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文学教材の研究──紫式部『源氏物語』「若紫」の言語表現──

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はじめに

  国際化社会への参入と情報化社会への適応から、昨今の国語科 教 育 に お い て は、 「 話 す こ と 」「 聞 く こ と 」「 書 く こ と 」 が 重 視 さ れている。しかし、こうした国際化社会および情報化社会におい て さ ま ざ ま な 伝 達 の 基 本 に な る 言 語 を 習 得 す る に は「 読 む こ と 」 が大切であり、ここに文学教材の力が発揮される意味がある。本 論では、 高等学校古典の文学教材として取り上げられる紫式部 『源 氏物語』 「若紫」の言語表現について考察する。   『源氏物語』は作者紫式部(生没年未詳)が夫藤原宣孝の死後、 道長の娘、 一条天皇の中宮彰子に女房として仕えたときの日記 『紫 式部日記』に藤原公任が「あなかしこ、このわたりにわかむらさ きやさぶらふ」と記述されていることから一〇〇八年一一月一日 ( 敦 成 親 王 誕 生 後 の 祝 儀 の 日 ) に は 成 立 し て い た と さ れ て い る。 紫式部が一人で書いたという説、一気に書いたという説など色々 取 り ざ た さ れ て は い る が、 四 〇 〇 字 原 稿 用 紙 に な お す と 約 二 四 〇 〇 枚 1 、 和 歌 七 九 五 首、 帝 四 代 に わ た る 壮 大 な 長 編 小 説 が 描かれた。   『源氏物語』 五四帖は 「桐壺」 から 「藤裏葉」 までを第一部、 「若 菜 」 か ら「 幻 」 ま で を 第 二 部、 「 匂 宮 三 帖 」 と「 宇 治 十 帖 」 を 第 三 部 と す る 考 え や、 源 氏 を 主 人 公 と し た 正 編( 「 桐 壺 」 ~「 幻 」) と源氏死後の子孫を描いた続編( 「匂宮」~「夢浮橋」 )という二 部構成説がある。与謝野晶子は光源氏の陽の性格をもった 「桐壺」 から「藤裏葉」までを前半とし、源氏と子孫の陰の性格をもった 「 若 菜 」 か ら「 夢 浮 橋 」 ま で を 後 半 と す る 二 分 法 を 提 唱 し た。 文 学 教 材 の 研 究 と し て、 紫 式 部『 源 氏 物 語 』「 若 紫 」 の 言 語 表 現 に ついて考察する。

一、

『源氏物語』の注釈書

  紫式部が書いた『源氏物語』の原本は現存しない。木版による 印 刷 は 仏 典 や 漢 籍 に 限 ら れ て い た こ と か ら、 『 源 氏 物 語 』 は 平 安 中 期 に 著 さ れ て か ら 江 戸 初 期 ま で は 写 本 で 読 ま れ て い た。 『 源 氏 物語』 の写本は本文系統によって 「青表紙本の本文を持つ写本」 「河

文学教材

研究──紫式部

『源氏物語』

「若紫」

言語表現──

 

 

 

九州女子大学人間科学部人間発達学科人間基礎学専攻 北九州市八幡西区自由ケ丘一 - 一(〒八〇七―八五八六) (二〇一七年五月二十六日受付、二〇一七年七月十一日受理)

