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第一次大戦前 ドイツの金融構造 における
貯蓄金庫 の機能転化
――社会政策手段か ら 「経済主体」へ十一
三 ツ 石 I 問 題の所在 第一次世界大戦 までの ドイツ資本主義発展 を特徴づける主要な局面は,何 よ りも石炭 ・鉄鋼業 と電気 ・化学工業 における独 占の形成 とその過程 に密接 にか かわったベル リン大銀行の形成であると両者は一方における産業大経営の株式 会社化 と,他 方 における交互計算業務 と人的関係 を通 じて産業企業 に関係する 特殊 ドイツ型銀行の形成 として現れ,大 銀行が巨大株式会社の急速 な発展の最 も重要な槌子 となった構造 は, ドイツの工業化開始の後進性 に由来 しつつ, し か し同時に固有 に高度 な資本主義発展 を示すにいたったと特徴づけられたので 2 ) ある。 第一次大戦前の ドイツ資本主義 に対するこの ような特徴づけに対 しては,資 本主義の発展傾向に関す る指摘の一定の正 しさと重要 さを認めつつ, しか し, 資本主義の構造的把握の観点か ら批判 ない し認識の豊富化のための議論がなさ れている。第一 には生産構造 を,石 炭鉄鋼業や電気化学工業などの少数の産業 部門の少数の巨大株式会社 によってのみ分析するのではな く,他 の非常 に多 く 1 ) 大 野英二 F ドイッ金融資本成立史論』有斐閣,1956年,特 に59∼63頁。戸原四郎 『ドイ ツ金融資本の成立過程』東京大学出版会,1960年,特 に11∼17頁。2)Gerschenkron, Alexander,『 cθttοり物ぢC βacん切a勉%θssぢ物〃ウsけοttcaサPθγttpθcけぢυθ ム βοο乃げ gssaり, Cambridge, 1962, pp.5-30.;Kocka, Jurgen, Grottunternehmen und der Aufstieg des IManager―Kapitalismus im spaten 19.und fruhen 20。」ahrhundert. Deutschiand im internationalen Vergleich, in:」Y体けοttscブ物 Zθぢぉcん々ル,Bd.232,1981, S.39-60。(加来祥男訳 「19世紀末∼20世紀初頭 における巨大企業 と経営者資本主義の果
隆一一国際比較のなかの ドイッーー」 (同編訳 『工業化 ・組織化 ・官僚制一―近代 ドイツ
の企業 と社会一一』名古屋大学出版会,1992年所収)
62 彦 根論叢 第 326号 の就業者 を抱 える被服業 や木材加工業等 ,総 じて消費財生産部 門の手工業,家 内工業 を含 め た中小 生産 を分析 す る こ とによって全機構 的 に明 らか に しようと 3 ) す る ものである。第二 には地域構造 に関 して,ラ イン ・ヴェス トファー レンと ベル リンの特定地域 をもって 「ドイッ」資本主義分析 として充足するのではな く,個 別地域の経済発展の独 自性 ない し一定の完結性 を分析 し,そ れによって 諸地域経済か ら成 る ドイツ 「国民経済」の特殊 な構成 を明 らかにしようとする 4 ) ものである。 再生産 ・空間構造に関わる以上のような資本主義認識深化の議論 とともに, 近年では ドイツの経済発展におけるベルリン大銀行の意義の強調に対 しても批 判的検討が始まっている。なかでもそうした議論を総括的に展開しているエ ド
ワーズ/オ ジルヴィーGeremy Edwards and Shellagh Ogilvie)は,第 一次大 戦前の工業化 と金融構造をベルリン大銀行によって代表させることに強い批判 を提起 している。これ らはこれまでの研究史か ら見れば きわめて興味深い問題 を提供 しているので,以 下 に論点 を紹介することに したば告 第一の論点は,上 述の ような第一次大戦前の金融構造 をベル リン大銀行 だけ によって説明することはで きない とい う点である。 このことをエ ドヮーズ/オ ジルヴィーは,金 融機関の資産全体 に対する金融機関別の割合の変化 を第 1表 のごとく提示 しなが ら根拠づけようとしている。これによれば, ドイッ銀行業 の 「象徴」であるベル リン大銀行 と地方銀行 をあわせた信用銀行は1860年には 金融機関所有資産全体の僅 か9.2%を 占めるにす ぎず,こ の割合 はその後増加 す るが,1913年 において も24.2%で あ り,大 銀行 だけなら9.2%に 止 まってい る。初期 に産業金融で大 きな役割 を演 じた個人銀行 は当初の35。3%か らしだい に減少 し,1913年 には4.4%に す ぎない。 これ らの銀行 に対 してまず貯蓄金庫 3)柳 沢治 「ヨーロ ッパ における最終消費財生産の資本主義化 の意義 ―― 産業革命後 の資 本主義 の歴史的理解 との関連で 一一」 『歴史学研究』第656号,1993年 。 4)こ の議論 は実際 には 日本で長い研究史 を持つが,最 近の もの として,拙 著 『ドイツ地域 経済の史的形成 ―一 ヴュルテ ンベル クの農工結合一一』勁草書房,1997年 ,特 に 3∼ 21頁 を参照 されたい。
5)Edwards, 」 eremy and Shellagh Ogilvie, Universal banks and GerIIlan industrializa― tion: a reappraisal, in: βcο%οttηぢc rrOsけογフ貴θυウθ切, XLIX, 3, 1996, pp.427-446.
