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人権教育の現状と課題 : 関西学院大学における人権教育をめぐって

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権教育をめぐって

著者

舟木 讓

雑誌名

関西学院大学人権研究= Kwansei Gakuin

University journal of human rights studies

16

ページ

1-11

発行年

2012-03-31

(2)

舟 木   讓

Abstract

Kwanseigakuin , estabilished in 1889, is a school where we are given general education and technical skills based on principles of Christianity. But recent students are lacking in a sence of religion, human rights and those knowledge in many case. This fact has been often talked about by university teachers actually teaching them. And there has been an increasing number of those adults in general including them, who cannnot understand the fact of discrimination in Japan and all over the world. This thesis reconsiders the history of the teaching of human rights in Kwanseigakuin University under the principles of Chrisitianity. And it investigates the human rights problems from the idea of the founding point of view and Christianity.

On the relation between the teaching of human rights and principles of

Christianity in Kwansei Gakuin University.

問題の所在 日本における本格的な人権教育の主題であった 「部落差別」をめぐる状況は、2002年の「同和対策 措置事業特別措置法」終焉1によって大きな曲がり 角を迎えたといいうる。その前後の「部落差別」 をめぐる状況、あるいは人権に関わる状況の変化 等に関しては数多くの自治体や政令指定都市にお いて調査もなされており2、その正確な状況把握が なされつつある。一例をあげれば、京都市(京都 市文化市民局人権文化推進課)が2005年に実施し た「人権に関する市民意識調査」があげられる。 105頁にわたる報告書の中でも、「一層力を入れる べき取り組みは何か」との問いに対し56.5%が「学 校や社会における人権教育の充実」をあげている3 また、その調査を通じて「人権の基本的な考え方 は市民の間に定着しつつあることがうかがえ」「学 校における人権教育については、年齢層が低い層 で人権教育を受けた割合が非常に高くなって」4いる とされる。また、「同和問題」に対する認知度も 「知らない」が2.0%で一方何らかの形で知っている 人の割合は92.2%と前々回の調査に比べて「10ポイ ント以上高くなっている」とされる5 また、大阪府が2006年に実施した調査において も「人権を大切にする教育・啓発活動を積極的に 1 この「特措法」そのものの歴史や意義に関しては、本稿では言及しない。 2 一例として、(社)部落解放・人権研究所編『人権啓発の効果検証に向けて−人権啓発の現状把握と効果検証指標作 成研究会報告書−』2009年3月があげられる。 3 京都市文化市民局人権文化推進課「人権に関する市民意識調査報告書(実施は2005年)」2010年、6頁参照。 4 同上 6頁参照。 5 同上 47頁参照。

人権教育の現状と課題

― 関西学院大学における人権教育をめぐって ―

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行うことは」「非常に重要 33.3%」「やや重要 31.3%」との結果、過半数を越える調査協力者が人 権教育ならびに啓発活動が大切であるとの見解を 寄せている。こうした調査結果を見る限り、これ まで実施されてきた「同和教育」あるいは人権教 育・啓発運動は一定の成果をあげているとも考え られる。 しかし、こうした結果の一方で実際の人権を巡 る状況は、日本国内だけでも糾弾闘争が盛んであ った時ならば信じられない「差別・侮蔑」用語が インターネットを通して日常的に氾濫し、もはや 無法地帯の感すらある6。本来なら、教育の現場に おいてそうした問題が真摯に取り上げられ、マス コミ等を通じて真剣な議論と問題への対処が論議 されるべきである。ところが急激な少子高齢化の 進む日本において、教育の現場すら耳あたりの良 い「誘い言葉」を多用し、学校が「つぶれないよ うにすること」にともすれば重心が傾くのが現状 であろう。そして可視化された業績主義による競 争原理が跋扈する中では、社会的少数者や弱者の 現状に「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」7寄り添う ことは、回り道であるように思われがちである。 しかし、グローバル化しこれまでその存在にすら 心をとめてこなかった人権問題が意識の上によう やくあがってくる時代にあって、これまで以上に 人権に対する感覚を豊かに持つことが必要となっ ていることは言うまでも無い現実である。そして、 そうしたますます多様化し複雑化する現状に即し た人権教育が十分になされているかを検証する必 要が急務であると言えよう。 本稿では、関西学院大学のこれまで人権教育の 歴史を振り返り、そこから現状の人権教育の有す る問題と展望について考察を進めることとしたい。 序.関西学院大学における人権教育の現状 関西学院大学においては、後述する事情から、 人権教育を教員個人や一学部にその責を負わせる のではなく、建学の理念に関わる重要事項として、 「総合コース」という形で多くの方々のご協力の下、 人権教育科目を提供することによって具体化して きた。「総合コース」は大学紛争後の混乱の中で 「たこつぼ的」な研究・教育から学際的な視野を有 した研究・教育を行う目的で、所属学部(後には 学校の枠をも越え、非常勤講師という形ではば広 い方々に協力をいただくこととなる)を越えた教 員が共同で講義を開講し、学部の枠にとらわれず に学生諸君に講義を提供するというものである。 人権教育科目も開講当初その目的から総合コー スという開講形態を取ってきた8が、2009年度より 講義の目的と性格をより明示するため、「人権教育 科目」という独立した開講形態を取ることとなっ た。ただ、この講義が一部の教員や大学の一部署 によってのみ担われるものであるという誤解を与 えないために、その運営は従来通り大学全体の講 義開講責任を担っている教務課の共通教育センタ ーが総合コースの時と同様中心となり、人権教育 研究室が協力するという体制を維持している。し かしながら「資料」にあるように、関西学院大学 6 在日朝鮮・韓国人に対する悪意に満ちた書き込み、障害者に対する偏見に満ちた書き込み等々は、ここで具体例をあ げるまでもなく、ネット上で枚挙にいとまがない。また、ネット上だけでなく、2011年の大阪市長選に立候補した橋 下現大阪市長の出自をめぐる大手出版社の週刊誌による差別的な報道は記憶に新しい。ただ、本稿においては、差別 語・侮蔑語、あるいはいわゆる「放送禁止用語」をめぐる判断には言及しない。それを巡る示唆に富む考察は、下記 の本に詳しい。 用語と差別を考えるシンポジウム実行委員会編『差別用語』汐文社、1975年 部落解放研究所編『表現と人権』解放出版社、1994年 森達也『放送禁止歌』解放出版社、2000年 上原義広『私家版 差別語辞典』新潮選書、2011年 7 宮澤賢治「雨ニモマケズ」より 8 1973年度より総合コース「日本社会と部落問題」として発足した。

