初期ブルーノ・バウアー純粋批判研究序説 -後期近代における時代認識との連関において-
12
0
0
全文
(2) 北海道教育人学紀要(人文科学・社会利学禍)第8ic 巻. lanruoJ. fo Hokaido. ytisrevinU. fo noitacudE. 第2 サ. scitinamulI(. 平 成 02 年 2J-}. and laicoS. )secneicS. .loV. 沼 ,2 .oN. fcbru. ar .y 802. 初期ブルーノ・バウアー純粋批判研究序説 後期近代 における時代認識との連関において 田村伊知朗. 北池迫教育人学教育学部函餡枚政治学研究*. gnutielniE renies. ruz. Forschung. eihposolihP. sed red nenier. neguj kitirK. Bruno Bauer tim dem tsiegtieZ. TAMURA Department. folacitiloP. .ecn':<icS. Hakodte. Der Zusamenhang red netaps. Moderne. orihcI Campus,. Hokaido. ytisrevinU. fo E duca noit. 要旨 バウアーの純粋批判は,コンディリスによって提供された後期近代に関する問題構制とどのような点にお いて交錆するのであろうかっ批判者の意識を別にして,社会現実態において普遍性を独占するキ1本は存在し ないことであろう。社会的現実態は大衆という平等な原子化された主体相互の関係性によって規定されてい る,大衆に対していかなる共同件あるいは社会的変革可能性を付託することはできない c 彼らは乎等な主体 であり,そのかぎりその私的欲求を満足させる上休でしかない。近代によって獲得された自己意識,政治的 国家によって形成された普辿性に甚づき,巾民社会の現文態が変革されるという機制が後期近代において無 効になっている。近代の楼菜,あるいは「木完のプロジニクトとしての近代」という構制が無効になってい る。ブルーノ・バウアーの純粋批判は,この後期近代を特徴づける思想を先駆的に表現している ,,. 1 . 初期近代における単一の歴史的世界像 同の歴史的世界という物語が地球規模で受容されるという可能件はほとんどないであろう。諸国民の文 化的多義性と多様性を考慮に人れるとき,爪の歴史観が地球的規模におけるすべての諸国民に共イ」化され るという前提は,誇大妄想に脳することでしかないであろう。歴史概念は,無限に細分化 fll 能な時間と空間 から構成されており,それを完全に人問的珂性が把握することは不可能である ツ歴史概念が人問的那性によっ て構成された物語でしかないことは,ここで言及する必要はないであろう 。 しかし,地球規模ではなく,西欧に限定すれば,.pr .i1・ ))0. 史が存在するという設定は,必ずしも妄想では. なく,支配n勺イデオロギー として社会的に承認されていた。この具体的事例として,西臥中世におけるキリ スト教的歴史観を容易に挙げることができよう. J. 巾川において,自然,粘神,人間はキリスト教神学体系に. 包摂されていた。この万物を統合する思想は,共時的世界だけではなく,通時的世界にまで及んでいた c キ. 27.
(3) w. 小 /. 伊知朗. リスト教的世界観が,将来におけるイエス・キリストの将臨による神の国の実現という. H 的を持って いた 。. この脱史的匪界像は西欧中世において社会的に承認されていた。 このようなりtーの歴史的世界が存在するという問題構制は西欧近代において消滅したわけではないし近代 という時代精神が形成されるためには,その内容に対抗するために,その形式は保持された。「キリスト教 的伝統に対抗しようとした啓蒙主義的コンテキストにおいて,単一の歴史という概念が,キリスト教的な神 の立場に代わって,新しい市民的かつ啓蒙主義的な感揺形式として採用された」。1 初期近代に おいて,単. の歴史という設定からその米教的構成要素が剥ぎl収られたが,り .1'. • の胚史という表象自体は残存して いた。. 神に代わるあるものが人間理性によって批界において発見Ju 能である。この思想は初期近代において神の Jミ 象と混在しながら存在してい tこ単ーな枇界あるいは歴史的冊界が構築されうるという前提は残イヂしていた( ) 初期近代において残仔していたこの思想は,後期近代において完令にその命脈が絶たれたわけではない。否 , 思想史的にはその妥当性を否定されたにもかかわらず,キリスト教的枇界観に甚づく脳史観すら,かなりの 多数者によって共有されている。ここで,この叩ーの世界,. pt ーの歴史という概念の源流について,初期近. 代におけるその位柑について言及してみよう。 初期近代においてネ 11, に代わるものとして,実体思想が人問的郎性によって樽築された。 この初期近代にお ける実体思想は,大陸合理論において神という表象を人間的理性によって表現しようとしていた。神学によっ てではなく,人間理性によって構染された折学が世界という表象を明らかにしようとした 。 デカル ト,スピ ノザにおいてこの実体は最終的に神に返元されたが,ライプニッツによって構染された実休,つまりモナド は神の存在証明という機制から離れ,純粋の思弁として構想されていた。ライプニッツによれば,世界はモ なぜなら,lnl. であり,内的差別もしくは内的規定に甚づいて差別化されていない二つのものは,自然のな. かにないからである」 0 2 このモナドは近代科学の基礎である)駁子につながる思想であったっ この批界におけるもっとも単純な原珂としての実体という思想は,. ドイツ観念論において主体に転換され. る,歴史的世界は大陸合理論における実休ではなく,主体に還元される 。 カントの超越論的哲学にお いて「 l 我つまり上体へと転換される 。