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ニーチェ・コントゥラ・パスカル(その3) : パスカルからニーチェに至る哲学に於ける畏敬の「心胸」

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(1)

ニ ー チ ェ ・コ ン トゥ ラ ・パ ス カル (そ の

3)

― パ ス カ ル か ら ニ ー チ ェ に 至 る 哲 学 に 於 け る 畏 敬 の 「 心 胸 」 ―

Nietzsche contra Pascal (3)

―Das verehrende Herz in der Philosophie

von Pascal bis zu Nietzsche―

(Ⅰ)

「大いなるパ ンは死せ り

」(

Fパ ンセ

』f

r

.

6

9

5)

0 パスカルの Fパ ンセ』'に記 されているこの有名 な言葉の原出典は,はるか古代 ギ リシア時代末に まで滴 り

,

「最後のギ リシア人」とよばれたプルー タル コスの著作"Dedefectuoraculorum"に兄 い出される(l)。それによると,口-マ第二代皇帝 テ ィベ リウスの時代にとある船が航海 している途 上 ,夜中 「大いなるパ ンは死せ り」 とい う声が海 上 をひびきわたったとい う。ギ リシア語で .牧羊 神 (rl; V)は,打a y (全て) とい う語 とは, 語源的には関係はないが ,音韻的に相通 じるとこ ろか ら,後代 この二つの語を関係づけて ,牧羊神 パ ンの死を告げるこの言葉を解釈す るようになっ た。そ して ,この謎めいた神託の言葉は ,古代ギ リシアのすべての神々(2)の死を ,すなわち古典古 代 の終駕を告げたのだと解 され るようになったと いわれる。ということは,同時に,ギ リシアの神々 の死という歴史の隠された深層での秘やかな出来 事の告知は.キ リス ト教の時代 とい う新たなるエ ポックの誕生を予言的に告げて もいたのである。 そ して今また近世初頭 この言葉はパ スカルの遺 稿のなかに兄い出されるのである。この場合また, プルータルコスの著作の場合 とは異なった新たな る画期的意味がパスカルによって この言葉に附与 されたのであった。その画期性をイェ-ナ時代の 若き--ゲルは ,その著 F信仰 と知』のなかで次 のように言い表わ している(3)a 「無限の苦悩は,かつて単に教養の うちで歴史 的にかつ感情としてあったにすぎない。この感情 の上に近代の宗教は基づいているのであるが ,そ - 6 1

-圓

Haruyuki Enzo

れ は神 自身死せ りという感情であ る (つ ま り,パ スカルの F自然 とは,失われた神をいたるところ で ,人間の内と人間の外 とで示す よ うな ものであ る』 という表現によって .単に経験 的に しかすぎ ないが ,言い表わされている)」0 当時のカント,ヤコービ,フィヒテの 「主観性 の反省哲学」では,理性が 自分 自身の空 しさを反 省 的に知 ることによ って ,絶対者 は 「理性」 的 (ヘーゲルに言わせれば

,

「悟性」 的)な 「知」 の絶対的彼岸に - 「信」に於いて - 立て られ る

(

一)

「近代」の宗教は,このように絶対者 (秤) を無限の彼方にむな しく求めてやまないのである が ,斯 く駆 りたてていたのが ,パ スカルがすでに 先駆的に表明 していた 「神が失われ た」 とい う感 情であるのだ,とここでヘーゲルは言いたか った のであろう。ヘーゲル 自身の哲学 も,この同 じ感 情を基に している。ただ し,ヘ ーゲルは 「反省哲 学」のようにそこか ら 「信-逃避す る」方- は向 かわない。ヘーゲルの場合

,

「神の死」を 「思弁 的聖金曜日」として引きうけ

,

「神 の死」の過酷 さをどこまで も耐え通すのであ る。 この過酷さの なかか らのみ,生ける 「真の哲学」が生 まれ るこ とができる し,またできるにちが いないと,--ゲルは将来の哲学の誕生を予見す る。- -ゲルに とっては

,

「死 に耐えて死 のなか に 自己を支え る 生 こそが ,精神の生」 (5)なのであ る。事実 ,--ゲルはこの 「神の死」の体験の耐え抜きのなかか ら,その後 『精神現象学』を生 み ,さらに 「最高 の全体性」を絶対的に完結せ る哲学 「休系」 ,す なわち 「絶対者の哲学」(6)を生んだ .- -ゲルに とって 「神の死」は 「近代」 とい うエポ ックのエ レメン トであると同時に 「近代 の超 克」のエ レメ ン トで もあった。このヘーゲルの近代の超克の試 みはどの程度成功 したか ,その評価 は人 によって

(2)

様々であろうし,実際,ニーチ ェの方が もっと意 志的に試みたともいえるだろう。そ して,そのニー チェも時代についての根本経験 と して 「神は死ん だ」(7)という経験を もち,さらに20世紀テクノロ ジーの時代の我々もなお死せ る 「神の影」(8)の う ちで生 き,且つ 「神の影」を超克 しなければな ら ないとしたら,パ スカルの 「神の死」の言葉の予 言 としての射程は今 日を も射抜き,これか ら先未 来にも及んでいるだろう。 従って ,もし,今 日我々がパ スカルの言票を聞 き流 したり,受けとって もそれが皮相であるなら, その場合我々は

,

「死せ る神」に代わ って 「科学 フエテイツシ亡1 技術」を物神的な神に祭り上げ ,それに脆拝す る ことになりかねない(9)。だか ら,なによ りもまず 我々はパスカルの言葉を形而上学 的な深み (ある いは

,

「高み」か)に於いて受 けとめていかなけ ればな らないのではないだろうか。 (刀 ) 人口に胎灸されているところによれば,デカル ト の 「我思 う,故に我有り」という言動 i近世哲学の 時代の開始を告げる嘱矢 となるとい う。なるほど 確かにそうである。先の--ゲル も F哲学史講義』 では,近世哲学史の 「思惟す る悟性の時代」 と題 された第二章の冒頭で次のよ うに述べている(10). 「我々は今は じめて本当に近代の哲学 に到達 し た。近代哲学はデカル トか ら始まる。我々はデカ ル トと共にまさに自立 した哲学の うちへ踏み入る る。この自立 した哲学とは ,自分が理性か ら自立 的に出て来たのだということ,そ して 自己意識が 真なるものの本質的モメン トであ ることを知 って いる哲学である。ここで我々は我が家にいると言 うことができる。そ して荒れた海を長 く航海 して 巡った後に水夫が叫ぶが如 く,我々はここで F陸 だ』 と叫ぶ ことができる」0 --ゲルにとって 「絶対知」 と しての哲学にお いて真なるものの貢理性は、 自分か ら自分 自身を 保証す るものでなければな らない(ll)O もしそうで ないと,すなわち知が他の ものによって保証され るのであれば,知はその他の ものに依存す ること になり,絶対的となりえないか らであ る。かか る --ゲル的な哲学的思惟に相応 しい思惟がデカル トの 「我思 う」 という自己表象的 (自己意識的) 思惟に於いて哲学史上は じめて兄い出 されたので ある。実際 ,--ゲルの言を引き合 いに出すまで もな く, デカル ト以来近世哲学では 「思惟す る」 とい うこと (cogitare)は .常 に 「我思惟す