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が全体として取り組んだ最初の人権教育科目であ った「部落問題(講義名は「部落差別と人権」)」 に関する講義の受講者数はここ数年激減しており、 その原因を探り早急にそれへの対策を進めること が焦眉の急となっている。 こうして本学において受講者が激減する中で浮 かび上がってきた受講生の声としては、「セメスタ ー制の講義が大半を占める中、通年科目では単位 取得に際してのリスクが大きい」「毎回コメントを 要求され出席が重視されることで受講生の負担が 大きい」「単位の取得や試験での点数が難しいので はないか」といったものがあり、ここには即効的 な結果を優先し、過重と思われる負担を回避した い学生気質がうかがわれる。しかし、そうした講 義形態という外的な要因以上に深刻な問題と思わ れるのが、「部落(差別)」問題への関心、知識の 低下である。このことは、上記「問題の所在」で 言及したいくつかの人権意識調査の結果とは相矛 盾することのように考えられるが、ここには、人 権に関わる問題が数多く明らかになってきたため、 より自らにとって「身近」と思われる課題に関心 が偏っているというようにも考えられる。それは、 実際、本学の他の人権科目の受講生が必ずしも減 少しているのではないところからも分かる。 そして、実際2011年度「部落差別と人権」受講 生の初期のコメント9にはそうしたものが目立ち、 代表者として講義運営の責務を負うていた筆者は 大きな危機感を覚えた。さらに受講生の中には留 学生も多く存在し、「部落差別」の存在や歴史を認 知していることを前提に講義することも難しくな ってきており、講義担当の講師の方々が受講生の 変化に応じた講義運営をしていただくという新た な負担をお願いすることにもなった。また、学生 のみならず教員側の生育年代の変化や受けてきた 人権教育に濃淡がある中、「部落」そのものの存在 を「知らない」「聞いたことがない」という人も出 てきているのが現状である。そうした、変化の中 で1980年代に関西学院大学においてなされてきた 人権侵害に対する取り組みとそこから生まれた人 権教育体制を以下で改めて考察する中で、本学に おける人権教育の歴史と特徴に対する考察を進め ていく。 1.関西学院大学の危機 1970年代に関西学院大学において起こった人権 侵害問題とそこから生まれた様々な取り組みを取 り上げる前に、その直前に起こった関西学院大学 の根幹と今日本学が本来依って建っている事柄に 言及する必要がある。それは、1960年代半ばから、 日本のみならず欧米の大学をはじめとした教育機 関において吹き荒れた「紛争」とその終焉に向け ての取り組みから生み出された一つの「果実」に 関する歴史である。 当時国内外で激しさを増した大学紛争は本大学 においても例外でなく後述するように「廃校か否 か 」 と い う 大 学 組 織 そ の も の の 存 廃 を 全 構 成 員 (学生も含めた)に問わざるを得ない状況にまで 至った。現在本学が目指す教育や研究は、そこか ら再生に向けての新たな理念と指針が確認された という歴史を抜きにしては語ることは出来ない。 「紛争」の中で厳しく問われた、社会や大学、教 育と研究、そして本学の建学の理念の根幹をなす キリスト教(主義)に今一度厳しく真摯に向き合 い、自らの問いとしてそのことを受けとめ、主体 的に問い直し、その問題点を掘り下げ明らかにし て共有した上で、本学は同じ過ちを繰り返さない 9 本講義においては開講当初より一方通行で、知識を単に「与える」のではなく、受講生が講義によって出会った事柄 に主体的に「関わる」ことを目的としていた。そのため、現在では毎回の講義でコメントを学生よりコメントを回収 し、受講者の有志でそれを編集し、次回の講義で「通信」として受講生に配布することを継続している。また、開講 当初には、受講生をグループに分け、講義ごとに担当グループを決めて、講義後担当グループがグループ討議を行い、 その結果を文書にして次回講義で配布するという形態も取られていた。受講者の増加と共にそれは不可能となったた め、現在の形態をとっている。

