イギリス重商主義の特色
白 杉 庄
一
郎
一 イギリス資本主義はアメリカ合衆国の独立ないしナポレオン戦争の終了を転換期として自由主義段階にはいるが、こ ① の段階にはいった後にも重商主義的傾向の存続したととは、私のかつてくわしく指摘して語いたところである。これと も も も へ うらはらをなす事実として、私はここで、イギリスの重商主義段階がすでに、その個性的特色として、かえって逆に、 自由主義段階に連続する自由主義的傾向をもつていたというととを指摘しておきたい。そして、とれこそは、私が、地 理的大発見によつて成立したヨーロッパと東洋および新大陸を包括する新しい世界経済を地盤とする重商主義的世界商 業戦において、イギリスが究極の覇権を確立し、これの前提として、またこれを前提として、資本制生産様式の古典的 形成に成功するにいたった歴史的経過をあとづけてみて、最後にしからばとの追究は︸体なにがぞギリスをして重商主 義的世界制覇を達成するをえせしめたと結論されうるかと問われる場合に、私のもつ回答にぽかならない。それは、あ るいは前説と撞着する逆説のようにきこえるかも知れないQしかも逆説でもなんでもない。問題はひとえにイギリス重 商主義の個性的特色にかかわっているのである。 ①拙著﹃近世西洋経済史研究序説﹄︵一九五〇年︶結論@ イギリス重商主︷義の特色︵白杉︶ 七一七二 イギリス・ブルジョア革命の妥協的性格に関連して、ヘクシャー︵国●鵠①。四壁①ひO韓三㊦鱒碧げ募豊凶Mod鼻●炉ω。ねH一鼻幽b。︶は、 イギリスの革命がフランスのそれに比較して・不徹底であったことが、イギリスをして、政治的にはいうまでもなく、社会的にも経済 的にも古い形式を保持せしめたといっている。たしかに、そうであったQしかし、古い形式にもかかわらず、それにもられた内容は その形式とは似ても似つかぬものであったというのは︵QD●駐㎝−潰ρ障﹃一瞳。。︶、全面的には首肯しがたい解釈であって、古い形式に .もられた新しい内容がその形式から全然自由であったとはなしがたいであろう。産業革命以後における資本制生産様式の確立そのも のが重商主義的遺産の上にのみ可能であ.つたのである。そのかぎり、自由主義段階は、単に形式的にではなく、同時に内容的に、重 商主義的なものを残存せしめ、むしろこれを基礎としていたといわれなければならないところがあるのであるQ リプソンもいっている。 ﹁イギリスの最初の計画経済︹重商主義︺の衰退は,その成長とおなじく漸次的であったQ⋮:それは勿 論アダム・スミスによって打倒されたのではなかった。﹃産業革命﹄のはるか以前にそれは個人主義の陰険な滲透によって穴だらけに されていた。そしてそれは自由企業制度に転化していったが、これはその根本概念とは性質の異なったものであった。一般的にはそ れが機能したのは十六世紀の中葉から十八世紀末にかけてであった。しかし一部分は、すなわち農業保護は、実際に十九世紀の中葉 まで生残つたQ他の部分は、すなわち工業保護は最近一九三二年に復活せしめられたのであって、イギリスはこの年に、他の国々が かつて本当に放棄したことのなかった重商主義に決定的に復帰した。﹂︵両・U首のoP>国pP昌①画国8ロ。ヨ鴇O地織おΦ国巨嘆嘆置ρ鑑心♪ ℃﹄心・︶ 重商主義に計画経済の概念を適用しているところには疑問の余地がなくはない。しかし重商主義が自由主義によつて簡単にとりか わられたものでないことを指摘しているのは、正当としなければならない。勿論、重商主義の復活が説かれているのは、正確とい えないであろう。しかし資本主義が続くかぎり、重商主義がそれの一面として生きて現に働いていると見らるべきところのあること を指摘しようとしているのだと考えるならば、その種の.主張も示唆的なところをもたぬではない。この見地からして私ほまたリプソ ンのつぎの主張に関心をよせる。 