(cogito)ということを意味す るよ うにな り,デ カル トのコギ トは以後の哲学的思惟を深 く刻印づ けることになったのである(t2)。 デカル トの 「我思 う,故に我有 り」 によって人 間の有は 「思惟する」 という有 り方 に ,つま り思 惟の主休という有 り方のうちに兄い出 された。つ まり,人間固有の有は. 「精神」あ るいは 「魂」 あるいは 「意識」あるいは 「知性」その他如何な る名称を以 って して呼ばれるに もせ よ ,要す るに 決 して物化 されざる 「思惟す る」 とい う働きに兄 い出されたのである(13).これに対 して ,他方他の 一切の存在 (物休的なもの)は ,霊的な性質を完 全に排除されて ,単なる空間的拡が りと して表象 的に立て られて見られた。かか るデカル トの見方 のうちにはすでに,表象 (前立)作 用の主休たる 人間が ,単に他の もの (自然)を 自分の前 に表象 的に立てるのみならず ,さらに確実に立てようと の ,さらに ,以 って 自分の主体 と して の有 り方を 確実化せん との人間主休の意志が先駆 的に表われ ている。かかる意志が近代科学を貫 く意志 として , 一切の ものを厳密に測定可能 ・記述可能 ・計算可 能な連関 (「座標」)のうちへ ひき入れて- す なわち数学的確実性を もって- 立てん と20世紀 の今 日にいたるまで常に企て続けてきた。-イデ ッ ガ-のいうように現代が 「世界像の時代」(1-)とい うのなら,それは,一切の もの (世界)を確実に 表立せんと企てたデカル トと共に始ま る。その意 味で確かにデカル トは現代 という時代 を切 り開い たのであった。 しか し.なるほどデカル トは 「表象 的思惟」す なわち 「計算的思惟」 とい う現代的思惟を閑いた が ,それは現代的思惟その ものではない ,現代的 な思惟の仕方のころであるにすぎない。いやそれ どころか ,哲学的思惟は 「時代を超克す る」思索 であることが要求されるのであるな ら(15),む しろ 数学的自然科学的な表象的思惟 とは 「別の思惟」 が哲学的思惟として求められて然るべ きであるし, 実 際また求 め られ もした。デカル ト以 降表 象的 62

(3)

-(前立的)思惟は自らを 「前へ

「前へ」 と馬区り 立てて来たことも事実だが ,今 日に至る哲学的思 惟の根本動性はかかる直線的動向だけに尽 きは し ない。パスカルの 「心臓による思索」に もすでに 表象的思惟とは別の思索の試みがみ られは しない であろうか。 パスカル もデカル トの 「精神」 と 「物休」 との 「実体的区別」を継承す る。む しろ俗流のカル テ ジアンよりも遠に峻厳に 「精神」 と 「物

」 とを 徹底 して区別 した(16).パ スカルの区別は ,二種類 の存在するものの間の存在的区別 とい うよ りはむ しろ

,

「精神」と 「物体」とでは互いに 「次元的」 に - パ スカルの用語によれば ,"genre"に於 い て - 相違す るとで も言 うべ き,いわば領域有論 的 な (regionaloTltOlogischな)区別であ った。 デカル ト同様パ スカルに於いて も物体の領域次元 か ら精神的な ものは完全に抹殺 されて しま う。パ スカルはいう

「彼 ら (ほとんどすべての哲学者) は ,物体は下方-向うとか ,物体はその中心を憧 れ るとか ,物体は自分の破壊を避けるとか ,真空 を恐れるとか ,物質は傾向や共感や反感をもつ と, 大胆に も言 うが ,それ らはすべて精神に しか属 さ ない」 (Fパ ンセ

jf

r

.

7

0

)0

精神的なものがそこか ら抹消された地平は ,た だただ無限に拡がるだけで

,

「だれが私をここに 置いたのだろうか ,だれの命令 と指揮とによって 私 にこの場 と時が運命 と して定め られ たのか」

(

Fパ ンセjfr.205)と問 うて も,そこか らはな んの答え も返 ってさは しない。 しか も,たとえ そ うであって も.パ スカルはそ う問わずにはおれな いのである。 「私はデカル トを許す ことがで きない。彼は 自 分の全哲学に於いてできることな ら神な しで済ま せたいと思ったであろう。 しか し世界に運動を与 え るために神にひと弾きさせないわけにはいか な か った。それか ら後 は彼 は神 を必 要 と しない」

(

Fパ ンセ』fr.72)。 このよ うにデカル トにつ いてパスカルは評 しているが ,そのパスカルにとっ て ,無意味なまま際限な しに運動 している自然 に●●● あ ってはかえ って神な しには済まないのである。 いわば 「機械的」に運動 している自然を眼前に し てパスカルにとって問題 となるのは .かか る自然 の第一動因についての 「仮説」の定立ではない。 無意味 ・無 目的にただ拡が るだけの世界 としての 「自然」の うちで生 きるとい うこと自体が問題 な のである。 パ スカルのように 「神な し

に済ませ ることが で きるかどうかは別に して も,概 して ,空 しく拡 が るだけの冷々と した機械的な世界を ,我々は冷 静 (-客観的)に傍観するだけで済むだろうか。 いや ,それだけでは決 して済まない

「生 きる」 ということに関して不誠実なら話は別ではあるが , もし我々が誠実に生 きん とするな ら,それだけで は済まない ,生の"C(tur"(-Her£)にかかわ っ て くる.パ スカルの場合 ,彼の"C(Eur"が 自然科 学的世界像とのかかわりで与えられたのは 「恐れ

であ った。すなわち

,

「この無限の空 間の永遠 の 沈黙は私を恐れさせる」 (Fパ ンセ

』f

r

.

