日本の哲学教育史(中)
著者名(日)
柴田 隆行
雑誌名
井上円了センター年報
号
11
ページ
189-216
発行年
2002-07-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002736/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja日本の哲学教育史︵中︶
柴田隆行
§せミミ合さ奪 まえがき 本稿は前回の続きである。すでに述べたことだが、日本の哲学教育の歴史を調べるのに、まずは大学を調査対 象とするにはそれなりの意図があるが、さらに限定して哲学科に限定する根拠はきわめて薄弱で、たんに調査し 易いというにすぎない。教養教育を含めた幅広い哲学教育の実態解明は次の課題とせざるをえない。とりあえず 西の九州大学から始めたが、これは旧帝国大学として歴史的に古いというにすぎず、さらに西方にある熊本大学 を意図的に無視したわけではない。ちなみに、現在哲学科ないし哲学専攻を有する大学をインターネットにより 検索すると、四一の大学が数えられる。国公立が一六校、私立が二五校である。前回取り上げた地区で論及でき なかった大学として、山口大学、岡山大学、神戸大学、大阪市立大学、関西大学、関西学院大学、南山大学があ る。これらの大学についても最後に言及する予定でいるが、公刊された文献だけではなく、現地に赴いて学内資 料をも参照することを原則としているので、予算と時間の制約から、すべての大学について論じることはできな い。 今回は、京都と高野山の、四つの仏教系大学を取り上げた。東京の仏教系大学としては、立正大学と創価大 189 [本の哲学教育史vp)学、別途取り上げた東洋大学を別にすると、ほかに駒沢大学と大正大学があり、これらも参考のために言及して おいたが、この二校の哲学科は現在廃止されている。宗教系大学としてはほかに、神道系の國學院大學、キリス ト教系の国際基督教大学・上智大学・聖心女子大学、前回取り上げた同志社大学に、哲学科ないし哲学専攻があ る。 なぜ京都にある仏教系大学をとくに取り上げるのかについて、予め述べておかなければならない。その理由は 主として三つある。 一つは、日本最古の大学は駒沢大学であると言われるように、日本の哲学教育の歴史を研究する際、実質的に は哲学をいわゆる西洋哲学に限定せざるをえないとしても、それを受容する精神的地盤を考慮するならば、仏教 や儒教に見られるその学的探究の歴史を無視することができないと思われるからである。もちろんここで仏教や 儒教と西洋哲学との関係を詳論することはできないしそのつもりもないが、官立は別として、私立ではなぜ主と して仏教系大学で哲学が熱心に教えられ学ばれるようになったのかという問題は、日本の哲学教育史を研究する 上で欠かせない課題である。 二つ目に、哲学科ないし哲学専攻を擁する大学が集まっている所として京都と東京があるが、互いにほとんど 関係がないと思われる東京の諸大学と比べて、京都の諸大学ではとくに人的相互交流が活発で、いわゆる﹁京都 学派﹂とか﹁京都哲学﹂と括らなくても、比較検討するのに便利だ、という理由がある。 三つ目は、主観的動機にすぎないが、本研究を進めている筆者の所属機関である東洋大学及び井上円了記念学 術センターにとって、本学の歴史と特徴を知る上で同じ仏教系大学での哲学教育の歴史は大いに参考になるから である。 190
さて、本論に入る前に、今回もそれぞれの学内資料の閲覧に際しお世話になった、龍谷大学文学部教務課、大 谷大学教務部教務課、佛教大学教学部教務課、高野山大学教務課の職員のみなさんに、この場を借りて一言御礼 申し上げる。また、資料的価値は言うまでもなく、読み物としてもおもしろい、最新刊の﹃大谷大学百年史﹄ ︵資料編とも︶を御寄贈下さった大谷大学文学部教授延塚知道氏に厚く御礼申し上げたい。本稿執筆に際し、もし 本書がなければもっと貧相な内容にとどまったであろう。 第七節 龍谷大学 龍谷大学の前身は、一六三九年︵寛永一六︶に創設された本願寺学寮である。↓六五二年西吟が制度を整える が、じきに宗義論争が起きて混乱し、幕府により閉鎖される。その後、一六九五年、学林と改称して再興され、 以来、明治期まで続く。その後、学制の改革により、﹁大教校﹂︵一八七六年︶、﹁真宗学痒﹂二八八〇年︶、﹁大教 校﹂二八八七年︶、﹁仏教大学﹂二九〇二年︶と名を改めつつ、一九〇五年政府の専門学校令により﹁仏教大学﹂ として認可された。龍谷大学という名称になったのは、一九二二年︵大正一一︶の大学令によって認可を受けて からである。本稿で扱う範囲も、他大学とのバランスと本稿の主旨からして、いわゆる近代的な大学として出発 する一九二二年以降とする。 一九二二年五月二〇日付﹃龍谷大学規則﹄第一条には、﹁本学ハ仏教学、哲学、史学、文学二関スル諸学科ヲ 教授シ並二其緬奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス﹂とある。次節で詳しく見るように、この条文は龍谷大学の特徴を 端的に表現したものというよりも、文部省令に従っただけのきわめて形式的なものにすぎない。だがまた、そう いうことにいちいちこだわらないというところがこの大学にはあるらしく、全七冊の大部の大学史を見ても、豊 191 日本の哲学教育史(中}
富な過去の資料の復刻がある半面、大学令によって行われた近代的諸学の採用と、戦後進められた学的普遍性の 強調と総合大学への脱皮、その後の民主化と一九七〇年前後の大学紛争、その反省による教育改革、そして﹁仏 教系大学唯一﹂と称する理工学部の設置、国際交流の推進、などなど、つねに未来に向けてのチャレンジに多く の頁が割かれている。重要文化財指定の校舎が所狭しと建ち並ぶ古風な大宮校舎からは想像もできないエネルギ ッシュな学風がここに見られる。インターネットを開くと、真っ先に、﹁﹃新しさ﹄を積み重ねてきたことが、龍 谷大学の真の﹃伝統﹄﹂という文字が飛び込んでくる。 一九二二年の﹃龍谷大学規則﹄に戻ろう。龍谷大学は当初文学部のみの単科大学であった。文学部には仏教学 に六講座置かれたほか、仏教史、宗教学及宗教史、哲学、心理学、倫理学、教育学、社会学、印度学、支那学、 国学、英文学にそれぞれ一講座置かれた。各講座とも普通講義と特殊講義と講読の三つが正科とされた。普通講 義には、真宗学、倶舎学、唯識学、天台学、華厳学、仏教概論、宗教学概論、西洋哲学史、倫理学概論、等々 が、副科講義には、美学及美術史、言語学、文学概論、東洋史、西洋史、などが、語学講義には英語、独逸語、 仏蘭西語、西蔵語、梵語、等々があり、いずれも選択必修とされた。 学則第一条は、翌年の一九二三年に早くも改訂され、教授科目に﹁宗教学﹂が加えられたほか、﹁兼テ人格ノ 陶冶二留意ス﹂という言葉が加えられた。この追加は文部省の指導に従っただけである。さらに翌二四年の改訂 では、開講講座名としての﹁哲学﹂が﹁西洋哲学﹂に改められた。﹁哲学﹂と言えばおおよそ西洋哲学を意味す ることは明治初期も現代も同じだが、科目名称として﹁哲学﹂にあえて﹁西洋﹂という形容をつけるようになっ たのは、﹁印度及支那哲学﹂という講座を設けたのに従って﹁哲学﹂を﹁西洋哲学﹂と﹁東洋哲学﹂に分けた、 ↓八八二年 二月の東京大学の学則改定に際してであるから、龍谷大学がなぜ今ごろになってこのように改めた 192
