テクストとしての文化大革命について
中 爲 太 1 問題提起 中国文化大革命から四半世紀以上たった現在,我々の世界は例外なく西欧の 所謂ロゴス中心の視座を基軸に「発展」しつつあるように見える。例えば,西 欧近代にとっては現代の世界システムとは,ロゴス中心主義に基づくフィジカ ルな資本主義的機能主義の創造的産物と多かれ少かれ考えられている。このシ ステムにおいてはあらゆる権力・権威・所有・組織が自らを「科学的」に「本 スピルオ ヴァ 質」として意味づける。勿論,システムからはみ出る現象・要素・視座が反シ ステム的差延化として誰にも感知できるほど増大していることは「体制」にも ノニフィカノヨノ 危機として意識されているにせよ,システムの意味づけは決して顯倒されない。 このような状況下で中国文化大革命(以下文革と略称)を杜会テクストとし て再読することは二度目の喜劇であろうか。否,文革は無限に悲劇であるが故 に現在でも巨大な思想的媒介性として根茎的にその効果を拡散しつづけると考 える。しかし小論の目標は当時論じられたような社会主義に対する新左翼的批 判或は逆に権力斗争の構造分析でもなく,又社会主義経済モデルとしての理論 的検討でもない。ある意味で上の課題に拘わるのであるが,簡潔にいえば,中 1) 国革命の現段落に拘わるテクスト的実践の中で文革がどのように位置づけられ るのかという問題である。勿論,これは,多様な理論的・実証的アプローチを 必要とするような学問的課題であろうが,小論では,中国革命の成長・転化に 関して文革の現代への効果を問い直す事を通じて一つの社会テクストとして文 1) Roland Barthes, Theory of the Text.Edited by R. Young, Untying the Text, A Post− Structuralist Reader, 1981 Routledge&Kegan paul PP.43 一 4578 荒木廼夫教授退官記念論文集(第300号) 2) 革を,脱構築的な意味・記号・記号破壊の審級から試論的に解読したい。 II毛沢東思想とは何か 文革のエクリチュールとしてのテクストは毛沢東思想といわれるものである。 この表現が最初に現われるのは戦後の中共第七回大会の新民主主義:革命の総括 3) に使用された時であったとされるが,これはマルクス・レーニン主義と同格的 表現として位置づけられたというより,戦前における中国革命の毛沢東的戦術 ・戦略を,マルクス・レーニン主義の普遍的原理の中国的條件への正確な適用 として,むしろ原理的な審級においてよりも革命の形態・段階規定に関する非 教条的理論とみるものであった。しかし,第2次5ヶ年計画期からの所謂「三 面紅旗」路線を基軸とする毛思想は,マルクス・レーニン主義と同格的な独自 の理論化の過程に入り,それが定着するのは66年からであるから正しく文革そ のものの構造を象徴する言表である。基本的文献としては毛自身の文革に関す ディスクール 4} る論説を集め編纂した「毛沢東思想万歳」があげられるし,歴史的には「実践 論」と「矛盾論」をその初期の哲学的文献としてあげることができる。従って 以下では,毛沢東思想を従来のように所謂マルクス・レーニン主義の理論的枠 組の内側で解釈するのではなく,つまり旧ソヴェト的な小ブルジョア的崎型化 に収諭する批判と新左翼的反官僚的心情からの評価への二分法的傾向を繰返す のではなく,毛沢東思想の中に潜む脱構築的反近代思想の記号と脱記号を読み とることを課題とする。 先づ脱構築の主要な方法論的言表に添って毛思想との関連を順次検証しよう。 脱構築の思想は全体の枠組から見て,その哲学的な出自は明らかに西劇的であ り,単純化すれば高度に発展・成熟した資本主義システムの所産であるのに比 べて毛思想は先づマルクス・レーニン主義に基本的に基いている点から見れば 2)拙稿,R.ライアン「マルクス主義と脱構築についてのノート」彦根論叢第299号参照 3)中西功『中国革命と毛沢東思想』1969年青木書店50−53頁 4) 『海藻東思想萬歳』1969年8月原文覆刻版1974年現代評論社,東京大学近代中国史研究 会訳『毛澤東思想万歳』上,下1974年三一書房
必ずしも非西欧的なものではないし,むしろ西欧的な近代的論理をマルクスを 媒介として包摂していると言える。反ロゴス中心主義或は反公理化という形而 上学批判の面では,ある意味で毛思想は形式的にはマルクス主義の唯物弁証法 にその原理的基礎をおいているのであるから反ブルジョア的観念論批判という 形で最も明確に脱構築的方向に一致する。しかしこのような形式的比較ではな く,マルクス・レーニン主義の体制(社会主義国家・システム)論,更には理 論的には弁証法に就いての記号論・記号横断的分析が必要となろう。 先づ唯物弁証法の問題に関して毛思想に二つの視点から接近できよう。一つ は毛沢東の思想の理論的基盤である彼の弁証法の実践的把握である。