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真諦訳『摂大乗論世親釈』における増広部分の検討(一) : 釈依止勝相品(所知依章) (四教授退職記念号)

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(1)

無著以前の玲伽行唯識学説は﹁解深密経﹄五巻や﹃琉伽師地論﹂百巻などに代表される雁大なものであった。そ れを哲学的・組織的に簡単に体系化したものが無著︵陦画厨巴の﹁摂大乗論﹂︵冨昌ご習画︲の四日四目巴三巻であり、 それは画期的な成果であった。それに﹁大乗荘厳経論﹂や﹁中辺分別論﹂等の学説を採用して、実弟の世親sゆめ匡 冨己言、約四○○’四八○︶が注釈したものが﹁摂大乗論釈﹄︵三豊図習画︲閻日四画言︲喜閉息︶十巻である。︵以 下、本書を﹁摂大乗論世親釈﹄または﹁世親釈﹂と略称する︶ その﹁摂大乗論﹂には現在漢訳として、後魏の仏陀扇多訳︵五三一年訳︶と陳の真諦訳︵五六三年訳︶と唐の玄英 訳︵六四八’六四九年訳︶の三漢訳本と、晴の笈多共行矩等訳の﹁世親釈﹂から得られる一本との計四漢訳本があ る。更に、チベット、尽鼠の“の号訳︵八世紀訳︶の一本があって総計五本があることにな竜そして、世親造の ﹁摂大乗論釈﹂には真諦訳と笈多共行矩等訳︵六○五’六一六年訳、以下、達摩笈多訳または笈多訳と略称する︶と 真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︵岩田︶

真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹄における増広部分の検討︵二

l釈依止勝相品︵所知依章︶I

一、はじめに

岩田諦靜

(97)

(2)

玄英訳︵六四八’六四九年訳︶ チベット訳、摂大乗論︵皇品go言画9房含め息︶ 爵$の乱の訳︵八世紀訳︶ チベット訳、摂大乗論世親釈︵三品冨。言冒冒房含め冨琶詩邑冨︶ 冒冒日冨﹃鼠且目目訳︵一○四五’一○五四年訳︶ 仏陀扇多a巨邑冨獣ご厨・’五二’五三一l︶は論本の訳出だけで、釈論の訳出がない。達摩笈多︵号日日紺眉冨︾ ’五九○’六一九︶は﹃世親釈﹄の訳出だけであるが、その釈論の中から論本を得ることができる。それで漢訳論本 真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︵岩田︶ 玄英訳の漢訳三本とチベット、冒冨召冨司鼠且創目訳︵一○四五’一○五四年訳︶とがあり、現在四種の訳本を見 ることができる。なお、無性造の﹁摂大乗論釈﹄︵巨四冨嵐目︲留日四mg︲呂画己冨且冨ご巴には玄英訳とチベット訳 の二訳本が現存してい篭 摂大乗論・摂大乗論世親釈 摂大乗論・摂大乗論世親釈 ︵3︶ いまその﹁摂大乗論﹄と﹁世親釈﹂とを訳出年代順に図示すると次のようになる。

摂大乗論仏陀扇多訳︵五三一年訳︶

真諦訳︵五六三年訳︶ ︹摂大乗論︺・摂大乗論世親釈 笈多共行矩等訳︵六○五’六一六年訳︶ (妬)

(3)

は四本が得られる。漢訳の論本は約一二○年間にほぼ三十年の間隔で四回訳出されたことになる。チベット訳の﹁世 親釈﹂はなぜか論本の訳出より非常におくれて冒冨昌冨﹃鼠且愚口四︵シ言留︾阿通沙、九八二’一○五四︶によっ て一○四五年から一○五四年の間に訳されたものである。 ﹁摂大乗論世親釈﹂には、真諦訳と達摩笈多訳と玄英訳との三漢訳本とチベット訳との四訳本が現存している。そ の中の達摩笈多訳と玄笑訳とチベット訳との三訳本は分斌的にはほぼ一致している。しかし、それに対して晶初の漢 訳本である真諦訳は三訳本に比較すると約二倍近い分量に拡大している。そこで、真諦訳出のものだけがなぜ他訳に 比して、そのように拡大しているのかということが問題となる。そのことについて、真諦訳以前には仏陀扇多訳の ﹁摂大乗論﹂は伝わっていたのであるが、職伽行唯識学説はいまだ中国に十分に伝播していなかった為に、翻訳の時 に多くの解釈をしなければならなかった為であろうと考えられる。その結果、真諦訳だけが他訳に対して約二倍もの 分量になったものと考えられる。しかし、それは単に注稗的解釈にとどまらずにその中に、訳者自身の学説も説かれ ︵ 4 ︸ たものと考えられる。それらの幾例かはすでに先学によって指摘されている。 以下、﹁摂大乗論世親釈﹂の第一章﹁釈依止勝相品﹂︵所知依章︶について、真諦訳とチベット訳とを中心に比較対 照して、真諦が増広付加して訳出した解釈部分を明確に指摘することに努め、あわせてその中に真諦自身の学説が如 何に説かれているかを考察する基礎的資料を得ようとするものである。 一一、 真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︵岩田︶ (99)

(4)

