†社会科教育専修 教科教育専攻 指導教員:馬場義弘
原 著 論 文
清 川 貞 治 の 版 画 教 育
上
田
慎
也
†Printing education of Kiyokawa Sadaji
Shinya UEDA
キーワード:清川貞治,版画,図工,朽木,小学校 は じ め に 第 1 章 滋賀県高島市朽木地区と朽木東小学校 第 1 節 朽木地区の概要 第 2 節 朽木地区小学校の変遷 第 2 章 清川貞冶の生い立ち 第 1 節 幼少期 第 2 節 児童期 第 3 節 青年期 第 3 章 清川貞冶の版画教育 第 1 節 版画との出会い 第 2 節 ろくろ分校での版画教育 第 3 節 清川貞治の版画教育のこだわり 第 4 節 朽木東小学校における版画教育の歴史 第 5 節 清川貞冶の考える教育と版画のつながり 第 4 章 清川貞冶の版画教育の継承 お わ り に は じ め に 清川貞治 (きよかわさだじ) は戦後すぐに滋 賀県高島郡において小学校の教員となった。彼 が赴任した朽木東小学校は版画教育に力を注い でいたが,1970 年代,清川が赴任した同校の ろくろ分校が製作した連作民話の版画集は全国 的に脚光を浴び,1 万冊を発行するまでに至っ た。清川氏は人口減少が進む過疎地・僻地でど のような教育観をもって教育を行っていたのか, 子どもたちにどのようなことを伝えたかったの か,またこれらをどのような方法で実践して いったのかを明らかにすることが本稿の目的で ある。 方法としては,清川氏本人や当時清川氏と関 わりのあった人物への聞き取り調査を中心とす る。 第 1 章では,滋賀県高島市朽木地区と朽木東小学校について述べる。第 2 章では,清川氏の 教師になるまでの生い立ちについて,いくつか のライフステージに分けて述べる。第 3 章では, 清川氏の版画教育について,清川氏の教育観や その実践方法を交えながら述べる。第 4 章では 清川氏と当時関わりのあった人物の聞き取り調 査を中心に清川氏の版画教育の継承について述 べる。 第 1 章 滋賀県高島市朽木地区 と朽木東小学校 第 1 節朽木地区の概要 本稿で取り上げる滋賀県高島市朽木地区は滋 賀県北西部に位置し,南北に走る安曇川を挟ん で東に比良山地北端と,西に丹波山地東北端が 対峙する山村地域である。標高 500 m から 900 m の山々の間を麻生川,北川,針畑川が渓谷 をなしながら安曇川に合流し,東流して琵琶湖 に注いでいる。 朽木地域は古くから若狭国 (現在の福井県) 小浜市と京都を結ぶ道,俗にいう鯖街道が縦断 し,街道筋として栄えた。この道は現在国道 367 号線として利用されている。 滋賀県唯一の村として存在していた朽木地域 であるが,平成 17 年 1 月 1 日をもって旧高島 郡内 6 町村が合併し,高島市として新しい出発 をしている。森林が 9 割以上を占めるこの地域 では,かつては林業がたいへん盛んに行われて おり,「朽木の杣」と呼ばれ,京都への木材の 供給地でもあった。このように朽木地域は豊か な森林資源や自然に恵まれている。前述の豊富 な森林資源を活かして生計を立てる家庭も多く 見られたが,木材価格の低迷,林業経営コスト の増加,円高などによる外材輸入の増加などに より林業を営む戸数は減少した。その結果人口 は減少の一路を辿り,現在市内の中でも顕著に 少子高齢化が進行している地域である。朽木地 域の過疎化が進行する一方で毎週日曜日に開催 される日曜朝市や春の桜,緑が映える夏の山々, 秋の紅葉,雪化粧した冬の山々など,風光明媚 な四季折々の景色を求めて多くの観光客が訪れ る。 第 2 節朽木地区小学校の変遷 1945 (昭和 20) 年の終戦を契機に,教育の 戦時体制が解除されると,1947 (昭和 22) 年 に学校教育法が制定され,6・3・3・4 制の新 学制が発足する。朽木地区においても,朽木東 国民学校は朽木東小学校,朽木西国民学校は朽 木西小学校となり,それぞれの小学校に新制中 学校が併設される。 