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労働力価値規定の特殊性について-香川大学学術情報リポジトリ

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労働力価値規定の特殊性について

山 下 隆 資 Ⅰ.はじめに。Ⅱ.マルクスの労働力価値規定についての見解。 Ⅲ、宇野弘蔵氏の見解。Ⅳ.宇野氏の見解の問題点。Ⅴ..むす び。 Ⅰ 労働力とは何か。それは「1人の人間の総体,すなわち生きている人格のう ■ちに存在していて,彼が何らかの使用価値を生産するときそのつど運動させる

肉体的および精神的諸能力の総体(derInbeqri董fderphysichenundgeistigen

F蝕igkeiteロ)」さ)のことである。そしてこの労働力は,原料や機械などの生産 手段と異なって,「価値の源泉(QuellevonWert)であり,しかもそれ自身 がもっているよりも大きな価値の源泉だという独自な使用価値(derspe2;i丘sche Gebr・auChswert)」2)を有する。 このような性質を有するものとしての労働力が商品となったのは,労働者が マルクスの云う「ニ重の意味で自由」3)になったからに.はかならない。つまり, 一・方では旧来の封建的支配服従関係から解放され身分的に自由となり,他方で は自分の労働力の実現のために必要なすべての物から引き離されて,すべての ものから自由になったからである。このような「ニ重の意味で自由」な労働者 は,封建社会の崩壊後に続く資本の「本源的蓄積過程」において形成されたも のであり,そのいみで,「二重の意味で自由」な労働者の形成は「先行の歴史 的発展の結果なのであり,多くの経済的変革の産物,たくさんの過去の社会的 1)K・MaIX,DasK呼ital,DietzVerlagBerlin,1962,Bd・Ⅰ,S・181,岡崎次郎訳『資本 論』(『■マルクス=エンゲルス全集』版,大月番店,)第1分冊,219ペーrジ。 2)K.MaIX,g∂g乃(あ,S.208邦訳,同上,第1分冊,254ペ−ジ。 3)K‖MaIX,g∂g乃(お,Sい183,邦訳,同上,第1分冊,183ペー1ジ。

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労働力価値規定の特殊性について −ヱヱ∂− 生産構成体の没落の産物」4)であるということができる。 そしてこの労働力が商品化されることによって,貨幣は,はじめて「自己増 殖する価値」としての資本に転化する。「資本の歴史的存在の条件は,商品・ 貨幣流通があればそこにあるというものではり・っしてない」5〉 のであり,貨幣 の所有者が彼の貨幣を資本に転化さすためには,どうしても労働力が商品とし て,労働市場に存在していなければならないのである。労働力が商品として労 働市場に存在することによって,貨幣の所有者は,この労働力を生産手段とと もに商品として購入し,それらを生産過程で消費し,恒常的に剰余価値を生産 することができ,かくて資本制社会は,はじめて商品経済社会として全面的に 確立することになるのである。 さて,「人間の肉体,すなわち生きている人格のうちに存在し」「■それ自身 がもっているよりも大きな価値の源泉だという独自な使用価値」を有し,商品 経済社会の確立にとって決定的な重要性をもつこの労働力商品は,云うまでも なく,人間と自然との質料変換の媒介たる人間労働によって,直接的に生産す ることばできない。労働力商品は,人間労働によって直接生産される−・般商品 とは異なって,労働生産物としての価値の実体を,それ自身の中に有するもの として存在するのではないのである。6)したがって−当然その価値規定も,−・般 商品のそれとは異なる特殊性を有するものとなる。 それでは,労働力商品は,どのような価値規定上の特殊性を有するのか。以 下において,労働力商品の価値規定の特殊性を検討してみることにする。 ⅠⅠ まずはじめに,労働力の価値規定に関するマルクスの見解からみてゆくこと にする。マルクスは『資本論』第」・部「資本の生産過程」第四章「貨幣の資本 への転化」第三節「労働力の売買」という節の中で,労働力の価値規定につい 4)K小MaIX,g∂g乃ゐ,Sい183,邦訳,同上,第1分冊 222ページ。 5)ⅩいMarx,βあゐ,S1さ4,邦訳,同上,第1分冊 223ペー・ジ。 6)拙稿,「労働力の価値について」(『香大川大経済論叢』第43巻第1・2・3号) 参照。

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香ノーl大学経済学部 研究年報12 ∫972 −ヱJ4− て次のように述べている。「労働力の価値は,他のどの商品の価値とも同じ に,この独自の商品の生産に,したがってまた再生産に必要な労働時間によっ て規定されて−いる。それが価値である限りでは,労働力そのものは,ただそれ に対象化されている・−・定最の社会的平均労働(vergegenstandlichterge$Sell− schaftlicherDurchschnittsarbeit)を表わしているだけである」。7)ここでマル クスは,労働力の価値も,全く他の−・般的商品と同様に,その「再生産に必要 な労働時間によって規定されている」というのである。だがしかし,労働力 は,資本の生産過程で人間労働を媒介にして直接的に生産されるものではな い。したがって資本によって生産される・一・般商品のように,生産過程でその商 品の生産のために要した社会的必要労働時間によって直接的に価値規定をおこ なうことはできないはずである。そうすると労働力の価値が「この独自の商品 の生産に,したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定される」と か,あるいは「労働力そのものは,ただそれに対象化されている−・定量の社会 的平均労働を表わしているだけである」というのは,−・体どういうことを意味 するのか。 マルクスは続いて次のように云う。「労働力はただ生きている個人の素質と して存在するだけである。したがって,労働力の生産はこの個人の存在を前提 する。この個人の存在が与えられていれば,労働力の生産は彼自身の再生産ま たは維持である。自分を維持するためには,この生きている個人はいくらかの 盈の生活手段を必要とする。そこで労働力の生産に必要な労働時間は,この生

活手段の生産に必要な労働時間になってしまう。云い換れば,労働力の価値

は,労働力の所有者の維持のために必要な生活手段の価値である」。8)ここでマ ルクスは,「労働力の生産に必要な労働時間」とは,実は,労働力が形成され るために直接的に必要とする時間,たとえば10年とか20年とかいった時間を 意昧するのではなく,労働者自身の生活を維持するために必要な「生活手段の 生産に必要な労働時間」のことであるといいかえ,したがって,労働力の価値 とは,「労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である」という のである。 7)K.MaIX,e∂g乃ゐ,S‖184,邦訳,同上,第1分冊,223ページ。 8)KMaIX,e∂g乃ゐ,S。185,邦訳,同上,第1分冊 223ページ。

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労働力価値規定の特殊性について −・JJ5− つまりここで述べられていることの意味内容は,労働力は生きている人間そ のものの中に存在し,労働者の日々の生活の中で形成されている。そして資本 制社会における労働者は,労働力を商品として資本家に販売し,その代価とし て得た賃金でもって,労働者がみずから生産した労働生産物であるところの生 活手段商品を資本家から購入し,それを消費することによって日常の生活を維 持しており,その中で労働力も日々形成されている。だから労働力は労働生産 物ではないけれども,その再生産のために必要な生活手段商品を媒介として, 価値物という商品形態が与え.られ,労働力の商品としての価値も,他の一・般商 品と同じように,労働時間によって−規一定されるというのである。 このように,一・般商品の価値規定が資本の生産過程で直接的おこなわれるの に対し,労働力商品の場合は,労働生産物である生酒手段商品を媒介にして, 間接的に価値規定がおこなわれるのである。 だがしかし,労働力の価値規定にあたっての問題は,これですべてが片づい たわけではない。「労働力の価値は,労働力の所持者の維持のために必要な生 活手段の価値である」といっても,その労働力の再生産のために必要な「生酒