認識論の水準において,「上体の認識は真の認識である c 我々は我々の認識 すべてを,我々自身を認識することによって獲得する」げ実体という表象は,我々のJu 能な判断すべてに閃 する主体であり,それ以外の規定として用いられることはない。思惟する木質としての人間的主体は ,すべ ての判断に関する絶対的主体であり,他のものの属件あるいは述語として使用されることはない t、人間的主 体は,思惟する 主体として実体である。内的怠識に関するすべての表象は超越論的主体に帰される。 次に,フィヒテはカントのL 体概念をさらに急進化する 。 フィヒテによれば, ] :.体概念はその何学休系の 端緒である。「自我が自己自身を規定する。現実態の絶対的全体性が自 我 に帰屈している,う自我は現実態と してのみ規定される」。 4 主体の概念は,意識の客体への関係において 1'1 己 1'1身を)又省し, ・ 11 我に内在する能 カである 。それは,吝体という 表象を概念的に定義する権能を保持している。実体という吝体もまたその例 外ではない c 他の概念存在との連関から切断された存在性が,実体という概念に本質的に内在していたが,. "o. その意義がここで否定される。実休もまた相互作用の結果でしかなく,その自切存在性が破棄されている 主体概念が歴史的批界における単一性を担保する媒介物になる。. さらに初期近代において歴史的世界と世界が還元された実体と主体は,ヘー ゲ ルに おいて新たな水準に おける上体へと円統合される 。 この上体はデカルトのように実体と対立するわけではない。ヘーゲル的上休 は,人陸合理論的l今.体と実体がダイナミズム的に展開する全休性の一契機である。この全休性は精神あるい は絶対的精神と同義である J 枇界あるいは歴史的枇界は精神の目己運動として了解される。冊界精神の運動 する場所として「世界の歴史という形式において単一の歴史が見出される」 。 6. 28.
(4) 初期プルーノ・パウアー純粋批判研究序説. 世界を単純な原詞の原那へと還元することと,歴史的世界における単一性とが関連している。このような 初期近代における思想において,「すべての歴史的索材は現在の哲学的理解の基準に従って内栢成される」 c7 すべての歴史的素材それ自体をそのまま提示することは小 rrr: 能である以上,何らかの某準に従って再構成さ れて初めて,歴史として提示される。ここでは,より単純なものがより価値のあるものになる。最大限単純 なものが,前近代における神学,つまりスコラ的二段論法に対する対抗原坪になる。「 1然的世界と人問的世. 象の背後には,具象化されえない抽象的法則が存イ「する。自然的皿界と人刷的皿界が学問的方法論に従いこ の法則として演絆される。 このようなキリスト教神学に起源を持ち,大悴合坪論によって媒介されたドイツ親念論の歴史哲学は, 9 1 世紀中弟から後半にかけてその社会的承認力を喪失する 。歴史的世界を哲学者が人問的理性によって把握す るという.思想自体が問題にされる。この息想自体が学問的対象から抜け落ちてゆく。学問が専門化し ,その 分業が進展することによって,歴史的素材総休を学問的対象にすることがイ畑j 能になるからだ。学問的対象 としての歴史は細分化され,その総体的歴史観はその対象とみなされなくなる10. 会の複雑性の卜昇により,. 学問そして歴史も複雑化し,細分化される。人間の能力が有限である以にそれに対応する歴史概念も細分 化される。 また,これまでの議論は個人 n勺 _:j 体と人類的 _:j 休の同一性,あるいは Jnl 一性の可能性が暗黙の前提になっ ていた。初期近代における人間は,前近代における神の位置へと自己を高めようとするが,この人問は具休 的人問だけではなく類的木質を持った抽象的人問として現象する。この類的人間は 1・ 1然的限界を持った非罪 性的存在ではない。それは,経験主義的に所与の理件形式を超越した規範主義的な人格に高められている 江 こ の人間は,経験的に与えられた街中にいる偶然的人間ではなく,人間的理念である。それは,彼岸的存在者 としての当為の存在論的源泉として掠舞う」 0. 8. ここで問題になるのは,人問的理性を保持した埋想的人問で. ある。 この初期近代における前捉は,少なくとも学問的世界において後期近代には崩壊する C 中世あるいは初期 近代におけるようなり.i. ・O). 胚史的皿界は社会的承認力を喪失する 。初期近代における胚史的枇界を巡る超越. 的真埋,及びその W 当化は相対化される。後期近代における個休的 _:j 休 と 頬 的L 休の分離は,このり1ーの歴 史という表象を解体している 。 しかし,このことは時代認識それ自体を否定しているのであろうか,うこの命 題の妥当性が次節以下で開題になるし. .2. 後期近代における世界像 前節で考察したように,枇界と歴史的枇界を人問的坪性によってそれ,・, 体として把握可能であると い う初. 期近代の思想は,後期近代においてその社会的承認力を喪失してゆく。初期近代が人間的理件による枇界と. においてこれらの初期近代における諸前提は無化された 。後期近代においてもはや)j 物を包摂するような批 界観的な思考様式の前提そのものが無効になった。科学の分析対象は社会総体ではなく ,その部分 システム に移行すふこの移行は思想史上の事象に限定しても,前世紀初碩から始ま り,前世紀後半にはポスト・モ デルネという流行話に集約される 。 この現象は本邦だけではなく,西欧資本上義国家 に共通していた。 この原因の一つは,人間理性による世界把握という目的が対抗していた神の意臥あるいは自然に 一致した 川界観が,初期近代から後期近代に移h する数枇紀にわたる時間の経過のなかで その礼会的役割 を喪失した ことにあふ初期近代において人間的珂性による関与が積極的に行定されていたことと対照的に,後期近代. 29.
