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Vol.65 , No.1(2016)085柳 幹康「栄西と『宗鏡録』――『興禅護国論』における『宗鏡録』援用――」

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Academic year: 2021

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(1)

栄西と『宗鏡録』

――『興禅護国論』における『宗鏡録』援用――

柳  幹 康

はじめに

本論文では,『興禅護国論』(以下『護国論』)における『宗鏡録』の援用状況を 精査し,栄西が『宗鏡録』を用いた意図・背景に分析を加える. 『宗鏡録』は五代十国時代に活躍した呉越国の禅僧永明延寿えいめいえんじゅ(904–976)の主著で あり,その内容は禅宗所伝の一心を核に唐代以前の多元的仏教を一元的に統合す るものとなっている.その成立は 961–964 年で,禅宗が仏教界を席巻する北宋に なると仏教の正統説と公認されて大蔵経に収められ,その後次第に諸宗融合の道 をたどる中国仏教にその理論的根拠を提供し珍重された1).また高麗・日本にも 早くに伝わり受容され,その影響は東アジア全体に及ぶ2).かかる『宗鏡録』の 受容状況を分析することは,各地の仏教を理解するうえでも,また東アジアの仏 教全体を展望するうえでも,ともに重要である. 栄西(1141–1215)は平安末から鎌倉にいたる動乱期に活躍した高僧であり,比 叡山の教学が細分化する時代にあって二度入宋して虚庵懐敞(生没年未詳)から臨 済宗黄竜派の禅法を承け,帰国後総合的仏教を宣揚した.日本臨済宗の祖として 今日広く知られるが,二度の入宋のいずれもが必ずしも参禅を目的としていなかっ たこと,彼が後に開いた建仁寺が真言・止観・禅の三宗を兼修する総合的道場で あったこと,その生涯を通じて密教に関する著作を多く残したことなどから分か るように,その立場は禅のみに限定されない3).近年では栄西の著作が複数新た に発見されたこともあり,その思想の見直しが多角的に進められている4) 拙論で分析対象にとりあげる『護国論』は,比叡山から禅宗批判を受けた栄西 が,禅の正当性を明かすため 1198 年 58 歳の時に編んだと目される書物である5) その 7 年前の秋,栄西は二度目の入宋より帰国して長崎の平戸葦浦に着き,翌月 同地の小院に迎えられ禅規を行うとともに,その翌年筑前香椎神宮の側に建久報 恩寺を開き菩薩大戒の布薩を行った.その経歴に鑑みてこの菩薩大戒は,栄西自 況を考えれば,これは南條文雄の同名の書(能潤会,1886)ではなく,1876 年 9 月に 西本願寺飛雲閣で行われた島地,渥美契縁,赤松とギメとの問答を記録した干河貫一 の『問対略記』(1877)である蓋然性が高い. 14)注 6 参照. 〈参考文献〉 石井公成 2008「明治期における海外渡航僧の諸相――北畠道龍,小泉了諦,織田得能, 井上秀天,A・ダルマパーラ――」『近代仏教』15: 1–24. 奥山直司 2004「ランカーの八僧――明治二十年代前半の印度留学僧の事績――」『仏教文 化学会十周年北條賢三博士古稀記念論文集 インド学諸思想とその周延』山喜房仏書林, 86–103. ――― 2009「明治インド留学生が見た『比叡』と『金剛』の航海」『アジア文化研究所研 究年報』43: 65–81. ――― 2013「明治インド留学生――興然と宗演――」田中雅一・奥山直司編『コンタク ト・ゾーンの人文学』VI:Postcolonial/ポストコロニアル,晃洋書房,229–257. ――― 2015「善連法彦と『土耳其行紀事』」『アジア文化研究所研究年報』49: (222)–(238). ――― 2016「明治印度留学生――その南アジア体験をめぐって――」『印仏研』64 (2): 1042–1035. 小泉了慧 1986『50 回忌法要記念 椰陰道人小泉了諦遺品遺墨展』私家版. 小泉了海 1970『小泉了諦小伝』法林寺親近会. 仁愛女子高等学校百年史編纂委員会編 1998『仁愛女子高等学校百年史』仁愛女子高等 学校. 大門照忍 1972「パリの報恩講」『大谷学報』51 (4): 97–99. 千葉乗隆 1994「一八九一年,パリの報恩講」『中西智海先生還暦記念論文集 親鸞の仏教』 永田文昌堂,799–817. 中川正法 2014「博多萬行寺所蔵シンハラ文字資料について――小泉了諦と七里恒順――」 中川正法・緒方知美・遠藤一編『九州真宗の源流と水脈』法蔵館,253–277.

Labrousse, Pierre. 1995. Langues O’l 1795–1995, deux siècles d’histoire de l’École des Langues Orientales. Paris: INALCO-Éditions Hervas.

Millioud, Alfred, trans. 1892a. “Esquisse des huit sectes bouddhistes du japon par Gyau-nen, de la secte Kegon (1289.ap.J.-C).” Revue de l’histoire des religions 25: 219–243, 337–360. ――― . 1892b. “Esquisse des huit sectes bouddhistes du japon par Gyau-nen, de la secte Kegon

(1289.ap.J.-C).” Revue de l’histoire des religions 26: 201–219, 279–315.

Toki, Horiou, S. Kawamura, and L. de Milloué. 1899. Si-do-in-dzou: Gestes de l’officiant dans les cérémonies mystiques des sects Tendaï et Singon. Paris: E.Leroux.

