再考
ウィリアム・モリスの壁紙
蛭
川
久
康
◆はじめに ウィリアム・モリス(一八三四─一八九六)はヴィクトリア朝を生きた美術手工芸家である。その生涯は見事な までに「夢の実現」に貫かれた。建築を「母なる芸術」と慕いながら、その広範な領域を自在に果敢に回遊を果た した、きわめて多角的なそれでいて少しの破綻もない一個の創造する統合体として、最後まで十全な機能を果たし た、まことに稀有な個性であった。 そんなモリスに、二〇世紀中葉、社会政治理論の論客・著述家として、またファビアン協会会長としても名を成 したジョージ ・ ダグラス ・ ハワード ・ コール(一八八九─一九五九)は編著『ウィリアム ・ モリス選集』 (一九三四) の「序論」で、じつに精彩あるオマージュともいえる次のような一文を綴った。 ウィリアム・モリスは多忙な手の持ち主だった─決して休むことがなかったモリスの手。モリスはつねに何かを作っていないではいられなかった。生前、さまざまな物を拵えた。なかでもモリスは、物に形を与えるこ とに、色彩と遊ぶことに、そして形と色彩を一つに混ぜ合わせて美しい絵を仕上げることに、深い歓びを見出 す手工芸職人であり、デザイナーであった。心の中で絵を作り上げたが、人々の目の前に見える形で差し出す までは、決して満足することがなかった。タペストリの絵、ガラスの絵、壁紙もしくはクレトンの絵、木もし くは石の絵があった─しかも、こうした素材の内に絵を描いていない時には言葉の絵があった。 G ・ D ・ H ・ コ ー ル は 、 モ リ ス の 仕 事 を 正 面 切 っ て 偉 大 と は 言 わ な い が 、 人 間 モ リ ス に は ど こ か し ら 偉 大 さ が 漂 う 、 と で も 言 い た げ で あ る 。 詩 人 ・ 作 家 ・ 翻 訳 家 ・ 画 家 ・ デ ザ イ ナ ー ・ 建 築 家 ・ 染 織 家 ・ 印 刷 出 版 人 ・ 園 芸 家 ・ カ リ グ ラ フ ァ ・ タ イ ポ グ ラ フ ァ ・ 自 然 環 境 保 護 者 ・ 社 会 主 義 活 動 家 な ど と 、 指 摘 さ れ る モ リ ス で あ る 。 書 斎 の モ リ ス 、 工 房 の モ リ ス 、 街 頭 の モ リ ス 、 そ れ を 貫 い て 国 内 外 を 精 力 的 に 旅 す る モ リ ス が 存 在 し た こ と に あ ら た め て 思 い 当 た る 。 もしモリスが一分野にもっと集中していたら、とつい考えたくなるのだが、集中の当否について誰にも確言はで きない。むしろ、広い領域に関わったことによってはじめて、だれよりも先駆けて、あのヴィクトリア朝という芸 術にとって未曾有の厳冬期にあえて美を万人共通の日常的財産にするという困難な仕事に果敢に関わり、大きな成 果を可能にできたのではなかったか。 ウ ィ リ ア ム・ モ リ ス の 仕 事 は、 イ ギ リ ス が 世 界 に 誇 る「 小 レ ッ サ ー ・ ア ー ツ 芸 術 」 ─ イ ギ リ ス 以 外 の ど こ で 手 工 芸 美 術 に こ ん な 誤解されやすい呼称を許すだろうか。モリス自身も決して「劣った芸術」という意味ではないと断っている─の領 域において、およそこれ見よがしの自己主張から遠く離れて、ひたすらモリスであることに徹した存在として、時 代を越え所を選ばず、多くの人々の変わらぬ愛好と賞賛の対象として今なお静かな魅力を持続する。
本稿は、そんなモリス芸術の真骨頂を「壁紙」にありと見定めながら、あわせてその周縁領域にも目配りを怠り なく、時代相のうちにモリス流壁紙デザインの革新性を明らかにする。従来の規範を刷新して、心地よい審美的感 興をわれわれに約束するその魅力を解明する。この作業のためには、迂遠と思われるかもしれないが、モリス思想 の事実上の実践の場となったモリス・マーシャル・フォークナー商会から始めることが求められる。 一八五一年に開催された第一回万国博覧会は時代相を象徴する一大イベントであった。新時代の到来を告げるこ の 催 事 に 英 国 中 が 沸 き 返 っ て い る 最 中、 モ リ ス の 平 面 デ ザ イ ン( パ タ ン・ デ ザ イ ン ) は 芽 生 え た と い え る だ ろ う。 博覧会がはしなくも露呈した、とモリスには思えたに違いない、当時主流であったイギリス・デザインのあの立体 性を重視した厚手の重苦しさから、なかでも植物文様の重苦しさからデザインを解放して、平面上にいかにも軽や かな植物の生長する感覚を実現した。モリスは草花の自然とデザイン上の様式との困難な調和を達成した。 本 稿 は、 そ ん な モ リ ス の 平 面 デ ザ イ ン の 理 論 と 実 践 を 以 下 に 掲 げ る 四 つ の 表 題 の 下 に 跡 付 け る も の で あ る。 ( 数 字はページを示す) 「モリス・マーシャル・フォークナー商会」 ・・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・ 3 「モリス・デザインの先行者たち」 ・ ・・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・ 21 「平面装飾の思想 │パタン・デザインと“小芸術” 」 ・・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ 33 「モリスの壁紙」 ・・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・ 48 ◆モリス・マーシャル・フォークナー商会 一 八 六 一 年 四 月 一 一 日、 ヴ ィ ク ト リ ア 朝 に お け る 最 も よ く 知 ら れ た 手 工 芸 装 飾 美 術 全 般 を 手 広 く 扱 う モ リ ス・
マーシャル・フォークナー商会が誕生した。所在地はロンドンのモリスとバーン=ジョーンズのかつての下宿に近 いレッド・ライオン・スクエア八番だった。 商 会 の 設 立 は、 「 赤 い 家 」 の 建 築 と い う 協 働 の 好 ま し い 実 績 を 踏 ま え て、 そ れ に、 モ リ ス を は じ め 誰 も が、 オ ッ クスフォード壁画共同制作時のあのがむしゃらな陽気さをまだ忘れることができないでいたから、ほとんど自然発 生的にだれ言うとなく、もっと持続して目的的に仕事として成り立たせることができないものか、と再び「夢」を 語って共有することができたのだった。そんな「内輪の事情」を、今度もロセッティが旗振り役を買って出たのだ ろ う か、 友 人 ウ ィ リ ア ム・ ア リ ン ガ ム に 伝 え て い る。 「 目 下、 家 具 製 造 と あ ら ゆ る 種 目 の 装 飾 を 行 う 会 社 を 準 備 中 で す( た だ し 今 の と こ ろ ま だ 極 サ ブ ・ ロ ー ザ 秘 。 別 に 販 売 の た め の 店 舗 も 準 備 中! 関 係 す る 面 々 は マ ド ッ ク ス・ ブ ラ ウ ン、 ジ ョ ー ン ズ、 ト プ シ、 ウ ェ ッ ブ( ト プ シ の 家 を 建 て た 男 )、 P ・ P ・ マ ー シ ャ ル、 フ ォ ー ク ナ ー、 そ れ に 小 生。 わ れ われは某社の値段の高いがらくたやそれと類似の商品と張り合うつもりは毛頭なく、ただ出来る限り普通の家具の 値段で真に良質な趣向品を提供できるはずです 」 (1 ( 。 ロ セ ッ テ ィ の い う「 販 売 の た め の 店 舗 も 準 備 中!」 、 こ の 感 嘆 符 付 き の 字 句 は、 当 時 と し て は 一 般 市 民 を 顧 客 と した家具調度の専門店が珍しかっただけに、極秘事項のはずだったのに、思わず筆が滑ったのだろう。製品の均一 化をもたらす量産を味方につけながら、装飾という付加価値によって「良質な趣向品」を合理的な価格で中産階級 に提供しようという発想、別な言い方をすれば、芸術と産業デザインをそれまでになく近づけようとする試みに違 いないのだが、真にこの時点で全員がそこまで自覚的であったかどうか。 それでも「赤い家」の建築を通じて協働の手応えをだれよりも実感していたのはモリスであったし、その分、商 会についてだれよりも意欲的だったのもモリスだったはずである。当時を回顧してモリスはA・ショイ宛ての「自