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という思いで再出発をしたのであった。ところが 新しい歩みが、数多くの代償の上に訪れたという 記憶も生々しく残る中で、大学において人権侵害 に関わる問題は発生したのであった。数え切れな い犠牲者を出し、文字通り「多くの流された血」 を代償に再生したはずの本学でその根幹が再び問 われる事態になったことは記憶にとどめ続け、そ の原点にいつも立ち戻る必要があると言える。そ こで起こった事柄の本質を今日の時代の中で今一 度受け取り直す意味で、以下で本学における「紛 争」の歩みを概観していくこととする10 1960年代後半、関西学院大学も、日本全体がそ うであったように「いざなぎ景気(1965-70年)」 に伴う大学の大衆化の渦中にあった11。そして、 急速なマスプロ教育が進む中、ベトナム反戦運動 や日米安全保障条約改定に反対する学生らが機動 隊 と 衝 突 す る な ど の 緊 迫 し た 状 況 が 常 態 化 す る 中、人々がそれまで当たり前と「思い込まされて きた」様々な事柄に対して、それらの事柄の本質 を探究し、そこから明らかとなった様々な問題に 対して真摯に是非を問おうとする反体制運動が激 化する状態となっていた。その動きは各地の大学 にも波及し授業料の値上げや学生関連施設の自治 を求めるなどして、バリケード封鎖や大衆団交が 行われ、大学経営や通常の講義等に支障が出始め ていた。 本学にあっては、1965年秋に兵庫県篠山にあっ た兵庫県立農業大学跡地への薬学部建設計画をめ ぐって、学生からの要望に応じた公聴会が開催さ れ、公聴会終了後、その計画に疑義をもった法学 部ならびに社会学部で授業ストが実施されるとい う事態へと発展することとなり、このことが、本 学における大学紛争への序章となった。その後、 全学ストが計画されたこともあって、翌年12月に 理事会が計画の白紙撤回を決定するに至り、これ によって学生の動きは沈静化したかに思えた。し かし、このとき理事会が取った一連の場当たり的 対応は、学生側に大いなる不信感を残すこととな る。このような不信と不満を内包した中、1967年 12月に学費の値上げが決定されるが、この決定後、 文学部・社会学部・法学部・商学部の各自治会は その決定に反対するべく、強硬手段としてのスト ライキを実施する事態にまで至る。この学生側の 行動に対して翌年3月、上記四学部の教授会はスト ライキの中心となった学生に処分を課すことを決 定する。その結果、退学者11名、停学者15名とい う異例の厳しい処分が当該学生に下されることと なった。ところが、この処分に対して異議を唱え 抗議する学生約70名が卒業式当日となる3月28日に 学院本部を占拠し、院長ならびに学長を監禁する 事態へと発展する。この解決のため大学(学院) 側は警察に介入を依頼し事態の収拾を図り卒業式 を強行しようとしたが、結果としてこの対応が後 の本学における紛争の本格化への大きな原因とな ってしまう。 ストライキを行うという学生側の主体的行動を 「処分」という形で権力をもって解決されたことに 大 い な る 不 満 を 有 し、 さ ら に 公 権 力 を 導 入 し て 「大学の自治」を自ら放棄したとの思いの中、学生 側は、1968年11月に全学執行委員長の改選を行う が、その翌月、大学に公認された正式な自治会とは 別に全学共闘会議が結成され、学費値上げの白紙撤 回等を当時の院長であった小宮孝経済学部教授に提 出することになる。学院は、公認組織でない学生か ら提出されたこの要求を当然ながら拒否し、正式な 学生組織である全学連絡会議での話し合いを行おう と試みるが、失敗し、翌年1月7日に全学共闘派学生 による第五別館の強行封鎖が決行され、ここに本格 的な「暴力的」対立が開始される12。この非常事態 10 本学の大学紛争の詳細は『関西学院百年史通史編 Ⅱ』、 『同 資料編 Ⅱ』を参照。また、当時の貴重な写真資料は『関西学院の百年』に掲載されている。 11 1960年度約63万人であった大学生は10年後に140万人に急増した。 12 この封鎖に続いて、1969年1月17日に学院本部が、18日には法学部校舎が相次いで封鎖される事態へと発展した。