ネオマーカンティリズム 、 ステートクラフト マなカンタイルリシステム ﹁新重商主義と名づけてよい現在の経済政策と、十七世紀に存在した重商主義とのあいだには、いちじるしい類似点がある。 両者は同一の根本目的ーー政治的独立の結果としての経済的自足の達成−によって鼓吹される。両者は同一の方法にうったえてそ キド インダストリロズ の目的を達成する一輸入の抑制、各国との均衡のとれた貿易を目的とする政策、金の輸出禁止、通貨の巧妙な操縦、基軸産業の 助成、および社会の生産力を適当な水路に転ぜしめるための経済生活の組織化。もし十七世紀の経済学者たちが現代のヨーロッパに
, 帰ることができたならば、彼らは自分がよく知っている雰囲気のうちにあることを見出すであろう。もしアダム・スミスがもどって きたならば、彼は﹃国富論﹄が無駄に書かれたのであったと感ずるであろう。かくして変化した状態のもとで世界は、永久に放棄さ れたと考えられた経済制度に復帰し、ているのであるoL︵Hσ一匹・︸づ弓◎﹃1−QQ■︶. 私は、かつて述べておいたごとく︵上掲拙著一二四−六頁︶、ここに見られるりプソンの重商主義観には疑問をもつ。しかし、重商 主義が簡単に死滅してしまったものでないことの指摘だけは、どこまでも正しいと考える。 二 大発見によって成立した新しい世界経済の成立をめざして、ポルトガル、スペイン、オランダ、フランスおよびイギ リス等の西ヨーロッパ諸国が順次重商主義的活動を展開したが、それぞれ独自の性格をもつ各国重商主義の成否は、そ れが成立の地盤であると同時にその員標をなした・との新しい世界経済の欝造に相即する度合に依存した。重要なの は個々の経済条件ではなくて、各国民経済の歴史的個性的な構造であった。しからば、重商主義的世界制覇に成功した イギリスについて、我女は何をもつてこれを決定した歴皮的個性的原因とみなしうるであろうか。 イギリスの世界制覇を可能ならしめた原因として、ます、イギリス本国の島国としての地理的優位があげられねばな らぬ。イギリスは島国とはいえ、大陸に隣接する島国であって、孤立しているのではなく、そのうえ潮流のせいでその 気候は同緯度の他の土地よりも穏和であったため、たえす大陸から文化の進んだ征服者が、古代ローマーーラテン丈化の 伝達者たちや、チェートン文化の伝達者たちが侵入してきたりしかも、島国であったために、これらの文化は重層的 に累積される傾向があった。すなわち、上記の源流を異にする二つの文化が結合されて、イギリス独自の文化が形成さ ② ﹁ れるのである。 イギリス重商主義の特色︵白杉︶ 七三
七四 ② ﹁この点においてイギリスは、二三のゲルマン的出資はあってもラテン的基本金の方がいつも多かったフランスやイタリーとは根 祇から異なっているし、またそこではラテン黒化がしばしば嫌悪をもつて排斥される一個の装錦物にすぎなかったドイツとも根祇か ら異なっているQ﹂︵アンドレ・モロァ﹃英国史﹄邦訳上二三頁︶ ヘ へ もっとも、イギリスについて真実島国としての地理的優位というようなことがいえるようになるのは、近世にはいっ てからのことである。地中海が唯一の交通圏であった古代においては、イギリスは世界の周辺であり末端であった。。バ ルト海交通圏が地中海交通圏とならんで重要性を延びるにいたった中世に導いても、事情はぼぼ同様であった。そして 申世においてはイギリスはむしろ大陸的であった。すなわち、 一〇六六年のノルマンの征服以来、中世のイギリスは大 陸に広大な領土を有していた。イギリス本土にはわすかにイングランドを領有するのみで、フランスにおける領土の方 が大きかった。かくして中世のイギリスはアングロ・フレンチ・キングダムとよばるべき一種の二重国家を形成してい たQとの二重性を清算して、イギリスが真の島国となったのは、ご二四年のブーヴィーヌの戦、および特に百年戦争 ︵一三三七!一四五三年︶以後のことであった。 百年戦争はイギリスを大陸から切断し、国民的発展の新しい軌道を開いたという意昧において、その敗北にもかかわ らす、イギリス史上に重要な意義をもつ、無論、百年戦争以後についていうにしたころで、F・リストのごとく、 ﹁イ