釈依止勝相品︵所知依章︶には﹁世親釈﹂だけにある帰敬偽と﹁摂大乗論﹂に対する衆名品︵總標網要章︶がある。 しかし、本論では、阿黎耶識説の説かれる部分からの検討を行うものである。 真諦が、阿黎耶識説を説く﹁釈依止勝相品﹂の漢訳に当り、どのように増広付加したかを真諦訳とチベット訳とを 比較対照して、真諦における特殊な叙述、すなわち増広付加と考えられる部分を指摘しそれを手掛りにして、阿黎耶 識説における真諦自身の唯識説を知ろうとするものである。 注 ︵1︶佐々木月樵﹁漢訳四本対照摂大乗論附西蔵訳摂大乗論﹄︵日本仏書刊行会、昭和三十四年︶ ︵2︶﹁摂大乗論釈︵無性釈三大正蔵三十一巻。チベット訳﹁無性釈﹂弓言函冒o言.g房号の目宮庶且のご胃︶﹁北 京版西蔵大蔵経﹂く○一ゞ巨PzO・訊留. ︵3︶拙著﹁初期唯識思想研究﹂︵大東出版社、昭和五十六年二月︶五九’六二頁。 ︵4︶宇井伯寿﹁摂大乗論研究﹂︵岩波書店、昭和四十年︶ 高崎直道﹁真諦訳摂大乗論世親釈における如来蔵説l宝性論との関連l﹂二結城教授頌寿記念仏教思想史論集﹂、大蔵出 版、一九六四年︶二四一’二六四頁。 拙論﹁摂大乗論世親釈の漢蔵和三訳対照l釈応知勝相品lその㈲﹂︵鈴木学術財団﹁研究年報﹂皿号、一九七七年︶三四 ’四八頁。

三、釈依止勝相品︵所知依章︶の増広部分とその検討

一、 真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹄における増広部分の検討︵二︵岩田︶ (〃0)

(5)

真諦訳の﹁世親釈﹂とチベット訳とを比較対照し解決するに当り、対照の区分方法は玄英訳の﹁摂大乗論﹂の論日 とある部分を基準にして、それに通し番号︵略号︹一・一︺∼︹一・一○︺など︶を付け、それに従って真諦訳とチ ︵ 1 ︶ ベット訳とを区分し比較対照させた。 〔1.1] 注 ︵1︶この区分方法は、拙著﹃初期唯識思想研究﹄︵大東出版社、昭和五十六年︶の二部資料の﹁世親造﹁摂大乗論釈﹄所知相 章の蔵漢対照と、拙論﹁世親造﹁摂大乗論釈﹄所知依章の蔵漢対照㈲﹂︵﹁法華文化研究﹂第十八号、立正大学法華経文化研 究所、一九九二︶でも用いた。 なお、チベット訳の和訳に当って、長尾雅人著﹁摂大乗論l和訳と注解l﹂︵講談社、昭和五十七年︶を参照し、多くの 示唆を得たことを明記して学恩に感謝するものである。 衆名章第三 ノニク ハテニアク ハナ 論日。此初説応知依止、立名二阿黎耶識一。世尊於一↓ レノニキノヲピイテノヲクルヤ

トシ

ハ チベット訳 何虚一説二此識一及説二此識一名一︾阿黎耶一・如一仏世尊 ノノニケルガ ︹論日︺その中で、先ず最初に、ただアーラヤ識は所 阿毘達磨略本偶中説一 知依であると説かれる。世尊はアーラャ識を︹何処 真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︵岩田︶ 一一、 (IOI)

(6)

真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹄における増広部分の検討︵二︵岩田︶ ノハノヨリ ノニシテ

此界無始時一切法依止で︺説かれ、アーラヤ識は云何に説かれるのか。世

若郁謝道高此試睡ト浬蕊。尊は阿毘達磨経の中に︹次のように︺偶頌を説かれ

スイテワセント

ノピヲ

トハク 伽釈日。今、欲下引︸阿含一證中阿黎耶識体及名上。阿含謂る。 ニシテノーハケリヲ

大乗阿毘達磨、此中仏世尊説し偶。無始時来の界は、一切法の等しく依止であって、

レチノ

ノハフテヲストノニリ

ニハ ㈲此即此阿黎耶識界、以レ解以レ性。此界有二五義一・一体それが有る時に諸趣と浬藥を証得する、

ノナリノハズデノヲレバノーハ

類義。一切衆生不し出二此体類一・由二此体類一衆生不しと説かれる。 ナラニハノナリノノナル ハジテノヲズルガナリ 異。二因義。一切聖人法四念虚等縁二此界一生故。

ニハノナリノノノハルガスルニノノヲ二

三生義。一切聖人所得法身、由し信一楽此界法門一故 ルナリスルコトワニハノナリツテニセ ニテモ 得一↓成就一。四真実義。在二世間一不し破、出世間亦 ルナリキニハノナリシズレパノーハナルガニジヲシニセパ 不し蓋。五蔵義。若応二此法一自性善故成し内、若外ニ ノワモ ストチズルガワナリ 此法一雄一復相応一、則成レ穀故。 スレパノニ

ハクヨノハカサス

ロ約一・此界一、仏世尊説、比丘、衆生初際不レ可一了達一。

ワシトニレテセハレハスルハニル

無明為し蓋、食愛所し縛、或流或三接、有時泥黎耶、有

ハニルハニルハ

ニルハニルハ

時畜生、有時鬼道、有時阿修羅道、有時人道、有時天 一一

ヨハクノーケヲ

シシテニク 道一。比丘、汝等如レ此長時受し苦、増盆貧愛恒受二血

ヲルガノーニルノナルワシニヘルガヨノ

滴一。由二此證一故、知二無始時一・如二経言一、世尊、此 ハし

しレニシテニシピ

レ テ 識界是依、是持、是庭、恒相応及不二相離一、不し捨レ (IO2)

(7)