伝的覚え書」をふくむ長文の手紙で「われわれ仲間は、特にわたしと建築家の友人は、すべての小芸術が、とりわ け英国において、完全に堕落した状態にあることに気づきました。わたしは一八六一年思い切って、若者の気負い に駆られて、そうした一切の状況を改革するため、一種の商社を発足させました 」 (2 ( と書いたが、モリスが商会にな に を 託 そ う と し て い た か 明 ら か で あ る。 零 落 甚 だ し い イ ギ リ ス の「 小 芸 術 」( 後 述「 平 面 装 飾 の 思 想 」 参 照 ) の 復 権、その先に社会改良を見据えていたのだった。 商 会 の 設 立 趣 意 書 に 名 を 連 ね た の は、 モ リ ス の ほ か に ダ ン テ・ ガ ブ リ エ ル・ ロ セ ッ テ ィ( 画 家 )、 エ ド ワ ー ド・ バーン=ジョーンズ(画家) 、フォード・マッドクス・ブラウン(画家) 、ピーター・ポール・マーシャル(測量技 師 )、 チ ャ ー ル ズ・ フ ォ ー ク ナ ー( 会 計 )、 フ ィ リ ッ プ・ ウ ェ ッ ブ( 建 築 家 )、 ア ー サ ー・ ヒ ュ ー ズ( 画 家 ) の 八 名 だったが、設立間もなくヒューズが退社したので、結局七人が共同出資者として各自一ポンドを負担、不足分をモ リ ス の 母 が 無 担 保 で 一 〇 〇 ポ ン ド を 拠 出 し た。 ほ か に ス テ ン ド グ ラ ス 製 作 会 社 の 二 人 の 社 員 と 孤 児 院 か ら 雇 っ た 一二人の少年がいた。 商会はレッド・ライオン・スクエアに面した建物の二階を事務所およびショー・ルームとし、四階と地下室の一 部を工房とした。地下室には硝子とタイルのために小さな窯が設けられた。 趣意書に列挙されている同志は、オックスフォードでの壁画共同制作の時とさして変わらないけれども、その顔 ぶれからいわば総合商社的性格が読み取れる。最年長のフォード・マドックス・ブラウン(四〇歳)はすでに代表 作 と な る《 イ ギ リ ス の 見 納 め 》( 一 八 五 六 ) を 世 に 問 う て い た。 彼 は ロ セ ッ テ ィ( 三 三 歳 ) と は 終 生 の 友 で あ り、 三年前二人は若手新進画家の展覧会を促進する「ホガース・クラブ」 (一八五八年四月)を結成したばかりだった。 そして今また商会の設立に参加して、自他ともに認める、事業の信用性を裏書きする代表的メンバーとなった。こ
の二人より年下のモリス(二七歳)とバーン=ジョーンズ(二八歳)の友情はむろん健在、というよりますます絆 を固めた。建築家としての初仕事を「赤い家」という形で成し遂げたフィリップ・ウェッブの存在も盤石の重みと なった。幅広い領域を自家薬籠中のものとする彼の多才ぶりはまさに余人をもって代えがたかった。彼は建築のほ かに、家具・金細工品・ガラス製品・ステンドグラス・タイルなどのデザインを幅広く手掛けたのだった。 モリスは受験期に私淑した恩師ガイ先生宛に趣意書を同封した手 紙 (3 ( を送る。それには「技術に定評ある賛同の諸 氏」とともに発足にこぎつけた商会であり、既存の「得体の知れぬ奇妙な同業者」とは明確に一線を画す「真の意 味 で の 総 合 芸 術 商 会 で あ る 」 と の 自 負 が 明 確 に 表 明 さ れ て い た。 そ の 上 で、 「 目 下、 商 会 の 最 大 の 関 心 事 は 壁 面 装 飾」にあり、お手数ながら趣意書を送付するにふさわしい教会関係者をご教示賜りたいと思います」と応援を依頼 した。あわせて「一カ月ほどでショー・ルームに絵付き戸棚、刺繍など各種製品を展示する所存です。その折りに お立ち寄りくだされば幸いです」とモリスの自信の程を述べた。 さて、その趣意書であるが、冒頭「モリス、マーシャル、フォークナー商会。絵画・彫刻・家具・金細工の美術 職人集団」と大文字で明記され、続けて、やはり大文字で少しポイントを落として、すでに紹介済みの「技術に定 評のある」職人八人の名がアルファベット順に列挙され、本文が以下のように続く。全文をここに引く 。 (4 ( わが国の装飾芸術は、英国の建築家の尽力により、いまや、定評ある美術職人たちがこの分野に時間を注ぐ ことが望まれると思える段階にまで発展を遂げました。むろん、個々の成功例を上げることはできますが、全 体としては、この種の試みは従来粗削りかつ不統一であったと感じざるをえません。室内装飾は美術職人の目 が 隅 々 に ま で 行 き 届 い て こ そ、 多 種 多 様 な 分 野 相 互 に 調 和 が も た ら さ れ、 成 功 し た 作 品 が 可 能 と な る の で す
が、これが次第に崩れてきているのが現状です。ことに個々の職人から絵を描く仕事を取り上げたため、どう しても過大な経費がかかることになり、ますますこの現状に拍車がかかるありさまです。 上記連名の美術工芸職人はこの難題を協働によって解決することを望むものです。同志の中にはさまざまな 資格・能力を有する者がおりますから、壁画をはじめその他、本来絵画といわれているものから芸術美を実現 する最小の作品に至るまで、どのような種類の装飾も手掛ける事が可能であります。協働によって、絶えず目 が行き届くことになり、真の意味で美術職人の手仕事なるものがこれまでになく大量にしかも最小の費用で保 証されるでしょう。しかも、完成される作品は、従来の方式によって一人一人の職人が手掛ける場合に比べる と、格段に完成度の高い作品になるにちがいありません。 わが商会の美術職人は長年、すべての時代と国々の装飾芸術の研究に深く関与し、真に美しい作品の入手も しくは製作を可能にする場所の不足をおおかたの者より痛感してきました。そこで今回自ら一商会を設立、以 下の品々を自らの手と目配りによって製作することを目的としました。 一、壁面装飾─住宅、教会、公共建築に用いる絵画、模様、あるいは単に配色による装飾。 二、彫刻一般─建築装飾用として。 三、ステンドグラス─特に壁面装飾との調和にかかわるもの。 四、金属細工品─宝飾品をふくむすべての種類。 五、 家具─独自のデザインに美を求めるもの、従来看過された材料を使用したもの、あるいはそれと併用し て人物画や文様画を使用したもの。この部門にはあらゆる種類の刺繍、押し型皮細工、その他これに類
する素材による装飾品、加えて家具以外にも一般家庭用物品のすべてをふくみます。 最後に、是非申し上げておきたいことは、上記各部門のすべての仕事は見積りも製作も合理的になされると いうことです。良質の装飾に必要なのは、費用の贅沢よりむしろ趣向の贅沢でありますから、当社の製品は一 般に考えられているよりずっと廉価であることがご理解いただけると確信しております。 趣意書から読み取れるように、装飾芸術が「粗削りかつ不統一であった」貧相な現況を打破するために、モリス が提示するのは、 「協働」による効果を最大限に生かして、 「多種多様な分野相互に調和」を実現するという現今の 課題への挑戦である。こうした挑戦は、モリスの生涯を貫く主張であり、やがて一八八〇年代後半にモリスを信奉 す る 多 数 の 若 手 手 工 芸 作 家 に よ っ て 一 挙 に 社 会 的 芸 術 的 運 動 へ 盛 り 上 る こ と に な る、 い わ ゆ る「 ア ー ツ・ ア ン ド・ クラフト運動」へとつながった(このことについてはまた別に章をあらためなければならない) 。 商会が発足当初、教会関係のステンドグラスの需要を見込んで、ガイ先生に応援を依頼して経営を軌道に乗せよ うと考えたのはモリスの慧眼であった。高教会派のいわば活性化を意図したオックスフォード運動を担った人々が 四〇年代に同地を離れて、地方で聖職者となり、結果的には全国各地に高教会派の祭儀に見合うネオ -ゴシック教 会の新築ないし改築とそれに伴う内部装飾─壁画・ステンドグラス・タイル・祭壇布など─を中心に装飾関係の需 要 が 高 ま っ た。 し か し、 こ の よ う な ア ン グ ロ = カ ト リ ッ ク の 要 求 に 既 存 の 内 装 業 者 は 十 分 に 応 え る こ と が で き な いでいた。こうして、草創期の商会にとって教会関係の内装、ことにステンドグラスの製作が最も重要な課題・仕
