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私の学監、その前後 利用統計を見る

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(1)

私の学監、その前後

著者名(日)

愛沢 恒雄

雑誌名

東洋大学史紀要

1

ページ

46-75

発行年

1983

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002556/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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愛沢恒雄

日 時 一 九 八 二 年 九月八日 場 所 甫水会館 、 百 周年記念事業事務局 聞き手 田中菊次郎(百年史編纂室 - 46ー 小野沢主計(百周年記念事業事務局次長 村野 一 治(同課長) 鈴木俊光(同主任) 愛沢恒雄氏略歴 一 九

O

二 ( 明 治 お ) 年 9 月ロ日 福島県相馬市生まれ 一九一九(大正 9 ) 年 3 月 福島県立相馬中学校卒 一 九 三 二 ( 昭和 7 ) 年 3 月 東洋大学専門部倫理学東洋文学科卒 同年 4 月 東洋大学教務課書記 同 年 6 月 東洋大学校友会本部評議員

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一九三三︵昭和8︶年6月 同校友会本部常任委員兼務 同年9月 学生主事補 一九三四︵昭和9︶年10月 学生課長 一九三七︵昭和12︶年7月 教務幹事 一九三九︵昭和14︶年   退職  ︵一九三九年11月 元満州国協和会中央本部訓練科嘱託、一九四〇年7月 東洋大学校友会新京支部理事、  一九四一年6月 協和会中央本部部員、一九四二年3月 協和会公主嶺市本部事務長、同年10月 公主嶺  市商公会参事、一九四三年4月 新京特別法院公主嶺地区調停委員、同年7月 公主嶺市真練会参与、一  九四四年6月 協和会吉林省本部参事兼総務課長、一九四五年8月 協和会解散︶ 一九四七︵昭和22︶年1月 東洋大学復興部嘱託 同年   本採用となる 同年10月 東洋大学学監 同年11月 教務課長 一九五〇︵昭和25︶年4月 企画室主事 同年10月 教務課長 一九五二︵昭和27︶年5月 学生厚生課長 47

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一九五五 一九五八 一九五九 一九六〇 一九六一 一九六二 同年10月 一九六三 同年4月 一九六五 一九六七 ︵昭和30︶年4月 ︵昭和33︶年4月 ︵昭和34︶年3月 ︵昭和35︶年4月 ︵昭和36︶年10月 ︵昭和37︶年5月 創立70周年記念事業準備委員会幹事 図書課長 教学課長 教務課長 学生部学生課長 企画室補佐 東洋大学短期大学事務室長 ︵昭和38︶年3月 定年退職 東洋大学八十年史編集長 ︵昭和40︶年5月 通信教育部事務室長嘱託 ︵昭和42︶年3月 退職

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 愛沢先生は本学で長い間ご苦労いただきましたので、そのこ体験をうかがいたいと思います。百年史の資 料です。履歴には敗戦直後の大学復興に学監として当たられたこと、また戦前戦後を通じて教務、学生課畑 を勤められたとありますが、当時の大学のいろいろな問題を、順序に従ってうかがいます。まず本学入学の

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  動機といったものから⋮⋮  愛沢 これは個人的なもので、人様に堂々といえるものではありませんが、皆さんが個人的な興味からお考え になるなら、お話ししてもよいですよ。これは結局、当時の教育界の状況といいましょうか、私は福島県立の相 馬中学校の出身ですが、当時中学を卒業したものが、大学へ行くのは甚だ少い、そういう時代でした。事実、官 立大学に行ったのは秀才が二人東大に入っていますが、あとは若干の人が私立大学へ行くくらいのもので、いま のように卒業生の大半が大学へ行くという時代ではありませんでした。  私は大正九年に中学を出ました。大分古い時代の話ですが、進学というと師範学校を望むものが多かったです ね。事実優秀なものは師範へ行きました。クラスの中で一、二番、少くとも十番以内まででした。ぼくらは家が 実務関係で、中学までは出してもらったが、それ以上は出さないというのが親の方針ですから、あとは自分がい きたきゃ独学で勉強して、ということで、ぼくは中学卒業と同時に東京へ出て、鉄道省に務め夜間大学に行って、 いろいろ苦労しているうちに、親が突然死んだので、家督上やむを得ず親の跡を継ぐということになるのですが、 親の職業は建築関係の仕事で、ぼくにはそういう素養がないため、親の跡を継ぐわけにはいきませんでした。当 時の田舎では親の跡を継ぐ以外に適当な職業はなかなか見つかりませんでした。そんな訳でぶらぶらしていたら 友達から、教員が不足している時代ですから、先生でもしないかというので教員をはじめたのです。  ところが当時は師範出の先生が圧倒的に多いでしょう。それが教育界の中心勢力でした。従って、いくら学力 があって検定試験に合格しても、あいつは﹁検定上がりだ﹂と白眼視される。それが若いぼくは癩︵しゃく︶に

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さわって、こいつらに負けるものかと思ったのです。そこでぼくは先ず検定試験を受け、合格して資格をとり、 小学校の教員をしていたが、こんどは中学の教員資格をとって、再び郷里の学校にきて、あいつらを見返してや りたいという反抗心に燃えて、苦労しながら入ったわけです。勿論自分で働きながら入った次第です。    大正九年に中学を出て、昭和七年東洋大学を卒業したのですから、その間ずいぶん長い空白の時間がある   わけですね。

