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ニーチェ・コントゥラ・パスカル(その2) : パスカルの「心情」とニーチェの「心胸」

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(1)

ニ ー チ ェ ・ コ ン ト ゥ ラ ・ パ ス カ ル (そ の

2)

Nietzsche contra Pascal (2)

―Der "Cαur" bei Pascal und das "Herz" bei Nietzsche―

Haruyuki Enzo

(Ⅰ)

すで に前章 に於 いてみてきた よ うに,パ スカル は,理性の 自己潮源的歩みを通 して

,

「理性」の次 うつろ 元 をその根底 に向 って突破 し,その奥底に空 にロ を開けた深淵へ飛 び込み,身を もって 「心臓」 の 次元を切 り開いたのであ る。「心臓 (心情)」の次 元 は単 に 「頭 を向け換 える」 ことによって開かれ る抽象的 な思考 の次元ではない。我 々が身を もっ てそ こに於 いて生 きてい るところの具体的 な生の 次元である。元 々我 々は投げ入れ られた地平 に於 いて 自分 自身 を 「心臓」のサ ソチマンの働 きによ って兄 いだ しなが らその地平で生 きている。元初 的 に開示 された地平で兄 いだ され る我 々は

,

「広漠 たる中間に漕 ぎいでているのであって,常 に定め な く漂い」 (前掲引用文),完全 な流動性の うちに ある。 そ こに於 いてはもともと固定 した生 きるべ き方 向は求め るべ きではない し, また求め るべ く もないO「真 の道徳 は,道徳 を噺笑す る

(Fパ ンセ』 fr.4)。もともと我 々は動 きの中に投 げ入れ られて 生 きているのである。す なわち

,

「我 々の 自然本性 は動 きの うちにある,完全な休息 は死である

(Fパ ンセ』fr.129)。生 きている限 り,た とえ自己逃避 とい う非本来的 な動 きであれ,常 に動 きの うちに ある。 もとよ り,我 々の生本来の動 きは,方向喪 失的 な浮動 ・流動 ・妄動 にはない。 さ りとて,固 定的 に方 向を指 し示す 「一般的基準

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」はない。それ らのいずれで もな く,我 々人間 の人間 らしい生 き方 はその都度 自分 に方 向を与 え 自分 を超越 してい く力動性にある。「私が私 の尊厳 を求 めなければならないのは,空間か らではな く, 私の思索の規制から

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であ る

(『パ ンセ』fr.348)。 ここで言われ る 「思 索」 は前 にも述べた よ うに理性 の推論的思索では な く,心臓 による思索である。 差 しあた って,・心情の次元 は果無 き拡が りをも 士よ って我 々に開かれてお り,そのなかで我 々はさ迷 さ まよ い坤吟 う。 げにまこと心情の次元 は理性 の裏面か ら口を開 き,我 々を呑み込む深淵 なるカオスであ る。 しか し,心情の次元 が無秩序 なカオス とみ え るのは実 は推論的理性の側か らみた場合 の ことに しかす ぎない。なるほ どパスカル 自身

,

「どの人問 的学問 もそれ (秩序)を守 ることはで きない

」(

Fパ ンセ

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6

1)と, いっているが, かか る秩 序は「原 理 と証 明による秩序」で しかない。「理性 の知 らな いそれ 自身の理性」を もつ心臓 (心情) は,それ 故 にまたそれ 自身の秩序をもつのである(『パンセ』 fr.277,fr.283参照)。一見盲 目的 ともみ える本能 も心臓 の働 きの一つ(1)として実 はやは りすでにそれ 独 自の論理 を もつ。本能的 に生 きる人間 もすでに 自然裡 に或 る論理 に従 って生 きている。 それ故, 本能 に従 って生 きている 「民衆」 は 「きわ めて健 全 な意見 を持 って」生 きている (Fパ ンセ』fr.324 参照)。心臓 による思索 は,通常 の人が知 らず知 ら ずの うちにそれ に従 って生 きてい る- それ故 ま た知 らず知 らず の うちに背 くことに もな る- 請 理 に, 自覚的 ・決断的 に どこまで も従 うのである。 パスカルの Fパ ンセ1 自身 この よ うな心臓 に よる 思索の所産であ る諸思想 の叙述で な くして なんで あろ うや。 パス カルの遺稿集に附 された Fパ ンセ』 とい う 書名は もとよ りパスカル 自身の命名 によるのでは ない。 しか し,パスカルの この作品 は,実際にま た文字通 り,パ スカルの断章的諸思想

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その ものに他 な らない。 それ故, その思想 の叙述 の順序

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「心臓 (-心情

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」の秩序

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その ものに遵ず るものであ る。つ ま り

,

「理 性の知 - 3

(2)