第一次大戦前 ドイツの金融構造における貯蓄金庫の機能転化 6 3 は1960年に12.0%の 資産割合 を占め,そ の後それは1913年までに24.8%に まで 増加 した。 また1850年代 か らしだいに生成 し始めた協 同組合の割合 は1913年に は6.8%に まで増加 し,さ らに不動産抵 当銀行 はすでに1860年に16.9%の 割合 を占めていたのが,1913年 には22.8%に までやは り増加 している。こうして兼 営銀行 ない しベル リン大銀行 (エ ドワーズ/オ ジルヴィーの場合 はユニバーサ ルバ ンク)の 意義 を過度 に強調することに対 して,貯 蓄金庫 と不動産抵当銀行, そ して協 同組合の意義 と実態 を明 らかにすべ き視点が提起 される。 これ との関 連で,預 金の受入れが貯蓄金庫 と協同組合だけでな く,他 の銀行,特 にユニバー 6 ) サルバ ンクにおいていかにどの程度受け入れ られたかが問題 とされている。 第 1表 ド イツ金融業 における金融機関別資産割合の変化 % ) 金融機関 1860年 1880年 1900年 1913年 発 券 銀 行 信 用 銀 行 17.2 個 人 銀 行 35.3 貯 蓄 金 庫 信用協 同組合 0.2 抵 当 銀 行 そ の 他 計
出典 :J.Edwards and S.Ogilvie, Universal banks and German industrializationi a reappraisal, p.431. 第二の論点は ドイツの工業化 において株式会社が どれほ どの重要性 を持 って いたか とい う点である。 ここではまず鉄道業が検討 され,ラ インラン トとザ ク セ ンでなるほど株式会社が重要な役割 を果た したことが認め られるが,ハ ノー ファーやバーデ ン,ヴ ュルテンベルク,バ イエル ンなどの諸邦では政府主導で 鉄道が建設 されている。 さらに前述 した ことに関連するが,産 業企業の資本ス 6)op.cit.,pp.430-433.な お斉藤晴造氏は発券銀行 と信用銀行のほかに,貯 蓄金庫 も 含めて多種の金融機関が当時存在 していることを指摘 しているが,そ うした金融機関の資 本主義発展 における意味 については言及 していない (同 『ドイツ銀行史の研究』法政大学 出版局,1977年,176∼179頁)。
64 彦 根論叢 第 326号 トック全体 の うちで株式会社 のそれが 占め る割合 は,第 一次大戦前 で最 も高 い 1 9 1 0 年にお い て も1 9 . 7 4 % に す ぎず ,こ う した株 式会社 の 占め る比重 はイギ リ スのそれ よ りも低 い と推測 されてい る。以上 か ら ドイッの工業化過程 にお ける の 株式会社 の意義 を過大評価することはで きない とされている。 第三の論点 は,実 際にユニバーサルバ ンクは株式会社 に資金 を供給 したか と い う問題である。これに関する資料 は乏 しいが,フ ェルデンキルヒェン(Wilfried Feldenkirchen)によれば,投 資勘定 をルール地方の鉄鋼業11企業で総括すると, 1870年代後半か ら1895年までの時期 はほ とん ど内部か ら調達 され,1895年 以降 において も平均 して 8割 以上が内部金融でまかなわれた。大銀行か らの資金調 達 は個 々の株式会社の個別 ケースで重要 な場合が確 かにあったが,全 体 として 働 は内部金融が再検討 されるべ きであるとされる。 以上か らエ ドワーズ/オ ジルヴィーは,ユ ニバーサルバ ンクが ドイツの工業 化 における投資活動 に資金 を供給 した とい う見解 に対 して異議 を唱 え,む しろ 貯蓄金庫 と不動産抵 当銀行,そ して協 同組合が,生 産活動の大部分 を占める非 株式会社 に資金 を供給 した関係 を重視す るのである。 こうした議論 は総 じて産業金融だけでな く,金 融構造その ものにおいてベル リン大銀行以外の金融機関の意義の重要性 を指摘するものであるが,従 来の見 解の再検討 を要請する議論 はエ ドワーズ/オ ジルヴィーに止 まらない。 ド イツ エ業化 における貯蓄金庫の重要性 を特 に強調するのは, トーメス (Paul Thomes) である。彼 によれば,工 業化過程 のなかで中下層民の預金が貯蓄金庫 に集約 さ れ,1913年 には ドイツ全体で3133金庫,約 7000の支店 に約200億マルクの預金 が預 け られることにな り,こ うした金額 は160行の株式銀行 に預 け られた96億 マルク,不 動産抵当銀行の115億マルク,信 用組合の50∼60億マルクと比較 し て際立 っているとされる。 ト ーメスは,第 一次大戦 までに貯蓄金庫 は急速 に増 加す る投資 に資金 を供給 し,と りわけ地域的な経済発展 にはもっとも適合的な 7)op. cit., pp.433-437.
8)op, cit., pp.437-440.;W.Feldenkirchen, Dぢ θβぢsθ物―物?み冴 Sけaんιぢ物αttsけ克θ ttθs
妃 切 あ 竹9θ bあ θけ島 ゴ 』 ス外 ゴθFZ:雨 品 cん sを切 れ ご 乱 α 物 ぢθ物 竹 9切 物 冴 Sけ ?物 んけ切 γ うん γθγ Cγ οだ 物 物 けθ作
第一次大戦前 ドイツの金融構造における貯蓄金庫の機能転化 6 5 補 完 的役 割 を果 た した と述べ , に もかか わ らず, こ う した貯 蓄金庫 の重要性 は これ までの経 済史研 究 で大銀行 の陰 に隠れて長 く見落 とされて きた と指摘 して 9 ) い る 。 そこで本稿は,こ れまで考察の対象 とならなかった貯蓄金庫の成立史を第一 次大戦までについて明らかにしようとするものである。対象時期を第一次大戦 までとしたのは,本 稿での行論が示すように,貯 蓄金庫が 「銀行」 としての現 代的性格を備えるにいたる原型を第一次大戦前後の時期に整えることになるか らである告 このような「銀行」にいたるまでの貯蓄金庫について,本 稿ではまず 第一に生成期の実態 と背景 (外的型制),第 二に貯蓄金庫の預金者 と営業政策 (内的構造),そ して第三に工業化の進展のなかでの貯蓄金庫の機能転換につ いて明らかにする。この場合,と くに一方でその金融構造 と金融市場における 意義,他 方で工業化の進展において呆たした経済的役害Jという点に注意 しつつ, 地域的には比較的貯蓄金庫が広範に分布 した南 ドイツに重心を置 きながら考察
9)Thornes, Paul, GerIIlan Saving Banks as lnstruments of Regional Development up to the Second World ヽ Var, ini Youssef Cassis, Gerald D. Feldman and Ulf 01sson
(ed.), 質んθ』υοι切けぢ0物 りβFづ%attcぢαι Fttsけづけ切けづοtts a句溺 財aγんθけsあ物 ]総θ物けぢθけん―cθ物け切物 β切観pθ, Hants(UK), 1995, pp.143-158.
もっ とも従来の見方が現在ではすべ て批判 されているとい うわけではない。工業化 にお けるベル リン大銀行 と産業大企業 との関係 をなお重視す る もの として,例 えば,Buschgen, Hans, Banken und lndustrie in Deutschiand, England und Frankreich, in:Bo物 そんぢs― けο招テscんθs Aγcんぢυ Zθあけscん■ぷ 拘 γ Bα句ん。θscんウcんけθ, Beiheft 29(Banken und lndustrie) 1996, bes, S.18f. があ る。