(5) ..a..、 戸 ・. ~,. 換可能な構成要素になり,機能的に流動化してゆく。最後の自然的紐幣である家族ですら,無条件で必然的 な子供の生産に限定されてゆく。家族機能は,「大衆民主主義に対する塞き止めではなく,その訓練場所と して作用する」。 1. この社会的諸前提から分離された個人は,多元的空間においてその次元に応じた複数の. 社会的役割を担う。この分業秩序は初期近代におけるヒエラルヒー的秩序から解放されている。初期近代に おいて分業は,社会的ヒエラルヒーを強化していた。この秩序に組み込まれることによって,個人もまた垂 直的かつ固定的に秩序づけられていた。このヒエラルヒーは社会的不平等の実践的表現であった。命令と従 属関係が個人の全人格を性格づけていた。分業は固定的な自然的紐帯と同一視されていた。 それに対して,後期近代において分業が極限まで強化されたことにより,社会的労働の全体性が差異化し, 極限までの小さな単位に分節化される。「分業がヒエラルヒーとしてもはや表象されず,むしろ様々な労働 形式が存在し,その不可欠性によって原理的に等価であると表象される」。 12 初期近代において神によって. 30.
(6) 初期プルーノ・パウアー純粋批判研究序説. 召されたという職業意識は,ヒエラルヒー的な秩序意識を意味していたが,後期近代において水平的な社会 的役割という.意識によって代替される。原子化された個人は,原理的な交換可能性によって平等化される。 個人はその業績に応じて特定の社会的役割を担うだけである。ここでは,社会的平咎性がjJ 人に開かれてい る,という社会的意識が一般化する。 このような I'! 然的紐幣から解放された個人の原子化によって,市民の平等化が促進される。「個人とその 役割の交換可能性は,社会的平等を可能にし,それを担い,そしてそれを進行させる。それは,初期近代に おいて自然によって与えられていたものとして妥当していた区別を排除することにつながる」 。 l:1 労働の領 域におけるヒエラルヒー的秩序の解体は,消費の領域におけるヒエラルヒー的秩序の解体につながる。これ まですべての歴史に共通していた梢費財の不足を解泊した後期近代は,すべての市民にそれへの接近を平等 に配分している 。 大屈に生産された消翌財は大鼠に消費する消費者という機制を必然化する。原[化された上体は,労働す るt 休としてではなく消晋するL 休として現象する c 消費活動は,技術的合埋性ではなく,快楽 _:j 義的屈想 を全面に押し出す 。消費主体として原子化された個人は,労働主体と同様に社会生泊全般における経済的な 利益指向を高める() この社会的実体に適合したイデオロギーが,すべての社会的営為を経済的営為に還元する思想である c 「 主 として国民経済学者によって構想され,. t 張された社会理論は,自由経済の現代的機能モードを,全システ. きた哲学によって把握された。それに対して後期近代において,それは人間を利益追求主体とみなす経済学 によって把握されふ経済学的構造が社会構造のモデルになる e 「経済的なものが,. ..・社会の他の 「 部. 分システム」を,自称絶対的に提供された経済固イjの論理へとりt純化してそれに従属させることに成功す る」C ;::] 経済学的モデル,つまり自己利益を追求する経済的エゴイズム的な人間が,自己日的に合埋的に適合した ょうに行為するというモデルは,後期近代に特有のモデルではなく,初期近代の啓蒙主義にも典別的にみら れる 。異なる話個人の語欲求を充足させる体系として市民社会が描想されていた e 「特殊的人格としての,・ , 己が自己にとって H 的であるところの共体的人格が,諸欲求の塊として,また自然必然性と恣意、との汎合し たものとして,巾民社会の 一方の原理である。特殊 n勺人格は本質的に他人のこのような特殊性と関連してい る。 どの特殊的人格も,他の特殊的人格を通じて ,そしてそれと同時に ,全 く普遍性 の形式というもう一方 の原那によって媒介されたものとしてだけ,. ・ 1, 己を員徹し満足させるものである」 。16. つまり個々人の謡欲. 求を媒介にする欲求の体系として把握されている。 このような経済システムを他の部分システムの甚礎として適用することは,還元主義という問題が牛じる。 そもそも,後期近代における社会現論は社会の差畏化と複雑性に基づき,発展した理論である 。 しかし,こ の社会坪論には以下のような前提があるし、つまり,初期近代における啓蒙主義において批判の対象になった 神学的実体思想に相似した還元主義が隠されている e 「人間が孤立した個人として考察されればされるほど, それだけ人間行為の解明のために導出された要因が,人間本質として定立され,牛物学的側血に還元される」 。17 啓蒙キ義的な人間中心中義を批判してきた後期近代における社会埋曲が,人間の他の側面を捨象した 牛物学 人間は生物学的欲求の主体に還)じされ,その他の人間的性格は捨象さ れる 。 この理論はまた次のような前提がイj効でなければ,理論としての整合性を欠 くことになる 。それは社会の すべての構成貝が,このシステムに適合した秩)ギから逸脱しないことを前提にしている。「機能の論理的秩 序から,現実社会の秩序が導 出され,現実的秩序が論即的秩序と同一視される」 C. 18. システムに固有の論即. 的秩序が禅/! Iされ,それが現存社会の秩序になる 。後期近代の社会坪論の論那性が粕微化されればされるほ. 13.
