関 し 読 者 は、 他 の ド イ ツ 語 の 新 聞 よ り も Frankfur

ter Allgemeinen Zeitung

か ら 多 く の 情 報 を え る こ と が で きた。宗教の指導者たちは、 その記事は不正確であると非難した。 人 び と は 教 会 の 雑 誌 の 報 道 を 奇 妙 な も の と 感 じ た だ け で あ っ た。 意地の悪い中傷によって、非凡なひとりの女性ジャーナリストを 抹殺しようとする試みは不愉快な出来事であり、それはまたいず れ ﹁アカデミックな研究﹂ の対象ともなるであろう。 ︶ まさに諸々 の メ デ ィ ア の な か で 非 常 に 注 目 さ れ 追 跡 さ れ た こ の 論 争 に よ っ て、ドイツの人びとは、では一体誰が、あるいは何が、本来︽福 音主義的︾と称されるに値するのかという問いを再び問うことに なった。 この問いに対し、 信仰のみによる、 神なき者の義認に関する︽福 音主義的基本条項︾以上によりよく答えることができるものはな い。本書はこれを目的としている。本書には妥協を喜ぶ気持ちは ない。正規の神学は妥協をしない。これが、正規の神学と、必然 的 に 妥 協 し な け れ ば な ら な い 教 会 の 管 理 と 異 な る と こ ろ で あ る。 正規の神学は疑わしい妥協をしない。それは、まさにいかなる妥 協もしない神学を必要とする。しかしながら本書は、エキュメニ ズムを目指して執筆されている。なぜなら、われわれが双方とも 最良の意味で︽福音主義︾となるときにのみ、エキュメニズムは 成長し前進するからである。そしてそのとき、われわれは双方と も最良の意味で︽カトリック︾となる。これに関してはローマの 信仰聖省の同意もえられる、とわたしはあえて主張したい。 本書はほんの時折︽共同宣言︾に言及するだけである。このテ キ ス ト に つ い て 語 ら れ る べ き で あ っ た こ と は、 他 の と こ ろ で 十 分 に 説 明 さ れ て い る。 ﹁ エ キ ュ メ ニ カ ル な 対 話 ﹂ に つ い て は、 E. M aur er , R echtfer ti gung. K onfessi onstr ennend oder k onfessi ons -verbindend ? ︵ Ӧ kumenische Studienhef te 8, 1998 ︶ が、簡潔な、し かしすぐれた情報を提供してくれる。 わたしにとって問題なのは、 われわれの現在の諸々の経験と問題設定の地平における諸々の事 実 問 題 ︵ Sachpr obleme ︶ の 論 究 で あ る。 そ の さ い 自 明 な こ と で あ るが、基本的に重要な資料はパウロの手紙である。諸々の宗教改