なお貯蓄金庫の研究史 については本論 で触れることになるが, 比 較的初期の研究 として と りあ えず ここで は, H o f f m a n n , W a l t e r G . , D i e E n t w i c k u n g d e r S p a r k a s s e n i m Rahmen des Wachstulns der deutschenヽ Virtschaft, ini Zθあなcん?均危yttγ αあθ θθsa物けθ Sけaa体航 益例 scんて",125.Bd,,4.Ht.,1969,S.561-605.を あげてお く。 また 日本 の研 究では,本 位 田祥男 「ドイツの貯蓄公庫 (Sparkasse)」(獨協大学)『経済学研 究』第 3号 , 1968年, 1∼ 35頁,が あ るが,対 象 は概 して第二次大戦後 である。最近では,相 澤幸悦 「ドイツの貯 蓄金融機 関」相 澤幸悦 ,平 川本雄編著 『世界 の貯蓄金融機 関 一一 国民生活 に不可欠 な金融機関の役割一―』 日本評論社,1996年 , 1∼ 45頁がある。 10)M.ポ ールによれば,貯 蓄金庫 は第一次大戦前後の諸立法 によつてワイマール期 にいた る と,信 用銀行 ,信 用協 同組合 とともにユ ニバ ーサ ルバ ンクの性格 を備 えるにいたつた (Pohl,Manfred,β 物けsけθん切竹0物 %冴 β物け切づcttι包ル犯θ αθsし 物力 θttαιbの物んθ9容グsけθ循 拘 物 yθ均け― 掬aけづο物 切物冴 ス多,sθ aιs物 あcんけを θ Fattο γθ物, Frankfurt am Main 1986, S.69ff.)。 こ う
66 彦 根論叢 第 326号 することにしたい。
エ ド イツにおける貯蓄金庫の生成 と展開
貯蓄金庫 の生成事情 は必ず しも明確 になってぃるとは言いがたいが,一 般的 に貯 蓄 金庫 の起 源 は,18世 紀 後 半 に ドイ ツ各 地 に成 立 してい た孤 児 金庫 (Wttsenkasse),質屋 (Leihkasse),福祉施設 ・財団の貯蓄金庫 (Ersparniskasse) に遡 るといわれている。そ うしたなかで貯蓄 を受け入れる受信業務 とい う意味 で本来の貯蓄金庫 は,1778年 ハ ンブルクの一般公益施設 に設置 された金庫が最 初の もの とみなされている。 これに続いて1786年にオルデンブルク,1796年 に キール,1801年 にアル トナ とゲ ッテインゲ ン,1808年 にグルムシュタッ トで同 様 の貯蓄金庫 が設立 されている。 これ らの6金庫 は生成期 の貯蓄金庫 と言 える もので,多 様 な形態 をとっていた。た とえば設立主体 は民間 と公的団体が並存 してお り,オ ルデンブルク貯蓄金庫 は公法団体,ゲ ッテインゲ ンとグルムシュ タッ トの貯蓄金庫 は市 によって運営 された。またキールでは部分的に貸付 もお 1 1 ) こ な わ れ て い た。 これ ら貯蓄金庫 はその起源が示す ように,都 市下層民 を貧困か ら救済 し,福 祉 を向上することを目的 として設立 された。その場合対象 として想定 されたの は,手 工業職人,奉 公人, 日雇いなど都市住民のなかの下層部分であ り,ま た 港湾都市の場合 にはさらに船員 な ども考慮 された。 これ ら階層の貧民が 日常生 活か ら生ず る僅 かな貨幣 を貯蓄金庫 に預 け,利 子 をもって増殖 した一定額 を後 の困窮時 に役立てた り,結 婚 などの節 目に使用することが 目的 とされたのであ 1 2 )
る。そうした意味において貯蓄金庫は支配層ないし上層による社会政策的意義
11)Wysocki, Josef, し 竹つけθγsttcん切?99θ物 を切γ '7うγけscん aル s― 切物α Sο βづaιθθscん ぢcんけθ ttθγ
αθ勿けscんθ句 敬拘施 SSθ物 づ物 ゴタ 挽虎勉 切物挽 γけ, Stuttgart 1980, S.16f.質 屋 な どは ヨー ロ ッパではすでに15世紀 に存在 していたが,そ うした施設 は貯蓄金庫 とはみな しがたい。 それは貯蓄金庫 の定義 に もかかわるが,こ こで問題 となる限 りでは,こ の種の施設が下層 民へ の貸 し付 け (実態 は施 し)を 目的 とした もので,そ の際資金 は貯蓄 とい うよりは富裕 な階層か らの寄付 を主要な基礎 に していたか らである。 12)万 attb切竹ウscんθムαα7研 ―σο物けοづcぺ軸cん克cんけθ物, 12.11.1778,S.707,in:Wysockl,a. a.0。, Anhang, S,198,
︱ ︱ 第一次大戦前 ドイッの金融構造における貯蓄金庫の機能転化 67 を持 って設立 された といえるが,さ らにその背景 には,模 範 を示す教育を通 じ て貧民 を経済的に独立 させ,可 能ならば社会的に上昇 させ ようとする啓家思想 が存在 していた。貯蓄金庫 はそのための一手段 として設立 されたのであった告 ナポ レオ ン支配の中断後,社 会政策的意義 を付 された貯蓄金庫は ドイツ各地 の都市 において大 きな波 をもって設立 されることになった。この状況は第 2表 に示 される通 りである。1825年末 における ドイッの貯蓄金庫数は全体で110に 達する。地域的にはプロイセ ンで29庫と最 も多いが,対 人口比で考えればシュ レス ヴィヒ=ホ ルス タイン/ラ ウエ ンブルクの26庫が最 も多 く,ま たバイエル ンも23庫 と比較的多い。設立主体 はこの時期で も公私混在 し,110庫 中,公 的 団体 によるものが54庫,民 間が38庫となっている。 また公的団体の中では自治
体が46に達 し,こ うした数字は政府当局が金庫設立を上から奨励 し促進したこ
とに関係している4
第 2表 ド イツ諸邦の貯蓄金庫 (1825年末) 諸 プ ロイセ ン 29 ザ クセ ン=ア ルテンブルク 2 シュレスヴィヒ=ホ ルスイタイン/ラウエンブルク 26 シュ ワル ツブル ク=ゾ ンダースハ ウゼ ン 2 バ イユ1ル ン 23 ブ レー メ ン 1 ヴュルテ ンベルク 5 ハ ンブル ク 1 ハ ノー フ ァー 4 リューベ ック 1 ザ クセ ン王 国 4 オル デ ンブル ク 1 バ ーデ ン 2 ザ クセ ン=コ ーブルク=ゴ ータ 1 フラ ンク フル ト 2 ザクセン=マ イエンゲン=ヒ ル トブルクハウゼン 1 ヘ ッセ ン選帝公国 2 ザ クセ ン=ワ イマ ール 1 メクレンブルク=シ ュヴェーリン 2 全 国出 典 :」. Wysocki, し 吻 けθγsttc肋 ″ 針れ 触 〃 予7Zγttcん競 S― 物物α Sogう aを θscんあθんιθ αθγ αθttιscんθ?を dpaγ 比循 Sθ?をづηOゴ ク 」 働んγん物物冴θγけ, S。 26.
13)Sommer,Albrecht,cθ ぢsけθ彰傑cんづcんけθ αθγ αθ物なcんθtt spattaSsθ物,Berlin 1935,S.12. 1818年設立のパ リ貯蓄金庫 を晴矢 とするフラシス貯蓄金庫が,初 期 には自由主義的社会 改 良主義 の上 に立 ちつつ イギ リス貯蓄金庫 を模範 として貴族 によって設立 され,の ちに急 速 に普及す ることになったことは,最 近 になって矢後和彦氏 によって明 らかにされた (同 『フラ ンス における公 的金融 と大衆貯蓄 ―一預金供託金庫 と貯蓄金庫1816-1944-一 』 東京大学 出版会,1999年 ,と くに36∼46頁。 14)Wysocki, a.a.0., S,35f.