毛沢東の 理解ではブルジョア的形而上学に対立する弁証法的唯物論は階級性と実践性と 5) いう明確な特徴を有する。この視座はいわばレーニン的なものの継承であるが ,毛の理解により強く現れるのは,中国革命という特殊な社会事象を通じての実 践及び中国革命の弁証法的展開という独特の認識方法である。それは二重の意 味をもつ。即ち,認識方法としての弁証法の論理が,直接的に人間の思考以外 の自然客体に適用できるのかという根本問題,他は適用できるとしても特殊な 政治的・戦略領域に限定的に適用できるか,それを弁証法の事例的論証にでき るかという問題である。最初の点はマルクス主義における自然弁証法の枠につ ながる弁証法的発展の適用領域に拘る根本問題であり,従来から最も論争の繰 返されてきた課題であるが,さし当ってここでは問題を社会事象に限定すれば, 毛沢東の場合も,人間の実践を通じて各主体の感性的認識より理性的認識への 上昇過程とその実践へのフィードバックが語られるから基本的には主体の認識 6) が社会的矛盾の運動に翻訳・転化される専制は成立する。毛思想の場合,こう して根本矛盾の制約の下で主要矛盾の主要な側面がその社会構造の特徴を規定 することは周知の通りである。しかしこのような矛盾の弁証法的運動の主体一 イデ ヘーゲルの絶対精神のような一は何であるのか。マルクス主義の正統的理解で 5)毛沢東,尾崎庄太郎訳『実践論矛盾論』1955年国民文庫,11−12頁 6)『中国哲学戦線での三回にわたる大闘争(1949年一1964年)』1973年外文出版社43頁参照 「人的正確思想是従那里来的」『毛沢東著作選読・乙種本』1969年192−194頁参照
80 荒木麺夫教授退官記念論文集(第300号) は実践であり社会自体の概念であろう。しかし観念的な領域とは異質の客体を 自律的に合法則的・弁証法的に運動するように主体化できないとする従来から の根本的批判は,只観念論の戯言として否定できない。階級的実践と限定して みても,階級という概念が経済的に基本的に決定されていると考える限り矛盾 の自己運動なるものは,既に経済一資本主義経済の基本的法則或は矛盾に規定 されていると言える。この場合,この基本的法則或は根本的矛盾は何によって 決定されるのか。それは恐らく歴史的唯物論によって決定されよう。しかし, この場合,唯物史観とは,周知のように唯物弁証法の形態とされているのだか ら,結局,マルクス主義の正統派的解釈による唯物弁証法は徹底した発展史観 に根拠づけられることになる。この場合,言うまでもないが,この理論的枠組 の中での矛盾の運動は,全く予定された目的論の中で固定されることは疑いな い。このように考えれば認識論としての弁証法の無限の変化の審級と社会構造 における変化の審級とは直接には結合しない。従って矛盾論における主要矛盾 7) ・主要側面の番謡とは むしろ変化の予測の道具(或は変化の要因)というよ イフヌクト り差異化(歴史)の効果に近いと言えるのではないか。換言すれば,正統的な マルクス主義の理解に従えば,矛盾論・実践論の枠内では毛思想はむしろ構造 主義的な矛盾の重層的決定の視点に類似する。何故なら,アルチュセール的視 座においては経済決定は存在するがあく迄最終環であり,正しく主要矛盾は, むしろ弁証法抜きで多様な諸矛盾の相互関係において決定・把握されるからで ある。そしてアルチュセールはこの最終的動力を一主体という人間学的述語を 8) 避けながら結局,階級面争に帰決させている。故にここで単純化して,構造主 義的記号として毛の弁証法を考えれば,夫は極めて多様な矛盾の重層性をむし 9) ろ経済決定論ではなく一つの共時的地平で戦略・戦術的に「政治化」できたこ とを意味する。他方,前述したように矛盾の展開(通時性)という道具性は矛 盾論・実践論の段階では必ずしも明確に現われていないし,その理論に必要な 7)大井正『現代の唯物論思想一批判と展望』1959年青木書店165−166頁 8)今村仁司『批判への意志』1983年冬樹社39−43頁参照 9) J. Culler, On Deconstruction−Theory and Criticism after Structuralism, 1982 Cornell University press, P.158
条件とは考えられない。 次に弁証法の論拠を特殊な歴史的事例に求める方法も極めて特殊なものであ 10) り,政治的,イデオロギー的すりかえという批判は免れない。脱構築的視座に おいても差延・反復・効果の「政治化」は必要であるが,それはイデオロギー 的発展の論理では全くない。勿論正統派の構成に於いてもロシア革命の発展が 弁証法的にレーニンによって弁証法の事例として直接的に説明されたことはな い。レーニンにおいては周知のように詳細なロシア:革命の政治情勢・経済構造 の理論的分析・政策分析・現状分析が徹底的におこなわれた。後に悪名高いス ターリンの唯物弁証法の公理化がおこなわれたのである。毛思想はスターリン の影響を受けているが,その思考の枠内に止まることはなかった。