(7) w. 小 /. 伊知朗. ど,その論坪的秩序と現実的秩序の乖離が生じる。 この乖離は,差異化と複雑性に基づく後期近代の社会理論が社会的現実態における脱差異化傾向,すなわ ち平準化傾向を反映していることからも牛じる。すべての社会的領域において,とりわけこれまで数値化困 雌とされていた領域においても,あらゆる事象が数字によって表現されるり「すべての領域の数字化は,あ らゆる対象の罪念的国t』への転換を意味し,あらゆる対象の平準化,そしてあらゆる領域を交換可能にし, それらを結合可能にする」。 19 すべての領域のすべての事象は,数学的に取り扱われる対象になり,その対 象自身の区別すら無化され,平準化される。すべての素材は抽象化され,祉化される 。全枇界において強固 な実休は存在しない。 すべての領域を計贔化する思想は社会那論の某礎にある自然科学,とりわけ物那学の目然把据に起源を持 つ。「マクロ物理学的な物質は,関係と形式によって代表される」。20 初期近代の物理学におけるエネルギー と質屈という実体的二元論は,計屎化されることによって消滅する c 両者は鼠という甚準に従ってのみ計測 される 。但し,この最という概念は,実休ではない c それは形式と関係に従って原理的に転換fo 能な形相で しかない。このようなマクロ物珂学の即論的転換が社会坪論にも適用される 。. !1lJ を担う社会的実体という思想は根 万物が平準化される後期近代において,将遍的真珂,あるいはその真 拠を持たない。相対主義が思想においても社会的実体においても前両に出てくる。原f 化され,経済的利益 を追求する人間は,精神科学的前提に従って行為するのではない。そこでは世界の全休性,あるいは牛命の 最終的意味づけという実休思想に基づく間頴構制はその社会的根拠を喪失する。様々な諸システムとモデル に分断され,かつそのモデル「 1 身が計量化されることによって,相互に転換される。このシステム,あるい はモデルそのものも絶対的ではなく,仮象でしかない。それらは転換可能な原了と同様に ,関係と形式にし たがってそこに現存介するにしかすぎない。. :i1構造において,初期近代,以来社会的普遍性を代表していた政治的国家の意 このような思想と社会的存 義も社会総体において故少する ↓初期近代において公共性と私性の分離.一. 軍性,そしてその政治的表現と しての政治的国家と市民社会の分離・ 二重性は,酋遍的な政治的,社会的前提として般的に承認されてい た。この原理は,どのような政治学者であろうと,否定できない公理であった。 それは,前近代における社 会的,政治的規範としての神学イデオロギーを少なくとも,公的領域から排除するために必要な埋論装芭で あった<) 近代同家の形式が宗教同家の形式を廃楽するために不可欠な装置であったいこの分離・ プ用性は, 「 教 会によって制裁可能な神学の事実卜.の独占を排除することを,イデオロギー的分野において意味している世 俗化の社会的,政治的側面である 」。21 この分離・ ニ重性は教会と結合した神学イデオロギーを公共的領域 から排除し,私 n勺領域へと押し下げる。この装罹は以下のような機能を冗当化する。「公共性と私性の町確 な形式的分離は,形式的平竹を守設し,実質的平怜に反対するという選択である。個人は公共的人格として は,特定の権利と機会を持つが,私的人格としては特定の権利と機会から為そうとすることを決定する J o 2 近代国家は公共的圏における自由と平等を保障し,私的圏においてその理念を実質上剥奪する機能を持つ。 分であ ろう。「完成した政治的同家はその本質上人間の類的牛活であり,その物質的牛活に対.・,:. している。エゴイ. ズム的生活のすべての前提は,国家の領域の外側に,市民生話のなかに,その特性として存続している」0 23 政治的国家と市民社会の分離・ニ重性は近代社会を特徴づける指標であった。 初期近代国家が保持していた分離・ニ重性は,周知のように社会上義者,共産上義者等に よる理論的批判 の甚礎になっていた。 1842. 年までのヘーゲル左派が典塑的であったように,形成された形式的存在に留まる. 普遍的珂念を,市民社会の現実態において設定 しようとした。たと えば,木稿で間蓮に なる目己意識の哲学 によってブルーノ・バウアーは,囚家的耶念として形成されているか否かを判わず,哲学的那念を現実化し. 32.