ニノハノヨリトハチレハスヲシレパテワシ

側復次、此界無始時者、即是顕レ因。若不レ立レ因可レ︹釈日。︺その中で、アーラャ識であることの教証 フリトメ 言し有し始。一切法依心苛恥聿此謝凝一︾一切法因︸故、︵四mm日画︶は世尊によって、彼の阿毘達磨︹経︺によ ノトニ ク ノナリトシレパハリピリトハルコトワ 説二一切法依止一・若有諸道有、及有レ得一︾浬桑一者、り最初に説かれた。﹁無始時来の界﹂といわれるとこ

ノノガシラパノハチリモランツテノー

此一切法依止、若有是道則有、果報亦有。由一此果報一ろの偏頌に説明されている。﹁界﹂とは因のことであ ハクレパワシキコトシムセトトノワシテルコトヲリ 衆生受し生、易し可し令し解一邪正両説分別有屡異。る。.切法の等しく依止である﹂とは因が有ること

二タクテノワニ

ヲルガノーニズ

何後復、能得二上品正行一応得一勝徳一・由二煩悩依止一故生二 により、一切法の依止であるという意味である。﹁そ

ノトビノヲノノノヲクノ

極重煩悩、及常起煩悩一。是果報等四種差別名一依止れが有るから﹂とは、それは一切法の等しく依止であ

卜クスレパノークノト

ノニダノ

勝一。能翻三此四種一名二依止下劣一・生死中不二但道等る中に﹁諸趣﹂であって、すべての生死輪廻の中にお ナルど●、ナラノモズニヲテノニシレパチレパナリ 非有一、浬藥義亦非し有。何以故、若有一煩悩一則有一︾いて存在するのが趣である。ただ趣のみが存在しない ノニリテ クス ノワ 解脱一。応知依止中復有一阿含一、能證一阿黎耶識名一。ことが浬梁でもあり、それが存在するとき雑染と浬梁 でもある。 真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︵岩田︶ ニフピリトルコトヲ 故、言三及有レ得二浬薬一・

ヲノ二・ンキノノナリヨ

トハヒレ 智、無為恒伽沙等数諸仏功徳。世尊、非相応、相離

ツルヲノニシテししレナルガニフ

ノ 捨レ智有為諸法、是依、是持、是虚故、言二切法依

卜シニヘルガヨシガレバノルガ七二キガ

止一。如一経言一、世尊、若如來蔵有由し不し了故、可レ

フハレルトニフシレパリトシニヘルガヨ

言二生死是有一故、言二若有諸道有一。如一経言一、世尊、

シガレパルーテニクスルコトナニキガノ

若如來蔵非し有、於レ苦無厭悪一、於浬藥一無一︾欲楽願一 (IO3)

(8)

真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︵岩田︶ ここに引用される阿毘達磨経の偏頌は阿黎耶識存在の教証︵尉画g巴として説かれている。しかし、この偶頌は 仏性如来蔵存在の教証としても用いられている。そのサンスクリットの文章は安慧造の﹁唯識三十頌釈﹂と﹁宝性論﹂ ︵ 2 ︶ にみることができをチベット訳の偶頌は﹁摂大乗論﹂にみることができる。この偶頌で、常に考察の対象になるの は﹁界﹂についてである。ここでは一切法の依止の﹁因の義﹂とされている。 次に真諦訳の漢訳部分に注目しよう。真諦訳の伽の部は全く訳者の付加部分である。㈲の部分はチベット訳及び他 の漢訳と比較して本来の世親の注釈に当る部分と考えられる。何の部分はチベット訳本には相当する注釈が見当らな い。しかし、漢訳三本には存在する。この点に関して考えられることは、一には真諦の付加の解説を達磨笈多訳が引 用し、それを更に玄笑訳が引用したものとする見方と、二には現存のチベット訳本と真諦・達磨笈多・玄葵の三師が 所持した原典とは異っていたとする見方とである。漢訳の﹃世親釈﹄三本はチベット訳本より早い漢訳であることを 考慮し、更に真諦訳の性格を考えると前者であろうと考えられる。 側の箇所について更に考えてみよう。この箇所は真諦の唯識説の特徴が最もよく証明される所である。その伽の部 分は更に二区分の解釈になっている。すでに考察したように、その㈲は真諦訳の﹁仏性論﹂巻二に説く、如来蔵の五 義と比較対照できるものである。その㈲は﹁宝性論﹄に説かれる無始以来性の偶頌の注釈と対応している。﹁宝性論﹄ では次のように漢訳されてい篭 ノヨリタハ

ルノト

無始世来性作二諸法依止一

リテニリ

ピスノワ

依レ性有二諸道一及証二浬藥果一。 このように真諦訳は阿黎耶識の存在を証明する偶頌の注釈部分に、同一の偶頌の注釈であるが如来蔵の存在を証明 (〃4)

(9)

する解釈を用いている。真諦の伝えた唯識説は悉有仏性を認める説であり、五姓各別説を認める玄英の伝えた法相唯 識説とは大きく異なることを意味していると考えられる。 j ノニ イテヲク

哩論日。阿毘達磨中、復、説し偶言、チベット訳

t ハリテニス ナルガ

諸法依レ蔵住一切種子識︹論日。︺また、それ︹阿毘達磨経︺による、

ニク

トレニノク

︵1︶

故名一阿黎耶一我為勝人一説諸法は依処であって、一切種子の識である。

ハリテニストハ ニナシ

ワフ

釈日。諸法依レ蔵住者、第二句釈一第一句一・謂二一それ故にe・淫︶、アーラヤ識である︹と名づ

ナリトルガトトニニジ ハシテノハニ 切種子識一。由一煩悩業一故変、阿黎耶識相続前果報後ける。︺最勝者に対して我はそれを説く、 ズルナリワクトハ ト ハシワシヲテなずク卜 成し因。故名二阿黎耶一者、顕し義証し名以名二目識一。と説かれる。それは教証である。 レニノクトハ

