シヤフツベ リーのモラル・セ ンスの 自律性 について
―― ハチス ンとの対比 において一― 横 山 兼 作 (平成 6年6月20日受理) 小論は,表
題 に示す ように,シ
ャフツベ リーの「モラル・セ ンス」(MOral sense)の 道徳的自律 性 (mOral autOnomy)イ こついて検討 してみようとするものである。筆者は以前,マ
ン ドヴィルの批 判 との関連においてシャフツベ リーの道徳論 を考察 し, シャフツベ リーにおいて根底のオプテイミ ズムは確かに否定 され得ないけれども, しか しその徳の実践 は決 してマン ドヴィルの見 るような安 易なものではな く,そ
の道徳性 をあ らわす「自然」(1)ない し「 自然的」 (natural)も,現
実の次元か らするとき,む
しろ「成 るところの自然」であることを明 らかに し,そ
の実践 にモラル・センスが 深 く関わるとも加 えておいたが,(め小論はこれを更に掘 り下 げ,そ
の実践 に先立つ道徳的善悪の基 礎づけとモラル・セ ンスの関係 を巡って,特
に初期ハチス ンの立場 との対比 において考察 してみ よ うとするものである。 しば しば指摘 されるところではあるが,道
徳的区別 に特有の概念 としてのモラル・センスは確か にシャフツベ リーによつて導入 され,ハチスンなどによって継承・発展 されたわけであるけれども, シヤフツベ リー自身のそれへの言及は必ず しも体系的でも, また統一的で もな く,そ
こにおいてさ まざまな局面を見せていることは否定 し得ない ところである。その数々の矛盾,表
現上の曖味 さに よって,シ
ャフッベ リーには「モラル・センスや道徳性一般の簡潔な,一
貫 して考え抜かれた理論 は何一つ見 られない」などとも評 されるゆえんである。・ )既に同時代人によっても,上 のマ ン ドヴィ ルの他にもバークレイの「不信心者 (inttdd)の徳J,バ
トラーの「′限楽主義的義務論」, ヒューム の「理性の立場 と感情の立場の混同」, ファーガス ンの「単 なる言葉のあや」 などとその道徳論が 批判 されたのは周知の ところ。今 日で もシャフツベ リーの評価 は定 まっているとは言いがたいけれ ども,た
だ,注
目されることはそのさまざまな問題点にも拘 わ らず, シャフツベ リーのモラル・セ ンスない し道徳論 に高い道徳的自律性 を見 ようとする人たちも決 して少な くないということであ る。°)事実, カン トのいわゆる「義務のための義務」 に通 じるような表現 もしば しば見 られるので ある。少 な くともその「洞察の豊かさと多面 さ」(の には,現
代倫理学の課題 に も應 える多 くの独 自 なものが含 まれていることは否めないであろう。ただ,シ
ャフツベ リーにおける自律的な側面が余横 山 兼 作 りにも強調 されると
,今
度 はハチス ンなどとの継承関係が一層複雑,不
可解 となって来るの も事実 のようである。 倫理学における「自律性」の概念 自体,必
ず しも完全 に確定 されたものではないであろうが,い) 道徳にあ くまで独 自的,本
質的 という意味でシャフツベ リーのモラル・センスない しその道徳論 に 一種の自律性の存することは勿論否定 され得ない。ただ,それを特 にハチス ンの初期の立場 との比較 において見るとき,密
接 な継承関係 にあるとも言われる両者の間に,そ
の実,か
な りの性格の相違 を見ないわけにはいかない。以下l―l,そ の倫理学の体系全般か ら見てシャフツベ リーのモラル・セ ンスは,そ
の実践の力 としての重要性 はともか く,道
徳的善悪の区別の原理 としては明白に神学的 「自然」の制約下にあ り,働,経
験の次元でその作用 を見直す とき,そ
れは現実における関わ り存在 の調和の感 として啓発,補
正 をむしろ必須の もの として要請 されると論 じたものである。そこか ら 直ちに,そ
の自律性 はハチス ンのそれ よりもむ しろ劣 ると断ずるわけにはいかない としても,ハ
チ スンのモラル・セ ンスの倫理学上の意味づけとはかな り違 っていたとは言 えるのではあるまいか。 (― )シャフツベ リーのモ ラル・ セ ンスない しはそれに当たる「正邪 の念J(Sense Of RIght and Wrong) の 自律 的な狽↓面 については
,多
言 を要 しないであろう。そ もそ もシャフツベ リーにおけるほ とん ど 唯一の体系 的道徳論 とも言 うべ き『徳 あるいは価値 の研究』(An hquiry conceralllg Virtue or Mer比)は
,そ
の冒頭か ら道徳 と宗教 は,通
常 の見解 とは逆 に,現
実的には必ず しも相即 しているわけでは な く,例
えば熱烈 な信仰者 で も不道徳 な人,反
対 に無神論者 と見 える人で も道徳 的 に卓越 した人 も あると語 られ,両
者 の しか るべ き関係がその探究の,少
な くともその「第一巻」 の主題 とされたの は周知の ところであ る。 シャフツベ リーによれば,道
徳 的善悪 を区別 し,そ
の実践 の力 ともなるモ ラル・セ ンス は,わ
れわれの宗教 的観念が 身につ く以前 に万 人 に生 来的 (orlglnal)に備 わつてい る ものであ り,否 ,人はそのモ ラル・ セ ンス において神 の道徳性 を も判別す る とも言 われているが, (I.264)°)これ らはその まま,同
じような表現 においてハチス ンに受 け継 がれている もので ある。 もっとも,後
に改 めて見 るように,シ
ャフツベ リーにおいて宗教 の影響力 はハチス ンとは対照的な 程強調 され,あ
る種 の宗教 ・真 の宗教 (true Religion)の参画が正 しい道徳 的実践 にはむ しろ不可 欠の もの ともされるわけであるが, しか しそれ も,人
間本性 に生来的 なこの道徳 的感覚 の存在 その ものにとつては,す
べ て間接 的で しかないであろ う。 有神論 も,無
神論 も,摩
神信仰 も,否
あ らゆる宗教 的,無
宗教 的信 (仰)が
この場合直接 的に作用す ることはあ り得ず,す
べ て間接的 (indirectly)で しか ない。(I.261)シヤフツベ リーのモラルセ ンスの 自律′l■について
13
われわれの行為の道徳的価値 もすべて,善
(gOOd)への直接的な感情 (affecion)に こそ存する のであ り,来