〈キーワード〉 小泉了諦,善連法彦,トルコ,Alfred Millioud,ギメ博物館,報恩講 (高野山大学教授)

(2)

本論

『護国論』は十門よりなり,うち『宗鏡録』援用は第三世人決疑門の余に三例, 第七大綱勧参門に一例みえる7).以下順次分析を加える. 最初の二例は一対の問答のなかに見える.その問いとは,禅に対する天台側の 詰問であり,「此の宗(=禅)既に不立文字と言えるに,是れ殆ほとんど悪取空並ならびに暗 証の類に同じなり.若し爾しからば,天台宗之これを破す」(107)と述べ8),禅を「悪取 空」「暗証」と非難する.それに対し栄西は「此の禅宗とは,其の暗証の師を悪にく み,悪取空の人を嫌うこと,宛あたかも大海底の死屍を厭いとうが如きなり」(107)と正面 から否定し,その根拠として『宗鏡録』からふたつの文章を引いている.第一例 は以下の通り. 宗鏡録に云く,「理は実に縁に応じて,事を礙さまたぐるの理無く,事は理に因よりて立ち,理を 失うの事無し.如今い ま円信に入らざる者,皆な自ら下凡なりと鄙いやしみ,遠く極聖を推す. 斯これ乃ち唯だ事を失うのみにあらず,理も亦また全く無し.但ただ一心の礙げ無く自在なる 宗を悟らば,自然おのずから理と事と融通し,真と俗と交徹せん.若し事に執して理に迷わば, 永劫に沈淪せん.或は理を悟りて事を遺やらば,此れ円証に非ず.何となれば,理と事と 自心を出でず,性と相と寧なんぞ一旨に乖そむかん.若し宗鏡に入りて真心を頓悟せば,尚お非理 非事の文無し.豈に若理若事の執有らんや.但だ本を得るの後,亦た円修を廃せざれ. 盲禅闇証の徒の若きは,焉いずくんぞ六即を知らん.狂慧徇文の士は,奚なんすれぞ一心を識らん. 如今い ま但だ先に円信無疑たらしめよ,自ら観行の位に居せん.古人云く,『一生弁べんず可べ し』と.豈に虚言ならんや」文.      (107) これは『宗鏡録』(巻 15:T48. 496b–c)が自身の立場から天台の教理「六即」や『摩 訶止観』の句「一生弁べんず可べし」(巻 6 下:T46. 80c)を用いた一段の節略引用であ る.ここでは理(真理)と事(事象)が交り合い,かつともに『宗鏡録』が宗に立 てる一心に帰すと説いたうえで,禅宗はその一心を悟った後も事を撥無せず「六 即」を修し,たとい悟らずともその道理を信じて「観行」を行うのだと述べる. これは禅が天台の批判する「悪取空」に当たらぬと論じるものである.「悪取 空」とは悪しき空見に陥ることで,『摩訶止観』では「六即」に基づく修行の過程 を説明したうえで「今ま人祇ただ悪を捨て空を取るは是れ大乗なりと謂おもうも,此の 空も尚なお六十二見単複の悪を免れず」と述べ,「六即」を理解しない者が悪しき空 見に陥ると明言する(巻 7:T46. 100b).つまり栄西は禅の立場から「六即」と『摩 訶止観』を解釈する『宗鏡録』の一段を引くことで,自身が新たに伝える禅宗が 天台の聖典『摩訶止観』に合致することを論証しようとしているのである.