東小学校区では,昭和 30 年代に入り,複式・ 複々式学級の解消と,本校・分校の統合による 学校経営近代化の気運の高まりの中で,1955 (昭和 30) 年,柏の分校が東小学校本校に統合 され,1960 (昭和 35) 年には荒川・麻生・地 子原・栃生・村井の各分校も,本校に統合され ることになる。1961 (昭和 36) 年,長年の夢 であった朽木東小学校統合校舎が完成した。 1967 (昭和 42) 年に雲洞谷の分校が本校に統 合され,木地山のろくろ分校は 1975 (昭和 50) 年に休校の後,1978 (昭和 53) 年 3 月に廃校 となった。 西小学校区では,1955 (昭和 30) 年に木造 2 階建ての本校校舎が中牧に建築され,能家分校 と,1963 (昭和 38) 年に新築された平良分校 で分校教育が進められた。1983 (昭和 58) 年 には本校の新校舎が同じ敷地内に新築されたが, 1985 (昭和 60) 年から休校中であった能家分 校が 1994 (平成 6) 年 3 月に廃校となり,1997 (平成 9) 年 3 月からは平良分校が休校になっ ている(1)。 また,現在の朽木東小学校の特徴としては, 学区が広いため児童の半数以上がバス通学で登 下校している。また,在籍する児童は 81 名 (平成 25 年) であり,開校以来初めて 100 人を 下回った平成 24 年度に引き続き,2 年連続で 100 人を下回った。少子高齢化の影響から今後 も児童数は減少し続けることが予想されており, 平成 26 年度には 70 名を下回る見通しである。 このように,周囲を自然に囲まれた田舎の小 規模校であるが,児童は明るく素直で,優しい 気質である。 また,学校の行事に地域の住民を招いたり, 地域の行事に児童が参加したりと,地域に根ざ した教育活動が多く展開されており,地域との 結びつきが強く,地域の教育力が高い(2)。
第 2 章 清川貞冶の生い立ち 第 1 節幼少期 清川氏は 1932 (昭和 7) 年,3 人姉弟の末っ 子,次男として朽木地域で生まれる(3)。両親は 農林業で生計を立てており,山仕事や稲作,畑 仕事を休みなくこなしていた。父親はさらに村 会議員を 3 期務めあげ,村の政治に関わってい た。清川氏も幼少期から杉起こし,炭焼き,麦 や綿の生産,蚕の飼育,草鞋づくり,縄縫い, 鶏や猫の世話など家庭内での多くの手伝いを任 されていた。当時から日常生活における様々な 事柄に対して疑問や問題意識をもつことが多く あり,5 歳の時に両親と訪れた竹生島では島内 に茶葉が 50 銭で販売されており,清川氏の家 の周りで多く収穫できる茶が値段を付けられた 状態で人々が買っていく様子に疑問をもってい たことを懐かしそうに振り返る。 第 2 節児童期 6 歳になり,入学した朽木東小学校地子原分 校では 60 名程の児童に対してたった 1 人の教 師が受け持っており,学年別での学習は行って いたものの現代のような少数精鋭で連続性のあ る学習はできなかったと語る。6 学年が 1 つの 大きな教室に集まり,1 つの学年が 1 つの作業 を行っているときに違う学年の勉強を教え作業 の指示を出すといったサイクルでそれぞれの学 年に授業を行っていた。また,教師の指示によ り高学年が低学年の勉強をみることも多くあっ た。また,分校の児童が月に 1 回本校に集い, 地域の子どもが一斉に揃う日があった。朽木東 小学校を卒業するまでの 12 年間は故郷の朽木 地域で過ごし,周囲の自然と関わりながら活発 な毎日を過ごした。 小学校での科目は国語,算数,理科,習字, 音楽,お話会 (道徳) などがあった。音楽では 主に正月の歌や卒業式の歌など,それぞれの行 事に合わせて練習を行っていた。担任の教師は 家から勤務先が離れていたため月曜日に分校に 出勤し,平日は分校周辺の家で泊まり,金曜日 に安曇川にある実家へ帰る生活を繰り返してい た。 当時の生活は現代に暮らす我々が想像できな いような生活であったと語り,現代のように風 呂が全ての家になく,風呂を持っている家庭は 10 軒中 2,3 軒程であった。そのため,風呂を 持っている家庭の子どもが当番で風呂沸かしを 担当していた。また,子どもは自分の家だけで なく近所の家に手伝いをしに行くことがあり, 主に肉体労働を任されていた。家庭で食べる 3 食と手伝い先で報酬として与えられる食事を合 わせると,1 日 5 食食べた日もあったと振り返 る。兄弟げんかをすることはほとんどなかった が,同年代とけんかをすることは日常茶飯事で あった。日々の楽しみとしては,朽木地域内市 場地区で行われていた漫才や牛の市,映画を見 図 1 戦後における小・中学校の変遷 (『朽木村史』により作成)