世の報いのために徳 に励 む如 き行為 には何の価値 も存 しない とは しば しば言われてい るところである。 ただ,このようなハチス ンに通 じる道徳の自律的な側面にも拘わらず,そ
の道徳論の体系全体 と してハチス ンと著 しく異 なる如 くであるのは,そ
のモラル・センスは必ず しも道徳的善悪の究極の 原理 とされているわけではない とい うことである。モラル・センスは,以
前ふれたように,確
かに 実践の原理 としては極めて重要ではあるが,道
御的善悪の基礎づけの原理 としては,ハ
チス ンのそ れ程 には重要な位置を占めていないのではあるまいか。 それは何 よりも『研究』の構成 にあ らわれているようである。『研究』「第一巻」ではまず宗教の 諸相が論 じられ,続
いてシャフツベ リーの例の甚だ独特な自然観が展開されることになるが,何
よ りも注 目されることは,人
間にのみ存在するとされるモラル・セ ンスの考察 に先立 って既 にその自 然の考察において,道
徳的善悪の大本が確定 され,つ
まり,道
徳の究極的原理が「 自然」か ら直接 導 き出されているということである。シャフツベ リーの自然観については以前論 じたことで もあ り, くり返すまで もないことであるが,要
はすべてが,身
体の部分 と全体の関係の如 く,有
機的連関の 構造をな した一大秩序体であるというものであった。 シャフツベ リーはそこか ら直接的に,わ
れわ れはその全体 (the whole),そ の体系 (the system,consituion)の 一部 として,そ
の秩序 に従 う べ く規制 されてあると言 うのである。そこに互いの保護 (conservadon and support)が あ り,そ
■に善があるのである。
か ような次第で
,あ
らゆる動物の一つの体系が存在するとい うことになる。つ まり,そ
れ によって動物のことが規制 され,処
理 されている一つの動物秩序 (an animЛ order)ないし自然の営み (economy)が。……万象の体系
,普
短的な自然 といった ものの存在が認め ら れるとすれば,宇
宙の全体的存在 ない し体系 にとって善で も悪で もない ような個々の存在 な い し体系はあるはずがない。なぜなら, もしそれが無意味で役 に立たないようなものなら, それは欠陥ない し不完全 とい うことで,全
体の体系にとつて悪だか らである。 (I.246) 勿論,こ
れは何 も人間に限 らず,す
べての「存在者」(creature)のことであ り,そ
の まま道徳 の原理 とされているわけではない。道徳は,シ
ャフッベ リーによれば,上
にふれたようにわれわれ の感情に基づ く行為,感
情の統御 にかかわ り,厳
密 にはモラル・セ ンスの吟味の下にある行為 を指 して,単
なる結果の意では決 してない。 しか しなが ら,そ
れは確かに人間に限 られたことではない としても,人 間を除いた存在のことで も決 してな く,そこで既に明白に,それは人間(m an,mankind) を含んだ もの とされ,そ
こか ら直接,そ
の全体 にとって有益 (useful)な 行為 を徳 (virtue)と ,横 山 兼 作
れの感情がすべてそれ自体で完全 に自然の秩序 に合致 しているものなら
,モ
ラル・セ ンスはもはや 不要 とも言えよう。∝)一般 に
,あ
らゆる感情 や情 念が公 共の善 (public gOOd),種 族 の善 (g00d of the species)に適合 している (suited to)と き
,そ
の 自然 の気 質は完全 に善 なのである。(I.250) 勿論 シャフッベ リーにおいて現実 の人間か らモ ラル・セ ンスを除 くわけにはいかない。人間にお いては,モ
ラル・セ ンスな しに感情 の正 しい統御 は不可能である とも言 えるが,た
だ,そ
こにおい て も,モ
ラル・ セ ンスは,個
々の行為 の道徳 的価値評価 には確 か にかかわって も,そ
の基準 の設定 にまであずかっているわけで は必ず しもないのである。基準 はいわば外 にある。単 なる行為 の結果 には何 の道徳的価値 もない とされた箇所 で も,別
にその判断の基準が論 じられているわけではない のである。 単 なる報 いの期待 や罰 のおそれか ら自分 の忌み嫌 う善 (the good)を な し,あ
るいは少 し も嫌 っていない悪 (the ill)を避 ける ようになった として も,そこに何 の徳 も善 さ (goOdness)も存 しない。彼 は
,そ
の善 き行 い (his good conduct)に も拘 わ らず,本
質的 にはそ うす る 必要が なか った時 と同 じくほ とん ど価値 な きものである。(I.267) 感情的動機 のみが行為 の道徳 的善悪 を構成す る と語 られるときも同 じように,根
底 の「 自然」 の 大枠 まで問われているわけで は決 してないのである。 可感 的存在者 にあっては,感
情 によつて為 された もの以外 の ものがその存在者 の性質の善 悪 を構成す ることは決 してあ り得 ない。彼が善 だ と思われるのは,彼
の関連す る体系 の善悪 が彼 をつ き動かす情念 や感情 の直接 的 目的 となった ときだけなのだ。(I.249) か くて,『研 究』「第一巻Jは
「第二巻」 冒頭で次の ように総括 されることになったわけである。 われわれの見 出 した ことは,善
とか有徳 とかい う名前 に価す るため には,人
は 自分 のすべ ての性 向や感情,自
分 の気持 や気質 を自分 を含 む ところの,自
分がその一部 をなす ところの 種族や体系の善 に適合 させ,一
致 させ な くてはな らぬ とい うことであつた。(I.280) この全体 の秩序,体系 の善 にわれわれ を適合 させ,一致 させ る働 きがモ ラル・ セ ンス なのである。 シヤフツベ リーの立場 は決 して単 なる 自然主義 では ないけれ ども,「自然」 の制約 を越 える程 の力 をモラル・ セ ンスに見 ているわけで も決 してないのである。 勿論 その こ とは,「自然」 がモ ラル・ セ ンス と全 く離れて存在 し,単
に外 か らこれ を規制す る如 き関係 にある とい う意味では決 してな く,む
しろ何 よ りもこの統御 の感覚 にこそ「 自然」 が反映 さシヤフツベ リーのモラルセ ンスの自律性 について
15
れている と見 るべ きものであろ う。 ただ,明