これ 身が師の虚庵懐敞から受けた禅宗の『禅苑清規』にもとづく梵網戒であったと考 えられる.このような栄西の禅法宣揚は同地の天台僧良弁(生没年未詳)の反感を まねき,彼が動員した僧徒の上奏により朝廷は禅宗停止の宣旨を下した.この点 について鎌倉後期に編まれた歴史書『百錬抄』の建久 5 年(1194)7 月 5 日条に は,「入唐上人栄西と在京上人能忍等,達磨宗を建立せしめんとの由の風聞,停止 せらるべきの旨,天台宗僧徒奏聞す云々.停止に従うべきの趣,宣下せらる云々」 とある(新訂増補国史大系 11・125 頁).これに対し栄西が反論のために著したのが 『護国論』であり,自身の伝える禅宗が能忍(生没年未詳)のものとは異なること, 天台側の非難が当たらぬこと,むしろ禅を興こすことこそが国を護る道であるこ とを論じる.その立論に用いられる文献のひとつが『宗鏡録』である. 『護国論』における『宗鏡録』援用については,夙に和田[2006: 63, 75]が「禅 が教・戒律を包摂し,事・理を欠けることなく保持する教えであるということの 根拠となって」おり,かかる総合的な禅宗観は栄西のみならず中世臨済僧にひろ く共有されていたという重要な指摘をしている.ただし和田氏の主眼は従来の説 ――栄西の雑駁な「兼修禅」は後の「純粋禅」に劣ると看る図式――の再検討に あり,『護国論』に見える『宗鏡録』援用全四例のうち取り上げるのは論述に直接 関連する一例のみである.先行研究をかえりみても本書における『宗鏡録』援用 について個々の言及はあっても,その援用の全てを詳細に検討し両書の関係を論 じたものは管見の限りない6).それに対し拙論では四例全てに分析を加え,当時 の時代背景をふまえながら援用の意図を考察する. もちろん『宗鏡録』は『護国論』に引かれる複数の文献のひとつに過ぎず,そ れのみをもって栄西の思想全体を語れるわけではない.だが和田氏の言う中世臨 済僧の間で共有された総合的禅宗観が大陸由来のものであること,円爾(1202– 1280)や夢窓疎石(1275–1351)及びその門下など栄西に続く臨済僧が『宗鏡録』を 引用乃至重視したように,当時の総合的禅宗観が往々にして『宗鏡録』により宣 揚されたことに鑑みれば,栄西の『宗鏡録』援用の分析は中世臨済禅の展開を理 解するうえで重要な作業と言える. なお『護国論』の成立について今枝[1985: 1337]は後代の仮託とするが,末 木[2008: 102–167]が反駁するように,従来の見方通り栄西の真撰と看てよいも のと考える.ただし仮に『護国論』が後代の仮託であったとしても,日本臨済宗 の祖に後世推戴された栄西と『宗鏡録』の関係がいかに理解されるに至ったのか という点で,『護国論』における『宗鏡録』援用は興味深い事例と言えよう.