毛は実践に 11) おいて我々はコミンテルンに従わなかったと確言している。つまり,毛思想は 初期の段階に於いて個別的な中国革命という特殊対象に関する認識方法として もやはり第一の結論に戻るのである。 更にここで脱構築的接近を試みるならば,弁証法のもう一つの特徴である階 級性に拘わる階級的実践=階級的認識とは,歴史的なものであることによって その有限性を免罪されない。換言すれば,毛思想がもし無限に差延的な置換え の思想であるとすれば,有限の階級的発展の完了という一つの固定的止揚を終 結点として持ちえないであろう。故に階級はその「発展」の論理に従って消滅 (廃止されるのではなく)するのである限り,階級は階級なき個人(階級を既 にのりこえた概念)にいきつき,その場合,個人の実践とは階級対立が欠除し ている状況では,しかも個人が完全に共産主義的に多様な全人となっている限 り,恐らく矛盾の玉成も全く異質のものとしてしか存在しえないであろう。む 12) しろ矛盾という概念は恐らく差延化という,概念に置換えられるであろう。 毛沢東の唯物弁証法に関する叙述と内容は中国革命の過程の中で,原理的に 10)大井・前掲書163−165頁 11) 『毛澤東思想万歳』下,208−209頁 ディスクロル12)前掲書,216−217頁「どうしても新しいものをもち出さねばならない」と言うこの論稿 は非常に示唆的なテクストである。
82 荒木麺夫教授退官記念論文集(第300号) 既存の概念が中国の状況に適用されたという形態変容ではなく,むしろその展 開に従って創出され,従ってその差異化と非決定性がその脱構築性を多かれ少 かれ反映している。大まかに言って矛盾論・実践論の視座の範域と深さ(30年 代と40年代)と建;国時期の内部矛盾論・十大関係論,更に文革期(60年代)の 毛沢東思想を構成する諸論説のそれは微妙に質的に異っている。これらは批判 者によれば,毛沢東の思想の非科学的特徴,非マルクス主義的特質として批判 の中心になるものである。しかし,逆説的に脱構築的接近によれば,これらは 毛思想が歴史的な性格,即ちマルクス・レーニン(敢えて主義といわない)の テクストの毛沢東自身の読み方,換言すればそれらの歴史情況に応じた差異的 置換えの開かれた痕跡であったことを意味する。マルクスの部分的な絶対化・ 形而上癌化ではなく,特に弁証法については基本的に脱構築的な方法に接近し ていると言えよう。レーニンのテクストに関しても毛沢東はそれを絶対化して いるとは考えられない。ライアンによればレーニンの思想は確かに歴史的所産 13) であるが,本質的には形而上学的である。例えば,彼の哲学的認識論は脱構藻 的立場から言えば,観念論的形而上学を批判している外見にも拘らず,唯物論 的形而上学としてライアンによって読解される。これを「国家と革命」と並ん で二項対立的な形而上学的接近と批判することは,これらが革命の渦中で実践 プラタンス 的テクストとして書かれた点からみてレーニン自身のテクスト的実践というよ り,彼自身が10月革命特に戦時共産主義とネップをテクストとして新たに読解 する可能性は開かれていたのであるから,彼の仮のテクスト読解を形而上学化 =眞理化した読者(マルクス・レーニン主義)のテクスト的実践に問題が在っ たといえる。 しかし,毛思想を生産した毛沢東はレーニンよりその弁証法的概念について は,はるかに脱イデオロギー的であり,脱構築的なテクスト的実践を示してい る。別稿で既にライアンに添って詳論したので要約すれば,ヘーゲルの思弁的 な弁証法(マルクス主義弁証法を含む)は差異を同一性に,不等を同等へ,矛 13) M. Ryan, Marxism and Deconstruction, 1982 Johns Hopkins U.P.PP.159一一160
盾を連続に,異質を同質へ変化させる過程の中でいわば変化を昇華という形で 抑圧するような自己回復の論理である。従って脱構築的視点からすれば,端的 には自己回復と他者抑圧を意味するこのような自己完結的総合はありえないで あろう。マルクス主義における唯物弁証法の哲学的審級では三つの基本的範疇 の中の「否定の否定」という概念構成が上のような特質を示唆すると考えられ よう。この概念はヘーゲルからエンゲルスに受け継がれ,ソ連のミーチン的公 式一発展は否定の否定としておこなわれる一において正統的視点となった。論 者によってはミーチン的図式化をエンゲルス,レーニンの「否定の否定」と異 14) 質な見解として批判する立場も多く見られるが,私見では実質的には同じもの ある。第二次大戦後のソ連の哲学界も一部の例外を除いてレーニン的弁証法の 基本構制を維持してきた。その主な要素は,「科学」としての弁証法規定,「発 展」という質的志向性,所謂客観的反映(模写)論,自然史的規定などである。 歴史的に優れた哲学的伝統をもつ東ドイツの代表的哲学者であったシュティー ラーの一連の著作の中でも「否定の否定」法則とは発展の合法則性(傍点一中 15) 蔦)の認識であり,一貫してレーニンに依拠している。 