らかな ことは,シ
ャフツベ リーはその道徳 の根本原理 を必ず しもこの感覚か ら,後
に改めて見 るように,現
実 的 にはか な り不完全で,部
分的反映で しか ない この感覚の経験的分析 に よって導 き出 しているわけで はない とい うことである。 これは,モ
ラ ル・セ ンスが ほ とん ど扱 われ な くなる 『研 究』「第二巻」 で も, また,他
の著作 で も,無
論変 わ つ ているわけではない。Φ) これはハ チス ンとかな り対照 的である。周知 の ようにハチス ンは,モ
ラル・ セ ンス をその倫理学 の中心 に据 え,そ
の是認 (approv』)と否認 (disapprovЛ)に
道徳 的区別の根拠 を置 いたか らであ る。 もっ とも,そ
のハチス ンに も一種 の 自然 の完成思想 があ り,そ
の道徳 的善悪の究極 的原理,功
利思想 も結局 は神 的意志 に依拠せ しめ られてい る と言 えようが,(1の しか しそれはむ しろ背後の原理 であ り,そ
の経験主義的倫理学 における道徳 的善悪 の基礎づ けに果 たすモ ラル・ セ ンスの役割 の大 きさは,シ
ャフッベ リーの比 ではない。何 れが道徳 の根底 を明 らか に し得 ているかは とにか く,両
者の倫理学上の位置,そ
の性格 の違 いはそ う小 さ くはない ようである。 (二) シヤフツベ リーのモ ラル・ セ ンスは,一
應 は確 か に自律 的であ りなが らも,そ
の倫理学 の体系全 般か ら結局 は「 自然」 に大 き く制約 された ものであるこ と,そ
れはハチス ンの場合 とかな り対照 的 とも言 える面 を もつ ことを上 に見 て来 たわけであるが,こ
れ を以下,可
能 な限 り経験 の次元 に限 っ て,そ
の作用 の面か ら見 て見 ようと思 う。 もとよ リシャフツベ リーにおいて,そ
の神学 的方法 と経 験的方法 を我然 と分 けることは困難ではあるが,わ
れわれが現 に見 る ところの 自然 の他 に手がか り は存 しない とは,シ
ャフッベ リー 自身の言で もあるか らである。 もしもどこかで見切 りをつけ,情
念 の限界 を定 めな くてはな らぬ とす るな ら, 自然へ の顧 慮以外 どこにわれわれの標準 を定め, どの ように自らを律 す ることが出来 よう。 それ を越 え ては何 の尺度 もきま りも存 しないのだ。 ところで 自然 は,諸
存在者や人間 自身の 自然 な状 態(natur』 state)を
,悪
い教育 による偏見 な しに見 ることによつて知 り得 るのだ。(I,325)1)必
ず しもシャフツベ リーのモラル・セ ンス論 に限 った ことではないけれ ども,特
にシャフツ ベ リー に お い て そ の道 徳 的 是 認 は わ れ わ れ の行 為 や感 情 の均 衡 的 (prOportion』),調
和 的 (harmonious),規則 的 (regular),適 度 な (mOderate)な どと形容 され る一種 の美 的 なあ り方 を 指 していることは改めて述べ るまで もない。 ただ,ハ
チス ンと比較 して何 よ りもまず注 目され るこ とは,そ
の主観的評価 の感が同時 に著 しく客観 的であ る, とい うよ りも更 に,深
く客観 的存在 と関 わ り,こ
れ に基づ いている如 き面が大 きい とい うことである。例 えば,ハ
チス ンとともに仁愛 的感16
横 山 兼 作 情 を高 く評価す るシャフツベ リー において, しか しそのいわゆる「 自然 的感情Jが
必ず しもそれ 自 体で「 自然 的Jと
はな らない とした注 目される箇所 において,シ
ャフツベ リーは次の ように語 って いるのである。 自然的感情が強す ぎる とか,自己感情が弱す ぎる とかい う言い方 は多分奇妙 にひび くか も 知れ ない。 しか しこの困難 を除 くためには,既
に見 た「 自然的感情 は個 々の場合 において過 度 にな り,不
自然 な程度 (unnaturЛ degree)に なるこ とが ある」 とい うこ とを思 い起 こ さな くてはな らない。哀 れみ (pity)がその 目的 (1♂s Own end)を 達成 出来 な くな り(destroy),
必要 とされている救 いや慰 め を妨 げる程 に過大 となった とき。子孫への愛がその親 を減ぼ し,
遂 には子孫 まで駄 目に して しまうまでになった ときな ど。 自然で親切 な感情 を単 に極端 だ と い うだけで不 自然 で悪徳 だ と呼ぶのは苛酷 な ようだが, しか しこの種 の個 々の善 き感情が過 大す ぎる ときは常 に
,そ
れ は他 の ものに有害 (injurbus)で,何
らかの程度でそれ ら他 の も のの力や 自然 の作用 (force and natural operadon)を 害 うことは,極
めて確 かなこ とであ る。(I.286) 別の箇所 のほ とん ど同 じような例文で も,「もしそれが不適切 (immOderate)で
,あ
る程度 を越 す場合,それは疑い もな く悪徳である。何故なら,そのようにして過度のやさしさが愛の効果(effect of love)を 殺 ぐか らJ(I.250)と
語 られているが,この ように,
哀れみや親の愛 といった自然の 情の目的や効果,更には自然的利害の存在 までその道徳的評価の基礎 となっている如 くである点が, 注 目されるわけである。は じめにもふれたように,シ
ャフツベ リーには,少
な くとも表現上はカン トの道徳感情 を思わせ るような面が確かに見受け られる。例 えば,「正邪 に関連する自然的,道
徳的感情」(I.265),「不正や邪悪へ の真 の反発や嫌悪
,公
正や正義 をそれ 自身のため に (for it's own end), またそれ 自身の美 しさや価値 の故 に求める真 の感情 ない し愛情J(I.259),「
徳それ 自 体のために (for rtue's sake)(I.278,271,273)な どそれであるが, しか し,そ
れ らも,そ
の前後の文脈 においてとらえ直す とき
,結
局は「種族や社会の善悪の念」(I.258,252),「 社会的利 害の念」(I.252),「社会 にとっての有益 さ (advantage)J(I.253,272)な どとい う,道