9-らない」秩序 に従 うのである。パ スカル 自身の言 うところに よれは,こ うである。つ ま り

,

「私 はこ こで秩序 な しに, しか も恐 らく計画のない混乱 に 於 いてで はな く,書 き記 したい。それが真の秩序 であ り,無秩序その もの によって私の 目的を常 に 示 して くれ るであろ う

」(

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0 Fパ ソセ』において塁示 され る諸思想 は心臓 によ エン トブル7 る思索 の企 投 に従 って,そ こに呈示 されたのであ って,単 に頭 のなかに漠 然 と浮 び上 って くる観念 が塁示 されたわ けでは更 々ない。心情 の深みか ら 企投 されて くる思想

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であ る.いわ ば,パ スカルは 「織細 の精神」 によって外部か ら 裏 に廻 って心情 の深み に潜 り込み,その心情の次 元か ら,諸 々の思想 を企投す るのである。かか る 思想 が,パスカルの言 う「背後の思想

」(

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だ といえよう。 ところで 「繊細の精神」においては

,

「蔑何学的 精神」とは異 な り

,

「頭 を向けるまで もな く」

,

「原 理 は 日常 の慣用の うちに,世間すべての人の眼の 前 にあ る

」(

Fパ ソセ

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1)。織細 の精神 は 日常の 生 にあって生 を広 く理 解 してい く精神であ る。生 の原理 は,幾何学の原理 のように何 ら特別の 「頭 の向け換 え」 を必要 とはせず,事実我 々が生 きて いる限 り,すでにその事 実の うちに与 えられてい る。だが,ただ し日常的 には我 々はその原理 に従 って生 きなが ら,その ことに思いを致 さない。た だ 「織細の精神」を持 つ者のみ能 くその事実の背 後 に廻 って,生の原理 を看取 し うる。彼 らは一般 の人 と同 じよ うに生 きていて も,それは事実 の背 後 のその理 由

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「心情 の理性」) か らの判 断に従 って生 きるのであ る(2)

0

か くして

,

「心情 の理 性」に従 ってのパ スカルの 思索 は,生身の生を離 れ ては,考 えられない。「心 臓 を もった思索」においては思索 と生 とが一体 に なってい る。パ スカル は肉身を もって生 きなが ら 思索 し,思索 しなが ら生 きたのである。パ スカル の姉 ジルベル ト・ペ リエの伝 うるところによれば, パ スカルは針のいっぱいついた鉄 の腹帯 を常 に身 に帯 び,「肉体 を突 き刺 し,た えず彼の精神を刺激」 し,思考 を一点 に (す なわち神 に)集中 させ るこ とに成功 した,とい う(3).心臓 に よる思索 は肉体 を 以 ってす る思索 であ る。実にパ スカルのFパ ソセ』 は病め る肉体を以 っての思索であ り,聞 く耳を も った人には,思索以上 の祈 りす らそ こか ら聞えは しないが 4㌔ この よ うにパ スカルの思索 は肉身か ら遊離 した 思考ではな く,生身の生を賭 した思索であ り,従 って勝れて生 きるとい う営為その ものである。 な ぜ なら,生 きるとほ本来生を賭 して生 きることな のだか ら。従 って,なるほ どパス カルの思索は彼 の病気 と死 によって中断 し,断章 のままFパ ンセ』 として遺 されたが, しか し,その病気や死 は彼の 思索 に とって外か らアクシデソ トとして襲 ったの ではない。パスカルの思想 は根底 か ら常 に死 に曝 された生の次元か ら断章 の形で思索的に企投 され るのであ り,従 って病気 も死 もそ の思索 に内的 に 属 しているのであ る.従 って Fパ ソセ』が断章形 式であ るのは偶 々そ うなった とい うよ りもむ しろ 断章形式で企投 され思索 された と言 うべ きであろ う。 同様 の思索 はニーチ ェに もみ られ る。『悦 ばしき 知識』に

1

8

8

6

年 になって付け加 えられた序文(5)に自 分 自身の病気 と哲学 について次の ように言 う。 「重い長煩の収穫は私 にとって今 日なお汲みて尽 きぬが,そ うい う時期 に感謝せず して別れ ること は私 にはできない ことは,おわか りで しょう。私 の変転 に富んだ健康のゆ えに,あ らゆ る粗野 な精 神 よ りいかなる点で私が勝れてい るか も私 は充分 よく承知 している。数多の健康 を通過 してきた し また繰返 し通過 してい くよ うな哲学者 は, また同 じよ うに数多の哲学を通 り抜 けて しま うのである。 彼 は自分 の状態 をその都度最 も精 神的 な形式 と背 景の うちに置 き換 えることがで きるだけなのであ る- この変貌 の術がまさに哲学 である。民衆の す るよ うに霊魂 と肉体 を分離す る ことは我 々哲学 者 には許 されない し,霊魂 と精神 を分離す ること はます ます もって許 されない。わ れわれは考 える 蛙で もない し,冷たい内臓を もった客観装置,記 録装置で もない」。 パスカルに とっても, ニーチ ェに とって も思索 紘, デ カル トの思索の よ うに身体 か ら区別 された 魂 の所為ではない(6)。パスカルや ニーチ ェにとって 思索 は,生の様 々の活動のなかの一つの活動 とい った ものではな く,身体 と魂 とに分割 され えない 原本的 な生の活動その ものであ る。すなわち生の