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の混乱収拾に向けて1月24日には全学集会が開催さ れるが、全共闘派学生による大衆団交への切り替 え要求がなされる13などして正常な会議運営が行わ れないままに打ち切られ、紛争はますます激化の 一途をたどることになった14 こうして混乱の度合いが増し、問題もますます 複雑化し、解決の糸口が見えない中、入学試験の 実施日が近づいたため、入学試験会場として重要 な役割を担う第五別館15に変わる会場として、体育 館が当てられることが決定される。ところが、そ れを阻止すべく入学試験前日に当たる2月6日午前5 時に全共闘派学生が体育館に突入し「暴力的な」 抵抗と抗議活動を開始する16。この事態を重く見た 大学側は入学試験は社会的責任であるとの見解の もと、中止あるいは延期の措置は回避すべく、機 動隊に出動要請を行った。その結果、第五別館を 除く全校舎の封鎖が解かれ入学試験の実施に向け ての準備が可能となり、翌7日機動隊員に見守られ ての異常な状態の中で入学試験が実施される17。2 月9日早朝になると2500人の機動隊員が学内封鎖の 強制解除を開始、第五別館に立てこもった全共闘 派学生との激しい攻防の末翌10日、封鎖が完全に 解除される。入学試験はそうした騒然とした状況 の中で終了するが、2月15日機動隊の退去と共に再 び全学封鎖が行われ、大学は全面休校を余儀なく され、解決の方向の見えない絶望的な状態へと事 態は悪化していく。 入学試験の終了と機動隊による封鎖解除で平常 に戻るかに見えた大学であったが、機動隊導入と いう強硬な方法をとった反動は大きくその是非を めぐって、全学休校の中、2月26日に全学集会が中 央講堂で開催されることとなる。集会は結果とし て小宮院長・学長代理に対する機動隊導入をめぐ る責任追及の暴力的糾弾の場となり、22時間を越 える糾弾の結果18、小宮院長・学長代理の生命に危 機が及ぶというところまで激化、そうした緊迫し た状況の中最後は、ドクターストップによって散 会となった。そして、小宮院長・学長代理ならび に療養中であった古武学長が辞任する形でさらに 混迷の度は深まっていく。 こうして学院ならびに大学の責任者を欠いた状 態となった本学は、この事態を解決すべく3月19日 小寺武四郎経済学部教授が学長代行に就任し、た だちに「廃校か否か」「新しい大学の創造にむかっ て」と題する二つのアンケートが、全学休校のた め自宅待機状態であった全学生に向かって郵送さ れ、新しい歴史に向けての一歩が始まることとな る。 2.関西学院大学の再生 小寺学長代行によって送付されたアンケートが 回収され、その結果を受け19て1969年5月7日、兵庫 13『関西学院の百年』によると本集会には教職員学生数千人が参加したと記録されており、中央芝生に立錐の余地もな く参集している写真も残されており、当時の大学構成員の多くが参加したことがうかがえる。しかし、こうした要求 によって院長は退席し、正常な議論を求める学生と全共闘学生側との衝突へと発展し、当時の古武弥正学長が急病に より入院、小宮院長が学長代理を兼任することになり事態は悪化の一途をたどる。 14 全学集会終了後、①全学封鎖、②学期末試験延長、③2月初旬に予定されている入学試験実施への目処が立たない 等々、大学の運営が停滞することとなった。 15 現在も利用されている第5別館は1964年7月に激増する学生を修養するため建築され、当時学内で最大の講義棟であり、 入学試験の会場としては重要な施設の一つであった。 16 突入した学生は火焔瓶の投下、投石、鉄パイプを使用し、その結果教職員に重軽傷者がでることとなった。 17 前述の『関西学院の百年』には機動隊に守られて入場する受験生の様子や、体育館前で機動隊と対峙する全共闘派学 生の様子が撮影された写真が残されている。 18 当時の写真によると壇上ならびに会場の前に全共闘学生学生が角材等を持って陣取り糾弾している様子が残されている。 19『関西学院事典』によると、4月7日、アンケートその1の最終結果がまとまったと記されている。結果は学生総数約1 万3千余名中、回収総数は6,825名、その内、廃校を望むのは92名。また全共闘派学生のバリケード封鎖に反対する 者は94%にのぼった。