事になった。 ま た、 モ リ ス 本 人 が 早 く か ら「 中 世 の 光 」 と し て の ス テ ン ド グ ラ ス に 強 い 関 心 を 寄 せ て い た こ と も 見 逃 せ な い。 例えば、一八五六年『オックスフォード・アンド・ケンブリッジ・マガジン』二月号に載せた「北フランスの教会 ─ ア ミ ア ン の 影 」 で「 翼 廊 に 進 む と、 大 窓 の ス テ ン ド グ ラ ス が 両 側 か ら 燃 え る よ う に 私 た ち に 迫 っ て き た。 ( 略 ) ドーム状の天井の下、帯状に連なる後陣の窓の列に甘美で豊潤なステンドグラスの光が満ちあふれていた」と書い た。 同 様 に、 中 世 の 光 は 同 誌 三 月 号 に 発 表 し た 短 編「 夢 」 に も「 窓 か ら 差 し 込 む 月 の 光 が 堂 内 の 墓 所 を 照 ら し て、 鮮やかな色を投げかけた」と反復された。 このような観察・探索は、北フランスの旅先で友人宛に書いた手紙からも明らかなように、早い時期から、ほと んど潜在的にモリスの内に存在した。 そ の 蓄 積 が ど の よ う な も の か を 垣 間 見 る こ と が で き る の が、 『 チ ェ ン バ ー 百 科 事 典 』( 全 一 〇 巻、 一 八 九 〇 年 版 ) の た め に 執 筆 さ れ た モ リ ス の「 ス テ ン ド グ ラ ス 」 に 関 す る 一 文 で あ る が、 さ い わ い、 モ リ ス の 娘 メ イ が 編 ん だ 『 ウ ィ リ ア ム・ モ リ ス ─ 美 術 工 芸 家、 著 述 家、 社 会 主 義 者 』( 全 二 巻 ) 第 一 巻 に 収 め ら れ て い る。 メ イ の 指 摘 の 通 り、 「 ス テ ン ド グ ラ ス は 父 の 熟 練 が そ れ な り の 成 功 を お さ め た 最 初 期 の 職 人 技 の ひ と つ で あ る が、 こ れ 以 外 に 詳 細 に 語 っ た 文 章 が ほ か に な く、 そ の 点、 技 法 に 関 す る 記 述 だ け で な く、 そ の 審 美 性 と 歴 史 に 関 す る 記 述 も 興 味 深 く、 情報としても貴重である 」 (5 ( 。 それによると、技法はエナメル方式とモザイク方式に大別される。両者について、いささか煩瑣な解説がなされ るが、要するに、前者は白いガラスにエナメルを施す技法で、透過光に乏しく、満足な効果が得られない。この技 法 は、 モ リ ス に 言 わ せ れ ば、 「 油 彩 あ る い は 水 彩 画 の 模 倣 に 最 も 近 い も の で あ る。 …… 油 彩 が た や す く 完 璧 に 成 し
遂げることを、わざわざ苦労してしかも不完全に終るだけのことである。同時に不透明な絵画が真似できない効果 を作り出すガラスの特性を活かすこともできない。それに絵画や壁画のこうした模倣はデザイナーに窓の装飾には 不向きなデザインを行わせ、装飾という本来の目的から逸脱させる。そればかりか、絵画の巨匠の作品がステンド グラスの手本とされ、入念に盲目的に模倣されることも珍しくない。その結果、偉大な絵画のたんなる戯画を産む ことになり、それが設置される建物の『装飾』とはまるで場違いな代物となる 」 (6 ( 。 それに比して、基本的には中世の技法と同じ工程で作られるモザイク方式のステンドグラスこそが美しく、興味 がかきたてられる、という。ただし、その製作過程そのものは説明するだけならしごく簡単だが、実際には職人と しての熟練が多分に要求されるとする。モリスはステンドグラスがたんにガラスに描かれた絵画同然であるような 現 况 に 満 足 で き ず、 「 中 世 の 光 」 を 取 り 戻 す た め に、 中 世 的 な 高 度 な 職 人 技 が 達 成 す る ガ ラ ス 片 に よ る 窓 の 完 成 を 主張した。油彩画とステンドグラスの魅力は別々のものなければならないと信じていたからだった。 モリスが解説するエナメル・モザイク方式を大掴みに言えば、 ( 1)画家が描く絵柄に色指定をする、 ( 2)これ を 原 画 と し て ガ ラ ス 断 片 の た め の 分 割 図 を 作 る、 ( 3) 分 割 図 に 従 っ て、 ガ ラ ス 職 人 が 指 定 さ れ た 色 板 ガ ラ ス か ら 断 片 を 切 り 出 し て 画 家 に 戻 す、 ( 4) 画 家 は 不 透 明 エ ナ メ ル で 輪 郭 線 を 描 き、 ガ ラ ス 断 片 を ガ ラ ス・ イ ー ゼ ル の 上 で ワ ッ ク ス を 使 っ て 仮 の 組 み 立 て を 行 い、 濃 淡 の ぼ か し を 入 れ、 細 部 を 描 く、 こ の 過 程 で 二 度、 三 度 と 焼 成 を す る、 ( 5)ガラス職人が鉛枠を入れて固定、図像を仕上げる。 こうして完成されたステンドグラスも、それが建物の重要な部分である壁面の一部を占めるものである以上、母 体である建物と有機的関係を本来的に有するはずのものである。これは美術工芸品全般について通用するいわば基 本原理だが、モリスにおけるこの原理の実践能力はほとんど生得的なもので、彼ほどにこの原理にこだわり続けた
美 術 工 芸 家 も 珍 し い。 ス テ ン ド グ ラ ス の 真 価 は、 「 そ れ が 装 飾 す る 建 物 が い か に 純 粋 で あ り 自 然 で あ る か 」 (7 ( に よ っ て 決 定 さ れ る。 「 も し 建 物 自 体 が 優 れ て い な け れ ば、 せ っ か く の ス テ ン ド グ ラ ス も、 た と え 個 々 の 窓 が 優 れ て い よ う と も、 全 体 的 な 統 一 感 を 欠 い た、 た だ の デ ザ イ ン の 寄 せ 集 め と 化 し て し ま う 」。 逆 に、 建 物 の 間 取 り、 調 和 あ る 色 彩 等 全 体 の 統 一 性 に つ い て 十 全 の 配 慮 が な さ れ れ ば、 「 窓 は 相 互 に 助 け 合 い、 た と え 一 つ、 二 つ の 窓 が デ ザ イ ン 的に劣るとしても、心地よい全体的効果によって欠点は目立たなくなる 」 (8 ( とさえ述べた。 本体である建築物に対して下位に位置づけられ、二流・三流と受け取られかねない関係にある装飾美術を、モリ スはあえてレッサー・アート(小芸術)として受け入れながらも、グレーター・アート(絵画、建築、彫刻)を凌 駕する確固たる芸術の一分野であることを疑ったことは少しもなかった。そもそも、モリスに言わせれば、両者は 本来的に優劣の関係にある別々の領域ではなかった。 モリスが辿るステンドグラスのイギリスを中心にした歴史的展望と実作例への考察も興味深い。ステンドグラス は際立って中世の芸術であることを宣言する。現代の製法は基本的には一二世紀と変わりはなく、中世の製作過程 に背を向けた作例はただわれわれを困惑させるだけである。誕生の地は北ヨーロッパであり、イタリアでなかった の は、 そ の 国 に は 絵 画 の 充 実 し た 蓄 積 が あ っ て、 北 ヨ ー ロ ッ パ ほ ど ス テ ン ド グ ラ ス を 必 要 と し な か っ た の で あ る。 イ ギ リ ス と フ ラ ン ス の 場 合、 ゴ シ ッ ク 建 築 が 比 較 的 長 続 き し た た め、 十 分 な 様 式 上 の 展 開 も 可 能 だ っ た、 と 言 う。 モリスは、一二世紀のステンドグラスをもって本来の意味での誕生と捉え、 「赤と青を主にした色彩の深みと豊饒 」 (9 ( を 重 視 し た。 一 三 世 紀 末 か ら 一 四 世 紀 に ス テ ン ド グ ラ ス が、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド の マ ー ト ン・ カ レ ッ ジ の 礼 拝 堂 や ヨーク・ミンスターの身廊に見られるように、当時盛んだった大型はざま飾り窓にふさわしい、きわめて美しい様 式を創出したことを、 「芸術の到着しえた最高点 」 (10 ( と称賛を惜しまない。 (前者はモリスが学生の頃ステンドグラス