(3)

生を賭 しての活動であ る。心臓 の次元での思索 は 幾何学 のように一歩一歩順 に推理 の歩 を運ぶ とい うようにはな されない。パスカルの言葉 を借れば 一瞬 に飛躍す る(saute

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Fパ ンセjfr.351)のであ る。 ニーチ ェの場合,上 に引用 した箇所の続 きに 次の よ うに言われている。 「我 々は我 々の思想を絶 えず我 々の苦痛から生み だ さねばならない し, しか も母親の如 くそれ らの 思想に,我 々の うちにもつ血液 ・心臓 ・火 ・歓喜 ・ 情熱 ・苦悩 ・良心 ・運命 ・宿業のすべてを与 えね ばならない。生- それ は我 々に とって,我 々で あるところのすべてを, さらにまた,我 々に出会 うところのすべてを,光 と炎 とに変 えることを意 味す る。我 々はこの こと以外なに も出来 ないので あ る。」 ニーチ ェの思索 は,底 なき生の内奥か ら衝 き上 げ られ, 自己企投的に昂揚す る生 の純粋 な活動で ある。すなわ ち 「思索す る」 とい うことは,彼の 場合,「危険に生 きる(ge紹hrlichleben)

(

7

)

ことに 他 ならない。 ところで, お よそ生 きている処 に し て危険でない処が どこにあろ うか。ニーチ ェの「悦 はしき知識」 の悦 ばしさはまさにかか る 「思索」 や 「認識」に伴 って,底 なき生の底か ら湧 き上 っ て くるのでな くてなんであろ うや。パスカルが

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4

年 に体験 した とい う歓喜- それはFメモ リ7ル』 の うちで 「歓喜,歓喜,歓喜,歓喜の涙」 と言い 表わ されてい る- も,かか るニーチ ェの 「悦 ば しき知 識」の歓喜 と等 しい次元での体験 であるに 相違 ない(8)

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(Ⅰ

Ⅰ)

パスカルに とってもニーチ ェに とって も思索す 7イロゾ7イ-レン ること,就中哲学的思索すなわち哲 学 す ることは, す ぐれて生 きるとい う活動その ものであ った。パ スカルの場合,彼が 「哲学者」(lephilosophe)と 呼んでいる人達に対 してなるほど批判的ではある(9)。 しか し,その場合の哲学者たちはいわば 「半可 な 哲学者 たち (1esdemi-philosophes)」であ る。彼 らの理性(raison)は,現実の背後 に存す る 「現実 の理 由 (raisondeseffets)」を中途半端 に知 るに とどま り,それを どこ迄で も徹底 して見透 してい く(p6netrer)ことがない.か よ うな 「哲学 を噸笑 す ること」 こそ,パスカルに とって 「真 に哲学す ること

」(

Fパ ンセ

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r.4)なのであ る.で は,哲学 す ることが一体如何なる意味で 「す ぐれ て」生 き るとい うことなのであろ うか。哲学的思索 (す な わち哲学的な生) の卓越性をパ スカルの場 合 に於 いて見 てみ よ う。 生 ける現実の理 由 (理性) は,現実を して生か しめてい る理性であ る。パ スカルの立場 か らみれ ば,我 々はその理性 (理 由)を殊 更知 らず とも, 既 に理性 (理 由) に従 って,現実 に生 きているの であ る。 それ故 にパスカルは Fパ ンセj (fr.324) で 「一般人 はきわめて健全 な意見 を持 ってい る」 と言 う。 いわ ば 「本能的 に」すでに理性 に従 って 生 きているのであ る。かか る理性 にかな った生 き 方(viesraisonnables)の一つの例 として ここ(Fパ ンセ