、、、、、、、、③
ギリスは、ヨーロッパに対してつねに一つの世界であった﹂などというのは、あきらかに.言いすぎである9しかし、これ によって確定したイギリスの一大陸縁辺の島国という一地理的位置が、国民の自主的発展に重要な影響を巻つにい たったととは、否定さるべくもない。国民生活を大陸内の紛争から遮断したととはいうまでもなく、経済生活の自主的 国民化、民主的政治制度の発展、宗教改革の平和的遂行のごときも、大陸からの相対的孤立におうととろが少くないの である。③F・リスト﹃政治経済学の国民的体系﹄第一篇第四章 r これに加えて、近世初頭における地理的大発見は、ヨーロッパの舞子にくらいする算筆群島として経済的にも丈化的 にも大陸諸国の後塵を拝し、政治的には群島内部の統一とスランス侵略とを国是としていたイギリスに、世界の中心と しての地理的優位をあたえるととになった。すなわち、大発見が交通の手心を内海から外洋へ移し、イギリス自体がま た群島内部の国家的統一を強化するとともに、大陸政策を一堕して、その国是を海洋ならびに海外諸国への発展に向け るにおよんで、俄然、イギリスの地理的特徴がその意義を発揮するにいたった。かつてはヨーロッパの.早手にすぎなか った島国が、発達した海岸線と良好な港湾とをもって、いまやヨーロッパ大陸と大西洋およびインド洋との通過点とな り、世界的活動を展開すべぎ絶好の条件をあたえられるにいたった。それに、イギリスは四面環海の島国として他国と の直接の黒帯をさけ、大陸諸国が多大の犠牲をはらうととを余儀なくされた国境紛争とそのための常備軍の維持費とを まぬがれ、それによつて節約された国力をあげて海上活動にもちいるととができた。陸戦の不利な影響をまぬがれえた ばかりでなく、逆に大陸の戦争から利益を搾取することによって、国民的資本の蓄積に好影響をあたえることができた のも、大陸からの相対的孤立におうところが少くなかったのである。 イギリスの世界制覇を可能ならしめた地理的条件は以上のごとくであるが、しかしこの条件をもつて決定的と見ると . ④ とは正しくないであろう。との条件を活用したのは、どこまでも、そのもとに生きて働く入聞であったのだからである。 ④イギリスの世界制覇を可能にした決定的条件を地理的事情に求める見解がいかにあやしげな結論に到達せざるかの一例を我々はつ ぎに見る。いわく。﹁少数の人口と比較的無能率の政府とを有したる小国なるにもかかかわらず、英国が世界無比の一大帝国をどうし て建設するに至ったか。その原動力はどこにあったかといえば、吾人は結局これを農耕に不利なその寒冷な気候と小島国的地位とに イギリス重商主義の特色︵白杉︶ 七五
弓 七六 求めなければならぬ。かかる自然的環境がはやくより国民に海上貿易と海外発展とを強いた。国民のかかる海上活動を保護し、その 島国的国防を害うする必要は、強力な海軍・の建設を促した。しかして、その強力な海軍は、英国国家の安全のみでなく、英国民の海 外膨張と海上貿易の増大とを確保する主柱となった。L云々。︵藤原守胤﹃アメリカ建国史論﹄上、一九四〇年、五一三頁︶。イギリス へ ぬ ヘ ヘ へ の農耕に不利な気候と小島国的地位というのは一体イギリスのいっからの自然的環境であったのであろうか。そして、これを﹁原動 ヘ ヘ へ し ヘ へ 力﹂とする海上貿易と海外発展とは、一体いつごろからはじまるわけなのであろうか。 三 イギリスの世界制覇を可能ならしめた条件として、つぎに、企業心ないし胃険精神あるいは愛国心の旺盛といった主 体的条件があげられる。