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184 ――紫式部『源氏物語』「若紫」の言語表現―― (荻原) 内 本 の 本 文 を 持 つ 写 本 」「 別 本 の 本 文 を 持 つ 写 本 」 に 分 類 さ れ て い る。 「 青 表 紙 本 系 」 と は、 藤 原 定 家 が 校 合 し た も の で、 そ の 表 紙が青かったことからこう呼ばれている。 「河内本系」 とは源光行、 親行親子が校合したもので、二人が河内守を経験したことからこ う 呼 ば れ て い る。 「 別 本 」 と は、 「 青 表 紙 本 系 」「 河 内 本 系 」 の ど ち ら で も な い も の で、 従 一 位 麗 子 本、 陽 明 文 庫 本、 東 京 大 学 本、 ハーバード大学本などがある。   ま た、 平 安 時 代 以 降 数 多 く の『 源 氏 物 語 』 注 釈 書 が 書 か れ た。 注釈書のなかでも、特に明治時代以前までのものを古注釈と呼ぶ。 さらに 『源氏釈』 (平安時代末期、 藤原伊行) から 『河海抄』 (一三六〇 年代、 四辻善成)までのものを「古注」 、『花鳥余情』 (一四七二年、 一 条 兼 良 ) か ら『 湖 月 抄 』( 一 六 七 三 年、 北 村 季 吟 ) ま で の も の を「 旧 注 」、 そ れ 以 後 江 戸 時 代 末 ま で の も の を「 新 注 」 と 呼 ん で いる。 『源氏釈』や『奥入』 (一二三三年、藤原定家)といった初 期の注釈書は独立したものではなく写本の本文の末尾に書き付け られていた。   国 語 教 科 書 の 文 学 教 材 と し て、 本 居 宣 長( 一 七 三 〇 ~ 一 八 〇 一 ) 2 の『 源 氏 物 語 玉 の 小 櫛 』( 一 七 九 六 年 ) は 取 り 上 げ られることが多い。     さて、 物語はもののあはれを知るを旨とはしたる に、その 筋 に い た り て は、 儒 仏 の 教 へ に は 背 け る こ と も 多 き ぞ か し。 そは、まづ人の情のものに感ずることには、善悪邪正さまざ まある中に、ことわりに違へることには感ずまじきわざなれ ども、情は我ながら我が心にもまかせぬことありて、おのづ から忍びがたきふしありて、感ずることあるものなり。     源氏の君の上にて言はば、空蝉の君、朧月夜の君、藤壺の 中宮などに心をかけて逢ひ給へるは、儒仏などの道にて言は んには、よに上もなき、いみじき不義悪行なれば、ほかにい かばかりのよきことあらんにも、よき人とは言ひがたかるべ きに、その不義悪行なるよしをば、さしもたてては言はずし て、ただ その間のもののあはれの深き方をかへすがへす書き のべて、源氏の君をば旨とよき人の本として、よきことの限 りをこの君の上に取り集めたる 、これ物語の大旨にして、そ のよきあしきは儒仏などの書の善悪と変はりあるけぢめなり。     さりとて、かのたぐひの不義をよしとするにはあらず。そ のあしきことは今さら言はでもしるく、さるたぐひの罪を論 ずることは、おのづからその方の書どもの世にここらあれば、 もの遠き物語をまつべきにあらず。     物語は、儒仏などのしたたかなる道のやうに、迷ひをはな れて悟りに入るべき法にもあらず。また国をも家をも身をも 治 む べ き 教 へ に も あ ら ず。 た だ 世 の 中 の 物 語 な る が ゆ ゑ に、 さる筋の善悪の論はしばらくさしおきて、さしもかかはらず、 ただもののあはれを知れる方のよきを、とりたててよしとは