徳独 自 の価値 とい うよりはむ しろ自然的価値 と言つてよい ものを基礎 に している如 くである。モラル・セ ンスを適正に保つのも結局はそれである。われわれの種族 ない し社会の善がわれわれの 目的 (end and aim)な のだ とい うことを しっ か りと抑 えるな ら
,正
邪 の把握 を誤 り,あ
るいは誤 つた感覚 に至 る といったことは起 こ りえ ない。(I.265)シャフツベ リーのモ ラルセ ンスの 自律性 について
17
ば循環的関係(11)を 指摘 し得 るか も知れないが, とにか く
,一
種の美 的調和 の感 としてのモラル・ センスない し正邪の感覚が,深
く客観の実在 に依拠 している如 き面 を見逃すわけにはいかない。そ もそもシャフツベ リーにおいて,個
々の美は全体そのもの (the Whtte ttself)の美への従属 を意味 し(I,279),徳とは「それ 自体,社会 における秩序 と美の愛 に他 ならなか」ったのである。(I.279) 「自然的感情」が「徳の原理」(the principle of rtuc)と して実践 の主役 とされている ときも,それはむ しろ多 く
,事
実 としての自然の情の如 くにもなっている。マ ン ドヴィルの誤解の もともそ こにあったであろう。シャフツベ リーは確かに,徳の実践に妨げがあるほうが,その克服において, より道徳的価値 を有す ることになるとも語っているが(I.256f), しか しそれ も,む
しろ妨げられ ている自然的感情の回復が望 まれればこそであ り,決
して単 なる「義務のための義務」ではない。 自然の基礎 を離れては,
徳の実践 も甚だ困難 となるようである。 弱い感情が強い感情 に打 ち克つことが不可能であるように,感
情や情念が概 して極めて強 く,そ
の力 または数が大 きな勢力 となっている場合,動
物 はそちらに向か う他 ない。そ して このバランスに支配 され,そ
れに従 って行為に導かれる他 ないのだ。 (I.285) もっとも,モ
ラル・センス 自体 は決 して自然的感情その ものではない。それは,原
理的には「反 省J(renechon)イ こよる「反省的感覚」(renected sense)と も呼ばれる一種 の知的作用 を含んだ感 情であ り,自然の情の是認 においても,そ
れ とは原則的には勿論男U個の ものであるが,た
だ,自然 的感情の意識に應 じて即座 に (readily,at the same time)こ れを是認す るに至るとも言われているようイこ
(I.252,288),両
者がほとんど不可分 とも言える密接 な連動の関係 にあることが注 目されるわけである。それは
,例
えば,シ
ャフッベ リーにおいて しば しば言われている「正邪への書 き感 情J(g00d affecion to nght and wronglと い う表現にもよくあらわれている。つまり,そ
の「善 き 感情」 とは文脈上,明
らかにモラル・セ ンスを意味 しているはずであ りなが ら,い
つの間にか単な る自然の情 に転化 されていることが多 く,更
には,「正邪J自
身,あ
くまで も道徳独 自の原理であ る如 くで, しか し,社
会的善悪の意 と重複 されていることが多いのである。 正邪の真の感覚,種
族や社会に対する真 に善 き感情が,とヽの中に植えつけられているにもか かわらず,激怒や情欲,そ の他妨害的情緒の暴力 によってこの善 き感情が しば しば抑 えられ, 打ち負かされて しまう。 (I,270) シヤフツベ リーのモラル・セ ンスのこのような側面は「良心」(conscience)を め ぐる説明に至 っ て も,必
ず しも失 われてはいない。良心は『探究』「第二巻」 におけるほとんど唯一のモラル・セ ンス に代わる概念であ り,自
己 を振 り返 り (home survey,one's eye inwardly ttxed upon oneself, true regard to ourselves),「 自己検 閲」(self inspechon)を その任 とし,度
重 なる反省 によって理横 山 兼 作
性(reason and understanding,reasoning faculty)と も呼ばれるようになったものであるが(I.304), シャフツベ リーはこれを自然的感情の満足感の一環 として論 じているのである。周知のように「第 二巻」は徳の義務論 として
,要
すればその自然的感情にわれわれの幸福のすべてがかかつているこ と,そ
の欠除や「不 自然感情」(unnatural affections)の不快で不幸 なること, 自己の幸福 に配慮 する「 自己感情」は,そ
れ自体 は必ず しも有徳ではない として も,そ
の適度なるものは社会的存在 者 としてむ しろ必須であ り,勿
論快適で もあるとして,結
局福徳の一致 において徳 をすすめたもの であるが,良
心の「検閲」 もこの線上 において営 まれているのである。勿論良心は,上
にふれたよ うに,何
よりも反省的作用であつて単 なる自然的感情ではな く,そ
の是認 も自然的感情のすべてで はないけれども,た
だ,著
しくそれ と相即する如 く見 られ,そ
うい う「道徳的善悪への反應 を示 さ ない」ことは「自然的感情が全 く作用 していない証拠」で,そこか ら,「最 もみ じめな人生 となる。」 (I.306)「 道徳的善悪への無感覚は自然的感情の完全な欠除を意味する」(I.308f)と も言われて 来るのである。 しか も更に注 目されることは,こ
の「第二巻J義
務論 における徳の主 たる内容であ る「 自然的感情」 も,実
に しば しば「社会的感情」(social affections)と も言い替 えられているよ うに,そ
の例 に即 して見る と,そ
の多 くは子孫への愛,友
愛,哀
れみ,相
互扶助 な どか ら,「孤独 に耐えられずJ仲
間 との親睦 を求め,「人々に関心 を持ち」,「世間 と交わる」 といった単なる日常 的社交 までを含んだもので,必
ず しも普遍的な仁愛感情で も,英
雄的献身で もないのである。そこ か ら当然,現
実的にもそのような自然的感情 による行為,つ
まり「有徳 な」行為 は快適で幸福 とな り,そ
の欠除,そ
の反対の行為は孤独,抑
うつ,不
機嫌,気
むずか しさなどを伴 って,不
幸 となる わけである。勿論 これがシャフツベ リーの良心の是認のすべてではない として も,バ
トラーによっ て,そ