の聖所として通い詰め、手本とした作例である) 。「大量の光を堂内に取り入れることを可能にしながら、他の追従 を許さぬ優雅と豊饒の効果を生みだした」それに続く垂直様式の一五世紀になると、色彩は淡調に転じ、なかでも 白あるいは銀白色のガラスに黄色を交えた賦彩が目立った。人物像は着衣をはじめいっそう手の込んだ表現になっ たが、窓の明度は概して守られたとし、オックスフォードのニュー・カレッジの礼拝堂前室、グロスター大聖堂の 東大窓、ヨーク・ミンスター聖歌隊席の多数の窓をその好例とした。 一六世紀に入ると、陰影が重々しくなり、色彩は美しさを失い、過度の絵画的効果を狙うなどして衰微し、正統 なステンドグラスは一五四〇年頃をもって終ったと断じ、ゴシック建築の消滅とともに完全に姿を消したが、当世 の世俗的ゴシック復活とあいまって、難題を抱えながらも息を吹き返した。ウィンストン社とパウエル社の協力が 優れたステンドグラスを生むことに大きな貢献をした、という。 商会に寄せられた最初の大型注文はジョージ ・ F ・ ボドリーからの依頼だった。一八六二年にグロスターシャのセ ルスリーに建てられたオール・セインツ教会のための大量のステンドグラスの注文だった。ボドリーは、ゴシック 復活の中心的建築家のひとりとされるジョージ・ギルバート・スコットの下で見習い期間を終えて、一八五四年か ら 五 八 年 ま で ス ト リ ー ト の 建 築 事 務 所 で 助 手 を 務 め て い た 関 係 か ら、 モ リ ス、 ウ ェ ッ ブ ら と 面 識 が あ っ た。 ボ ド リ ー は す で に 六 〇 年 代 初 頭、 ブ ラ イ ト ン の セ ン ト・ ポ ー ル 教 会 の 祭 壇 画 を バ ー ン = ジ ョ ー ン ズ に 依 頼 し た 実 績 も あ っ た。 そ の 後、 ス カ バ ラ の セ ン ト・ マ ー テ ィ ン ズ = オ ン = ザ = ヒ ル 教 会、 ブ ラ イ ト ン の セ ン ト・ マ イ ケ ル ズ 教 会の設計を手掛けるなど着々と実績を重ね、有能な若手建築家として注目された存在だった。そうしたボドリーか らの相次ぐ注文によって商会は幸先のよいスタートを切ることができた。 そ れ に し て も、 商 会 の ス テ ン ド グ ラ ス が 想 像 以 上 に 多 数 の 教 会 を「 装 飾 し 」、 し か も 今 な お 全 国 各 地 に 存 在 し、
(存在しない州名を挙げるのが困難なくらいである) 、しかも芸術的にも優れた出来栄えによって高い評価を維持し ていることを思うと、壁紙とともに、商会が果たした社会への多大な寄与をあらためて考えざるをえな い (11 ・ ( 。 ボ ド リ ー に よ る 初 受 注 の、 天 地 創 造 を 表 象 す る 大 薔 薇 窓 を は じ め と す る 二 一 点 は、 ロ セ ッ テ ィ、 モ リ ス を 中 心 に、ウェッブ、ピーター・マーシャル、フォード・マドックス・ブラウンらによる共同製作となった。この初仕事 について、マーティン・ハリソンは、先行するパウエル社やクレイトン・アンド・ベル社の製品に比べると、肝心 の色彩効果が鈍いなど完成度が低く、経験不足から見劣りがしたという。それでも、これはすぐに克服されて、逆 に 上 記 二 社 の ス テ ン ド グ ラ ス は 一 八 六 二 年 頃 か ら、 モ リ ス・ マ ー シ ャ ル・ フ ォ ー ク ナ ー 商 会 の 影 響 で あ ろ う か、 「 明 ら か に 地 味 で 抑 え た 彩 色 」 (12 ( に 変 化 し た と い う。 こ の「 地 味 で 抑 え た 彩 色 」 こ そ 商 会 が 達 成 し た 新 境 地 で あ り、 それはハリソンも指摘する「抑制された青、ルビーの深紅、黄色、一四世紀イギリスのステンドグラスに特有な緑 色、野菜から採った染料にも比肩しうる微妙な大地の色彩 」 (13 ( であった。モリスはやがて仲間の彩色にも独自の調整 を 加 え た。 「 独 創 的 か つ 独 特 の 手 法 で 色 の 再 演 出 を 達 成 」 す る こ と に 努 め て、 モ リ ス は 既 存 の パ ウ エ ル 社 な ど が 得 意とした万華鏡的色彩の氾濫、つまり無数の高彩度のガラス小片を撒き散らしたような効果の模倣を華美に過ぎる として遠ざけた。 商会はステンドグラスのデザインと賦彩の変革の先駆けとなった。中世に刺激を求めたが、模倣を忌避し、中世 の 形 式 よ り も 精 神 を 伝 え る こ と に 腐 心 し た。 ア ル バ ー ト・ ム ア や ウ ィ リ ア ム・ ド・ モ ー ガ ン( 一 八 三 九 ─ 一九一七)やシメオン・ソロモン(一八四〇─一九〇五)など有能な外部の手を借りながら、ステンドグラスやタ イルのデザインに携わった。このことは、やがて手掛けることになる壁紙に先駆けて、 平 パ タ ン ・ デ ザ イ ン 面文様 に関する貴重な経 験となった。
一八六二年は商会にとって記憶さるべき年となった。サウス・ケンジントンでのロンドン国際芸術産業展の開催 である。五一年のクリスタル・パレスに代表される博覧会の第二弾として企画された産業展である。注目を引いた のは日本部門(イギリスにおける「ジャポニスム」の気運を高めた)と中世部門だった。後者はまだ発足したばか りの商会にとって事実上の初舞台となった。大枚二五ポンドをはたいて、二つのブースを確保、一つはもっぱらス テンドグラスを、もうひとつのブースには絵付きタイル、絵付き家具、刺繍、銅製の燭台、ウェッブによる宝飾品 の 試 作 品、 ソ フ ァ、 洗 面 台 等 を 展 示 し た。 人 気 が あ っ た の は《 聖 ジ ョ ー ジ の キ ャ ビ ネ ッ ト 》 で、 フ ィ リ ッ プ・ ウェッブのデザイン、モリスの絵付け、マホガニー、オーク、松材を使用、彩飾・金箔が施され、銅製の取手付き であった。モリスは板絵扉のために「聖ジョージの伝説」を題材にして三枚のパネルに五景を描いた。龍の要求に 屈して、町のために犠牲になる王女はジェインがモデルだった。 二つのブースは奨励賞を獲得、一般入場者だけでなく、専門家からも称賛が寄せられた。会場で一五〇ポンドの 売上げがあったばかりか、新たに重要な顧客の獲得にも成功した。審査員はステンドグラスの色彩とデザイン両面 の 芸 術 性 を 高 く 評 価 し た。 こ う し て 商 会 は 社 会 的 認 知 を 得 た。 ず っ と 後 の こ と に な る が、 受 注 は 国 内 に と ど ま ら ず、アメリカ、ボストンの聖三位一体教会からもあった。 こ う し た 機 運 に 乗 じ て 商 会 が 手 掛 け た 数 々 の ス テ ン ド グ ラ ス の な か で、 ブ ラ イ ト ン の セ ン ト・ マ イ ケ ル・ ア ン ド・オール・エンジェルズ教会のそれは評価が高い。西正面の薔薇窓は、円形の《聖母子》 (バーン=ジョーンズ) を 中 心 に、 そ れ を ぐ る り と 囲 む、 鐘 を 鳴 ら す 七 態 の 天 使 を 描 い た 七 つ の 円 形 窓《 鐘 を 鳴 ら す 天 使 た ち 》( バ ー ン = ジョーンズ)を特質とする独創的なステンドグラス。下部には全部で六つの窓─四つの細縦長の尖頭窓(ランセッ ト ) と そ の 上 部 に 二 つ の 葉 形 飾 り 窓 ─ が 左 右 対 称 に 配 さ れ た。 尖 頭 窓 は 左 か ら 盾 と 長 槍 を も つ《 聖 ミ カ エ ル 》