 東洋大学は教員免許が人気

 愛沢 しかし、考えてみると、ぼくは中学を卒業すると同時に、世話する人があって鉄道に勤めた。東京鉄道 局です。いまの東京駅の二階の事務室でした。原敬首相が暗殺される場面も階上から見た記憶がありありと今に 残っています。︵註・一九二一‖大正10‖年十一月︶大正十二年突然酒縁で親が死んだので、いったん家へ帰り ました。そして先輩に勧められて臨時教員をしたのですが、さて大学へ行こうということになると、なかなか条 件が難しくとまどいました。どこがよいか調べたところ、東洋大学が一番条件がよい。修身、国語、漢文の三つ の教員免許資格をくれるところは、ほかのどの大学にもないのです。そこで私は東洋大学を選んだのです。  大学へ入ったときは、すでに年齢は三十台です。同級生の中でも最高級の年かさでした。当時の大学にはぼく らのような年齢のものが、クラスの中には必ず十人くらいはいました。教員をやめて正規の資格をえたいという 人、軍人で予備役になって暇ができたから改めて学問をしようと心掛けて大学へ入ろうという人、様々でした。 もちろん中学からすぐ入るとすると十八、九歳ですから、若い年齢層の者も多勢いましたよ。

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 1年齢にこだわらない、それがまた私立大学のひとつの特徴といいますか、良いところなんですね。  愛沢 私たちのクラスの同級生たちはいろいろの事情で、割合年輩者が多かったですね。しかし中には公立大 学の試験を落ちて浪人するよりはと、私学を選ぶものや、また比較的ゆるやかな試験地嶽から免れたというもの や、恵まれた家庭の子弟は、すなおに自由な試験を受けて入ってくる人もあったようです。ぼくらの時代には東 洋大学も私学としての評価がずっとよくなっていましたからね。母校の学生数がふえて社会の評価が高くなるの は、昭和のはじめくらいからで、一番学生数の多かった昭和四年くらいが最高の学生数の標準に近い学生数では ないでしょうか。

 専門部が大学の中心のころ

 しかも東洋大学の圧倒的な学生数の要望は専門部課程にあったようです。文学部は仏教学科からその他いろい ろあるが、微々たる人数で問題にならんくらいでした。ぼくらの時代は学生総数が千五、六百人いたんじゃない ですかな。そのうち圧倒的な多数が専門部で、それが大学を支えている中心なんです。学部なんてのは、ずっと あとからできて、学部はせいぜい一クラスで三十人くらいでした。専門部はぼくのクラスは卒業のとき四百三十 人ですからね。いまでいう倫東科、これが圧倒的に多い。ということは中等教員の免状がほしい人が、専門部に入っ てきているのです。大学部は四年ですから、よほど家庭的にも恵まれていないと、そんなのんびりした学生生活 は続けられない事情でした。そんなわけで全学生の半数以上は専門部が占めていました。それが正規の大学制度 として、新制に切り替わってから、専門部がだんだん学生が少なくなっていった。あと廃止という運命をたどる

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わけです。  いまはもう大学といえば新学部の編成の話となりますが、当時は東洋大学は文学部一つしかありませんでした。 社会学科もいまは独立の一学部になっているが、当時は文学部の中の一学科にすぎなかったのです。そのほか、 学部への一課程として予科の刷新もあったが、年々微々たる学生数で、予科から正規に学部にいくという制度も、 学部本科の拡大によってだんだん多くなっていくわけですね。    先生は何年入学ですか。  愛沢 ぼくは昭和四年入学し、七年卒業です。そして卒業と同時に学長の中島徳蔵先生から﹁大学のために残れ﹂ といわれて、翌日学生課長に就任しました。    教務課書記と履歴にありますが、これは⋮⋮  愛沢 書記というけれど、当時は職員の数も微々たるもので、今のような正規の職制がない時代で、大学の行 政方面といえば、せいぜい教務、会計と学生くらいで、あとは何の係もないんです。そのときは柳井正夫さんが 教務課の名の下に一切の仕事を合併していました。それから分かれて、学生課ができて、ぼくが始めてやらされ たわけです。’以来ずっと今日まで縁あって、大学と深い関係をもつようになったのですね。  ー昭和六年から満州事変、十一年に二・二六事件という時代でしたね。  愛沢 二・二六事件のときは学生課長をしていまして、現場の様子をみにいったもんですよ。軍隊が占拠して、 宮城をとり囲んでいました。

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   軍・事教練はどうでした。  愛沢 ぼくらの学生時代は、教練は週に一度正科として課せられ、ずいぶんきびしいものでした。白山から戸 山ケ原へ銃をかついで往復歩いていったもんです。  ー昭和十年前後、学生数はどれくらいありましたか。  愛沢 そうですね、大体千五百人くらいいたのではないでしょうか。昭和四年くらいからの学生数を年毎にも ち直して、ずっと続いていたようです。    それ以前はどうだったのでしょう。  愛沢 大正時代は景気が悪いうえに、大学の名前は井上先生の声望で通っていましたが、微々たる学生数です よ。せいぜい四、五百名くらいいたでしょうか。昭和四年ごろが学生数が圧倒的に多かった最初でしょう。それ からあと戦争が激しくなり、やがて敗戦を迎えるころは学生数も一段と減りましたが、戦後まである程度の学生 数を持ち続けてきたのは、東洋大学の私学としての存在価値が高かったからです。  1昭和十四年には先生は満州ですね。その前、昭和十二年に騒動がありますね。これはどういうものでしたか。

 昭和十二年の学園騒動

 愛沢 学長は藤村作さんでした。藤村さんは二期やりたかったのです。学長が抱いていた学園経営の基本的な 考え方は、東大系統の自分たちの学派で大学を占拠するという考え方で、学長自身は有能な人物だったけれど、 東洋大学にとっては望ましくないからやめさせなければいけない、というのがぼくらの考え方でした。ぼくらは