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一四 革 的 洞 察 が 特 に 頻 繁 に 引 用 さ れ る こ と も、 福 音 主 義 の 義 認 論 に とって同様に自明なことである。しかし宗教改革の諸認識を塾考 することが、本書の目的それ自体ではない。なぜならわれわれの 先人たちの諸認識は、それが、われわれ自身の現在の問題意識の 地平において、義認条項を有効に働かせるようにわれわれを助け てくれるときにのみ、妥当性をもつからである。一九七〇年代の 初め、 現実に存在した社会主義という特別な諸条件のもとで、 ﹁ド イ ツ 民 主 共 和 国 に お け る 福 音 主 義 教 会 連 合 と 福 音 主 義 │ ル ー テ ル 教 会 連 盟 の、 教 理 を め ぐ る 対 話 ﹂︵ KJ 98 [ 1971 ], 295 -322 : 99 [ 1972 ], 301 -309 ; 100 [ 1973 ], 227 -239 ︶ は、 模 範 的 な 仕 方 で こ の ことを企てた。そのさい明らかになったのは、義認条項を現在と 関連づけるこのような諸解釈においては、現代のわれわれにとっ て最初はまったく問題にならないと思われることの多くが、再び 大いに問題になるということである。なぜなら、そこにおいて神 なき者の義認の福音にとって問題になる真理は、われわれのこれ ま で 自 明 で あ っ た も の の 少 な か ら ざ る 部 分 を 破 壊 す る か ら で あ る。 し か し そ の 真 理 は、 諸 々 の 新 た な 自 明 性 を 生 み 出 す た め に、 それを行う。つまりその真理は、神の前に存続することができる ものを生み出すために、それを行う。ルターはクリスマスの賛美 歌 の な か で、 ﹁ 永 遠 の 光 が 差 し 込 み、 こ の 世 に 新 た な 輝 き を も た らす﹂と歌っている。 本書は、決していわゆる専門の神学者のために書かれたもので はない、まったく彼らのためではない。執筆の際にわたしは、特 に、福音を解釈して告知しなければならず、このことを喜んでな し、そして神学的良心をもってこれをなそうとする多くの牧師た ちと宗教の教師たちのことを考えていた。しかしわたしは、信仰 の真理について釈明することができるために、若干骨を折ること を恐れないあのすべてのキリスト者のことも考えていた。わたし は彼らの手助けをしたいと思った。この理由で、学問的な資料を 引き合いに出すことを完全に断念した。事柄それ自体が語られる べきである。そして事柄を主張することは、その現在形で主張す ることに他ならない。 事柄に近づくことを容易にするために、外国語のテキストには 同 時 に ド イ ツ 語 訳 を 付 し た。 さ ら に 宗 教 改 革 時 代 の ド イ ツ 語 は、 慎重に現代ドイツ語にしておいた。このためにわたしは、 カリン ・ ボルンカムとゲーアハルト・エーベリンクによって編集されたル タ ー の テ キ ス ト︵ Mar tin L uther ,  A usgew ӓhlte Schrif ten,   1982 ︶ を用いた。実質的な点でどれほどゲーアハルト・エーベリンクに 負っているところが大きいことか、それは、専門知識をもつ方に は明らかであろう。その方にはもちろん次のことも印象的であろ う。つまりこの核心 ︵ Sache ︶ において必然的となったカール・バ ルトとの対決のただなかで、わたしはこの核心に関する彼の中心

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一五 エーバハルト・ユンゲル﹃キリスト教信仰の中心としての、神なき者の義認の福音

エキュメニズムを目指す神学的研究

﹄ ︵ 1︶ 的な諸言明を、言葉の最良の意味でのエキュメニカルな認識とし て受け入れ、自らの論証に役立てようとした。 原稿を作る際に献身的な助力を惜しまなかった協力者たちすべ ての代表として、クリスティアーネ・シュタイデンク女史の名前 を挙げ、心から感謝する。ゲオルク・ズィーベック氏は、原稿を 短期間で印刷に回す準備をしてくださり、感謝する。出版に関し て は 相 変 わ ら ず Mohr Si ebeck 社 に お 世 話 に な っ た。 ま た ヴ ュ ル テンブルク州の福音主義教会連合と、福音主義領邦教会から出版 助成金が交付され、それは本書の価格に反映されている。 本書は同僚と友人に献呈したいと思う。彼らの真理感覚はゆる ぎなく、それは明らかにベルリン風の humanitas に属している。 テュービンゲン、一九九八年九月 エーバハルト・ユンゲル ﹁ 教 会 は 待 つ こ と に 満 足 せ ず、 秘 密 を 祝 う ﹂︵

Carlo Maria Kari

-nal Mar tini ︶ あらゆる秘密のなかで最大のもの、それは、神なき者を義とす る過ぎ越しの秘密である。

第一章

一   単純なことを理解することのむずかしさ イ エ ス・ キ リ ス ト の 物 語 ︵ Geschichte ︶ を す べ て の 民 に 及 ぶ 大 き な 喜 び の 発 生 の 歴 史 と し て 物 語 る ︵ ル カ 二 ・ 一 〇 ︶ ︽ 福 音 ︾ は、 その最も際立った形式において、単純であると共に革命的な使信 で あ る。 そ れ は︽ 十 字 架 の 言 葉 ︾︵ Iコ リ 一 ・ 一 八 ︶ で あ り、 こ の 言葉は、たったひとりのひとの死に基づき、すべてのひとに生命 を約束する。この言葉は、諸福音書のなかで物語られていること の要点に言及している。イエス・キリストの死を、人類とその環 境世界の生命と死を決定する出来事として告知する十字架の言葉 のなかで起こっているのは、ケリュグマ的集中である。その集中 は、さらによりケリュグマ的であることが考えられないほどより 密 度 の 濃 い 仕 方 で な さ れ て い る。 す な わ ち︽ 神 な き 者[ der   Gottlose : 不 信 心 な 者 ] の た め の 神 !   死 に 脅 か さ れ、 そ し て 死 に陥った者のための生命 !   途方もなく行き詰まり、そして自ら に責任のある不幸のなかで身動きできなくなった人類のための救 い !   真 理 を 抑 圧 し︵ ロ ー マ 一 ・ 一 八 ︶ 、 真 理 に 関 わ り つ つ、 同 時に自分自身と自分の仲間を、生存を脅かす人生についての錯覚 へと巻き込む人間のための、解放する真理 !︾ 使徒パウロは、フリードリヒ・ニーチェの判断によると︽古代