たとえば、カニンガムはいっている。 ﹁イギリスの究極的成功の秘密は、個々のイギリス入の エンρープラィズ ⑤ 企業心と愛国的感情の強さとによこだわっていたように思われる。﹂ ⑥≦・08三鵠讐曽β﹀⇔界。・p。矯。昌≦①ωθ①ヨΩ註凶ω。。菖。コご寒国88巳。♪。。需。ジ目やb。δ またリプソンは書いている。 ﹁究極において植民的発展は、中世においてフランスの戦場に排口を求めていた胃険精 神の表現と見られなければならない。エリザベス朝の盛時を特微づける国民的精力の爆裂は新しい現象ではなかつ充。 その意義はむしろ従来は見すばらしい水路に自己を消散させていた活力が他の﹁層有効な方向に支出されるにいたった という事実に存する。新世界の発見はとの国民にその真実の領分すなわち海を啓示した。そしてイギリス民族の膨脹は 歴更の論理であった。﹂ ・ ⑥ 国・目甥。戸↓ゴ。国8昌。ヨδ出剛ω8曙oh国ロぴq冨昌ρ︿9●目噂℃■属Q。. たしかに、中世におけるイギリス民族︵アングロ・サクソン︶の形成そのものが胃険.精神の所産であったともいえるの
であって、この民族がその伝統をもつていたことは事実である。しかし胃.険精神の優越が、イギリスの世界制覇を可能 ヘ ヘ ヘ へ ならしめた決定的な主体的条件であるなどとは考えられない。中世においてイギリス民族に,おとらす一いなむしろこ の民族以上にf1胃険的な他・のヨーロッパ諸民族があり、近世にはいっても、大発見というような大半険の敢行者を筆 頭とする先輩諸民族があったからである。したがって、イギリスがそれらの先輩諸民族を凌駕して世界制覇を完成した については、冒険精神以上の主体的条件がそれに加わったのでなければならない。 ヘ へ も も ヘ ヘ イギリスの世界制覇の基礎はいうまでもなく単なる精神的・主体的条件によってあたえられたものではなく、重商主 義的経済政策とそれを掩護する武力とによって奪取されたものであった。けだし世界的覇権の樹立を企図したのはイギ リスだけでなく、同様の目的をもつたヨーロッパの他の国汝との斗争によってイギリスはその目的を達成しなければな らなかったからである。しかし単なる武力がとの国の世界制覇を成功させたのではない。イギリスは、広大な植民帝国 の建設過程において、そのときどきにおける最も強力な競争者を敵国となし、微力な競争者に対しては原則として親善 政策をとり、もって攻撃の全力を最も恐るべき敵手に集中するものをつねとした。たとえばスペイン王位継承戦争︵一 七〇一1=二年︶、オーストリア王位継承㍊戦争︵一七四〇i四八年︶、七年轍戦争︵一七五六一六三年︶、ナポレオン帆載御争︵一七 九㍗⊥八一五年︶など、イギリスの植民地獲得戦争はヨーロッパ大陸において戦われることが多かったのであるが、と れらの戦争においてイギリスのために戦ったのは、イギリス自身の軍隊よ塾はむしろ、戦費をイギリスに仰いだ同盟国 の軍隊であった。しかも最も恐るべき敵手といえども、一旦これを撃破して、もはや危険を感じないようになると、イ ギリスはこれとの親善の回復につとめ、新興競争国との戦争にさいしてこれを自己の同盟国たらし.めようとした。この 政策は無論その本質において自己め利益の狡智な打算にもとつくものであった。しかし我汝はそれを単に大胆巧妙な外 交とのみかたづけてしまうごとはできないのであって、すくなくとも一部分は、イギリスにおいて他のいすれの国にお イギリス重商主義の乱特色︵.・日杉︶ 七七