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当時の教職員や学生幹部とも意も通じていました。しかし選考委員会は私たちの考えとは反対に次期学長に藤村 さんの再任を承認していました。それを撤回させ、いやおうなしに引きずり降ろすというのが私達の政治改革で した。その中心にいたのがぼくらの仲間なんです。なぜ藤村さんがいけないかというのは、藤村さんは一期で学 長として相当立派な業績を上げているが、あの人は自分の子分で教職員を全部把握して、いわば藤村閥の大学に 性格換えをしようという気持があるからです。それは東洋大学を将来東大の植民地に化そうとする恐れがあるか らです。したがって藤村さんを二度目の学長にすれば、藤村支持派も多いですから、藤村さんの永久学長説が実 現する恐れがあるのです。何もしらない校友がそれについていったら大変なことになります。それを無くするた めには、残念だが選考委員会の決定を撤回させ、藤村氏を学外に追放しなければ、大学の将来は危ない。そこで 藤村追放という改革をとらないかぎり、藤村の植民地になるぞというわけです。それが大学の将来を考える憂え ある学生および卒業生有志の考えでした。  それには学生が団結して藤村さんの行政の悪事を明らかにして引退を議決し、いやおうなしにやめさせざるを 得なかった。もし藤村さんの子分がわれわれの大学の重要部署を独占したら、東洋大学本来の使命を果たすこと ができないのです。藤村さんは国文学者としてはえらかったが、経営については駄目なんです。それは派閥人事 以外何ものでもなかった。当時、藤村の有力な支えになったのは、国文の平野宣紀らがその中心になっていた。  結局ぼくらの意見が通って再選をたたきつぶした。圧倒的に、というのはぼくらが学生のとき、いまでいう自 治会の委員長に当たる幹事長をやっていて、そうした幹部の歴代幹事長会議を開いたりして、学生の最高幹部の

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指導性を掌握していたからです。いうならば当時の学生幹部との話合いができたからです。また藤村さんは試験 の採点が非常に辛いんだね。学生の中にはそのため反感をもっている人がいた。そういう反動をうまく利用した ことも、藤村追放に効果があったようです。  それから、ぼくと同じで職員を代表して、校友出身で柳井正夫という人が勢力をもっていた。その柳井君の急 所を藤村さんはねらった。柳井さんは大酒飲みで、酒代に困って大学の金を使ったということでね。藤村さんの ときに処分してクビになっています。そういう関係もあって、藤村さんは反対派の連中はできるだけなくしたい という気持があった。柳井君は気の毒なので、柳井の面目がなくなるといって、ぼくらは満州で職をみつけてや りました。  藤村先生は国文だけでなく、全部の大学の中枢をにぎろうとしている。これでは東洋大学の革新はできない。 失礼ながら藤村さんはやめてもらいました。ぼくたちは学生層は歴代幹事長会議でにぎっている。ぼくは校友会 幹部でした。東洋大学の基本方針からみて、藤村先生は東洋大にふさわしい学長であるか・:・:というのが、その いきさつです。  それで、藤村さんの代りに誰をもってきたらいいかという問題になります。

 大倉学長で財政をもち直す

 当時一番大事なことは財政的な手腕をもつ有力な教育家がいないということでした。いろいろ協議の結果、大 倉邦彦先生に白羽の矢が当たった。この人こそが東洋大学の将来をになっていく人でないかと、大倉先生を説得

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して大学へきてもらった。そうした黒幕の仕事は、表に立たないで全部ぼくたちの仲間でやったのです。大倉先 生は単なる金持ではなく、個人的にも精神文化研究所をつくっていて、東洋の学問に対して理解をもっていた。 しかも経済的には製紙会社のオーソリティであり、実業界でも大したもの、だれも文句はいえないわけよ。大倉 先生が藤村の跡をついだので、学園の関係者はみな唖然としました。  ー大倉先生をみつけたのはだれですか。  愛沢 大倉先生と知り合っていたのは、吉田隆君︵校友︶が大倉先生の研究所に入っていたのです。吉田君は 大学の理事もやっています。これはぼくと国広万里と柳井正夫の三人が相談した。だれが代表として直接大倉先 生にお会いしてやるか、ということでぼくが行きました。内諾をえたので、圧倒的に正規の機関を通った。柳井 はクビになっていたので、表だっては動かなかった。  当時大学では十万の金をつくることでも大へんなことですよ。大倉先生は当時三十万くらいの寄附をして、施 設の整備ができたのです。三十万という金は当時逆立ちしたって東洋大学にはありゃしないんです。歴代学長の うちで、学長の手当をとらないのは大倉先生ただ一人です。大倉先生は全部自分の資金を投じられたのです。  ーそういえば東洋大学五十年史も大倉先生が経費を全部出されたとあります。  愛沢 財力と学力と教育力と、三つ兼ねた人は大倉先生以外になかった。大倉先生がおいでになったことは大 きな変革であったが、どうにもハタから歯が立たなかった。それが東洋大学が今日もちなおした大きな原因では ないですか。先生は二期学長をつとめられ、ケチをつけられたのに腹を立ててやめられたが、ケチをつけたのは

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小林昌治君です。小林君は野心をもち、大倉先生にとりつこうしたが、あまり認められなかったからと思います。  ぼくらが満州へ行ったのは、もうこれで東洋大学は万全だ。あとはいつまでもぼく達がいたら、大倉先生の重 荷になるだろう。いうならば大倉先生にしてみれば養子にきたようなもので、うちの卒業生出身ではないし、い ろんな面でぼくらが頼りになるが、一面ではこわい存在でもあるわけです。というのは全国の校友を背景に立っ ている有力な人間だと思うと、大倉先生の下にぼくがいつまでいれば、大倉先生に反対はしないけれど、そうか と思うと、大倉周辺がだんだん我がままを通すと、大倉先生としてはぼくに遠慮しているよね。ぼくは大倉先生 が大学を経営するうえに、目の上のこぶみたいになっちゃいけないと決意すると同時に、ぼくは当時の大学の月 給状態、経営状態からみて苦しい生活ですよね。それでぼくは満州へ行きました。あといつまでいるか、大倉先 生に嫌われてはいけない、もうあとはわれわれはじゃまものだからというわけです。  ー小林さんというのはどういう人ですか。  愛沢 靖国神社のそばで千秋文庫という、すばらしい図書館か博物館を開いているよね。  ー戦後、千代田区会議員もしていました。  愛沢 もとは出版関係をやっていて、大学の役員もしているんですよ。ぼくはいなくなったあとは小林君なん かに全部まかしたのです。大学に非常に貢献している人ですよね。だが一面、大倉先生に嫌みをいって、大倉先 生を追い出す、いやな役割も果している人です。満州から帰ってきて、いろいろ事情を聞くと、小林が反対の意 見をのべて嫌がらせをいったらしいんだよ。