(8) 初期プルーノ・パウアー純粋批判研究序説. ようとした< しかし,この初期近代において公共性と私性の分離・ニ重性は,後期近代においてその酋遍性と特殊性の 対立の程度を減少させるしとりわけ,政治的国家がその普油性を減少させ,現実的社会の諸利益を調整する 手段になっている。近代同家における社会国家の性格づけが強化されたことにより,この傾向は加速化する , う 「国家と社会の限界を大衆民主主義的に泊去することは,その背後において政治と政治的なものの坪論的弱 体化をもたらす」。 24 政治的なもの,政治的公共性は,社会的現実態の 1汁立的部分システム,あるいは社会 組織への利益調整者になることによって,その存立意、義を減少させる。もはや政治的国家への参加,あるい は類的存在としての政治的公共性という幻想が破壊され,政治的同家は私的な諸利益の調整者でしかない。 政治的同家に参加することは,初期近代に考えられていたような国家市民としての共同性を陶冶すること ではなく,むしろ社会的謡部分への参加と同梯な意義づけしか与えられていない。政治的国家への参加とい. 9 世紀中茉と異なり,もはや社会的普遍性を獲得できない。 う理念は, 1 ここまで,コンデイリスの議論に拠り,近代と後期近代に関する認識を敷術してきた。最後に,彼の議論 を編めておこう。柑互に結合,分離可能な)息子化された諸梱人は後期近代における大衆民主主義礼会の指椋. 11 然的規定に基づく社会的ヒエラルと一を形成するのではなく,労働者としても梢費者と である。謡個人は・. や,初期近代におけるプルジョワジーとプロレタリアートの階級対立も,後期近代において中核的現象では ない。もはや,諸個人はプロレタリアートと総称されるに至らないほど細分化された社会的役割を担ってい る。後期近代が平等原理によって貰徹された大衆民主主義として叙述されている t、もちろん,本稿において. 碓に敷術したものではない c 既に死亡した彼の思想は膨火であり,彼に関する研究業績もまた完全に整備さ れているわけではない。本稿は彼の思想を紹介することを日的にしておらず,叙述に必要なかぎり触れられ た断片化された思想でしかない↓その妥当性に関する議論は全面的に別稿に委ねられている。 コンディリスは現代社会を近代社会とは別のポスト・モデルネと解釈していたが,その点を別にすれば,. このような後期近代における息想と,初期近代における純粋批判というブルー ノ・バウア ーの息想との連閃 が次節の課題になる。とりわけ純枠批判とそこに描かれた人間像としての大衆が問題になる Q ブルーノ・ バ ウアーの純粋批判とその人間像と,コンディリスの大衆論との注異と連関を媒介にして,その意義を思想史 上に池義づけてみよう。そのことによって,バウアーの純粋批判を思想史の閤の中から引き出し,その思想 を近代息想史において定位することが可能になろう s. .3. 初期近代におけるブルーノ・バウアーの大衆論 このようなコンディリスによる後期近代に関する時代認識とブルーノ・バウアー,とりわけ純粋批判期に. おける彼の時代認識はどのような閃連性を有しているのであろうか。ここでは, 218. 4/281 パウアーの思想的転回は自明の前提である。バウアーは3. /1 3 年を分水微にする. 年以前において批判的批判を展開するが,. それ以降この批判的批判の哲学を放榔し,その批判を通じて純粋批判の哲学を形成する c 本稿では,この批 判的批判の哲学史的意義づけではなく,後者の純粋批判の哲学の意義をコンディリスの議論を媒介にしなが ら考寮する。前者に関する研究は,マルクスとの連閃においてほぽ終 F している 0 25 それに対して後者はそ の惹義づけが研究史の闇の内において葬られているからだ。バウアーの純粋批判に関する研究は,彼の思想 令般を研究したバルニコルの業績を除外すれば,ほぼ無に等しい。 26. 3.
(9) w. 小 /. 伊知朗. ここでは,純粋批判の意義を解明するための思想史的前提としてのみ批判的批判の意義に触れてみよう。 後者はヘーゲル左派を代表する脱史観であり,その総義は次のようになる。「J梱史とは,既存のものを批判 することによって,その都度到逹した段階から離反し,自己自身を弁祉法的に揚東することによってのみ進 歩することができる」(四歴史自身が到逹した埋念に基づいて歴史的現実態が批判されることによって,歴 史の新たな段階が形成される 。哲学卜の理論は哲学者の頭版において限定されるのではない。皿論的・ 11 由は 怠識化され,現実化されるはずである。脳史的現実態はそれ自身とは異なる自己池識を捉ホする。その理念 にしたがって,社会的,政治的現実態が変単され,その哲学が現実化される 。哲学は諸哲学者の眼脳のうち に産出された無数の諸折学ではなく,時代粘神に裔められた普遍的な時代精神である。そのかぎり,この折 学は現実化されねばならない。 :ttt81. 紀啓蒙によって発見された 「自己應識は,江識の対象として目己目身と. かかわり,「 i己を外的に信仰の世界ではなく,むしろ現実的にその無隕性とかかわる」 。 28 哲学としての近 代の自己意識は外在的な届仰対象ではなく,むしろ社会的に現実化すべき対象になる。社会的,政治的に現 存するすべてのものは,近代が到逹した自己意識によって批判され,社会的現実態はその意識に応じて変革 される。この那論構制は批判を媒介にするため,「真正珂論のテロリズム」 29 と自称される 。批判を媒介にし て,現存在の仮象性が洞察される。批判という手続は,「存在と仮象の疎外の歴史的発生を明らかにして, それを急識化すかそれは,仮象を存在の実践的欠陥として洞察することに役立つ」O。 l:: 現存在は,自己池 識に対応しない仮象から構成されているが,その仮象性が批判によって対自化される。 それは同時に,歴史的現夫態が担う理性的な意識化過程の再構築である。疎外された歴史的意識としての 時代の,,,. 己意識それ. n体に内在する仮象性を明確にし,社会的現実態だけではなく,歴史的 ll己意識の仮象 會. 性を謀露することでもあふ先行する時代の自己虹識が無媒介的に阻界,あるいは歴史的世界の非理性的存 什形式あるいはその不完全性を排除するものではない。その媒介者が批判という手続である。