トハフノワレハノノニシテ

我為一勝人一説者、勝人謂二諸菩薩一.是菩薩境界依止、︹釈日。︺それがアーラャ識の所知依の体の教証であ 真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︵岩田︶ 注 ︵1︶尊き巴ごF三ゞく二昌宮言堅﹃與勝丘1三㎡︵層1の↑ご誤︶・詞雪. 中村瑞隆﹁梵漢対照・究寛一乗宝性論﹂︵山喜房仏書林、昭和四十六年︶、一四一’一四二頁。 拙論﹁真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹂における此界無始時偶と最滴浄法界について﹂︵﹁勝呂信静博士古稀記念論文集﹄、山曹房 仏書林、平成八年︶、二八’二九頁。 ︵2︶拙論﹁世親造﹁摂大乗論釈﹄所知依章の漢蔵対照㈲﹂︵﹁法華文化研究﹂第十八号、平成四年︶二八’三○頁。 ︵3︶注仙の拙論一二○’一二五頁参照。 (〃5)

(10)

付加されている。 ルガトトニニジ ここではアーラヤ識の名称が説かれ、それは一切種子識であると説かれている。真諦訳には﹁由二煩悩・業一故変、 ハシテノハニズルナリヲ レハ

ノノニシーアピクプルガヲ二ニノクナリ

阿黎耶識相続前果報後成し因。﹂と﹁是︵阿黎耶識︶菩薩境界依止。及能障一・菩薩道一故、為一菩薩一説・﹂との解釈が 注 山③この偶頌の前半︵一句・二句︶の一呂○の百9mm9コ一言ョのo且つ農二一﹃。mョg﹃いのめ9百コ明言、一の一 は、世親の注釈では呂○の﹃国、ョ百コ”旨、ご画の嵐ご芯一﹃.mョの①のの四g冨吾、ョの。且冒一となっている。これは喝頌 の理解を助けるものであり、更に、二句の百コ鴨三が百三m旨、.mの︵の画ョ恩田望巴の意味であることを明らかにしている。 チベット訳の対照は拙論︹一.この注②の三十三頁参照。 長尾雅人著。﹃摂大乗論l和訳と注解I上﹂︵講談社、昭和五十七年︶八十頁︵注l︶参照。 真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︵岩田︶

ピクフルガヲ二ニノクナリ

及能障三菩薩道一故、為一菩薩一説。る。また更に、教証において、﹁諸法は依処であって、

︵2︶ 一切種子の識である﹂という中において、第一足︵句︶ は第二足︵句︶により説明される。﹁最勝者に対して﹂ とは菩薩の訓釈であるけれども、︹菩薩に︺アーラヤ識 ︵煩悩識︶があるというのではない。 (〃6)

(11)

ノノハスノトピトワ

ガハイチノヲ 咽論日。此阿含両偽証一識体及名一。云何仏説一・此識一 f クルヤ 名二阿黎耶一・ ノハスルナリハサント ワ 釈日。此語欲し顕一︾立名之因一。

ノノノハテニシテルガトー

論日。一切有生不浄品法、於レ中隠蔵為し果故。

トハハクナリノニテルルトノノヲ

釈日。一切謂三世。三世中、取二正生能生不浄品法一・ ユルスルワ ニク 謂翻↓五種浄品一名一木浄品一・

ノハテノーシテルガトー

論日。此識於二諸法中一隠蔵為し因故。 トハハク ノニ・ンテチ ナリ ハ 釈日。諸法謂阿黎耶識果、即不浄品等。阿黎耶識蔵. シテノノールトD 住此果中一為し因。 ニノハ・ンテノノニルガルーヲ二 論日。復、次諸衆生蔵此識中一、由し取一︾我相一故、 ノーク 是故名一阿黎耶識一・

卜ピトニクノ

釈日。閾春以が熱認醒織毎阿陀那識及意識一、説一衆生

ワワテノニノハシキモノ

ガシラパズルヤ 名一。何以故、一切衆生無し無我執一。我執若起、縁一↓

ノヲジテヲルニシテニシテルガゼナリ

何境一・縁一本識一起、微細一類相続不し断故。 真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︵岩田︶ チベット訳 ︹論日︺云何に、それはアーラヤ識と説かれるか。一 切の有生によって、一切の雑染法がそれ︵アーラヤ 識︶の中に果の状態︵果性︶として隠蔵︵内蔵︶さ れ、或は、それ︵アーラヤ識︶はまた因の状態︵因 性︶として隠蔵されるが故に、アーラヤ識である。 次に、諸の有情がそれ自体を隠蔵するが故にアーラ ヤ識である。 ︹釈日。︺﹁それを隠蔵する﹂とは、依止のことである。 ﹁有生﹂とは、生じて有る。そのところに生を持つと いうことである。﹁雑染の法﹂とは、清浄を遮する意 味である。﹁諸の有情が生ずるそれ自体を隠蔵するが 故に﹂とは、執持するという意味である。 (〃7)

(12)