(3)

本論

『護国論』は十門よりなり,うち『宗鏡録』援用は第三世人決疑門の余に三例, 第七大綱勧参門に一例みえる7).以下順次分析を加える. 最初の二例は一対の問答のなかに見える.その問いとは,禅に対する天台側の 詰問であり,「此の宗(=禅)既に不立文字と言えるに,是れ殆ほとんど悪取空並ならびに暗 証の類に同じなり.若し爾しからば,天台宗之これを破す」(107)と述べ8),禅を「悪取 空」「暗証」と非難する.それに対し栄西は「此の禅宗とは,其の暗証の師を悪にく み,悪取空の人を嫌うこと,宛あたかも大海底の死屍を厭いとうが如きなり」(107)と正面 から否定し,その根拠として『宗鏡録』からふたつの文章を引いている.第一例 は以下の通り. 宗鏡録に云く,「理は実に縁に応じて,事を礙さまたぐるの理無く,事は理に因よりて立ち,理を 失うの事無し.如今い ま円信に入らざる者,皆な自ら下凡なりと鄙いやしみ,遠く極聖を推す. 斯これ乃ち唯だ事を失うのみにあらず,理も亦また全く無し.但ただ一心の礙げ無く自在なる 宗を悟らば,自然おのずから理と事と融通し,真と俗と交徹せん.若し事に執して理に迷わば, 永劫に沈淪せん.或は理を悟りて事を遺やらば,此れ円証に非ず.何となれば,理と事と 自心を出でず,性と相と寧なんぞ一旨に乖そむかん.若し宗鏡に入りて真心を頓悟せば,尚お非理 非事の文無し.豈に若理若事の執有らんや.但だ本を得るの後,亦た円修を廃せざれ. 盲禅闇証の徒の若きは,焉いずくんぞ六即を知らん.狂慧徇文の士は,奚なんすれぞ一心を識らん. 如今い ま但だ先に円信無疑たらしめよ,自ら観行の位に居せん.古人云く,『一生弁べんず可べ し』と.豈に虚言ならんや」文.      (107) これは『宗鏡録』(巻 15:T48. 496b–c)が自身の立場から天台の教理「六即」や『摩 訶止観』の句「一生弁べんず可べし」(巻 6 下:T46. 80c)を用いた一段の節略引用であ る.ここでは理(真理)と事(事象)が交り合い,かつともに『宗鏡録』が宗に立 てる一心に帰すと説いたうえで,禅宗はその一心を悟った後も事を撥無せず「六 即」を修し,たとい悟らずともその道理を信じて「観行」を行うのだと述べる. これは禅が天台の批判する「悪取空」に当たらぬと論じるものである.「悪取 空」とは悪しき空見に陥ることで,『摩訶止観』では「六即」に基づく修行の過程 を説明したうえで「今ま人祇ただ悪を捨て空を取るは是れ大乗なりと謂おもうも,此の 空も尚なお六十二見単複の悪を免れず」と述べ,「六即」を理解しない者が悪しき空 見に陥ると明言する(巻 7:T46. 100b).つまり栄西は禅の立場から「六即」と『摩 訶止観』を解釈する『宗鏡録』の一段を引くことで,自身が新たに伝える禅宗が 天台の聖典『摩訶止観』に合致することを論証しようとしているのである.これ 身が師の虚庵懐敞から受けた禅宗の『禅苑清規』にもとづく梵網戒であったと考 えられる.このような栄西の禅法宣揚は同地の天台僧良弁(生没年未詳)の反感を まねき,彼が動員した僧徒の上奏により朝廷は禅宗停止の宣旨を下した.この点 について鎌倉後期に編まれた歴史書『百錬抄』の建久 5 年(1194)7 月 5 日条に は,「入唐上人栄西と在京上人能忍等,達磨宗を建立せしめんとの由の風聞,停止 せらるべきの旨,天台宗僧徒奏聞す云々.停止に従うべきの趣,宣下せらる云々」 とある(新訂増補国史大系 11・125 頁).これに対し栄西が反論のために著したのが 『護国論』であり,自身の伝える禅宗が能忍(生没年未詳)のものとは異なること, 天台側の非難が当たらぬこと,むしろ禅を興こすことこそが国を護る道であるこ とを論じる.その立論に用いられる文献のひとつが『宗鏡録』である. 『護国論』における『宗鏡録』援用については,夙に和田[2006: 63, 75]が「禅 が教・戒律を包摂し,事・理を欠けることなく保持する教えであるということの 根拠となって」おり,かかる総合的な禅宗観は栄西のみならず中世臨済僧にひろ く共有されていたという重要な指摘をしている.ただし和田氏の主眼は従来の説 ――栄西の雑駁な「兼修禅」は後の「純粋禅」に劣ると看る図式――の再検討に あり,『護国論』に見える『宗鏡録』援用全四例のうち取り上げるのは論述に直接 関連する一例のみである.先行研究をかえりみても本書における『宗鏡録』援用 について個々の言及はあっても,その援用の全てを詳細に検討し両書の関係を論 じたものは管見の限りない6).それに対し拙論では四例全てに分析を加え,当時 の時代背景をふまえながら援用の意図を考察する. もちろん『宗鏡録』は『護国論』に引かれる複数の文献のひとつに過ぎず,そ れのみをもって栄西の思想全体を語れるわけではない.だが和田氏の言う中世臨 済僧の間で共有された総合的禅宗観が大陸由来のものであること,円爾(1202– 1280)や夢窓疎石(1275–1351)及びその門下など栄西に続く臨済僧が『宗鏡録』を 引用乃至重視したように,当時の総合的禅宗観が往々にして『宗鏡録』により宣 揚されたことに鑑みれば,栄西の『宗鏡録』援用の分析は中世臨済禅の展開を理 解するうえで重要な作業と言える. なお『護国論』の成立について今枝[1985: 1337]は後代の仮託とするが,末 木[2008: 102–167]が反駁するように,従来の見方通り栄西の真撰と看てよいも のと考える.ただし仮に『護国論』が後代の仮託であったとしても,日本臨済宗 の祖に後世推戴された栄西と『宗鏡録』の関係がいかに理解されるに至ったのか という点で,『護国論』における『宗鏡録』援用は興味深い事例と言えよう.