に行くことなどがあった。 第 3 節青年期 小学校を卒業する 1945 (昭和 20) 年,滋賀 県立今津中学校に入学するために朽木地域を離 れ,今津町にある今津中学校の寄宿舎で親元を 離れ生活をすることになる。当時の日本は戦時 中であり,学校でのカリキュラムは国語や漢文, 英語,化学,体育などの教科の他に週に 3〜4 時間程度教練の授業があり,兵隊を育てるため の訓練に力を入れていた時代である。清川氏も 中学校では教練の授業が一番印象的であったと 振り返る。男子は槍で藁人形を突き刺す練習, 女子は竹刀で剣道の練習を行い,男女共同の内 容ではほふく運動,跳び箱,駆け足など号令に 従って動く練習を行っていた。中学校の運動場 は一面さつまいも畑となり,戦争へ出向く兵隊 や地域に暮らす人々の食糧を育てることも生徒 の大切な仕事であった。 清川氏が中学校 1 年生の時には日本が敗戦を 喫し,敗戦後は教科教育の他に戦争の後片付け 作業を行っていた。中学校時代はスキー部に所 属し,毎日肉体を鍛えていた。中学校卒業後, 1948 (昭和 23) 年には同じ今津地域にある滋 賀県立高島高等学校へと進学する。清川氏が高 等学校に入学するころ日本は復興に向けて歩ん でいた時代である。高等学校でも通常の教科教 育の他に奉仕活動が行われており,清川氏は高 校時代の一番の思い出として振り返る。1 年の 中の 260 日ほどある登校日のうち,90 日ほど は奉仕活動として校外で様々な活動を行ってい た。活動内容としては,戦争で荒れ果てた田の 修復や内湖の埋め立てといった農工業の援助が 主であり,1 日を通して活動する日もあれば放 課後に活動する日もあった。また,高等学校で の 3 年間では勉学の他にも生徒会の総務委員長 といった重役を歴任し,全校生徒の代表として 学園祭などの行事を取り仕切っていたほか,部 活動はスキー部に所属し,晴れの日には毎日 1 万メートルの走り込みを欠かさず,雨の日には 室内での筋力トレーニングにより体力を高め, 冬のノルディックスキーの滋賀県大会では 2 位 という快挙を成し遂げている。 第 3 章 清川貞冶の版画教育 第 1 節版画との出会い 清川氏は 1951 (昭和 26) 年,高等学校卒業 後すぐに大津市内の葛川小学校へ代用教員とし て赴任する(4)。代用教員になるためには面接試 験が課され,合格する必要があった。高等学校 在学時に将来の進路を考えた際に,清川氏は僧 侶,警察官,教師という 3 つの職業を選択肢と して考えていたが,姉の夫が小学校の教諭をし ていたこと,当時から教育に対して大きな関心 を抱いており,子どもの教育を自分の故郷で一 緒に実践したいという思いから教師になる道を 選択した。初任の 1 年間は 6 年生の担任を任さ れ,戦争も終わり子どもたちとの関係をしっか りと築くという教育観のもとで日々研鑽を行っ ていた。葛川小学校では本校,分校をあわせて 計 7 年間勤務し,その間に大学の通信教育を利 用し助教諭の免許状を取得する。通信教育には 心理学などの科目があり,自分の実績を報告す るレポート形式のテストを提出した後に,直接 大学へ登校して受講する認定講習があり,最後 に課されるペーパーテストに合格するする必要 があった。 1958 (昭和 33) 年には清川氏の出身地であ る朽木地区にある朽木東小学校本校に転任し当 時図工主任であった馬場義夫氏と出会う。馬場 氏に出会うまでの清川氏は主に走りや体操と いった体育系の教育に力を入れていたが,馬場 氏との出会いがきっかけとなり清川氏の版画教 育に興味を持ち始める。 第 2 節ろくろ分校での版画教育 本校で数年間,雲洞谷分校で数年間教鞭を とった後,朽木地域の北西部の木地山地区にあ るろくろ分校へ転任する。木地山地区は轆轤を 使い木製の椀や盆をつくる木地師の里である。 この時に木地師の研究を行っていた教頭の橋本 鉄男氏と出会う。民俗学を専門にしていた橋本 氏から清川氏は木地師や木地山の里について多 くの話を聞いた。橋本氏からヒントを得て,清 川氏はその土地にはその土地の風土や歴史があ り,土地の特性をいかした教育で何かできるこ