先づ何よりもマルクス的な意味における弁証法は科学ではなく哲学であると 言うべきであろう。ここでは従って発展の科学という概念構成が問題となる。 科学という概念が機能主義的ブイジカリズムであるとすれば,発展という目的 論的志向性は「科学」を形而上学に近づける。 「科学」から「低次のものから 16) より高次のものへの……前進過程」という階層的な判断を含んだ規定は導出で きないし,ましてこの「法則」を社会主義への移行論の科学的論拠に適用する ことは出来ない。否定の概念は弁証法の根幹である対立物の統一(相互侵透) の概念に含まれる要素であり,いわば差異性であり変更性であるとも言えよう。 しかし,否定の否定という概念は,対立物の統一という関係性からは直接出て 14)松村一人『辮証法とはどういうものか』昭和25年 岩波新書196−201頁参照 15)G.シュティーラー,石川晃弘・山方重光訳『システムと矛盾』1977年青木書店23−2 6頁 16)前掲書,24−25頁
84 荒木廼夫教授退官記念論文集(第300号) こない。これは結局,揚棄に到る自己運動として説明されるが,弁証法におけ る三肢的展開の自己回復の自閉的完結性を示唆している。クリステヴァの表現 を借りれば「弁証法の体系が最初から閉じられているという,まぎれもない事 17) トータリティ 実jをこれは意味する。それは全体性の回復でありそこで精神は全体性に奉仕 する。しかし,脱構築的に言えば,否定一即ち対立物の統一の根本的契機は, 別に自己回復する必然性を持ちえない。換言すれば,単なる多様性とか単なる オントロキ 変化という存在論的概念ではなく,無限に開かれた差異的・差延的否定の地下 動的展開がありうる。そこには無論,仮象的,瞬時的な即時化一昇華的差延の 切断を部分的には含むとしても法則的な全体性の自己回復などというものはあ りえないだろう。断案的には発展の科学という論理に限定された場合,概念の 弁証法は自つから形而上学に近づくのではないか。例えば,アドルノによれば, 「弁証法は単に前進的過程だけでなく同時に又逆行過程である。この限りで円 環図でそれは正しく画かれる。概念の開放とは逆行でもあり,そして総合とは 18) 概念の中で死滅・腐朽した差異の定義である。」 さてそれでは毛澤東は弁証法をどのように考えたのか。ここでテクストとな るのは文革における毛の一連の言葉であるが,これはテクストとしては政治的 主体とは関係のないクリステヴァの所謂プロセとしての記号的横断である。そ れは従ってバルトの言うように作品解釈ではなく,作品が言おうすることを定 義=了解することではなく, 「むしろ,ずれ,一部重複,変異といった系列運 動にしたがっておこなわれ」る「換喩的」な連合,隣接,繰返しの作業であり, 19) 「還元不可能な複数1生」そのものの実現である。毛思想の弁証法のテクストは 次のようになる。 「エンゲルスは三つの範疇について話したが,私は,そのう ちの二つの範疇については信じていない(対立[物]の統一が最も基本的な法 則であり,質と量の相互転化は,質と量の対立[物]の統一であり,否定の否 17)ジュリア・クリステヴァ編著,中沢新一/他訳『記号の横断』1987年せりか書房 50頁 18) M. Jay, Marxism & Totality−the adventures of a concept from Lukacs to Habermas, 1982 University of California press PP.241−242 19)ロラン・バルト,花輪光訳『物語の構造分析』1995年 みすず書房95−97頁
定は根本的に存在しない)。質と量の相互転化,否定の否定を対立[物]の統一 の法則と併行的に並列させることは,三元論であって,一元論ではない。対立 [物]の統一こそがもっとも根本的なのである。質と量の相互転化は量と質の 対立[物]の統一である。否定の否定などというものはない。肯定,否定,肯 定,否定…と事物の発展するにつれ,それぞれの環には,肯定も生ずれば,否 20) 定も生ずるのだ。」記号論としての暴力的置換はイデオロギー的神話を破壊し, アドルノの言う絶対的な否定の否定即ち,主体と客体の完全な同一を差異化, ずれ,反復,重複の記号的横断によって破壊している。このテクスト的実践は, 弁証法的完結化の主要な形式である集団的(共同)主観をも個別的なテクスト の読解を通じて差異化する。単純化すればこの過程はクリステヴァの言う意味 実践であり,「語る主体じしんがプロセそのものと化していくことによって… 21) いままでじぶんが承認してきた社会機構を切り裂いていくこと」によって記号 システムの横断を実現することを意味する。この場合,毛沢東(思想)が語る 主体であると同時に中国の人民(三結合)が読み手として且つ夫々に語り手と なる。この過程は別のテクストとの連接によって読解される。即ちそれは,弁 22) 証法とは実践であるという言表である。