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一六 のすべての価値評価の変更 ︶1 ︵ ︾を意味したこの凝縮されたケリュグ マ を、 ロ ー マ 四 ・ 五 の な か で︽ 神 な き 者 の 義 認 ︾ と 呼 ん だ。 そ し て同時に彼は、神なき者の義認についての福音に、神学的に省察 された形態を与えた。すなわちそれは、いわゆるパウロ的義認の 教 理[ 義 認 論 ] で あ る。 ︽ 教 理 ︾ と い う 表 現 は、 次 の よ う な 意 味 で適切である。つまり、パウロが彼の手紙における対応する諸々 の句のなかで物語り、 そして告知するだけでなく、 同時に説明し、 そして論証し、 したがって神学的に省察しているかぎりにおいて。 たしかにいかなる正しい歴史物語も、いかなる正しい告知も、含 意的神学的省察がなければ、ほとんど、あるいはまったく成り立 たない。しかしながら義認論においては、神学的省察が明白にな る。それは論証的になる。たしかにそれは、さらに福音の真理の 弁証として論争的に語られる。その影響は広範に及び、 その結果、 使 徒 パ ウ ロ は、 ひ と り の 他 の 使 徒

問 題 に な っ て い る の は、 後のいわゆる使徒の第一人者であり、自称、地上におけるキリス ト の 代 理 人 !で あ る

に、 こ の 人 物 が そ の 振 る 舞 い に よ り 福 音の真理を疑問に付したとき、公然と面と向かって抵抗せざるを えなかった。使徒パウロは、使徒ペトロが福音の真理をこっけい な ほ ど 不 合 理 な 行 為 ︵ praxi ad absur dum ︶ へ と 導 く よ う に 脅 か し た と き、 諸 々 の 論 証 を も っ て 彼 の 振 る 舞 い に 立 ち 向 か っ た ︵ ガ ラ 二 ・ 一一 - 一 ︶。 た だ 真 理 の ゆ え に、 使 徒 は 使 徒 に 対 向 す る

それは、福音主義の神学が誕生した瞬間であった。 神 な き 者 の 義 認 の 福 音 が 明 白 に 省 察 さ れ た 形 態 を と る こ と が ︽ で き た ︾ こ と は、 そ の 真 理 の 可 能 性 と 関 連 し て い る。 パ ウ ロ が 強調しているのは、もしも真理それ自体が主張されうるべきであ るとすれば、福音は、貫徹されるべき真理を主張するということ である。しかしながら明らかに、神なき者の義認の福音は、神学 的 に 省 察 さ れ た 形 態 を と る こ と が︽ で き た ︾ だ け で は な か っ た。 明 ら か に、 そ れ は ま た そ う︽ し な け れ ば な ら な か っ た ︾。 こ れ は 特に、ニーチェによって確認された、あらゆる過去の価値評価の 変 更

こ れ は、 福 音 の 真 理 要 求 が 意 味 し、 そ し て 彼 が 後 か ら 再構成するように導いたものである

に根拠づけられている。 ところが、 神なき者の義認の福音の真理要求が発言を求めるとき、 決して︽古代の︾諸価値だけでなく、すべての人間的価値が危険 に 曝 さ れ る。 し か し 十 字 架 の 言 葉 は、 ま さ に︽ 不 正︵ Unr echt ︶︾ の な か に あ る 人 間 を︽ 正 し さ︵ R echt ︶︾ の な か に 位 置 づ け る。 し かもこの人間は、 ︵ただ︶ この世の前で ︽不正︾ であるだけでなく、 神の前でも︽不正︾であり、それゆえ起訴され、そして有罪とさ れるべき存在である。それにもかかわらず、その際どのような点 で正しいのかを説明する必要があり、そのための論証が要求され る。義認論は、福音の真理要求に対応する論証の試みである。 人間のいわゆる良識にとって、この真理要求はたしかにまった