の「権威」(authority)の 欠除が強 く指摘 されるゆえんであった。 シヤフツベ リーのモラル・センスない し良心 に何程かの道徳的 自律性はた しかに否定 され得 ない であろうが,上
に見て来たように,そ
れが同時 に,自然的には者 しく客観の実在,そ
の構造 と連関 し,特
に自然的感情,社
会的感情の存在 と相即する面が大 きい とすれば,そ
の自律性 はそれ程確立 された ものではない と言わな くてはなるまい。む しろここか ら,シ
ャフツベ リーのモラル・センス は,自然的には,あ
えて統一的に言えば,連
関的存在構造の調和の感覚,つ
まりは,現
実に関連す る人々 との調和的な在 り方,そ
の感覚 ということにもなるのではあるまいか。 ハチスンにもそのような面が存 しないわけでは決 してないが, しか し既 にその第一作 『美 と徳の 観念の起源』 においてシヤフツベ リーを高 く賞賛 しつつそのモラル・センスを美感か ら一應独立 さ せ,普
遍的仁愛 を徳の内容 として高 らかに掲げて,モ
ラル・センスを何 よりもこれの是認の能力 と してとらえたのは周知の ところである。第二作 『モラル・セ ンス例証』 に至 って,そ
のモラル・セ ンスは,わ
れわれの自然の情 とは全 く別個 な感覚であ り,全
く独 自な道徳的善悪区別の根拠である として,「あらゆる行為の動因は本能 と感情 を前提 し,正当化の理由(justifying reason)は モラル・シャフツベ リーのモラルセ ンスの 自律性 について
19
センスを前提する」 と宣言 されたわけである。(121ハチスンはこの『例証』 において
,そ
れに先立つバーネットとの書簡による論争を踏まえて
,モ
ラル・センスの認識論的吟味を深め,こ
れをロック のいわゆる「第二性質」(secondary qu証比ies)に 擬 している。そこに自律性の面で新 たな問題点 を残す ことにもなったが, しか し
,道
徳の懐疑主義は決 してハチス ンの採 るところではな く,そ
の主 観性の立場 においてなお道徳の実在性 を確保 しようと図つたわけで,そ
の成果は,シ
ヤフツベ リー とはまた違った意味で今 日の課題に應 えるものを含んでいるようである。Qめ2)と
ころで,上
に見たように,シ
ャフツベ リーのモラル・セ ンスは多分 に実在の構造 に依拠す る,そ
の現実の調和の感覚であるとするとき,そ
の感覚の存在そのものは確かに否定 されない とし ても,そ
の実際の作用 は偏 ぱ (parual)な もの とな らないであろうか。周知のように,モ
ラル・セ ンスない しわれわれの道徳的区別の感情に何程かの普遍性 を認めなが らも, しか し, 自然の情の偏 ぱさの故 にむ しろ徳の人為性 をより強調することになったのは,初期のヒュームであった。つま り, ヒュームによれば,わ
れわれの義務感 (sense of duty)イよ,一
般 に人間本性の自然 な,通
常 のコー スない し勢いに従い,そ
れ以上は期待 されない ところか ら,自
然の情念の一般 に偏 ぱな人類 におい て,個
々にはた しかに麗 しい道徳的是認ではあつて も社会全体的には甚だ しい混乱 を生むことにな り,結
局互いの利害の念か ら「正義」 などの「人為的徳」(arincial rtues)が 生 じて来ることに なるとしたわけである。勿論 ヒュームとシャフツベ リーは,そ
の立場 において も,そ
の人間観 にお いても決 して同 じではないけれども,そ
の ヒュームの問題が何程かシャフツベ リーにも該当 しない わけがないであろう。その自然観の根底 にはた しかにオプテイミズムがあるけれ ども,人
は実際的 にはさまざまな状況下 にあることをシャフツベ リーはよく見 てお り(I.289ff),そ こか ら,人
間 社会の甚だ醜い現実面 をもるる語 ることになった とは以前ふれたところである。モラル・セ ンス も 自然的には,そ
の多様な状況から全 く免れてあるわけにはいかないであろう。 それの故ばか りではないとして も,実
際シヤフツベ リーのモラル・センスは,ハ
チス ンのそれ と 比較 して著 しく変化,変
容 し,多
様 な姿 を呈 している。シャフツベ リーの説明によれば,そ
れは直 接的には教育や習慣,特
に宗教,正
しくは誤 つた宗教 (corrupt religion)の影響であ り,例
えば, 「誤 つた宗教や迷信 によって,恐
ろ しくて身の毛 もよだつ程不 自然な,非
人間的な多 くの ことがそ れ自身すばらしく,善
く,賞
賛 に価すると受け とられるようになる」(I。262)と も語 られている。 その影響は,時
にはモラル・センスその ものの廃絶にまで至 らないとも限 らない。 (正邪の念 という)こ
の生来的で純粋 なるもの力乳 反対の習慣や習俗 (後天的性質)に
よ らず して取 り払われる (displaced)こ とはあ り得 ない。 この感情 は,魂
や感情 的性質の最 も早い時期 に生 じた生来的なものであるか ら,反対の感情 によつてたびたび抑 え込 まれた り, 取 り締 まられた りする以外 は,そ
れが部分的に縮少 した り,完
全 に破壌する (destroy tt in横 山 兼 作
the whole)よ うにさせ られる
,こ
とはあ り得 ない。 (I.260)これは
,ハ
チス ンとは対照的 と言つてよい程 の相違である。ハチスンのモラル・セ ンス も,勿
論 絶対無過誤の,神
秘的な力ではない として も,「不可思議 な性質」(occtllt quЛhies)(14)の決定 とハチス ン自身によって も認め られている一種の本能の如 き働 きで
,そ
の廃絶は勿論,外
か らの影響 に よる変容 も余 り考慮 されていないか らである。 これに反 して,例
えばシャフツベ リーの次の例 など は,わ
れわれに生来的なこの道徳感覚が,そ
の存在その ものは確かで も, しか しその作用 は既 に宗 教的な影響 を受ける以前で も,必
ず しも普通的ではないことをよく示 しているようである。 人は,神
のことに関するあれこれの明白な, また確かな観念 を持つ以前 に既 に正邪の知覚 ない し感覚 を持 ち,さ まざまな程度において徳 と悪徳 を所有 していると考 えてよいであろう。 このことは,宗
教 について何一つ真剣 に考 えることもない ような場所 に住み, またそのよう な生 き方 をしている人たちでさえ,彼