2

0

6)

と, パ スカルは言 う。 パスカルの・・C。。。r"は恐れl瀧

,

「失われた」 神を求める。パスカル こそ ,自らが亭 うところの 「全 心 を も っ て 神 を 求 め る 者 (Ceux qui cherchentDieudetoutleurcαur)」である。 自然を 「自然」のうちか ら見る限 りでは ,自然は 神の存在を 寄 留 イしない し,また771芸

も し ない。神についてただ黙するのみであ る。 しか し パ スカルか らすればそれは自然内在的立場で 自然 を見た場合のことで しかすぎない。超 自然的光の 下で見れば ,様相は一変する。パ スカルは 「聖書 は斯 く語る」と言 う。すなわち

,

「神 は隠れたる 神であ り,自然の堕落以丸 神は彼 らを盲目の う ちに放置 し,そこか らはイエス ・キ リス トによっ て しか脱却できないのであ り,イエス ・キ リス ト の外では神とのすべての コ ミュニカシオ ンは取 り 去 られている

F父を知るものは子 と ,子があ ら わそ うとして選んだ ものとのはかにない』」 と。 そ して更に段落を改めてパ スカル の断章は次の 如 く続 く

「これこそ聖書が ,神を求 め る者はこ れを兄い出すだろうと実に多 くの箇所で言 ってい るときに ,われわれ に示 して いるこ となのであ る」 (Fパ ンセ

J

fr.242)。さらにまた別の断章 (fr.441)では ,同 じことだが次のよ うに もいっ てい る

「自然 (lanature)とは ,失 われ た神 (un Dieu perdu ) と堕 落 した 自然 (une naturecorrompue)とをいたる処で ,人間の内と 人間の外で示すようなものである」と。人間が現

(4)

-63-に生きているこの自然は 自然その ものではな く, 或る一つの 「自然」に過ぎない。 しか も,パスカ ルでは,キ リス ト教の超 自然的な啓示の光 に照 ら して ,その自然は 「堕落 した自然」 ,現代 的に言 うな ら自然を失 った 「自然」,あるいは ,自己疎 外的な 「自然」にす ぎないとみられる。 しか し,或る一つの 「自然」が ,パスカルの言 うように 「堕落 した 自然」かどうかは別問題 と し●●●●● て も,そ もそ もそれを或 る一つの 「自然」 と して 知ることは,その 「自然」のうちに埋没的に内在 していてはできない。それはその 「自然」を超え 出ては じめて可能なのである。人間の自然その も の (lanaturedel'homme)か らいえば,その都 度ある一つの 「自然」を超えてやむことがないと いうのが人間の うちなる自然か ら生起す る動向で ある。パ スカル流に言えば

.

「自然は人間を無限 のために (無限に向けて)生んだ」が故 に ,人間 の自然は 「自然」を無限に超えてゆ くとい う無限 な動性 にある。 この動性 こそが人間の生 の内なる 自然の最内奥た る"coeur"の最 も生 々と した持 動 をな しているのであ る。 ところでさてパスカルの真剣なる誠実 さが ,坐 の内奥 に深 々 と切込 み ,そ こか ら"Cαur"が" "C(℃ur"として決断的 に現われて きた。 しか し, パ スカルの場合その"C(℃ur"は 「失われた神」に なお も拘泥 し,神を求 めてやまない。パ スカルの おのの "C(巴ur"は 「神 な き世 界」 の う ちで 恐 れ 戦 く "C(fur"を 自分 自身超克 しようとは しないのであ る。かか る自己超克 こそが ,ま さに"C(巴ur"の "Cαur"たる"Cαur"本 来の働 きであ るのに。パ スカルはむ しろ逆に,その"Cαur''のすべてで もっ て 「隠れたる神」 を求 めることによ って ,その 「隠れたる神」に折角の"cq三ur"を委ねんとする。 パスカルの Fメモ リアル』に記さる

「--・イエ ス ・キ リス ト/イエス ・キ リス ト/われ彼よ り離 れぬ。われ彼を逃れ ,捨て,傑 刑に処 した。/顔 わ くはわれ彼よ り離れん ことを !/彼は福音に示 された遺によりてのみ保たる/甘 美なる全 き自己 放棄。/イエス ・キ リス トとわが指導者 とへ の全 き服従---」(17)。ここでは 「自己放棄」 と表現 さ れているが ,パ スカルは神を失 って 「失神者」 と なるを恐れ るあま り

,

「隠れたる神」に 自分の全 ``coeur"を委ねて しま って ,まさに 「失心」 して -64 -しまわんがばか りなのである。 以前 にすで にみたよ うに(I8),自然科学が人 為 的 (技巧的) にすべての ものを或 る一つの秩序 (ordre)に閉 じ込め るのに対 し

,

「自然はすべ ての貢理を各々それ 自身のうちに置いた」 とい う ように,おのおの次元的に相違す る様々の秩序(19) すなわち無秩序なまで多様な諸々の秩序 -をパスカルは自然の うちにみとめた。それぞれの 秩序のうちでそれぞれ 「真なるもの」が成立す る のである。自然はそ うである。その限 りパ スカル もいうように

,

「ひとは自然が各人 を置いたその 状態で動か ないで とどまって いた らよか ろう」

(

Fパ ンセ』fr.72)ともいえよ う。 しか しパ ス カルの立場は斯 く開かれた 「自然」 とい う地平 に 立つだけでなない。パ スカルか らすれば ,かか る 多様な秩序を内包す る 「自然」の うちに甘ん じる ことができないのが ,これまた人間の 「自然」 -"C(父ur"なのである。 かかる``coEur"か らパ スカルは

,

「真理それ 自 体 (la ve'rit昌 m言me)で はないが真な るもの (chosesvraies)は多数み うけ られ るが ,唯一 の実体的真 理 (unev占rit昌substantielle)は一 体存在 しないのだろうか」と

,

「実体的真理」を 問い求める。ここでいうところの 「実体的真理

が ,多様な諸々の秩序を秩序づける秩序 ,すなわ ち 「秩序の秩序」である。恐 らく 「イエス ・キ リ ス ト」こそかか る 「実体的真理」の具現像 と して パ スカルは見倣 して いたので はないか と思われ る(28)

0

「イエス ・キ リス トはすべての ものの 目的 で あ り,す べ て の もの が 向 って い る中心 (le centre),彼を知 る ものは,すべて の事物の理 由