のか、理由はわからない。このときの改訂で定められた哲学科西洋哲学専攻の必修科目はつぎの通りである。西 洋哲学史二単位、西洋哲学講座特殊講義及講読五単位、真宗学概論、宗教学概論または宗教哲学、心理学概論、 教育学概論または社会学原論、支那哲学史、哲学概論、仏教学概論、宗教史概論または基督教史、倫理学概論、 印度哲学史、美学及美術史がそれぞれ一単位、原始仏教学・小乗学・印度大乗学・天台学・華厳学からいずれか 二単位、希膿語または拉丁語二単位、英語または独逸語または仏蘭西語二単位、計二四単位である。その後、一 九二五年の改訂で、副科講義に﹁論理学﹂が追加された。 一九三三年、﹁西洋哲学﹂がふたたび﹁哲学﹂に改められた。これは時代の変化によるものと思われるが、講 義科目名としての﹁西洋哲学史﹂や﹁西洋史﹂﹁基督教史﹂等々はそのまま残っている。戦時下の四二年の改訂 で、日本思想学科が新設されたり教練が必修となったりしているが、﹁西洋哲学史﹂や﹁西洋史﹂﹁基督教史﹂等 は存続している。戦後↓九四六年の改訂では、﹁第一条 本学ハ仏教学、真宗学、哲学、史学、文学二関スル諸 学科ヲ教授シ並二其ノ纏奥ヲ攻究スルト共二正信明徳ナル人材養成ヲ以テ目的トス﹂とされた。戦時下に導入さ れた日本思想学科は廃止となり、代わりに教化学科というやや意味不明の仏教教化を目的とする新学科が置かれ たが、これは四九年の学制改革の際に廃止された。この俄学科を別にすると、龍谷大学の場合、戦時体制下のさ まざまな統制と敗戦による大転換という時代の荒波に、少なくとも制度上はさほどもまれずに済んだように見え る。哲学科哲学専攻の必修科目一覧を見ると、一時、教練が加わった以外ほとんど変化がない。むしろ大きく変 化するのは戦後の諸改革による。 四九年、新制となった龍谷大学に、仏教学科、真宗学科、東洋文化学科、史学科、哲学科、文学科の六学科が 置かれ、哲学科はさらに哲学、倫理学、教育学、宗教学、社会学の五つの専攻に分けられた。哲学科哲学専攻の 193 日本の#k’k“教育史・中)
必修科目は哲学概論、西洋哲学史、哲学特殊講義演習及講読、仏教学概論、真宗学概論、仏教学関係講義、哲学 科関係講義、美学か美術史か自然科学、希臓語か羅典語、計二二単位となっている。戦後の学制改革のなかで新 たに導入されたのが、いわゆる教養科目であり、そのうち一般教育科目人文科学系科目として仏教学、哲学、倫 理学、論理学、心理学、文学、歴史、地理学、音楽が選択必修とされた。なお、哲学科倫理学専攻はその後廃止 された。五五年度には仏教学科、哲学科、史学科、文学科の四学科体制となり、哲学科も哲学と教育学と社会学 の三専攻に縮小している。六〇年度の哲学科哲学専攻の必修科目は、哲学概論、倫理学概論、哲学史、倫理学 史、社会思想史、哲学演習、哲学講読であり、六四年度の﹃文学部履修要覧﹄を見ても、哲学科︵哲学、教育学、 社会学︶の開講科目は哲学概論、倫理学概論、哲学史、倫理学史、宗教学概論、宗教史、心理学概論、哲学特殊 講義、哲学演習、哲学講読、卒業論文と、いたってシンプルである。所属教員は、山内得立、遊亀教授、佐藤三 千雄、大峯顕、村上至孝の五名であり、学生定員は↓学年五〇名である。 六一年、深草に新校舎が開設されると同時に経済学部が新設、六六年には経営学部、六八年には法学部が新設 となり、文学部だけの単科大学であった龍谷大学は総合大学に向けて大きくその規模を拡大することとなった。 文学部内では、六七年に哲学科から社会学専攻が独立し社会学科となった。その代わりとして宗教学専攻復活の 声が高まったが、これは結局実現されずに終わった。社会学科は時代の流れに押され、八九年には学部にまで発 展している。 ふたたび哲学科に戻ろう。六五年度から﹃文学部学科目履修要項﹄という冊子が配られるようになり、これに よってようやく科目担当者名が明らかになる。それによると、一般教育科目としての哲学は山内得立、倫理学は 遊亀教授︹さずく︺、論理学は小能⋮勢記がそれぞれ担当、専攻科目では﹁哲学概論﹂佐藤三千雄、﹁倫理学概論﹂ 194
遊亀、﹁倫理学史﹂遊亀、﹁哲学史︵古代・中世︶﹂佐藤、﹁哲学史︵近世︶﹂三村勉、﹁哲学特殊講義﹂山内・三村・ 村上、﹁哲学演習﹂三村・遊亀、﹁哲学講読﹂佐藤・山内・大峯顕となっている。七〇年には﹃講義要項﹄が登場。 哲学専攻科目の詳細はつぎの通り。哲学概論は山内得立担当、﹁哲学の本質、問題、方法等につき概説的に説明 せんとす﹂とその内容が予告されている。哲学史︵古代・中世︶は佐藤三千雄担当で、﹁本年は主として中世の哲 学を講ずる。中でも一二、一三世紀の哲学に主力をそそぐ﹂とある。哲学史︵近世︶は神子上恵群担当、﹁ルネ サンス期以降の近世の哲学を概説するが、↓七、一八世紀の哲学に重点を置く予定﹂とある。その他、﹁倫理学 概論﹂遊亀、﹁現代思想﹂小熊、﹁美学概論﹂吉田健二郎、﹁宗教学概論﹂星野元豊、哲学特殊講義として﹁歴史 哲学の諸問題﹂を田中美知太郎、﹁モナドの世界﹂を三村勉、﹁現代の倫理思潮﹂を遊亀がそれぞれ講義した。哲 学基礎講読は佐藤三千雄担当でプラトン対話篇を、哲学講読は三村がZ一魯Nm合o︰﹀一乙。o切買①合N剖讐古已。・貫①、佐 藤が民一①完①ぬ①昌合ロ①ぬ﹁一は巳①﹁#〇三〇、遊亀が゜n℃日oN讐国︷三〇①を、哲学演習では三村が×①葺︰民葺完工隅 ﹁①日oコ﹀①∋已コ津、元濱清海が國6σq①H︰喝ゴ似50∋①コ○一〇ぽq完α巾゜り09ω9。り、遊亀が匡Φσq①一︰[oぴq完︵︵団コN▽匹︵︶葛色一〇︶をそ れぞれ読んだ。これらの科目のほかに、第一選択として、科学哲学、美学概論、心理学概論、社会学概論、イン ド思想史、中国哲学史、真宗学概論、仏教学概論が、第二選択として法学概論、宗教史、インド仏教史、西域仏 教史、中国仏教史、日本仏教史、西洋教育史、社会思想史、美術史、日本文化史、宗教心理学、キリスト教神学 などが、それぞれ開講されている。 このように見てみると、哲学専攻に関する限り、龍谷大学の哲学科は、他の諸大学の哲学科と特別の違いは見 られない。カリキュラムは、立命館大学や同志社大学よりも京都大学や九州大学など国立大学のそれに近い。一 九七五年度の哲学演習には﹁近世哲学の諸問題﹂﹁古代哲学の諸問題﹂﹁実践哲学の諸問題﹂﹁宗教哲学の諸問題﹂ 195 目本の評i学教育史(中)