七八 ヘ へ も ヘ ヘ ヘ ヘ へ も も ヘ ヘ へ けるよりも早く覚醒して特有の政治体制の創造にみちびいた市民的自由の精神の一いわばi対外的表現として、正 当に評価するととをおとたってはならないであろう。 勿論,イギリス的自由は、その本質において市民的・個入主義的であった。したがってイギリス特有の対外政策はけ っして相手の入試を尊重するということを基調とするものではなく、その青砥となっていたのはどとまでも自国の利益 であったQにもかかわらず、それをヨーロッパ諸国の対外政策と此較する場合、イギリスの政策が相手を生かしてかか る側面をもつていたことは否定しえないであろうQ異民族支配の場合にも、同様の相違が認められる。東インドにお・け る植民活動についてはいうまでもなく、アメリカにおけるそれについても、イギリス入が他のヨーロッパ諸国民とおな ⑦ じく圧制的な側面をもつていたことは、否定するととのできない事実である。しかしイギリスの植民政策を他の国々の それから区別する﹁つのきわだった特徴として、我女は同時に、それが一部分は相手を生かしてかかる側面をもつたと いうととを、いいかえるとイギリスの場合いわば覇道がなにがしか王道の側面をもつたというととを、看過してはなら ⑧ ないであろう.。 、 ⑦前掲拙者二五八−二六六頁 ③ シュルツエーゲヴェルニッツは、イギリスにおける国民的なものと、人類的なものとの合一をピューリタン的選民思想に帰してい ヘ へ う る。すなわち、﹁アンダローサクソン世界は国民的訓練をもピューリタニズムにおうている﹂として、書いている。﹁イギリスの.国民 ヘ ヘ ヘ へ 感情は同時に世界主義︵国O馨O口O一躍げ菖dω︶である、自国民への奉仕が人類への奉仕としてあらわれる。けだし自国民は、爾余の諸 民族が驚異と模倣とをもって仰ぎ見る最.高文化財の管理者であるからで.ある。したがって世界のイギリス化は、人類文化の健進を意 冠する。﹂︵O.︿■ωoゲニ冒?O導く霞三け辞じθR一け凶ωoげ段HヨOΦ臥巴匿日二ω§山。昌ぴq諾。げΦ吋国h①貯9。ロ傷。㌍い㊦ゼN幡同OO9ω.心㊤1αO●︶ しかし聞題はもっと根源的でなければなるまい。というのは、ピューリタニズムがイギリス国民を訓練したことは疑いないところ であるが、しかしピューリタニズムを可能にしたような事情こそがここで問題なのだがらである。
それはとにかくとして、ついでに見ておくと、おなじ著者によれば、このような﹁選ばれた民族の観念と外に対する行動的自己肯 定の要求﹂とは、一時、マンチェスタτ主義によって蔽われたことがあったけれども、けっして死滅してしまったわけではなかったQ 彼は書いている。﹁なるほどイギリス国民主義の宗教的基礎は今日︹一九〇六年︺ではしばしば変色している。しかしなお個人の国民 的全体への秩序づけは無上命令の性格をおび、功利の打算に縁遠い。﹂︵ω.①O■︶。ばかりでなく、﹁イギリス人は今日︹一九〇六年︺も● ヘ ヘ へ なお、自己の政治的文化を、かつて人類の到達した最高のものと感じている。イギリスの旗は彼にとっては平民と万人の同権との支 持者としての力をもつ。それは彼にとっては個人的な行動の自由と民主主義的な自治とを保証するように思われる。その諸制度を普 及することによって、イギリス人は人類に奉仕すると信ずる。この信念は諸国民の斗争における第一流の権力手段であって、官僚主 義的に後見されたり、さらには専制的に統治されさえしている諸民族に対するイギリスの世界政策を促進しているのである。﹂︵ω・Qo9︶ も ヘ へ し あ ヘ ヘ へ かくしてイギリス入は、内部的にはいうまでもなく対外的にも、他の諸国民にくらべ・ではるかに旺盛な自由の精神を ヘ ヘ へ も あ ち ヘ ヘ モ ヘ ヘ ヘ へ もっていたといってよい。そして、とのようにイギリス人が重商主義時代においてすでに比較的旺盛な自由の精神をも つていたことが、本国の地理的優位や、重商主義的侵略の形をとってあらわれたi近世ヨーロッパ入を特色づける i進取の精神、およびイギリス入に特有の理智的打算的な商入的狡智とともに、イギリスをしてただにアメリカのみ ならす全世界における植民活動の覇者たらしめた有力な一因iiいいうべくんば決定的な主体的条件ドをなしたと考 えるととはできないか。 四 アンウィンは、 ﹁イギリスの産業的優越の基礎は、との国の国際的自由貿易原則の採用にさきだつ数世紀間におとな われたといわれてきたのは、肯繁にあたっている﹂が、しかし﹁イギリスが他の諸国民との競争に解いてすでに獲得し ていた出発点は、大胆な経済的侵略の重商主義政策を揉黒して成功をおさめたおかげであったと論議されてきた﹂のは イギリス重商主義の特色︵白杉︶ 七九