手段の総額」が,果してどのようにして決定されるのかが大きな問題として未

解決のまま残されているのである。労働力の再生産のために必要な「生活手段 の総額」が決定されてはじめて,労働力の価値の大きさは,−・般商品の場合と 同様に,その与えられた「生活手段の総額」を生産するのに要する社会的必要 労働時間によって規定されるのである。だからこの「総額」が決定されないこ とには労働力の価値も決まらない。さてそれでは,この「生活手段の総額」は どのようにして決定されるのか。 この点についてマルクスは次のように云う。「生活手段の総額(DieSumme derLebensmittel)は,労働する個人をその正常な生活状態にある労働する個 人として維持するのに足りるものでなければならない。食物や衣服や採曖や住 居などのような自然的な欲望(DienatiirlichenBedilrfnisse)そのものは,一・ 国の気象その他の自然的な特色によって違っている。他方,いわゆる必要欲望

の範囲(dez・Umfangsog.notwentigerBedarfnisse)もその充足の仕方もそれ

自身一つの歴史的な産物(einhistorischesProdukt)であり,したがって,だ いたいにおいて一周の文化段階(derKulturstufeeinesLandes)によって定ま

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香川大学経済学部 研究年報12 −JJ6− J972 るものであり,ことにまた,主として(wesentlich),自由な労働者の階級が どのような条件のもとで,したがってどのような習慣や生活費求をもって形成 されたか,によって定まるものである。だから労働力の価値規定は,他の諸商 品の場合とはちがって,ある歴史的な精神的な要素(einhistorischesundmor− alichesElement)を含んでいる。とほいえ,仙・定の国(einbestimmtesLand) については,また一定の時代(einerbestimmtenPeriode)には,必要生活手 段の平均範囲(derDurchschnitts−UmkreisdernotwendigenLebensmittel)は 与えられている(gegeben)のである」。9) ここでマルクスは■まず第1に「食物や衣服や採暖や住居などのような自然的 な欲望」は「一周の気象その他の自然的な特色」によって決まると述べ,労働 ●●●●●● カの再生産に必要な「生活手段の総額」が自然的諸条件によって規定されるこ とを指摘する。第2に「いわゆる必要欲望の範囲」と「■その充足の仕方」は 「■それ自身一つの歴史的な産物であり,したがってま:た,だいたいにおいて−・ 国の文化段階によって定まる」と述べ,続いて,それはまた「主として,自由 な労働者の階級がどのような条件のもとで,したがってどのような習慣や生活 ●●●●●●● 要求をもって形成されたかによって定まる」といい,それが文化的・歴史的諸

条件によって規定されることを指摘する。かくして「生活手段の総額」は自然

的諸条件とともに文化的・歴史的諸条件によっても規定されることになる。そ してこの場合,特に第2の文化的・歴史的諸条件によって規定される面が強調

され,「労働力の価値規定は,他の諸商品の場合とはちがって,ある歴史的な

精神的な要素を含んでいる.」ということになっているのである。10)だが「ある 9)K..MaIX,e∂g乃(あ,S・185,邦訳,同上,第1分冊 224ペーージ。 10)マルクスは,労働力の価値は労働力の再生産に必要とする「生活手段の価値」であ ると規定するのであるが,この労働力の再生産に必要とする生活手段の中味を構成す る要素として次の3つをあげている。(1)労働者自身の正常な生層状態を維持するため の費用。「労働力の所有者は,今日の労働が終ったならば,明日も力や健康の同じ条 件のもとで同じ過程を繰返すことができなければならない.」(KいMarx,♂∂∽‘あ,S.ユ㍊, 邦訳,第1分冊,224ペ−・ジ)からである。(2)家族(襲および子供)の扶養費。「労 働力の所有者は死を免れない」「消耗と死とによって市場から引きあげられる労働力 は,どんなに少なくとも同じ数の新たな労働力によって絶えず補充されなければなら ない」(gろg乃(あ,SSい224∼225,邦訳,同上,224ペ一−ジ∼225ペ・−ジ)からである。 (3)修業費。「■一般的な人間の天性を変化させて,一定の労働部門で技能と熟練とを体

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労働力価値規定の特殊性について 、JJ7− 歴史的な精神的な要素」を含んでいるとはいえ,「生活手段の総額」いいかえ れば「必要生活手段の平均範囲」は「−・定の国についてはまた・−・定の時代に は」「与えられている」というのである。 結局マルクスにあっては,労働力の再生産に必要な「生活手段の総額」は, 資本の再生産過程の外部で自然諸条件と文化的・歴史的諸条件とによって規定 されているものとして把握されていたということができるのである。 ⅠⅠⅠ 前節でみて−きたように,マルクスは労働力の再生産のために必要な「生活手 段の総額」は,自然的諸条件と文化的・歴史的諸条件によって規定されるもの とし,「−・定の国についてほ,また−・定の時代には,必要生活手段の平均範囲 は与えられている」としていた。 これに対し宇野弘蔵氏は,「生活手段の総額」が,マルクスの云うように尊 純に自然的歴史的に決定されるものとするわけにはゆかないと問題を提起す る。それでほ宇野氏は,この労働力の再生産に必要な「生偏手段の総額」は, どのようにして決定されると考えているのであろうか。この点について氏は 『労働力の価値と価格』なる論文の申で次のように述べる。「(マルクスの云 うように・いL・引用者)労働者が需要する生活資料は,『一・定の国にとって,一 定の時代には,必要生活手段の平均範囲は与えられている』にしても,これを ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 固定しているものとするにはゆかないのである。しかしそれは単純に『歴史的』 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●

● ● ● ● ● ● ● ● に,あるいは『道徳的』に決定されるというものではない。いう■までもなく資

● ○ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 本主義社会では,この『歴史的の,また道徳的の要素』自身も資本の価値増殖

●●●●●●●●●●

●●●● 過程の内に決定されるのである。しかしまたそれは資本の価値増殖過程が積極

的にかかる要素を認めるというのではない。むしろ逆に資本の蓄積に伴う労働 得して発達した独自な労働力になるようにするためには,一定の養成または教育が必 要」(gみβ乃ゐ,S.186,邦訳,同上,225ペ−ジ)であり,そのために費用を要するか らである。 なおマルクスのあげている「ある歴史的な楷神的な要素」は,ここにあげられてい る労働力の再生産に必要とする生活手段の中味を構成する諸要素を,総体として規定 するものと考えるべきであろう。

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香川大学経済学部 研究年報12 ヱ972 ーJJβ− 力に対する需要増加が,労働賃金の騰貴を通して−,かかる要素の加わることを 許すことに.なるのである。」11)「資本は,その生産力を具体的に実現する好況期 の蓄積過程の内においては,労働賃銀の騰貴を通して労働者の生活水準の向上 を許し,逆に不況期の過剰人口の形成は,賃銀の下落によって生活水準の低落 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● を強制する。−・般的にはかかる循環過程の内に労働者の生活水準を『歴史的』 ●●●●● に決定することになるのであって,労働力商品の価値の規定は,この賃銀の十