といった副題が与えられているが、これなどはまさに京都大学や九州大学のそれそのままである。この傾向は九 〇年代まで変わっていない。教授陣の多くが京都大学出身者であるから、当然と言えば当然と言える。非常勤講 師であれば許容範囲内かもしれないが、同年度に同じ主題を掲げて複数の大学で教えている者も見られる。 さて、﹁新しいことが伝統﹂という校風を誇る龍谷大学は、↓般教育科目を手始めにこれまでのカリキュラム を抜本的に変え始めている。九五年度の﹃共通科目Qoく=①亘已。・﹄を見ると、これまでの科目はほとんど姿を消す か、内容を大幅に変更させている。自由選択の共通科目として、人間発達、環境、人権と平和、情報と社会、世 界の歴史と文化の五つのプログラムに分けられ、人間発達プログラムでは﹁哲学思想IA ホモ・サピエンスの 未来﹂今西弘人、﹁倫理思想C 倫理問題の根本﹂今西、環境プログラムでは﹁倫理思想A 環境倫理の諸問題 の考察﹂本田裕志、﹁倫理思想A 環境倫理﹂田村公江、人権プログラムでは﹁倫理思想B 生命倫理の具体的 諸問題と基礎理論﹂本田、﹁倫理思想B 生命倫理﹂田村、﹁哲学思想IB 人間と意味﹂今西、﹁哲学思想n ﹃自己﹄と﹃他者﹄について﹂勝賀瀬恵子、﹁哲学入門 知の遊動空間へ﹂瀧川裕確、﹁倫理学入門 倫理学の基 本問題﹂前田義郎、﹁論理学入門 日常語と人;言語﹂須原一秀が見られる。専門科目でも、哲学特殊講義とし て﹁A 近代社会における道徳ーホッブズを中心に﹂神野慧一郎、﹁B 今日の宗教の可能性﹂大峯顕、﹁C 課題としての宗教現象学﹂高田信弘、﹁D 観念論 唯心論の批判的検討﹂松尾宣昭、﹁E 日本の宗教哲学﹂ 石田慶和、﹁F 人間存在と宗教の意義﹂上田閑照といった副題が見られ、それなりに新しい工夫が見られる。 しかし、その後二〇〇〇年度の講義概要を見ても、龍谷大学の哲学科は相変わらず﹁龍谷大学らしさ﹂のような ものをまったく感じさせない教育内容で一貫している。講義科目や講義概要を見ているだけでは、これが他のど この大学のものか判断がつかない。それがこの大学の長所なのか短所なのかさえわからない。 196
第八節 大谷大学 大谷大学は、遡ると、一六六五年︵寛文五︶に開設された東本願寺学寮に至る。これは、龍谷大学の前身であ る本願寺学寮が宗義論争の混乱で閉鎖を余儀なくされていた時期にあたる。この間の詳しい事情は専門家に委ね るが、﹃大谷大学百年史﹄︵二〇〇↓年︶によれば、一六〇二年の本願寺の東西分派後、それぞれが宗門機構を確 立するなかで宗義の伝授が重要な課題となったこと、朱子学や陽明学の本格的受容にともなって生まれた仏教の 反社会性や非現実性を強調する風潮に対抗するためという内外の事情があったところに、折しも起こった日蓮宗 徒との法論が宗学研究に拍車をかけたこと、などが開校の理由であるという︵四頁︶。このような事情は、明治 になって幕藩体制が崩壊し、政治と結びついた儒者や国学者による排仏論の強化と、キリスト教をはじめとする 外来の宗教やいわゆる近代思想の急速かつ大量な流入によって、ますますその深刻さを増した。東本願寺学寮で は、一八六八年八月に護法場を設け、仏教の直接的研究のほかに、それ以外のいわゆる﹁外学﹂を研究・教育す ることになった。学科は国学、儒学、天学、洋教の四つに分けられ、国学では国学全般、神道諸流、和歌、和文 が、儒学では儒学全般、漢詩文、経済が、天学では天文学、数学、暦学が、洋教では耶蘇教と天主教の教義と歴 史が、それぞれ研究・教育された。このような動きに対して、これは時流に流されて伝統的な学びを軽視する動 きだとして批判する意見も強くなり、激しい議論が闘わされた。この思想的混乱は政府においても見られ、文 部・教部行政は右往左往を繰り返した。これに振り回されるように、ここでも学寮から貫練場二八七三年︶、貫 練教校︵一八七九年︶、大学寮二八八二年︶と、その名称と内容を変えることとなった。 大学寮は、政府の制度改革に従いつつも、その内容は学校制度に基づく﹁大学﹂寮ではなく、あくまでも真宗 の原点に戻った大﹁学寮﹂だとしている点は興味深い。八六年の改訂では専門部と兼学部に分けられ、専門部は 197 1体の∫’1学教脅史{「t】1
さらに研究科と本科に、兼学部は高等科と初等科に分けられた。兼学部高等科の学課書目表を見ると、﹁歴史﹂ としてシュヴェーグラーの﹃哲学史﹄、﹁哲学﹂として﹃大学﹄﹃中庸﹄、タムソン﹃思想ノ法﹄、べーン﹃心理 学﹄、スペンサー﹃道義学﹄が指定されているのがわかる。八八年二月、本山に教学部が設けられ、大学寮は安 居、専門科、兼学科で構成されると定められた。 同年三月、京都府尋常中学校は、府の財政的理由により東本願寺に経営が委嘱され、大学寮兼学科は京都府尋 常中学校に移された。のちに大谷大学の基礎を築くことになる清沢満之が同年七月に校長として赴任した。清沢 はここで英語、歴史、論理学を教えた。九四年、清沢満之らの宗門改革と教学刷新の運動が盛んになるなか、制 度改革が行われ、﹁本科第一部はもっぱら宗乗・余乗・およびその他、須要なる学科を教授するとこととす﹂﹁本 科第二部は宗乗・余乗を教授し、かつ外国語によりて哲学、および近世科学の大綱その他、須要なる学科を教授 するところとす﹂と定められた。これら二科はその後九六年の改訂の際、研究科と併せて真宗大学にまとめられ た。 真宗大学本科第↓部の課程表によると、宗乗、余乗、余乗附科、国文漢文、哲学、教導とあり、哲学では第 年に教育学と倫理学が週四時間、第二年に哲学史が週四時間、第三年に哲学史が週三時間、第四年に哲学史と宗 教哲学が週四時間割り当てられ、本科第二部には宗乗、余乗、国文漢文、数学、科学、哲学が置かれ、哲学では 第一年に智力発達史と心理学が週四時間、第二年に哲学原理と論理学が週四時間、第三年に哲学史と倫理学が週 六時間、第四年に哲学史と美学と宗教哲学が週六時間割り当てられている。﹃大谷大学百年史﹄はこの課程表に 対して、﹁なるほど新時代に対応する人材を養成するための新しい学問が含まれている﹂が、実質は九四年のも のと﹁寸分変わらない内容﹂であり、﹁真宗大谷派宗門の次代を担う若き学徒を養成する場所として、積極的に 198