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 それで大倉先生がいやになったんでしょ。二期でさっさとやめられた。だけど大倉先生のような、立派な学長 で経営者は末代まで立てておくべきでしたよ。そういうことをする人材がいないんだよなあ。先生は戦争中の一 番ひどい時代に入ってきていますからね。敗戦前後は経営上のむつかしい問題があるのよ。ただあんまりそうい うことを打明けていうわけにいかんがね。そういうことは何年史にも書いていないから、だれも知らないけど⋮    大倉先生は、そんなことぐらいで、へこむ人ではないと思うんですが。  愛沢 そう。だけどいやがらせをやれば、大倉先生は何の野心もないよ、そんな馬鹿なことをいうならとやめ られた。やっぱりつれてきた以上は、最後まで育て支持していく有力な校友がなければ、私学の経営は成り立ち ません。    まあその通りでしょうが、何が争点だったのでしょう。  愛沢 論争というのは結局、先生は先生で自分の人事をどんどんやっていくでしょ。そういうことに対して反 対派の連中は、あれは大倉は自分の意図のもとに大学を自由にするのだ、とみるわけですよ。大倉先生にはそん な野心も何もない。ほんとうに大学のために終始つくした人でした。それはみる人の偏見で、立場を異にしてみ れば、そういうことはいえるわけです。    大倉先生がこられたとき原田三千夫さんがいっしょにこられたですね。  愛沢 原田さんは精神文化研究所の理事で、大倉先生の部下でした。大倉先生は大学経営に直接こまかいこと 58

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までできないから、原田をつれてこられた。原田君ばかりでなく、三人くらい部下をつれてきで、要所要所に附 けておいた。原田君は大倉先生の意図を体して、後の学監のような役割をしていたわけで、いまでいうと大倉先 生の代理です。大倉先生の手足だからね。その人達が大倉先生ほど大きくないから、すぐ校友や教授と衝突して 嫌われる面が出てくるのですよ。    満州へ行って協和会に入られたのですが、引揚げまで帰国することはなかったですか。  愛沢 親が死んだときだけ、ちょっと帰ってきましたが、引揚げまでは帰りません。だけど時々友達やなんか から、また柳井正夫君も満州にいて、情報は入ってくるけれど、もはやぼくは直接大学に関係しているわけじゃ ないから、小林︵昌治︶とか二之宮︵英雄︶にまかせたのですから。二之宮君は郁文館の先生で、一時学監でした。 みな当時の大学を背負って立った校友です。敗戦で引揚けてから再び大学に関係したから、いろいろのうわさを 聞いて、なるほどなあ、大倉先生はかわいそうに追い出されたのかなあと思いました。  −さあそれで、引揚げてから愛沢先生は学監として活躍されるわけですが、学監というのはどういう役です   か。  愛沢 昭和二十二年に満州から引揚げてきて復職したわけです。学監とは当時は学長の代理役で、学生指導の 最高の立場にあり、経営も何もかも兼ねている、純然たる教員関係でなくて、職員の中の日堅局幹部です。理事長 代理みたいな役目でした。戦前にも学監はあって、ぼくは戦前もやり、戦後にもなりました。学監はぼくのいた 時代が最後です。この制度は、だから長く続かないで、すぐ廃止になりました。 59

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 1そこで大学の再建復興に当たられるわけですが、敗戦直後の大学の状況を話して下さい。

 戦災の復興再建に当面

 愛沢 敗戦となって、みんな自分自身食うに困っている。大学のことを考える人はほとんどいないといった、 かあいそうな時代でした。当時、正直にいって、みんなそれぞれ食えない時代でしょう。だれも大学のためにや る人間なんていない。大学なんてどうなっているか、死んだ高野︵剛︶君らがやっていたが、細ぼそとして何と もかんとも、これといって何の業績もない。ぼくらが引揚げてきたとき、大学は廃娃同然。これを引きずってい く人がいないんだ。ご苦労だが、またやってくれないかといわれ、しょうがないな、ぼくは引揚げてきて何の仕 事もない、田舎で塩取りをして親子が暮らしていたんだからなあ。どうせやるんなら大学のためにやりましょう と、再び大学に戻ってきてしばらく、学監として大学の復興経営に働いたのです。  その当時大学生は四百名もいないんだよ。三百何十人、それも肩書きだけで、実際に大学に出てくるのは百人 足らず、あとは籍はあっても、みんな食うためにアルバイトをしている。終戦後の廃娃というものは、大学はも ぬけの殻の有様ですよ。あっちこっち焼けただれた跡、それを修理する金は一銭もない。だれが大学のことを考 えるかといったって、その時は自分自身がどうして食うかという問題ですよね。大学のことより自分のことで手 いっぱい。残っていた三沢元貫が学監として復興をやらされたが、三沢だって忙しいから、大学に毎日出勤とい うわけにもいかなかった。一番最初に骨折ってくれたのは、東京にいた成石義之︵註・元学監︶君だよ。三沢君 も忙しいので、これじゃ何の相談相手にもならん。だから、君は元気でもどってきたんだからきてくれないかと