ノハク

ニ〃夕・ン 一 一 M論日。︹此識亦名一阿陀那識一・︺阿含云如一解節経 f ノクノ 所し説偏一。 ハニシテ

ノハス

執持識深細諸種子恒流

一アニ カレハランシテスコト、卜

於レ凡我不レ説彼勿一執為雇我

ニイ0ナ

ノワストノニイーアノヲス

艸釈日。前引一阿毘達磨偶一為し証。此中、更引二経偽一為レ ト

ハテヲシトハテヲストニハズリ

証。阿毘達磨以レ理為し勝、経以レ教為し勝。教必有し理、 ハズフニノワクトシルレバノノワッルコトワゼ 理必順し教。此二名し証。若離一︾此二証立レ義不レ成・ ノハリ

ヅハグ

ーー ⑧此証従二解節経一出。仏、告二広慧菩薩一・

ヨナノニノノハッテリ

ニハケ

仙広慧於六道生死一、是諸衆生随在一衆生聚一、或受二卵

ヲノー︾ナワピスニクルワ

生、胎生、漫生、化生一、此中得し身及成就。初受レ生 玄婆訳︶と漢訳されている。 真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︵岩田︶ チベット訳と玄奨訳はほぼ一致する。しかし、真諦訳には三世中の正生と能生との不浄品が説かれ、また五種浄品 シ ざ ア

ピニクノヲヲテノニノハ・ンキモノ

シラパズルヤノ などが説かれている。更に、﹁約一阿陀那識及意識一、説二衆生名一・何以故、一切衆生無し無二我執一・我執若起、縁気何

ヲジナワルニシテニシテルガゼナリ

境一。縁一本識一起、微細一類相続不し断故。﹂との部分は真諦の解釈である。 チベット訳本論では、、ごOHg︵昌目︶は隠蔵︵真諦訳︶、依住︵笈多訳︶、摂蔵︵玄英訳︶と漢訳されているが、 これは﹃世親釈﹂では、言い冒冒﹃ご&︵且四目目巴と注釈されており、それは執︵真諦訳︶、執取︵笈多訳. チベット訳 ︹論日。︺それ︵アーラヤ識︶はアーダーナ識と名づ けらる。これに対して教証として解深密経の中に、 アーダーナ識は深細にして、一切の種子は爆流の 如くに流れる。 彼らがそれを自我と分別することは認められない 故に、これを我は諸の凡夫に対しては説かない、 と説かれるが如きである。 ︹釈日・︺また、教証として、その解深密経の中に ︹説かれる︺。 (〃8)

(13)

ノヅシシテトナルハルノーユルノト

時、一切種識先熟合大長回、依二二種取一・謂有依色根、

ビワスルノトナリシノナラパリノ

及相名、分別言説習気。若有色界中有一・二種取一、

シナラパシノ

若無色界無一︾二種取一・ ヨノハハイテク

トワテノニツテノーク

②広慧、此識或説名一阿陀那一。何以故、由一此本識一能 スルガワナリハイテク

トワテノニノハ

執二持身一故。或説名二阿黎耶識一。何以故、此本識 ・丁二二シテジクスルガヲナリハイテクトヲテノ 於レ身常蔵隠、同二成壊一故。或説名一質多一。何以

二ノハ

ノノナルガスルナリ 故、此識色声香味鯛等諸塵所完生長一故。 ヨリテトスルニノヲノハルズルコトヲユル ⑧広慧、依レ縁一↑此本識一、是識聚得し生。謂眼識乃

ナリツテノージテノヲ

ガルズルコトヲ 至意識。依一有識眼根一縁一外色塵一、眼識得し生。與一︾ ト

ニニシテワリノノル

眼識一同一時共し境、有二分別意識起一・

ョシノガズレパノノノガジテ

側︹広慧︺、若一眼識生、是時、一分別意識生、與一眼

卜ニスワノガシニトハトニレパノニモノ

識一共し境。此眼識若共一︾二識一或三四五共起、是時一

リノ

トニジテヲズルコトシ ノ 有一・分別意識一、與二五識一共縁し境生、如一︾大水流一・

ョシレパノクスノヲ二ルチリシハシハ

⑤︹広慧︺、若有一・一能起し浪因至一則一浪起、若二若 クノクスノヲニレバチリノハニレテ ゼ 多能起し浪因至、則多浪起、是水常流不レ震不レ断。復

二︸アナルノーシレパノクスノワニルチ

次、於一・清浄円鏡面中一、若有一︾一能起し影因至一、則一 リシハシハクノクスノヲニレパチリノノハ 影起、若二若多能起し影因至、則多影起、是円鏡面不レ 真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二 ︵岩田︶ b ⑪広溌よ、この六趣の輪廻において、それぞれ耐︺ D 有情がそれぞれの有情衆の中に、或は卵生に生じ、或 は胎生し、或は混生し、或は卵生の生ずる中に、身体 を現前するを得て生起する、その最初においてその如 くに二の執受がある。︹一には︺同類の色根と執受と、 ︹二には︺相と名と分別における仮説の戯論の習気の 執受によって、一切の種子の心︹識︺は異熟して転変 を増益し増長し広大するであろう。その中で、有色界 ならば二の執受があり、無色界ならば二の執受はない。 ②広慧よ、その︹アーラヤ︺識はまたアーダーナ識と 名づける。それについて、それはこの所知の身体とし て執持する故である。また、アーラヤ識と名づける。 それについて、それ︵アーラヤ識︶は身体の中に同安 危二つのものとして和合し安楽となる︶の義により すべての和合︵恩ヨ冒恩︶と充分な和合︵胃go恩︶ される故である。また︹アーラャ識は︺心と名づける。 (〃9)

(14)