育てていこうという気概は感じられない﹂︵一一]頁︶と酷評している。当時このような教学改革の遅れに危機 感を抱いた清沢満之や稲葉昌丸、井上豊忠らの刷新運動はさらに活発となり、当局は伝統的教育機関として位置 づける真宗高倉大学寮と、政府の方針に則った真宗大学とを分けることでそれに対応しようとしたが、かえって 混乱に拍車をかけるだけとなった。この間の事情をさらに詳細に述べることは本稿の主旨を逸脱することになる ので、他に譲り、あれこれあった末に、一九〇一年一〇月、真宗大学は東京巣鴨に移転して新たに開校し、初代 学監に清沢満之が就任したところまで一挙に話を進めたい。 真宗大学の目的は﹁宗門ノ須要二応スル学科ヲ教授シ及其緬奥ヲ研究セシムル﹂こととされ、本科には宗乗 科、天台科、華厳科、性相科が置かれた。学科目はそれぞれ宗乗、余乗、哲学、英語に分けられた。われわれの 関心事である哲学に限って見れば、一年級で哲学概論と哲学史週四時間、二年級で哲学史週二時間と社会学週二 時間、三年級で哲学史週三時間、倫理学週二時間、教育学週一時間と定められている。教員は、哲学概論、哲学 史、心理学担当が朝永三十郎、心理学と哲学史担当が福来友吉、倫理学、社会学、哲学史担当が紀平正美、論理 学、心理学、英語担当が元田龍佐となっている。 ﹁本学は他の学校とは異なりまして宗教学校なること、殊に仏教の中において浄土真宗の学場であります。 すなわち、我々が信奉する本願他力の宗義にもとづきまして、我々において最大事件なる自己の信念の確立の 上に、その信仰を他に伝える、すなわち自信教人信の誠を尽くすべき人物を養成するのが、本学の特質であり ます。﹂ 1gg 日本の哲学教脅史(中)
﹃大谷大学百年史﹄を読む限り、開校式で清沢満之が述べたこの言葉は、現在に至るまで大谷大学の精神とな っているようである。すなわち、ここで言われていることは、真宗大学がたんに浄土真宗の宗派の大学として宗 派の人材を養成するのではなく、宗教的真理を探究し、それに基づく教育を課題とするという開かれた意味を持 つとともに、他方では、近代西洋の思想や文明の移入に忙しく、外物や他人を追い求め追従して、自分自身が失 われつつあるという清沢満之自身の深い問題意識が反映していると見ることができるというのである。 のちに第二三代学長となる寺川俊昭は、一九七四年﹁清沢満之と真宗大学﹂という小論の中で、清沢によるこ の開校式の辞には、親鷺の教えを通して仏陀の精神に学ぽうとする学徒であって欲しいとの祈りに似た願いが込 められていると言う。すなわち、﹁学問とは、限りない探究の精神であろう、とすれば学問する精神は、いわゆ る学問するそのことをも、一つの問として問うていかねばならない。一人の人間としての自己という存在の要求 は、いわゆる学問的要求よりももっと深い筈である。学問することが、自己という存在にとってどのような意味 をもつのか。学問することをも突破して、学問すること自体、あるいは生における学問の意義をも問い、更に究 極的には自己の生そのものの意味を問うていく学の精神、そこに仏教の確立した学、すなわち学道があるのであ ろう。清沢先生はこのような意味での学道を、真宗大学の学生に期待したのであった﹂︵﹃大谷大学百年史資料 編﹄六二一頁より重引︶と述べている。 真宗大学は、しかし、さまざまな問題を抱えたうえ、清沢満之の早すぎる死によって困難を極め、開学一〇年 で﹁一派の最高学府は本山との連絡が便利な京都に置く﹂という主張により、京都に移され、↓九一一年真宗大 谷大学と改称して再出発することとなった。新大学の教授陣のうち、哲学史担当の桑木厳翼、哲学概論と倫理担 当の西田幾多郎、哲学史担当の錦田義富、哲学史、宗教史、仏教史担当の赤松智城のほか、宗教教育担当の谷本 200
富、英語担当の上田敏、等々、蒼々たるメンバーの大部分が、印度哲学担当の松本文三郎京都文科大学長を筆頭 に京都文科大学教員かその出身者で固められた。その一方で、直接教義に関わる宗乗・余乗担当教員は伝統的な 教学を修めた人たちで占められた。 その後、政府の大学令改訂に基づく大学へ昇格させることとなり、一九二二年、名称を大谷大学と改めるとと もに、目的を﹁仏教学哲学及ヒ人文二須要ナル学術ヲ教授シ並二其緬奥ヲ攻究セシメ人格ヲ陶冶スルヲ以テ目的 トス﹂に改めた。これは、先に見た同年五月二〇日付の龍谷大学規則第一条﹁本学ハ仏教学、哲学、史学、文学 二関スル諸学科ヲ教授シ並二其誼奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス﹂とよく似ており、これがいかに文部省令に単純 に従ったものであるかがよくわかる。学部は文学部のみとして、仏教学科、哲学科、人文学科の三つに分けられ た。哲学科はさらに﹁主トシテ哲学ヲ修ムルモノ﹂﹁主トシテ倫理学若クハ教育学ヲ修ムルモノ﹂﹁主トシテ倫理 学ヲ修ムルモノ﹂に分けられた。哲学専攻の必修科日には真宗学、仏教概論、大乗仏教学、哲学、印度哲学、支 那哲学、西洋哲学、社会学、心理学が挙げられている。哲学担当は西田幾多郎、哲学史は朝永三十郎だった。 ところで、先に引用した清沢満之による︿建学の精神﹀はその後どのようになったのだろうか。それは、紆余 曲折を経ながらも、第三代学長佐々木月樵によって生き返ったようである。佐々木は、一九二五年度新入学生宣 誓式での訓辞﹁大谷大学樹立の精神﹂の中で、﹁明治維新後、官公私の大学は、今日まで泰西の文明を輸入する 事にのみ忙しく、今日なほ自ら有する所の宝をだに顧みる暇なき有様﹂と時代を批判しつつ、﹁教育は、常に宗 教を侯つて真実の人格を作り、宗教は教育によつてのみ常にその陥り易い迷信に陥ることを防ぐ事が出来る﹂と して宗教と教育の必要性を説く。そして、本学が﹁諸学中先づ公然と仏教を諸学の首位にか﹀げる事を唯一の誇 とする所の大学﹂だと宣言する一方で、これを一種の秘伝のごとく受け取り伝承しようとしていてはならず、 201 1いs.・)哲?,教育史(中♪
﹁仏教を学界に解放すること﹂﹁仏教を教育からして之を国民に普及すること﹂﹁宗教的人格の陶冶に留意するこ と﹂が必要だと言う。この言葉を解説して、広瀬呆は 九八一年の大谷大学真宗総合研究所開所式での挨拶で、 これは﹁近代日本文化の構築の時期に当って、鋭くもその文化的営為のなかに人間の滅びの当来を予知し、真に 人間成就の方向を指教した清沢満之の建学の精神を以て、大学の研究と教育の在るべき姿を具体的に明示した﹂ と述べている︵﹃大谷大学百年史 資料編﹄六三四頁︶。 その後、時代の荒波は大谷大学をも襲った。それはたんに学外の抗い難い時代潮流によるものだけではなく、 金子大栄と曽我量深の辞職にまで発展する真宗学内部の問題もあってのことだった。だが、その点についての言 及はここでは控える。]九三八年に日本精神史、三九年に軍事教練が導入され、勤労報国隊の結成、学徒出陣、 四二年には専門部は真宗学科と興亜学科の二学科のみとなった。しかし、龍谷大学同様、個別の授業内容そのも のは外の世界から隔絶しているかのように、従来と違わない形で進められた。四↓年度も、普通講義、特殊講 義、講義、演習が組まれ、朝永三十郎と鈴木弘による西洋哲学、立花勝による倫理学の講義が続いた。そして敗 戦、四九年新制大学となる。 ﹁本大学は、仏教の精神に則り、人格を育成するとともに、仏教並びに人文に関する学術を教授研究し、広く 世界文化に貢献することを目的とする﹂と学則は書き改められた。学部は文学部のみで、仏教学科、哲学科、史 文学科の三学科に分かれ、哲学科はさらに西洋哲学専攻、倫理学専攻、教育学専攻、宗教学専攻、社会学専攻に 分かれた。その他、一般教養科目が新たに設けられ、その人文科学関係の中に仏教学、哲学、倫理学、心理学、 等々の科目が置かれた。哲学科西洋哲学専攻の必修科目は、真宗学、仏教概論、大乗仏教学、西洋哲学、印度哲 学、支那哲学、倫理学、社会学、心理学、宗教学であるが、これはなんと一九二二年のものとほとんど同じであ 202