らの性格や価値 については互いに異なっていて,あ
る 人びとは生 まれつ き謙虚で親切,友
好的で,そ
れに應 じて,親
切で友好的な行為の愛好者 と な り,他
の人びとは傲慢で粗野,残
酷で,そ
れに應 じて,暴
力的な,権
力だけの行為の方 を む しろ賞賛 しがちであるといった経験 を通 して,知
られるようになる。 (I.266) しか し,勿
論 シャフツベ リーは道徳の懐疑主義者ではない。「価値 と徳の永遠的基準 と不変の独 立的本質J(I.255)へ
の確信 はゆるぎない ものであった。従 って,自
然的感情 といえども,そ
の 中でこれだけが真 に「 自己に即 し,均
衡的,合
理的Jで
, また「争 う余地のない,堅
固で持続的な ものJ_(I,300)と 言えるものは,あ
くまで も全人類 を視野 に入れたような感情,い
わゆる「完全 感情」(enire affecions)だ けであ り,決
して偏 よった,悪
い友情 (vicious friendship)で はないとされ
,例
えば次の ようにも言われて来るのである。 偏 ぱな感情,あ
るいは社会全体,世
界の全体 を考慮 に入れない部分的な社会感情 はそれ 自 体不整合であ り,絶
対的な矛盾 を意味す る。 自分 自身以外のすべてにどの ような愛情 を持 と うとも, もしそれが体系や種族 に対する自然的なものでないなら,そ
れは社会の幸福 に関 し てはあらゆる感情の中で最 も反社会的,破
壊的なものに違いない。 (I.300) ここに,そ
の是認の原理 としてのモラル・セ ンスの発達,啓
発あるいは補正が要請 されるゆえん があるであろう。 シャフツベ リーのモラル・セ ンス論の,あ
る意味での特色で もある。その啓発 さ れた姿が,ハ
チス ンなどと比較 して著 しく理性的能力の如 くにも見えるシャフツベ リーの道徳感覚 なのではあるまいか。つ まり,先
に良心の説明に当たって,そ
れが度重なる反省 によつて理性 とも 呼ばれるようになったもの, とも一言 したように,ハ
チス ンなどは対照的な程,知
的な側面 を大 きシヤフソベ リーのモ ラルセ ンスの 自律性 について
21
くのぞかせているのである。「反省 的感覚」としてのモ ラル・ セ ンスは,表現上 は更 に明確 に「理性 」 と
,あ
るいは「確 固たる理1生」(solid reason,sound and well established reason),正 邪 の「判 断」(judgmenD,「知識」(knOwledge)な どとも
,頻
繁 に呼 ばれてい るの を見 る。 シャフツベ リーの理 性主義 の立場へ の理解 は よ く指摘 されるところである。(1の だが,そ
の知的側面 を強調す る余 り,そ
のモ ラル・ セ ンス 自体 をむ しろ理性 的能力で もあるかの 如 く見 なすの も,やは り問題 ではあるまいか。Q①シャフツベ リーのモ ラル・セ ンスは,「反省的感覚」 として一種 の知的作用 を もともと含 んでいることは確 かで も,そ
の「反省」 自体 に特 に道徳的 な意 味があるわけではないであろ う。 それは,表
現上 は,ハ
チス ンで もしば しば言 われている ものであ り,Qのまた,シ
ャフッベ リー において も,神
の存在 や 自己の利害 についての考慮 の意で も用 い られてい る もので
(I.266,274),バ
トラーの「反省 の原理」(The Principle of Reflection)と もか なり違 っている。 シャフツベ リー によって
,こ
れ を狂 わす の は「他 の感情」(other affecions)で あ る としてるる具体 的 に論 じられて もいるように,本
質的 には常 に,そ
れは感情,感
覚の類 として抑 え られてい るのである。確 か に理性主義の立場へ の理解 はあ った として も,そ
のモ ラル・セ ンス論 に おいて シャフツベ リーは,「理性」 と「感覚」 の当時の理解(18)を全 く無視 したわけではないであ ろ う。 もっ とも,上
に見 た ように,そ
の 自然 な感覚 を現実 の連 関構造 の調和 の感 として とらえて も, その客観 の存在 に関わる知覚 まで否定 されるわけでは決 してないが,そ
こでの知 的作用 を直接,道
徳的理性 とあるいは道徳 的関係把捉 の能力 となすわけにはいかないであろ う。あえて言 えば,そ
れ はヒュームの「手段 的理性」 とい うことになる。勿論,ヒ
ュームの批半1にも見 られるように,そ
れ と感情 との間がそ う明確 になっていない ことも事実であ るが, とにか く,そ
の知的作用 は,理
性主 義の立場 の もの よ りはハチス ンや ヒュームのそれ に近 い もの と見 るべ きであろ う。現実的な連 関関 係 はか な りよ くわかって も,存
在 の究極 目的は極 め て把捉 しがたい と し (I.243),所与 の状況 下 で如何 に行為す るのが正 しいか は,「最 もす ぐれた人 び とに とって もむつか しい こ とであ り,そ
の 決定 も甚 だ疑 わ しいJ(I.254)と
す るシャフツベ リーにおいて,土
台,そ
の知 的作用 に過大の期 待 をす るのはや は り無理ではなかろ うか。 シャフツベ リーにおいて理性 の役割 を高 く見 るグリー ン (S Grean)な どに よって,感
情 的側面 の存 す るこ とは勿 論 よ く理解 され なが らも, しか し,「道 徳的感情 は認識面で成熟 し,理′1生によって統御 されな くてはな らないのだ」とまで言われる とき,(19) やは り行 きす ぎるのではあるまいか。 では,シ
ャフッベ リーにおいて,理
性主義の立場 に通 じる如 き側面 を見せ,そ
の感覚 を,「確 固 たる理性」 とまで言 わ しめている ものは一体何 であるか。思 うに,そ
れが究極 的 には,最
初 に一言 した宗教,シ
ャフツベ リーの「真 の宗教」であ り,そ
の「真 の宗教Jに
基づ く啓発 あるいは補正 の 結果が理性 とも 一 ヒューム的 に言 えばむ しろ「いわゆ る理性」(so called reason)と すべ き一 呼 ばれてい るのではあるまいか。横 山 兼 作 シャフツベ リーは確かに宗教か らの道徳の自律 を説いている。む しろ宗教の影響 を見事なまでに 描写 したとも言つてよいであろう。 しか しそのことは決 して宗教その ものの道徳か らの排除を意味 するものではな く