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.324)でパ スカルは 「不確 実 なことのため に努力す ること,航海 に出かけること,板 の上 を 渡 ること」 を挙げている。 もともと人間 は生 きて 有 る限 り,常 に死 に曝 されて存在す る。す なわ ち 人間 は生 きて有 る限 り,根底か ら無 (即 ち死) に 曝 されて可能的に存在す るのである。根底 か ら無 に曝 された存在た る人間 は徹底 して可能的 な存在 であ り不確定 な存在であ る。 ニーチ ェ的 な言い廻 しをすれば,人間は,「末だ確定せざる動物である」, のみ な らず,人間 は未来へ と渡 る 「一個 の橋」 な のであ る(10)。人間 は,無限に多様 なる 「可能 な」 有 り方 のまっただ中でその うちのひとつ の 「可能 な」存在 として, その都度存在す る。現 に生 きて い る我 々の この生 も実 は無限に多様 な可能的有 り 方 の うちの一つの可能性 に しかす ぎない。 裏返せ ば,我 々は無限 に別の有 り方で有 りうるこ とが可 能 なのである。否定的に言 えは,不確実 ・不確定 な存在 であ る我 々人間は,積極的 には,無 限 に多 様 なことをな しうる可能性 (能力) に於 いて存在 しうる,と言 うことがで きる。「確実 な ことのため に しか何 もすべ きでない」 のではな く,む しろ逆 に,不確実 な ことのために積極的に何かを なすべ きなのであ る。 それ故, その理 由を知 らず とも, あ る一定の可能性 に向 って,現 に生 きてい るこの 自分の存在 (この存在 もまた諸 々の可能 な 自己の あ り方 の一つであ る)を賭 けて生 きるな ら, それ は理 に適 った生 き方 なのであ る。 そ こでパ スカル は言 う。「人が明 日のために,そ して不確実 なこと -

(4)

41-のため に努力す るとき,理 に適 った行為を してい る (agiravecraison)。 なぜなら,すでに証 明さ れた分 け前 の規則 (lafgledespartis)によって, 人 は不確実 な ことのために努力 しなければならな いか らなのであ る

(Fパ ンセjfr.234), と。 ここで言われてい る 「分 け前の規則」 は,かの 「現実 の理 由 (理性)」 の ことである。人 は既 に現 実 に この規則 に従 って生 きてい る (すなわ ち自己 の可能性へ と自己を超 えでている) のであ る。パ スカルか らすれば

,

「聖 アウグステ イヌス」は 「故 紙 の精神」によって

,

「幾何学的精神」の如 き硬直 した精神によっては見落 される人間の生の現実を, 能 く見 て とることがで きたが, しか しその彼です ら, その現実の手前 に とどまっておって背後 にま で廻 って 「現実 の理 由 (理性)」を見透す までには いた っていない。「聖 ア ウグステ ィヌスは,人が海 や戦 いな どで不確実 な ことのために力を尽すのを みた。 しか し彼 は,人がそ うせ ざるをえない こと を証 明す る分 け前 の規則を見 なかった」。要す るに モ ンテーニュ同様彼 も,「この現実 の理由を見 なか った」 (上掲 に引用 した断章 の続 き) のであ る。 現実 の この生をその背後 にまわ ってみれ ば,そ れ は無限に多様 な可能的在 り方 の うちの一つの可 能的在 り方である。「生 きる」とは,可能的存在 と しての生 自身が常 に新た なる可能性へ と自分 自身 を賭 して, 自分 自身超 え出 ることに他 ならない。 パ スカル流 に言 えは,我 々は生 きている限 り, も うすでに船 に乗 り込 んで しまっている。「賭 けなけ れ ばな らない

」(

Ilfautparier.)のであ る。ニーチ ェ流 にいえば「ひとは常 に犠牲 をささげている」(ll)0 つ ま り生 きるとは,常 に 自己の可能性に向 って 自 分を犠牲 に供す るとい う絶ゆ問ぬ 自己活動である。 通常 の生 とて,斯 く本能的 に生 きてはい るが,哲 学 とは, まさに 自己の一定 の可能性- と決意 ・決 断を以 って 自分 を企投 しなが ら生 きる生 き方 を言 うのであ る。 この場合

,

「決断を以 って」とは,坐 の非本来的 な可能的在 り方 (パス カルの例 を用い れ ば,例 えば 「賭事,狩 り,訪問,名声 の偽 りの 永続」)へ と自己逃避す る道 を 自ら決断的に遮断 し て,とい うことなのであ る。パスカルに とって(ニ ーチ ェに とって も同様 なのであるが)哲学的 なる 生 の (す なわち哲学 の)生 としての卓越性 は,実 に この 「決意 ・決断を以 って」 とい う点 にあ る。 賭 けを賭 け として生 きる,つ ま り覚悟 して一定の 自己の可能性 に自分 自身を賭 けて生 きるとい うこ とが,す なわ ち哲学 とい う生 き方 なのである。 ところで,無限に多様 な 自己の諸 々の可能性の うちか ら最 良の可能性 を選択的に取 り出し企投す ることが可能であるためには,無限に多様 な可能 性をで きるだけ多 く思索的に先取 しておかなけれ ばならない。従 って 「哲学す ること」 には当然 自 己の諸可能性 の先取 が属 していなければならない のである。 この ことを表 明的に遂行 したのは, ニ ーチ ェの哲学 であった。彼 は