年前後にもわたる周期的運動を度外視しノてほ理解しえないのである。」12)「労働

● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●

力なる商品の価値規定は,好況,恐慌,不況の循環過程の内に労働賃銀として

● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●

● 騰貴し,低落する価格の運動の一L般的基準として確立されるものとしなければ

ならない」13)(傍点一引用者)。 みられるとうり,ここで宇野氏は,マルクスの云う「生活手段の平均範囲」 いいかえれば「生活手段の総額」鵬一労働者の生活水準−は,決して「固定 して−いる」ものでもなく,また「単純に『歴史的』に,あるいは『道徳的』に 決定されている」ものでもないという。なぜなら資本制社会では,資本が, 「好況期」には「労働賃金の騰貴を通して労働者の生活水準の向上を許し」, 逆に,「不況期」には「賃金の下落によって生活水準の低落を強制する」もの であるから,この資本の蓄積運動によって生じる「好況,恐慌,不況の循環過 程」の「内に」,労働力の再生産に必要な「生活手段の総額」一労働者の生 活水準−は決定されるものとしなければならず,したがってマルクスの云う ように,労働者の生活水準が,単純に自然的・歴史的な諸条件によって,資本 の再生産過程の外部で決定されるものとしてはならないというのである。 このように「生痛手段の総額」−一労働者の生活水準−が,産業循環過程 での賃金変動のうちに内部的に決定されるものとしなければならないという宇 野氏の主張は,氏特有の価値法則の論証,そしてまた氏の「原理論体系の完 成」と密接なつながりをもっている。この点について今少し立入って考察して みることにする。 周知のようにマルクスは『資本論』第一都第一・篇「商品と貨幣」第仙葦「商 11)宇野弘蔵,『マルクス経済学原理論の研究』,137ペ・−・ジ。 12)宇野弘蔵,同上,138ペ・−ジ。 13)宇野弘蔵,同上,137ペ−ジ。

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労働力価値規定の特殊性について 一∫J9一 品」第一・節「商品の二つの要因」において,「小麦」と「鉄」という二つの商 品をとりあげ,この二商品の交換関係から,使用価値を捨象し両者に共通な第 三者として−の抽象的人間労働をみちびき出し,「等労働量交換」としての価値 法則を論証するという方法逐とるのであるが,14)宇野氏の場合は,このマルク スの方法とは全く異なり,『資本論』第三篇第五章「労働過程と価値増殖過 程」にあたるいわゆる「商品による商品の生産過程」であるところの資本の生 産過程において,はじめて価値法則を論証するという方法尾とる。15) 氏によれば,この資本の生産過程において,労働者は,みずからの再生産に 必要な生活資料を,・鵬定の技術水準のもとで必要な労働時間によって生産し,労 働力の代価としノて支払われた賃金でもってこの自分の生産した生活資料を買い もどすという関係におかれている。つまり「資本家と労働者とのあいだの交換 過程は,生産物の交換ではなくて生産過程をとうして行なわれる特殊の過程」16) となっているのである。そしてこの生産過程において,労働力の価値は,その 再生産を椎持するに足る一−・定の生活資料を生産するに必要な労働時間によって 規定され,かつ労働力は必らず価値どうりに売買されなければならない。なぜ なら,資本制社会における労働者は,自分の生産手段をもって生産するいわゆ る単純な小生産者の場合と異なって,生活資料を生産するに必要な生産手段か ら切り離されており,みずからの労働力を商品として価値どうりに販売しなけ ればその日々の生活が維持できなくなり,正常なかたちでの労働力の再生産も 不可能となってくるからである。いわゆる単純な小生産者の場合であれば,彼 はその生産物を価値どうり販売しなければならないという必然性はない。とい うのは,彼の一月一の労働力の再生産に必要な労働時間がたとえば6時間であっ たとしても,彼は一・日に12時間も労働することは可能である。そして彼がこ の12時間働いて生産した労働生産物と,他の小生産者が6時間で生産した一・ 日分の生活資料とを交換することによってもーつまり不等価交換が成立して もー彼は生活を維持することができるのである。これに対し資本制社会にお ける労働者の場合は,自分の生産した労働生産物を販売するのではなく,労働 14)KhMa工Ⅹ,ebenゐ,BdⅠ,SS.51∼53。邦訳,同上,第1分冊,51∼53ページ。 15)宇野弘蔵『経済原論』(岩波全書)55ページ∼59ペーージ参照。 16)宇野弘蔵編『新訂経済原論』,91ペ・−ジ。

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香川大学経済学部 研究年報12 ユタ72 ーヱ2∂− カを販売するのであるから,その販売にあたっては「実際上ばともかく理論的 には,小生産者のように,不等価交換をゆるしえない」のである。17)そして, 宇野氏ほ,このように生産過程をとうした資本家対労働者の基本関係におい て,労働力は価値どうりに売買されなければならないということが,また「あ らゆる生産物を商品として価値法則にしたがわせる基点となり,商品の交換関 係を全面自勺に生産過程そのものに基礎づけることになる。労働が,商品として 売買される労働力の消費としておこなわれる資本主義社会において,価値関係 ははじめて必然的なるものとして論証されるのである。」18)というのである。19) 17)宇野弘蔵編,同上,101ペーー・ジ。 18)宇野弘蔵編,同上,101ペ−・ジ∼102ページ。 19)宇野氏は,生産過程での価値法則の論証を,具体的に次のようなかたちでおこなっ ている。「いま,労働力の再生産に必要な一・日の生活資料が6時間の労働で生産さ れ,その代価が3シリングであるとして,綿糸の生産を行なう場合に,その生産に24 時間を要した綿花・機械などの生産手段には12シリングを支払い,その生産に30時 間を要した6キロの綿糸は15シリングの価格で売られるなら,いずれも商品として その生産に要した労働時間を基準に.して売買されることになるわけである。労働者が 芋にいれた3シリングは,生産過程を基礎にして展開される商品交換関係の媒介をな すものにすぎない。しかもこの労働者の紡績資本家にたいする関係は,紡績資本家と 生活資料の生産をなす資本家とのあいだの売買関係をも規制せずにはおかない。たと えば紡績資本家が6時間の労働生産物を3シリングで売っているのに,生活資料の生 産をなす資本家が5時間の労働生産物を3シリングで労働者に売るとすれば,それは 労働者にたいしてその生活資料を十分に与えないことになるばかりでなく,紡績資本 家よりも多くの利益を得ていることになるから,紡績資本家は綿糸の生産をこのまま 続ける意味がなくなる。労働者はその労働力の再生産に必要な生活資料をかならず得 なければ社会が維持できないということが根本にあって,それを基礎にして資本はそ の生産物を,労働時間を基準としてたがいに交換することになる」(宇野編,同上, 91ペ−・ジ∼92ペ−ジ)。みられるとうりここではまず第1に,労働者が生活を維持し てゆくためには,「紡続資本家」が労働者に対して,生活資料を生産するに要した労働 時間に等しい賃金を支払わなければならない。第2に,もし「生活資料の生産をなす 資本家」が「5時間の労働生産物を3シリングで労働者に売るとすれば」,つ■まり生 活資料をその価値以上で労働者に売るとすれば,彼は「労働者に対してその生活資料 を十分に与えないことになる」と同時に,「紡緻資本家よりも多ぐの利益を得る」こ とになる。第3に,そうなると「紡績贋本家」はこれ以上綿糸の生産を続ける意味を 失ない,より高い利潤を求めて資本移動する。そしてこのような資本家どうしの競争 関係をつうじて「生活資料の生産をなす資本家」も,その生活資料を価値どうりに販 売せざるをえなくなる,という想定になっているのである。