八○ 問題たとなし、どの種の議論に対しては、 ﹁イギリスの国民的進歩に関するいま一つの可能な学説、すなわち、国内交 通の自由と重商的制限の比較的欠如とによってイギリスは少くとも二世紀間にわたって大陸の理論家たちの賞讃と嫉視 の的となった生産諸力を築上げつつあたばかりでなく、さらにその後つづいて︸層広範な商業自由の原則を採用するた ⑨ めの一つの重要な準備をなしつつあったというととを、示唆すれば足るであろう﹂といっている。 ⑨Pd郎aPぎ身ω三巴9αqき訂叶剛85。子。ω暮①9夢9。昌亀ω①︿①馨。魯夢O①自負薩”窓﹂二一HO9 重商主義と自由主義とがあたかも単純に対立する側面だけしかもたぬものであるかのごとくに考えられているのは、 一面的である。そうではなくて、すくなくともイギリスの重商主義は自由主義的な一面をもつたと解釈さるべきであろ ⑩ う。しかし、それにしても、イギリスにおいてはすでに重商主義時代に自由主義への準備がなされつつあったことが強 調されているのは、全く正しいQ ⑩ 重商主義的商業資本の典型としての特許貿易会社といえども、自由主義的な側面を亀たぬではなかった。この点についてスコット がきわめて注目すべき解釈をくだしている。≦。菊.Qっ88ぴ︸05。Tし080貯Oo巳Op。昌δψ︿oり押℃や濠卜。旨念ω一濠♪ら㎝ωI−心切9 しかし重商主義時代のイギリスにおける自由主義的傾向の進展に対して、私の知るかぎりおそらく最も強い表現をあ たえているのは、リプソンであろう。彼は書いている。 ﹁王政復古後⋮⋮経済的自由の学説はますます支配的.集団の精 神をとらえはじめた。多くの要因がこの方阿に作用しつつあった。第一に、資本主義の発展と伸張する・貿易の刺戦と は、、甲等階級の発生期個入生計を助成し成.熟させた、すでにクラフト・ギルドの司法権から解放されていたのでhそれ は国家そのものに対して産業自由を主張するまでに成熟した。テユーダーならびに初期スチュアート王朝下において も、企業者たちは彼ら自身の利益に合致しない犬山から脱出しようとする不動の決意を表明していた。彼らを裡蘇.のう
ちに保って彼らの業務の経営を妨害した法律を実施しようとする一切の企てに対して、彼らは消極的抵抗をもつて対応 したQ⋮⋮第二に、いま支配している新しい政治体制は経済的解放に好都合であった。けだし君主制はもはや拘束的影 響をおよぼすととができなかったからである。権威主義制度の崩壊は、イギリスにおける資本主義.の進化の転回点であ ることを明かにしたQそれは企業者の進路を阻んだ権威主義制度の障害物を除去したのであって、以後、企業者は産業 における自由行動権を許容された。王政復古によって確立され、一六八八年の革命によって強化された立憲的秩序は、 そのなかで資本主義社会が国王の励行しようと努力した監督によって妨害されることなしにその運命を開拓するととの できる骨組をつくりだした。⋮⋮第三に、内乱は伝統的な思考方法の強力な溶解剤であるととを明かにした。官公吏に 対する反動は不可避的に経済領域におよんでゆき、国家干渉に対する批判的態度を奨励した。⋮⋮第四に、法廷において 下された判決の趨勢は産業自由に有利であった、そして裁判官は徒弟法の範囲を制限しクラフト・ギルドの法的地位を 掘りくずすについて特に有力であった。第五に、枢密院の権力の衰微は⋮⋮現存する行政機構を挽回しがたいまでに弱 めた。