,

F力-の意志』に収 録 された 「F然 り』への私の新 しい道」と題 され る アフォ リステ ィッシュな断章(Nr.1041)のなかで, 自分 自身の哲学 を 「実験哲学 (Experimental-Phi -losophie)」と自ら命名 し,次の よ うに述べてい る。 「私が これ まで理解 し生 きて きた哲学 は,現存在 の憎悪 し非難 さるべ き側面 を も進 んで探究す るこ と(dasfreiwilligeAufsuchen)である。 かか る 氷 と沙漠を通過す る坊径が私 に与 えた久 しき経験 か ら,私は, これまで哲学 してきたすべての もの を異 なった見方 で見 ることを学 んだ.- (中略) - 認識の獲得 はすべて勇気か ら, 自分 に対す る 冷徹 さか ら, 自分に対す る潔癖 さか ら生ず る・ --私がそれを生 きているこの よ うな実験哲学 は原則 的なニ ヒリズムの諸 々の可能性を試験的に先取す る」。 ニーチ ェの哲学 は単 に観念的に思念 されたので はな く,身 を以 ってそれ を 「生 きる」 ところの哲 学 なのである。 ニーチ ェに とって 「哲学」 とは, これ まで生 きて きた ところの,そ して現 に生 きて いるところの生その ものであ り, しか も未来の 自 己のあ らゆ る可能性をすでに生 きている,か よ う なす ぐれて 「生 きる」 とい うことその ものなので ある。 そもそ も 「生 きる」とい うことは

,

「実験的 に生 きる」 とい うことであ り, ニーチ ェはそ うい う生を進 んで(freiwilligに)生 きることを意志 し たのである。 それが

,

「実験哲学」を生 きん とす る ことであ り,ニーチ ェの言 によれ ば,「我 々自身が 我 々の実験であ り,実験動物であ ることを意志す る」(12)とい うことなのであ る。 元来生は常 に死 (顔) に曝 され明 日を も知れ無 い ものであ り,従 ってニ ヒリステ ィックである。 かか るニヒリステ ィックな生 に どこまで も徹底 し

(5)

て誠実 に生 きることが, ニーチ ェのニヒリズムで あ る。すなわち, ニーチ ェの 「ニ ヒリズム」 は, 元来 ニ ヒリステ ィックである生 を誠実 に,いやそ れ以上 に積極的 に,生 きることなのである。それ が実験動物 として 自己の生を犠牲 に供 して生 きる とい う生 き方 なのである。 この場合, 自己の一定 の可能性が生の外か ら (す なわ ち生の彼岸か ら超 越的 なものによって)指示 され,それに自己の生 を賭 けるとい うのではない。実験的 に生 きること によっては じめて, 自ら自己の諸 々の可能性を拓 いてい くのであ る。それ故, ニーチ ェは, ニヒリ ズムを生 きる自分 自身の ことを,「すでに一度 は未 来 のあ らゆる迷宮の うちへ迷い こんだ ことのあ る 冒険の精神,実験 の精神