とはないかと考えた。当時たった 12 名しか児 童がいないろくろ分校で子どもたちに地域の良 さを再発見する教育行う際に版画を通して実践 したのである。 1964 (昭和 39) 年には朽木東小学校本校が 第 12 回全国小・中学校教育版画コンクールに て学校賞を受賞し,翌年 1965 (昭和 40) 年に は NHK 図画コンクール学校奨励賞を受け,朽 木の子どもの詩と版画が NHK テレビに放映さ れるなど,版画教育で頭角をあらわす学校とし て注目されるようになる。1970 年 (昭和 45) 年には清川氏が中心となりろくろ分校でも版画 指導が始まる。本校での版画教育を基に,児童 に版画を制作させる際に清川氏が考えたことが, 敬老の日などの一年の中の特別な日に地域のお 年寄りを招いて昔話をしてもらい,お年寄りの 話をもとに昔の生活の様相,伝承,歴史を探り, 文章を作り,連作民話の版画を集団制作すると いったことであった。版画を通して周囲の美し い山や川,自分の土地の良さを見つめ直し,郷 土愛を育む教育が実践されていたのである。ま た,朽木地域に暮らす子どもは山々の奥深い緑 色や川の澄んだ青色,一面に広がる田の茶色は 毎日のように見て目に焼き付いているが,この ような素朴な民情や豊かな朽木の自然を白黒の 美の中に表現させ,情操教育を行ったのである。 版画教育の中で朽木の生活を掘り起こし,子ど もたちに朽木の良さを板を彫ることで学ばせた。 1 年間を通して版画を彫らせ,授業で出来な かった分は宿題にすることで多くの版画を彫ら せた。また,国語科との授業とも関連させて出 来上がった版画に詩を加えることでその土地の 良さ,人々の生活を言葉で表現し,木地山の土 地を知らない人々により深く自分たちの故郷を 知ってもらうような工夫を行った。そこには, 清川氏の通り一遍の教育で満足せず,地域から 出発する教育を行うという清川氏の強い教育観 が表れている。決して煌びやかなことを求めず, 泥臭い人間の生活圏をありのままに描き,子ど もたちに木地師の里の出身であることに誇りを 持たせた。また,その土地に合った教育を実践 していれば,いつか根になり幹となり,誰かが 共感してくれるという信念があり,分校に通う 児童をどうにかして木地師の子どもにしたい, 木地山の土地を守る子どもに育てたいという清 川氏の思いが伺える。 連作民話の版画集は 1970 (昭和 45) 年の木 地師の生活をとらえた「木地師物語」(12 枚構 成),1971 (昭和 46) 年の木地師の宮座を舞台 にした「ろくろ権現」(11 枚構成),1972 (昭 和 47) 年の谷の中での思い出を描いた「三百 谷物語」(8 枚構成),1973 (昭和 48) 年の一人 の木地師が木に挟まれて死んでいった物語を描 い て い る「櫻 岩 の 物 語」(10 枚 構 成),1975 (昭和 50) 年の谷に住む天狗にまつわる物語を 描いた「南谷の天狗」(7 枚構成) と,中高学 年の児童を中心に版画を彫り進めていき,1977 (昭和 52) 年にはこれらの物語や児童の様子な どを一冊の本にまとめた「版画の里 ろくろっ 子」を自費出版するまでに至った。この本が全 国で反響を呼び,1981 (昭和 58) 年には小学 館から「版画集 ろくろっ子」が販売され, 10000 冊が発行された(5)。 この版画教育の中で清川氏が最も大切にして いたことが,過疎化が進む朽木地域で地域を守 る子どもたちを教育することである。そこで清 川氏は,日本有数の木地師の里である木地山と いう土地の特徴を活かし,子どもたちへの郷土 教育を木地師の仕事から学ばせたのである。ま た,版画教育を行う際に児童と共に全国 1 位に なるという目標を掲げ,目標に向かって日々熱 心な教育を行い子どもたちとがむしゃらに奮闘 した結果,全国 1 位の称号を手にしたとき,清 川氏の長年の夢が叶い,子どもたちにやればで きるということ身をもって学ばせた経験になっ たのである。 