真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︵岩田︶ ゼズルモヲシ

転、成し影亦無二損減一。それについて、それは色声香味触などの諸法による積

ヨノモホ・ン

ピノリテノーシ

⑥︹広慧︺、此本識猶如一水流及鏡面一、依一此本識一、若集︵3ョ。詳巴と滋長︵積集、昼go群巴するが故で

レバノクスノワニシチノリ・ンレバノク

有下一能起一眼識一縁至上、則一眼識起、乃至若有一一五能ある。

スノヲ二ルチヲス

起し識因至一、則五識起。⑥広慧よ、そのアーダーナ識の中に所依し所住︵建立︶

ヨクノハテ

ニリ

クス

、広慧、如レ此菩薩依二法如智一有二聰慧一・能通二達意心することから六識身である。この故に、眼識と耳・鼻・

ノノニ

ノ ハヅテキノノー 識秘密義一・諸仏如来如理如量、由二如レ此義一、不し記三舌・身・意識である。その中で、識と共なる所の眼と

七ノノクスルコトロワノノ二

説諸菩薩能通一達意識心秘密義一。諸色を所依︵縁︶とすることから眼識が生じ、その眼

ヨノハッテニルニ

ピ ヲ ⑧広慧、諸菩薩由三如実不し見二本識及阿陀那識等一、識と共に同時同境に転じて分別の意識が生ずる。 テモニテモニ ワ ジピズルワ 於レ内於レ外、不し見一蔵住一、不し見一生及長等一・不し見一↓側︹広慧よ、︺若し一眼識が同時に生ずるならば眼識 ワ ワ 識、眼、色及眼識一。不し見二耳声及耳識一、乃至不し見二 と同境の唯一の分別の意識だけが同時に生ずる。若し

ピヲ

身鯛及身識一。識身の二、或は三、或は四が同時に或は五分の一が同

ヨノハッナ

ニリ

クス

ノ a 側広慧、諸菩薩依一法如智一有二聰慧一、能通一達意心識時に生ずるならば、またそこに届︺五識身であると D ノニ ノ

ハツテキノノースノ

秘密義一・諸仏如来如理如量、由二如レ此義一、記三説諸共に同境の唯一の分別の意識と同時に生ずる。

ノクスルコトヲノノ二

菩薩能通二達意識心秘密義一。⑤愉門により、広慧よ、即ち、醤えば、大河の流れか

ニイテワネテスニノクヲ ハニシテトハガ 何復次引レ偶、重釈二経所レ説義一・執持識深細者、云何ら、若し一浪が生ずる縁が現起︵現前︶するならぱた

ノワハイテスヤトクスノノヲユル

此識或説為二阿陀那識一。能執二持一切有色諸根一、謂だ一浪だけが生ずる。若しは二浪が︹生じ︺、若しは

クスルガノトピノトワニノワク

能執二持有依五根及相等習気一故、此識亦名二阿陀那一。 多の浪が生ずる縁が現起するならば多の浪が生ずると (〃0)

(15)

ニシテトハクシキガシナリノハスドUハノノ

深細者、難し滅難レ解故。諸種子恒流者、一切不浄品いい、その︹大︺河の自流は間断が起らないし、尽き

ハクジシトシーアスルコトシノーシナナルガ

法、能生黛習所依住、如二水流念念生滅、相続不断一。ることも起らないのである。清浄なる鏡の円︵面︶の

テニレカトハノニハク

メ 於レ凡我不し説者、諸凡夫人無二甚深行一、不し求一︾一切中に、若し一つの影像が生ずる縁が現起することが有 ヲ ナルガニトナリニハ

ピノカレランシテ

智一、根鈍故、不下為一凡夫及二乗一説上。彼勿二執るならば、また、ただ一つの影像だけが生ずる。若し スコ。卜QrQトハ

リシテズシッテニサパヲ

為.我者、一相起相続長。若衆生依レ経、起一邪分別一、はこっの影像、或は若しは甚だ多くが生ずる縁が現起 チシテノヲサントルガルヲノーレバニカ 即執此識一為し我。恐レ起一邪執一故我不一為説一・することが有るならば、甚だ多くの影像が生じ、その 鏡の円︵面︶には影像の一分が転起︵転変︶すること が無いだけでなく、︹二つの影像が︺和合することは 起らない。 ⑥広慧よ、それは︹大︺河の如し。鏡の如く、そのアー ダーナ識において所依し或は所住により、若し一眼識 の同時に生ずる縁の現起することがあるならば、眼識 は或はただ一だけが同時に生ずる。若し五識身の︹一︺ 分の中に同時に生ずる縁の現起することがあるならば、 或は五識身の︹ご分が同時に起る。 例広慧よ、それについて、菩薩は法住智を所依とし、 或は法住智を所住とすることから心意識の秘密におい 真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︵岩田︶ ("1)

(16)

真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︵岩田︶ て善巧であると錐も、如来は菩薩の心意識の秘密にお いて善巧であることより施設するならばただそのこと により一切について施設される。 ⑧広慧よ、その故に、菩薩は内自証のアーダーナを見 ず、アーダーナ識を見ないと雌もそれは如実にしたがっ b て耐︺ある。またアーラヤを見ず、またアーラヤ識 を見ず、また積集を見ず、また心を見ず。また眼︹根︺ を見ず、また色を見ず、また眼識を見ず。また耳︹根︺ を見ず、また声を見ず、また耳識を見ず。また鼻︹根︺ を見ず、香を見ず、また鼻識を見ず。また舌︹根︺を 見ず、また味を見ず、また舌識を見ず。また身︹根︺ を見ず、また触を見ず、また身識を見ず。この故に、 広慧よ、菩薩は内のそれぞれの意︹根︺を見ず、また 諸法を見ず、また意識を見ないと雌も、それは如実に したがってあるとき、それは菩薩の勝義における善巧 であるといわれる。また、如来は勝善善巧の菩薩とは 心意識の秘密における善巧があると施設される。 (〃2)