時代の普迫的 自己意識が公共的普遍性として定立されている以上,それは批判という武器によって現実化される。 中枇から近代への移行は,ヘーゲル左派の一般的時代認識によれば以下のように敷術される 。キリスト教 が普遍的具理として社会的に完成している以上,それに対する批判によって,諒外された形式での完成され た人間的本質が,神として彼岸においてではなく,人側として此岸において定立されるはずである e 「ポ教 的超越性に対する批判は,政治的超越性に対する批判無しには成就できない 。示教的超越性が転倒された形 で生 きているからだ」。31 人間的本質は宗教的額域においてではなく,社会的政治的領域において実現され るべきである。この観点からすれば,社会主義に関する歴史的川法に関する珊解に対する批判はあるにしろ, カール・レーヴィットの以ドのような足式化は止しい。すなわち,ブルーノ・パウアーを中心とした哲学的 党派によって定立された理論が,「急進的社会i・ 義の世界史的運動に奉 :lf する 1庁学的理論である」。21.'. まさに,. 近代という時代柏神を 1牙学 的に把据した政治的兌派が,その理論に従って世界と歴史的批界を解釈す るだけ ではなく,変革しようとした。「 哲学者が世界を解釈して後に,そして解釈して初めて世界変革が可能になる Jo. 33. う。 社会的実体としての国民大衆が,このような批判を現実化する主体である 。 とりわけ, 81 批紀木の政治革 命において国民大衆がこの時代の 自己意識を現実化する朴会的主体であった 。国民大衆は,フランス革命時 において決定的な役割を果たしていた。その理由は国民大衆が自己意識の実現化以外の H 己の私的利益に固 執していなかったことにある 。「人衆はその非拘束性ゆえに特殊な行為利益, 産業的利益を持っていない」l。 ::4. 81 世紀木の)ゞ衆国民人衆はその特殊利益を保持していなかったがゆえに,純粋に近代の自己意識を実現し ょ う と し に これに対して,市民階級,つまりプルジョワ階級は この政治的役割 を果たすためには,あまり に l'f己の私的利益に拘りすぎていたし「新しい歴史のために,多大な貢献をすべき市民階級は,犠牲的れ為,. 3,1.
(10) 初期プルーノ・パウアー純粋批判研究序説. 罪念への伯熱,高みを持っていない」。 J5 囚民大衆は教養の無い陶冶されていない階級であったが,歴史的 理念を具現化できる階屈であった。 しかし,バウアーは 1843/. 年以降,この理念を体現すべき社会階層を喪失してゆく。彼の歴史認識,社. 会認識において批判的批判の段階から純粋批判の段階へと移行したことがその)駁因である。バウアーの純粋 批判において,現実の過程は思考の過程と同一視される。現存する歴史的世界と世界は,批判者によって)泉 理として把握される。原理は批判者によって発見されたものであるかぎり,普遍性はつねに批判名の側にあ る。脳史的現実態において何が原理であるかは,批判者が決定できるからだ。 .i'1 し , 特殊性,個別性から分離された純粋の普返性が前ー者に対枯するっ普遥性は普遍性として純粋に自. 特殊性,個別性との弁証法的関係を喪失する。普遍性は特殊性と個別性を捨象した純粋の普遍性とみなされ る。歴史的巡歩というヘーゲル左派の基本的な思考様式を甚にしながら,歴史的進歩は社会的現実態を捨象 した普迫的自己意識 0) 進歩と同視される。バウアーの純粋批判において,社会的実体の進歩はその射程か 的閃係か らではなく,新たな目己意識が古い目己意識を批判という「続を媒介にすることによって生じる 。新しい目. 11 体として定立されている。「概念は,他の謡規定に対して規定されたものとして 己意識は,先験的にそれ・ 普迫性を持った概念の形成に遠元されるし近代を超克する自己意識は,近代の自己意識から疸接的に創造さ れる。 ここでは,社会的実体の変革はどのような位柘にあるのであろうか。批判坪論は純粋な牌遍性として特殊 性と個別件を拾象しているかぎり,社会的実体とその変革を自己に組み入れることはその純枠件を破壊する ことにつながる。純粋化した自己、意識と社会的実体とは分離しただけではなく,相互:1 渉不可能な敵対的閲 する。批判主体と批判客休は相万 に排除しあう両極端になる↓前者は社会的実践性を廃棠することによって,両者の関係性それ自体が喪失す ふ批判理論が酋遍性を独占しているかぎり,その理論に従うかぎり社会的実休から酋遍性は剥奔されてい る。この問旭は,社会化された自己意諜と哲学者の妄想との区別を曖味化する 。純粋化された普逼的自己意 識は,社会化されることなく,. 1庁学者の頭脳にとどまり統ける。社会的文践性を自己の理論か ら排除したこ. とによって,礼会的実体との相互的な弁証法的関係を喪失する。. 11 己意識と無関係な社会的実体を構成する主体が,大衆である。 81 世紀末とは異なり,礼会的実体 近代の・ が近代の自己忍識を超えないかぎり,この構成主体は社会を揚棄する主体ではなく,その維持する主体とみ なされる。近代が前近代から産出された必然的結米として,人衆は牛まれる。先述したように,近代を産出 する闘子において大衆はその特殊的利益を保持しないがゆえに多大な役割を果たした, うしかし,産出された. 1己の特殊利益に固執する 。国民大衆 V()esamsklo 近代において,大衆は 1・. は大衆件として記述される 。 「大. 衆それ自体は,類がこれまで表現されていた特殊な差異が消滅して初めて,現象する。 大衆は,類が個別的 原 f の集合体へと解体されたものである。大衆は,これまでもちろん分離していたが,また結合させて多様. な閃係へと設定していた特殊な制限の解体である」。 37 大衆は 19 批紀以前のように,現存する社会的実休を 変革する主体になることはない↓ もはや,彼らはその実践性を奪われている 。大衆は近代を創辿したが,形 成された近代において大衆はその社会変革の実践性を喪失している。 これまでバウアーの純粋批判における批判理論に従って)ゞ衆論を考察してきた。それは批判者の観点から 近代という時代認識であった。 しかし,裏血から考察すれば,つまり社会的実休から考察すれば,近代の自 己惹識もそれを担う政治的同家あ るいは他の機関も存在しな いことになる。社会的実体において大米性が支 配的になる c. 35.