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県民会館20において開催された全教職員集会におい て「関西学院大学改革に関する学長代行提案(後、 小寺学長代行提案と記す)」21が発表される22。そし てその後、各学部において対話集会が開催され、 最終的に1969年6月9日関西学院発祥の地であった 旧「原田の森」にある王子陸上競技場(現、王子 公園陸上競技場)において改革結集集会23が開催さ れ「小寺学長代行提案」は満場の拍手で支持され ることとなり、ここに関西学院大学再生への歩み がようやく始まることとなった24 6月14日には大学の封鎖が解除され、上ヶ原キャ ンパスへの復帰が適う。荒廃したキャンパスに帰 った教職員・学生による清掃活動等をへて、6月16 日に授業が再開され、夏休み期間も講義を実施、 予定より約4ヶ月あまり遅れて8月3日に卒業式が実 施され、ようやく「紛争」後の正常化が本格化す ることとなった。その再生の指針となったのが次 に述べる「小寺学長代行提案」である。以下でそ の内容を概観し、今日における意義について考察 を行う。 3.「小寺学長代行提案」という新たなる礎の誕生 関 西 学 院 大 学 は 建 学 の 理 念 を キ リ ス ト 教 主 義 (Princilpes of Christianity)においている。その始ま り は 関 西 学 院 創 立 時 に つ く ら れ た 関 西 学 院 憲 法 (Instituion of Kwanseigakuin)に遡る。1899年の文 部省訓令第12号25や二つの世界大戦中の危機の際に もその理念は捨てられることなく継続し、特に第二 次世界大戦後のキリスト教ブームではキリスト教教 会やその敷設幼稚園等が賑わいを見せたが、多くの 教会が設立する中でキリスト教やキリスト教主義の 内実が真摯に問われることも少なかった26。しかし、 大学紛争の中で、本学はその内実を大きく問われ る事となり、それに答えることなしに再生は不可 能であった。その具体的応答が先述した「小寺学 長代行提案」である。「わが国の私立大学のおかれ ている現実は、一般に考えられている以上に悲惨 であり、苛烈である」という言葉より始まる「私 学の苦悩」と題された文章を皮切りに当時の時代 と大学や学問・研究・教育、そしてキリスト教主 義の意味等々が深い洞察の下に5万字以上を費やし て語られていく。 20 この集会には、約460名が出席した。兵庫県民会館は関西学院の創立者であるW.R.ランバス宣教師(関西学院初代院 長)が来日し最初に創立した教会(当初の所在地とは異なる)である日本基督教団神戸栄光教会(創立当初は、南美 以美神戸教会)の東隣である。後に開催される「改革結集集会」が関西学院発祥の地である原田の森(現、王子公園 一帯)で行われたことも併せて、混乱の中、原点に立ち戻ることが期待されたと想像される。 21 全文は、『関西学院百年史 通史編Ⅱ』頁参照。 22 大学が封鎖され混乱している中でも、同窓による「母校を守る会」、教職員による「関学を守る会」、学生有志による 「関学革新評議会」が相次いで結成され、正常化に向けた取り組みが各方面で始まっていたことも覚えられねばなら ない。「関学革新評議会」は1969年3月17日には自主集会を開催し、それを阻止しようとする全共闘派学生と対峙して いる。 23 記録によると1万人近い教職員・学生が参集したとされる。その時の写真を見るとスタジアムの観客席を埋め尽くし ている参加者の様子がわかる。 24 本集会にも全共闘学生は乱入するが、他の参加者によってその活動は阻止されるに至った。なお、全共闘派学生と呼 ばれる学生達の主義や闘争目的、暴力闘争に至った経緯やその評価に関しては本稿では言及しない。 25 この当時の関西学院の状況に関しては以下の論文に詳細がしるされている。 田中敏弘「明治の天皇制国家主義と関西学院−文部省訓令第12号と「認定」問題をめぐって−」(『建学の精神考 第 2集』関西学院キリスト教主義教育研究室、1995年)。 この論文の中で、この訓令によって、「学科の編成替えと内容の変更、教育勅語の授業」といった形で関西学院の後 の歩みに大きな影響が出たと記されている(上掲書24頁)。 26 その後キリスト教界においても「パウロ主義批判」論争に代表される、激しい神学論争やキリスト教ならびに教会批 判が起こり、本学でも神学部を中心に大きな運動が起こるが、今回の論考は「人権教育」に焦点を置くため、そこへ の考察は今後の課題とする。