(F力への意志』序文) と呼ぶのであ る。 ニーチ ェのニ ヒ リズムはクー ミ ノロジカルには一応Nihi1-ismusという名が冠され てはい るが, しか しそれは何か或 る一定の立場 -「イズム」を言い表わ しているわ けではない。生そ の ものを根源的 に生 きん と意志 しなが ら生 きる生 き方 をい うのである。 このことは, ニーチ ェが 自 分の ことを指 して 「ニ ヒリズム自身を自分 の うち で終 りまで生 き抜いて しまった」 ところの 「完全 なニ ヒリス ト」(13)と,称 した ところによく表われて いるo ニーチ ェはニヒリズムをひ とつの「イズム」 として主張 したのではな く,彼 はそれを 「生 き抜 いた」 のであ る。「ニ ヒリズムを生 き抜 く」 とは, 取 りも直 さず, かの 「実験哲学 を生 き抜 く」 とい うことと同 じことなのである。 パ スカルの場合,無限に開かれた 自己の可能性 の地平 の うちで 「迷 っている(S'egarer)」 とい う 状態 で 自分の現在の状態 を兄 い出 したのだが,か か る状態 のニ ヒリズムをさらに, ニーチ ェの よう に自分か ら進 んで 「未来のあ らゆ る迷宮 の うち-迷い こんで しま う(sichverirren)」まで,徹底 し て生 き抜 くことはしなかった。蓋 し,斯 くまで ニ ヒリズムに徹 してはじめて, 自己の可能性を自分 か ら自分 に対 して企投的に定立す るが如 き無条件 的 な- す なわちニヒリステ ィックな- 主体性 に達 しうるはずである。 この無条件的な主体性が ニ-チ ェによって 「力への意志」 とよばれ るもの なのであ る。後 に詳論す ることになろ うが, ニー チ ェの 「力への意志」 は, 自己の可能性 とその条 件 を 自分か ら自分に対 して定立 し,絶 えず 自分 自 身を超 えでて止む ことがない。 このよ うに ニーチ ェの 「力-の意志」 は一個 の確立 した 「立場」 と も言 えないような絶 えざる自己超越の立場であ り, その意味で 「完全 なる」 ニ ヒリズムなのである。 ニーチ ェはかかる 「力への意志」 に,他 に悼む こ とな く自らニ ヒリズムを進 んで生 きることによっ て, 自己の存在 の根底で逢着 したのであった。言 い換 えれば, ニーチ ェの 「力-の意志」 は, ニヒ リステ ィックな生を進 んで(freiwilligに)生 きん とす る 「自由意志 (freierWille)」が, いわば生 の無底なる根底で自ら自己転換 して,そ こか ら湧 出してきたのだ とはいえないだろ うか。ところが, パス カルの場合,そこまで 自分 自身を (取 りも直 さず, 自分 自身の意志を)徹底 して追求す ること がなか った。パスカルは生の根本的意志 を余 りに もナ イーブに 「幸福への意志」 と考 えて しまった のである。 それでは一体パスカルは,生の根本的意志 を「幸 福- の意志」 と看倣す ことによって,その意志 に 従い人間の如何なる存在可能性を企投的 に定立す ることになったであろ うか。次に この問題 につい て今少 し立 ち入 って究明 していきたい。

(

)

『幾何学的精神について』とい う小論の第二部「説 ポロンテ 得術 について」のなかでパスカルは

,

「意志 のそれ (原理 と原動力)紘,幸福で有 ることを欲す る欲求

(ledesird'etreheureux)の如 き, 自然 な,すべ ての人に共通 な,ある種の欲求であ る」(14)と述べて いる。パ スカルの思索 (パ ンセ)- 前章 (ⅠⅠ) で明 らかにした ように,実 はこの思索 自身 がすで に 「心情」 による思索なのであるが- は,理性 とは別の- 一層適切 な言い方 をすれば,理性 よ り一層根源的 な- 生の次元 として 「心情」の次 元を開示 した。差 し当 り 「心情」 にはサ ンチマン の機能が属 し,我 々は心情 によって惨めであると サンチ-ル 感 じているのである。「感 じることがなければ惨め ではない。 こわれた家 は惨めではない。惨 めなの は人間だけである

(Fパ ンセ

』f

r.399)。 しか しこ サ ンチール の感 知す るとい う働 きをなす 「心情」は, 同時に デジ-ル また欲求す るとい う働 きもなす。 この 「欲求」あ るいは 「意志」の働 きの うちにパ スカル は人間的 -

(6)

43-生の核心 を兄 い出 したのであるが, この働 きその ものをそれ以上深 く追求す ることはなかった。パ スカルは,生本来の 自然な意志 は自然に幸福で有 ることを意志す ると,無邪気 なまでに自然に考 え たのである。 パスカルは (rパ ンセjfr.167)で 「人間的生の 惨めさが これ らすべての基 となっている」 といっ ているが,パスカルの幸福-の意志の立場か ら翻 えってみればかかる意志が人間的生のすべての現 象をひき起す ともい うべきであろ う。「気を紛 らす」 とい うことも,幸福で有 ることを人間が意志す る が故にである。 いやそれ どころか,そ もそ も人間 的生の現有が悲惨で有 るのは人間が幸福 を意志す るか らである。前 に引用 した文で 「感 じることが なけれ ば惨めではない」といわれ るが

,

「幸福を意 志す ることがなければ,惨めでない」のである。 デジ-Jt・ サ ンナ-〟 幸福で有 ることを意志するが故iち 現有を惨めと感 じ, 現有を惨めで有 ると感 じるが故 に幸福 を求める。 惨め と感 じることと幸福 を意志す ることとはパス カルの思索では表裏一体 を成 してい る。人間の一 生は,惨めで現 に有 ることと幸福で有 ることを意 志す ることとの間を循環す る。「幸福であろ うとす るが, 自分が惨めなのを見 る

「こうして一生が 流れ さる」(15)のである。日常的生を営 んでいる老な ブロジュテ ら, 自分 の幸福 な有の可能性を自分の外-投げ出 して財産や名声の うちに定立す るか もしれない。 哲学者 なら,われわれの うちにそれを求め るか も しれない。 しか しパスカルに言わせれば,それ ら はいずれ も真の幸福