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禅戒を捐すて真智を非とする人をや.       (108) 『宗鏡録』の当該箇所(巻 46:T48. 689a–b)は,同じ延寿の著作『唯心訣』(同 995c– 996b)に見える邪見 120 種を破却する一段からの引用であり,『護国論』はそのう ちの二見――無事を装い修行を放棄すること,煩悩のままに振る舞い本性空をあ てにすること――を抄録し,禅宗が修行・禅戒の軽視を斥けることの根拠とする. なお古瀬[2013]は「妄みだりに禅宗を称して名づけて達磨宗と曰う」「或る人」を能 忍と看る従来の見方に反対し,その根拠として(1)能忍の名が直接見えないこ と,(2)能忍自身の説が『護国論』の叙述と異なることを挙げるが,(1)直接名 が挙げられないからといって,それが能忍でないとは言いきれない.また末木 [2016]が論じるように,(2)批判する側の概括と批判される側の説が食い違うこ とは十分に有り得ることであり,当時ともに禁止された栄西と能忍が第三者によっ て同じ「達磨宗」と解されていたこと(冒頭所引『百錬抄』),そのため栄西は自身 と能忍を峻別する必要に迫られていたことに鑑みれば,それが能忍である可能性 は高い.そこで拙論では従来の見解通り,『護国論』の言う「或る人」は能忍を指 すと看る.なお「達磨宗」の「宗」が所謂「宗派」ではなく「教え」の意である ことは,古瀬氏が指摘する通りである. 最後の第四例は第七大綱勧参門における言及である.そこでは仏道修行の綱要 として(1)約教分・(2)約禅分・(3)約総相の三種を挙げ,それぞれ(1)教説 を通じて仏教に対する理解を深める鈍根むけの方便,(2)教説に執われることな く真理に参じる最上利根むけの道,(3)前二種の区別を超える真の禅宗の立場, とされる.このうち(1)約教分について以下のようにいう. 初めに約教分とは,諸教を謂いうなり.鈍根の人,先に諸教諸宗の妙義を伺い,禅の旨帰 を学ぶ.修入の方便と為すなり.宗鏡録,六十部の経論を引き三宗の妙義を蘊あつめ,三百 余家の語句を註し,以て宗旨を釈す,是れなり.       (113) 『宗鏡録』は作者の延寿が自ら「一心を挙げて宗と為し,万法を照らすこと鏡の如 し.古製の深義を編聯あ つめ,宝蔵の円詮を撮略かいつまみ,同じく此に顕揚か かぐ,之を称して 録と曰いう」と解題する通り(序:T48. 417a),仏教の核心にして禅宗所伝の真理た る「一心」を明かす為に仏教書から遍く要文を集め録した書物であり,最上の機 根のものを直接の対象とする一方で,未だ悟入せぬ鈍根の者に対しても「教理を 仮かりて以て発明さ とらしむ」方便を提供するものであった9).それに対し『護国論』 に続けて第二の『宗鏡録』引用が見える. 又た云く,「台教に二種の止観を明かす.一に相待止観,二に絶待止観…….相待に三 止・三観有り.……絶待に三止・三観有り.……今ま宗鏡は唯だ一心円頓の旨のみを論 ず.円頓止観の如きは,止を以て諦に縁ずれば則ち一諦にして三諦,諦を以て止に繫かく れば則ち一止にして三止,観を以て境を観ずれば則ち一境にして三境,境を以て観を発 すれば則ち一観にして三観なり.摩醯首羅ま け い し ゅ ら面上の三目の如し,是れ三目なりと雖も而れ ども是れ一面,一を挙ぐれば即ち三,三を全うして是れ一,縦ならず横ならず,並なら ず別ならず.前の諸義を総べて皆な一心に在り.其の相,云何」等文.   (107–108) これは先の引用文中の「観行」を承けて更に引かれたもので,『宗鏡録』(巻 82: T48. 866b–c)が自身の立場から『摩訶止観』巻 3 上の前半(T46. 21b–25b)を節略引 用する一段である.すなわち『宗鏡録』は,「台教」すなわち天台の教え――止観 には相待・絶待の二種があり,それぞれ三止と三観に分かれるが,いずれも一心 に集約されるという説――を引用しつつ,下線部「今ま宗鏡は唯だ一心円頓の旨 をのみ論ず」という一文を加えることで,『宗鏡録』こそが天台教学の核心たる一 心を端的に明かすと明言するのである.なお『摩訶止観』が十種の観行を列挙し たうえで「闇証の禅師,誦文の法師の能く知る所に非ざるなり」と述べ(巻 5 上: T46. 52b),『護国論』(107)にもこの文が引かれることを踏まえれば,栄西は『宗 鏡録』より上の一段を引くことで,自身が伝える禅宗こそが天台の観行の核心を 明かすものであり,「闇証」の批判には当たらぬと主張していることが分かる.実 際『護国論』では以上の二段を引いたうえで,「是ここに知んぬ,此の宗(=禅)は暗 証に非ず,亦また悪取空に非ず,亦た仮名の法に非ざるを」(108)と反論を結んでいる. 第三例はともに禁止された能忍との差異化を図るために援用されたものである. 先に見た問答に続き以下の問いが立てられる.いわく,「或る人妄みだりに禅宗を称し て名づけて達磨宗と曰いう.而して自ら云く,『行無なく修無し,本より煩悩無く元もと より是れ菩提なり.是の故に事戒を用いず事行を用いず,但ただ応に偃臥を用うべ し.何ぞ念仏を修し舎利を供し長斎節食するを労せんや』と」(108).これに対し 栄西は,それを「悪として造なさざる無」く「事理の行を廃し,以て邪見の網に繫か かるの人なり,此の人を号して悪取空の師と為す,是れ仏法中の死屍なり」(108) と口を極めて非難したうえで,以下のように『宗鏡録』を引いている. 宗鏡録に一百二十見を破する中に云く,「或は無礙に傚ならいて修行を放捨し,或は結使に 随 したがっ て本性空を恃たのむ.並びに是れ宗に迷い旨を失い,湛に背き真に乖そむき,氷を敲たたいて火 を索もとめ,木に縁よりて以て魚を求むる者なり」文.此れ即ち無行の人を悪にくむなり.況んや