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したるなり。     この 心ばへ をものにたとへて言はば、蓮を植ゑてめでんと する人の、濁りてきたなくはあれども、泥水を蓄ふるがごと し。 物語に不義なる恋を書けるも、その濁れる泥をめでてに はあらず、もののあはれの花を咲かせん料ぞかし 。   宣長の『源氏物語玉の小櫛』は物語論であり、一七七六(寛政 八 ) 年 に 成 立 し た。 九 巻 あ り、 総 論、 年 立 て( 年 表 )、 本 文 異 同 の考証、語句の注釈からなる。総論の部分が有名で、 『源氏物語』 は「物のあはれ」の諸相を描いたもので、読者は『源氏物語』を 読むことによって、 「物のあはれ」を知ることができるという「物 の あ は れ 論 」 を 展 開 し て い る。 こ こ で い う「 あ は れ 」 と は、 「 主 として平安時代以後、深くしみじみと心をひかれる感じ、またそ の よ う な 感 じ を お こ さ せ る 状 態 を 表 す 」( 広 辞 苑 第 六 版 ) と い う ように、現代では「悲哀・憐憫」を表すことが多くなっているこ とばである。 「物語はもののあはれを知るを旨とはしたる」には、 『源氏物語玉の小櫛』 が注釈を超えた 「評論」 であることがわかる。 宣長は、紫式部が『源氏物語』を書いた目線にたって、物語の世 界 を 解 読 し て い る こ と が わ か る。 「 そ の 間 の も の の あ は れ の 深 き 方をかへすがへす書きのべて、源氏の君をば旨とよき人の本とし て、よきことの限りをこの君の上に取り集めたる」には、道理に 反しても特に指摘して言及せず、源氏をもっぱら良い人の手本と しているのが物語の本意であることを読み取っている。 「心ばへ」 と は、 作 者 紫 式 部 の 心 の ひ ら め き、 『 源 氏 物 語 』 の 風 情、 物 語 の 意味であり、読者は物語を読むことで、作品の「心ばへ」を理解 す る こ と が で き る と 説 く。 「 物 語 に 不 義 な る 恋 を 書 け る も、 そ の 濁れる泥をめでてにはあらず、もののあはれの花を咲かせん料ぞ かし」とは、儒教や仏教などの道理に反する内容が書かれていて も、物語とは善悪邪正を論じることには縁遠いものであり、人の 感情とは分別ではなく、感動がそのまま声にでるようなものであ る と 論 じ て い る。 宣 長 は 物 語 に 描 か れ た 不 義 は、 「 物 の あ は れ 」 を表現するための材料であると読み解いている。宣長は『源氏物 語 』 に、 紫 式 部 の「 心 ば へ 」 を 発 見 し、 「 も の の あ は れ を 知 る 」 ということが、重要であると評釈するのである。山口志義夫氏は 宣長の「物のあわれ論」に対して次のように述べている 3 。     宣長は『源氏物語』に中に「シナ流の道徳とはまったく違 った価値観があることを見出し、それを論証します。まず彼 は物語の中でいう「よきあしき」が、儒教や仏教で言う「善 悪」とは異なる概念であることを明らかにします。そしてそ の「 よ き 」 と「 あ し き 」 を 分 か つ も の こ そ が「 物 の あ わ れ 」 であると言うのです。     今日『源氏物語』は、世界最古の長編小説として、二十カ 国以上の国の言語に反訳されています。それは言い換えると、

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186 ――紫式部『源氏物語』「若紫」の言語表現―― (荻原) 紫式部が描き本居宣長が読み取った「物のあわれ」が、人類 に共通する価値観であるということかも知れません。   宣長の 『源氏物語玉の御櫛』 は、 勧善懲悪や戒律の議論から 『源 氏物語』を解き放ち、物語の本質について考察した歴史的評論で あり、紫式部が『源氏物語』を書いた視点にたって作品世界に深 く寄り添った物語論なのである。