(17)

この箇所はアーラヤ識の異名としてのアーダーナ識を説いている。この部分は真諦訳は艸佃⑥のように三つに区分 できる。㈱の説明は真諦訳だけにあり、他の訳本にはないものである。仰の部分は、真諦訳・笈多訳・玄英訳・チベッ ト訳の四訳が一致する。この所は﹁解深密逢巻第一、心意識相品第三のほとんど全体の引用であ篭﹁摂大乗論﹄ 真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︵岩田︶ 側広慧よ、ただそれにかぎって心意識の秘密における 善巧があると錐も、如来は菩薩の心意識の秘密におけ る善巧であると施設するならば、また、ただそれにか ぎって施設されると言われるべきである。 何また、このような意味を偶頌に、﹁アーダーナ識は 甚だ深細にして﹂と言う等により教示し了解し難きが 故である。.切の種子は爆流の流れるが如し﹂とは、 順次に転ずることから、それは一切の種子は爆流の流 れるが如く、一刹那もなく順次により転ぜられる。 ﹁アーダーナ識﹂とは、名前の同義語︵別名︶と決定 の語である。それを﹁自我と分別することは認められ ない﹂とは、或はまた、転ずることについて、自我と 分別することはなさない。 (〃3)

(18)

j ガノワハイテスヤ 唖論日。云何此識或説為二阿陀那識一・ 二ニイテ

ピヲセリノヲクルコトヲ卜

釈日。前已引二正理及正教一、証三此識名二阿黎耶一・ ガタイーアノワクルヤ ト 云何今、復、説二此識一名二阿陀那一・

クシノノヲ

ノノノナルガ 論日。能執︾持一切有色諸根一、一切受生取依止 ナリワテノニノハノニレチ セ七・ン 故。何以故、有色諸根此識所二執持一、不し壊不レ失乃 ・ン。ソーナニ シククルワルガクズルニワ 至二相続後際一。又、正受レ生時、由三能生一︾取陰一

ナリニノハクノルノノハニルルガ

ニイテ 故。故六道身皆如レ是取。是取事用識所二摂持一故説 ク 名二阿陀那一・

ツルハヲナリゼンガノヲトハク

釈日。今、立二道理一、為し成二阿陀那名一・道理者、能執ニ

スルコトナリノノワッテノハスルニノヲ

持一切有色諸根一。由三此識執二持有色五根一不レ クナラノノルガ

ノルノニシレパ二

如下死人身、在中黒脹壊等有一変異一位上。若至二死位一、 真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︵岩田︶ の偶頌は﹁解深密経﹄心意識相品では末尾にあるが、それを論本に引用した型になっている。何の部分は偶頌の注釈 であるが笈多訳・玄英訳に比較すると真諦訳は二倍の長さになっていて、解説されている。 注 ︵1︶﹁解深密経﹂巻第一、大正蔵十六、六九二blc。 チベット訳 ︹論日。︺云何にアーダーナ識と名づけられるのか。 一切の有色の諸根の因であると、一切の身体を取る 所依であるが故である。この如く、寿命︵生命︶が 続いている限り、有色の五根が壊われないで、それ ︵アーダーナ識︶により摂持すると、また、再び生 を受けるとき、その生するのを取陰︵摂受︶するが 故に身体を執受する。その故に、それ︵アーラャ識︶ はアーダーナ識と名づけられる。 ︹釈日。︺﹁一切の有色の諸根の因である﹂と説くのは、 何となれば、︹有色の諸根の因により︺寿命が限りな く流転しているという等である。それ故に、一切の有 (刀4)

(19)

ハスヲノノハチルノー

阿黎耶識捨一離五根一。是時、黒脹壊等諸相即起。是故色の眼等の根がアーラヤ識を執持するとき、死人の身

ンデルツテニノノルルニノノハセ

定知、由下為一此識一所中執持上、一期中五根不二破壊一。のように青色などの位︵状態︶に変ることはないこと 一切受生取依心膨瀞睡卜春、些一曇ァ蚤すり前間一一。此謝謂から、若し死の時に至って、それ︵アーラャ識︶を捨

ノ・ンククルワクズワノノハニル

生正受し生時、能生二取陰一。此取体性、識所二執持一・ 離するならばこれ自体が青色などの位となるであろう。

ルノハレシクスルナルニノニシククルヲノハ

由二此識是正受生識一。是故正受レ生時、一切生類皆それ故に、そのように定められる、それ︵アーラャ識︶

ルノノト

ノモニノノル

テ 為一︽此識所摂一。一期受身亦為二此識所し摂。於二阿黎耶による執持がある限り、寿命は失なわれることはない

ノニノワスルガナリテノノヲニ

ワク

識中一、身種子具足故。以二是義一故、阿黎耶識亦名二であろう。また、﹁一切の身体を取る所依である故に﹂ 卜

阿陀那一。とは、アーダーナ識である。このように説くのは﹁再

び生を受ける︵結生︶とき、それ自体の生起において 執持する﹂というこれが釈である。また、それ故に、 それが生を受けるとき生を受けることが生じて取する ことから一切の身体が摂持されるのであり、アーラヤ 識の中に一切の身体の薫習が住するが故である。それ 自体が生ずるからして、﹁それの生ずる﹂とは、それ ︵自体︶の生ずることである。﹁執持する﹂とは、それ 自体の生ずるところの執持であり、また執持すること 自体の事物言閉目︶が生ずるだろう。この意味はアー 真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹄における増広部分の検討︵二︵岩田︶ (〃5)