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一七 エーバハルト・ユンゲル﹃キリスト教信仰の中心としての、神なき者の義認の福音

エキュメニズムを目指す神学的研究

﹄ ︵ 1︶ く 自 明 な も の で は な い。 そ れ は、 良 識 に と っ て

使 徒 の 時 代 の ギ リ シ ャ 人 に と っ て と 同 様 に

ま ず 明 ら か に 愚 か な も の で あ る。 し か も そ れ は ︱︱ 当 時 の ユ ダ ヤ 人 に と っ て と 同 様 に

神 を 冒 瀆 し、 イ ス ラ エ ル を つ ま ず か せ る も の ︵ Iコ リ 一・ 二三︶でないとしても、愚かなものである。この愚かさは自らの うちに深い、そして生命を救う知恵を秘めており、したがって事 実、救いのつまずきであることを理解するには、若干の努力が必 要である。義認論の省察的形態が、何が問題になっているのかを 理解しようと望む人びとから、概念化の努力のようものを要求す るとすれば、諸々の理解の困難さは、その事柄の深遠さによって もう一度強められることになる。しかし塾考の努力を自らに要求 する者にとって、神なき者の義認の福音は、その核心においてそ うであること、つまり︽まったく単純な︾ものである。 二   問題になっていること まず、神なき者の義認の福音がその真理要求を掲げるとき、本 来そこで何が問題になっているのかをはっきりと提示するのがよ いであろう。 1   ごく簡潔に言うと、 問題になっているのは生命と死である。 より正確に言うと、生命と死の︽あれか、これか︾である。そし て︽ 生 命 ︾ は、 神 学 的 判 断 に お い て は い つ も︽ 共 に 生 き る こ と ︾ を意味するので、さらに正確には、次のことが問題になる。つま りわたしは、今、そして永遠に、神と共に生きる権利をもってい る の か ど う か、 あ る い は 結 局、 誰 と も 共 に 生 き る こ と が で き ず、 したがって死のとりこになるのかどうかということである。なぜ なら死においては、生命も、共に生きることができなくなるから である。 2   問題になっているのは、わたしの人格、わたし自身、した がってわたしの人格存在である。わたしを、その尊厳が不可侵な ものである人格とするお方は誰なのか ?   あるいはそのようなも のとするものは何なのか ?   わたし自身か ?   社会か ?   それと も神か ? 3   問題となっているのは、神であり、また本当に神的なもの と は 何 な の か と い う 問 い で あ る。 そ し て 問 題 と な っ て い る の は、 ど ん な 種 類 の 人 間 性

自 ら を 神 の 似 像 と 理 解 し て い る 人 間 の 人間性

が、神の神性に対応しているのかということである。 し た が っ て 誰 が、 あ る い は 何 が、 本 当 に 神 的 神 な の か ?   誰 が、 あるいは何が、本当に人間的人間なのか ? 4   問 題 と な っ て い る の は、 こ れ ら す べ て の 問 題 を 決 定 す る、 神と人間の関係と、人間と神の関係である。そして問題となって い る の は、 そ の な か で こ の 相 互 関 係 が 出 来 事 と な る 歴 史・ 物 語 ︵ Geschichte ︶ である。さらに正確に言うと、問題となっているの

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一八 は、この歴史・物語の内部における中心的出来事である。すなわ ちイエス・キリストの十字架の死である。この死は何か言うべき ことをもっているのだろうか ?   そしてもしもその死が何か言う べ き こ と を も っ て い る と す れ ば、 も し も そ の 死 が︽ わ れ わ れ に ︾ 何か言うべきことをもっているとすれば、それは正確には何なの か ?   そ し て ど の よ う な 全 権 ︵ Vollmacht ︶ に お い て、 ど の よ う な 権威をもって、そしてどのような力をもって、この言葉は十字架 について語るのだろうか ?   この死のなかで終り、しかもおそら く完成される歴史・物語の権威をもって、したがって過去の全権 と 力 を も っ て ?   昔 々 ⋮⋮ ?   あ る い は 新 た に 開 け 初 め つ つ あ る 将 来 の 力 を も っ て ?