68 彦 根論業 第 326号 貯蓄金庫 の設立 は各地で継続 したが,そ の形態 は多様 なままであった。た と えばヴュルテ ンベル クでは王妃 カタリナが1817年,「あ らゆる手段での貧民救 済」 を目的 とした福祉協会 を設立 し,こ れに運動するかたちで翌年 6月 2日 , 邦全体 を範囲 とす る 「ヴュルテ ンベルク王国貯蓄金庫」が シユ トウッ トガル ト で開業 した。 これ とは別 に,1822年 3月1日の行政令 (Ve「raltungsedikt)に基づ いて各 自治体 (ゲマインデ)は 公的賦課 を共同で支払い,共 通 した事業のため の費用 を負担す る独 自の団体 (K6rperscha■)を設立 していたが,こ の団体 は一 部の地域 で同時 に 「貯蓄 ・貸付 ・扶助金庫」 を併設 していた。翌23年 3月 23日 内務省 は 「下層農民が 自分で家畜 を購入 してその恩恵 を享受で きるようにする ため に」貯蓄金庫 を設立す ることを繰 り返 し要請 し,こ れを受けて上記金庫 は 複数のゲマインデか らなる各郡単位 で貯蓄金庫 に合併 したのである。後者の貯 蓄金庫 は単 なる貧民救済 とは異 なる目的をもっている点で,新 しい型である。 この ようにヴュルテンベルク内部の特定時点 をにおいて も設置主体,活 動範囲, 1 5 ) 対象社会層,目 的の異 なった貯蓄金庫が並存 していたのである。 ましてや ドイツ全 国では貯蓄金庫 は多様であったが,そ うした状態 に一定の 基準 を与 えたのは,1838年 に発布 されたプロイセ ン貯蓄金庫規程 (Reglement, die Einrichtung des Sparkassenwesens betreffend)であ った。 この規程 は
「貯蓄金庫が有用 な施設 として証明 された」 として,主 に自治体 との関係で貯 蓄金庫 の法的枠組み を提示 し,そ の枠 内で各地域の実情 に適応 させつつ,他 方 で諸貯蓄金庫 間で統一性 を確保するために,金 庫の設立,組 織,営 業形態,定 1 6 ) 款,剰 余金の使途,政 府監督 などについて模範定款 を示 したのであった。この 規程 は20世紀初頭 までのプロイセ ンだけでな く,他 の諸邦の貯蓄金庫関係立法 に大 きな影響 を与 えることになったのであるが, しか し実態 としてはなお貯蓄 金庫のあ り方 は多様であった。それは自治体 との関係のあ り方,設 立 目的にと どまらず,い かなる社会層が貯蓄金庫 を利用 し,そ うして集め られた資金が ど
1 5 ) H a e m m e r l e , W i l h e l m , D あ θ んo 物 θγs c んて" ιづc んθt t οαθγ O b θγa 物体s p a γんo s s θ物 あ物
X i σ % あ θγθあc ん N も γけけθt t b θ 竹0 切 % け θγ b θ s O t t α θγθγ B θ γt t c ' o s t c ん けあ g 切 物 θ をんγθγ 千′ 象ヮ仰物 σ 【 ヌθt t s a 句 一 ι。9θ物, Leipzig 1908, S。1-7.
第一次大戦前 ドイツの金融構造 における貯蓄金庫 の機能転化 6 9 の ように利用 されたかに及ぶ。 その後1840年か ら60年 までの時期 は貯蓄金庫が最 も多 く設立 された時期であ り,こ の期 間に約800の貯蓄金庫が新 たに生み出 され,さ らに1900年 までに貯 蓄金庫数 は全 国で2,685に まで達 した。上述のヴュルテ ンベルクにおける郡貯 蓄金庫 の設立数 を見 ると,1820年 代 に4,30年 代 に 2,40年 代 に 6,50年 代 に 25,60年 代 には 0で あったが,70年 代 には 4,80年 代 に11,90年 代 に8,そ し て1901年 にカルヴ(Calw), 1904年 にロッ トヴァイル (Rotwell), 1905年にベ ッ プ リンゲ ン(B6blingen)で設立 されて,ヴ ュルテ ンベルクの64郡 すべ てに貯蓄 金庫が設立 されることになった告 第 3表 各 金融機関における預金量の変化 (百万 マ ル ク) 年 信用銀行 貯蓄金庫 協同組合 1850年 212 1860年 477 1 1870年 1880年 2,615 1890年 5,134 1900年 8,824 202 1910年 1,566 16,782 出典 :Wysocki, し 物ιθ容物cん切りθ%β ttγ Иれ 貿ん嚇 S―物%】
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か ら作成。 注 : 信用銀行 とはベル リン6 大 銀行 と地方銀行 をあわせた もので,預 金額 には当座預金 を含めていない。 また 1 9 1 0 年欄の数字は1904年の もの。 このように全国に張 り巡 らされた貯蓄金庫が第 3表 に示されたような預金量 を獲得することになったのであるが,そ もそも社会政策的に設立された貯蓄金 庫がなぜ このような預金を集め,金 融経済面で無視できない存在になりえたの だろうか。この点を預金者 と営業政策の問題 として次に考察することにしたい。 17)Wandel,Eckhart,β α物んθれ 物物α レ珍匁,あcん θ物 物θθ物 づ竹砂 ゴ' 切 物α 2a 拘 ぁγぁ切物αθ々 ,Mun―彦根論叢 第 326号 皿 貯 蓄金庫の預金者層 と営業政策 (1)預 金者構成 貯蓄金庫 は基本 的に貧民救済 を目的 として設立 され,手 工業職人や奉公人な どの下層社会層が 日々の稼 ぎか ら一定額 を貯蓄 して,不 慮の事態 に備 えさせ る ための手段 として考 えられていた。 ところで貯蓄金庫が広が り始める19世紀前 半 は一般 にパ ーパ リスムス (大衆的貧困)の 時代 として特徴づけ られている。 はた してこのような時期 に,貧 民 に貯蓄 を可能 とするような 「剰余」が存在 し 1 8 ) えたのだろ うか。 この点でヴイゾ ッキーは,1820年 代 までの所得事情はわか らないが,た しか に1830年代 か ら40年代の20年間は実質賃金が低下 してお り,そ れは平均 して生 活費 を上回ることはなかった と述べて,下 層民の貯蓄可能性 に疑間を呈 してい る。ただ し奉公人階層 については,額 は低い としても継続的な所得が見込 まれ, また住居費や食費が不要なことか ら貯蓄の余裕が生 じていることを指摘 してい る。 しか し,総 じて19世紀前半の貯蓄金庫が貧民のみを対象 としていたとする のは誤 りであろう。当時ベル リンに次いで ドイツ第 2の 預金量 を持 った ミュン ヘ ン市貯蓄金庫では,そ うした社会政策的対象階層 は預金者全体のわずか 4割 に過 ぎなかった とい うし,ベ ル リンについては史料が存在 しないが,あ ま り違 1 9 ) わ ない預金者構成 であ った とされてい る。 18)19世紀前半 と後半のヴェス トファーレン南部都市諸社会層 と都市問題の分析については, 藤回幸一郎 F都市 と市民社会』青木書店,1988年 を,ま た都市史研究については,馬 場哲 「ドイツにおける近代都市史 ・都市化史研究について」『経済学論集』第62巻第 3号 ,199 6年をあわせて参照されたい。 19)Wisocki,a.a.0.,S.54-58u.76r. 下 層民以外の預金者 として手工業親方,農 民, 兵士などがみられるが,さ らになかでも注意をひくのは 「子供」である。ヴイゾッキーは, これはおそらく富裕な階層の子供であ り,実 態は子供の名前を借 りて両親が手持ち資金を 貯蓄金庫で安全確実に運用 していると推測 しているが,興 味深い点である。 またヴュルテンベルク王国貯蓄金庫は上述のように,貧 民を対象 として設立 されたので あるが,実 際のところすでに1818年5月12日の設立公示文書のなかで,「貧民に所属 しない 人々も現金を長期 ・短期で運用する」ことを認め,貧 民の場合は利子が 5%な のに対 して, この場合には4%で あると明記 している。(ゴ切 挽沈竹 ″物γttθttbθ轡ウscんθ La句冴θsspa作 ん循sθゴ触禄ゴ』餌,Stuttgart(o.」.),S.67.)