二、

『源氏物語』の現代語訳

  与 謝 野 晶 子 は 八 歳 頃 か ら 読 書 を 始 め、 一 二 歳 頃 に は 歴 史 文 学、 物語文学に親しみ、 『源氏物語』を一一、 一二歳の頃から素読して いた。   式部自筆本が存在しないことから、晶子は「燦然と千古に光る 東洋文学の巨篇源氏物語の価値は今さら説く必要もない」と述べ ながら「私は源氏物語を前後二人の作者の手になったものと認め ている」 (『新新訳源氏物語』 「あとがき」大正一四年)と主張し、 現代語訳を発表しただけでなく「源氏物語は『帚木』巻から起筆 さ れ、 『 桐 壺 』 巻 は 後 に な っ て 書 き 加 え ら れ た 」 や「 筆 致 の 違 い な ど か ら『 若 菜 』 巻 以 降 は 娘 大 弐 三 位 の 作 品 」( 「 紫 式 部 新 考 」) であると指摘した。   晶子は、 『源氏物語』の現代語訳などを発表しただけではなく、 『 源 氏 物 語 』 や 紫 式 部 に 関 す る さ ま ざ ま な 考 察 を 何 度 か 発 表 し て おり、その集大成ともいえる「紫式部新考」は専門の学者たちに よる学説史的に重要な論文を集めた論文集に収められている。関 礼子氏は「明治の歌人与謝野晶子と王朝の歌人であり物語作家で もある紫式部とのあいだには、さまざまなコンテクスト上の差異 が 横 た わ る が、 同 時 に 歌 や 物 語 と い う コ ー ド に よ っ て 橋 を 架 け、 そ こ か ら さ ら に 出 発 す る こ と も 十 分 可 能 な の で あ る 」 4 と 指 摘 す る。   明治の歌人である晶子は生涯三度にわたって『源氏物語』の現 代語訳に取り組んだ。最初は生家を出奔し、鉄幹と結婚して三年 目の一九〇四年(明治三七)五月から「源氏物語講義」を新詩社 で始めている (翌年八月迄) 。一九〇七年 (明治四〇) 六月から 「閨 秀 文 学 会 」 女 性 唯 一 人 の 講 師 と し て 講 義 し( 同 年 九 月 迄 )、 一九〇九年(明治四二)四月から一年間自宅で毎週二回講義した。 「 源 氏 物 語 講 義 」 は『 新 訳 源 氏 物 語 』 を 手 掛 け る 前 か ら 取 り 組 ま れたものであった。夫婦と交流のあった小林天眠から依頼された 「 源 氏 物 語 講 義 」 の 原 稿 は 一 九 一 〇 年( 明 治 四 三 ) か ら 執 筆 さ れ たが、一九二三年九月に発生した関東大震災により文化学院に置 か れ て い た 原 稿 は 消 失 し て し ま っ た( 「 十 余 年 わ が 書 き た め し 草 稿の跡あるべしや学院の灰」 『瑠璃光』 )。   二 度 目 は 一 九 一 一 年( 明 治 四 四 ) 一 月 金 尾 種 次 郎 の 依 頼 で、 一九一二年(明治四五年)二月から一九一三年(大正二年)一一 月にかけて『新訳源氏物語』上巻、中巻、下巻として金尾文淵堂