(la raisondetouteschoses)を知 る」 (Fパ ン セ』fr.556)。パ スカルは折角"coeur"の次元 を 開き,"C(Eur"の次元に立つ ことがで きたのに , その"C∝ur"が求め るのは,パ スカルの場合 ,自 分 自身をそれに委ねるべ きものであった。本来な ら,"C(Eur"が意志 し求 め るべ き方 向を``C(Eur'' に指 し示す のは ,これまた"C(Eur''自身であ るべ きはずなのに ,パ スカルの"C(℃ur"は 自分に指示 して くれる 「誰か」を求めるのである。パ スカル は問 う

「絵画の技術 (1'artdelapeinture) で は遠近法(laperspective)が それ (貢な る場 所)を指定する。 しか し真理やモ ラルにおいて誰

(5)

がそれを指定するのだろうか」と。諸々のパ ース ペクテ ィブをその彼岸か ら統一す る 「誰か」に服 すべ く,パ スカルの``co≡ur"は 自分 自身を空 しく 開けひ らき,その 「誰か」の命令を待ち構えるの である(21

「誰か」に生の唯一的方向づけを与え られることを欲 して ,屈 し曲げ る"C(℃ur"は,自 分の前に,自分が服従すべき 「誰か」を予め投げ かけ (prorject)てお き,その投影像に服従す る のである。唯一的 「誰か」に服することによって , 各々の"cQ!ur"は自分か ら各方向を与える代 りに, 唯一的方向づけをその 「誰か」か ら得 ることにな る。 「もし足や手が特殊意志を もっな ら,それ らは 全身体を治める第-の意志に特殊意志を服従 させ ない限 り,秩序を保つ ことはできないだろう。そ うしないなら,それ らは無秩序になり不幸になる。 ただ身体の善を意志することによってのみ ,それ らは各 自の善をなすのである」 (Fパ ンセ』 fr. 475)とパ スカルは言 う。 ニーチェか らすれば,かかるパ スカルの"C(巴ur" は .自分を屈 し曲げた"cceur"で あ り,いわ ば "「逆倒せ る」Cαur"で ある。ニ ーチ ェは F力へ●●●●●● の意志』所収のアフォ リズムで

,

「理想的な奴隷

(

「善人」)0- 自分 自身を 「目的」 と して設 定 しえず ,総 じて 自分か ら諸々の目的を設定 しえ ない者は ,自己放棄の道徳に畏敬 (dieEhre) を払 う.- 本能 的

」 (Nr.358)とい う。 ま さ しくこのニーチェの言は

,

「自我を憎むべ し」 と主張するパスカルの態度に当放るではないか。 神を畏敬す ることに於いて人間は自己放棄的に神 に 自分 自身を委ねている。委ね うべ き神を喪失 し た情況のなかで ,畏敬の対象を失 って もなおパ ス カルは 「何か」に自分の意志を屈 し曲げ服 さん と す る畏敬の念だけは懐き続けていたのであ った。 (Ⅲ ) カントの墓碑銘には F実践理性批判』の F結び』 のかの有名な一文が刻まれているという

.

「くり 返 し,じっと熟慮すればするはど常に新たなそ し て高まりくる感嘆と畏敬の念をもって心を満たすも のが二つある.我が上なる星の輝 く大空 と我が内 なる道徳法則とである」 と。墓碑銘はここまでで -

6

5-あ るが

,

F実践理性批判』ではさらに続 く

「星 の輝 く大空」に照 らしてみれば ,私の価値は戟威 され

,

「道徳法則」を私のうちにみ る時 ,私の価 値 は無限に高め られる,云々と(2.2) 一見 したところ.カン トのこの人間存在の 自己 評価の意識は,かのパスカルが 「空間によ って宇 宙は私を包み ,-つの点のように呑み込む。考え ることによって ,私が宇宙を包み込む」 と言い表 わ され た人間存在の両壷性 (duplicit昌)の意識 の再現であるかのようにみうけ られる。パ スカル は先に見たように科学基礎諭的考察を通 して ,哩 性 とは別の-理性を超えた次元すなわち 「"C(Eur という次元

-

「信仰の次元」を開き,一方 カ ン トもまた同様に .なるほど純粋理論理性を批判す るのは 「信仰に場所を空けるため」であると F純 粋理性批判』の第二版の序文では ,確かにそ うは 言 っている(23). とはいえ ,それは後か らの (すな わち,第二版の序での)目的づけであ って ,カン トの三つの理性批判 (F純粋理性批判』

,

『実践 理性批判』

,

『判断力批判』)のプロプレマーティ クは総 じて

,

「可能性のアプ リオ リな諸条件」の 究明,換言すれば ,理性の 「超越論的」な 自己根 拠づ桝 こあった(2.とノヾスカルは理性の認識能力を 督 諒蹄 このみ是認 したにす ぎなか ったので ある が (252これに対 しカ ン トの 「純粋理性批判」が遂 行 したのは,人間理性の認識の可能性のアプ リオ リな諸条件の究明即定立による,理論的理性の充 分なる根拠づけであった。この超越論的究明によっ て人間理性は尊に認識する主体であるばか りでな く,認識主体の可能性の条件を定立す る超越論的 主体という位置に昇った。理論的領域において , 「自己の-可能性の -条件」定立 的な理性 は , 「実践」の領域において ,一層その 自己の条件定 立的ポテンツを高めることになる。なんとなれば , 理論的認識においては認識主体は認識対象によ っ て制約を受けなが ら認識 しなければな らないが , 実践主体としては人間理性は自らが定立 した 「道 徳法則」に従ってのみ ,すなわち自己制約的 に-従 って他によって制約されずにとい う意味で 「無 制約的」に- 「実践」す ることがで きるか らで あ る。従ってカ ントの場合,生 きるべ き方 向を , パ スカルの様に 「誰か」が指示 して くれ るのを侯 たない。理性が則って実践すべ き 「道徳法

」を

(6)

定立す るのはこれまた理性それ自身であるとされ るのである(26)。 したがって ,カン トの場合 ,我々が遺徳法則を 尊敬 しそれに服従するということは,実は ,我々 が自分自身を尊敬 し自分 自身に服従するとい うこ とに他ならない

「理性的存在者が自分 自身に与 える法則にだけ理性的存在者は同時に服す る」(27) のである。そこにこそ理性的存在者としての 「尊 厳」 (dieWtirde)がある。この 自分 自身が与え た道徳律に自分 自身服従す ることによって ,我々 は 「自分 自身 (感性界の一部としての)を超えて (abersichselbsterheben)」(20,自分 自身へ と 「自分 自身を高め る (selbsterheben)」(29)。こ の無限に進行す る自己関係 こそ人間の 「人格性 (pers6nlichkeit)」 を なす ので あ る