政府が以前の権威を振うことをやめるやいなや、それを枢軸としていた構造は分解しはじめ、地方団体の経済的 へ つ ヘ ヘ ヘ ミ へ 機能はその結果いちじるしく無力となっていった。すべてとれらの要因の結合した重みがレ1セ・フェールへの明確 ⑭ な前進に表現される政策の方向づけを、もたらしたのである。L へ も セ へ も ヘ へ また、いう。 ﹁レーセ・フェールへの運動はその背後に長い歴史をもつている。政府の産業統制が最も活動的であっ シヴィルロサロドイス た時代においてさえ、製造業階級のそれに服従した限度を確定するととは困難である。 丈官制と有効な監督制度と マジストレきツ の欠如のために、たしかに、産業立法の多くは事実上死細字も同然であった。 長官による賃銀統制は形式的な手続 に堕して、またたくまに、当局によって裁定された法定賃率と雇主によって支払われる市場賃率との区分を生ぜしめる にいたった。徒弟制度はそれが個別企業に謀した障害を弱めようとする法廷の傾向によつ、て掘りくずされた。そしてそ イギリス重商主義の特色︵白杉︶ 八一
八こ れは我々の時代においてそれが有効である所でのみ一すなわち事業の慣習によって励行された場合にのみ1有効で あった。毛織物の大いさを定めた有名な毛織物のアサイズは、実施しえぬととがわかった。毛纈物を張り伸ばすために テンタ・フレームを使用するととを防止し、毛織物を仕上げるためにギグ・ミルを使用するのを防止するととは、不可 ヘ へ あ へ も ゐ も 能であるととが知られた。かくして我々が産業におけるレーセ.フェールへの傾向とその勝利の原因とを求めなければ ならないのは、十七世紀に堅いてであって、 ﹃産業革命﹄にでもなければ、 ﹃国富論﹄にでもない。アム・スミスは、 ⑫ 産業の指導者たちが長いあいだその方向に手さぐりして進みつつあった観念に明瞭な表現をあたえたにとど.まる。L ⑭ 国・憂oP日げ①国8コ。営8頃δ6儲。︷国⇒臓彗9く◎一・H♂謬霞。α犀050亭”づ●o××ぐ1鍵ぐ芦 ⑫ UgLぼαこ090蚤×く一貫××ぐご↓げΦO﹁o≦鼻oh国昌讐ωゴωooげ蔓噛喝﹂QQP 五 ただし、いかなるメダルにも裏がある。イギリスの自由主義的傾向にも陰の面がないわけではなかった。ブレンター ノは﹁イギリス国民経済の強健の陰影面﹂について書いている。﹁とれは、それ︹イギリスの国民経済︺が諸個人の創意 にまかせた自由な活動の余地に存する。とのととは、それをして一切の力を大規模に展開させてきたが、しかしそれを 無体系に溢ちいらしめてもきた、そして立法が最後に干渉して秩.序をあたえようとするとき、それはしばしばそれ以上 ⑬ の前進に対立してこれを阻止する﹃既得の﹄もしくは﹃証書のある﹄利害と衝突するのである。﹂これは重商主義時代 ⑭ のイギリスについても多くの妥当性をもつ。しかし進歩の第﹁条件は、アンウィンがある個所で示唆しているごとく、 へ も も へ も へ 上からの統制ではなくて、下からの創意であった。シュルッェ目ゲグェルニッッにしたがって裏からいえば、﹁イギリス へ あ も も がその競争者に対して勝利を得たのは、単に強い.国家をもつたからではなくて、さらに強い個入をもつたからでもあっ
⑮ たのであるチ @@G,3」 炉犀①馨きP国ぎoO①ωoぽ9け。α㊤ミ騨の。冨h匪9①口国ロ詩風。置目ロαq国議帥q冨国鳥9ごd血・引ω.鳶9 0・qロ≦ぎ”↓げoO帥径ω99昌匹Oo旨づ餌巳ooロohい○昌αoP℃ウ㊤IHO⋮前掲拙著三八頁。 oDゥ三N?Ω器く㊤巳葺。℃.簿﹂ψ刈. 、、、、 ⑯ しかしながら、強い個入の存在は、イギリスの場合、同時に強い国家の存在であった。そのさい強い国家は、いうま でもなく、つねに必ずしも専制的とはかぎらない。上からの統制機関としては弱かったとしても、下からの創意を執行 ⑰ ずる機関として、イギリスの国家は十分の強さをもった。