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労働力価値規定の特殊性について ーJ2J− このように宇野氏は,資本の生産過程で労働力商品を基軸に価値法則の論証 をおこなうわけであるが,この場合,氏にとっての問題は,この論証の基軸を なしている労働力商品の実質的な価値を規定する「生活手段の総額」が,この 資本の生産過程では直接的に規定されえないところにある。 この点について氏は次のように云う。「マルクスのように.,その労働価値説 をこ商品の交換関係によって論証しうるものとしないで,労働力の商品化を基 礎とする資本の生産過程において始めて論証しうるものとする,われわれの方 法であると,労働者の生活資料の価値も,労働者が資本の生産過程において自 ら生産したものを,その賃金によって買戻すという関係で,その生産に要する 労働時間によって決定されることを明らかにされるのであるが,それと同時 に,労働者の生活資料の『−・定の総額』自身をも考慮せざるをえない。しか ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●

し,この資本の生産過程においては,その『−・定の総額の生活資料』の生産に

● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● 要する労働時間は問題にしうるにしても,その『−・定の総額』自身は.,問題と ●●●●●●●●●● するわ研こはゆかない。その点は,労働価値説を資本と労働との関係を基礎に して論証しようとするだけに明確にせざるをえないのである」伽)「それ(生活 ●●●●●●●●● 資料の「■−・定の総額」のこと∼引用者)は資本の生産過程で直接に規定され ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● るものではない。その点は資本の再生産過程に留保されることになるのである0 このような宇野氏の説明に対し,大内秀明氏は,宇野氏の価値法則の論証は資本家 相互間におけ■る「利潤率の均等化」を「根拠」にしていることになっており,この場 合「とうぜん価格表現としての生産価格をかんがえることにならざるをえない」。そ して生活資料が資本の生産物として生産価格で販売される以上,労働力商品の売買A −G−Wの交換関係において「等労働鼻交換」は成立せず,「等価交換の論証は不可 能」と批判している(大内『価値論の形成』彪4ペ−・ジ∼亜6ペ−ジ)。また,降旗節 雄氏も,価値法則の論証は「個別資本の相互的競争をとおしてあたえられる以外にな い」のであり,それは「『資本論』体系の全展開をとおしてあたえられる以外にな い」。したがって「生産過程」で価値法則の論証をおこなうことは「資本家的生産様 式をその内的構造の展開過程において明らかにする『資本論』体系の性格を無視する ものといわねばならない」と批判している(降旗『資本論体系の研究』,200ページ∼ 202ペ−ジ)。これらの批判にも見られる通り,宇野氏の価値法則の論証は,とくに商 品生産物の等労働鼻交換を必然的なものとしている点において,やはり大きな問題点 が残されていると思われるし,また,資本制的生産の経過程において,市場価格の変 動をつうじる諸資本の競争をとうして価値法則が具体的に貫徹されてゆく機構が軽視 されることになっていることも事実である。 20)宇野弘蔵訂マルクス経済学の諸問題』,128ページ。

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香川大学経済学部 研究年報12 J972 −J22− いいかえれば,労働者が自ら生産したその生活資料をも商品として買戻さなけ ●●●●●●●●●●●● ればならないということ古ま,資本の再生産過程のうちに労働力の商品化と共に ●●●●●●●●●●●●●

その再生産も実現され,その生活資料の『総額』を決定する生活水準も規定さ

●●●●●●●●●●●●●●●●● れるものと考えざるをえないのである。」21)(傍点一引用者)。 ここで述べられているように,氏は,資本の生産過程で価値法則の論証をお こなうにあたって,その論証の基軸をなしている労働力の再生産に必要な生活 資料の「総額」は,この資本の生産過程で直接的に規定することばできない。 「資本の生産過程においては,その『−・定の総額の生活資料』の生産に要する 労働時間は問題にしうるにしても,その『一・定の総額』自身は,問題とするわ 桝こはゆかない」のであり「その生活資料の『総額』を決定する生活水準」は 「資本の再生産過程のうちに」「規定されるものと考えざるをえない」。そし てこの生活資料の「総額」が「資本の再生産過程のうちに」規定されることが 労働力の「実質的な価値規定」をなす。22)生活資料の「総額」がどれだけかは 決っして「価値法則によって直接決定されるものではない」23)のであり,それ は資本の再生産過程のうちに決定され,その決定された生活資料の「総額」を 生産するのは「■価値法則で決まる」飢)というのである。 そしてさらに氏は,価値法則が資本制社会の全体制を支配する必然性を示す ためには,労働力の再生産に必要な生活資料の「総額」自身が,マルクスの云 うように,資本の再生産過程の外部で自然的・文化的・歴史的諸条件によって 規定されるものとしたのでは不十分であり,資本の再生産過程のうちに一好 況・恐慌・不況をくりかえす産業循環過程のうちに.−一内的に規定されるもの としなければならない。「価値法則を必然的なものとして展開しようとする と,労働力を再生産するのに必要な生活資料もどれだけかということも資本自 身が決定するというのでなければならない。それを何か外から,生理的限界だ とか,歴史的限界だというのでは,他の要素を入れて価値法則を説いているこ とになる。だから全体制か経済法別のなかにはいるというのは,そういう点が 21)宇野弘蔵,同上,129ペーージ。 22)宇野弘蔵編『資本論研究ロⅠ)』,272ページ。 23)宇野弘蔵,『マルクス経済学の諸問題』,129ペ・−ジ。 24)宇野弘蔵編『資本論研究(H)』,277ページ。