「人 間 のみが,そ して人間と共にすべての理性 的被造物●● ●●●● のみが目的それ 自体である。つまり人間は 自らの 自由の 自律 によって ,神聖な道徳律 の主 体であ●● る」(30)という。人 間の 「純粋理性」が 「純粋理 性」であるのは ,理性が法則を他か ら (外か ら) 与え られ るを侯たず して ,アプ リオ リに 自分か ら自分 に対 して法則を与え るが 故にであ る。つ ま り端 的 に言 えば

,

「純 粋 理性 」 は 「根 源 的 (ursprもnglich)」 に 自己 「立 法 的(gesetzge -bend)」である(31)

o

「理性」はまず 「理性」 とし て有 り,その上で次いで 自分に法則を与えるとい ▲ うのではない。 自分か ら自分に対 して法則を与え る働きに於いて ,その働きと共に●●

,

「純粋理性

は 「純粋理性」として根源的に発源するのである。 自己発源的な人間は同時にまた 「目的それ 自

休」

であり,従 って 自己関心的である

「理論理性

といえども

,

ただ無関心的 ・傍観的に 「純粋

」に

見るだけではない。根源的には自己関心 的であ り 自己立法的であ り,従って 「実践的」である。い わゆる理論理性に対する 「実践理性の優位」(32)ら, 同 じレベルで比較 した場合の 「優位」ではな く, 理論理性 も根源的には実践的だということを表わ している。 ニ ーチェは自分自身の生のいわゆる芋蔓 脇 I によって 「生の心臓」の働きを 「力-の意志」 と して摘出 した(33).このニーチェの 「力- の意志」 の立場は

,

●●●●●●●●■●●●●●●●●F悦 ば しき知 識』 (Nr.335)で は , 「我々は,我々が本来それで有るところの者に成 一66 -ることを意志す る- 新 しい者 ,一度限 りの者 , 比類なき者 ,自己立法的な者 ,自己創造的な者 に なることを意志す る」 と,言い表 わ して いる。 「純粋理性」の核心にその自己立法の働 きをみた カントの 「純粋理性」の自己 「批判」の真剣さは , 確かにニーチェのいう 「生の心臓」たる 「力- の 意志」に迫るものではあった。 しか し,カ ン トの 「批判」は 「純粋理性」の 「立法的」

-

「意志的」 性格を明らかに したが ,そこ迄である。カ ン トの●● 「批判」は飽 く迄理性の 自己批判であ り,理性の 根底の意志の次元にまで徹底 し切れていない。 カ ン トは 自己を二重化 して

,

「意志」 としての自己 を 「人格性」 (Persiうnlichkeit) と名 づ け る. そ して

,

「感性界に属す るもの と して個人(Per -son)は,同時に可想界に属す る限 り,自分 自身 の人格性 (Pers6nlichkeit)に服 している。従 っ て ,人間が ,二つの世界に属す るもの と して ,自 分の第二の且つ最高の規定 (引用者註 :可想界に 属するという規定)と達関 して ,自分 自身の本質 を他な らぬ畏敬 (Verehrung)を もって 眺め ,そ の法則を最高の尊敬を もって眺めざるをえない と して も決 して不思議ではない」(34)という。 カン ト は 「人格性」をいわば敬 して遠ざける.それどこ ろか敬する余 り無限の彼方に 「批判」の彼岸に , 超個人的な普遍性のうちに,投げ入れて しまう。 「人 格 性」(Persと爪l■●●●ichkeit) を ,現 にPerson として生きている 「この 自己」に引き寄せて ,自 己の生 の うちで生 きて い く上 で の 問題 と して , pers6nlichに問題とす ることは決 してなか った。 「人格性」の 「道徳法

」は 「物 自体」へ と祭 り 上げられ,そこか ら 「道徳法則」は 「定言的命令」 として無条件的に下 されて くるかのように .カ ン トでほうけとられたのである。 これに対 してニーチェは,なによりも道徳を問 題にすべ Lとい う●●●I●●●

F悦ば しき知 識』Nr.345で ● 「問題 としての遺徳」 と題 してニーチェは言 う。 ●●●●● 「大いなる問題はすべて大いなる愛を必要とする。 そ して大いなる愛は ,自分 自身の上に確固 と坐す る強 く円く揺がぬ精神の者のみが能 くす る。ひと りの思索家が 自分の問題にpers6nlichに対処 し.●● その問題の うちに自分の運命 ,自分の困窮 ,自分 の最上の幸福を も持つか ,それ と もunpers8nlich に対処するかでは,重大な違いがある」 と。そ し

(7)

,

「道徳を問題 とす ること」 , しか も

,

「自己 のpers6nlichな困窮 ,苦悩 ,禁欲 ,情熱」 と して この問題を識ることをニ ーチュは要求す る。然 る にカン トはそうす ることな しに,む しろかえ って 個 々人 の意志の定立す る法則 (「格率」)を同時 に普遍的法則 (「普遍的」ゆえに ,道徳法則であ る)であるように - 「定言的命令」 と して-立てるよう要求す る

「定言的命令」が指示す る のは,そうすべ きが故にそ うすべ きところの もの , いわば 「目的自体」

,

「価値 自体」であ る。ニ ー チ ュによれば ,カ ン トは 「それ (定言的命令 )を

J

L

U

t

A(

Herz)に抱いて聖 .F

-

,

柑 由

,

F不 死 』 へ と迷 い 戻 った」(35)の で あ る。 カン トの実践理性 は超感性 的な (それ故 ,理論 理性によっては証明不可能な) 「神

,

「魂の不 死」,「自由」を,「要請 」(Postulat)と し て定立することによって ,理性が 自分か ら自分 に 向けて立て る 「法則」 (命令)杏

,

「あたか も」 神からの命令である 「かのように」立てるのであっ た。カ ン トの 「純 粋実践理性 」 の 「批判」 は , 「純粋理性」の 「立法的」能力をその極限にまで 高めた。す なわち.カン トの 「純粋理性」は ,そ の根底 に於いて ,予め (すなわち

,

「アプ リオ リ に」)他に拠 らず (「純粋」に) 自分か ら自分 に 対 して 自分が則 るべ き法則を定立す る能力 とな っ たのである。 しか し,カ ン トの 「純粋理性」の立 法 は,それによって立て られ る法則が 「普遍 的