このテクストの意味実践は「意識に加 23) えられるいっさいの限界づけ(いっさいの構造)を解析する行為」であるから, 階級意識といった意識の限界づけもふくみ,「それがっくりあげる組織のなか 24) にではなく,それが発する破壊的な息吹のなかにみいだすことができる。」こ のような意味で記号システムは,更に記号破壊という方向に開かれることにな るだろう。即ち,弁証法が実践であることは,弁証法が意味実践に外ならない こと,脱構築的には神秘的形而上学の記号システムへの暴力的置換であると同 20) 『毛澤東思想万歳』下,215頁 21)ジュリア・クリステヴァ/編著,中沢新一/他訳『記号の横断』1987下せりか書房 13頁 22)M.Jay, Marxism&Totality, P.258アドルノは,極めて根本的な脱構築の原型命題 として弁証法的唯物論という哲学的解釈(interpretation)は実践(praxis)自身の形式 であることを示唆している。 23) 『記号の横断』34頁 24)前掲書 34−35頁
86 荒木麺夫教授退官記念論文集(第300号) 時に,それは即時化された切断でしかないことを意味する。従って毛の第3の エクリチュ ル 記号=言語は,矛盾の無限性の確認である。これは文革的記号を通じて暴力的 に置換えられた記号的構造=社会主義システムを通過し,拡散させ無限にズラ 25) し差異化することになってしまう。これはクリステヴァのテクスト的生産性の 概念にも関係する。通常の,即ち第一のテクストの生産性とは,眞実らしさの 意味論=所記(意味の基準は散文で線性〈起源一目標〉と動機づけ〈三段論 法〉意味素の組み合わせ,コミュニケーションのトポロジー)とレトリック= 眞実らしさの統辞論(物語の並置,反復・再現,列挙)とメタ言説(理論的説 明)の認識的合理性に合致した目的論的心理過程の結合された結果を意味して 26) いる。 しかし本来のテクスト的生産性は,結果ではなく,テクスト労働による製作 であり,空間(舞台一客席)と実践(眞面目な演技)を結合する無比の劇場で 27> のテクスト実践であり,「この実践を生産された(眞実らしい)結果のなかに 28) 固定しようとする解釈はその実践の生産的空間の外部にある。」即ち,テクス ト的生産性は自己一破壊的なもの,無化し消去するものであり, 「自己同一1生, 29) 類似,本来の姿を求める投影を破壊するということである。」換言すればテク スト的生産性という概念は決定不可能ということであり,眞実らしさとは別の 領域であり,対立,矛盾しあう諸項を関連づけるプロセスのなかでみつからを 作り出しかつ破壊するエクリチュールの軌跡の成就のうちに存在する。結局, 30) それはバルトのいう記号破壊(クリステヴアのいう記号を突き抜けた記号)で ある。 毛思想のテクスト的生産性は,以上の概念に基本的に符合すると言えよう。 25)前掲書 34−35頁 26)」.クリステヴァ,中沢・原田・松浦・松枝訳『記号の生成論セメイオチケ2』1994年 せりか書房200−212頁 27)前掲書 213−214頁 28>前掲書 216頁 29)前掲書=218頁 30)ロラン・バルト花輪百中『物語の構造分析』166頁
それは断案的に言えば,第一のテクスト的な「眞実らしい言説の構造のなかで 31) それにもかかわらず,それに逆って」テクスト形成のプロセスを(結果ではな く),同一性の破壊を再現している。毛思想の意味実践は,そのテクスト的生産 性の独自性に端的に現われている。即ち,眞実らしさを前述した意味論的構成 より,むしろ非常に多彩精緻なレトリック・物語性,メタファーの利用によっ て,中国の広汎な人民の(読者一受け手一客席)日常的意識(無意識)に訴え ることにより,中国人民の再革命化という結果(切断)を仮象的目的としなが ら,毛思想という言説自身がそれにも拘らずユニテではなくプロセとして無限 に開かれた革命的不決定性を製作していったのである。それは他方においても 毛思想の詩的言語としての反復不可能性(差異生産)と極端に拡大された否定 性の作用(判断的な止揚と全く別種の否定性)と密接に連接してくるのは明ら 32) かである。 III テクストとしての中国革命における二つの道 33) 毛思想のテクスト的読解は,クリステヴァー・バルトの言うsemanalysis ゲノテクスト ーそれは記号テクストの構造化であり,記号テクストと多角的論理の交差であ 34) り,社会テクスト・歴史テクストと弁証法的に連接を許す概念である一として 質的に開かれなければならない。その基本テクストは毛思想を構造化する所謂 二つの道論である。それは毛思想の文革に関するゲノテクストであるといえる。 35) 最:も代表的な内部的刊行本である「中国共産党的歴史画是両條路線的闘争史」 を中心に,それに言語的に開かれている意味実践,テクスト的生産性を分析し 31) 『記号の生成論セメイオチケ2』213頁 32)前掲書252頁,278頁。彼の詩的言語は「沁園春・長沙」に発し「彼の救国の理想を 詩的なものにする」。武田泰淳・竹内実『毛沢東 その詩と人生』昭47年文芸春秋49−57 頁参照 33)Edited by R. Young, Untying the Text;APost・Structuralist Reader, PP.43−45 34)Ibid., P.38 PP.43−44 35> 『中国共産党的歴史就是両條路線的闘争史』(文革中に印刷された内部文献〉は表題の ディスクロル 制目(二つの路線の年代量的論説の対比表),建国十九年来両條路線的闘争史資料,その 他二種の資料より構成されている。後者が最も簡潔な両條路線の分析となっている。