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労働力価イ直規定の特殊性について −J23− すべて法則的に規定されるのでなければならない」25)というのである。26) かぐて商品経済社会を全面的に支配する法則として,「価値法則を必然的な ものとして展開しようとする」宇野氏にあっては,労働力の「実質的な価値規 定」をなす生活資料の「総額」自身も,資本の再生産過程のうちに「経済法 則」でもって決定されることを明らかにしなければならない。そこで氏にあっ ては「恐慌論」がこの課題を果すものとして,「経済学の原理論で特殊な課題 を果すもの」27)として,重要な意義をもつことになる。氏の「恐慌論」の課題 は,まず第1に「資本制生産方法に内的なる矛盾と,その矛盾を動力として発 展する,この方法に特有なる循環過程とを明らかにする.」28)ことにあり,第2 に「労働力の価値の実質的内容を規定するものとして,価値法則のいわば裏打 ちをな(し)」「価値法則を明らかにする価値論を,いわば内部から支えてい るもの」29〉 としてある。このように,価値法則の論証を資本の生産過程でおこ ない,その論証の基軸となっている労働力商品の実質的な価値規定を「恐慌 論」でおこなうとする宇野氏にあっては,「恐慌論」と価値法則を明らかにす る「価値論」とが内的に有機的に結びつけられており,「恐慌論を欠く限り経 済学の原理論は,その体系を完成するものとはいえないのである」鋸)というこ とになっているのである。 ⅠⅤ さて前節でみてきたように,宇野氏は,労働力の実質的な価値を規定する 25)宇野弘蔵編,同上,278景。 26)大内秀明氏も「マルクスが労働力商品の価値規定にさいし,文化的・歴史的・精神 的要素をもちだしたことは,いわば下部構造の理論的解明にさいし,無媒介に上部構 のてこ 造要爵をもちんだとを意味する」(大内,『宇野経済学の基本問題』,133ペ・− ジ。」)のであり,その結果「下部構造の解明をはかるという唯物史観の論証としては いささか不明確なものをのこすことになっているように思える」(同上,135ペ・−・ジ) と述べ,労働力の価値規定や労働日の決定にあたって,文化的・歴史的・精神的要素 といったような上部構造の要素をもちだすべきではないと主張している。 27)宇野弘蔵,『マルクス経済学の諸問題.』,130ペ」−ジ。 28)宇野弘蔵,同上,119ペ−ジ。 29)宇野弘蔵,同上,130ペ−ジ。 30)宇野弘蔵,同上,130ペ」−ジ。

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香川大学経済学部 研究年報12 ユタ72 −ヱヱぜ− 「生痛手段の総頗」一労働者の生汚水準−は,マルクスのいうように,資 本の再生産過程の外部で自然的・文化的・歴史的諸条件によって規定されるも のとして理解してはならず,それは資本の再生産過程のうちに・一産業循環過 程での賃金変動のうちに−純粋に「経済法則」でもって内部的に決定される ものとしなければならないと主張されるのであった。 確かに氏の云われるとうり,資本制社会における労働者の賃金は,周期的に くりかえされる産業循環過程での相対的過剰人口=産業予備軍の吸収・反撥を 反映して,騰落運動をなし,81)その賃金変動をとうして労働者の生活水準も動 かされる側面をもっている。まずこの点について−簡単にながめてみることにす る。 たとえば不況局面からの脱出過程では,非常に低い市場価格と極端にまで低 落した利潤率のもとで,諸資本は特別利潤の取得をめざして,生産力を向上さ せる新たな生産方法を競って導入する。新生産方法の導入は,−・般的には固定 設備の更新というかたちで,つまり,既存の旧固定設備を廃棄し,それに代っ て改良された新機械設備を採用するというかたちでおこなわれる。したがって それは−・般に資本の有機的構成を高めることになる。また,新生産方法の導入 による生産力の向上によって,低い市場価格はいっそう低落することになるの であるが,この市場価格の低落が,他の諸資本に対しても新生産方法の導入を 強制することになる。新生産方法を導入することができない劣悪な弱小企業 は,利潤はおろか投下した費用価格さえ回収できなくなるため,破滅・没落を 余儀なくされる。かくて新生産方法の導入は,−・方では資本の有機的構成の高 度化によって労働者の雇用を相対的に抑圧することとなり,他方では弱小企業 を破滅・没落さすことによって当部門の就業労働者を排出さすことになる0そ 31)マルクスは「だいたいにおいて労賃の一般的な運動ほ,ただ,産業循環の局面変転 に対応する産業予備軍の膨張・収縮によって規制されているだけである◇だから,そ れは,労働者人口の絶対数の運動によって規定されているのではなく,労働者階級が 現役軍と予備軍とに分かれる割合の変動によって,過剰人口の相対的な大きさの増減 によって,過剰人口が吸収されたり再び遊離されたりする程度によって規定されてい るのである」(K‖MaIX,β∂β乃ゐ,S.666,邦訳,同上,第2分冊,830ペー・ジ)と述 べ,資本制社会における労働者の賃金が,産業循環過程での相対的過剰人口=産業予 備軍の吸収・反撥を反映して騰落運動をなすことを指摘している。

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労働力価値規定の特殊性について −ユ25− のため恐慌・不況局面で生産過程から排出された膨大な失業労働者軍は,この 不況局面からの脱出過程では,まだ容易に吸収されることなくその■まま大量温 存されることになる。労働市場における膨大な失業労働者軍の温存が,就業労 働者を圧迫することから,労働者の賃金は不況局面の最低水準からほとんど上 昇せず,労働者の生満水準も不況期とかわらない低い状態にある。 投資活動が一・段と活発化し,好況初期の局面に入ってくると,市場価格・利 潤率もしだいに上昇し,それがまた投資活動を促進する。しかしこの好況初期 の局面でほ,固定資本投資の主要部分は1,まだ固定設備の更新のための投資で あり,また部分的におこなわれる新投資も,より高度の資本構成でも・つておこ なわれるため,相対的過剰人口の吸収はそれほど急速におこなわれるわけでは なく,賃金の上昇も緩慢である。やがて固定資本投資の主要部分が,更新投資 から新投資にかわり,旺盛な新投資に主導されて生産規模が急速に拡大される 好況中期の局面にいたると,資本め労働力に対する需要も増大し,相対的過剰 人口も持続的に吸収されてゆき,労働者の賃金もしだいにその上昇速度をはや める。 この好況期における投資括動は,信用膨張やこれにささえられた商業資本の 先取り的な見込需要によってさらに強力に促進され,自己累積的・加速度的に 括発化し,生産規模も累積的に拡大されるようになる。それにつれて相対的過 剰人口は急速に吸収され,労働者の賃金上昇もその速度を−・段と速める。やが て好況末期にいたると,好況局面での活発な新投資のための不可決な条件をな していた相対的過剰人口がようやく枯渇し,賃金の騰貴はにわかに急激とな る。労働力商品の場合は一・般商品の場合とちがって,価格が上昇したからとい ってその供給量を直ちに増加しえるものではない。資本は生産過程をつうじて 労働者の生活手段の供給量を増加さすことができても,労働力そのものを増加 さすことはできない。資本は,ただ有機的構成の高度化によってのみ相対的過 剰人口を「生産」することができるのであるが,しかしこの好況末期では,資 本はあえて固定設備を更新し,有機的構成をより高めるような新生産方法の導 入をおこなおうとはしない。なぜなら,不況末期から好況初期の過程で,すで に固定設備の更新はなされているし,またこの局面でば市場の急速な拡大をつ うじて市場価格も急激に上昇しているから,不況末期におけるような新生産方