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から出版したものである。晶子は 『新訳源氏物語』 を 「自由模写」 と記した。   『新訳源氏物語』は全文の翻訳ではなく抄訳であるとされるが、 巻ごとにその抄訳の程度は異なっており「桐壺」など冒頭巻のい く つ か は 概 ね 原 文 の 半 分 程 度 に 抄 訳 さ れ て い る の に 対 し て、 「 宇 治十帖」の後半の巻では原文より長い訳文になっている。晶子自 身は「従来一般に多く読まれていて、難解の嫌いに少ない桐壺巻 以下数帖までは、その必要を認めないために、特に多少の抄訳を 試みたが、この書の中巻以降は原著を読むことを煩はしがる人々 の た め に 意 を 用 ひ て、 殆 ど 全 訳 の 法 を と っ た の で あ る 」( 同 ) と 述べている。従来の注釈本に敬意を持っていなかった晶子は我流 で書きあげ『湖月抄』に対して暴言を吐いている。和歌に関して は原歌そのままのものや修正したもの、読替歌になっているもの、 散文になっているものなど統一がない。   三度目は一九三八年(昭和一三)一〇月から一九三九年(昭和 一 四 ) 九 月 に『 新 新 訳 源 氏 物 語 』( 第 一 巻 か ら 第 六 巻 ) と し て 金 尾 文 淵 堂 か ら 出 版 し た も の で あ る。 「 あ と が き 」 で 晶 子 は『 新 訳 源氏物語』で序文を書いた森林太郎と上田敏、装丁の中沢弘光を 指して「三先生に対して粗雑な解と訳文をした罪を二十幾年の間 私は恥ぢ続けて来た」と書き「完全なものに書き変へたい」念じ た こ と を 吐 露 し て い る。 『 新 新 訳 源 氏 物 語 』 に 着 手 し た の は 昭 和 七 年 で 三 年 後 の 昭 和 一 〇 年 三 月 に は 鉄 幹 が 他 界 す る( 「 源 氏 を ば 一人となりて後に書く紫女年若くわれは然らず」 )。相前後して中 央公論社からは谷崎潤一郎訳『源氏物語』が出版される。谷崎は 昭和一〇年九月に着手し、昭和一四年一月谷崎訳『源氏物語』第 一 回 配 本 刊 行、 昭 和 一 六 年 七 月 第 一 三 回 配 本 完 結 す る。 そ の 後、 谷崎も『源氏物語』の現代語訳を二回行い、晶子のように計三回 『 源 氏 物 語 』 現 代 語 訳 に 取 り 組 ん で い る。 全 訳 と な っ た『 新 新 訳 源氏物語』は『新訳源氏物語』の華やかさはなくなったが、鉄幹 を喪った晶子が独力で余命をかけた、原文に忠実な訳になってい る。各帖の冒頭に「源氏物語讃歌」の歌が付されている『新新訳 源氏物語』は「晶子源氏」の決定版といえる。   明治時代末に晶子による現代語訳『源氏物語』が出たことによ って、その後さまざまな作家による現代語訳が刊行されることに な る。 現 代 語 訳 が で る こ と に よ っ て、 『 源 氏 物 語 』 の 読 ま れ 方 は 大きく変化した。注釈書を参考にしながら古文で読む 『源氏物語』 から、現代作家によってアレンジされた『源氏物語』は、紫式部 の「心ばへ」から遠く隔たってしまったという感は否めない。   さらに、イギリスの東洋学者アーサー・ウェイリー(一八八九 ~ 一 九 六 六 ) は、 一 九 二 一 年 ~ 一 九 三 三 年 に 六 巻 に 分 け て 英 訳 『 The Tale of Genji 』 を 出 版 し た。 ウ ェ イ リ ー 訳『 The Tale of Genji 』 が イ タ リ ア 語、 ド イ ツ 語、 フ ラ ン ス 語 な ど に 重 訳 さ れ た こ と に よ っ て、 『 源 氏 物 語 』 は 世 界 に お け る 日 本 語 文 学 と し て 広 まった。

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188 ――紫式部『源氏物語』「若紫」の言語表現―― (荻原)