(5)

禅戒を捐すて真智を非とする人をや.       (108) 『宗鏡録』の当該箇所(巻 46:T48. 689a–b)は,同じ延寿の著作『唯心訣』(同 995c– 996b)に見える邪見 120 種を破却する一段からの引用であり,『護国論』はそのう ちの二見――無事を装い修行を放棄すること,煩悩のままに振る舞い本性空をあ てにすること――を抄録し,禅宗が修行・禅戒の軽視を斥けることの根拠とする. なお古瀬[2013]は「妄みだりに禅宗を称して名づけて達磨宗と曰う」「或る人」を能 忍と看る従来の見方に反対し,その根拠として(1)能忍の名が直接見えないこ と,(2)能忍自身の説が『護国論』の叙述と異なることを挙げるが,(1)直接名 が挙げられないからといって,それが能忍でないとは言いきれない.また末木 [2016]が論じるように,(2)批判する側の概括と批判される側の説が食い違うこ とは十分に有り得ることであり,当時ともに禁止された栄西と能忍が第三者によっ て同じ「達磨宗」と解されていたこと(冒頭所引『百錬抄』),そのため栄西は自身 と能忍を峻別する必要に迫られていたことに鑑みれば,それが能忍である可能性 は高い.そこで拙論では従来の見解通り,『護国論』の言う「或る人」は能忍を指 すと看る.なお「達磨宗」の「宗」が所謂「宗派」ではなく「教え」の意である ことは,古瀬氏が指摘する通りである. 最後の第四例は第七大綱勧参門における言及である.そこでは仏道修行の綱要 として(1)約教分・(2)約禅分・(3)約総相の三種を挙げ,それぞれ(1)教説 を通じて仏教に対する理解を深める鈍根むけの方便,(2)教説に執われることな く真理に参じる最上利根むけの道,(3)前二種の区別を超える真の禅宗の立場, とされる.このうち(1)約教分について以下のようにいう. 初めに約教分とは,諸教を謂いうなり.鈍根の人,先に諸教諸宗の妙義を伺い,禅の旨帰 を学ぶ.修入の方便と為すなり.宗鏡録,六十部の経論を引き三宗の妙義を蘊あつめ,三百 余家の語句を註し,以て宗旨を釈す,是れなり.       (113) 『宗鏡録』は作者の延寿が自ら「一心を挙げて宗と為し,万法を照らすこと鏡の如 し.古製の深義を編聯あ つめ,宝蔵の円詮を撮略かいつまみ,同じく此に顕揚か かぐ,之を称して 録と曰いう」と解題する通り(序:T48. 417a),仏教の核心にして禅宗所伝の真理た る「一心」を明かす為に仏教書から遍く要文を集め録した書物であり,最上の機 根のものを直接の対象とする一方で,未だ悟入せぬ鈍根の者に対しても「教理を 仮かりて以て発明さ とらしむ」方便を提供するものであった9).それに対し『護国論』 に続けて第二の『宗鏡録』引用が見える. 又た云く,「台教に二種の止観を明かす.一に相待止観,二に絶待止観…….相待に三 止・三観有り.……絶待に三止・三観有り.……今ま宗鏡は唯だ一心円頓の旨のみを論 ず.円頓止観の如きは,止を以て諦に縁ずれば則ち一諦にして三諦,諦を以て止に繫かく れば則ち一止にして三止,観を以て境を観ずれば則ち一境にして三境,境を以て観を発 すれば則ち一観にして三観なり.摩醯首羅ま け い し ゅ ら面上の三目の如し,是れ三目なりと雖も而れ ども是れ一面,一を挙ぐれば即ち三,三を全うして是れ一,縦ならず横ならず,並なら ず別ならず.前の諸義を総べて皆な一心に在り.其の相,云何」等文.   (107–108) これは先の引用文中の「観行」を承けて更に引かれたもので,『宗鏡録』(巻 82: T48. 866b–c)が自身の立場から『摩訶止観』巻 3 上の前半(T46. 21b–25b)を節略引 用する一段である.すなわち『宗鏡録』は,「台教」すなわち天台の教え――止観 には相待・絶待の二種があり,それぞれ三止と三観に分かれるが,いずれも一心 に集約されるという説――を引用しつつ,下線部「今ま宗鏡は唯だ一心円頓の旨 をのみ論ず」という一文を加えることで,『宗鏡録』こそが天台教学の核心たる一 心を端的に明かすと明言するのである.なお『摩訶止観』が十種の観行を列挙し たうえで「闇証の禅師,誦文の法師の能く知る所に非ざるなり」と述べ(巻 5 上: T46. 52b),『護国論』(107)にもこの文が引かれることを踏まえれば,栄西は『宗 鏡録』より上の一段を引くことで,自身が伝える禅宗こそが天台の観行の核心を 明かすものであり,「闇証」の批判には当たらぬと主張していることが分かる.実 際『護国論』では以上の二段を引いたうえで,「是ここに知んぬ,此の宗(=禅)は暗 証に非ず,亦また悪取空に非ず,亦た仮名の法に非ざるを」(108)と反論を結んでいる. 第三例はともに禁止された能忍との差異化を図るために援用されたものである. 先に見た問答に続き以下の問いが立てられる.いわく,「或る人妄みだりに禅宗を称し て名づけて達磨宗と曰いう.而して自ら云く,『行無なく修無し,本より煩悩無く元もと より是れ菩提なり.是の故に事戒を用いず事行を用いず,但ただ応に偃臥を用うべ し.何ぞ念仏を修し舎利を供し長斎節食するを労せんや』と」(108).これに対し 栄西は,それを「悪として造なさざる無」く「事理の行を廃し,以て邪見の網に繫か かるの人なり,此の人を号して悪取空の師と為す,是れ仏法中の死屍なり」(108) と口を極めて非難したうえで,以下のように『宗鏡録』を引いている. 宗鏡録に一百二十見を破する中に云く,「或は無礙に傚ならいて修行を放捨し,或は結使に 随 したがっ て本性空を恃たのむ.並びに是れ宗に迷い旨を失い,湛に背き真に乖そむき,氷を敲たたいて火 を索もとめ,木に縁よりて以て魚を求むる者なり」文.此れ即ち無行の人を悪にくむなり.況んや

(6)