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いうことで、三沢が学監をやめて、わしがきた。そして内部の一切の復興の基礎計画を立てようと、ぼくと成石 君が中心となった。それから柳井幸太郎が引揚げてきたので、大学へきていっしょに手伝えとつれてきた。そう いう連中が中心だった。先生方はみな東京を離れていて、いない。学生は大学に出ない。復興資金をどこから求 めるか、焼け残りの資材を元として、辛くも生きていくといった哀れな姿ですよ。  ぼくがもらった月給はいくらだと思う。一千円かそこらだった。月々の先生の俸給が払えないんだよ。今月は 待ってくれのなんのと詫びながら待ってもらって、ようやく学生の月謝が入ってくると支払う。職員だって焼跡 に十四、五人くらい集って応急処置を講じながら、再起復興のために身命をなげうって日夜苦労した。いわば全 職員が辛うじて大学を背負っているという状態でした。  こうしてほぼ基礎ができると、学生もようやく干人になった、二千人になる。三千人になった。そして年毎に だんだんふえてきた。当時はみんな食うや食わず、先生方だって職はない。廃校同然。講義したいと大学へ出て きても、学生は出てこない。学ぶことより先ず食べることだ。学資は乏しい。そこで夜店を開いて露路で働いて いるものなどが、たくさんいた。まじめに授業するといっても一クラスに十人か二十人が最高という時代でした。    講堂は焼け残ったということですが、大学の建物の状況はどうでした。  愛沢 図書館と講堂が残った。あとは鉄筋コンクリートの建物が一つ。講堂の地下室は学生の寮になりました。 そこに二段のベットをつくって暮らした。そこから働きに出て行った。そんな状態が二十五年くらいまで続いた でしょうか。いまの短大事務室に庶務、教務、会計、学生課、そして廊下をへだてて学長室、校友会があったん

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です。大講堂も教室となり、京北の教室も借りました。

 一人千円寄附で一坪運動

 そのあと学部制度になったりすると、校舎をつくらねばならない。校舎をつくるとき、いま思い出したが一人 千円の寄附金を集めて、新校舎の土地を買ったんです。いま考えれば、当時のぼくの月給三千円のうちの千円を 出すのは容易じゃないんですよ。ぼくは立場上、三千円出したら、あとどうするんだと皮肉をいわれた。考えて みると、千円で一坪の土地を買うって、すばらしい。いまは何十万円でしょ。  ーどこの土地ですか。  愛沢 現在の2号館の土地です。当時は細い道路があって、それから右手の︵巣鴨よりの︶坂に空地があった       62

のです。       一

   一坪運動︵一坪千円︶といいましたね。  愛沢 そうそう。とにかく敗戦後に少し形が整うようになると、卒業生や先生も大学へ寄ってくる。それまで 校友だって誰一人寄ってこない。みんな自分の食事を犠牲にして、大学のためにやる馬鹿はいないですよ。あの 時代に大学のためにやるのは、全部みな犠牲です。そういう少数の人々の犠牲で、今日の大学が持ちこたえてき たということになります。そしてだんだん学生が五百人から八百人になり、千人から千五百人になり、二千人、 三千人となってはじめて収支の算盤がとれる時代になる。それまで一切合切何もないんだから。持ち金はもちろ ん、ただ食うや食わずで、まかなうという貧困状態でした。

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   昭和二十四年に七号館が立った。あれが木造校舎だったでしょう。  愛沢 そう。だから当時は人に頼らないで、文部省の補助金とか篤志家の寄附金でもちこたえてきたのです。 だから正直いって大学をつぶすかどうするかの相談までしたほどだ。つぶすにしても最後まで努力して、大学が どうにもならなかったら、全国の校友に撤︵げき︶を飛ばして、東洋大学を廃校するからあきらめてくれと、そ ういう積りで覚悟を決め励まし合ってやり通してきた。

 上福岡移転問題と川越

   昭和二十三年に上福岡移転問題があります。校地を大きくして学生をふやさないとどうにもならないとい   う状況なので、その打開策として持ちあがったとか⋮⋮  愛沢 それは成立しなかったのです。そういう話が出たということです。それよりも近藤鉄城君の世話で、川 越の土地を。。貝ったのです。川越は当初は坪五百円、それが折衝するうちに八百五十円になった。だから一人千円 の寄附の値打ちがわかるでしょ。一人千円の寄附を集めるというのは、容易じゃないことがわかりますよね。  川越を思い切って買って工学部をつくるというのは非常な英断です。勝承夫理事長のときですが、実際の当時 の下ッ端の仕事をやっていたのはぼくらですよ。下ッ端だけれど実際の仕事は私たちの手でやっているわけです。 あのとき近藤君の努力がなかったら、ぼくらがいくらバタバタしても川越の土地は手に入らなかった。近藤君の 業績は非常に大きいものですよ。  −工学部ができたのは昭和三十六年ですから、相当の長い生みの苦しみですね。

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 愛沢 それは安田や他の財閥から一時の金を借りるのは勝君がやりました。ぼくたちは基礎工作をやっていま す。勝君はいちおう理事長という立場でケリをつけたということです。

 獅子吼会から復興資金

 ーそれより前、昭和二十四年あたりに獅子吼会の問題が出てきますね。これはそれまで大学の財政危機は解   消していないんですね。  愛沢 そうなんです。何のかんのといっても大学は資金がなければ経営できません。その金を貸してくれたの が獅子吼会なんです。獅子吼会の代表大塚日現さん、この人が元金を貸してくれたが、一銭も利子はとらない。 その金があったからこそ、それが復興の資金になったのですよ。一面からみると、獅子吼会が大学を乗っとると いううわさが宣伝されて反対運動が起こったが、獅子吼会が金を出してくれたからこそ、今日の基礎ができたの です。そのうわさが出るのは獅子吼会がほとんど役員を独占しようとしたからです。それはいけない。東洋大学 は財界と校友と教職員との三位一体なんだからということで、ひずみは修正された。両者の妥協と協力によって Aフ日の姿になってきたのです。  獅子吼会は最初は役員を圧倒的におさえました。乗っとるといううわさは無理なかったのです。だが、あのと き金を出してくれるのは財界人でなく、獅子吼会以外にどこもなかった。苦しい時代に受けた恩は忘れちゃいけ ない。正当な理由があれば獅子吼会を支持すべきだ、応援すべきだと過去の恩義を強調したため、ぼくらは獅子 吼会派だと事々に中傷され、反校友派の如くにらまれ、嫌われてきました。