第 3 節清川貞治の版画教育のこだわり 清川氏は,児童に版画を指導する際にこだ わっていたことがある。朽木の土地は田,畑, 山,川など多くの自然の中で人々が生活を送っ ている。その中には子どもにしかできない生活, 遊びがある。清川氏は毎日子どもと関わる中で 子どもの目線に立って物事を考えることを大切 にした。子どもたちと過ごす中で,子どもたち の発見や気付きを大切にし,子どもに「お父さ ん,お母さんはどんな仕事してるん? お父さ ん,お母さんの仕事で面白いと思ったことを絵
に描いてきてみ?」といったように子どもたち が普段の生活でよく目にする光景をいつもと 違った視点,角度から見させることを大切にし た。そのためには,子どもたちとの関係をしっ かりと築く必要があり,清川氏は毎日の子ども たちとの関わる中で子どもの考えていることを 理解すること,子どもの背景を理解することに 努めた。 当時の版画の授業の実践記録をみると,以下 のような清川氏が大切にしていたいくつかの点 が伺える。 〈低学年の授業実践から〉 “版画をつくる” ということは,版造形に よって子どもの内容にあるものを表現すること であるが,このような山村の子どもは,日々に 変化が少なく,毎日の生活を惰性的に過ごすこ とが多い。生活経験が意識化されなければ引き 出しようがない。 そこで毎日機械的に描く絵日記にならないよ う。暮らしの中で,はっと感じた時のことを捉 えて,学校でも家庭でも自由な時に描くことを 続けてきた。また同一経験のなかでのことを学 校で一斉に描くときもある。そんな場合は〝遠 足〟のような広い範囲の中から一つのことや, ひとりの人物だけに絞って印象を単的に表現す るよう指導して,その時のことを意識につなぎ とめ常に生き生きとした目でものやことを見る 子どもであってほしいと思う(6)。 清川氏は,子どもの生活経験を大切にし,毎 日の生活の中でふと気づいたことを大切にさせ, その情景を版画で表現させることで一日一日の 学校での生活,家庭での生活を大切にする心情 を育んでほしいという思いが込められているこ とがわかる。 〈中学年の授業実践から〉 造形教育において導入が大切であり,またそ れ以前が更に大切であると考えるとき,こうし た子どもたちの生活意識を高め,内面性をほり おこし表現を豊かにし,より造形活動をさせる ためにスケッチブックの指導をしている(7)。 このことから,子どもたちはスケッチブック を携帯していることがわかる。スケッチブック には,家で起こったこと,家で飼っている動物, 友達とのこと,車や機械のこと,学校の行事の ことなど,『これは』と心に感じたことや『こ うしたいなあ』『こんなことはいいだろうなあ』 などと思ったことをその都度スケッチブックに 描かせている。これが図工の時間に版画になっ て,さりげない生活経験を捉えた感性豊かな作 品に仕上がるよう工夫されている。 〈高学年の授業実践から〉 一刀一刀がまた板をなでる左手が厳しい反省 や喜びを持っているので総括的な反省は大して 必要ない。反省する場合,その題材はどうだっ た,その表現のうではどうかを考えるとよい(8)。 ここから,清川氏の版画教育の最大の特徴は, 子どもの題材の選ばせ方であると考えることが できる。彫りの深さや線の出し方,彫刻刀の選 択や白黒の割合など,版画を仕上げる際の技術 的な側面もさることながら,題材の設定に重き を置いている。中学年同様,スケッチブックを 最大限に活用し,日々の生活に中でのさりげな い一瞬をしっかりと捉えさせ,一人ひとりの個 性が作品ににじみ出る,独創性のある作品に仕 上がるような指導がなされている。 第 4 節朽木東小学校における版画教育の歴 史 (朽木東小学校本校) 1963 (昭和 38) 年度に県図工科 (版画) の 教育研究指定を受けると,「地域性を生かした 版画の指導をどう進めたらよいか」をテーマに して授業研究をおし進める。