(20)

j ハイテクトシ ノヘルガ卜 咽論日。或説名し心。如三仏世尊言二心意識一。

卜ゼトハルノノルヲカラノモニル

釈日。阿黎耶識及意、見二此二義不●同。心義亦応し有し

りノノハン

異。此三界相、云何。 ニリ ニハクため二ノスル ナルガ二 論日。意有二二種一・一能與二彼生一、次第縁依故、 ニセルヲシト|ナノスルナルワス卜 先滅識為し意、又以二識生依止一為し意。

シハシ・ンテニクゼパワイテレワク卜

釈日。若心前滅後生、無間能生二後心一、説し此名し意。 リ クリシクズルノト ヒゲ 復有し意、能作二正生識依止一、與二現識一不二相妨一・ ノハルガノズルトニケナシトシクズルワクトシチ卜 此二為二識生縁一故名為し意、正生者名し識。此即意與レ トノリナリ 識異。 ニハノニシテ

トニス

論日。二有染汚意、與二四煩悩一恒相応。 阿陀那識︵アーダーナ識、且習四︲且愚息︶の意義を説明するところである。この所は、真諦訳の最初の﹁釈日﹂ の注釈に短かい解説が付加されている。その外の箇所は全体として真諦訳とチベット訳及び他の漢訳とほぼ一致す ブ︵勺。 真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︵岩田︶ ラヤ識はアーダーナ識とも説かれる。 チベット訳 ︹論日。︺それは心とも名づけられる。世尊が心と意 と識と︹の三︺があると説かれるが如し。 その中で、意には二種がある。︹第一は︺等無間 縁を作すことにより︹直後の意への︺所依となる故 に、無間減の識が意という名で呼ばれて、︹以後の︺ 識が生ずる所依となる。第二には染汚︵匡忠巴の 意であって、四煩悩︹即ち︺㈲有身見、口我慢、伺 我愛、倒無明と恒に相応︵結合︶している。それは 識が雑染︵闇昌室忠巴される所依である。 ︹前六︺識は︹意の︺第一の所依によって生起す (〃6)

(21)

レスセント ヲヲ力 卜云フヤ

釈日。此欲し釈一︾阿陀那識一・何者四煩悩。るのに対して、第二によって染汚を作す。︹前六識

ニハ ニハ

ニハニハナリ

論日。一我見、二我慢、三我愛、四無明。は︺境を了別するが故に識である。

ハレスルヲナリツテノースヲ トハツテ 釈日。我見是執し我心。随一此心一起一我慢一・我慢者、由二︹第一には︺等無間︹縁の識︺であることと、︹第

二スナリヲニハキースヲヲイテクトノハ

我執一起一高心一・実無し我起一我貧一説名一我愛一・此三惑二には︺思量︹の義︺の故に、意は二種である。

ジテテヲストユルトトニガノテヲセケテス卜

通以無明一為し因。謂諦実因果心迷不レ解名為二無明一。︹釈日。︺また﹁それは心とも名づけられる﹂と言う

ノハレノノナリノハテニトシテ

論日。此識是餘煩悩識依止。此煩悩識由一第一一依止ところの、心そのもの︵心性︶とはアーラャ識であり、

ジテニスルナリ

生、由一|第二一染汚。意識の種々の義︵境︶における所縁の如く、またこの

ノハテスルニニガジテニハ

釈日。此染汚識由レ依一↓止第一一識生、由一第二一識染種々の義を生ずるという、これにより顕示︵説︶する。

齢舜第己瞬ル誠舞蔦餘識隣↑盛シ繼雌塁侭出鵬”その中で尋無間縁を作す故に、無間減の識は意識の

ナリノヲク

ト ノナルガナリシガシクスモ 故。第二識名二染汚識一。煩悩依止故。若人正起二善因と作ることから、それは第一の意である。第二には

ワリノ

心一亦有二此識一・ 四煩悩による染汚の意であり、それは有身見であり、 ルガジヲピシテクスルニニノヲクト 論日。由二縁し塵及次第、能分別一故此二名し意。我に執着するとまたその増上︹力︺による我慢であり、 テノクルワワニケトクニノズルトナルガニク 釈日。以二能取咳塵故名し識、能與二他生一依止故名レ我を高挙するということであると、またその中で無真

卜ノハレナリハシテクスルガニク卜

意。第二識是我相等。或依止能分別故名し意。実の我において愛する我を執着すると、第二には、そ

れ自体の因は無明であり、無明は無智である。﹁第一 の所依によって生起するのに対して、第二によって染 汚を作す﹂という中で、無間︹減︺の意識と言われる 真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︵岩田︶ (〃7)

(22)

この箇所は、真諦訳とチベット訳とはほぼ一致している。ここで意︵ョ画息切︶にはけ次第縁依︵等無間縁︶と口有 染汚意︵染汚意︶の二種があることが説かれる。この有染汚意は後に法相唯識によって第七末那識とされる識であ フ③。 真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︵岩田︶ のは諸識の生ずる時が与えられることが生の依である。 第二には、染汚︹の意︺とは雑染を作すことであり、 その故に、善心の中においても我が有ると執する故で ある。﹁︹前六識は︺境を了別する故に識である。﹂ ﹁︹第一には︺等無間の所依であると︹第二には︺ 我の思量の故に、意は二種である﹂という中で、その 中で、境を取る義によると、識は時間の義によるとは 第一の意である。我慢等による雑染の義によるとは第 二の染汚の意である。 ("8)

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