三、

『源氏物語』

「若紫」の言語表現

  『源氏物語』 「若紫」には次のような箇所がある。国語教科書で 文学教材として採録されることの多い場面である。     日もいと長きにつれづれなれば、夕暮れのいたう霞みたる にまぎれて、かの小柴垣のもとに立ち出で給ふ。人々は帰し 給ひて、惟光朝臣とのぞき給へば、ただこの西面にしも、 持 仏 す ゑ 奉 り て 行 ふ 尼 な り け り 。 簾 少 し 上 げ て、 花 奉 る め り 。 中の柱に寄りゐて、脇息の上に経を置きて、いとなやましげ に読みゐたる尼君、 ただ人と見えず 。四十余ばかりにて、い と白うあてに痩せたれど、つらつきふくらかに、まみのほど 、 髪のうつくしげにそがれたる末も、なかなか長きよりもこよ なう今めかしきものかなと、あはれに見給ふ。     清げなる大人二人ばかり、さては童べぞ出で入り遊ぶ。中 に、十ばかりにやあらむと見えて、白き衣、山吹などの、な えたる着て走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべ うもあらず、いみじく生ひ先見えてうつくしげな る容貌なり。 髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くす りなして立てり。     「何ごとぞや。童べと腹立ち 給へるか。 」とて、尼君の見上 げたるに、少しおぼえたるところあれば、子なめりと見給ふ 。 「 雀 の 子 を 犬 君 が 逃 が し つ る、 伏 籠 の う ち に 籠 め た り つ る も のを。 」 とて、いと口惜しと思へり。このゐたる大人、 「例の、 心なしの、かかるわざをしてさいなまるるこそ、いと心づき なけれ。いづ方へかまかりぬる。いとをかしう、やうやうな り つ る も の を。 烏 な ど も こ そ 見 つ く れ。 」 と て 立 ち て 行 く。 髪ゆるるかにいと長く、めやすき人なめり。少納言の乳母と ぞ人言ふめるは、この子の後ろ見なるべし。     尼 君、 「 い で、 あ な 幼 や。 言 ふ か ひ な う も の し 給 ふ か な。 お の が か く 今 日 明 日 に お ぼ ゆ る 命 を ば、 何 と も 思 し た ら で、 雀慕ひ給ふほど よ。 罪得ることぞと常に聞こゆるを、 心憂く。 」 とて、 「こちや。 」と言へばついゐたり。     つらつきいとらうた げにて、眉のわたりうちけぶり 、いは けなくかいやりたる額つき、髪ざし、いみじううつくし。 ね びゆかむさまゆかしき人かなと、目とまり給ふ。さるは、限 りなう心を尽くしきこゆる人に、いとよう似奉れるが、まも らるるなりけりと思ふにも、涙ぞ落つる 。     尼君、 髪をかき撫でつつ、 「けづることをうるさがり給へど、 をかしの御髪や。いとはかなうものし給ふこそ、あはれにう しろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるも のを。故姫君は、十ばかりにて殿に後れ給ひしほど、いみじ うものは思ひ知り給へりぞかし。ただ今おのれ見捨て奉らば、 い か で 世 に お は せ む と す ら む。 」 と て、 い み じ く 泣 く を 見 給 ふ も、 す ず ろ に 悲 し。 幼 心 地 に も、 さ す が に う ち ま も り て、

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伏し目になりてうつぶしたるに、こぼれかかりたる髪、つや つやとめでたう見ゆ。     生い立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えむそら なき    またゐたる大人、 「げに。 」とうち泣きて、     初草の生ひゆく末も知らぬ間にいかでか露の消えむとすら む    と 聞 こ ゆ る ほ ど に、 僧 都 あ な た よ り 来 て、 「 こ な た は あ ら は にや侍らむ。今日しも端におはしましけるかな。この上の聖 の方に、源氏の中将の、瘧病みまじなひにものし給ひけるを、 ただ今なむ聞きつけ侍る。いみじう忍び給ひければ、知り侍 ら で、 こ こ に 侍 り な が ら、 御 と ぶ ら ひ に も 参 で ざ り け る。 」 と の た ま へ ば、 「 あ な い み じ や。 い と あ や し き さ ま を、 人 や 見つらむ。 」とて簾を下ろしつ。 「この世にののしり給ふ光源 氏、かかるついでに見奉り給はむや。世を捨てたる法師の心 地にも、いみじう世の愁へ忘れ、齢伸ぶる人の御ありさまな り。いで御消息聞こえむ。 」とて立つ音すれば、帰り給ひぬ。     あはれなる人を見つるかな。かかれば、このすき者どもは、 かかる歩きをのみして、よくさるまじき人をも見つくるなり けり。たまさかに立ち出づるだに、かく思ひのほかなること を見よと、をかしう思す。さても、いとうつくしかりつる児 かな、何人ならむ、かの人の御代はりに、明け暮れの慰めに も見ばや、と思ふ心深うつきぬ。   こ こ で は、 『 源 氏 物 語 』 の 言 語 表 現 が 持 ち 得 る 紫 式 部 の「 文 体 と表現」を中心に分析する。   「 持 仏 す ゑ 奉 り て 行 ふ 尼 な り け り。 」「 簾 少 し 上 げ て、 花 奉 る め り。 」「ただ人と見えず。 」は、源氏の視線による表現で、 「あはれ に 見 給 ふ。 」 は 物 語 の 語 り 手 の 視 線 に よ る 表 現 で あ る。 さ ま ざ ま な視線から表現することで、源氏の垣間見が多角的に描かれ、作 品の奥行きができる。   「 何 ご と ぞ や。 童 べ と 腹 立 ち 給 へ る か。 」「 雀 の 子 を 犬 君 が 逃 が し つ る、 伏 籠 の う ち に 籠 め た り つ る も の を。 」「 例 の、 心 な し の、 かかるわざをしてさいなまるるこそ、いと心づきなけれ。いづ方 へかまかりぬる。いとをかしう、やうやうなりつるものを。烏な ど も こ そ 見 つ く れ。 」 の 会 話 は、 尼 君、 若 紫、 女 房 と い う 三 人 の 会話が並ぶが、登場人物が順番に特定されるように表現されてい るので、会話が理解できるように工夫されている。   渡辺久寿氏は、文学の表現が持ち得る「芸」を分析するという 観点から「絵合」巻の表現について「源氏物語が物語の深遠と潜 在能力の凄みを教えられた根本的な仕組みや方法が幾重にも重な っ て 織 り 込 め ら れ て い る の で あ る 5 」と指摘しているように、 「若紫」 巻にある 「つらつきいとらうたげにて、 眉のわたりうちけぶり」 は、 人のこころの感じることの重層性を浮き上がらせ芸立つ表現であ