であるによ って ,弛緩 した ものとな る。ニーチ ェ の 「力へ の意志」 のよ うに

,

「これ っき り!(Ein Mal!)」

,

「これ っき り !(Ein Mal!)」と無 限に繰 り返 して繰 り返 し自己立法的に自己を超克 していく緊張性がそこにはない

(

3

6

).ヵントの場合 , 立法的 「心胸」は ,聖 賢 法則を道徳法則 と して無 限の彼岸に投げ入れて しまうや ,畏敬する 「心胸」 と して逆に 自らを屈 し曲げて

,

「道徳法則- の完 全な一致●●● 」(3')を求めて ,ただ平板的に前へ前へ と 無限に前進す ることを望むだけで しかなか ったの である。 ( Ⅳ ) --ゲルの立場は, F法哲学要綱』の序文でか の有名 な 「理性的なものは現実的であ り,現実的 -67-な ものは理性的であ る」(38)とい う命題 で もって , 定式 的に言い表わされている.- -ゲ ルの立場か らすれば ,理念以上 の ものはな く,理念以外 の も のはなに も存在 しない。すべての現実 に存在す る ものは ,理念 (理性概念)が実現 して 現われた も のなのである。我々人間の理性の方 に関 して いえ ば ,我 々は現 実的な る ものを思惟 を通 して 理念 (あるいは絶対者)の実現 した諸形態 と して概念 把握 しては じめて ,現実的な ものを貢 に (その莫 実態に於いて)捉えたことになる。逆 に ,存在す るものの方 に関 していえば ,すべての存在 は理性 的思惟 (思弁)を通 して ,絶対者 (理念) と関係 づ けて ,その現象と して捉え られ る限 りにおいて のみ貢に存在す るもの と認め られ る。 この理性 的 思惟 による概念把握か ら漏れ るもの .すなわち感 性 的存在

,

「単なる現存在」 は ,有 って も無さに 等 しい もの ,つ まり 「それ 自身空 しい現存在」(39) にす ぎないとされ る.この限 りに於いて ,ヘ ーゲ ルの思弁の立場に於いて 「思惟-存在 」 とい う等 式が成 り立つのである。 従ってその限り,ヘーゲルに於いてはそもそ も, 感性的なものについて思惟することに してすでに, 思惟が感性的な ものを超え出て 自分 自身高まって ゆ くことに他な らないのであ るが(川?かか る思惟 はさらに 「論理学」に於いて純粋に自己展開する。 す なわち

,

「論理学」に於いて思惟 は

,

「感性 的 に具休的な ものか ら解放 され」(一1),そ れか ら遊離 し

,

「自分自身のもとにあり,自分 自身に関係 し, 自分 自身を対象 とし」(42)

,

「自分 自身 の うちで 自 由に動 く」

(

13)か らであ る.- -ゲル はその F論理 学」 に於いて ,かか る純粋思惟の 自己展開を ,す なわも ,その思惟規定たる諸概念のすべての形態 を ,その必然的展開に従 って叙述 し,以 って 「諸 概念一般の体系」(4.)を完成 した と祢 してい るO し て みれば

,

「思惟 -存在」の等式によ って

,

「諸 概 念一般の体系」の完成は同時に 「有 りて有 りた る者」一般の体系の完成 ,す なわち存在 論の完成 を意味 している。その意味で ,- -ゲルは 「我々 の論理学の内容は ,自然 と有限的な精 神 との創造 以前 に神が彼の永遠なる本質に於いて有 るところ の神の叙述にである」(一五)とい うのであ る. それでは,この 「概念の 自己運動」がそれ 自身 において もつ ところの道筋 とは .一体 どのよ うな

(8)

ものであろうか。簡単に言えば ,概念は ,自分 自 身のうちに もつ ところの 「否定的なもの」を契機 として ,或る概念か ら別の 「一層高次に して一層 豊富な概念」- と進んでい くのである。例えば , 「論理学」は

,

「規定されざる直接的な もの」た る 「有」か ら始まり次の如 く展開 してい く。すな わち

,

「純粋な有」は,それ 自身規定を含 まない が故に,内容空虚である,すなわちそれ 自身すで に 「無」である。 しかるに 「無」 も,何 も語 られ 無い (すなわち 「無」が語 られる)限 り,すでに 直観あるいは思惟のうちに有 る。か くして 「有

と 「無」の貢実態は,有で も無で もな く,第三の カテゴリーである 「●●●●●●● 生成」である,とく46).以下 . 「すべての規定性を 自分 自身の うちに含 み」, 「ひとりそれのみが有であり,不滅の生命であり. ●●●●●●●●● ●●■●● 自分 自身を知 る真理であり,また一切の真理であ る」(〟)ところの 「絶対理念」にいたるまで ,概念 自身がそのすべての形態を関していったのである。 さて以上の如き,--ゲル論理学に於ける概念 の不断の ,純粋な自己展開を ,キルケゴールは次 の様に邸輸 している

O

「論理_学において ,すべて の もののうちへ運動をもたらす推進力 と して ,香●●●●● 定的なものが使用され る。良かろうが悪かろうが どうであれ ,運動がまさに論理学のうちにな くて はならないというのである。そこで否定的な もの が手助けす る。そ して否定的なものにそれができ ないのな ら,語呂合せ (Wortspiel)や言いな ら わ しがそれを努める,あたか も否定的な もの 自身 が語 呂合せ にな って しまったか のよ うに」 (E. Hirschの独訳か らの重訳による)(41)と。 感性的な ものか ら遊離 した概念の自己展開が言 葉の遊び (Wortspiel)だ とキルケ ゴールはい う のである。--ゲル 自身 も

,

「貢なるものとは貢 なるもの自身の生成であ り,自分の終 りを 自分の 目的と して前提 し,初めに有 し,展開とその終 り とによってはじめて実現するところの円環である。 従って神の生 と神的認識 とは自分 自身 との愛の戯

れ (ein Spielen derLiebenitsi°h selbst) と言い表す ことができる」という。ただ し,この 戯れの背後に底知れぬ否定的なるものの深淵が拡 が ることを暗示 して ,次のように--ゲルは続け て言 う

「もしこのうちに否定的なものの厳 しさ と苦痛と忍耐と労苦とが欠けるなら,この考えは, -68 -教訓にそ して気の抜けたものにさえ堕 して しま う のである」(19).前に述べた 「神の死」 とい う無限 の痛みの深淵にあってこれを耐え ,深淵の果て し 無さ暗闇が背後に控えて ,は じめて--ゲルの体 系的全体性が成 り立ちえたのであった。ただ この 背後の暗闇か ら切 りはなされることによ って ,公 式的な 「否定の否定」という--ゲル論理学の図 式的構造が ,できあがったのではないだ ろ うか。 実際 ,若き--ゲルが 「神の死」の無限の痛み を背負い