第一次大戦前 ドイツの金融構造における貯蓄金庫の機能転化 7 1 第 4 表 ヴ ュルテ ンベ ル クにお ける貯 蓄金庫預金者 の職業別構成 ( 1 8 9 9 年末) (%) 職 業 王国金庫 郡 金 庫 合 計 農 民 農業 日雇 い 農 業 僕 婢 独立営業者 従 業 員 労 働 者 家事奉公人 下 級 官 吏 そ の 他 計 100.0 100,0 100,0
出典 :Losch und Scholl,Der Stand der Sparkassenbtther in wurttemberg am 31.Dezember 1899 nach dem Beruf der Einleger, S.121.
時期的には下 つて しまうが,第 4表 は1899年末時点 におけるヴュルテンベル クにおける 2系 列の貯蓄金庫 (ヴュルテ ンベルク王国貯蓄金庫 と郡貯蓄金庫) の預金者割合 を職業別 に示 した ものである。王国貯蓄金庫 はシュ トゥッ トガル トに 1庫 だけ設置 されているが,邦 全体 に537の代理店が散在 し,こ の時点で16 万3869人の預金者か ら約1億310万マルクの預金 を集めている。他方,郡 貯蓄金 庫 は各郡 に 1庫 ずつ計60庫が存在 し,さ らに邦全体 に1089カ所の出納窓口を持っ ている。 これによって30万9853人の預金者か ら 1億 2084万マルクの預金 を集め ている。預金者 に重複があることを考 えて も,当 時のヴュルテ ンベルク人口が 約217万人であることか らして,非 常 に多 くの住民が貯蓄銀行 に関わつている ことがわかる。第 4表 によれば,第 一 に全体 として労働者層が最大の預金者層 を構成 し,こ れに次いで独立営業者 と家事奉公人が大 きな割合 を占めている。 両金庫 の間では割合 に大 きな差が見 られるが,こ れは前者がシュ トウッ トガル ト中心の金庫であ り,後 者 は農村地域 に多 く広がっている事情が ここに現れる と考 えられる。すなわち前者 には労働者 と家事奉公人が非常 に多 く預金 し,後 者では農民 と独立営業者が多いのである。 しか しいずれに して もここか ら,貯 蓄金庫 が下層貧民 を対象 に した社会政策手段 とい う意味 だけでな く,中 下層 を 2 0 ) 対象 とした貯蓄金融機関 とい う性格 を明確 に読み取 ることがで きる。
72 彦 根論叢 第 326号 (2)信 用政策の展開 1850年代以降,工 業化の本格的な進展 とともに労働者層 を中心 として実質賃 金 も増加 し始め,下 層民 にも貯蓄可能性が生 まれて きた。ホフマ ンによればプ ロイセンにおける貯蓄金庫の預金量総額は1840年に1820万マルクであったのが, 1850年には4970万マルク,1860年 には 1億 3580万マルク,1870年 に4億 7150万 マルクと増加 し,各 10年ごとに2.5倍か ら3.5倍の増加 を示 している告 この ように貯蓄金庫が顕著 な発展 を遂げた原因は, もちろん当初は同種の貯 蓄機関が存在 しなかったこと,広 く全国的に散在 して,都 市だけでな く農村の 住民 に も利用可能であったことが挙 げ られるが,そ れ とは別 に預金の安全性 と 利子率の高 さにも求め られる。 安全性 の点ではなん と言 って も大部分の公的貯蓄銀行が,法 的に自治体 に従 属 した機 関であつたことが見逃せ ない。経営資本 は しば しば政府か ら出資 を受 け,ま た税制面で も優遇 されていた。バーデンの公的貯蓄金庫 は,1880年 の貯 蓄金庫法 によって独 自な法人格 を与 えられ, しか もその場合,自 治体が担保保 2 2 ) 証 を引 き受 けることになっていた。 第 5 表 第 一次大戦前プロイセンにおける貯蓄金庫の授信業務
20)Losch und Scholl, Der Stand der Sparkassettbucher in wurttettberg am 31.Dezem― ber 1899 nach dem Beruf der Einleger, in:Nttγ ttθttbθィσぢscんθ」働んγbttcんθγyttγ Sけaけあs_
けづ乃 物 物 α La句 冴 θsん 物 物 α θ , 」 g。 1903, S.120fi
21)Hormann,a.a.0.,S.565.貯 蓄金庫 の預金量 は帝政期 に入 つて もほ とん ど同様 の傾 向 を もって増加 してい る。
22)Pohl,Hans,Von der Spar―Casse zum Kreditinstitut(メ均nfange bis 1908), in:」urgen
Mura(Bearb.), Dづ θ 』 物け物 あcん ιttηo α θγ spattassθ 物 ″切 し吻 ウυθtta↓ ん竹 αづけづ物sけあけ切けθ切 ,
Stuttgart 1986, S.16. (%) 不動産信用 有価証券投資 自治体信用 対人信用 合 計 856年 870年 880年 55.8 890年 900年 58.6 910年
第一次大戦前 ドイツの金融構造における貯蓄金庫の機能転化 7 3 授信業務 は19世紀前半の うちに しだいに貯蓄金庫 の重要 な活動 になった。当 初 は下層民への貸付 も想走 されていたが,実 際には営業中間層や農民 に対 して 短期信用 を供与 し,こ の時期 に広 く展 開 して社会問題化 していた高利金融業者 か ら生産者層 を保護す ることに役立 った。 こうした対人信用業務 は,す でに一 部触 れたようにプロイセ ンにおいて もヴュルテ ンベルクにおいて も政府 によっ て奨励 されていたのであるが,1830年 代 ない し40年代以降 しだいに抑制 される ことにな り,19世 紀後半 になると貯蓄金庫の受信業務 は対物信用 を中心 とした よ り安全 な運用が前面 に現れるようになった。第 5表 で明瞭なように,な かで も都市 を中心 とした不動産抵当融資 は もっとも大 きな割合 を占め,次 いで帝国 と領邦の国債 を中心 とした有価証券投資,そ して第二に自治体信用であるが, これらは地域 によつて構成の変化 を伴いつつ, しか し一様 に見 られた特徴であっ た。対人信用 は第一次大戦 までに大幅 に縮小 し,代 わって信用協 同組合が これ 2 3 ) を担当することになった。 利子率 については明瞭 な史料 に乏 しいが, 前 述のヴュルテ ンベルク, 王国貯蓄 金庫 の利子率 は次の ように推移 した。1 8 1 8 年の設立時か ら1 8 2 5 年6 月 末 まで5 % , そ れか ら1 8 2 7 年末 まで4 . 5 % , そ れか ら4 0 年以上 にわたって1 8 7 0 年6 月 末 まで 4 % , そ れか ら1 8 7 9 年末 まで4 . 5 % , そ れか ら1 8 8 5 年3 月 末 まで 4 0 / 0 , そ れか ら1 9 0 0 年末 まで3 . 6 % , そ れか ら1 9 1 3 年6 月 末 まで3 . 7 5 % , そ れか ら第一 2 4 ) ‐ 次大戦 までは 40/0であった。 こうした利子率の動 きか ら,ま ず初期か ら中期 に かけて社会政策的配慮 か ら高利率が誘導 されたことが推測 される。そ してその 後 ,と くに第二帝政期以降では金融市場 に運動す る利子政策が とられ始めたこ とが推測 されるが,こ のことは信用組合 と信用銀行が預金業務 に参入 して市場 競争が貯蓄金庫 の側 に意識 され始めたことを反映 している。 しか し全体 として大 きな存在 にな りつつある貯蓄金庫 も, ミクロの レベルで は孤立分散 した弱者の存在であ り,ま たそれ ら相互間のネ ッ トワークは1870年 代 まで未形成の ままであった。 こうした状態 を打 開する ところか ら,帝 政期の E b e n d a , S . 1 7 f f .