た栄西の年譜『日本禅宗始祖千光祖師略年譜』の建久九年の条に「興禅護国論を撰して 以て奏す」とあり(藤田琢司編『栄西禅師集』禅文化研究所,2014,772 頁),多賀[1965] も『護国論』の記載と時代背景に鑑み,建久 5・6 年から同 9 年頃までの成立と看たうえ で(98 頁),建久 9 年の成書と推定する(220 頁).   6)両書の関係を正面から論じ たものに高柳[2010]があるが,全ての援用例を取り上げてはいない.   7)常盤 [2004: 215]は第七門の余に引かれる『雑宝蔵経』の譬喩二例を『宗鏡録』巻 26(T48. 563b–c)からの転引とするが,同文が先行の『法苑珠林』巻 27(T53. 482c–483b)にも見 えそのいずれとも決しがたいため,拙論では分析対象から除いた.   8)『護国論』 の原文は日本思想大系 16『中世禅家の思想』(岩波書店,1972)所収のテキストによる. 以下同様.   9)柳[2015: 24–30].   10)高柳[2010: 142]はこれを「『宗鏡 録』の否定的な用例」と看るが,拙論では大綱のひとつに挙げられる点に鑑み,この理 解を採らない.   11)多賀[1965: 48–49].    〈参考文献〉 石井修道 1969「永明延寿伝――法眼宗三祖と蓮社七祖――」『駒沢大学大学院仏教学研究 会年報』3: 76–80. 今枝愛真 1985「『興禅護国論』『日本仏法中興願文』『興禅記』考」『史学雑誌』94 (8): 1325–1337. 椎名宏雄 2015「解題」同著者編『五山版中国禅籍叢刊 第四巻』臨川書店. 末木文美士 2008『鎌倉仏教展開論』トランスビュー. ――― 2016「日本における臨済宗の形成――新資料から見た禅宗と達磨宗」禅文化研究 所編『『臨済録』 国際学会論文集 附・資料編』(学会当日資料)臨済宗黄檗宗連合各派 合議所・花園大学,116–124. 多賀宗隼 1965『栄西』吉川弘文館. 高柳さつき 2010「達磨宗(能忍)から聖一派(円爾)に至る『宗鏡録』の一心思想の系 譜」『東アジア仏教研究』8: 135–147. 常盤義伸 2004「栄西『興禅護国論』の論旨要約と評」『禅文化研究所紀要』27: 199–223. 古瀬珠水 2013「再考――大日房能忍と 「達磨宗」 ――」『鶴見大学仏教文化研究所紀要』 18: 163–186. 柳幹康 2015『永明延寿と 『宗鏡録』 の研究――一心による中国仏教の再編――』法藏館. 楊曾文 2005「永明延寿及其著作」杭州仏学院編『永明延寿大師研究』宗教文化出版社, 453–462. 和田有希子 2006「鎌倉初期の臨済禅――栄西における持戒持斎の意味」『仏教史学研究』 49 (1): 59–79. (平成 28 年度科学研究費補助金(研究活動スタート支援 16H07336)の研究成果の一部) 〈キーワード〉 栄西,『宗鏡録』,『興禅護国論』 (花園大学国際禅学研究所専任研究員(専任講師),博士(文学)) はかかる方便の効用に着目し,『宗鏡録』の読誦を「修入の方便」に位置づける. それは「鈍根」むけの浅い教えではあるが,だからこそ「諸教諸宗の妙義を伺い, 禅の旨帰を学ぶ」仏道修行の入り口を万人に開く重要な書物となりうるので あった10) またこのような『宗鏡録』特筆の背景として注目すべきが,当時の日本では大 蔵経の閲覧が困難だったことである.栄西は二度目の入宋に備えて九州に滞在し ていた際,「一切経の渡海を待つの間徒然と ぜ ん」と時を過ごしており,ほぼ同時代の明 恵(1173–1232)や親鸞(1173–1262),日蓮(1222–1282)もみな大蔵経閲覧に苦労し ている11).このような時代にあって栄西が,経論から遍く要旨を抄録し百巻にま とめた『宗鏡録』を大綱の第一「約教分」の要に拠えたのも,理由あってのこと だったと言えよう.

むすび

拙論では『護国論』に見える『宗鏡録』援用四例を分析し,『宗鏡録』が(1) 禅を「悪取空」「暗証」とする天台宗の批判への反駁(第 1・2 例),(2)同時に禁 止された「無行無修」の能忍と自身を峻別する根拠(第 3 例)として用いられると ともに,(3)大蔵経閲覧が困難な時代にあって万人に「修入の方便」を開き禅の 宗旨を知らしめる教説の一大集成として重視されたこと(第 4 例)を明らかにし た.このように栄西は既存の天台宗の批判により能忍とともに禁止されるという 当時の特殊な状況にあって,自身が新たに伝えた禅が既存の諸宗に矛盾しない正 統な仏法であることを証明するための理論的根拠を『宗鏡録』に求めたのである. 1)中国仏教思想史に占める『宗鏡録』の位置については柳[2015]を参照.なお同書 318 頁では『宗鏡録』成立年を 961–976 年としたが,延寿の外護者である呉越国王銭弘俶 が同書に寄せた序文に見える肩書「天下大元帥」が 964 年以前に使われたものであるこ とから,その下限を 964 年まで引き上げられる.肩書の詳細については楊[2005: 455]・ 椎名[2015: 835]を参照.なお椎名氏は従来の 961 年成立説を採るが,この説は石井[1969] が指摘するように確固たる根拠を欠くため,ここではひとまず成書年を 961–964 年と する.   2)『宋高僧伝』巻 28 延寿伝には延寿在世時に時の高麗国王が『宗鏡録』を 見たとあり(T50. 887b),1094 年に日本で編まれた『東域伝灯目録』にも『宗鏡録』の書 名が見える(T55. 1164c).   3)多賀[1965: 40–41, 74].なお建仁寺における三宗兼 修は,比叡山からの排撃に対処したものであるが,それが栄西自身の立場にも反しなかっ た点については,同書 126–127 頁を参照.   4)中世禅籍叢刊編集委員会編『中世禅 籍叢刊』1 栄西集(臨川書店,2013)の総説・解題を参照.   5)江戸時代に編まれ

(7)