88 荒木廼夫教授退官記念論文集(第300号) たい。先づ中国革命の記号テクストは,意味実践としてそのイデオロギー的神 秘化を破壊する言語による置換えであり,一種の神秘化された中国という世界 ・対象を,マルクス・レーニン主義という「科学的」記号(言語)によって置 換える,その成長・転化プロセスと段階に適応した科学的テクストの生産実践 であり,そしてその「生産物」を言語的表現によって,検証できるような構造 である。簡単に言えば,それは毛思想め客観化され,自己運動の如く展開され るレトリックの検証であるといえよう。ここでは勿論,政治的・経済的現状分 析をも歴史記述も一応切断して専ら中国革命の成長・転化の過程をとり上げよ う。記号的置換の対象は,国民党的革命テクストー特に孫文的三民主義であっ た。それはマルクス・レーニン主義にとっては極めて神秘的なテクストであり, 結局第一次国共合作を通じて新三民主義一即ち毛思想の中の新民主主義に置換 マルクスウヘニン えられる。ここで中国革命の中で馬・列主義の主体記号,即ち労働者・農民と いう言表が生産され,政治的に記号化される。この点は, 「中国社会各階心的 分析llの冒頭にある敵味方の区分が「不乙容易」より「二七問題」に訂正され !ニフイアン 36) た一点に記号的に象徴される。 「不信容易」→「策略錯」→「不能団結朋友, 以攻撃眞正二二入」という記号化を回避する為には,世界に共通する五種の階 級が記号化される。これらの記号が毛思想テクストの意味素を形成し,否定の 弁証法によって,意味論的,記号論的,シンボル的,図表的にテクストを横断 する。その意味論的レトリックはその指導牲という言表創出に拘わる。これは 自身が元来弱小なのであるから,本来ならば三二二流の二段革命に公式化され るのであるが,帝国主義=国民党=大ブルと置くレトリックによって,国民党 =ブル総体を民族的革命主体から排除できたのである。実態は革命当初よりこ のようなレトリックとは乖離していた。何故多数である農民を主体化できない のか。単純化すれば農民を革命化しても国民党的資本主義(KCMPと略称) の基本的進歩性を内在的・理論的に否定できない言表だからである。農民主体 であれば,中国革命は伝統的一揆に解消してしまう。ここに最初の記号置換が 36)『毛澤東集第一巻初期[1917.3−1927.4]』1975年10月港版 近代史料供侍社 161−1 62頁
あり,ここから中国革命のマルクス主義的な審級での成長・転化というフレー テクスト ズ(定義というより言語構造)が可能となる。故に毛の記号的テクストは一貫 して毛=中国共産党=労働者階級という定式をメタ言語として内包する。実態 ポジティブ ・実証的審級で見れば,むしろ戦前は国民党システム(KCMP)が体制とし て存在し,この意味で革命主体は国民党であったと言える。国民党体制は西欧 型資本主義ではなく正統性をもたない独自のアジア的システムであったにも拘 らず,毛のテクストではこれも記号論的に資本主義に置換えられる。夫は厳密 には半資本主義でしかない買弁的・官僚資本主義として革命の敵のメタファと なる。実証的審級での乖離は今日もはや明らであるから,それは毛思想の中国 革命の成長・転化に関するテクストのイメージ生産物であり,いわば,ここか ら毛沢東的テクストの横断が始まる。この事情は劉少奇の基本的視角一国民党 ・国民党政権を合法的革命指導者と実質上,認めそれとの関係の中で戦術・戦 略を導出する,いわば労働者階級を基軸とする経済野鳩と連接した政治路線が 37) 一貫して毛のレトリックと対比されて糾弾されていることをみてもわかる。も し劉の主張が実態を反映していなかったとすれば,殆んど糾弾は無意味である。 即ち,劉少奇とは国民党システムのメタファとして記号化され,置換えられシ ンボル化される。従って新民主主義(新三民主義)→人民民主主義→社会主義 →文化大革命という革命の成長・転化の記号テクストの眞実らしさの意味論 (所記)の線型性と三段論法的動機づけは明らかである。いつれの革命段階で も敵と味方の政治的原型はコミュニケーションのトポロジーとして貫通し,又 それに関係する味方(革命主体)の勝利の物語が,共時的には多様なレベルで 38) 並置・列挙され,通時的レベルで反復・再現される。メタ言説としては弁証法 が目的論的に意識の記号化を可能とする。このような記号論テクストは現代の 中国システムを革命の成長・転化として説明できるのか。答は否定的とならざ るをえない。毛思想テクストを否定しなければ,四人蓄に文革を押しつけるか, 37) 『中国共産党的歴史口蓋両條路線的闘争史』2−42頁参照 38)前掲書の前記二種の文献の他に党的歴次全国代表大會簡介と中国共産党歴史上一些重要 会議簡介を参照。