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冒頭の「私学の苦悩」で論ぜられる内容は、当 時の日本の大学生の75%が私立大学の学生であり、 学費は国立大学の数倍に及んでいる現状や、私学 経営の置かれている現状が大いなる憤りと嘆きの 内に述べられている。その後国立大学と私立大学 の学費格差は国立大学の学費の大幅な値上げとい う主客転倒した「解決」法で小さくなったが、経 済的富裕層が高等教育を受けるのに有利な状況は さらに強まっている今日、今も色あせない苦悩で あろう。 それに続く、「大学における学問と教育」に関す る項では、「現代の技術・産業社会にある大学は、 その使命として、専門科学の研究と教育をますま す推進しつつも、このような人間疎外27をいかに克 服し、いかに人間を回復するかについての基本的 理念を示すことを求められているのであり、ここ に現代における大学の学問・教育の苦悩があると いえよう。」とあり、現代も変わらぬ大学(高等教 育機関)の使命が記される。さらに大学の使命は 「専門科学の研究と教育をおし進めつつ、同時に常 に学の根底に帰って、その意味を問う態度を堅持 するとき、大学は専門科学の研究と教育面におい て社会に貢献する一方、高度産業社会、管理社会 にあって人間の疎外に警鐘を打ち鳴らす『批判の 府』たりうるであろう。」と結ばれている。「批判 の府」としての大学の使命、それは、まさに人権 に関わる様々な隠された問題を掘り起こし、そこ に焦点をあて続ける、その姿勢を無くしたときに 大学はその存在意義を失うことを同時に意味する のであろう。そしてそうしたことを可能とするた めに不可欠な「大学の自治」に関して考察が続け られる。「大学の自治」の本質は、ここまでの歴史 をたどる中、本学が激しい紛争に歩みを進める大 きな要因の一つとも考えられるが、この点に関し ては次のような見解が示されている。 「大学は社会から一応独立した立場にたち国家権 力や産業界など大学外の社会から自由でなければ ならない。これは大学が大学としての役割を果た すための基本的条件として一般に認められるとこ ろである。」とされ、そして、大学の自治における 重要な原則として、 ①学問・思想の自由の原則 ②研究・教育内容の自主的決定の原則 ③大学の管理・運営の自主自律の原則 ④大学の構成員たる教員、職員、学生の対等 の立場と機能的差異を前提とする 民主的自治の原則があげられている。 この四つの大原則には不断の検証が必要である が、「大学も経営的に潰れる」時代になった今日、 大学が置かれている厳しい環境の中でさらなる検 証が必要であろう。特に時として閉鎖的な社会と なり、一般社会での常識に疎くなりがちな学校と いう組織の中で「④」の原則は忘れられがちであ り、いわゆる「キャンパスハラスメント」のよう な問題が起こる温床となる可能性を常に大学はは らんでいることへの注意が今日さらに重要である。 最後に本学特有のキリスト教(主義)と大学の 関係に関しては、紛争までのあり方の反省として 「キリスト教そのものが『心情』や『道徳的な教え』 となった結果、それらのもつ本来の厳しさを失っ てムード化していたきらいがある。」との指摘がな される。そしてキリスト教の目指すものが、互い の矛盾を隠蔽したり、かばったりする互恵主義で はなく「隣人への愛が本当に成り立つためには、 まず人間の自己中心性が徹底的に打破されねばな らず、そこでは人間が、自分の最も愛するものさ え捨てることが要求されてくる。」「キリスト教の いう隣人愛は、単なる人道主義とも区別されなけ ればならない。つまり、そこではただ『相手にど 27 この文章の前段に西洋における中世の誤れる権威から人間を解放したはずの近代ヒューマニズムによって進められて きた市民社会と科学技術が、現代では人間性を圧迫し疎外現象の原因となっている、という表現がある。この指摘は、 昨年の東日本大震災によって明らかとなった原子力発電に依拠して発展してきた日本をはじめとした「先進」諸国を 暗示するようにも感じられる。

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うかかわるか』というだけが問題になっているの でなく、同時に自分が『自分自身に対してどうか かわるか』という自分自身のあり方が問題になっ ているのである。」とその峻厳さが述べられていく。 さらに「隣人愛の関係は、自分を常に相手の批判 の前に誠実にすえることを通して、『自分を絶対化 すること』を厳しく退けるものである。」と述べら れ、大学のみならず、一人一人の実存のあり方に まで言及されていく28 以上の表現から分かるように「大学紛争」によ って厳しく問われた大学とその存在意義に対する 本学の立場が極めて厳しくまた明確に示され、建 学以来最大の危機であった「廃校の危機」を乗り 越え再生に向けての礎がここに示されたのであっ た。しかし、そのわずか数年後にこの礎にそって 再生してきたか否かが問われる出来事が起こる。 それが、一教員によってなされた人権侵害発言に 始まりその後繰り返される、大学における人権に 関する諸問題の発生である。 4.新たな問題の発生 1969年夏、大学存廃の危機をようやく脱し、「小 寺学長代行提案」を新たなる原点として再出発を した関西学院大学であったが、そのわずか2年後、 大学の見識を問われる問題が発生する。1971年11 月30日商学部の英語の授業中、担当の教員が英文 を翻訳した後、その内容の解説に際して、「部落差 別問題」に対する不見識な発言を行うという出来 事が起こったのであった29。この出来事以前にも近 隣の大学(大阪市立大学や大阪大学、また教育者 養成を使命とする大阪教育大学、ならびに立命館 大学、そして本学と同じキリスト教を建学の理念 とする同志社大学)においてすでに教職員による 問題発言や差別落書が発生しており、その問題性 が明らかになり厳しく問われていた矢先の出来事 であった。 しかし当初、この発言は、「発言全体からその一 部だけを切り離して大きく問題視することへのため らいや、“言葉狩り”という悪称を生んだ指弾傾向 への反発がからんで、また政治色の濃い運動の浸透 への心配も重なって」30その問題の本質が問われる 事よりも「まずい発言」というとらえ方にとどまる という結果に落ち着いてしまう。そして、その当然 の帰結として約一年後、1972年10月26日に再び、今 度は法学部教員によって同様の差別発言が繰り返さ れるという事態へと発展してしまう31 こうして、一連の教員による差別発言、また学 内で頻発する差別落書の問題性をいかに理解しそ の解決へ向けた行動を具体的に起こすかという急 務の課題が大学紛争収束間もない大学に課せられ ることとなる。当時の部落解放運動と学内の学生 によって組織された部落問題研究会(後は部落研 と表記する)の立場を詳細に比較することはしな い32が、「小寺学長代行提案」によって、「批判の府」 として厳しい自己批判なしに大学の存在意義はな いとして再生を試みた本学にとって、この問題に 28 本来であるならここで言及される「キリスト教(主義)」と今日の大学、あるいは人権への姿勢をめぐる考察が必要 であるが、その考察は今後の課題とする。 29 この問題の詳細は、同和教育プロジェクト・ティーム編「『同和教育』研究・討議資料(1)・(2)」の3-6頁ならびに 同資料に所収されている熊谷一綱(当時の商学部宗教主事)「差別発言・落書事件について」に詳細が掲載されてい る。本稿では実際の表現があまりに深刻な差別的な発言・表現のため、また今回の論考の直接の目的とは異なるため、 あえてその表現を掲載することは控える。 30 同上「討議資料」16頁-17頁。 31 同上「討議資料」6頁を参照。 32『部落解放』第24号、1972年3月号に掲載された当時の部落解放同盟の次の主張は「小寺学長代行提案」によって問 われたそれまでの大学やキリスト教のあり方に酷似している。 「現代の課題に応え得ない学問や教育はそれ自体無意味と断ぜられてもしようのないものである。しかも基本的人権 にかかわる現在の部落問題に応えない学問や教育のありさまは、それ自体根本的に批判にさらされざるを得ない。部 落解放の運動と理念は、かかる課題を大学に提起し、問いつめている」