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 利子もとらず現金を貸してくれたのは獅子吼会以外にないのです。あとは大倉先生は別個な存在ですが、資金 の融資者としては安田にも多大の世話になっています。だが、それはみな返済している、一銭だって、ただもらっ たところはない。ほんとうに大学のため金を貸して一銭も利子をとらないのは、大倉先生と獅子吼会以外にあり ませんよね。    獅子吼会は三沢元貫先生が交渉に当たられたということですが⋮⋮愛沢、成石、三沢の三学監がおられて。  愛沢 それは小林啓善君がいけないのよ。ぼくが一番きらわれて学監をやめた。小林君が獅子吼会に乗って大 学に入ってくると、その交換条件として、ぼくはクビを切られた。小林君が獅子吼会に利用されたというのも、 あるいは事実だろうと思う。  ーあのころ三沢先生のお話で、獅子吼会の経営参加といっても、役員の三分の くらいではないかといって   いたのが、半分になったということですが。  愛沢 しかしあのとき救ってくれたのは獅子吼会だった。そのご恩は忘れちゃいけない。そういう意味で役員 だけは考えなければならないとぼくは支援した。だからぼくは獅子吼会派といわれたが、獅子吼会が大学を救う ということよりも、教育的野心をもち、宗派の経営舞台にしたいという、下心があったのは事実でしょう。やは りやり方がひどかった。役員をほとんど独占したからね。それで校友から反発を受けて、いまでは役員は三分割 されて筋がはっきりしたからよかった。学識経験者、教職員と校友と、その一部の獅子吼会となっているからね。 最初乗りこんだときは、大学教職員、校友の役員と対等に役員を入れた時期があった。それだから攻撃を受ける 65

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のも、やむをえなかったと思う。  そのころの情勢は非常に複雑でした。大学は困っている。いざという時に金を出してくれる人がいないんだか らね。ぼくらいくら学園を思って真剣に考えても、ぼくらの力だけでは金は出ない。ただ学生諸君の授業料が唯 ⋮の収入でしょ。学生が今みたいに多くて経営上、学生の月謝だけでまかなえればいいけど、そういう時代じゃ なかったからね。学生も少いし、今日でこそ経営できるだけの学生数がいるから楽なんだけど、そうかといって、 大学はこれだけの固有の財産をもっているけど、これを運営する資金といったら、当時は一銭もないんだから。 いまだってそうでしょう。この資金をどういう風に作るかが、大学の最高幹部の仕事ですよ。そういう資金をつ くったという、歴史はこれまでない。それじゃだめだよ。一人でも有力な財界人を求め、何卜年後までも、この資 金で運営が可能であるという資金をつくり出すことが幹部諸君の任務なのです。このことは敗戦後の食うや食わ ずの時代の苦労を話して聞かせにゃ、わからないでしょう。    工学部ができたのは大きな転機でしょうね。

 経済学部創設が転機

 愛沢 いやそうじゃない。経済学部をつくったのが大きな大学の転機ですよ。これをつくるのに一番苦労しま した。うちは井上円了先生以来、文学部一本なんだよね。これではいけない。将来、総合大学としての基礎をつ くらねばならない。なんてたって財界に人材を出さねばいけない。まず経済学部をつくれというのがぼくの主張 なんです。すると文学部教授会が、経済なんか絶対つくっちゃいけないと反対する。しかし私はシャニムニこれ

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を進めた。第一回の申請は失敗し、第二回でやっと文部省の許可を得、それが契機となって総合大学への一歩を 進めることができた。  文学部教授会の反対を押し切って、︵反対教授を︶全部クビにしてもやるんだという意気ごみで、断固としてやっ てのけたのは当時の経営者です。だからぼく︵昭和二十五年、当時教務課長︶が教授会へ行って発言すると、あ いつがくるとうるさいからというので、教授会決議でぼくの教授会出席が拒否されたことがあります。ぼくは﹁あ あいかないよ、好き勝手なことをやりなさい﹂とその教授会に行かなかった。一ケ月ほどして教授会は学長へ決 議をもっていったが、学長は教務課長の印がないからと文書を返された。自分が出もしない教授会の決議を﹁ぼ くは取扱わないよ﹂ということで行政措置ができない。そこで教授会が折れて、再び出てくれといってきました。 これは笑い話になっていますが、それくらい当時の教務課長は教授会に対抗する力をもっていたのです。  ー教授会の決議がどういうものであったかわかりませんが、教育研究に関する教授会の決定権限は明治以来   の伝統でしょう。それ以外の、とくに経営の問題なら経営側はよく説明する必要があるし、教授会もそれを   聞く心の広さはもつでしょう。  愛沢 経営者は教育者でないけれども、経営に関しては教授以上の権限をもっていますよ。教育内容について は教授会の意図は、ある程度教授会の権限になっているんですね。が、経営に関しては教授会と対等の位置をもっ ています。  ところが昔は、教授会が大学経営の基本なんで、教育も経営も一切、教授会に権限があるんだという考え方が

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強かった。これが学部独立運動になります。学部独立は学部が一つの学校なら別の話ですが、学部は大学という 経営の一部なんです。そこにむつかしいところがある。そうかといって教授会と対立するような措置をとれない。 それがいまの行政担当者の弱さなんです。だからいまは教授会万能でしょ。教育から教育行政の一切をにぎると いうのが、いまの大勢、それでは私立経営は成り立たない。教授会が独立した機関でないことを分かってくれない、 いまじゃわかっているんだけれど、行政措置を教授会はえてして粗末にする傾向がある。だから事務職員、行政 担当者は低級な、自分たち以下の人間であると、学者は学問的背景で判断し勝ちなのです。それが困るところな んで⋮⋮    そういったものでもありませんが、この問題はその辺で︵笑い︶  愛沢 ︵笑い︶  ー戦争中は京北をふくめて財団法人東洋大学という組織でしたが、戦後に京北を分離し、現行の寄附行為に   変わりました。このいきさつはどうでしたか。