,

「神の死」の深淵か ら立 ち上 らん と し ていたであろうことは,イェーナ時代のいわゆる 『差異書』や F信仰 と知』か ら微かに窺 うことが できよ う(50)O近世 「神の死」と共に死に頻 した哲 学を,--ゲルは神の死か ら逃れることな くむ し ろ 「神の死」を死す るという仕方で ,神の復活 と 共に,享塾生せ しめんとしたのであった。実に真に, ニーチェも言 うが如 く

,

「諸々の墓のあ る処にの み諸々の復活がある」(51)のである。 しか しその復 活は,へ

ガルに輿 L亨は・無限の痛み 7苦悩を 抱いた 「心胸」を 「心胸」 自身の奥底へ と畳み込 むことによっての,すなわち ,い うなれば 「心胸 自身を心胸の墓 とす る」(52)ことによっての ,復活 ガイ スト であ り

,

「精神」 (Geist)の復活であ る。神 に ついていえば,神は

,

「絶対精神」 として復活 し たのである。それは

,

「一切の墓の粉砕者」たる ニーチェか らみれば .神の黄昏のなかでDH鼓 ら, っまり箇 蓋の復活に しかすぎない とみえ るのでは ないだろうか。そ して ,この黄昏の うちに こそか え って ,ニーチェな ら新 しい生の未来の曙光をみ とめるのではなかろうか。 (註 ) =) Ploutarkhos "De Defectu Oraculo -rum"

ⅩⅦ

なお

,

「パ ンの死」の物語に ついては.呉茂-著 「ギ リシア神話」 (新潮 社,1956)上巻.p.213に詳 しくのべ られてい る。 (2)すでにギ リシア時代に も,パ ン神が神々の 代表と してみなされ ることもあったのではな いだろ うか 。例え ば,platon "Phaidros" 279Bで ソクラテスが

,

「親愛 な るパ ンよ , な らびに,この土地にすみた もうかぎ りのは かの神々よ」 (藤沢令夫訳) と神々に祈る場

(9)

面が措かれているが ,ここで もパ ンは神々の 代表 とされている。

(3)Hegel``GlaubenundWissen''

Theorie Werkausgabe,Frankfurt a M. (Suhrkamp Verlag) Band 2 S.432 (4)Cf.ibid. S.287ff.

(5)Hegel,"PhanomenologiedesGeistes''

(Hoffmeister) S.29

(61 原 語 で"die Philosophie des Absol luten"である。い うまで もな く,この場合の "des Absoluten"と い う2格 は,geniti -vusobjectivusであ る と同時 に genitivus subjectivusでもある。つま り,絶対者をフイ ロゾフィー レンす る哲学であると同時に絶対 者がフィロゾフィー レンす る哲学である。す なわち 「絶対者の哲学」とは ,絶対者を思惟 す る人間の思惟を通 して絶対者が 自分 自身を 思惟するという思惟活動その ものである。 こ れがへ -ゲルの 「思弁 (Spekulation)」 と い う立場そのものなのである。

(7)若きニーチェは1870年頃の断章で 「すべて の神々は死なざるをえないという原始ゲルマ

ンの言葉を私は信 じる」といっている。 Nietz'sche, Samtliche Werke (Kriti -sche Studienausgabe,hrg.Giorgo C0-11iund Mazzino Montinar:)Band 7 S.125.「神の死」を伝え る言葉は他 にニ ー チ ュは , ``Die frbhlicheWissenschaft" Nr.125,Nr.343などにみ られる。 (8)Vgl. Nietzsche "Die fr6hliche Wi -ssenschaft"Nr.108. (9)このテーマについて ,筆者は Fイデオロギー と してのテクノロジー?』 と題する論文を本 紀要で発表すべ く準備をすすめている。乞御 期待。

(10) Hegel "Vorlesungen hber die Ge -schichte der Philosophie" Theorie Werkausgabe(Suhrkamp),Band20,S. 120. (1カ 従って ,--ゲルにとって真理とは自己完 結的でなければな らない。この見解は- -ゲ ルの著作のいたるところで散見され る。たと えば F精神現象学』の序論では

,

「真理とは, 自分 自身が生成することであ り,その終 りを その目的として初めに有す るが ,展開とその 終 りによっては じめて実現するところの円環 であ る」 とい う。Hegel"Phanomenologie des Geistes" ed. Hoffmeister,S.20 (W デカル トの 「我思惟す」以来 ,近世哲学に 於いて ,自己意識をエ レメントとす る思惟は, カ ン トの 「純粋統覚」 と して の 「我思惟す (Ichdenke)」を経て ,ヘ ーゲルの 「自分 自 身を思惟す る」 ところの 「思弁的思惟」へ と 至 り,近代哲学の思惟の一つの頂点 に到達 し た 。

(

1

g デカル トは F省察』の第二省察のなかで , 「私はまさしく思惟す るもので しかない。す なわち精神であり,悟性であり,理性である。 これ らのことばの意味を私は今まで知 らなか った」と述べている。以前か ら 「精神」

,

「悟 性」

,

「理性」ということばは使われて いた。 しか しそれの意味す ることは知 らずに使われ ていたのである。ところが今は じめて ,それ らの意味す るところが 「思惟する もの」 とい うことだと知ったと,デカル トは言 うのであ るo Descartes, "M6ditations'',M昌di -tation seconde, Biblioth;que de la pl昌iade P.277 (14) vgl. Heidegger "Die Zeit des Weltbildes" in: Holzwege S.69-104 拙稿のデカル トに関する論文は,-イデッガー のこの著より示唆を受けるところが大 きか っ た 。 (15)vgl. Nietzsche ''Der Fall Wagner" Vorwort ここでニーチェは

,

「哲学者が最 初にして最後に自分自身に求めるものは何か

と問い

,

「自分 自身の内なる自分 の時代を超 克すること」だと,答えている。 86) パ ス カル の F真 空 につ いて の 新 実 験 』 (1647年)の公刊後ただちに ,これに対す る 論駁の書簡がカルテ ジア ンのノエル神父か ら パ スカルに苑て られた。この論駁 の論 旨は概 ねデカル トの自然学の線に沿 った ものであっ た。 しか しノエル神父の書簡のなかには,空 気の"esprit"とい うよ うな表 現 もみ られ , 「精神」と 「物体」 との区別は必 ず しも徹底 -