( フ ォ ー ド・ マ ド ッ ク ス・ ブ ラ ウ ン )、 《 聖 ラ フ ァ エ ル 》( モ リ ス )、 《 聖 ユ リ エ ル 》( フ ォ ー ド・ マ ド ッ ク ス・ ブ ラ ウ ン )、 白 百 合 を も つ《 聖 ゲ イ ブ リ エ ル 》( モ リ ス ) で あ る。 上 部 を 占 め る 葉 形 飾 り 窓 は 左 が《 聖 ジ ョ ー ジ 》( P ・ P ・ マーシャル) 、右が《受胎告知》 (モリス)である。 依頼主のボドレーはバーン=ジョーンズによる薔薇窓が特に気に入って、初期商会のもっとも見事な作例のひと つと称えた。濃い緑色の着衣の天使が大きな黄金の鐘を打つ七つの姿形が、星の燦めきの表象であろうか、黄色の 装 飾 模 様 を 施 し た 白 色 ガ ラ ス を 背 景 に 描 か れ た。 ま た 尖 頭 窓 の 大 天 使 に つ い て、 「 聖 像 的 だ が、 ほ の か に 生 気 が あ り、一三世紀ゴシック彫刻のポーズを思い出させる。柔らかな青、緑、赤茶色は、モリスが白地のガラスに黄色の 染め付けをうまく活かし、金と銀の見事な調和の中に控え目に取り入れられている 」 (14 ( とハリソンは解説する。 イングランドの北部、リヴァプールの近郊にノッティ・アッシュという町がある。その聖ジョン・ジ・エヴァン ジェリスト教会の北側廊のステンドグラスが、個人的には、最も心惹かれる。祭壇から三番目の区画に設けられた 大窓は上下二層に大別され、その下部に通称《アブサロムの窓》がある。バーン=ジョーンズの下絵にモリスが遺 憾 な く 色 彩 感 覚 を 発 揮 し た、 一 八 七 二 年 の 共 同 製 作 で あ る。 窓 全 体 は 三 分 割 さ れ、 中 央 に ア ブ サ ロ ム、 左 右 に サ ミュエルとテモテを主題にした窓である。聖書上の三人物像は透明感のある紺色のアブサロムをはじめ、その両側 に配された茶褐色の二人物像もさることながら、最大の特徴は窓全面の背景を埋める緑の曲線状の枝葉である。多 少の濃淡を交えたその緑が人物を背後から密に支えて、全体の基調を醸成する。けっして出しゃばらない。その精 彩あふれる緑の静謐は失った愛児を弔う父親の哀惜と悲嘆にふさわしい。 こうした商会の最初期のステンドグラスの業績を、モリスの娘メイはその編著『ウィリアム・モリス─美術工芸 家、著述家、社会主義者』第一巻に「商会の職人たちがガラス工芸の領域で見せた仕事振りは、これが新しく手掛
け た 技 芸 だ と は と て も 思 え な い 出 来 栄 え で、 彼 ら が、 徒 弟 見 習 い も 経 ず、 悠 々 と 確 実 に、 こ れ だ け 全 国 の 教 会 を 次々に、斬新かつ因習に囚われない素晴らしい仕事の達成によって、俄に、その分野における達人の地歩を固めた のはまさに驚きでした 」 (15 ( と総括した。 しかし、順風満帆といえば嘘になる。当然、揶揄、やっかみ、妨害が待ち構えていた。モリス自身も例の「自伝 的覚書」で、 「商会はまもなくある程度の成功を収めたけれど、当然ひどい冷笑の的となった」と書く。 「中世風の 家具、タペストリなど、いったい、だれが、そうした展示の品々を見て、一九世紀の製品だと信じるだろうか─は めば歯車と蒸気ラムと施条銃のこのご時世に? 展示された型のキャビネットが流行ったのは六〇〇年も昔のこと で は な い か 」 (16 ( 、「 未 熟 な 商 会 の 息 の 根 を 止 め よ う と、 あ の 手 こ の 手 が 使 わ れ た 」 (17 ( 。 趣 意 書 を「 読 ん だ 者 は そ の 宣 言 の 無 鉄 砲 さ に 空 い た 口 が 塞 が ら な か っ た 」 ば か り か、 「 既 成 の 専 門 業 者 は、 ろ く そ っ ぽ 商 売 の こ と も 分 か ら な い 連 中 に土足で玄関に踏み込まれた感じがしたのだ。できることなら結託して、市場から商会を排除したいと本気で画策 したほどだった 」 (18 ( 、「ステンドグラスは商会が宣伝する物とは似て非なるもの」 、「実はこの機に臨んで、昔のガラス をそれなりに急拵えした代物に過ぎない、分かりやすく言えば、まがい物だ 」 (19 ( と主張した。出展を阻もうとする動 き さ え あ っ た。 モ リ ス に は 一 〇 年 ほ ど 前 の ラ フ ァ エ ル 前 派 の 絵 画 に 浴 び せ ら れ た 中 傷 と 非 難 の 再 来 と 思 え た だ ろ う。 博覧会の成功を機に注文が増える。来店する顧客も増えた。商会が手狭になってきた。住まいと仕事場がロンド ン郊外の「赤い家」と市内のレッド・ライオン・スクエアでは離れ過ぎていて、 「通勤」が苦になりはじめていた。 モ リ ス は リ ュ ー マ チ 熱 に 悩 ま さ れ て も い る。 ジ ョ ー ジ ア ー ナ( バ ー ン・ ジ ョ ー ン ズ の 妻 ) が 猩 紅 熱 で 重 態 に な る と、ストレスでモリスの相棒のバーン・ジョーンズまでが体調を崩した。モリスはロンドンからアプトンに仕事場
を移すこと、あわせて「赤い家」を建て増しして、バーン=ジョーンズ夫妻とひとつ屋根の下で暮らすことを考え た。が、夫妻がロンドンを離れることを強く嫌ったため、結局モリスは「赤い家」を手放す決心をした。苦渋の選 択 だ っ た ろ う。 モ リ ス 夫 妻 に と っ て 記 念 碑 的 家 具 の 大 半 は 備 え 付 け で あ っ た た め 手 放 さ ざ る を え な か っ た。 「 赤 い 家」の至福はわずか五年で終わった。 ジョージアーナは「赤い家」を惜しんでこんなふうに書き残し た (20 ( 。 わたしたちの人生で最も幸福な一時期は、 「赤い家」を売却したことによって幕が下ろされてしまいました。 で も、 仕 方 な い こ と で し た。 ロ ン ド ン に 起 居 し て 断 固 事 業 に か ま け る 不 退 転 の 決 意 で い た モ リ ス に と っ て は、 あれほど愛した家を留守にしたまま、ただの家主でありつづけることに耐えられなかったのです。即刻、売り に出すより仕方なく、もう二度と目にするつもりもなかったでしょう。実際その通り二度と目にしませんでし た。子供時代を過ごした家を後からいつまでも夢に見ることがあるように、わたしたちの中には「赤い家」を 夢に見たものがいたのです。 アプトンを最後に訪ねたのは一八六五年九月でした。秋晴れの午後、モリスとジェニー、エドワードとわた しの四人で、周辺にまだ残っていた人里離れた景勝の地を馬車でお別れに一巡りしました。 モリスが「赤い家」と決別したのは一八六五年一一月だった。同時にモリス夫妻はロンドン、ブルームズベリ地 区、 ク ウ ィ ー ン・ ス ク エ ア 二 六 番 を 新 居 と し た。 そ こ は 新 婚 旅 行 を 終 え て 帰 国 後、 「 赤 い 家 」 の 完 成 ま で 仮 住 ま い を し た グ レ ー ト・ オ ー モ ン ド・ ス ト リ ー ト と 指 呼 の 間 に あ る、 南 北 に 細 長 い ス ク エ ア だ っ た。 二 六 番 は モ リ ス が
バーン=ジョーンズら商会発起人七名の連記によって商会名儀で借りた建物(現在は病院)だった。モリス一家は 店舗の上階に一八七二年まで住むことになる。北側には建物がなく、ハムステッドの丘まで見渡せた。当時ブルー ムズベリ地区は、まだアン女王時代のロンドンの郊外住宅地としてかつての風格のいくばくかをとどめている場所 だった。いまでこそ、なんということもない街区に零落した感があるが、それでも瀟洒なアン女王時代の住居がわ ずかに残り、文人・芸術家とも縁が深く、大英博物館の所在地としても、かつてはロンドンを代表する文教地区で あったことを思い出させる。 メイ・モリスは父の断腸の思いを代弁するかのように、 「父が妻と友人を迎えるために建てた美しい住いのこと、 そして都会の喧騒にとても近いのに、まるで忘れ去られたような一隅で、花咲く果樹園に囲まれながら、若い仲間 が過した仕合せな活気にあふれた日々のこと、それはいくら繰り返し語られても、その陽気で真剣そのものであっ た日々の魅力を想うと、決して陳腐になることはないでしょう 」 (21 ( と述懐した。 商会について次に特筆さるべきことは、一八六六年と六七年に二件の依頼を、教会関係ではなく、はじめて世俗 建 築 の 室 内 装 飾 を、 大 方 の 予 想 が 及 ば な い 方 面 か ら 受 注 し た こ と で あ る。 セ ン ト・ ジ ェ イ ム ズ 宮 殿 の「 武 具 の 間 」 と「綴れ織の間」の内装工事とサウス・ケンジントン博物館(現ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)の食 堂内装の工事が相前後して持ち込まれた。発足して間もない商会にとって、確実に箔付けになる注文だったが、ど う し て そ う し た こ と が 可 能 だ っ た の だ ろ う。 正 直 言 っ て、 戸 惑 い を 覚 え る の だ が、 P ・ ヘ ン ダ ー ソ ン は「 ち ょ っ と した謎である 」 (22 ( と言って、この注文は「ヘンリ・コールが一八六二年の博覧会に出品した商会の作品に感銘を受け て、 商 会 を 推 薦 し た に ち が い な い 」 と 言 う。 ま た J ・ リ ン ジ は「 受 注 の 経 緯 は 不 明 で あ る。 し か し、 サ ウ ス・ ケ ン