 京北問題について考える

 愛沢 昔は財団法人は一体だったが、それが分離し京北は附属でなくなった。それは確か昭和二十六年で、こ れまで名目的には一体であった大学と京北は融和統合の話合いがつかず、分かれ分かれの関係になってしまった。 そこで京北の土地はこれまでただ貸しているが今後は地代を払いなさい、それが嫌なら買いなさい、と明言した のです。

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 この分離には獅子吼会のいきさつもあるが、問題は大学の附属高になるか、ならないかということです。それ は大学経営の合理的な行政処置の確立と同時に、これまでの単なる名目的な京北財団との関係を分離して、京北 と分かれることでした。元来京北は井上先生のときから兄弟関係の立場にあるが、事実上は教育的にも財政的に も何の関係もないということではっきり分離しました。  分かれるとなると、大学が京北を買うか買わんかという問題になるが、昔は京北関係者が大学財団の役員の中 枢をにぎっていたので、むしろ大学経営の邪魔にさえなったほどです。というのは京北の有力者は母校出身の大 先輩が多かったからです。しかし立場の相違というものでしょうか、両者の意見は一致せず、大学は大学、京北 は京北というわけではっきりと分かれた。そこで土地は大学のものだから返せ、京北側はそれだけの財源はない からお借りするといった決裂状態が永く続いた。そんなわけで事を荒だてるわけにもいかず、まあまあの形で京 北に土地を無条件で只貸しをするといった形になった。いまは僅かだが、地代をもらっているが、土地を借りな きゃ成り立たない京北の立場はわかるが、土地を貸すならあくまで地代をちゃんと取り、ケジメをはっきりすべ きで、敷地の値段をどの程度にするかについても、地価に応じてはっきりすべきである。それがいやならお気の 毒だが京北には出てもらう、というより外に途がない。ぼくが大学に関係しているときは、そこまで結論はつけ られなかった。  ただ井上先生が京北をつくられたという深い縁︵ゆかり︶があるから一気に処断できなかった。交渉決裂のとき、 はっきりすべきだったと今後悔している。ぼくの持論は今も変りなく、京北はやはり附属高校にすべきではない

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ですか。大学の同じ敷地に何の縁もない別個の高校が存在するということは、不合理至極な経営の矛盾です。ま た大学用地の関係上、白山の同居が不可能の場合は、朝霞でも川越でも土地の余っているところへ移して、白山 の土地は大学経営の一本化にすべきです。  その点残念だが、まだはっきりしないで問題が今日まで残っています。京北は歴史も古く、都内の私立高校と しては声価が高く優秀な生徒もいるが、それらの多くは東大その他の学校を選び、東洋大学を母校と思う気持が 全く欠けている。また実業学校も大学の敷地に依存しながら、あたかも自分たちだけの独立した学園の如き錯覚 に立ち、井上先生の主張とはかけ離れた別個の私立学校が、大学の敷地に食いこんでいるという形になっている。 これはいけない姿ですね。    もう一度、上福岡の移転問題ですが、かなり大きな問題だったと聞いております。旧陸軍用地二十万坪を   大学と、ある紡績会社と、翠光会という団体で分割するということで、GH9と交渉し、結局はできなかっ   たのですが⋮⋮ 、愛沢 翠光会なんて知りません。これは実際そういうことがあったということだけで、大学の本来の筋合から いって、大した問題じゃなかった。中心の存在じゃないんだから、基本の話としては取扱ってないのです。    しかし、八十年史には大学の再建に従ったものが、大陸の豪壮さに見なれてきたから、何も鶏声台の猫の   額ほどの土地にしがみついている必要もなかろう、ということだったようです。︵笑い︶  愛沢 加藤虎之亮学長時代のことだね。ぼくが学監のときだが、あまり重要な問題ではない。本来の筋の問題

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でないので取扱わなかった。この問題について、大学自体が大きな犠牲を払ったとか、そんないきさつもありま せん。 ーしかし学生が何人かクビになったり、学生大会で近藤鉄城先生︵註・復興課長︶が東上線に上福岡までの   専用電車をつくるとか、できなきゃバラを切るとか発言されたりしたんです。  愛沢 大学としては、上福岡移転は地方の一部の問題として片づけています。大学にとって大きな役割を何も していない。大学を左右する問題になっていないんだよ。加藤学長はぼくにほとんど全部の権限を任されていて、 学長のハンコをもらう必要のあるときだけは別ですが、その他はすべてよろしく頼むよということで、ぼくに強 い信頼感をもった先生でした。そんなわけでぼくは細かいことは何も相談しなかったわけです。  1話は別ですが、土浦に土地が買ってあって、それを川越のときの資金源の一部としたということもありま   すね。  愛沢 それは土地の取引きに関係した関係者の内部的問題じゃないの。表だった問題になってはいません。解 決したらいいだろうくらいのことで、正規の学園の問題としてはほとんど関係していない。その点では近藤君と かその当時裏で資金関係で活躍した連中の複雑な行政関係の問題で、大学の大きな問題として発展するほどの内 容のものではないですね。そのときそのときで処置され、別にこれといって異状もないので、大勢に影響はなかっ たからね。  だけど近藤君ら当時やってくれた人たちの努力がなければ、川越の土地を手に入れることはできなかった。そ

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ういう意味で、あの連中の努力は大したものですよ。ぼくはこまかいことは関係しなかったですよ。だから一部 の関係者の動きだという程度のことです。    先生は五十年史、八十年史ともに関係なさったと聞きますが⋮⋮