74 彦 根論叢 第 326号 貯蓄金庫改革運動がス ター トすることになった。 IV 帝 政期 における貯蓄金庫の改革 と構造転換 (1)貯 蓄 をめ ぐる競争の開始 19世紀 中ごろまで貯蓄金庫 は預金業務 に関 して独 占的立場 にあつた。当時の 金融機関全般の中では個人銀行が幅広い活動 をしていたが,彼 らはとくに小 日 預金 の領域 にはほ とんど関心 を示 していなかったか らである。授信業務では貯 蓄金庫 は伝統的ス タイルを保 ってお り,こ こでは個人銀行や財団 と競合関係 に あったが,こ の場合で も競争 は貯蓄金庫 にとつて存在 を脅かす もの とはなって いなかった。 こうした状況は19世紀後半 になると,第 一に信用組合,第 二に信用銀行の登 場 によって しだい に変化す ることになった。 1850年代 か ら成立 して きた信用協 同組合 は,シ ュル ツェ=デ ー リッチ ュ (Hermann schulze―Delitzsch)とライフアイゼ ン(Wilhelm Raiffeisen)がイギ リス,フ ランスの協 同組合思想 を受け継 ぎつつ,当 時の手工業者 と農民,小 営 業者の困窮 を背景 として,自 助 を理念 として組織 された協 同組合である。シュ ルツェは1849年に指物師 と靴屋の原料調達のために最初の協 同組合 を設立 し, 翌年 には早 くも手工業者組合員 に対 して有利 な条件で資金 を供与する信用組合 としての前貸組合 (Vorschu島一Verein)を設立 した。他方でライファイゼ ンもや は り1850年前後か らさまざまな試行錯誤 を経て農業協 同組合 を立ち上げ,1876 年 には最初の農業協 同組合銀行 を設立す ることになった。 こうした信用組合の 預金量 は,第 3表 か らわかるように,貯 蓄金庫 と比べればなお低い水準ではあ るが,貯 蓄金庫 の重要な顧客層であつた手工業者,小 営業者,農 民層が ここに 2 5 ) 流 れ る こ とになった。 ヴュルテ ンベ ル クで は19世紀前半 に貯 蓄金庫 は対 人信用 をお こなってい たが,
Die Ent、vicklung des deutschen βa%た。θscんOcんじθ, aufgetragt v. arn MIain 1982, S.204-210。 25)Pohl, MIanfred,
1870, in:Dθ 切体cんθ schung, Frankttrt
Bankwesens zwischen 1848 und lnstitut fur bankhistorische For―
第一次大戦前 ドイツの金融構造における貯蓄金庫の機能転化 75 前述の ように しだいにそれが縮小 されたために,世 紀中ごろには手工業者,小 営業者のための信用が問題 になっていた。1855年にシュルッェがシュ トゥッ ト ガル トヘ来て協 同組合思想 を宣伝すると,政 府 は商工業中央局 (Zentralstele 的r lndustrie und Handel)を通 じて これ を奨励 し,翌 56年 3月 ,ヴ ュルテ ン ベ ルクで最初の信用協同組合 (手工業銀行Handwerkerbank)力ざシュ トゥッ ト ガル トに設立 された。これは57年にはさらにウルム (Ulm),58年 にはシュヴェー ビッシュ ・ハル (Schwabisch Hall),61年にはロイ トリンゲ ン(Reutlingen)と 設立 され,の ちに1907年までにヴュルテンベルクでは119組合が設立 されるこ とになったが,こ の ような普及 には政府 とイヌングか らの資金援助,営 業協会 (Gewerbeverdn)による積極的な組合思想の普及が大いに貢献 していたと 他方特殊 ドイツ型銀行 は 「『正規の金融業務』 〔預金業務,割 引業務,動 産抵 当貸付業務,当 座勘定業務〕 とともに 『発起業務』 を特徴的な機能にかかげ」 て現れて くるとされているが,こ の うち預金業務は必ず しも設立当初から十分 に行 われていたわけではない。信用銀行のなかで預金業務が始 まるのは, ドイ ツ銀行が1870/71年 の普仏戦争時 にベル リンに預金取扱所Depositenkasseを設 けてか らである。 この営業が好成績 を収めたことで,預 金取扱所 はベルリン郊 外 とさらにヴイスバーデ ン(Wiesbaden),ハンブルク(Hamburg),ラ イプツィッ ヒ(Leipzig), ドレスデン(Dresden)にも設置 された。他の一部の銀行 もこれに 追随するが,1895年 までの緩慢 な展開の後,1901年 には取扱所は73カ所 とな り, 1914年には401カ所 と増加 した。 この時ベル リン6大 銀行の影響下にある店舗 26)Gemming,Alfred,Das tta物 溺切 θ夕化 θ轡 切 砂οssθttSCん げ けθ物 づ物 ″物 死 けθttbθ 轡 , Stuttgart
1911,S,3-7.こ の間の信用組合 は順調 に発展 した とい うよ り,む しろ多 くの問題 を抱 えなが ら展 開 した。第一 に景気変動 によって組合の経営状態が大 きく左右 され,第 二にこ れ に関連 して無限責任組合の場合,破 産 した組合の負債が組合員 に課 されたことである。 と くに1882年にシュ トゥッ トガル トの国民銀行 (Volksbank)と手工業銀行が破産 した際 には大 きな問題 となった。1889年の監査 と有限責任義務 に関す る帝国法発行後,組 合は し だい に株式会社 に改組 した。 商工業 中央局 による信用組合援助 については,Bechtel,Otto,Dづθ Cθ物針残ヵ句冴切竹 力物 Xb物先〃セづθん ″物γttθttbθ轡 ぢ物 Gttc枕冴Sbθ物ウcんあθγ象物け陶Jsけθιιθコカγ θθttθttθ切物α 万a物冴θι,Stuttgart 1905,S.136-143.参照。 なお農業協 同組合の展 開は非常 に複雑 なために,本 稿 では言及 しない。 27)大 野,前 掲書, 5頁 。
76 彦 根論叢 第 326号 は7 3 1 カ所であ り, ベ ルリンと大都市 を中心 とした信用銀行にしだいに多 くの 2 8 ) 預金が集め られることになった。 以上の ように19世紀後半 にはまず信用組合が,そ して次 に信用銀行が貯蓄金 庫 の競争相手 として現れることになった。 こうした状況 は第 3表 に見 られた通 りである。本来 自らを社会政策的機 関 として認識 していた貯蓄金庫 は,こ の時 期 の金融市場の構造変化 に直面 して, しだいに変化す ることを余儀 な くされて い くのである。 (2)貯 蓄金庫の組織化 これまでの叙述か らもわかるように,多 くの貯蓄金庫が所在地 自治体 と関係 を持 っている限 り,個 々の貯蓄金庫 は孤立 した金融機関であ り,相 互間の連携 を求める動機 は小 さかった。 しか し1870年代か ら貯蓄競争が意識 されることに なる と, しだいに横 の連帯の動 きが模索 されることになった。 まずその動 きを 示 してお くと,最 初の連合大会 は1881年 9月 28日,西 部 ドイツの貯蓄金庫 を中 心 に開催 され,こ こか ら 「ライン ・ヴェス トファー レン貯蓄金庫連合 (Verband der Sparkassen in Rheinland und Westfalen)」が結成 された。翌年 には連合 地域が西部 ドイツ全体 に拡大 されて,結 局1884年12月 6日 「ドイツ貯蓄金庫運 合 (Deutsche Sparkassenverband)」 が成立 した。 しか しこれで組織化 は完成 したわけではなかった。なぜ なら同 日ベル リンにおいて,分 権的原則 と自治に 基づ く 「ブランデンブルク貯蓄金庫連合 (Brandenburgische Sparkassenverband)」 も結成 されていたか らである。両原則 ・組織の対立は1887年 「ハ ノーファー貯 蓄金庫連合 (Hannoverscher Sparkassenverband)」が後者の原則で結成 され, さらにこれが団体 として前者の全国組織 に参加するとい う方法 によって妥協が 図 られた。 こうして組織化 における原則 の対立 は,個 別貯蓄金庫が地域連合 に 2 9 ) 加盟 し,諸 地域連合が全国連合 に加盟する形で,1892年定款 に採用 された。 28)戸 原氏 によれば,地 方都市では預金の絶対量が少 ない ことと貯蓄金庫や協 同組合 との競 争が激 しいため に,地 方銀行 はベル リン大銀行 に比べ て預金集 中が難 しかった (同,前 掲 書 ,320∼ 21頁)。Wysocki,S.180. 2 9 ) W y s o c k i , a . a . 0 。, S . 1 8 6 f .