(11) w. 伊知朗. 小 /. このようなバウアーの側題構制はコンディリスによって提供された後期近代に関する問題構制とどのよう な点において交錯するのであろうか。まず,批判者の池識を別にして,社会現実態において酋遍性を独占す. _4 の閃係性によっ る_:j 休は存在しないことであろう。社会的現実態は大衆という平等な原十化された土休相・ て規定されている 。彼らはその個別的利益によってのみ結合する諸ホ休でしかない。そこにどのような共同 件あるいは社会的変革可能性を付託することはできない 。彼らは平等な主体であり,そのかぎりその私的欲 求を満足させる主体でしかない c 近代によって獲得された自己絋識,政治的国家によって形成された将遍性 に基づき,市民社会の現実態が変晶されるという機制が後期近代において無効になっている。近代の揚乗, あるいは「未完のプロジェクトとしての近代」という構制が無効になっている。ブルーノ・バウアーの純枠 批判は,この後期近代を特徴づける思想を先駆的に表現している。. .4. 小結 ここまで,ほとんどバウアー自身の議論に依拠することなく,その純粋批判の意義づけを考察してきた 。. もちろん,その議論の基礎づけに関してより詳細なバウアーの言説が必要なことは言うまでもなく,令面的. JIB 梢に委ねられている。しかし,バウアーに直接的に関説することなく,その議論の西欧社会思想史,あ に. ru'. るいは現代忍想のコンテキストにおいてそれを位憫づけることもィ. 欠であろう]本稿はその一甲塚であり,. そのための素抽でしかないっしかし,この概説的なバウアーの想想の後期近代における{立附づけを避け,直 接的にバウアーの議論に沈静することはできない。. 注 l .L Lambrecht:. elarulP,,. msilarulP 2. zu .nilreB. rebit reb¥L. .42. GrundJagc. v.I.¥. rehcanrO!P. eid .eigoldanoM. aneJ. :nl s'lnaK. .u .S Fre u:regbnd. ibsuareH. ldung. ~9. (西谷詞:訳. ,0271. 『 モナドロジー』「ライプニッツ著作集」第. gesamelt. .nelfirhcS. .gsrll. .v red. DeULschn. Akademie. red. netfahcsneiW. ,.S .834. 196. dcr. .u .V Sch(irman. .S .901. C. .kigoL. .H .n1ilre3I. :nI .gsrH ,02. gcsamcltcn. .crhclstfahcsncsiW. .4971. :nI Gcsamta. usgabc. .1 ,2 daB/trguS. rtasnC. .S .82. 初期カ ール・シュミットと初期カ ール ・ ナウ ヴェル クの政治、思想JiJa 文社, 205. 田村伊知町 『 近代の椙棄と社会国家. 6 .L :thcerbmaL 7 .L :ztarK. elarulP,.. ,"?ethcihcseG. .a .a ,0 .S .901. ethcihcsegihposlihP P.sumsliaru. 8. .P :silydnuK. eiD. 9. .P :silydnoK. Das chcsitiloP. 01. .P :silydnoK. 11. ,adnebE. .S 391. 21. ,adnebE. .S .391. 31. .adnebE. .S .812 Das chcsitiloP. 51. ,adnebE. 61. .G W. .F :legH. .v.f-¥ Plumacher. .u .V SchOrman. .u .S Freudn-. .a .a 0 ,.S .101. gnuralkfA. D er Nied. 41 .'I :silydnoK. :nT .gsrH. und .nethcihcsegeihposolihP. be r ge r :gnudlibsareH. im Rah und ergan. m en sed nehciltiezuen. rcd.hcsncl'¥i der (bnehcilregr. und. .sumsilanoitaR. cgiLzdnurG. Hamb. rcd.cigolotnolaizoS De nk - und. urg. nilreB. L eb .mrofsne. ,202 ,91. W ei hn eim ,191. .S .85 .S :-; .S .391. n,. rcd.hcsncl'¥I. .a .a ,0 .S. .S.113. W re ke ni zwanzig. 36. nilreB. L. 年 , 208 頁 ). gnuselroV .d3I. .J .G :ethciF .5691. 5. eztlisrheL. [作舎, 198. 3 .l :tnaK. h"?et. a.t¥.. .G W. :ztinbieL 9巻 ,. 4. cihseG. .su .trufknarF. neildnurG. de r ihposolihP B 且.nedn. Fran. lrufk. e de s R ech a.l¥. .0791. ts oder. B d..7 .S .93. sthceruaN. u nd iwsraS. (赤沢在敏訳. 坪 i去1序乎 ,1.'. nes. tfahcs. im .esirdnurG. 叶仕界の名杵 給 :ic133,...J所 :jl. In : 1j1 火.