ジントン博物館長コールが商会に好意的であったに相違ない 」 (23 ( と同じ趣旨のことを書いた。われわれとしては両人 が名を挙げているコールという人物の方に関心が向かう。たしかにこの要職にあった人物はこの時期のモリスまた は商会にとって無視できないのだが、そのことは次章に譲ろう。それにしても「好意」だけで実現することだろう か、博物館はまだしも、という思いが依然残る。 F ・ マ ッ カ ー シ に よ れ ば、 同 宮 殿 は 二 年 前 に「 宴 会 の 間 」 の 内 装 改 修 工 事 を 王 室 お 気 に 入 り の 装 飾 家 ジ ョ ン・ ク レイスの手で終えたばかりだったとい う (24 ( 。その実績を押しのける恰好で商会が受注を獲得したのは、ロセッティの 魅力と強引な押しの成果だったとする。つまり、時のロンドン市建設局長であったウィリアム・クーパー(パーマ ス ト ン 卿 の 継 子、 後 の マ ウ ン ト = テ ン プ ル 卿 ) に、 友 人 だ っ た ロ セ ッ テ ィ が タ イ ミ ン グ よ く 働 き か け た と い う 訳 だ。クーパー自身もたんなる能吏ではなく、芸術にも関心を寄せ、ロセッティの説く装飾美術の新しい動向にも理 解 を 示 し た の だ ろ う。 そ の 間 の 経 緯 の 一 端 を、 レ デ ィ・ マ ウ ン ト = テ ン プ ル は 回 想 録 に「 年 月 の 経 っ た セ ン ト・ ジェイムズ宮殿の数室を改装しなければならなくなった時に、昔と同じようになにがしか名の売れている業者の手 に 委 ね る こ と を せ ず、 あ の 芸 術 の 偉 大 な 改 革 者 ウ ィ リ ア ム・ モ リ ス を 説 き 伏 せ て 仕 事 を 引 き 受 け て も ら っ た の で す」 と書いた。 一 方 リ ン ダ・ パ リ は、 ロ セ ッ テ ィ が 重 要 な 働 き を し た こ と に つ い て、 こ ん な 風 に 書 い た。 「 前 衛 的 な デ ザ イ ン へ の愛情を理解できない王室と、わずか数年前に、仮住まいをしていたモールバラ・ハウスから移転してきたばかり の博物館に対して、発足間もない未経験な装飾専門の商会が、仕事の質量両面において施主の要求に十分応えるこ とができることを納得させたのは驚くべきことである 」 (25 ( 。 宮殿の内装工事は一八六六年九月から翌年の一月までかかった。工事を総括したのはフィリップ・ウェッブだっ
た。リンダ・パリの解説を借りれば、天井、天井蛇腹、腰羽目板、窓、扉などすべてが「様式化された花柄の反復 模様で彩色され、既存の綴れ織りや武具などの展示品と競い合うのではなく、むしろ相互に補完するように工夫さ れた。黒地に金と明るい彩色を強調するなど……王室にふさわしく壮麗な効果が求められたが、特徴に欠けて暗い 印 象 で あ る 」 (26 ( 。 自 己 主 張 で は な く、 全 体 と の 調 和 を 重 ん じ た 構 想 に わ れ わ れ は 注 目 し た い。 過 度 に ゴ シ ッ ク 調 で、 サイケデリックでさえあると評したのはF ・ マッカーシである。二年前のクレイスの仕事に比べれば、一転、想像 を越えた新空間の出現と言いえただろう。 商会のもう一つの仕事、サウス・ケンジントン博物館「緑の食堂 」 (27 ( の内装工事は、その頃博物館が進めていた三 食堂の改装計画の一環だった。漆喰壁はウェッブによって、オリーブの実る枝の浅浮き彫り反復模様が施され、そ の上部の 蛇 コ ー ニ ス ・ フ リ ー ズ 腹の小壁 には兎を追いかける猟犬と樹木と野兎とが交互に描かれた。漆喰壁の下、目の高さに、樹木と 果樹の緑の小枝、果実、花を描いた縦長の小パネルを連続させながら、ところどころに一年一二カ月を表象する人 物像が配された。これらのデザインはバーン=ジョーンズによる。腰羽目板は無地の緑がかった藍色、二つの窓に はめ込まれた全部で六枚のステンドグラスには小動物や花に囲まれ花輪に飾られた女性立像が配された。 確かに全体はくすんだやや暗い印象であるが、その中で、小枝や果実や花のパネルが黄色地に描かれた小パネル の連続が全体を明るく引き立てていることは見逃せない。それに、漆喰壁のオリーブ柄といい、この小パネルの樹 木と果樹の柄といい、決して壁紙ではないが、商会が平面デザインにおいて高い技術を獲得していることを実証す る植物文様となっている。じつは壁紙への挑戦はすでにこの二年程前にモリスによって始められていた。 次章は話題の向きを少々変えて、モリス・マーシャル・フォークナー商会設立前後のヴィクトリア朝装飾芸術を
めぐる状況を一瞥したい。それはモリスの壁紙について語ろうとするときに、その正当な理解と評価に不可欠な手 続きと考えられるからである。 ◆モリス・デザインの先行者たち 一八世紀半ば進展する手工業生産制の急速な発展の中に早くも後のモリスが強く関心を寄せざるをえないと思わ れ る 動 向 が 顕 著 と な っ た。 一 七 五 三 年 の 諸 ソ サ イ ア テ ィ ・ フ ォ ー ・ ジ ・ エ ン カ レ ッ ジ メ ン ト ・ オ ヴ ・ ジ ・ ア ー ツ ・ マ ヌ フ ァ ク チ ュ ア ズ ・ ア ン ド ・ コ マ ー ス 芸 術 ・ 手 工 業 ・ 商 業 奨 励 の た め の 協 会 の 設 立 と 翌 年 の 王 ロ イ ヤ ル ・ ソ サ イ ア テ ィ ・ オ ヴ ・ ア ー ツ 立 芸 術 協 会 の 設 立 が そ れ で あ る。 二 つ の 協 会 は、 同 年 創 設 さ れ た 大 英 博 物 館 と と も に、 デ ザ イ ン 産 業 に 新 たな活力を与え、社会一般の装飾美術に対する関心を格段に高めることに大きく貢献した。ロンドンをはじめイギ リス各地で品評会・展示会が活気を呈し、優れたデザインに賞を与える各種コンテストが催された。一八三五年に は「諸技芸の知識及びデザインの諸原理を国民(特に生産にかかわる人々)の間に普及せしめる最善の策を探るこ と を 目 的 と す る 」 特 別 委 員 会 が 下 院 に 設 置 さ れ、 そ の 三 五 〇 ペ ー ジ に 及 ぶ 報 告 書 は、 デ ザ イ ナ ー 養 成 学 校 や 博 物 館・美術館の設立などを提言した。その結果、一八三六年ナショナル・ギャラリの創設をはじめとして、一八四六 年 ま で に 一 〇 指 に あ ま る 国 ノ ー マ ル ・ ス ク ー ル ・ オ ヴ ・ デ ザ イ ン 立 デ ザ イ ン 師 範 学 校 の 開 校 が 実 現 し た。 こ う し た 気 運 は 一 八 五 一 年 の 大 グ レ ー ト ・ エ ク ヒ ビ シ ョ ン 博 覧 会 、 つ ま り 第 一 回 万 国 博 覧 会 へ と 集 約 さ れ、 そ の 成 果 は、 周 知 の よ う に、 サ ウ ス・ ケ ン ジ ン ト ン 博 物 館( 現 ヴ ィ ク ト リ ア・アンド・アルバート博物館)という記念碑的遺産として総括された。 こうした文脈の中で、発足間もないモリス・マーシャル・フォークナー商会がサウス・ケンジントン博物館から 「 緑 の 食 堂 」 の 内 装 工 事 を 受 注 し た 事 実( 一 八 六 六 ) を あ ら た め て 思 い 起 こ す と、 前 述 し た 風 景 と は ま た 別 な 事 情 がおのずと視野に入ってくる。そこにはすでに一言触れた同博物館の創設者にして初代館長ヘンリ・コールの姿が