そ の 将 来 は 次 の よ う な 強 く 十 全 な 力 をもっている。つまり、生きられ、そして死に至った生命の過去 にも創造的に立ち帰り、その結果、この生命とこの死の真理と重 要 性 が 明 ら か に な る よ う な 力 で あ る。 十 字 架 の 言 葉 は 弔 辞 な の か ?   あ る い は、 生 命 を、 新 し い 生 命 を、 死 を 克 服 す る 生 命 を、 解き放つ言葉なのか ?   要するに、問題となっているのは、死人 た ち か ら の イ エ ス・ キ リ ス ト の 甦 り︵ A ufer weck ung ︶ と、 彼 の 死と復活︵ A uferstehung ︶に対するわれわれの参与である。 5   し た が っ て 問 題 と な っ て い る の は、 参 加、 つ ま り イ エ ス・ キ リ ス ト の 歴 史・ 物 語 に 対 す る 関 与︵ Teilnahme ︶ で あ り 参 与 ︵ Teilhabe ︶ で あ る。 そ の 参 加︵ Teilgabe ︶ は ど の よ う に し て 完 成 されるのか、われわれの関与と参与はどのようにして完成される のか ?   もしもイエス・キリストが、彼の歴史・物語に︽参加さ せ る 方   ︵ Teilgebende ︶︾ で あ る と す れ ば、 ど の よ う に し て、 ま たどのような意味で、 われわれは︽関与する者︾と︽参与する者︾ であるのか ?   そしてどのようにして、どのような仕方で、彼は ︽参加させる方︾なのか ? それを通してイエス・キリストがわれわれを彼の歴史・物語に ︽ 参 与 さ せ る ︾ の は、 十 字 架 の 言 葉、 し た が っ て 福 音 だ け な の だ ろうか ?   あるいはわれわれに要求を課する律法は、それに属す るのだろうか ?   そしてもしもそうだとすれば、それはどのよう にして ?   そしてもしもそれを通してイエス・キリストがわれわ れを彼の歴史・物語に与らせる ︵ Anteil geben ︶ のは、その言葉だ けであるとすれば、いわゆる諸々のサクラメントはどのようにし てそれに属するのだろうか ?   それらは、その言葉を通してのみ イエス・キリストの歴史・物語に参加するというテーゼを確認す るのだろうか ?   それとも諸々のサクラメントはこの言葉と競合 するのだろうか ? そしてわれわれ自身の︽関与︾はどうなるのだろうか ?   それ は、われわれがそれを通してイエス・キリストの歴史・物語に与 る 信 仰、 そ し て そ れ だ け な の だ ろ う か ?   あ る い は わ れ わ れ は、 われわれの成功する生き方に基づいて、われわれのよき業に基づ

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一九 エーバハルト・ユンゲル﹃キリスト教信仰の中心としての、神なき者の義認の福音

エキュメニズムを目指す神学的研究

﹄ ︵ 1︶ いて、したがってわれわれが自ら行ない、引き起こすことを通し て、それに参与するのだろうか ? そして信仰の出来事への現実的関与を越えて、この歴史・物語 への継続的参与も存在するのだろうか ?   そしてもしも存在する として、それはどのような形態で ?   教会の形態で ?   しかしそ もそも教会とは何なのだろうか ?   教会は、義とされた罪人たち の共同体と異なるものなのだろうか、あるいはまったくそれ以上 のものなのだろうか ? 6   しかし特に、そして全体として問題となっているのは正義 である。すなわち神の義と、われわれの義である。義なる神はわ れわれの不義とどのように関わるのだろうか ?   そしてこれと並 行して、もしも両者が同一でないとすれば、問題となっているの は 神 の 恵 み ︵ Gnade ︶ と わ れ わ れ の 罪 責 ︵ Schuld ︶ で あ る。 神 の 恵 みは、神の義とどのように関係しているのだろうか ?   神の恩恵 ︵ Huld ︶ は、 わ れ わ れ の 罪 責 と ど の よ う に 関 係 し て い る の だ ろ う か ? 7   それにもかかわらず、もしも常に同時にわたしの人格存在 が問題であるとすれば、わたしの良心は、義認の出来事において どのような機能を果すのであろうか ?   それは決定に加わるのだ ろうか。そしてもしも共に決定に加わるとすれば、わたしが自分 自身と矛盾のうちに生きなければならないのかどうか、それとも 自分自身と共に平和のうちに生きることができるのかどうか、そ のなかでこのことについて決定が下されるこの奇妙な人格的決定 機関は、どのようにして決定に加わるのだろうか ?   良心は沈黙 す る こ と が で き る の だ ろ う か ?   そ し て も し も で き る と す れ ば、 どのようにして ?   良心によって責められ、そして有罪とされる 人間は、義とされるのだろうか ? 三   義認