る。西洋哲学担当は世良寿男と講師の国文啓治と寺尾勇、倫理学は立花勝と講師の阿部正雄、予科では哲学担当 が講師の大谷長、倫理学が二村龍華と講師の二階堂隆明、専門部では西洋哲学担当に福原一来があたることにな った。しかし、実際の講義科目表を見ると、﹁哲学概論﹂世良、﹁古代及中世哲学史﹂大谷、﹁近世哲学史﹂寺尾、 ﹁哲学的方法の問題﹂世良、﹁アメリカ哲学﹂福原、﹁宗教哲学﹂久松、﹁講読 乙n合巾=日ぬ”O碧m9一巨5ぬ 匹Oω 冨一一〇。・oo三ω9①づ国∋廿マ[切∋5﹂大谷、﹁演習 =①巳①σqぬ①﹁︰④③日§巳N①一二世良となっている。倫理学講座では、 ﹁倫理学概論﹂立花、﹁プロチノスに於ける悪の問題﹂立花、﹁カント倫理と親鷺の念仏﹂阿部、﹁東洋倫理思想 史﹂木村、﹁講読 ×昌︹民葺完鮎2℃﹁巴含]ω合oコ<Φ∋已忌二阿部、﹁演習 コ①ぴq。一 ○﹁旨ユ=己oコエ雲勺古一δ゜。o喜︷o ユ①⑦殉而6宮ω﹂立花となっている。 六五年、学科編成が改められ、真宗学科、仏教学科、哲学科、史学科、文学科、社会学科となり、哲学科は西 洋哲学専攻、宗教学専攻、倫理学専攻となった。西洋哲学専攻に関して言えば、講義は﹁哲学概論﹂と﹁西洋古 代・中世哲学史﹂が金松賢諒、﹁西洋近世哲学史﹂と﹁普遍妥当性について﹂が河瀬憲次、﹁神と世界﹂金松、 ﹁意識について﹂清沢哲夫、講読は弓一讐O⊇巾O一⋮け而冨﹂金松、﹁=①泣Oひqぬ而n=O一N≦Φひq6﹂清沢、﹁民︷6完Oひq富己 ×日コ江6一︷N已∋↓o匹6﹂加藤隆生、演習が﹁×①コ︹×叶三ズ匹①﹁﹁①日①o<⑦∋已忌こ金松となっている。その後、九 二年に一般教育科目が廃止となり、共通科目が新たに設けられた。二〇〇一年の学則改定では、新たに国際文化 学科と人文情報学科が新設されたが、制度上哲学科では大きな変更は見られない。しかし、実質的なスタイルは 大きく変わった。その内容は多岐にわたるため、省略せざるをえない。 203 日本の哲学教育史〔中)
第九節 仏教大学 仏教大学には哲学科も哲学専攻もないが、京都に存在する仏教系大学の↓つとして取り上げておきたい。龍谷 大学と大谷大学がともに浄土真宗の学寮として一七世紀にその礎石を据えたのに対して、仏教大学は明治になっ て設置された浄土宗の学校である。前身は↓八六八年︵明治元︶秋に京都知恩院山内源光院に設置された青年僧 侶たちの研究所であり、設置の動機は、他の機関と同様に、維新後の排仏殿釈運動と実利的な洋学の流入ならび にキリスト教の普及などに対する危機意識にあった。一八七〇年仮勧学場設置、七一年勧学所が設けられた。八 七年、浄土宗学則制定により高等教育機関として宗学本校が定められ、東京芝公園内にて開校した。︵このうち の一部が、のちに大正大学となった。︶その後、専門学院、仏教専門学校と発展し、仏教大学となったのは、戦後 一九四九年の新制大学発足以後のことである。開校の目的は、﹁仏教精神により人格識見高適にして活動力ある 人物の養成﹂に求められた。学問することは、未知の知識を得たり技術を身につけたりすることにとどまらず、 ﹁価値創造の主体である人間を問うこと﹂でなければならず、学問することと仏教を求めることとは同じことで あるとし、﹁仏教求道の場が大学である﹂という立場をとっている︵﹃仏教大学史﹄一九七一、年、六〇∼六一頁︶。さ らに、﹁私立大学は国立大学のエピゴーネンであってはならない﹂し、﹁一経営者の利潤獲得事業﹂でもない。仏 教大学にとって大事なことは﹁仏教という永遠の生命をもった精神が躍如として生きていること﹂であるという ︵同右︰ハ一二頁︶。 一九四九年当初は、文学部仏教学科のみを有する単科大学であった。新制大学として、一般教育科目が設けら れ、人文科学関係には、哲学、倫理学、心理学、教育学、歴史学等が開講され、哲学は小笠原秀実が、倫理学は 太田正元が担当した。専門科目では、必修として仏教学、仏教史学、哲学及哲学史、倫理学及倫理学史が、選択 204
として宗教学及宗教史、基督教学、印度哲学等が開講された。六〇年度は一般教育の倫理学を太田が担当し、専 門関連科目の哲学は観山雪洲が担当した。六二年仏教福祉学科が増設され、仏教学科の定員は半減となって、両 学科とも入学定員四〇名、総定員三二〇名となった。これを機会に仏教学科は仏教学、浄土学、仏教文化の三専 攻に改められた。その後、大学は拡大路線をとり続け、多くの学科が増設された。 六七年度以降﹃講義概要﹄が書かれるようになり、授業内容が詳しくわかるようになった。たとえば、一般教 育の﹁哲学A﹂は清水澄担当で、﹁西洋古代・中世の哲学を概説し、同時に哲学の基礎的な知識を得せしむ﹂とあ り、﹁哲学B﹂も清水担当で、﹁西洋近世及び現代の哲学を概説し、同時に哲学の基礎的な知識を得せしむ﹂とあ る。専門関連科目の﹁倫理学概論﹂戸川霊俊担当では、﹁風俗としての倫理の本来性を追求し、併せて個我の現 時点の所在性を自覚せしめたい。その意味で講義はおのずから学︵プ、︷°・°。雪乙・・訂巳の対象としての倫理 職業 の、階級の、民族の、性のその他諸々の のための倫理概説を先ず形成する。宗教との関係に置いても亦。そ れを理解した上での学としての﹁倫理学﹂とは何か を倫理学史上の内外の諸学説を顧慮しつつ考察して行き たい﹂と書かれている。 八五年度は、一般教育﹁倫理学﹂で安田利雄が﹁人間の論理﹂を、棚次正和が﹁エートス︵習俗︶の学として の倫理学﹂を、﹁哲学﹂では清水澄が﹁現代哲学の諸問題﹂を、遠山郁代が﹁哲学の根本問題﹂を、﹁論理学﹂で は須原一秀が﹁現代論理学と実存詐術﹂を、それぞれ講義している。専門科目では、﹁思想史研究﹂池見澄隆が ﹁日本思想史における仏教とシャーマニズム﹂を、﹁哲学概論﹂清水澄が﹁ギリシャ哲学の諸問題﹂を、﹁倫理学 概論﹂藤本浄彦が和辻哲郎﹃人間の学としての倫理学﹄をテキストにして、それぞれ講義している。 その後、九一年度より﹃講義要項﹄がふたたび別冊となるにともない、量が増えて七九六頁となり、九八年度 205 n本の哲’i”教育史(中)