(

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とはいい難い。 パスカルは言 う。「幸福 は,われわれの外 にも,わ れわれの内にもない。それは神の うち,すなわち, われわれの外 と内 とにある

(

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パ ンセjfr.465)と. ところで さて, そもそ も 「生 きる」 とは,或 る 一定の 自己の可能性へ と自分 自身を超越 してい く ことである。同 じ自己に とどまっていては生 々と した生 とはいえない。 しか しその 自己の可能性を 生 に定立す るのは他 ならない生 自身す なわち生の 意志の働 きである。生 は,生 きてある限 り,常 に 自ら意志 して 自己の可能性 を企投的 に定立す るの である。生 きとし生 けるものすべて生 きている限 り死の可能性 に曝 されてお り,従 って可能的にあ るが,それだけではない。可能的に有 り且つ可能 性へ と自分を超越 してい くのである。人間的生が 生 きとし生けるもののなかにあ って,優れて生 き 生 きとした生であるとす るなら, その人間的生の 優越性 は,人間が意志的に諸 々の可能性の「真申」

(

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u)

に超越す るとい うところに求められよう。 人間は常 に,無限に可能 な可能性 の 「真申」 に超 越 してお り,そ こである一定の諸可能性を見渡 し なが ら生 きてい る。可能性 について全 くの無知で あることも無限な可能性のすべてに渡 って知 るこ とも人間には可能ではない。人間 は無限な可能性 の 「真申 (-中間)」- と超越 してい るのであって, 「中間」か ら超越 しよ うとす るなら,人間で有 るこ とか ら逸脱 して しま うのであ る(16)O 「存在」の次元で見た場合,人間が 「中間」に有 るとい うことは,人間存在が二重の無に曝 された 空 しい存在であるとい うことになる。すなわち無 限 と無 との中間に有 る人間存在 は無限 と無 とに曝 されている。 しか し 「意志」 の次元でみれば,中 間にあ るとは無限に可能 な可能性が人間に対 して 開かれているとい うこと,すなわ ち自由であると い うことであ る。人間の意志 は自己の諸 々の可能 性を自分に対 して自分か ら- す なわち自由に一 一定立す ることができる。「人間は天使で有 るので もない し獣であるので もない」 とい う,二重の否 定性 は,裏を返せば

,

「人間は天使 で有 りうるし獣 で もあ りうる」とい う二重の可能性 を示 してい る。 人間が 「中間で (に)有 る」とい う人間の規定 は, ザイエンヂス 二つのあるいは諸 々の存在者の中間に有 るとい う 人間の 「存在」の規定 とい うよ りはむ しろ,諸 々 の自己の可能性 (無)の 「真申」-超越す るとい う人間の 「意志」の 「構造」(17)を表 わす。 か くて F意志』の次元か らは人間の生について こう言 える。すなわち,人間 は 『意志』 として元 来すでに,無限に多様 な自己の可能性 を自分に対 して定立す ることが可能である。 人間 は F意志』 として最初か ら無限に開かれた可能性 の地平 にい わば 「脱 臼的」に立 ってお り(18),且つかかる可能 性の地平でその都度一定の 自己の諸可能性 を先行 的に定立す る。その上で,人間 は 自分 自身をその 可能性へ と超 え出,かか る動性を もって生 きてい るのである。パスカルはこの生の根本 『意志』を 幸福への意志 と見倣 したのであ る。かかる『意志』 は 「幸福」 とい う観点でやは り様 々の生の可能性 を定立す る。 しか しこの多様 な諸可能性 も/ミスカ - 4

(7)

4-ルでは究極的 には 「神あ り」 の場合 と 「神 なき」 場合 とい う二つの二者択一的可能性のもとに収赦 され る。結論か ら言 うと,前者の場合に賭 けて生 きるのがパスカルの場合 の生 き方 であった。 「魂が可死的であるか不可死的であるかが道徳に 完全 な差異を与 えるはずであるとい うことは疑 う べ くもない

」(

Fパ ンセ

jf

r

.