90 荒木廼夫教授退官記念論文集(第300号) 毛を部分的に一しかし実質的には否定し切断するかのいつれかである。 しかし,semanalysisで記号破壊の意味実践・テクスト実践を考えうるとす れば,毛思想のテクストは一つから異質のエクリチュールと化するであろう。 このような意味実践は,中国革命が第一のテクストでマルクス主義の記号に置 換えられたのにも拘らず,同時にマルクス主義的記号構築の破壊プロセスであ ったことを意味する。これは皮肉にもテクストの生産者である毛沢東の死後, メタ言説として客観化され,現在の中国の新システムの中で生存している。こ れは結局どういうことであるのか。単純化すればそれはゲノテクストとしての, テクスト生産者の労働が,絶えず他者を読者(社会的関係)との間に介在し, 三者を連節するマルチロジックのプロセ〈構造化〉の運動として継続すること 39) である。 従ってこのような運動は「もの」に対象化できない言語プレイでもある。前 述したように毛沢東思想の弁証法とは,ゲノテクストとして読めば正しく否定 の弁証法であり,無限に開かれ,差延化された記号破壊の運動であった。それ をいわば中国革命のメタ言説とする中国革命のテクスト実践の内容は,その生 産性の概念に拘わる。記号論テクストは実証的条件より乖離したレトリックで あるから,これでは何故中国革命が現実に「勝利」できたのか一というより現 実的行程として具体化できたのかという記号論テクストと社会テクストとのイ ンターテクストの生産性は不明となる。表層の言語プレイから社会的テクスト にまで横断する毛思想の意味実践は,読み手との関係で他者を不断に生産し, それとの関係で自らをいわば第三者的に排除・否定することによって他者を自 らに包摂するようなマルチロジックであるといえる。国民党との合作は,実質 40) 的な記号破壊であることは,戦前では新段階論に集約されており,従って記号 論テクスト(公式文献)にはレトリックとして並記・繰返され,列挙されてい 39) Untying the Text, PP.36 40) 『毛澤東集 第六巻 国安期II[1938.5−1939.8]』1975年10月町版近代史料供鷹社。 毛のここでの国民党評価は全く転換している。これは戦前の文革に相当する自己否定・排 出である。198頁参照
ない。何故か。それは正しく記号破壊のゲノテクストだからである。又戦後は 冒頭とりあげた文革テクスト「両條路線」がそれにあたる。これも記号破壊な ので決して公式化されないようなメタ言説である。もしこのような意味実践で なければ毛思想は敗北した蓋然性が大きい。更に問題は中国革命の対象であっ た社会システムが,記号論テクストと交差したインターテクストとしては,マ ヘテロ ルクス主義的記号をはるかに越え,それを破壊するような質的差延のシステム であったという点である。常に頭上にあったこのような異質の一いわばアジア 的な一システムを他者として自らのゲノテクストの中で無限に開かれた差異的 関係として創出すること,換言すれば自らを第三者的に排除・否定することに よって,即ち自らを媒介的尺度とすることによってかかる他者を新たな差異的 関係に再構築する運動なのである。国民党のアジア的システム(官僚資本主義) は,このようにして,いわば乱暴な言い方をすれば,中国共産党的「社会主i義」 の形で再建されたのである。つまり,単純化すれば,テクスト的実践とは,記 号論的なものの脱構築→新たなシステムの再構築化を意味する。 この重盗よりすれば,文革とは他者(KCMP),そのメタファーとしての劉 少奇当権派を創出し,それによって自からを脱構築(記号破壊)=第三者的尺 度として排除しながら,新しいアジア的システムの創出に自らを開いていくプ ロセスにほかならない。一層具体的にこのプロセスを解読すれば,旧来の伝統 的「社会主義」を再建したのではなく,それを自らの媒介によって破壊し,そ れを新しい開かれたアジア的システムの可能性に転化させたのである。勿論, この場合の他者とは環境的な形での世界システム(帝国主義一国民党一義少 小)にも連接することは明らかであろう。 支配的システムー外部としてのシニフィアン領野としての資本主義的抽象化 作用物,擬似的といえ一をどのように「切断」したかというプロセスは,F・ ガタリの枠組をかりれば,主体的集団が,解釈学的審級とは別に,無意識的主 体化一即ち「発話行為を脱主体化し〈機械状化〉し,更に指向対象のさまざま 41>フェリックス・ガタリ,高岡幸一訳『機械状無意識』1990年 法政大学出版局56一一57頁