,そ
の影響の強 さか らも逆 にうかがわれるように,正
しい宗教,「真の宗教」 は むしろ必須のもの として要請 されているのである。周知のようにバークレィは,シ
ャフツベ リーの モラル・セ ンスの美的な独 自性 を,あ
る意味では当のシャフツベ リー以上に描 き出 し,そ
こか ら, 最初に一言 した「不信心者にふ さわ しい徳」 と批判することになったわけであるが,⑫のその批判は 当時の理解 を考慮するにして も,(21)決 して正 しくない と言わな くてはならない。 シャフツベ リーに よれば,「無神論」(atheism)の 立場では,確
かにモラル・セ ンス を誤 らす ことはない として も, そもそも道徳的価値 を設定することが出来ないか らである。つ ま り,は
じめに見たように,自然 は すべて全体 的連関の中にあ り,神
(a God)な い し,絶
対的精神 によつてデザインされ,統
御 され ている「神的秩序」(divine order)の 体系であるとする信仰が,徳
の完成 にはむ しろ必須の もので あるか らである。『研究』「第一巻」の末尾で「か くて,徳
の完成 と極みは神の信仰 によらな くては ならぬ」(I.280)と結論 されるゆえんである。 シヤフツベ リーにおいて徳の極み とも言 うべ き先の「完全感情」が,結
局その「神的秩序Jに
完 全 に即 した もの ということになるであろう。 この完全感情,精
神 の廉直性 を保つ ということが 自然 に,つ
まり至高の知者の命令 と規則 に従 って生 きるということだ。 これが道徳性であ り,正
義であ り,敬
けんであ り,自
然宗教 である。 (I.302) 経験的次元で とらえた社会的感情 とどこまで連 なるか問題 は残 るが, ベ リーの徳論は著 しく超俗 的傾向 を帯 びて来 ると言 えよう。 まで至ると,シ
ャフツ 生への強い欲求 と愛は敬 けんに対 して,また徳や社会愛 に対 して障害で もあるというのは この点についてである。 というのは,この感情が強い程 ます ます人は,神
の法則 と秩序 に対 する心底か らの忍従,従
順が出来にくくなるであろうか ら。 (I.269) 現 にシャフツベ リーは,他
人 よりも父親を大切 にする方が (I.253), また,た
だの仲間 と友人 たちとの間は違 うということが (I.294)「 自然的である」 とする一方で,「友人たちや親類,否
, 人類に対する愛情は現世的で,魂
の利益 という点ではほとん ど重要性 を持 たないので, しば しば軽 視 される。」(I.275)と も語っている。 上にふれたグリー ンは,シ
ャフツベ リーのモラル・セ ンスの自律性 に注 目し,そ
れは「理想的な 条件下」では全 く自己に即 して完全 となるが,そ
うでない とき啓発,修
練 を必要 とするのだとして いる。・ めそうであろうか。たびたび述べるようにその感覚が人間本′1生に生来的に存すること自体 はシャフツベ リーのモ ラルセ ンスの 自律 性 について 確か に否定 されないけれ ども
,そ
れは結局 は「真 の宗教」の支 えにおいて,つ
ま リシャフソベ リー 自身 しば しばその影響 を語 る,教
育や習慣 の正 しいあ り方 を通 し,正
しい信仰 を通 しては じめて完 全 となるのではあるまいか。いわばその不 断の啓発 こそが「理想 的な条件下」 を生 むので はあるま ヤヽか。 ハチスンにおいてもそのモラル・センスの誤 り,変
容が全 く見 られないわけではないが,そ
の独 自な感覚の斉一性 をより確信 しているハチス ンにおいては,啓
発,補
正の問題 はほとんど重要性 を 持たない。そのモラル・センスの誤 りの訂正 もまた,世
間の人びとのモラル・セ ンスによるのであ り,あ
るいは自分の健康 なときの感覚の想起で十分なのである。勿論そこでの「正常 な」判断の究 極には,神
的意志への依拠があると考 えられるが,そ
れはあ くまで も背後の原理であるとは,先
に もふれたところであった。 われわれは,上において,主にシャフツベ リーのモラル・セ ンスの道徳的善悪の基礎づけの面 を, その倫理学の体系面 とその感覚の作用面か ら考察 し,そ
れは「自然」の,結
局 は神学的秩序 をなす 自然全体の制約下にあること, またそれは,経
験的には現実の連関構造の調和の感覚 として,そ
の 完全のためには結局は,何
よりも「真の宗教」に基づ く啓発,補
正 を必須 とすることを見て来たわ けである。たびたび断わつて来たように,わ
れわれ としてはシャフッベ リーのモラル・セ ンスに一 種の道徳的 自律性の存することを決 して拒 むものではないが,た
だシャフッベ リーは,同
時にそれ を,深
く神学的な目においてとらえ,特
有の神学的 自然観 において支えていることに注 目したいわ けである。 二元 と言えば二元であるが, とにか くシャフツベ リーにおいては,モ
ラル・セ ンスの,少
くとも 経験的次元でのその感覚の,道徳的善悪の基礎づけに果たす役割 は,やは りそ う大 きい ものではな かつたと言 うべ きであろう。否,矛盾 を恐れずあえて言えば,そもそ も道徳的善悪の究極的基礎づけ は神学の任ではあっても,必ず しも倫理学的探究の目的ではなかったのではあるまいか。確かにシャ フツベ リーは,道徳 を何 よりも宗教か ら分離することか ら論 をは じめ,「真の宗教Jの必要性 を語 っ てもそれを「間接的」な参画 としたわけであるが, しか しそれは,上
述 したように道徳の感覚が宗 教的観念の発生以前 に人間本性 にとにか く存すること,信
仰 によってこれを直接生むわけにはいか ない という意 にす ぎず,そ
の啓発の否定で も,ま してや宗教その ものが単 に道徳の補助 としてのみ 存在する とい う意では勿論 なかった。「宗教の 目的はわれわれの道徳的義務 や行 いをより完全 に遂 行させること」(I.287)と も確かに言われているが,同
時 にそこで「情念」 (passbns)と 考 えら れた場合 と断わってもいるのである。人間本性 に道徳のあか しを見た点で確かに後の立場 を導いて はいるが,シ
ャフツベ リーはその方向を徹底せず,む
しろ神学的自然観 によって強 くそれを支えた のである。その倫理学 を宗教的倫理学 と限定することは無論出来ないとして も,そ