同時代の群像に混じってその存在感を際立たせていることに気づく。 ヘ ン リ・ コ ー ル( 一 八 〇 八 ─ 八 二 ) と は い っ た い 何 者? そ の 多 彩・ 活 力 に は 舌 を 巻 か ざ る を え な い。 上 述 の 博 覧 会 の 組 織、 国 立 デ ザ イ ン 学 校 の 創 設、 ロ ン ド ン の 公 文 書 館 の 改 組、 一 ペ ニ ー 郵 便 制 の 導 入、 イ ギ リ ス 初 の 一 ペ ニー郵便切手や糊つき郵便切手の発案者、特許法の改正、鉄道軌間の統一の実現、水彩画家、そして手工芸品のた め の デ ザ イ ナ ー、 な か ん ず く 紅 茶 セ ッ ト の デ ザ イ ナ ー 等 々。 そ れ だ け に コ ー ル が 築 い た 人 脈 も 並 々 な ら ぬ も の が あった。小野二郎が「一八五〇年代当初から、壁紙あるいはドメスティック・デコレイション一般にいわば革命の 嵐が吹き、趣味上の大変革が起こっていた 」 (1 ( と言う時、コールを立役者と見做していたことは間違いない。コール の一見とりとめない「多彩・活力」に一貫するのは、産業と芸術という、従来遠く隔たった二つの領域の架橋に成 功した極めて優れた文化行政官の姿である。彼は手工業生産品における趣向性の向上、産業への美術の応用を旗印 にマニュファクチャラーと美術工芸家たちを結び付けることに奔走した(この意味では、アーツ・アンド・クラフ ト運動の仕掛人のひとりといえよう) 。 振り出しはごく平凡に公文書館勤務、すぐに侮りがたい人物として頭角をあらわすことになったのは、職場が不 正と怠惰の温床であることを告発したことが契機だった。告発が招いた誹謗の嵐の中、コールは一時職を追われる が、主張の正当性が認められ、一八三七年に復職、公文書館の改革が日の目を見た。コールは正義感あふれる清廉 の士であった。翌年、ローランド・ヒル(一七九五─一八七九)を助けて近代郵便制度の導入に力を尽くした。ま た一八四〇年代イギリスが鉄道狂時代にある最中、コールはだれよりも先んじて軌間統一の必要性を『レールウェ イ・ ク ロ ニ ク ル 』 誌 上 に 展 開、 一 八 四 六 年、 イ ギ リ ス 議 会 は 軌 間 を 1,435 mm と 決 定 し た。 同 年、 コ ー ル は 王 立 技 芸協会主催のデザイン・コンテストにフェリックス・サマリの匿名で応募、紅茶セットが銀賞を獲得した。これを
ミントン社が大量生産して大成功を収めた。F ・ マッカーシは 『英国デザイン史 一八三〇─一九七〇』 (一九七二) においてこの受賞の意義を「工業デザインの質的向上という大運動、改革運動の端緒となった 」 (2 ( と説いた。勢いを え た コ ー ル は 会 社「 サ マ リ ズ・ ア ー ト・ マ ニ ュ フ ァ ク チ ャ ラ ー ズ 」 を 設 立( 一 八 四 八 )、 ミ ン ト ン や ウ エ ッ ジ ウ ッ ドなどの製陶業者だけでなく、収納家具メーカーのホランズ、食卓用品メーカーのロジャーズなどと協同関係を拡 大し、デザイナーと生産者との提携を模索し続けた。同時にコールのデザインに対する熱中は教育にも注がれ、上 記デザイン学校の新設など、芸術技術教育の質的向上に敏腕をふるった。 コールは博覧会実行委員会の中心人物として準備に忙殺される。それに協力して推進役を担ったのは、以前から の 協 力 者、 N ・ ペ ヴ ス ナ ー の い う コ ー ル・ サ ー ク ル の 面 々 で あ っ た (3 ( 。 そ の 中 に 画 家 ウ ィ リ ア ム・ ダ イ ス( 一 八 〇 六 │ 六 四 ) や ウ ェ ー ル ズ 出 身 の 建 築 家 オ ー エ ン・ ジ ョ ー ン ズ( 一 八 〇 九 ─ 七 四 ) や デ ザ イ ナ ー の マ シ ュ ー・ デ ィ グ ビ・ワイヤット(一八二〇─七七)らの名前があった。それにしても、コールが水を得た魚のように活動できたに は訳があった。機を見るに敏なコールは広報誌『ジャーナル・オヴ・デザイン・アンド・マニュファクチャ』誌の 発 行 を 思 い 立 ち、 第 一 号( 一 八 四 九 年 三 月 ) を 王 立 技 芸 協 会 会 長 で あ る ア ル バ ー ト 公 に 謹 呈 し た。 「 こ の 異 国 の 地 に諸芸術と産業の進展を援助されようとする、一貫したかつ多大の意義あるご尽力に恭しく謝意を表して 」 (4 ( 謹呈さ れ た。 「 こ の 献 辞 は た ん な る 美 辞 麗 句 で は な く 」、 ア ル バ ー ト 公 と コ ー ル 両 者 の 当 時 の「 同 志 的 絆 」 の 表 現 で あ っ た、 と F・ マ ッ カ ー シ は 注 釈 す る。 例 え ば、 「 産 業 に 応 用 可 能 な 芸 術 を 」 と い う コ ー ル・ グ ル ー プ の ス ロ ー ガ ン す らアルバート公の草案だったという。万国博覧会の成功はアルバート公の絶大な支援の賜物とはよく耳にすること だが、そして、それはその通りに違いないが、アルバート公が王立技芸協会会長職にあったということは、ただ女 王の夫君という、それだけの理由から関わることになったたんなる名誉職ではなく、実はもっと実質的な積極的な
意 味 で の「 会 長 職 」 で あ っ た の だ。 F ・ マ ッ カ ー シ が い う「 同 志 的 絆 」 に も そ ん な 含 意 が あ る。 両 者 の い わ ば 二 人 三脚的関係なくしては、いくらアルバート公が女王の夫君であっても、あるいはまた、コールひとりがどれだけ獅 子奮迅の活躍をしても、おそらく博覧会は成り立たなかったのではないか。 博覧会は未曾有の成功を収める。その器としてジョーゼフ・パックストン(一八〇一─六五)がハイド・パーク に 作 り 上 げ た 鉄 骨 ガ ラ ス 張 り の 水 ク リ ス タ ル ・ パ レ ス 晶 宮 の 新 奇 さ と ト マ ス・ ク ッ ク( 一 八 〇 八 ─ 九 二 ) の 創 出 し た、 今 言 う パ ッ ケ イ ジ 旅 行 が 人 気 に 拍 車 を か け、 入 場 者 六 〇 〇 万 人 と い う 空 前 の ブ ー ム を 招 来 し た。 万 国 博 覧 会 の 翌 一 八 五 二 年、 アルバート公の肝いりで、産業界に科学と芸術とその応用の促進を目的として、博覧会の収益金一八万六千ポンド を投じてサウス・ケンジントンに八七エーカーの土地を取得、その名もエクヒビション・ロードを軸に自然史博物 館、 科 学 博 物 館、 王 立 芸 術 大 学 な ど の 諸 施 設 を 相 次 い で 誕 生 さ せ た 事 実 や「 装 飾 美 術 博 物 館 」( ミ ュ ー ジ ア ム・ オ ヴ・オーナメンタル・アート、前身はミュージアム・オヴ・マニュファクチャーズ、後一八九九年以降ヴィクトリ ア・アンド・アルバート・ミュージアム)がモールバラ・ハウスに設立された事実などを考えると、博覧会がその 所期の目的を十二分に果したことは明らかである。 コール・グループの一人は「英国国教会創設時このかた、この国で昨今ほどデザインの将来が良好であったため し は な い 」 (5 ( と 自 画 自 賛 し た。 ま た ア ル バ ー ト 公 は「 労 働 の 分 業 の 大 原 則 」 と「 競 争 と 資 本 と い う 刺 激 」 を 称 賛 し、 「 今 や 人 類 は こ の 現 世 で 果 た さ な け れ ば な ら な い、 か の 偉 大 な 神 聖 な 使 命 の 一 層 完 璧 な 達 成 に 接 近 し つ つ あ る 」 と 手放しの楽観を表明した。ここに時代の風潮がきっかり表明されていた。 し か し、 こ の 風 潮 を ニ コ ラ ウ ス・ ペ ヴ ス ナ ー は 時 代 を 覆 う「 ご て ご て し た、 独 り よ が り の 楽 観 主 義 」 (6 ( と 断 じ、 「 ブ ル ジ ョ ワ 的 な 女 王 と 有 能 な 夫 君 に 統 治 さ れ、 以 前 に 増 し て 富 を 手 に し た 生 産 者 と 商 人 の 企 業 家 魂 に よ っ て 富 を
増大させ、世界の工場となり、成功したブルジョア階級の天国となった英国で、慈善に努め、教会での祈りを怠ら ず、道徳家ぶっていれば、神にも己の良心にも恥じることがない、この類例のない進歩的な実際的な時代」をもろ に反映した楽観主義と断じた。時代の進歩のただ中で育った世代には、大量生産を可能にしてくれた機械に疑念を も つ 余 裕 は な か っ た。 「 機 械 が 工 業 製 品 か ら 趣 味 を 根 絶 し た ば か り で な く、 一 八 五 〇 年 頃 ま で に、 旧 来 の 職 人 を い まさら手のつけようのないまでに毒してしまった。……純粋な形状、純粋な原料、純粋な装飾文様の美に対する職 人 の 不 感 症 は 想 像 を 絶 す る 」 (7 ( と 記 し て、 ペ ヴ ス ナ ー は 博 覧 会 出 品 の 絨 毯、 肩 掛 け、 各 種 銀 器 を 実 例 に、 「 ど の よ う な観点から考えても誤りであり、無残きわまりない、支離滅裂だ」と酷評した。陰影を強調しようとするあまり浅 彫を深くすればするほど、生気に欠け重苦しくなるばかりの惨めさを嘆いたのだった(図 1、 2)。 ウォルター・クレイン(一八四五─一九一五)も同様に「擬古典様式の長椅子や腰掛けの優雅な線と脚はヴィク トリア朝の製造業者の手によって痛風まがいのぶざまな姿になりはてた。図版入り一八五一年の博覧会図録は家具 と装飾における怪物顔負けの不気味さを嫌というほど明らかにしたが、それが芸術的と受け入れられた。解体はす で に 行 き 着 く と こ ろ ま で 進 行 し て、 お そ ら く 家 具、 衣 服、 装 飾 に み ら れ る 前 例 の な い 醜 悪 さ の 時 代 が 始 ま っ て い た 」 (8 ( と手厳しい。万国博覧会が大成功を収めたといわれながら、その反面じつに皮肉なことに、それが一面におい て暴露したものは、イギリスのデザインの無秩序と混沌の現状と目前の利益に拘泥する製造業者の実態だった。 こうした現状を打破する試みは、ヴィクトリア朝中期、美術工芸家・手工業製造者などを中心にさまざまな方面 で、ロンドンをはじめイギリス各地で自覚的に展開され、ことあるごとに美術教育の改善、美術館・博物館の開設 などが喧伝された。にもかかわらず、だれも根元を掘り起こすことなしに、ただ近視眼的にデザインの改善を口に するばかりだった。