(12) 初期プルーノ・パウアー純粋批判研究序説 公論社, 8 791. 年 , 14414-{:. 71. .P:silydnoK. 81. ,adnebE. 91. .P:silydnoK. 02. .adnebE. 12. ,adncbE. .S i:4. 2. ,adnebE. .S .871. 32. Das ehcsitiloP. 42. .P:silydnuK. 52. .lgV. Der. rediN. :ekutS. . .a .a ,0 .S 270. ,mrofsnebL. red. .3691. .T Bd ..2 .S .841. (花田キ介訳「ユダヤ人間辿によせて」. 『 マルクス・エ. 頁)、 9. .a .a ,0 .S .67. Mensch, neidutS. ruz. gnuhcilkrweV. red eihposolihP. ieb. ned enaileghnuJ. nr und den. .S.££321. sehciltneforevnU. lairetamneleuQ. zurenies. eihparguiB. rebO. .B R au re .In : tanretnT. iun al se tiIn ts. utrof. Amsterdam. Von. He ge l zu Nehcsztei. ar .d tragtutS. 82 .11 :ekutS feirB. posolihP K kri it .5002. :¥ nI:.GEl.lf. Zur cthcihcsG ieb. ,2. .tbA. sed rirK. Bruno. .reuaB. ikbcgr. neirogetaK. lraK. .ekniL. Marx. and. traguS. 2691. The noitidarT. Jah rh un stred. xr.aI¥:. und. lli ,.dB ,1 .S 35 3 .. ffi s van. Kant. sed itPo il. cs hen. .xrbi saf..'J. nilreB. im nac slegh. .u :(cw chen. Y or k 791 .i: S.71.{:. Denk.. Fr an trufk. .a M.. 3•1 kgidrwneD. ei t en ruz tetiebraeb. thciseG. und. ,.S .7. fo Westrn. マルクスと西欧政治恩想の伝統』大月古)占, 2 02. neiruM. de s ne unzehnt. .S 521 eiD ehcslegel. .H :dnerA. im Denken. .a .a .0 .S .851. und .sixarP und kitirK. Bruch. (柴田治=郎 ぷ ― ヘーゲルからニー チ ェヘ」 岩波古)占 , 195 3 年.4i? 頁)。. an .K M ar .x .82 3..1481. a:esirK. .K:hliwiiL. .Der erinoitulover. .S .23. hi e red .LaT. .K :rcgrtoR. .u nilreB. 1%4,. .v .R Bauer. 13 .I:¥ Tomb. 3. .、 2¥ .tb¥1 年 , 291:. hi e red .taT. tragtutS. .E:lokinraB. .:nT ¥fEG. und posolihP. .netsilaizoS. .K :htiwU. 23. De nk - dntL. 大月苔店, 0 891. Das ehcsitiloP. agekriK. )({;. red nehcilregrUb. 3481. 第 1,0-. .z R .H. .lgV. 92. gang. Zur .egarfneduJ. .cthcihcscglaizoS 72. .a .a ,0 .S .37. red ,hcsneI¥l. .S .061. .K :xra[¥. 62. und. .S 42. ンゲルス全知. Wahren. 只)。. e red. neur. eh rausgebn. lacitiloP en tieZ. vun. Tho ug ththciltneff¥ire(vnu. ).3591. (佐藤和大編訳 ー カー ル ・. 年. 31 3頁 )。. Bruno. sei t dernarf .reuaB. Edgar. zo hcsis Bauer. en loveR und. .ut noi tsnrE. Na ch den Qu lelen und-lanigirO tinguJ. z.etulrahC. nbur g 184 ,4 .dB. .01 .s .241 53. Eb en .ad. d31 ..9 .S .7. 63. .K :regtuR. Kkitir. 73. .B :reuaB. eiD. Gatlung. und. ixarP und. s,.a .a 0 ,.S 91 eidsalV:.. se . :nIeniemegl¥:.. rutareliL. .g-nulieZ. .gsrll. .v .sred. olrahC. u enbu. rg 18•H..11 .01 .S. 43 .. (本研究は,平成91 年度 H 本学術 振興会科学研究特補助金 ( 基粒価究(C)) による研究成果の一部であ る)。. c'¥ frrcsa .forP Schwcrpunktc. orihcT. Tamura. Dr .ihp,.I eg b.8591. ni napJ. eB( :zi kr. und :ncgnuhciJtncforcV. N auw re ck.K arl Sc hm di)t und zurtilop. Kag aw a).Pr ofe s sor an red zu r pol nchcsiti ischen. cihposolih'l. nehcsigoadP J( ungh. Hochs cg lc ianismu. hu el. zu Ho kk dia. o.Th em ita ehcs. ,insb csond crc Ed ga r Bau er,Ka rl. T heo r ie (W oh laf hrtss at at). ( 函館 校教授). 37.
(13)
関連したドキュメント
がなした特定の行為またはその結果について︑行為者から独立の第三者が︑一定の基準に照らし︑その行為の正否
限はもっぱらイギリス本国に留保されていた︒この時代︑イギリス本国における強力な反株式会社感情を踏まえた
加えて、従来の研究においてフョードロフの思想の形成時期を指摘するためにしばしば言及さ れてきた2つの断片にも触れておこう
76)) により導入された新しい都市団体が、近代的地
巻四いやな批判●うはか年代記にて、いよいよしれす(1話)
欧米におけるヒンドゥー教の密教(タントリズム)の近代的な研究のほうは、 1950 年代 以前にすでに Sir John
睡眠を十分とらないと身体にこたえる 社会的な人とのつき合いは大切にしている
・西浦英之「幕末 について」昌霊・小林雅宏「明〉集8』(昭散) (参考文献)|西浦英之「幕末・明治初期(について」『皇学館大学紀要