1964 (昭和 39) 年度には第 12 回全国小・中学校教育版画コン クールで学校賞を受賞,翌年度の 1965 (昭和 40) 年度も全国教育版画コンクール準学校賞, NHK 図画コンクール学校奨励賞を受賞するな ど,2 年連続で全国的な賞を受賞し,朽木東小 学校の名を全国にとどろかせる。1966 (昭和 41) 年度には新版種を開拓し,石膏版画及び板 紙凸版の研究をはじめる。1967 (昭和 42) 年 度は高島郡図工研究会を持ち指導を受け研究を 深め,1968 (昭和 43) 年度には郡図工科研究 会で朽木東小学校の作品を主体にした研究会を 持つ。1969 (昭和 22) 年度からは 4 年連続で は日本教育版画コンクールで賞を受賞し,1972 (昭和 47) 年度には「朽木の版画」10 周年記念 版画集を計画し,翌年度 1973 (昭和 48) 年 11 月 1 日に発行している(9)。
また,当時の授業の特徴としては,児童の生 活体験,日々の生活の中で感じる感動体験を大 切にしている点が挙げられる。子どもたちは 日々大人が気づかないような風景を見ており, 大人がしないような発想,遊びを生活の中で 行っている。子どもにとっては遊ぶことも生活 の中で大切な仕事であり,日々創造的に生活し ている。このような子ども独自の視点,感情, 生活圏を白黒の 2 色を使って表現させてい る(10)。 第 5 節清川貞冶氏が考える教育と版画のつ ながり 本稿で取り上げた朽木地域は山奥にある僻地 である。鯖街道という地域を南北に走る大動脈 が走っているものの,最寄りの鉄道の駅に出る には地域の中心地から車でおよそ 20 分,さら に奥の地域では 1 時間ほどかかる地域である。 このような決して便利とは言えない土地で生ま れ育った子どもたちの大多数は高校卒業後の大 学や専門学校入学の際に地域を離れる。その後, 就職先として U ターンで戻ってくる者もいる が,そのまま学校のあった地域に就職しその土 地に根付くことが多い。 清川氏が朽木地域で教育者として活躍してい たころは現在と比べて総人口も子どもの数も多 い。しかしながら,都市の開発が進む当時の世 の中で朽木地域も徐々に人口が減少し,現在の ように極端に少子高齢化が進行することが予想 されていた。そこで清川氏が大切にしていたこ とが郷土を知り,郷土を愛する子どもを育てる ことである。どこの土地にもその土地の特徴 (土地柄) があり,文化や歴史はそこが出発点 であることもある。清川氏は,版画教育を通し てその土地のその土地にある良さを引き出した 教育を実践したのである。 また,清川氏は今の教師に求めることとして, 教師間で協力して伝統や文化を子どもを通して 教え育てることや教師自身が納得して,責任を もって子どもたちを教育することが大切だと話 す。 第 4 章 清川貞冶の版画教育の継承 清川氏から図工教育に関して影響を受けた人 物の一人として日花滋子氏がいる。日花氏は昭 和 44 年に入学した佛教大学で中学校の社会, 高等学校の地理歴史,公民,特別支援学校の教 員免許を取得する(11)。1973 (昭和 48) 年に佛 教大学を卒業し,最初の 1 年間は中学校で社会 科の講師をしながら佛教大学の通信教育を利用 して小学校の教員免許を取得した。その年に滋 賀県の小学校教員採用試験に合格し,翌年の昭 和 49 年 4 月からは朽木西小学校の平良分校に 新規採用教員として赴任する。この時に朽木東 小学校のろくろ分校で清川氏が教鞭をとってお り,清川氏と日花氏が初めて出会うこととなる。 日花氏は幼少期から美術に関して興味関心は あったものの大学では社会科や特別支援教育を 専門に勉強していた。そこで日花氏は武蔵野美 術大学の通信教育で美術関連の授業を履修し, 美術や美術教育に関連する知識を深めていく。 また,当時清川氏が地域に勤務する若い教師を 対象に美術教室を開催し,日花氏もよく通って いた。日花氏は朽木西小学校平良分校で 2 年間 勤務したが,この間に図工教育に大きな関心を 持つようになる。朽木西小学校平良分校に 2 年 勤務した後は安曇小学校に 2 年間,大津市の阪 本小学校に 2 年間,高島小学校に 9 年間,本庄 小学校に 4 年間,新旭南小学校に 8 年間,今津 東小学校に 7 年間,青柳小学校に 4 年と教員生 活のほとんどを高島市内の小学校で勤務した。 