図1 1851 年ロンドン大博覧会に出品された絨毯
ペヴスナーは、A ・ W ・ N ・ ピュージンの主導したゴシック建築をめぐるそのデザインは「たとえオーエン ・ ジョー ンズのデザインの前触れとなり、確実にそれを凌駕し、モリスのデザインの先駆けにすらなったとしても、それは あくまで過去の忠実な模倣の域にとどまっていた」と述べ た (9 ( 。 続けて、ペヴスナーは「モリスをデザインの改革者としてコール・グループとピュージンに勝る高い地位に押し 上げた所以は、たんにモリスがデザイナーとして真実の天才であって、彼らがそうではなかったという事実に拠る だけではなく、ただモリスひとりが、一つの時代の芸術とその時代の社会組織とは一体不可分であるという、彼ら には持ちえなかった認識を持つことができたからだった 」 (10 ( と論じた。モリスの認識は時代の中でひとり際立ち、そ の 時、 こ の 天 才 は 否 応 な し に、 博 覧 会 が 明 示 し た 先 例 の な い 諸 問 題 の 解 決 と い う 難 題 を ひ と り 抱 え こ ん だ の だ っ た。 「 モ リ ス ひ と り が 」、 「 ひ と り 際 立 ち 」、 「 難 題 を ひ と り 抱 え こ ん だ 」 と す る な ら、 モ リ ス が ヴ ィ ク ト リ ア 朝 デ ザ イ ンの領域で転換点を画した、という理解が成り立つと考えたくなる。しかも、モリスには最初期三点の壁紙が今な お世界中で高い評価を維持しているという実績がある。しかし、である。モリスの三点は「同時代のデザイナーか ら完全に無視され、売れ行きも数年間振るわなかった 」 (11 ( 、「転換点などとはとんでもない」とする見解がある。ポー ル・トムソンである。 デザイン上の転換点を語って、ポール・トムソンは、万国博覧会の翌一八五二年、ヴィクトリア・アンド・アル バート博物館設立一〇〇周年を記念して開催された「ヴィクトリア朝及びエドワード朝装飾芸術展」こそが転換点 で あ る と す る。 伝 記 作 家 P ・ ヘ ン ダ ー ソ ン も こ れ に 同 調 す る よ う な か た ち で、 同 展 の カ タ ロ グ か ら「 ひ と り モ リ ス の仕事をもってヴィクトリア朝のデザインの復興が果たされたとする神話を最終的に打破したのが、まさにこの展
覧会だった」の文言を引いてい る (12 ( 。 展 覧 会 を 企 画・ 組 織 し た の は、 ヴ ィ ク ト リ ア・ ア ン ド・ ア ル バ ー ト 博 物 館 の 普 及 部 長 ピ ー タ ー・ フ ラ ッ ド ( 一 九 一 二 ─ 六 〇 ) だ っ た。 モ リ ス の デ ザ イ ン 作 品 に つ い て、 そ の 帰 属、 製 作 年 代 の 確 定 な ど 手 堅 い 実 証 的 研 究 で 知 ら れ、 「 今 日 で も そ の 仕 事 以 上 の も の は 出 て い な い 」 (13 ( と 小 野 に い わ し め る モ リ ス・ デ ザ イ ン 研 究 の 泰 斗 で あ る。 フラッドは、コール・グループといわれるデザイナーたちを念頭におきながら、イギリス・デザインの混乱と貧弱 を改善しようとした、モリスに先駆けたデザイナーたちが看過できない仕事を残していることを、この展覧会を通 じて明らかにしたのだった。 なるほどオーエン・ジョーンズらコール・グループの先行者たちは、完璧な平面上に様式化された幾何学模様を 明るい淡い色調で印刷するパタン・デザインを主張し実践して、ヴィクトリア朝盛期の典型とされる従来のデザイ ン に 大 き な 革 新 を も た ら し た。 だ が 小 野 は、 そ の こ と を 承 知 の う え で、 ピ ー タ ー・ フ ラ ッ ド の、 「 デ ザ イ ン を 始 め たとき、モリスはこの革新運動を継承・強化するどころか、実はそれに逆行し、ある程度、時代の歯車を逆転させ たのだ」 という「新説」に違和感を表明した。 フ ラ ッ ド の「 新 説 」 は、 『 リ ス ナ ー』 誌 上 に「 一 装 飾 芸 術 家 と し て の ウ ィ リ ア ム・ モ リ ス ─ ひ と つ の 新 説 」 と し て 明 ら か に さ れ た (14 ( 。 ヴ ィ ク ト リ ア 朝 中 期 を 支 配 し て い た デ ザ イ ン と は、 「 写 実 に 徹 し た 細 部 と 高 浮 き 彫 り と 深 い 影 によって完璧なまでに描かれた、キャベツにも似た薔薇の花束が這いまわる俗悪な図柄で、しかも、しばしばリボ ンの花綱やときには重々しい球根さながらの品のないロココ風の渦巻装飾と結び会い、大抵の場合、暗緑色とか栗 色のいかにも濃厚な色彩が施されている、そんなデザインだった」 。 そ れ に 異 を 唱 え た の が、 ピ ュ ー ジ ン や オ ー エ ン・ ジ ョ ー ン ズ ら、 モ リ ス に 先 行 し た デ ザ イ ナ ー た ち で、 彼 ら は、
正反対に「幾何学的ないしは高度に様式化された、通常は小幅な反復するデザイン、軽快な明るい色調の刷りと浮 彫 り と 深 み の 感 覚 を 排 除 す る こ と を 特 質 と し た デ ザ イ ン を 主 張 し た 」。 フ ラ ッ ド に 言 わ せ れ ば、 こ の 主 張 こ そ が 「 一 八 五 〇 年 と 六 〇 年 の 間 に 起 こ っ た 真 の デ ザ イ ン 革 新 で あ る が、 に も か か わ ら ず、 …… ヴ ィ ク ト リ ア 朝 の 趣 味 に 関 す る す べ て の 書 物 が こ の 事 実 を 完 全 に 無 視 し た の で あ る 」 し か も こ の 事 態 は 以 後 改 善 さ れ る ど こ ろ か、 お よ そ 一〇〇年間、フラッドの指摘まで、どの伝記作家も研究者も「この件に関していまのところ格別新事実はないこと を 暗 示 す る 」 (15 ( に と ど ま っ て い た の で あ る。 フ ラ ッ ド は、 「 時 代 の 歯 車 を 逆 転 さ せ た 」 モ リ ス の 位 置 づ け を 彼 な り に 次のように表現した 。 (16 ( モリスは革命的先駆者・革新者としてではなく、むしろ時代の偉大な古典的デザイナーとみなさるべきであ る。つまり世人がデザインに関する諸問題の解答を新奇と非正統に求めていたときに、純粋にパターンの美と 卓越性によって影響力を発揮することができた人物としてみなさるべきである。モリス・デザインの最良が時 間を超えた驚異の存在であり、また今日使用しても古めかしさを感じさせないのは、まぎれもなくこの古典的 特質のしからしめるところなのである。 じ つ は 先 刻 名 を 挙 げ た ポ ー ル・ ト ム ソ ン は こ の フ ラ ッ ド に 影 響 さ れ た。 「 フ ラ ッ ド と そ の 同 僚 が モ リ ス と ヴ ィ ク トリア期の複雑な関係を初めて明らかにしてくれた 」 (17 ( 、と言う。トムソンによれば、 「先行者たち」のデザイン革新 は、モリスが壁紙のデザインを始める以前に開始されていて、すでに「重要な変革」をもたらしていたとする。彼 らは写実的デッサンによる、高浮彫りの、栗色と暗緑色という不快な色調の初期ヴィクトリア朝壁紙をけなし、壁