た栄西の年譜『日本禅宗始祖千光祖師略年譜』の建久九年の条に「興禅護国論を撰して 以て奏す」とあり(藤田琢司編『栄西禅師集』禅文化研究所,2014,772 頁),多賀[1965] も『護国論』の記載と時代背景に鑑み,建久 5・6 年から同 9 年頃までの成立と看たうえ で(98 頁),建久 9 年の成書と推定する(220 頁).   6)両書の関係を正面から論じ たものに高柳[2010]があるが,全ての援用例を取り上げてはいない.   7)常盤 [2004: 215]は第七門の余に引かれる『雑宝蔵経』の譬喩二例を『宗鏡録』巻 26(T48. 563b–c)からの転引とするが,同文が先行の『法苑珠林』巻 27(T53. 482c–483b)にも見 えそのいずれとも決しがたいため,拙論では分析対象から除いた.   8)『護国論』 の原文は日本思想大系 16『中世禅家の思想』(岩波書店,1972)所収のテキストによる. 以下同様.   9)柳[2015: 24–30].   10)高柳[2010: 142]はこれを「『宗鏡 録』の否定的な用例」と看るが,拙論では大綱のひとつに挙げられる点に鑑み,この理 解を採らない.   11)多賀[1965: 48–49].    〈参考文献〉 石井修道 1969「永明延寿伝――法眼宗三祖と蓮社七祖――」『駒沢大学大学院仏教学研究 会年報』3: 76–80. 今枝愛真 1985「『興禅護国論』『日本仏法中興願文』『興禅記』考」『史学雑誌』94 (8): 1325–1337. 椎名宏雄 2015「解題」同著者編『五山版中国禅籍叢刊 第四巻』臨川書店. 末木文美士 2008『鎌倉仏教展開論』トランスビュー. ――― 2016「日本における臨済宗の形成――新資料から見た禅宗と達磨宗」禅文化研究 所編『『臨済録』 国際学会論文集 附・資料編』(学会当日資料)臨済宗黄檗宗連合各派 合議所・花園大学,116–124. 多賀宗隼 1965『栄西』吉川弘文館. 高柳さつき 2010「達磨宗(能忍)から聖一派(円爾)に至る『宗鏡録』の一心思想の系 譜」『東アジア仏教研究』8: 135–147. 常盤義伸 2004「栄西『興禅護国論』の論旨要約と評」『禅文化研究所紀要』27: 199–223. 古瀬珠水 2013「再考――大日房能忍と 「達磨宗」 ――」『鶴見大学仏教文化研究所紀要』 18: 163–186. 柳幹康 2015『永明延寿と 『宗鏡録』 の研究――一心による中国仏教の再編――』法藏館. 楊曾文 2005「永明延寿及其著作」杭州仏学院編『永明延寿大師研究』宗教文化出版社, 453–462. 和田有希子 2006「鎌倉初期の臨済禅――栄西における持戒持斎の意味」『仏教史学研究』 49 (1): 59–79. (平成 28 年度科学研究費補助金(研究活動スタート支援 16H07336)の研究成果の一部) 〈キーワード〉 栄西,『宗鏡録』,『興禅護国論』 (花園大学国際禅学研究所専任研究員(専任講師),博士(文学)) はかかる方便の効用に着目し,『宗鏡録』の読誦を「修入の方便」に位置づける. それは「鈍根」むけの浅い教えではあるが,だからこそ「諸教諸宗の妙義を伺い, 禅の旨帰を学ぶ」仏道修行の入り口を万人に開く重要な書物となりうるので あった10) またこのような『宗鏡録』特筆の背景として注目すべきが,当時の日本では大 蔵経の閲覧が困難だったことである.栄西は二度目の入宋に備えて九州に滞在し ていた際,「一切経の渡海を待つの間徒然と ぜ ん」と時を過ごしており,ほぼ同時代の明 恵(1173–1232)や親鸞(1173–1262),日蓮(1222–1282)もみな大蔵経閲覧に苦労し ている11).このような時代にあって栄西が,経論から遍く要旨を抄録し百巻にま とめた『宗鏡録』を大綱の第一「約教分」の要に拠えたのも,理由あってのこと だったと言えよう.

むすび

拙論では『護国論』に見える『宗鏡録』援用四例を分析し,『宗鏡録』が(1) 禅を「悪取空」「暗証」とする天台宗の批判への反駁(第 1・2 例),(2)同時に禁 止された「無行無修」の能忍と自身を峻別する根拠(第 3 例)として用いられると ともに,(3)大蔵経閲覧が困難な時代にあって万人に「修入の方便」を開き禅の 宗旨を知らしめる教説の一大集成として重視されたこと(第 4 例)を明らかにし た.このように栄西は既存の天台宗の批判により能忍とともに禁止されるという 当時の特殊な状況にあって,自身が新たに伝えた禅が既存の諸宗に矛盾しない正 統な仏法であることを証明するための理論的根拠を『宗鏡録』に求めたのである. 1)中国仏教思想史に占める『宗鏡録』の位置については柳[2015]を参照.なお同書 318 頁では『宗鏡録』成立年を 961–976 年としたが,延寿の外護者である呉越国王銭弘俶 が同書に寄せた序文に見える肩書「天下大元帥」が 964 年以前に使われたものであるこ とから,その下限を 964 年まで引き上げられる.肩書の詳細については楊[2005: 455]・ 椎名[2015: 835]を参照.なお椎名氏は従来の 961 年成立説を採るが,この説は石井[1969] が指摘するように確固たる根拠を欠くため,ここではひとまず成書年を 961–964 年と する.   2)『宋高僧伝』巻 28 延寿伝には延寿在世時に時の高麗国王が『宗鏡録』を 見たとあり(T50. 887b),1094 年に日本で編まれた『東域伝灯目録』にも『宗鏡録』の書 名が見える(T55. 1164c).   3)多賀[1965: 40–41, 74].なお建仁寺における三宗兼 修は,比叡山からの排撃に対処したものであるが,それが栄西自身の立場にも反しなかっ た点については,同書 126–127 頁を参照.   4)中世禅籍叢刊編集委員会編『中世禅 籍叢刊』1 栄西集(臨川書店,2013)の総説・解題を参照.   5)江戸時代に編まれ

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