(10)

69-的になされてはい なか った。 V."Premitere lettre du P.Noe

l

.

a

pascal", Bibli o-th昌que de la P16iade " Pascal" notes p.1438.なお この点 についてのパ スカルの 言 及 に つ い て は,"R6ponse de Blaise Pa-scalau tres bon R占ve'rerld Petre Noel" op.cit.p3760 的 cf.ibid.p.554, ここで 引 用 した の は . ``Memorial"の後半 部であ る。 個 Fニーチ ェ .コ ン トゥラ ・パスカル』 (そ の1).長野大学紀 要第6巷3号 を参照 され た

い。

トウラt/71ソデソタtJL, (19 あるいは

,

おのおの

E

7

-

V

越論的に相違す るl 」 とも

,

「おのおの有 論的に相違する」ともいっ てよいであろう。

鯛 Vgl.H.Rombach"Substanz,System, Struktur"Ⅱ S.:お3ff. Czl) ニ-チェのベル スペクティヴィスムスと比 較され たい。ニ ーチ ェではベル スペ クテ ィー ヴェのその都度の観点は 「力への意志」のそ の都度の 「力の数 ・員の階位」と相関的に定 され ると考え られ て いる (F力- の意志j Nr.710参照 )。 観 点 -価値 を定立 す る固定 的な主体は存在 しないのである。それ故 ,ニー チェは

Fいったい誰が解釈す るのか』 と問 うてはな らない」 と言っている。 (F力へ の 意志jNr.556)。 なお ,この点 につ いて の 詳細な論述 は本稿 の続宗に譲 りたい。 吻 Kant "Kritik der praktischeTI

Vernunft" Originalausgabe S.288ff. 囲 Kant"Kritik derreinen Vernunft"

Vorrede zur zweiten Auflage, B XXX.

朗 こ の こ と に つ い て は,M.Heidegger "Der Satzvom Grund"で詳 しく論及 さ れている。S.ibid.S.125ff.

錦 例 え ば,Pascalの "De l'espritg

昌0-mらtrlque'',Biblioth毎uede la Pl昌iade. p.586,を参照 して ほ しい。そこでは

,

「或 る 命題が不可能であ る時はいっ も,それ につい て の判 断を保留 し (suspendre).そ の点 で (引用者註 :不可能だという点で)その命題 を否定 して はな らな い」と,パ スカルは述べ ー7 0-ている。 梱 vgl.Kant "Kritik der praktischen Vernunrt" Originalausgabe S.55 ff. 囲 Kant "Grundlegung zurMetaphysik

derSitten" Akademie-Ausgabe S.434. 個 Kant, K.d.p.V.,S.154 *) ibid.S.138 m) ibid.S.155f. C31) vgl.ibid.S.56. 鋤 ibid.S.138 的 本稿≪その1≫ (長野大学紀要 ・第6巻3 号,所収).p.44および註(6),p.46を参照せよ。 なお ,この点について ,本稿続篇で詳細 な論 述を展開す る予定である。なお

,

「生体解剖

という言葉はニーチ ェの著のい くつ かの箇所 で 見 られ るが ,例 え ば F力- の 意 志jNr. 405を御 覧あれ。そこで は

,

「我 々の精神 的 な繍 田さは,本質的に,良心の生体解剖によっ て達成せ られた」 と言 う。因に言えば ,パ ス カルの 「繊細の精神」 も.一見そ う見え るが 如き 「幾何学の精神」との単なる比較対照で , 我々の前に提出された ものではない。 この こ とは本稿≪その1≫で我々が見て きた ところ であるが ,再度 ここで確認 してお く。 帥 Kant, K

.

d.p.V.,S.155. 縛 Nietzsche "Die frbhliche Wisse n-schaft" Nr.335. 的 我々の 「生」は単なる無時間的な 「存在」 で はない。我々は この生 を一 度 限 りに (Ein Malに)生きている。ニーチェの 「勇気」は , この一度 限 りの生 を ,一度 限 りの ま まで . 「もう一度 (れocheinma

l

)

」生 きることを , くり返 し くり返 し意志す るの で あ る。Vgl. Nietzsche "Also sprach Zarathustra"

Ⅲ ≪Vom Gesichtund Ratsel≫ u. "Die frbhliche Wissenscaft" Nr.341。 印 Kant, K.d.p.Ⅴ.S.219

*) Hegel,''Grundlinien der Philosophic des Rechts" Theorie Werkausgabe

(Suhrkamp),Band7, S.24

銅 Hegel, "Enzyklopadie der philoso

-phischen Wissenschaften''S43,Zusatz. 囲 Vgl.ibid,§50,ここで- -ゲル は次 の

(11)

よ うに言 っている●●●

「思惟を高め感性を超え させること,思惟が無限なものへ と有限な も のを超えで ること,感限なものの系列を断ち●●●● 切 って無限な ものへ と跳躍すること,これ ら すべてのことが思惟するということ自体に他 な らない。このように超えで るのは思惟だけ である。このように超えでるべきでないのな ら,思惟 してはならないことになる」0 61)Hegel,"Wissenschaft der Logik" erster Teiled.Lasson S.41

的 Hegel, "Enzyklopadie der philosohi

-schen Wissenschaften" S28 Zusatz. 的 ibid.$36 Zusatz. 帥 Hegel, "Wissenschaft der Logik" erster TeilS.36. 的 ibid.S.31. 的 vgl.ibid.S.66f. 07)ibid.zweit,er TellS.484. 的 S6ren Kierkegaard, "Der Begriff Angst" nbersetzt von EmanuelHirsch,

-71-Eugen Diederichs Verlag, S.9.

@9)Hegel,"PhanomenologiedesGeistes" ed.Hoffmeister,S.20.

的 例 え ば,Hegel"Glauben und Wissen" Theorie Werkausgabe (Suhrkamp)Band 2,S.432f.参照。 ここで は次 のよ うに言わ れ る

「ただこの過酷さ (引用者註 :神喪失 の過酷さ)か らのみ- (中略)- 最高の 全体性が ,その全き厳 しさに於いて ,その最 も深い根底から,同時にすべてを包括 しつつ , その形態の最 も明朗な自由のうちへ復活す る ことができるし,また復活す るに相違ない」 と。

(51)Nietzscie"Alsosprach Zarathustra" ≪ Das Grablied≫ Kr6ner Ver

l

. S.

122.

鋤 Hegel " Vorlesungen tiber die Asthetik"Ⅲ , Tbeorie Werkausgabe

参照

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