その間児童への図工教育に尽力し,高島市の図 工教育を支える 1 人として大きな役割を担って いた。 もともと美術に関して関心を持っていた日花 氏であったかが,その才能を刺激し,児童への 図工教育に力を入れるきっかけとなった人物が 清川氏である。清川氏の生活に密着した題材を 児童に選ばせ,子どもたちを主体にする授業ス タイルを最初に赴任した朽木西小学校平良分校 に勤務していた時に学んだ。その後,朽木を離 れてからも児童への図工教育に尽力し,教師主 導で何か 1 つの事を児童にさせるのではなく, 児童主導で子どもたちがやりたい事 (題材選び
から制作まで) をさせるという授業スタイルを 確立した。 お わ り に 科学技術の進歩により,日常のあらゆること が便利になった現代。あらゆる作業が機械化さ れ,多くのデータがコンピュータで管理される 時代である。学校教育の場でも,児童生徒にコ ンピュータを使った授業が多く実践され,あら ゆる資料,データがコンピュータによって管理 されている。 一方で,清川氏が朽木東小学校で活躍してい た頃は,現代のような便利な世の中ではなかっ た。清川氏からのインタビューのなかでも当時 の生活の様子を伺うことができた。 清川氏が行った版画教育は,朽木という土地 で暮らす子どもたちが体験する特有の感動体験 を版画で表現させ,また,一枚一枚の版画に子 どもたちの言葉を加えることによって実践され ている。都会で暮らす子どもたちにはわからな い,田舎で暮らす子どもたちだからこそ知って いる風景を白黒の美で表現させている。そこに は,自分の生まれた地域を大切にし,地域を愛 する子どもに育ってほしい,将来その地域から 出ることがあっても故郷を決して忘れず,朽木 という土地に生まれたこと,朽木という土地で 育ったことに誇りを持って欲しいという清川氏 の強い思いが感じられた。 清川氏は現在,日本教育版画協会委員,日本 子どもの版画全国代表委員,滋賀子どもの版画 運営委員,青少年健全育成県副会長,近畿へき 地部代表委員といった重役を兼任し,版画教育 やへき地教育の発展に尽力している。 今後,このような版画教育の歴史を後世に引 き継ぎ,子どもたちの表現力・創造力を高め, へき地での教育をさらに盛り上げていくことが 我々若い世代の責務であろう。 注 ( 1 ) 『朽木村史 通史編』,高島市,2010 年 2 月 22 日,214 ページ ( 2 )「朽木東小学校 平成 25 年度 総合的な学習 の時間 (オグラスタイム) 年間指導計画」 ( 3 ) 2013 年 11 月,12 月に 4 回にわたって行った 筆者の聞き取り調査による。以下,ことわり のない限り同様 ( 4 ) 2013 年 11 月,12 月に 4 回にわたって行った 筆者の聞き取り調査による。以下,ことわり のない限り同様 ( 5 )『朽木村史 通史編』,高島市,2010 年 2 月 22 日,218 ページ ( 6 ) 清川貞冶「版画教育の実践 (低学年)」 ( 7 ) 清川貞冶「版画教育の実践 (中学年)」 ( 8 ) 清川貞冶「版画教育の実践 (高学年)」 ( 9 ) 『くつき 滋賀県高島郡朽木村立朽木東小学校 10 周年記念版画集』,朽木東小学校,1973 年 11 月 1 日,3〜44 ページ (10) 注 (6) (7) (8) に同じ。 (11) 2013 年 12 月に行った筆者の聞き取り調査に よる。以下,ことわりのない限り同様。 参考文献 『朽木村史 通史編』高島市,2010 年 2 月 22 日 『くつき 滋賀県高島郡朽木村立朽木東小学校 10 周年記念版画集』朽木東小学校,1973 年 11 月 1 日 『ろくろっ子』小学館,1981 年 3 月 10 日 『版画の里 ろくろっ子 版画集』朽木東小学校ろ くろ分校,1977 年 3 月 1 日 『つくりびと』国民みらい出版,2013 年 1 月 「近畿へき地研究協議会 OB 会報」第 32 号,近畿 へき地研究協議会,2013 年 10 月 31 日 『高島郡小学校校長会資料』2003 年 7 月 10 日