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誠実に向き合わないことはそのまま自己否定につ ながるものとなることは必至であった。そして部 落研の学生から「実際に闘われている解放運動に 原理的に即応した教育を大学は進める」33ように要 求がなされたとき、それは「小寺学長代行提案」 で厳しく語られた「大学は『象牙の塔』となって 社 会 か ら 隔 絶 し、 自 分 を 絶 対 化 し て は な ら な い …<中略>…社会のもっているそうした根本的な 問題性をあばき批判するという意味で『批判の府』 としての大学のあり方を、より根源的な意味で堅 持することによって、社会に貢献し奉仕すること でなければならない」という言葉の具体的展開を まさに迫られたことになったといいうるのである。 こうした切迫した事態に直面した大学のその後 の対応を簡単に記すと次のようになる34 1972年1月7日 大学評議会にて、次年度より総合 コースにて「同和問題」を開設す ることを決定 1972年2月4日 大学評議会にて学長の諮問機関と して「同和問題委員会」設置決定 1972年6月27日「同和問題講演会」第1回を開催 10月 「部落問題資料」を全教職員に配 11月24日「同和問題映画会」第1回を開催 4月 総合コース「日本社会と部落問題」 開始 本学作成の「同和問題資料」を全 新入生ならびに全教職員に配布 (中略) 1975年9月9日 大学評議会にて「同和教育の基本 方針」が決定される 10月3日 大学評議会にて「同和教育の企画」 ならびに「同和教育研究プロジェ クトチーム(以下「同プロ」と略す)」 設置 11月4日「同プロ」発足 以上のような経緯で本学における本格的な人権教 育が「同和教育」をきっかけに開始されることと なったのである。ここで留意し、今日改めて再考 し再評価すべきが、「同プロ」の中で議論され、生 み出されてきた様々な成果である。「同プロ」はそ の発足から隔週月曜日に研究会を開催しその歴史 の中で120回を越える研究会を継続してきた35。そ こで研究されてきた果実は『「同和教育」研究・討 議資料』という形で1976年12月20日発行の(1)・ (2)合併号から1986年10月1日に発行された(6) 号までに納められている。そして、特に(3)・ (4)合併号(1979年6月1日発行)と最終号となる (6)号(1986年10月1日発行)では、特にキリスト 教や聖書・神学あるいは宗教と部落問題・差別と いったことに焦点が当てられた研究論文が学内外 の研究者によって寄せられている。 ここには、本学が大学紛争以来問われ続けてい る、様々な問題をはらんだ社会の中にありながら、 建学の精神を以下に実りあるものとするかへの大 いなる示唆が存在している36。一例をあげるとキリ スト教で当たり前のように語られる「神の前での 平等」に関する次の論考が示唆深い37 最初に筆者はデンマークのキリスト教思想家S.キ ェルケゴールの著作『愛の業』(1847年)を取り上 33 前掲「討議資料」17頁。 34 詳細は、同上 4頁-5頁を参照。 35 各会の内容は「本学における同和教育の総括と今後取り組むべき課題(1997年度増補版)」関西学院大学、1997年、 の81頁より90頁に詳細が記されている。 36 個々の論文の中で問題とされた課題は現代においても今なお色あせぬものであると考えられる。それぞれの論文と現 代における人権・差別・人権教育との関わりに関しては今後の課題とする。 37 林忠良「キリスト教の人間理解と差別」(「討議資料(6)」44頁)参照。