にはついに一四〇〇頁となって、持ち運びが困難となった。他方、﹃学生便覧﹄は九三年度にuo巳身○巳06 切⊆5、○ご己く隅白・]口と改称されるなど、地味な大学であるように見えてさまざまな革新的試みが見られて興味深 い。否、﹁地味﹂に見えるのは仏教大学という名称からの先入観にすぎず、九二年開校のロサンゼルス校を筆頭 に、九九年から始められた教育国際ボランティア、きわめてユニークなグラビア雑誌など、実際にはさまざまな 意欲的試みがなされている。これはまた、総合大学としての発展をめざす龍谷大学とも、つねに真宗の原点から 出発しようとする大谷大学とも異なる、現代に生きる独自の仏教系大学の姿かもしれない。 他大学同様、九三年に一般教育が廃止され、共通科目として学際科目と教養科目に二分され、さらにセメスタ ー制が導入されて、やや複雑ながら豊富な授業を提供している。たとえば、二〇〇〇年度はつぎのような内容に なっている。共通科目には、﹁仏教と倫理 医療倫理演習﹂村岡潔、﹁哲学と人生 科学と人﹂田山令史、 ﹁哲学と人生ーサルトルの文学と哲学﹂加國尚志が、専門科目には、﹁哲学概論1ー哲学すること﹂狩野恭、 ﹁哲学概論1ーー生命と時間﹂石井誠士、﹁哲学概論2 心・自然・論理﹂狩野、﹁哲学概論2 パトス的現存﹂ 石井、﹁倫理学概論1 生命と倫理﹂司馬春英、﹁倫理学概論1 倫理と言語﹂桝形公也、﹁倫理学概論2− ーカント倫理学と規範主義﹂加國、﹁東西比較哲学1ーー東西における﹃存在﹄了解。唯識三性説の哲学的解明﹂ 司馬、﹁東西比較哲学2ーー東西における心身論。アーラヤ識縁起論の哲学的解明﹂司馬、等が開講されている。 206 第一〇節 高野山大学 場所は京都から離れるが、高野山大学についても触れておきたい。高野山大学は、↓八八六年︵明治一九︶五 月一日、古義大学林として始まった。それ以前にも明治初期より紀州高野山、京都智積院、大和長谷寺に学林が
設けられ教育が行われていたが、本格的に行われるようになったのは八六年からとされている。自他の宗学のほ か、政府の指導により、英語、哲学、歴史、地理数学、理科、国漢が教科に加えられた。哲学を加えた理由は、 一つには﹁世間ノ卑近ナル普通学二修メタル中等人士ヲ凌駕セシメンガ為﹂であり、二つには﹁哲学ノ論スル所 大二我仏教ノ範囲二一旦リテ、或ハ著シク我教説二背反シ、或ハ甚ダ我二類スル所アリテ、利害共二我二関係ノ大 ナルコト普通学ノ比ニアラザルコト﹂によるとされた。そして、哲学を学べば、﹁思想ノ運用刷新シテ、弁論二、 論究二、縦横自在ノ活動ヲ得ルノミナラズ、又、抽象概括ノ能力発達シテ字句二拘泥スルノ旧弊ヲ矯ムルニ至ラ ン﹂ことが期待できるという︵﹃高野山大学百年史﹄一九八六年、二六九頁︶。具体的には、二年度に論理学と心理 学が、三年度に教育学と倫理学が、四年度に哲学史が、五年度に純正哲学と比較宗教が必修科目として教えられ た。 古義大学林はその後、一九〇↓年真言宗各派連合大学林と改称したのち、七年さらに私立真言宗連合高野山大 学と改称、九年に専門学校令により認可された。]六年には私立真言宗高野山大学と改称、また、二六年四月大 学令により高野山大学となった。﹁学術ノ理論及応用ヲ教授シ、就中密教学・一般仏教学・仏教芸術・哲学及人文 学ノ溢奥ヲ攻究セシメ、併セテ国家思想ヲ函養シ人格ヲ陶冶スルコトヲ以テ目的トス﹂と学則に記された。文学 部が設けられ、そこに密教学科、一般仏教学科、仏教芸術学科、哲学及科学科が置かれた。哲学及科学科は二八 年一月哲学科と改められ、さらに二九年には哲学専攻と西洋倫理学専攻の二つに分けられた。 さらに戦中にかけて何度か学則改定が行われたのち、戦後の四九年政府の学則改定に基づき、新制高野山大学 として再出発した。文学部に密教学科、仏教学科、仏教芸術学科、哲学科、社会学科、国文学科が置かれた。そ の後徐々に学科を増設し、九八年四月に再度大改革が行われ、文学部人文学科の哲学専攻、国文学専攻、英米文 207 日本の柄学教育史(中〕
学専攻、国史学専攻、ならびに社会学科の社会学専攻、社会福祉学専攻の各専攻が廃止され、人文学科と社会学 科に改められ、現在に至っている。 話は戻し、哲学科に限ってさらに詳しく見ておきたい。一九二七年度の専門科目担当者は、倫理学概論と西洋 倫理学が神代俊通、東洋倫理学と中国哲学史が加地哲定、印度哲学史が蓮沢浄淳、心理学概論が福来友吉となっ ている。三六年の教育方針には、﹁本学ハ密教大学ノ使命ノ教育ノ本義ト特二時代ノ要求二従ヒ左記ノ三大方針 ヲ堅持ス﹂として、コ、国家思想ノ酒養。二、智徳ノ完成。三、理想現成ノ研究方法﹂が挙げられるなど、時 代の反映が見える。しかし、西洋哲学特殊講義や西洋哲学史、西洋倫理学史概説などはその後も見られ、教員に は出隆、内海虎之介、神代俊通、大槻春彦、園田義道らの名が見られる。専任教員の内海虎之介と神代俊通は戦 後もかなり長い期間本学で教えた。もっとも、神代は四七年から五二年まで﹁教口貝不適格者﹂として追放されて いる。 五六年度﹃高野山大学要覧﹄には、一般教育科目として哲学、倫理学、論理学が見られ、また、人文学科哲学 専攻科目として、西洋哲学史概説、哲学概論、特殊研究として古代・中世哲学、近世合理論哲学、近世経験論哲 学、独逸観念論、現代独逸哲学、現代英米哲学、関連科目にも倫理学概論、西洋倫理学史概説、中国哲学概論、 中国思想史、宗教学概論、心理学概論、社会学概論、美学概論など豊富な科目が並べられているのがわかる。し かし、担当教員としては西洋哲学に内海虎之介、倫理学に神代俊通、そして講師に上田閑照の三名が見られるに すぎないところからすると、また、学生数をも勘案すると︵全専攻生で一〇名以下︶、実際にはこれらの科目のう ちのいくつかが開講されていたにすぎないと思われる。上田閑照は二年間マールブルク大学に留学したのち、一 年間講師を務めたが、六四年母校の京都大学に帰っている。その後任として稲葉稔が就任したが、稲葉も六六年 208