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香川大学経済学部 研究年報12 ー・J26−− J972 法の導入を強制するいわゆる「競争の強制法射」が働かないからである。たと え追加資本の投下が,より高い有機的構成のもとでおこなわれても,それは投 下賀本聴盛にくらべ,可変資本監の相対的な減少を意味しているにすぎず,可 変資本の絶対量は増加するため,相対的過剰人口の急速な吸収はさけることが できない。さらに,労働者階級の賃金引き上げに対する要求も,逼迫した労働 市場と資本の利潤率の上昇とを反映して,相対的に認められやすくなるという 事情も加わって,この好況末期での賃金の急激な上昇はさけることができない のである。しかしこの局面では,労働力の再生産に必要な生活手段商品の価格 も急速に上昇するため,その賃金の上昇はある程度相赦されることになる。だ がある程度相殺されるとはいえ,その賃金の上昇をとうして,労働者の生活水 準の向上が許されるのであり,労働者階級にとっては,もっとも「恵まれた」 時期となる。 だがこのような急激な賃金上昇はいつまでも続くわけではない。相対的過剰 人口の吸収が−・定の資本制的限界を越えるや否や,賃金上昇はにわかに急激と なるが,この賃金の騰貴は−・般物価の騰貴と異なって,剰余価値率の低下をと うして資本の利潤率そのものをいちぢるしく低落させる。そして資本は,利潤 率の低落を利潤畳の増大に.よって補おうとするために,さらに加速化されたエ ネルギ・−でもって資本を追加的に投下し生産の拡大をおこなう。しかしこのこ とはさらに労働力の需給関係を逼迫させ,賃金の騰貴による剰余価値率の低下 を促進させ,利潤率をさらに低落させることになる。このような悪循環の結果, ついには資本が追加的に投下され生産が拡大されても,利潤畳が絶対的にも減 少せざるをえないという事態が生じる。資本が資本として労働者の搾取手段と して過剰となったのであり,それ以上資本を追加的に投下しても利潤畳を増加 さすことができないのである。82〉 だがしかし,このような事態が塵七ても1,個 32)このような事態をマルクスは「資本の絶対的な過剰生巌」と呼び次のように述べて いる。「資本主義的生産を目的とする追加資本がゼロになれば,そこには資本の絶対 的な過剰生産があるわけであろう。しかし,資本主義的生産の目的は資本の増殖であ る。すなわち,剰余労働の取得であり,剰余価値,利潤の生産である。だから,労働 者人口に比べて資本が増大しすぎて,この人ロが供給する絶対的労働時間も延長でき ないし相対的剰余労働時間も拡張できないようになれば(相対的剰余労働時間の拡張 は,労働にたいする需要が強ぐて賃金の上昇傾向が強いような場合にはどのみち不可

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労働力価値規定の特殊性について −ヱ27− 々の資本はただちに自動的に蓄積を停止させるわけではない。個々の資本のあ いだの競争がそれを許さず,結局恐慌の勃発によって,資本蓄積はその限界が 画され反転を余儀なくされることになる。そして云うまでもなく,この恐慌に よって労働者の賃金の上昇遊動もその限界が画され,反落を余儀なくされるこ とになるのである。 好況局面において生じた資永と労働との不均衡は,恐慌によって−・気に強力 的に調整されるのであるが,この調整は,恐慌でのみ終るわけではない。恐慌 とそれに続く不況局面でひきつづきおこなわれる。不況局面で資本の価値破壊 はさらにすすみ,再生産過程はさらに縮小する。商品の市場価格は暴落し,大 量の機械その他の生産設備は遊休するか,あるいは稼動率の低下を余儀なくさ れる。劣悪な条件にある弱小企業は破滅・没落においこまれる。その結果生産 過程から大量の失業労働者軍が排出され,好況中期から末期にかけて逼迫をっ づけてきた労働市場は,一・変して相対的過剰人口で充たされることになる。ま たこのような労働市場の圧迫を反映して,上昇をつづけてきた賃金もー・転して 最低水準にまで下落する。この賃金の下落に対しては労働者はそれを阻止しよ うとして団結し階級闘争でもって抵抗するであろうが,そしてそのことによっ て幾分その下落が阻止できるかも知れないが,大幅な賃金の下落はまぬがれな い。だがこの局面では,労働者の生活手段商品の価格もいちぢるしく下落して いるため,賃金下落はある程度まで相殺されることになる。しかしある程度相 殺されるとはいえ,このいちぢるしい賃金下落をとうして,好況末期とは逆 に,労働者の生活水準は最低限にまで圧下させられることになる。 さて以上でみてきたように,労働者の賃金は産業循環をとうして変動するの であるが,マルクスが「蓄積の大きさは独立変数であり,賃金の大きさは従属 能であろうが),つまり,増大した資本が,増大する前と同じかまたはそれよりも少 ない剰余価値盈しか生産しなくなれば,そこには資本の絶対的な過剰生産が生ずるわ けであろう。すなわち,増大した資本C+△Cは,資本Cが△Cだけ増大する前に 生産したよりも多くない利潤を,またはそれよりも少ない利潤をさえ生産するであろ う。どちらの場合にも叫・般的利潤率のひどい突然の低下が起きるであろうが,しかし 今度は,この低下をひき起こす資本構成の変動は,生産力の発展によるものではな く,可変資本の貨幣価値の増大(賃金の上昇による)と,これに対応する必要労働に たいする剰余労働の割合の減少とによるものであろう」(K.MaIX,eみg乃ゐ,BdⅠⅠⅠ, SS。261∼262,邦訳,同上,第4分冊,315ページ∼316ペーージ。)

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香川大学経済学部 研究年報12 ーJ2β− J972 変数であって,その逆ではない」88)といって−いるように,この賃金の変動は, 資本の蓄積運動の結果として一生じたものであることばいうまでもない。資本は みずからの蓄積運動によって,労働者の賃金の上昇に限界を画し,再びみずか らの価値増殖が保障されるような範囲に,それを反落せしめるのである。資本 制社会におり一る労働者の賃金上昇は決していつまでも続くわけではなく「ある 限界の申に,すなわち資本主義体制の基礎を単にゆるがさないだけでなく,増 大する規模でのこの体制の再生産を保証するような限界のなかに,閉じ込めら れている」84)のである。またそれゆえにこそ,資本制社会の体制としての再生 産がくりかえしおこなわれているのである。 ところで,この産業循環過程での賃金変動は,果して宇野民の主張されるよ

うに,労働力の実質的な価値を規定する労働者の生活水準を,全面的に祝意す

るといってよいであろうか。次にこの点について検討することにする。 宇野氏のこのような見解にしたがえば,明らかに労働力の価値が賃金を規定 するのではなく,逆に,循環過程での賃金の変動が労働力の価値を規定するこ とになる。氏が「例えば,好景気のときには労働者の生活水準が上がり,不況 期には下がるといってもよいが,生活資料の価格はまた好況期には上がり,不 況期にほ下がるということになる。それに賃金の動きがまた物価以上に上がっ ●●●●●●●●●●●●●●● たり下がったりする。そしてその運動の申で形成される平均が,いわば労働力 ●●●●●●●●●●● の価値ということになる。労働力商品は,直接に労働によって生産されるもの でないので,その価値規定がこういう関係で与えられているというのだ」さ5) (傍点一引用者)というとき,明らかに労働力の価格である賃金が,労働力の 価値を規定することになっている。 それではこの労働力の価値を規定する賃金は−L体何によって決定されるの か。宇野氏の見解にしたがえば,それは産業循環過程での労働力に対する需給 関係の変動によって決定されることになる。そうすると結局,宇野氏にあって は,人間労働によって直接生産されるものでない労働力の価値は,この労働力 に対する単なる需給関係によってのみ規定されることになってしまうのであ 33)KいMaIX,eben(あ,BdⅠ,S‖648,邦訳,同上,第2分冊,809ペ−・ジ。 34)K,.MaIX,e∂g乃ゐ,S小649,邦訳,同上,第2分冊,810ペ」−ジ。 35)宇野弘蔵編『資本論研究qI)』,公2ペ・−ジ。