の宗教 を道徳的横 山 兼 作 宗教 と規定 出来 るほ ど道徳 その ものの独立が図 られたわけではなか ったのではある まいか。磁° ハチス ンの立場 に も
,先
にふれた ように,そ
の根底 に問題 を抱 え,そ
のモ ラル・ セ ンスが よ り自 律的 になった とは言いがたい多 くの もの を見 るが,た
だそれは,単
にシャフツベ リーのモ ラル・ セ ンス論 を継承 し,体
系化 しただけで は決 してないであろ う。認識論上,確
か に よ りむつか しい問題 を提起す ることに もなつたけれ ども,シ
ャフツベ リーのモ ラル・セ ンス とはか な り違 った,独
立 し た感覚がそ こにおいて意味 され,そ
れ による,い
わば第二者的観察者 の「是認」 と「否認」 に明 白 に道徳 的善悪の根拠が置かれた とき,そ
れは倫理学上,新
しい意味づ けの原理 となった と言 えるの ではあるまいか。 注 (1)シャフツベ リーにおいて自然が道徳 に特有の意味で使用 されるとき,「 」 を付す。 (2)拙稿「 シャフツベ リーにおける自然 と道徳J′鳥取大学教養部紀要 5巻(昭和46年12月)(3)D D Raphael:The Moral Sense,p16f(Oxford)(1947)
cf,R C Bretti The Third Earl of Shaftesbury p 59(Hutchinson)(1951)
(4)cf,S Grean i Shaftesbury's Philosophy of Religion and Ethics p 192ff(Ohio U P)(1967)R L Brett Op cit p
130ff
浜 田義 文 「 モ ラル ・ セ ンスー シ ャフ ツベ リー の倫 理 学― 」 法文 論 叢27,30巻 (1970,1972)G V Lecmers:Die
Geschichte des englischen Deismus,S 240f(Stuttgart)(1841) (5)S Grean l op cit,p 199
(6)R F Atkinson:Hume on“ is"and“ought"――A Reply to Mr MacINTYRE (Hume)p 266(Macmillan)(1968) (7)Sha■esbury's Characteristics Vol I (Peter smith)以 下, I`と略9
(8)道徳 の 規 則 が,結局 は神 の 意 志 だ とす れ ば,モラ ル・ セ ン ス は不 要 と な る と批 判 した の は ペ イ レ ィで あ る。
Paley:The Principles of Moral and PoliticaI Philosophy p 17f(Garland)
(9)『研 究』「 第 二 巻」 で,後にふ れ る 自然 的 感 情 は勿 論 ,「 自己感 情 」(sdf affecions)で も,その 欠 除 は「 自然 の
デザ インと目的に照 らして悪徳」(1.287)と直接的に決めつけられている。 もっとも,それ も単 にその欠除の故 とい うよ り1よ「公共の善,あるいは体系の善の維持 を困難にするか ら」(I.288)であるが,何れに して も, ここ
にはモラル・セ ンスは必ず しも要 しない。 また,PhIるsophttЛ Rettmenで,合理的存在者は自然の全体 を見据 え,
これに従 うべ きことが,るる説かれている。「(その ように)極めて合理的で,全体の善 を考 えることが出来, 自ら
をその全体 と連関 していると考 えることの出来る存在者は,同時に,個人的な種族の利益 よりも全体の利益 と善ヘ の義務があ る と考えな くてはならぬ。 これ こそが新 しく, また崇高な感情の根底 なのだ。J(Randi The LIe and Letters of Anthony,Earl of Shaftesbury,p4(Routledge Thoemmes Press))
住
0
参照,拙稿「理′性対道徳感覚論争 とハチス ンの立場J日本倫理学会論集26『 イギ リス道徳哲学 の諸 問題 と展 開』(平成3年10月)
シヤフツベ リーのモラルセンスの自律性について
25
鳥取大学教養部紀要27巻 (平成5年11月)
住D HutchesOn i llluStratiOns on the MOral Sense p 121(The Belknap Press)
19 cf,W.T BIackstonei Francis HutchesOn and ContelnPorary Ethical Theory P 76ff
10 HutchesOn:An lnquiry concerning Moral Cood and Evil p 156(Seiby― Bigge ed】 British Moralists) 19 cf Grean i op cit p l12,137,Bretti op cit,p48.
10 参照,板橋重男『イギリス道徳感覚学派一成立史序説―』75買。(北樹出版)1召和61年) ll' CF,Hutcheson i 11lustrations p 123f 164 1nquiry p 143,155
10例
えば,Ri CudwOrthの “A Treatise concerning EternЛ and lmmutable MOral■ y"は,実際の刊行 は死後 となっ たけれ ども,明らかにシャフッベリー よりも早 く,極言すれtiそ
の全巻を,「理性」 と「感覚」の区別,その感 覚の立場の批半Uに当てたと言ってもよい ものである。191 s Grean:op,cit p 245
20 G Berkeley:AIciphrOn;or The Minute Phi10dopheFs(WOrks Vol Ⅱ)p.125f.
1211「無神論」 (athdsm)の 理解は,今日とは同 じでない ようである。参照,補 正弘「人間性の独立 と道徳的宗教― シヤフツベリーを中,と、として一」(東北大学文学会「文化J第19巻第 2号)(H召和30年 3月 ) 221 Grean i op cit p 205 ④ 上掲楠論文は,シャフツベ リーの道徳論を広 く宗教学的見地か ら扱ったもので,参考 となる点多大であるが,確 かに,シヤフツベ リーにおいて,既成宗教か らの独立 は明白で も, しか し,その主張の如 く,「神か ら人間 を切 り 離 しJ,「道徳 を通 してのみ宗教 の意義がある事を示Jしているとまで見るのは,行きす ぎるのではあるまいか。