92 荒木麺夫教授退官記念論文集(第300号) 41) な層状化作用物に内在的なコード化様式と直接関連を結ぶ」ような無意識の組 み込み(発話行為の機械状アジャンスマン)が,支配システムの中を貫通・横 断したことによって説明できよう。このようなF・ガタリの脱構築的な機械状 無意識の視座は厳密で難解な概念であるから,軽々にこれを具体的に中国革命 に適用することはできないとしても,これを敢えて単純化して利用する。ガタ リによればこの無意識プロセスを,意味作用的主体化作用なしに,記号機械も 社会的機械の内部で直接機能できるからこのような無意識的プロセス(機械状 42) リゾーム)は「多極的・多実体的・多指呼的座標に従ってベクトル化される」。 ガタリを簡単に言いかえれば,ここで無意識は,それをみちびいた歴史的・論 理的つながりだけでなく,潜在的・理論的・実験的なものを広くまきこんで成 長し,従ってこの無意識の連鎖はあらゆる素材・要素(例えば科学的に形成さ れた素材,革命的に形成された素材,記号学的に形成された素材など)が多様 43) に結合し,このような無意識全体が動態化(二二移行)することにみちびく。 毛思想の非主体的な,脱属領化された全面的無意識=機械状無意識の運動が, 前述したテクスト実践の重要な部分であることは明らかである。それは具体的 現象としては,徹底した主体集団化(整風・教育・労働を通じてのシニフィア ンの統辞論的実践)を通じての無意識的主体の創出一システムへの割込みプロ セスに反映する。中国の広汎な人民の多様な内在的審級に多称なコード形式と 夫は連接することになる。中国革命の独特な主体的エクリチュールである革命 44) 「三字経」はその一つの例である。これは新民主主義革命時期の民衆向けテク ストである。国民党の「仁者愛人」に対して「人三二 本平等到后来階級 分」と反撃し,国民党の「富貴在天」の天命論に対しては「別回天 二三三 二守旧 要前進」と論破している。これらは,中国の体制側の孔孟「三字経」 に対応した教育方法であったが,注目すべき点は中国農民・労働者にとっては これらはシニフィアン的実践というより,自身の生活・日常への無意識的アヂ 42>前掲書 72頁 43)前掲書 73頁 44)中国革命博物館編写組『新民主主義革:命時期工農兵三字経選』1975年 文物出版社
るらう ヤンスマンであったことだろう。文革における革命的「切断」(ガタリ)を準備 した無意識的主体化は,他者が国民党政権と同じ記号的システムであったとし ても,比較にならぬほど安定していた一逆の「脱コード化された資本主義的流 46) れをもった自動制御の図表的諸アジャンスマン」を既に有していたシステムで あったということからみても,如何にこの記号破壊のプロセスー脱構築化の意 味実践が,F・ガタリ的な重層的広がりと深さをもたざるをえなかったかが逆 システム 説的に証明できる。この体制は哲学的には有名な楊献上の総合的経済土台論一 今日の市場社会主義の原型一に反映している。これに対する機械状の実践はガ タリの四タイプの発話行為のアジャンスマンを適用すれば,類推的諸生成変形 は,毛思想と包囲関係を保つ紅衛兵集団=意味論的領野の言語習得,言語学的 ・記号学的諸生成変形物は,中国の大学・高等教育機関に属する知識分子の発 話,非主体的・シンボル早早変形物とは,三結合的大批判の発話行為,即ち無 意識的主体化の脱層状化作用線,そして図表的諸変形物とは,文革における社 会・意識表層,無意識のレベルで革命と連接する否定の諸実践のインターテク 4亀〉 ストであり一枚の紅色の図表であるといえよっ。 より具体的表現をとるならば,文革とは,反記号的発話行動,すなわちドゥ ルーズの言葉を利用すれば,超脱・採取・選別を否定するテクスト的実践であ る。超脱とは「知を前提とした前衛の超脱」採取とは「よく訓練され,組織さ 49) れ,序列化されたプロレタリア」選別とは下層プロの序列化的差別である。特 に文革とは,この中で超脱に関係する。毛沢東思想は,本を余りよみすぎては 50) いけない一それは物事をわからなくするというテクストを持ち,階級斗争が哲 45)アジャンスマンとは(agencement)鎖列,組み込み,アレンジメント等を指す。『機 械状無意識』6頁 46)前掲書 37頁 47)前掲書 54−57頁 48)前掲書 55 57頁参照 49)フェリックス・ガタリ,杉村昌昭/毬藻胎中『精神分析と横断性』1994年 法政大学出 版局 10頁 50> 『毛澤東思想万歳』下94頁
94 荒木廼夫教授退官記念論文集(第300号) 学を生み出すことを明らかにした。これは文革の非シニフィアン的,非主体的 機械状の核要素ともいうべきエクリチュールであろう。 このように考えれば,文革とは中国革命の成長・転化プロセスの一つの切断 であるが,自身(社会主義)を聖なる第三者として否定・排除することによっ てシステム自体を開いた当のものであったとしか読解できないのである。 以上