なかんづく、対外的側面に涛いてそうであった。実際、世界 制覇をめざして三百年間たたかいぬくというようなととが、弱い国家にどうして可能であったであろう。 ⑯マコーレーは.名誉革命のころアイルランドに在住したイギリス人の性格について述べたさい、支配的民族においては強い個入が 強い共同意識を練成してゆく所以を明かにして、つぎのごとく書いている。﹁支配的民族の成員は、隷従民族との交渉にさいして、実 際のところ詐欺的であることはまれであるが一というの拡詐欺は弱者の方策だからである一専横にして不遜かつ残酷である。 他方同胞に対してはその行動は概して公正にして深切かつ高適でさえあろ。自尊心は彼をみちびいて自分の階層に属するすべての人 人を尊敬させる。利害は彼をかつて、財産と生命とを維持するために、いつなんどぎ、敏速にして奮二言かつ勇敢な援助が必要﹀な るかも知れない人々の好意を得ておこうとさせる。自分自身の福祉は自分の属する階級の支配に依存するというのが、彼のつねに念 セルフイシユネス パブリツクロスゼリヅト 頭においている真理である。かくして嫁かならぬ彼の利己心が公 共 心に昇華せしめられる。そしてこの公共心は同感により、 賞讃の欲求により、不名誉の恐怖によって強烈な熱狂にまで刺戟される。けだし彼が尊重する唯一の意見は同胞のそれであり、その 意見においては共同の大義への献身が最も神聖な義務であるからである。﹂︵ピOa港島8巳。ざ.目ゴ。国韓O曙O一国ロσq冨ロF℃8巳漢 ①島舘。昌聞け≦oぐ。冨目09目。。OP︿oW炉b・刈㎝O・︶。この思想はイギリスにおける強い個人の存在が同時に強い国家の存在にほかならなか つた所以を理解するのに示唆的であろう。 イギリス重商主義の特色︵白杉︶ 八三 ,
、 八四 ⑰ ﹁国家的権威と私的企業との協働ということが、イギリス帝国を建設した一切の要因のうちで最も偉大なものであった。イギリス 以外のいかなる国民も、これほど強力にこれほど非論理的に、かっこれほど首尾よく、私的創意と国家的統制との調和を発展させて こなかったのである。﹂︵O●℃’い二〇餌ρ日げ①切①賦昌昌ぎ鵯。隔国口鋤q謝犀Oく霞ω①固ω気軽。琶鼠ωρHOHメロPα㎝一㎝Φ︶ 重商主義を主として内部的体制として見るものは、ともすれば、イギリス重商主義の自由主義的側面に眩惑されがち ヘ サ あ へ である。しかし、その自由主義的傾向は、もともと、市民的平入的であった。したがって、それは国内的にも搾取の自 へ へ も ヘ へ も も あ も ち へ あ へ 由を内包しており、対外的には他民族に対する圧迫と侵略と搾取との自由を含意していた。しかも重要なのは、とのよ うな重商主義的帝国主義がイギリス盗本主義の成立にとって単に偶然的な害悪といったものではなく、それ自体が本源 的蓄積の過程として、本質的であり不可避的であったということである。まさにそのゆえに、これを不可欠の歴皮的前 提として成立した古典的なイギリスの資本主義は、自由主義段階においても、独占段階においてはいうまでもなく、重 ⑱ 商主義的11帝国主義的な側面を残さざるをえなかったのである。 ⑲ 前掲拙著四三五頁以下 あ ヘ へ こういうわけで、イギリス重商主義も、世界史的観点から見る場合、 一種の帝国主義と規定さるべき本質をもつもので あるととにかわりはない。しかし、とのととを認めた上でのことならば、ぴとしく﹁種の帝国主義にほかならなかった 近世西ヨーロッパ諸国の重商主義のうち、イギリスのそれは、中世封建時代からの伝統に規定されて、他のどの国のそ れよりも、内部的にはいうまでもなく、対外的にも、自由主義的と特徴づけらるべき歴史的個性をもつたといってよいQ そして、これこそがイギリスの世界制覇と資本制生産様式の古典的形成とを可能ならしめた問題の決定的要件であった といってよかろうかと思うQ