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第一次大戦前 ドイツの金融構造 における貯蓄金庫 の機能転化 7 7 この ように貯蓄金庫が組織化 を必要 とした理由は,第 一に他の ヨーロッパ諸 国 (たとえばイギ リス)で 制度化 されていた郵便貯金 を ドイッにおいて も導入 しようとする動 きが70年代末か ら生 じていたことである。帝国政府は1884年に 郵便貯金法案 を作成 し,議 会 に提 出 したのであった。 もっともこれは議会で激 しい反発 にあい廃案 になったのであるが,そ の後 も繰 り返 し現れる郵貯の動 き は,貯 蓄金庫の危機感 を高めたのであると 第二 には競争意識が高 まるにつれて,貯 蓄金庫利用 をよ り容易 にする内的営 業技術の改革が認識 されることになる。それはまず,全 国の貯蓄金庫で不均一 の利子率 をどう調整す るかの問題であ り,ま た預金者の住所移動 に際 して口座 (預金)を 貯蓄金庫 間で譲渡可能にすること,さ らに地域的に異なっている資 金需給 をいかに して相殺で きるかの問題であった。そ してこのような課題 を解 決するためには,貯 蓄金庫がイ固別 に存在するのではな く,相 互 に資金 を移動で きる枠組み,す なわち振替取引 (GirOverkehr)を導入 し,信 用取引の近代化 を 進める必要があった。 (3)振 替運動 と1908年帝国小切手法 ライ ヒスバ ンクは1876年の創立直後,貨 幣を節約する目的をもって現金不要 の同地お よび遠隔地間取引のために ドイツ振番勘定網 (Deutsches Gironetz)を 開設 し,83品 には銀行 間支払 い を媒介す る手形交換所 (Abrechnungsstelle)を 設立 していた。 この時点で貯蓄金庫が振替 とい う支払いサービスを業務 に加えることには, その設立 目的 と預金者の社会層 に照 らしてなお抵抗があった。た とえばライヒ スバ ンク ・ケル ン支店は1883年同市貯蓄金庫 に対 して同支店への振替口座設置 を求め,両 店舗間での信用払いを始め ようとしたのであった。これに対 して貯 蓄金庫 は,信 用払 自体 の意義 を認めた ものの,「預金者 にはこうした形態の貨 幣 ・業務取引はなお縁遠い」 との理由で拒否 したのであった。また84年にはルー 30)Pohl,M.,a.a,0.,S.335f. 31)ド イツ ・ブ ンデスバ ンク編 『ドイッの通貨 と経済一-1876年 ∼1975年』上,東 洋経済新 報社 ,1984年 ,53∼ 54頁。78 彦 根論叢 第 326号 ル地方の ミュールハイム市議会で市貯蓄金庫 に小切手取引 を導入することが議 論 された。プロイセ ン政府 はこれをきっかけに各州知事 に対 してこの問題 に対 す る所見 を要請 した。これに対す る回答 は,ヴ ェス トファー レンを除いてすべ て,預 金者 にとって危険になる貯蓄金庫 の 「銀行」的拡大 を拒否するの もので 3 2 ) あった。 この ように80年代 には貯蓄金庫 は旧来の枠組み をなお維持 していた といい う るが, しか した とえばバーデンではすでに1863年以降複数の貯蓄金庫が個人銀 行 との間で交互計算取引 を行い,1880年 か らはゲマインデとの間で もこれをお こなっていた。 またデ トモル トの リップ地方貯蓄金庫では1883年か ら小切手 ・ 交互計算取引 を実施 していたのである。この ような動 きはとくに都市会議 (Sta dtetag)が1838年の プロイセ ン貯蓄金庫規程 に代 わる新 たな貯蓄金庫 の法律 を 要求す るなかで高 まっていった。プロイセ ン政府 はこうした動 きを受けて1894 年新規程草案 を州知事 に提示 した。その内容は貯蓄金庫 に小切手 ・交互計算取 引 を認 め ,さ らに証 券 委 託 業 務 と預 託 業 務 (Effektenkommisslons一und Depotgescha丘)を与 え,そ うして貯蓄金庫 に対 して 「銀行」的発展 と信用取引 の近代的形態への可能性 を開 くことになったのである。 しか しこの草案は同時 に,資 金運用 に関 して帝国 ・邦公債購入 と証券抵当貸付 を高い割合で規定 して いたために,貯 蓄金庫 と自治体双方から反対 されて,結 局96年に挫折 してしまっ 3 3 ) た 。 貯蓄金庫の機能転化は,結 局 ドイツ資本主義発展のなかで実現することになっ た。世紀転換期 における基幹産業 と新興産業の急速 な生産拡大 は,ベ ル リン大 銀行 か らの信用供与 を拡大 しつつ,手 形流通 と商業信用だけでな く固定資本投 資の大幅 な拡張 をもた らしていた。そ してこのことは しだいに現金通貨 に対す る需要の増加 とライヒスバ ンクレー トの引 き上げを昂進 させることにな り,1907 32)Pohl, H., a.a.0., S。 22f. 33)Ebendao S。 23f. 34)居 城弘 「ドイツ型金融 システム と quete 1908/09』 を中心 と して一一 」 と くに35∼38頁 。 ライヒスバ ンクーー 『バ ンク ・アンケー トB a n k ―E n ( 九州大学) F 経 済学研究』第6 6 巻第 3 号 , 1 9 9 9 年,
第一次 大 戦 前 ドイ ツの金 融 構 造 にお け る貯 蓄金庫 の機 能転 化 7 9 3 4 ) 年 にいたって流動性問題か ら恐慌 を引 き起 こす ことになったのである。 これを契機 に設置 されたアンケー ト委員会の議論 を背景 として,政 府 とライ ヒスバ ンクは1909年の銀行法改正等の立法 を具体化 したが,そ れに先立 って法 制化 された,無 現金的支払い取引 を進める帝国小切手法 (1908年) は 貯蓄金庫 のその後の転換 にとって決定的に重要な意義 をもつ ことになった。すなわちこ の立法 は貯蓄金庫 に対 して負債型小切手支払能力 (passive schecktthigkdt)を 認めたのである。 これによって貯蓄金庫 は自己宛債務の設定 に基づいて小切手 を発行 で きることにな り,さ らにここか ら振替業務 を拡大することで 「銀行」 3 5 ) の領域 に参入可能 となったのである。振替業務 としては,そ れまでの地域貯蓄 金庫連合 を基盤 に してまず1909年1月 1日 ザ クセ ンにおいて中央振替銀行が設 立 された。会員貯蓄金庫 はここに口座 を設置 して,貯 蓄金庫間で振替取引 をお こなったのである。