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労働力価値規定の特殊性について ーJ29− る。 さてこのような単なる需給関係から労働力の価値を説明すると,ただちに次 のような問題が生じてくる。つまり氏は,産業循環過程での賃金運動の中で形 成される「平均」を,「労働力の価値」としてとらえるのであるから,労働力 の価格である賃金と労働力の価値とがほぼ−・致するのは,資本の中位的価値増 殖・中位的搾取度が保証され,したがってその意味で労働力の需給がはぼ−L致 していると考られる好況中期においてである。さてそれでは,この好況中期の 労働力の需給がほぼ均衡する点での労働者の生活水準一労働力の価値− は,果してどのようなかたちで,いかなる水準に規定されるのか。氏のよう に,需給関係の運動から価値を説明するという方法蓬とれば,需要と供給が−・ 致した点における価値とはいかなるものかが説明できなくなるのではなかろう か。マルクスも去っているように「二つの力(需要と供給のこと一引用者) が反対の方向に同じ強さで作用する場合には,それらは相殺されて外に向かっ ては全然作用しないのであって,このような条件のもとで起きる現象は,この 二つの力の干渉とほ別なものによって説明されなければならない」さ6)のであり 「ほんとうの困難は,需要と供給との一・致ということが意味していることの規 定にある」87)わけである。かくて労働力の価値を需給関係から説明しようとす るかぎり,需要と供給が一致してしまえば−・需要と供給が相殺されてしまえ ば−・それは「なにどとも説明しなくなり」「まったく何も教えてくれない」 ことになってしまうことば明らかである。 さてこのよう考え.ると,好況中期の労働力の需給がほほ一・致する点での労働 者の生活水準一労働力の価値−−は,やはりそのときどきの資本の生産・再 生慮過程にとってほ,その外部から所与のものとして「与えられているもの」 としなければ説明がつかないように思われる。そして産業循環過程での労働力 の需給関係の変動は,宇野氏の云われるように,労働者の生活水準一労働力 の価値−−を規定するものとしてではなく,逆に,資本の生産・再生産過程に とって外部から所与とされている労働者の生活水準一労働力の価値一に, 労働力の価格である賃金を収赦させる機能を果すものとして理解すべきである 36)KMaIX,eみg乃ゐ,Bd.ⅠⅠⅠ,S.199,邦訳,同上,第4分冊,238ペ−ジ。 37)KMaIX,e∂g批お,S,199,邦訳,同上,第4分冊,238ペ・−ジ。

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香川大学経済学部 研究年報12 ーヱ3クー ユタ72 と考え.られるのである。 周知のように労働力は資本によって直接生産されるものではない。したがっ てその需給調節機構も他の−・般商品の場合とは異なる。−・般商品の場合であれ ば,価格の変動をつうじてその商品の需給が調節されるが,労働力商品の場合 は,その需給関係をつうじて賃金は変動するけれども,逆に,賃金の変動によ って労働力の需給が調節されるのでほない。労働力はその性質からして,価格 が上昇したからといってただちに生産尾拡大し供給邑を増加させたり,価格が 下落したからといってその生産を制限したり貯蔵したりして供給量を減少させ るわけにはゆかない。資本制社会における労働力の需給の変動は,賃金の変動 に依存して−いるのではなく,資本蓄積の変動に依存しており,その資本蓄積の 変動が経済の循環的変動をひきおこす根本原因となっている。したがって労働 力の需給は,−・般商品と異なって,産業循環の−・周期をとうしてのみ調節され ることになり,労働力の価値と価格の−・致も,この一周期をとうした長期平均 でのみ云えるのである。このように産業循環過程における賃金の変動は決して 労働力の価値を規定するのではなく,産業循環は労働者の価格である賃金を, 労働力の価値に収赦さす役割を果しており,労働力商品の価値法則はノ,この産 業循環過程での労働力の需給関係の変化による賃金の周期的変動をとうしての み貰ぬかれているのである(労働力の需給の−・致・労働力の価侶と価格の−L致 は,この産業循環の一周期をとうした長期平均でのみいえるのであり,その長 期平均とほぼ−L致するのが好況中期であると考えられる。したがって,この好 況中期では労働力の需給も労働力の価値と価格もはぼ−・致している状態にある ということができるのである)。 だがここで注意を要することは,労働者の生活水準一労働力の価値− が,そのときどきの資本にとって,その生産・再生産過程の外部から所与のも のとして前提されているといっても,それは長期にわたって不変的・固定的な ものとしてあるわけではない。既述のどとく労働力は「生きている人格のうち に」存在するものであり,資本の「本源的蓄積過程」を経て歴史的に成立した 商品であった。その点でまさに一腰的商品とは根本的に異なっている。またそ れゆえにこそ資本制生産の成立期における労働者の生活水準一労働力の再生 産に必要な「生活手段の総額」−は「一L国の気象その他の自然的特色」や

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労働力価値規定の特殊性について −エ乳トー 「−・国の文化段階」,ことに「主として,自由な労働者の階級がどのような条 件のもとで,したがってどのような習慣や生活要求をもって形成されたか」と いった歴史的諸条件によって規定される側面を強くもっていたのである。そし て資本制生産ほその出発点において,労働者の生活水準は,とりあえずこのよ うに自然的・歴史的に.与えられたものとして,資本の生産・再生産過程に先だ って外部から所与のものとして与えられていた。しかしこの労働者の生活水準 は決して固定しているものではなく,当然,資本制生産の発展とともに歴史的 に動かされてゆく。 さてそれではこの労働者の生活水準は,長期的,歴史的にみて,どのような 要因によって動かされてゆくのか。これには資本側の要請によって動かされて ゆく側面と,労働者側の要求によって動かされてゆく側面との二つの側面があ ると思われる。 まず資本側の要請によって動かされる側面についてであるが,資本は他より いちはやく新製品を開発したり,あるいはまた生産力を向上させる新生産方法 を導入するという内的衝動をもつ。この新生産方法の導入による生産過程の変 革ほ,−・方では労働者の労働を嘩純化させ,単調化させるが,他方では−・定以 上の知識水準をもった労働力を必要とする。88)手労働そのものは熟練労働から 解放され単純労働化されても,外国語の習得とか製品に対する知識とか生産技 術に対する基礎知識といったものがなければ,新生産方法のもとでの労働の遂 行は困難となるのである。そのため資本制社会の発展とともに普通教育の普及 ・高度化が要請され,それにともなってマルクスの云う「修業費」が上昇し, 生活水準も長期的・歴史的にほ上昇せざるをえない。これは,資本蓄積の発展 にともなって資本自身が要請し,かつ承認せざるをえない労働者の生活水準の 向上である。 次に労働者側の要求によって動かされる側面であるが,これは労働者の階級 闘争による生活水準の向上である。資本制社会においては,労働者は自分の生 38)宇野弘蔵氏も「資本主義がその発生の初期においていわゆる原始的蓄積の過程を経 て確保する労働力は,種々なる国に.おいて種々なるのは当然であるが,資本主義の発 展とともに,単純な労働力とはいえ,−・定の知識水準をもった労働者の労働力を必要 とすることになる」(宇野弘蔵『経済原論』(岩波全書版)114ペ」−ジ。)と述べ, 普通教育の発展が,労働者の生活水準の向上をもたらすことを指摘している。