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190 ――紫式部『源氏物語』「若紫」の言語表現―― (荻原) る 6 。   「 ね び ゆ か む さ ま ゆ か し き 人 か な と、 目 と ま り 給 ふ。 さ る は、 限りなう心を尽くしきこゆる人に、いとよう似奉れるが、まもら るるなりけりと思ふにも、涙ぞ落つる」は、順序として女子の顔 つきが美しいという表現があり、その後で源氏がその女子に惹き つけられたのは、容貌が美しいからではなく、藤壺に面影が似て いたから自然と視線が女子に惹きつけられたという深層の理由が 明かされる。さらに、感極まって涙まで流すという源氏の心中の 表現は見事である。   「 あ は れ な る 人 を 見 つ る か な。 か か れ ば、 こ の す き 者 ど も は、 かかる歩きをのみして、よくさるまじき人をも見つくるなりけり。 た ま さ か に 立 ち 出 づ る だ に、 か く 思 ひ の ほ か な る こ と を 見 よ と、 をかしう思す。さても、いとうつくしかりつる児かな、何人なら む、かの人の御代はりに、明け暮れの慰めにも見ばや、と思ふ心 深うつきぬ。 」という表現は、ともに源氏の心中の吐露であるが、 前半では、好色な連中が隠れ歩きばかりして想定外の美しい女を 見つけることを軽薄に思うが、後半では、この女子には浮ついた 関心ではなく、藤壺の形代として得たいと真剣に願う様子が対照 的に描かれている。   紫式部は、視点を変えて多角的に表現することで源氏の行為に 奥行きを与え、会話文をテンポよく挿入することで臨場感をだし、 行為の順番を工夫することで源氏の自発的な気持ちを自然に表現 し、心中の思いを反転させることで源氏の藤壺への恋慕の情が女 子を形代にしたいという願望に変わる様を表現することに成功し ている。