こうした仕組みは1912年にはポンメルンで も模倣 され,1916 年 になる と1 2 の地域振 替連合 の上 に ドイ ツ中央振替銀行 (Deutsche Zentral一 G i r o v e r b a n d ) が成立す ることになった。 ワイマール期 における貯蓄金庫の 「銀 3 6 ) 行」的発展の基礎が ここに敷かれたのである。 V 工 業化期 における貯蓄金庫の経済的意義――結び にかえて一一 18世紀末 に啓家思想 を背景 とす る貧民救済の社会政策手段 として成立 した貯 蓄金庫 は,そ の後下層民のための公的貯蓄金融機関 として ドイッ各地 に広 く定 着 した。帝政期 になる と,預 金業務 をめ く`る競争が生成するなかで,貯 蓄金庫 は経済的機能 をしだいに整備 しつつ,単 なる社会政策機関 としての性格だけで 3 5 ) こ の時期 の銀行問題 に関 しては, 居 城前掲論文のほかにも多数の 日本語研究があるが, 紙幅の関係 で省略す る。負債型小切手支払能力 に関 しては, 相 沢前掲論文, 1 4 頁 参照。 36)Wysocki, 」 ., Die “bankmanige" Entwicklung der Sparkassen (1908 bis 1931), in:
」.Mura(Bearb.),Dウ θ』物け切,cんι切竹g αθγ Spa枕循sθtt β物 5晩わθttaι―ん竹αあけ仇sけあけ切け∽ , S,39.社 会政策学会 は1907年ラー トゲ ン(Karl Rathgen)を委員長 とす る 「国民貯蓄制 度 (Volkssparwesen)」調査委員会 を編成 し, ドイツとヨーロ ッパの貯蓄金庫 を調査 し報 告 しているが,こ のことはまさ しく貯蓄金庫の質的転換過程が この時期 に進行 していたこ とを表 している (Scん句物物 αθs l花竹づ物sヵルγ Sοttaりοιうけづん,Bd.136-137, 191213)。 振 替取引の普及に関 しては,当 時のザクセン ・ノッセン市市長エベルレ8ohann Christian Eberle)の功績が大 きい。彼の思想 と実践については稿 を改めて検討することにしたい。
80 彦 根論叢 第 326号 な く,公 的性格 を残 した 「経済主体」 として現 われて くることになった。 この ような貯蓄金庫の経済史的意義 を最後 に考察 してお きたい。 貯蓄金庫 は19世紀前半の工業化 開始期 か ら多額の預金 を下層民だけでな く, 手工業者,農 民か らも収集 し,そ うした資金 を一部 を除いて主 に不動産抵当信 用や 自治体信用 に運用す ることで,小 商品生産者の経営的拡大のための資金需 要 を奪 って しまったのではないか とい う問題である。 これについてはボル ヒャル ト(K.Borchardt)が 19世紀前半 について,工 業 化 のための資本不足 テーゼ を批判 しつつ,こ の時期では資本需要がなお強 くな か った こと,必 要な資金 はお もに家族,親戚や知人の中で調達 したことを論証 3 7 ) している。 この見解 は広 く受入れ られて, た とえばヴュルテンベルクについて コルマール (G.Kollmar)は繊維工業大経営の経営史分析 によつて同様 の資金 調達の実態 を実証 し, ま たヴィンケル ( H o W i n k e l ) も大企業以外 の中小経営 に 3 8 ) ついて もそれが妥当すると評価 している。 しか しこの ことは産業金融の問題 として考 えれば,資 金需要に適合的ないか なる金融機関がいかに形成 されたか否か とい う問題 として立て られるべ きであ る。一方で後の資本主義発展 を特徴づける独 占的企業形成 を支援 した信用銀行 が形成 されたの と対照的に,中 小生産のための資金需要にとって,協 同組合 を 除けば,必 ず しも適合的な金融機関が形成 されたとは言いがたいのである。そ れはつ ま り,大 量の資金 を集中 した貯蓄金庫が中小企業金融の面では一部地域 3 9 ) の長期金融 を除けば,産 業発展 にほとんど貢献 を果たさなかったか らである。 しか しこの ことか ら貯蓄金庫が ドイツの工業化 にとって阻害要因になってい
37)Borchardt, Knut, Zur Frage des Kapitalmangels in der ersten Halfte des 19.Jahr―
hunderts in Deutschland, ini ders., Nttcゑ ,サ切れ 施 θ確, 万 あ句αι切竹gstspあ θι句 切物 αθγ
将iγけscんQルspοJづけづた, G6ttingen 1982.
38)Kollmar, Gerd, Zur Rolle der Banken in der wurttembergischen Textilindustrie, ini Zθづけscん■苺 Jttγ々妙傷句けθttbθr9tsc物 あattαθsθθscんづcんけθ, 47.」g.,1988.;Winkel, Hara― ld, Kapitalquellen und lndustrialisierungsproze島 , in: Borst, Otto (Hrsg.), 戸 e9θ ぢ物 冴ぢθ ″修枕 !αづσ拘 冴切sけ克θ力物 αθ切けscんθtt S,αttθsけθtt sθづけムぬOatt α θsゴユ 拘 んガ挽″ヶ αθtts, Stuttgalt 1989, S.111-113.
39)Sch6nitz, Hans, Dθ γ んあθあ物。θttθγbιづCん θ ttedづ け あ物 Dθ 物な cん ιattα あ物 sグsけθ街 賜 けιscん θγ
再 ト ー ー ー ー ー ー ー 第一次大戦前 ドイツの金融構造における貯蓄金庫の機能転化 8 1 た と断定す る こ とはで きない。 なぜ な ら貯蓄金庫 に よる不動 産抵 当信用 はお も に都市 に向け られた ものであ ったが,こ れはお もに住宅建設 に向け られてお り, また 自治体信 用 の場合 で も結局 は工業化 のための イ ンフラ整備 や地域 開発 に向 かう部分が考えられるからである。 したがって貯蓄金庫による資金運用は直接 的に産業信用 として活用 されることは少なかったが,問 接的に工業化を支え, 生産環境を整備 し,工 業製品需要 と雇用を生み出す形で使用されたと考えられ るのである。地域内での資金運用に重点があった貯蓄金庫は,こ の意味で地域 4 0 ) 的工業化 を背後で支えることになった と評価 されるのであるが,こ のことをよ り具体的に検討す ることは後の課題 として残 される。