に大阪工業大学に転出、安井惣二郎が後任として赴任、その安井も六八年滋賀大学に転出、その他、非常勤講師 も含めて多くの人事異動が繰り返された。七五年度は、一般科目の哲学は湯川佳一郎、倫理学は田中芳が担当、 専門科目の哲学概論は内海虎之介、西洋哲学史と西洋哲学特殊講義は湯川佳一郎がそれぞれ担当、西洋哲学演習 は内海がカントを読んだ。また、三回生向けの西洋哲学講読を湯川が、二回制向けのそれを藤田雅延が担当し た。 九五年に講義要項の形式が刷新されてシラバス形式となり、講義内容がさらに具体的に見えるようになった。 一般科目の哲学は橋本武志が西洋哲学の歴史︵存在論︶という内容で、倫理学は伊藤均が西洋における人間観の 源流という内容でそれぞれ講義、専門科目では、西洋哲学史概説を山脇雅夫が、哲学の﹁基本的課題﹂と﹁現実 的課題﹂および﹁存在論﹂の展開という題で、西洋哲学特殊講義は蔵田伸雄が現代英米の﹁生命倫理学﹂という 題で講義している。その他、講読と演習があるが省略する。そして、前述のように、九八年に制度の大規模な改 革が行われた。 二〇〇〇年度を例として見てみると、必修の学部共通科目として、﹁建学の精神﹂科目︵密教入門、空海の思想 入門、人権と福祉︶と導入ゼミ、英語、健康科目があり、文学部の基礎科目としては、﹁日本文化﹂﹁アジア文化﹂ ﹁欧米文化﹂にそれぞれ﹁宗教・思想・芸術﹂﹁歴史・民俗﹂﹁文学・言語﹂﹁社会﹂の四つのコースがあり、教学 講座には、哲学関連では、山脇雅夫担当による﹁人文基礎ゼミ︵比較文化1︶﹂があり、東西の自然観を扱うほ か、﹁人文講読演習J︵欧米の思想︶﹂では哲学入門と題してテキストに竹田青嗣﹃自分を知るための哲学入門﹄ が使用されている。ちなみに、ホームページに掲載されている、欧米文化の学習モデルにはつぎのように書かれ ている。基礎ゼミで﹁西洋の思想入門﹂を学び、講義1で﹁西洋近代哲学の展開﹂を学んだ後、西洋哲学コース 209 日本の哲学教育史(中)
を選択、講読演習では二回生でデカルト方法序説を読み、三回生で生命倫理を学ぶ。そして講義Hで二ーチェと 西田幾多郎を学び、課題演習ではデカルトの懐疑と脳死問題を論じる。そして勉強の成果を卒業論文にまとめ る、というように。 210 第﹂一節 その他の仏教系大学 ︵一︶ 駒沢大学 駒沢大学は遡ると、一五九二年︵文禄元年︶江戸駿河台吉祥寺境内に設立された学林に至る。吉祥寺駒込に移 転して、栴檀林と名づけられた]六五七年とする説もあるが、最近では吉祥寺会下学寮と呼ばれた先の学林をも ってその出発とするようである。その後、一八七五年︵明治八︶に別途開講された曹洞宗専門学本校が翌七六年 に栴檀林と合併され、それがさらに八二年麻布に移転して曹洞宗大学林専門学校となった。九〇年には曹洞宗大 学林と改称、一九〇五年曹洞宗大学と改称した。駒沢大学という名称になったのは、実質的に大学に昇格し文部 省によって正式に認可されたた二五年からである。 ﹃駒沢大学百年史﹄︵一九八三年︶上巻に掲載されている、一八七五年、七六年、八五年の授業綱目表を見ると、 正助各等級とも実に内容豊富であり、とくに八五年の﹁英学﹂には、ギゾー文明史、ゼボン論理学、スペンサー 道徳原理ほか、万国史、英国史など豊富なテキストが並べられているが、解説によると、﹁実際に授業を行なっ たのではなく、名目を並べただけで終わったものであるかも知れない﹂とある︵一二一二頁︶。曹洞宗高等中学校 教科用図書にもハックス﹃哲学史﹄があって、興味深いが、こういう解説を見ると、実態調査をもっと詳しくし なければならないと感じる。
一九二五年制定の学則第一条に記された目的を見ると、﹁学術ノ理論及応用ヲ教授シ就中仏教学、東洋文学及 人文学ノ緬奥ヲ攻究セシメ併セテ人格ヲ陶冶シ風教ヲ作興シ人心ヲ指導スヘキ人材ヲ養成スル﹂とあり、扱う学 問対象に若干の違いがあるだけで、文章は他大学とほとんど同じであることがわかる。文部省の認可を得るには 前例に倣うしかないのであろう。学部は文学部のみで、その下に仏教学科、東洋文学科、人文学科が置かれた。 仏教学科の必修科目に禅学や仏教学と並んで西洋哲学と倫理学、宗教学など、選択科目に認識論や西洋倫理特殊 講義、東洋倫理特殊講義などが見られるが、人文学科では選択科目に倫理学があるだけで、西洋哲学も宗教学も 見られない。その代わりに必修科目として社会学や経済学、政治学、文化史、社会政策などが置かれており、現 在われわれが人文学ということで思い描く内容とはかなり違っている。 その後、昭和に入ってご多分に漏れずに軍国主義教育の洗礼を受け、そして戦後の新制大学による改革で、仏 教学部、文学部、商経学部の三学部体制となった。文学部は哲学科、国文学科、中国文学科、英米文学科、地理 歴史学科、社会学科の六学科が置かれた。一般教養科目が設けられたのも他大学と同じである。学部で西洋哲学 を担当したのは、専任の児玉達童と兼任講師の岡本素光と小山靹絵、倫理学は兼任講師の川田熊太郎であり、予 科の哲学概説は専任の岡本素光と東元多郎、兼任講師の波多野通敏であった。 哲学科は、一九五二年に最初の卒業生を一人出し、翌五三年は一〇人、五四年は七人とまずまずの始まりであ ったが、五五年二人、五六年三人、五七年三人と入学者も卒業者も一桁どまりが続いたため、六七年に九人最後 の卒業生を送り出して廃止となった。ちなみに、大学院も五二年に修士課程に哲学専攻が開設されたが、六七年 には募集を停止している。これとは別に、七一年に文学部が改組となり、教養第一群の教員は全員文学部所属と して文化学教室、自然科学教室、教職課程に分けられたことから、哲学担当の国嶋一則教授と坂本百大助教授は 211 日本の哲学教育史(中)
文化学教室に所属することとなった。七二年坂本は青山学院大学に転出、七八年に久保陽 が専任講師として就 任、翌年助教授に昇格した。非常勤講師には多彩な顔ぶれが見られ、哲学担当として、波多野通敏、坂部恵、辛 島司朗、児島洋、岩崎武雄、兵頭高夫、松本正男、上林昌太郎、村上勝三、神崎繁、持田辰郎、戸田洋樹、古川 英明、門脇俊介、桑原直己、円谷裕二、山下太郎が、近世哲学史担当として大村晴雄が、論理学担当として日下 部裕一、石黒満、末木剛博、丹治信春、田中裕、長岡亮介、山本新、中村友太郎、丸山豊樹、岩野秀明、小宮山 隆といった名前が記されている。 212 ︵二︶ 大正大学 大正大学の前身は、一八八五年︵明治一八︶設立の天台宗大学に遡るが、一八六八年設立の増上寺の興学所や 知恩院の仮勧学場なども含めると、それ以前にもいくつかの前身が数えられる。とくに大正大学は、一つの前身 が発展したものではなく、八七年設立の真言宗新義派大学林宗教大学︵のち豊山大学と改称︶、一九一四年設立の 智山勧学院などいくつかの仏教系大学を集めて、二五年︵大正一四︶に仏教連合大学となってつくられた大学で ある。大正大学という名称になったのは、二六年の大学令による認可を受けてからである。 学則第一条には、﹁国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ其纏奥ヲ攻究シ兼テ徳性ヲ函養スルヲ以テ目的 トス﹂とあり、文学部の下に仏教学科、哲学科、宗教学科、史学科、文学科が置かれた。哲学科の必修科目は哲 学概論、西洋哲学史概説、東洋哲学史概説、西洋哲学、印度哲学、心理学概論、倫理学概論、西洋倫理学、東洋 倫理学、社会学概論、外国語であり、選択科目には仏教学特殊講義や仏教史などが設けられた。哲学ないし哲学 史の講義は、一八八七年に芝公園内天光院に開設された宗学本校高等予科や高等正科の課程表に見られ、浄土宗