日常的用語法 義 認︵ R echtfer tigung ︶ と い う 神 学 的 概 念 は た し か に 不 可 解 な ものではないが、今日の人間には理解に苦しむものであり、その むずかしさはかなり大きいと言わなければならない。日常生活に 目を向けるならば、ある種の方向づけがえられる。 何ものかを正当化する ︵ rechtfer tigen ︶ こと、自らを正当化しな け れ ば な ら な い こ と、 正 当 と さ れ る こ と

こ れ ら は、 こ の 世 の生活の出来事において基本的なことである。それらは日ごとに 起こる。それらは、たしかにキリスト教信仰の中心的秘密と直接 関係はないが、それらは、罪人の義認として遂行されることの前 理解を伝えてくれる。 あ る も の が 自 明 で な い と き に、 通 例、 ひ と は︽ そ れ を 正 当 化 ︾ しようとする。例えばひとは、そのふるまい、その行為が納得で きないもの、あるいはまったく腹立たしいものであるとき、それ

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二〇 を 正 当 化 し よ う と す る。 特 に ひ と は 彼 の 逸 脱 行 為 を 正 当 化 す る。 それは、ひとが、自分の逸脱行為をまさに自ら弁解しなくても済 む よ う に す る た め に、 そ の 行 為 を 何 か 必 然 的 な ふ る ま い と し て、 責 任 の な い も の と す る ︵ ent -schuldigt ︶ 行 為 で あ る。 ひ と は、 自 分のふるまいを必然的なものとして、 それを容認することにより、 むしろ自分に無罪判決を下す。 し か も ひ と は、 し ば し ば 自 分 自 身 の︽ 現 存 在 ︾ を 正 当 化 す る。 すなわち彼は、今ここにいること、少なくとも目下のところ、場 違いと思われるところにいることを正当化する。自分自身の現存 在の正当化は、しかしながらこのような諸々の特別な状況を越え て、はるかに本質的な仕方で次のような単なる事実に関連づけら れうる。つまりそれは、そもそもわたしは存在し、むしろ存在し ないわけではないという事実である。その場合、わたしはもはや 何ものかを、あるいは諸々のまったく一定の状況にあるわたしの そ の 都 度 の 実 存 を 正 当 化 す る の で は な く、 そ の 場 合、 ︽ わ た し ︾ は 最 も 根 源 的 な 意 味 で︽ わ た し 自 身 を 正 当 化 す る ︾。 し か し 自 分 の生命、 自分の現存在一般、 したがって︽自分自身を正当化する︾ ひとは、このようにして自分の生命が、ある意味をもつことを主 張する。彼は、彼の現存在をもって、彼の現存在の意味を正当化 す る。 意 味 を 欠 く 現 存 在 は 正 当 化 さ れ な い。 ︽ 外 見 上 ︾ 意 味 を 欠 く 現 存 在 の み が

す な わ ち そ れ に も か か わ ら ず 意 味 の あ る も のとして

正当化される。しかし︽誰の前で︾ ? 諸 々 の 正 当 化 は、 い つ も︽ あ る 決 定 機 関 ︵ 権 威 ︶ の 前 で ︾ 遂 行 さ れ る。 わ た し は 他 の 人 び と の 前 で、 あ る 人 間 的 制 度 ︵ 例 え ば 裁 判 ︶ の 前 で、 あ る い は わ た し 自 身 の 前 で、 わ た し 自 身 を 正 当 化 す る。これは︽この世の︾生活上の出来事であり、これを通してわ たしは︽世界の前で︾正当化される。それらの出来事から引き離 されずに、しかしそれらを越えつつ、そしてそれらを相対化しつ つ、人間の正当化は︽神の前で︾遂行される。しかしあらゆる場 合に、正当化の出来事は、わたしを︽法廷に︾召喚する出来事で ある。われわれは常にある法廷の前に、そして時折、同時に種々 のものの前に、実存する。すなわち、子どもは両親の前に︵そし て そ の 逆 も !︶、 友 は 友 の 前 に、 労 働 者 は 同 僚 た ち の 前 に、 あ る いは長の前に、病人は医師の前に、大臣は議会の前に、容疑者は 刑事警察部の前に、被告人は法廷の前に、等々、実存する。正当 化 の 出 来 事 に お い て、 こ の︽ ⋮⋮ の 前 の 実 存 ︾ が 明 ら か に な る。 そ こ に お い て わ た し は わ た し を、 誰 か の 前 に 現 れ る よ う に ︵ vor jemandem zu erscheinen ︶ 指 示 さ れ て い る、 ひ と り の わ た し と し て経験する。その際、わたしは、わたし自身の前に現れなければ ならないということも起こりうる。このことが起こるならば、し たがってわたしがわたしを︽わたし自身の前で︾正当化するなら ば、わたしが召喚されるその法廷はわたしの︽良心︾である。