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香川大学経済学部 研究年報12 −J32− J972 きている肉体のうちに存在する労働力を自由に処分できるという意味で,人格 的に「自由な人」として存在している。そして,その労働力を商品として販売 するにあたっては,労働者は当然より高い生活水準を求めて−,より高い価格で 販売しようとする。これに対し資本の側は,より高い利潤を求めて,それをで きるだけ安い価格で買いたたこうとする。労働力商品の価格の変動(つまりⅤ 部分の変動)ほ,原料や機械などの生産手段の価格変動(つまりC部分の変 動)とは異なって,利潤として分配される剰余価値(M部分)そのものを直接 的に変動させるものとしてあり,資本家階級と労働者階級との利害ほ真正面か ら対立し,階級闘争は必然的となる。そしてたとえば好況局面でほ,(1)商品市 場の見通しが明るく市場価格,利潤率も上昇を続けている。(2)このような状態 のもとではストなどによって生産が中断されるとその損失は大きく,生産の中 断はできるだけ回避した方が有利である。(3)労働市場が逼迫しており新規労働 力の獲得競争や他企業からの引き抜きを防止しなければならない,といったよ うな事情によって資本の側は労働者の階級闘争に対して比較的譲歩しやすくな り,賃金上昇は促進される。それによって労働者の生活水準の向上も可能とな る。これに対し不況局面では,商品市場も利潤率も悪化し,労働市場には相対 的過剰人口が大農に存在することから,資永の側からの賃金切下げに対する強 い圧力が働く。しかし労働者階級は,労働力の価値以下の賃金では正常なかた ちでの労働力の再生産ができなくなることからも,また好況局面で獲得した生 活水準を守るためにも,強い階級的抵抗・闘争によってこの賃金の切下げを阻 止しようとする。かくて労働者階級の階級闘争によって,好況局面では,労働 力商品に対する単なる需給関係の変動からのみ生じるであろう賃金上昇よりも 高く賃金が上昇し,不況局面では,単なる需給関係からのみ生じるであろう賃 金下落よりも高いところで賃金の下落が阻止されることになる。そしてこのよ うな階級闘争の積み重ねのなかで歴史的・傾向的には労働者の生活水準が向上 してゆく側面をもつのである。 さてこのように資本制社会における労働者の生活水準が,長期的・歴史的に みると,資本の捌からの要請や労働者の側からの要求によって変動せしめられ ることを考え.ると,宇野氏の云われるように,この労働者の生活水準が全面的 に「資本の価値増殖過程の内に」「資本の再生産過程のうちに」,いいかえれ

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労働力価値規定の特珠性について →J3β− ば周期的にくりかえされる産業循環過程の中で,純粋に「経済法則」でもって 内部的に「決定される」とするわけにはゆかないように思え.る。マルクスはそ の労働力の価値規定にあたって,労働者の生活水準が資本制生産の発展ととも に変動してゆくという側面については何も言及されておらず,この点,宇野氏 が,労働力の価値規定に入ってくる「ある歴史的な精神的な要素」を「固定に 与えられているもの」として把握してはならず資本の蓄積運動をとうして変動 してゆくものであると主張されたことは正当に認められてよい。だがしかし氏 のように,それが全面的に産業循環過程での賃金変動の中で純粋に「経済法 則」でもって「決定される」としてしまうわ桝こはゆかないのである。さ9) Ⅴ ぎて最後に,以上において述べてきたことの要点をここで簡単に整理してお くことにする。 資本制生産の基軸をなす労働力商品は,資本によって直接生産されるもので はない。したがって−−・般商品のように生産過程で直接的に価値規定をおこなう ことはできない。だが労働力は労働者の日々の生活の中で形成されるものであ り,この労働者は,労働生産物であるところの生活手段商品を消費することに よってその日々の生活を推持している。そこで労働力の価値規定は,この労働 生産物であるところの生活手段商品を媒介にして,間接的におこなわれること

になる。しかしこの場合,労働力の再生産に必要な「生活手段の総額」一労

働者の生満水準−が与えられなければ,労働力の価値規定をおこなうことが 39)すでに述べたように資本制社会の労働者の生活水準は,資本側からの要請と労働者 側の要求とによって長期的・歴史的には向上してゆくのがあるが,この生活水準の向 上は具体的には産業循環過程での賃金変動をとうしてのみ実現されてゆく。なぜな ら,資本制社会では労働者は労働力を商品として資本家に販売し,その代価として得 た賃金でもって,ふたたび資本家から生活手段商品を買いもどすという関係におかれ ており,したがって当然賃金の媒介なしには労働者の生活水準が変化させられること はなく,またこの箆金が,産業循環過程で変動するからである。だが,この労働力の 価格である賃金は,決して労働力の価値を規定するものではなく,労働者が資本家か ら生活手段商品を買いもどすための単なる媒介物としての役割を果しているのにすぎ ないのである。

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香川大学経済学部 研究年報12 J972 ーヱ34− できない。それではこの労働力の再生産に必要な「生括手段の総額」は何によ って決まるのか。マルクスにあっては,それは自然的諸条件と文化的・歴史的 諸条件とに.よって規定されるものとして,資本の生産・再生産過程に先だって 外部から所与のものとされていた。これに対し宇野引蔵氏ほ,それほ嘩純に自 然的・歴史的に決定されるものでもなければ,固定的に与えられているもので もない。それは資本の再生産過程のうちに一産業循環過程のうちに■−】純粋 に「経済法則」でもって内部的に決定されるものとしなければならないと主弓長 された。確かに宇野氏の芸われるように,労働者の生活水準は,単に自然的・ 歴史的に規定されたものとして固定しているわけではなく,資本制生産の発展 とともに変動してゆく。だがしかし,宇野氏の主張されるように,それが産業 循環過程での労働力の需給関係の変動によってのみ全面的に決定されるものと すると,好況中期の労働力の需給−・致点での労働者の生活水準−・労働力の価 値−が,いかなるかたちでいかなる水準に決まるのかが説明できなくなる。 また労働者の生活水準は,長期的・歴史的にみると,資本自身の側の要請や労 働者側の要求・階級闘争によって変動・向上せしめられてゆくものであり,そ の変動・向上を産業循環過程での労働力の需給関係の変動からのみでは説明す ることはできない。以上のようなことを考えると,労働力の再生産に必要な 「生活手段の総額」−労働者の生活水準−−は,長期的・歴史的には資本自 身の側による要請や労働者側の要求・階級闘争によって変動・向上してゆく が,やはり,その時々の資本にとっては,その生産・再生産過程の外部から所 与のものとして前提されていると理解しなければならないように思われる。そ して産業循環過程での労働力の需給関係の変動は,決して労働者の生活水準 一労働力の価値−を本質的に決めてゆくのではなく,その時々の資本の生 産・再生産過程の外部から所与の前提とされている労働力の価値に,労働力の 価格である賃金を収赦させる役割を果しているものとして理解すべきであると 思われるのである。

参照

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