高等学院の九九年度の哲学史担当者は松本源太郎、一九〇五年度は椎尾弁匡、二四年度は真野正順であった。二 五年度の豊山大学では得能文が西洋哲学史と純正哲学を教授したが、二六年の大正大学創立時の担当者には真野 正順、北蛉吉、永野芳夫となっている。 昭和の戦時期、四二年に哲学科と宗教学科が宗教哲学科にまとめられ、新たに東亜学科が設けられるなどした のち、例によって戦後の学制改革により四九年新制大学として再出発した。仏教学部に仏教学科、文学部に哲学 科、史学科、文学科、社会学科が置かれたほか、一般教養科目が設けられた。哲学科西洋哲学専攻の必修科目 は、哲学概論、哲学各論、西洋哲学史概説、哲学演習、東洋哲学史概説、社会学概論、倫理学、印度哲学、心理 学であり、科目名は戦前のそれと大差ない。主任は佐藤賢順、副主任は末広照延が務めた。七六年の科目担当者 は、一般教養の哲学が中川栄照と北条賢三、倫理学が田中文盛、西洋哲学専攻では、中川が西洋哲学講読、西洋 哲学史、西洋哲学演習を、中田勉が倫理学概論、現代哲学、西洋哲学講読、西洋哲学演習を、臼木淑夫が哲学概 論、西洋哲学特講、比較哲学を、藤本正久が論理学概論と西洋哲学特講をそれぞれ担当、さらに西洋哲学特講を 北条賢三が、ギリシア哲学を峰島旭雄が、宗教哲学を田丸徳善が担当した。 哲学科は、その後九三年の大規模な学部学科改組にともない廃止された。新たに人間学部が開設され、ここに 仏教学科、人間福祉学科、人間科学科︵社会学系・心理学系・生涯教育学系︶が置かれ、従来の文学部には国際文化 学科と日本語・日本文学科、史学科が置かれた。いわゆる哲学関連の教育・研究はこの国際文化学科で引き継い でいるようである。 213 日4の哲学教育史(中)
︵一[︶ 立.正人学 立正大学の前身は、 五八〇年︵天正八︶に千葉に設立された日蓮宗の教育機関檀林に遡る。一八七二年︵明 治五︶東京芝二本榎に宗教院設立、一九〇四年日蓮宗大学林となり、さらに七年日蓮宗大学と改称したのち、二 四年大学令により立正大学となった。文学部に宗教学科、哲学科、社会学科、史学科、文学科の五学科が置かれ た。その後、四九年新制大学となり、仏教学部︵宗学科、仏教学科︶と文学部︵哲学科、史学科、国文科、社会学 科︶の二学部体制となったが、現在は七学部一五学科を擁する総合大学として発展している。哲学科は現在も哲 学専攻と心理学専攻に分かれて研究・教育活動を続けている。教育内容は、あえて言えば、近現代哲学に偏って いるように見受けられる。 214 小括 さて、われわれは、資料不足と時間的制約から立正大学についてはごくわずかに言及しえたにすぎないが、そ れ以外はひととおり仏教系大学における哲学教育の歴史を概観した。最後に簡単にまとめをしておきたい。具体 的には、冒頭で掲げた三つの課題、すなわち、仏教系大学で哲学が熱心に教えられ学ばれた理由、京都所在の大 学問交流の実態、東洋大学との比較に絞って考察しよう。 まず、仏教系大学と哲学教育との関係について言えば、先に述べたように、それは外からの影響によって始ま った、と一言でまとめられると思う。仏教が宗教として自らの教義を深め、伝承・普及のために研究・教育機関 を設けることは当然のことであるが、それがとくに明治期になって学校として整備され、西洋の哲学が学ばれる ようになったのは、たんに政府による学制の改革によるものではなく、もっと根本的な理由があった。それはす
なわち、儒教や神道、キリスト教やさまざまな西洋思想、合理的洋風生活や物資等が大量かつ急速に流入してく る中で、従来の仏教のあり方を問い直す、あるいはさらに過激には、仏教を根本的に否定し排斥しようとする動 きが強まったことに対する仏教界の危機意識である。しかしまた、それをたんに受け身の活動にとどめず、急激 な欧化や生活の合理化によるひずみを是正し、とりわけ失われつつある精神生活を取り戻そうという積極的な活 動として自覚されたところに、仏教系大学設立の意義があった。それは、とりわけ大谷大学の指導者たちによっ て強く意識されていたように思われる。 先に引用したが、第二三代学長寺川俊昭の言葉はとくに印象的である。学問は、対象への限りない探究である にとどまらず、まさに学問することそのことをも一つの問いとして問うものでなければならない、と言うのであ る。たしかに、学問とは文字通り、問いつつ学び、学びつつ問い、問いを学び、学を問うものであるが、それは さらに学ぶことそれ自身をも問うものであると言わなければならない。フィロソフィアという言葉を造ったソク ラテス以来、哲学はこの自己回帰性を不可欠の条件とするが、寺川はこれを﹁一人の人間としての自己という存 在の要求﹂と言い換え、そこに﹁仏教の確立した学、すなわち学道﹂の原点を見る。そしてそれこそが、物質文 明に目を奪われたわれわれにとってつねに思い起こされなければならないこととされ、清沢満之が求めた道もま たこれであったと言うのである。大学が学問をする場であるということは、さまざまな学的知識を吸収し、また 自らそれを創出する場であることを意味するが、それだけではまだ学問の真髄に迫るものとは言えない。その意 味で、学問を営む上で哲学は不可欠と言えるが、だからと言って哲学が例外的に特権的な立場に立つわけではな い。哲学を研究することにおいても同じことが言えるのである。そのことが、大谷大学も含めて日本の哲学教育 の現場において確認できるか否かが改めて検証されなければならない。 215 日本の哲字教育史(中)
その際、京都の仏教系諸大学において、非常勤講師も含めて哲学担当教員の多くが京都大学関係者によって占 められていることの功罪が、京都大学哲学科そのものの意義と役割とを併せて、問われることになるだろう。今 回の研究はまだ個々の教員による教育の中身にまで踏み込んで調べるに至っていないので、外観から判断するし かないが、京都の仏教系諸大学のカリキュラムがあまりにも官学のそれと類似している点は気になるところであ る。それをたとえば哲学館・東洋大学と比較して見ると、東洋大学は、創立者の井上円了自身がそうであったよ うに、啓蒙主義的傾向が強すぎるきらいがあるとしても、講義内容はきわめて豊富であり、哲学概論や西洋哲学 史等は当然として、それ以外にも認識論、社会哲学、現代独逸哲学、欧洲文化史、欧米思想史、基督教文明史、 現象学、根源学史、哲理科演習、歴史哲学、実践道徳、等々と多様な科目が用意されている。京都大学や広島大 学、龍谷大学、大谷大学等々に一般に見られる、概論と特講と講読と演習だけというスタイルとは大きく異な る。この点は、個々の内容を検証する際に立ち返って詳しく論じるに値する問題ではないかと思われる。 ︵つづき︶ 216