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二一 エーバハルト・ユンゲル﹃キリスト教信仰の中心としての、神なき者の義認の福音

エキュメニズムを目指す神学的研究

﹄ ︵ 1︶ 自分を正当化することを︽欲する︾ことと、自分を正当化︽し なければならない︾ということは、別のことである。人間が、自 分を、彼の行為を、彼の振る舞いを、彼のこれまでの人生を、そ してさらなる将来の生活に対する彼の要求を正当化︽しようとす る︾ことは、彼が︽承認︾を求めていることと関連している。人 間にとって承認されることは本質的なことである。彼の人格存在 はこのことに依拠している。なぜなら人間は、人格として彼自身 の承認を必要としているからである。自己正当化への意志は、承 認に対する人間のこの根本的欲求から生ずる。 人間が自らを正当化︽しなければならない︾ということ、人間 が、自らを正当化することを︽強いられ︾うるということは、人 間のより広範な根本規定を指示している。すなわち人間は︽弁明 し ︵ sich verantwor ten : 自 ら の 責 任 を 負 う ︶︾ な け れ ば な ら な い。 そしてそれは、いかなる人間も自分自身のためにのみそこにいる わ け で は な い か ら で あ る。 人 間 は、 常 に

た と え 自 分 自 身 と 関 わ る と し て も

他 者 と の 諸 関 連 の な か に 実 存 す る。 あ ら ゆ る点で豊かな関係に生きる生物として、人間は、他者︽に対する 応答・責任のうちに︾実存する。そしてまさにそれゆえに、場合 によっては、 人間は ︽責任を問われる︾ 。そのとき人間は弁明 ︵ sich rechtfer tigen ︶︽しなければならない︾ 。 弁 明︽ し な け れ ば な ら な い ︾ 者 は、 た し か に︽ 不 正 の な か に ︾ いるようにみえる。原理的に責任のうちに生きている人間は、通 例、たしかに、彼が何かに借りがある ︵ schuldig ︶ ときにのみ、あ るいはそのようにみえるときにのみ、したがって彼が︽責任を負 わされ︵ beschuldigt ︶、 起訴される︾ときにのみ、 責任を問われる。 もしも彼が弁明できるならば、彼は正しいとされる。もしもそれ ができなければ、彼は有罪 ︵ schuldig ︶ とみなされる。もしも彼が 弁明できるならば、 彼は正しいと宣告され、 そして無罪とされる。 もしもそれができなければ、彼は有罪 ︵ ver ur teilt ︶ とされる。 しかしながら人間は、自分が正しいにもかかわらず、自分自身 を弁明できないということも起こりうる。これは、 法廷において、 グロテスクな誤った判決が下されることに通じており、恐怖政治 の司法機関については言わずもがなである。その後の諸々の出来 事とよりよい洞察、 あるいは単純により公正な司法機関によって、 容疑者と有罪とされた者も完全に正しい者とされうる。ただしも ちろんそこでは、彼自身が、自分の弁明のためになお貢献できる ことが何もないということもしばしば起こる。その場合には、彼 は、 自 分 の 力 に よ ら ず に︽ そ の 正 当 性 が 弁 明 さ れ る ︾。 し か し 彼 は正しかったがゆえに、弁明されたのである。 ひ と は、 ︽ 不 正 の な か に ︾ あ る 者 を も 弁 明 す る こ と が で き る の だろうか ?   ひとは、正義を倒錯させずに、有罪の者を無罪とす ることができるのだろうか ?

参照

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