おわりに

      生 徒 の 古 典 指 導 で 重 要 な こ と は、 「 古 典 に 親 し ま せ る 」 7 工 夫 をすることである。文部科学省は「古典の指導については、我が 国の言語文化を享受し継承・発展させるため、生涯にわたって古 典に親しむ態度を育成する指導を重視する」 (『中学校学習指導要 領解説―国語編―』二〇〇八年七月)と述べ、二〇一五年一部改 正の「伝統的な言語文化に関する事項」においても「古典の世界 に触れる」 (一年) 「古典の世界を楽しむ」 (二年) 「「古典を読み、 そ の 世 界 に 親 し む 」( 三 年 ) を 挙 げ て い る。 「 古 典 は お も し ろ い 」 と生徒に興味を持たせるには、 原文を読ませる学習を中心に、 「古 典に慣れ親しむ」ことが重要である。阿部俊一氏は「読むという 行為は、表現を通して書き手の思考や心情に迫るとともに、それ をふまえて読み手としての立場から人間、社会、自然などについ て 考 え、 自 分 の 意 見 を も つ に 至 る こ と が 大 切 で あ ろ う 」 8 と 指 摘 し、古典学習に期待を寄せている。古典の魅力を生徒に感じ取ら せるような授業展開が必要とされる。古典の言語表現が、現代の わたしたちの言語生活とどのようにつながっているのかを、生徒 一人ひとりが実感できるような文学教材を取り上げることが大切

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で あ る。 紫 式 部『 源 氏 物 語 』「 若 紫 」 の 言 語 表 現 に は、 複 雑 な 現 代社会にも当てはまる豊潤な表現があることから、古典の文学教 材として最適であると考える。古典の魅力とは、時間的な異文化 と向き合うことであり、そのなかに時を超えて迫りくる普遍的な 共感を味わえることにある。 *紫式部 『源氏物語』 の本文は 『新編日本古典文学全集』 (小学館) に、 本居宣長『源氏物語玉の小櫛』の本文は『日本古典文学大系』 (岩波書店)に拠った。 註 1   伊藤鉄也『源氏物語本文研究』おうふう、二〇〇二年一一月、 一九頁。 2   本居宣長は、伊勢松阪(現在の三重県松阪市)の商家に生ま れ、医者として生活しながら、外国文化の影響を受ける以前 の日本人の言葉や考え方について研究し、一七六三年三五歳 のときに書いた『紫文要領』を改訂し、全九巻からなる『源 氏物語玉の御櫛』を六七歳で書き上げ一七九九年刊行した。 3   山口志義夫『源氏物語玉の御櫛』 「物のあわれ論」 『現代語訳 本居宣長選集四』多摩通信社、二〇一三年五月、ⅰ~ⅱ頁。 4   関礼子「歌/物語/翻訳―与謝野晶子『新訳源氏物語』が直 面 し た も の ―」 『 講 座 源 氏 物 語 研 究 第 12巻』おうふう、 二〇〇八年六月、一三六頁。 5   渡辺久寿「あさはかなる女、目及ばぬならむかし」の喩性― 源氏物語の芸―」 『表現と文体』明治書院、二〇〇五年三月、 二八三頁。 6   北川真里氏は「ここで出会った若紫は、藤壺との恋という禁 忌による現実世界での破滅を救い、薄倖の美少女を保護する ために出家するのを思い留めさせる、いわば源氏の現実世界 からの逸脱を阻止する役割を果たしてゆく」と指摘している。 「つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり」 『テキ ス ト ツ ア ー 源 氏 物 語 フ ァ イ ル 』 學 燈 社、 二 〇 〇 〇 年 一 一 月、 四五頁。 7   米田猛氏は「国語科教育では指導者が教材に惚れ込むことが 学 習 者 の 学 習 意 欲 に 大 き く 影 響 す る 」 と 指 摘 し て い る。 「 生 徒をとらえる古典指導のあり方」 『月刊国語教 育』明治図書、 二〇〇六年一〇月、四〇頁。 8   阿部俊一 「教室からの提案②生徒をとらえる古典の授業とは」 『月刊国語教育』同掲書、一五頁。

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192 ――紫式部『源氏物語』「若紫」の言語表現―― (荻原)

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Tale of Genji ―

Keiko OGIHARA

Course of Principal Human Sciences, Department of Human

Development, Faculty of Humanities,

Kyushu Women

’s University

1-1, Jiyugaoka, Yahatanishi-ku, kitakyusyu-shi

807-8586, Japan

参照

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