 五十年史、八十年史の編集・資料

 愛沢 いや、関係どころではありません。八十年史はぼくが編集責任者だからね。五十年史はただ一部を執筆 した編纂委員ですが、八十年史はぼくが編集長だから、ぼくの権限でやっています。編集委員長は宮西一積氏、 具体的な内容は成石義之君が骨折ってやってくれました。表面上は勝承夫君が理事長ですが、こんなことがあっ たのです。  ぼくに内緒で宮西と勝がぼくの原稿に三カ所くらい手を入れました。ぼくは何千枚と書いたんだが、できあがっ てから、手を入れたことをわしに一言もいわないので、ぼくはけしからんと、どなりつけたことがある。ぼくの 原稿を勝手に抹殺したのです。先生方はぼくとみな相談してやっていました。最後に先生方にもぼくにも相談し ないで、気にくわないことは宮西君と勝君が勝手に手を入れたものです。  勝君は︵大正︶十二年騒動のあのいきさつについては、大きな批判を受けた。ぼくは境野先生の立場を勝君と ちがう見方で考えており、勝君は境野先生を大学から葬るという立場でした。それじゃいけないので、ぼくは大 学の歴史の上で、十二年騒動の意義を改めて回顧して書き直した。それを内緒で手を入れたのです。それが勝君 の工作です。それを知っているのは宮西君です。それは表面上は成り立ちます。宮西君は肩書きだけは委員長だ

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からです。しかし、実際執筆し編集したぼくを除いて、相談なしに勝手に原稿を取捨選択する︵編集長の︶権限は、 理事長といえどもないはずでしょう。  先生方に頼んだ原稿に、私も全部手を入れている。それは編集者として相談のうえです。それをまた委員長、 理事長が勝手に手を入れている。だから八十年史には、ゆがめられた面が少々あるわけです。細かい部分は分担 して書いたのです。全体を通じてみたのは、ぼくと宮西だけです。あとはそれぞれの分担権限で、非常に広範な 分担をもったのは、実質的には成石君です。  でき上った原稿は、形のうえではいちおう理事長に見せる。自分が気にくわんことは、その段階で直す。だか ら八十年史は不当だとぼくに言わせたのです。原稿はみなもう一度戻ってくるからわかるんです。何々の原稿は どこへ行ったかと聞くと、﹁さあ﹂と逃げてしまう。ぼくは関係した資料を最後に一括して図書館に預けました。 不用になった原稿は自分の手許に残ったが、こんな原稿焼いてしまえと処分しました。関係資料は、だから五十 年史も八十年史も図書館にあるはずです。五十年史はぼくは職員として関係し、一部を書いただけですから、ぼ くは責任をもちません。  1五十年史は大倉山で書かれたということですが。  愛沢 吉田隆君に一部を担当させたという程度ですよ。ぼくは大学史編纂に二回も関係していたので、百年史 はどうだといわれましたが、もうご免だよといったんです。  ー何かほかに参考になることは。

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 愛沢 五十年史を書くとき一番役に立った材料は三十年史です。これがなければ五十年史は書けなかったです よ。それは雑誌形態で図書館の大学資料にあるはずです。三十年史は境野先生時代じゃないかな。これが一番古 いね。それから二十年史も、わずかだが雑誌の特集号のような形であった。これらが有力な材料になりました。 基礎的なものがあるからね。井上先生時代から、それが残っていたことは貴重な資料でしたね。  二十年、三十年と過去のことになったら、その時代に生きる人々をいちいち訪ね歩くことはできないでしょ。 そういうものが残っていたことが大きいですよ。いまになってみると、読んでみて始めてハハンと思うだけで、 この生きた材料はどこにあるかといわれてもわからんでしょ。だけどこの資料は、これを書くだけの材料を各学 部が保存して、全部編集室で集めて、一括して図書館に保存してあるんだから、残念ながら図書館で特別な措置 をとらなかったので、それを大事に取扱って保存しなきゃいけないのに、それがうやむやのうちに分散してしま いました。  随分いろいろありましたよ。八十年史では各学部から執筆する代表を一人あるいは二人出してもらって、その 人達が分担して、あんたはここをやってくれ、あんたはここと区分して編集室で割当てして、その原稿をもらい ました。その原稿を元にして、一つの八十年史としてまとめて書いたのが、ぼくらですから、その材料がなけれ ばとても書けやしないですよ。先生方から材料︵原稿︶をもらって、一括してよく読んで、関連づけて全体的な ものにしたのが八十年史です。    どうもありがとうございました。

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︹追記︺ 鈴木俊光主任が、さっそく山内図書課長の案内で、つぎの三十年史資料などを入手しました。 1、﹁東洋哲学﹂第24篇第10号︵大正6年︶ 東洋大学三十年記念号で、東洋大学創立三十周年感想を七十 余名の諸家が寄稿している。哲学館創立時代の諸先生の思い出や学生生活が画かれている。 2、﹁現代仏教﹂十周年記念号︵昭和8年7月︶回想編につぎのような寄稿がある。  ﹁追憶雑談﹂境野黄洋  ﹁明治仏教一夜謂﹂安藤正純  ﹁井上先生を想ふ﹂高島米峰   ほかに﹁高僧似顔﹂岡本一平画が二ページあり、井上先生はじめ創立当時の有名な関係者の似顔があり、       75  貴重である。      一 3、﹁思想と文学﹂第3巻第2冊︵昭和12年11月︶ 東洋大学創立五十周年記念特集として回顧と展望を特  集している。   ﹁東洋大学の使命を論じ、其の健実な発展を祈る﹂井上哲次郎のほかに東洋大学五十周年記念歌︵正富  江洋︶、東洋大学音頭︵河西純太郎︶が楽譜付で収録されており、興味深い。 4、﹁思想と文学﹂第4巻第2号︵昭和13年2月︶ ﹁大学の使命と本学の特色﹂大倉邦彦

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