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げながら、そこで言及されるキリスト教の隣人愛 について考察を進めていく。そしてキェルケゴー ルが「すべての人を、神のために、神関係におい て愛すること」と規定しているが、そのため「人 間的な差異はその意義を失うものでなければなら な」くなる。こうした理解の意義はT.W.アドルノ によると「一面において近代市民社会の人間的平 等の仮象性を暴いたものであり、ブルジョア的平 等の教説が単なるイデオロギーに過ぎない」こと を看破したものであるが、一方「社会的不平等は 世の力に委ねられたままに放置看過されることに なったと批判」されたと指摘される。その後、筆 者の考察として、「宗教が差別の問題とかかわりを もとうとするとき、宗教は、社会的不平等と無媒 介に『人間は神の前に平等である』と語ることか ら出発してはなら」ず、「つねに現実に存在する 『不平等』を視野に置き、それとのかかわりのなか で、ではいかにして『人間が真に平等になる』こ とができるのか」という視点を不断にもたねばな らないと結論づけている。 この「不平等」言い換えれば社会的「不公正」 にみずから関わり、それに対して常に「批判的な」 態度を堅持するというのは、「小寺学長代行提案」 で述べられた「批判の府」としての大学のあり方 に直結すると言えよう。 結び ここまで、雑駁ではあるが、本学の人権教育の 出発とその黎明期に関する論考を重ねてきた。キ リスト教(主義)を建学の理念とする本学におい て、それとの関連を無視してはその歩みは空虚な ものとなる。本学の人権教育もまた例外ではない が、「小寺学長代行提案」提出時の事情に詳しかっ た 方 々 、 ま た 「 同 プ ロ 」 に 直 接 関 わ っ た 方 々 が 次々と定年を迎えられ、また逝去されていく今日 にあって、改めて本学の人権教育の原点を振り返 る必要があると言える。ここまでの振り返りの中 で改めて山積する課題も明らかになった。 国内の個別の人権問題へのまなざしは言うまで も無いが、これまで幾多の人々によって明らかに されてきた「人権」そのものの本来的な理解から 真の人権文化をはぐくむ必要性、また2011年3月11 日の震災と原子力発電所の事故によって大きな岐 路に立たされ、またその現実から新たに明らかに なった人権問題も数多い。 こうした我々の前に本来存在している、問題に 「主体的に関わり」「批判の府」として「自己を絶 対化することなく」存在する大学の姿を模索し続 ける必要に迫られていると言えよう。

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資料 科目名 人権教育科目001 「部落差別と人権」 人権教育科目002 「在日朝鮮人と人権A」 人権教育科目003 「在日朝鮮人と人権B」 人権教育科目004 「人権から見たジェンダーA」 人権教育科目005 「人権から見たジェンダーB」 人権教育科目006 「障害と人権」 人権教育科目007 「人権と共生」 人権教育科目008 「人権問題入門」 人権教育科目009 「多文化社会と人権」 人権教育科目010 「セクシュアリティと人権」 総合政策学部・理工学部 合併科目「差別と人権」 科目名の変更について( ∼2008年度) 総合コース412「部落問題」 総合コース425「人権と共生」 総合コース427「障害者問題」 総合コース429・430「在日朝鮮人問題」A・B 総合コース435・436「男性社会と女性」A・B 総合コース486「人権問題入門」 総合政策学部・理工学部科目「差別と人権」 総合コース491「滞日外国人の抱える問題と人権」 (2009年度∼2010年度) 人権教育科目001「部落問題」 人権教育科目002・003「在日朝鮮人問題」A・B 人権教育科目004・005「人権から見たジェンダー」A・B 人権教育科目006「障害者問題」 人権教育科目007「人権と共生」 人権教育科目008「人権問題入門」 人権教育科目009「滞日外国人の抱える問題と人権」 人権教育科目010「ヒューマン・セクシュアリティ」 総合政策学部・理工学部合併科目「差別と人権」 2000年度 170 103 113 609 298 279 306 2001年度 149 108 162 442 244 306 220 2002年度 206 89 50 541 287 290 40 96 2003年度 217 102 82 805 692 246 10 122 2004年度 237 34 38 229 279 395 34 486 440 2005年度 172 107 103 73 181 269 18 427 382 430 2006年度 125 12 27 125 154 217 24 173 273 270 2007年度 106 70 53 100 106 210 23 189 277 270 2008年度 74 59 72 177 509 343 52 184 240 351 2009年度 22 64 76 133 178 90 64 181 281 64 508 2010年度 18 78 56 155 84 21 22 163 101 200 201 2011年度 38 113 220 141 213 58 50 189 365 153 200 人権教育科目受講者数の推移(2000年度∼2011年度)

参照

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