2

1

9

)

と,パスカルは言 うが,まった く同 じことがパスカルにとって

,

「神 はあるか,ないか」 とい う問題 にもあてはまる。 いやそれ どころかパスカルにとって 「無限の生」 も 「神あ り」の場合 にのみ可能 なのであるか ら, む しろ 「神 はあるか, ないか」 とい う問題の万が 一層板源的な問題である。「神がある」の と 「神が ない」の とでは我 々の生 き方が完全 に違 って くる とパスカルなら言 うであろ う。我 々の生 は諸 々の 多様 な可能性 に向って開かれているが,「神がある か, ないか」 とい う問題が立 てられた場合,諸 々 の雑多な可能性 は究極的 には 「神 あ り」 の場合か 「神 なき」場合かいずれかの場合の下 に帰 して しま う。 それでは,生が根源的に幸福 を意志す るとし て,その場合いずれの可能性を選択 し,いずれの 可能性 に賭 けて生 きるべ きなのか。言 うまで もな く,パスカルなら 「神あ り」 とい う可能性 に賭 け て生 きるべ Lと言 うであろ う。 Fパ ンセ』の賭 けに ついて述べたかの有名な断章

(

f

r.233)に よると, こうであ る。すなわち

,

「神あ り」に有限な生 と有 限な幸福 とを賭 けて手 に入れ る利益 は 「無限に幸 福 な無限の生」であると。だか ら,パスカルに言 わせれば

,

「神あ り」に賭 けて生 きることは 「心情 の理性」に適 った生 き方 なのである。逆 に言 うと, 「神あ り」 に賭 けず に生 きることなぞ到底

,

「理性 を捨 てない限 りで きない

(『パ ンセ

f

r

.233)ので ある。 パ スカルの立場か ら言 えば,「理性」にとっては, 「神があるとい うことは不可解であ り,神がない と い うことも不可解である

(『パ ンセ

』f

r

.230)。 し か し

,

「理性 」の次元ではな く

,

「心情」の次元で 神 は我`々に与 えられ るのである./1スカルの言 う 「神 と共 に」とは,神の存在がまず理性によって認 め られて次いでその神 と共 に生 きることを言 うの ではない。「神あ り」の可能性 に賭 けて生 きること によって,かかる生 に神が与 えられる。神 に賭け て生 きる とい う決断を した 「心臓」 にしてはじめ て神 の生 々とした心臓 に触れ ることができるので ある。パスカルは,理性で はな く心情の次元で, 神 と常 に触れ合いなが ら 「神 と共 に」生 きん とす るのである。彼によれは

,

「神 は心臓 に感 じられる のであって,理性に感 じられ るのではな

」(

Fパ ンセ

jf

r

.

2

7

8

)

のである。 かか る 「神 と共 に」生 きるパ スカルの立場か ら 振 り返 ってみ るなら,敢 えて (つ ま り意志的 に) 神 に賭 けるのでなかった ら,その時すでに人 は「神 なし」に生 きているのであ る。常 に

,

「神 に思いを 致 し (penser

a

Dieu)」 なが らでないな ら,それ は 「神 なし」 に生 きていることになる。人が 自分 自身 について考 える場合 も同様 であ る。独 り自分 だけで 自分 について考 えるな ら,それは「神 なし」 に生 きてい こうとしているのである。人間が 自分 について考 え, 自分 自身を惨めだ と感 じるの も, 実 は 「神な し」に考 え-生 きる場合のことなので ある。従 って,かの 「人間の悲惨 さ」 も,かかる パス カルの最終的立場か らは,無条件に人間がそ うだ と言われ るのではない。「神 なき」場合 とい う 条件 の下で,その限 りで考 えられた人間の コンデ ィシ ョンなのである(19)0 してみれば

,

「神があるか, ないか」の問題 は, 実 は 「神 と共 に生 きるか,神 な しに生 きるか」 と い う生 自身の意志決定の問題 に還元 され るO この あ 「彼れか,此れか」の二者択一的問題 に直面 して, パス カルは

,

「神あ り」の場合 に獲得 しうるべ き利 益,す なわち無限の利益を見込 んで

,

「神 あ り」に 賭 け るのであ る。 さて,かか る「神 と共 に生 きる」 とい う可能性を定立 した り,その場合の可能 な利 益 (自己の幸福)を予め見透 した りす るのは,そ もそ も実 は核心たる F意志』の働 きであ る。つま り,パ スカル的生が,それに賭 けて生 きるところ の 「神 と共 に生 きる」 とい う可能性 を予め定立す るのは,や は りまた生 自身,す なわ ち生の根源的 意志 の働 きなのである。パスカルの場合 この意志 が幸福-の意志 として, 自己の幸福 とい う観点か ら 「神 と共 に生 きる」 とい う自己の可能性 を企投 したのであった。 しか し, もともと生 はその根源 に於 いてF意志』 として, 自分か ら (自発的に)無限に多様 な自己 の可能性を 自分の前 に自分に向 って企投的 に投げ 掛け定立す ることが可能であ り,且つその都度或 -

(8)

45-る一定 の諸可能性 を定立 してい る。「神 あ り

」-

「神 と共 に生 きる」 とい う可 能性 も, それ らの諸可能 性 のなかの一 つ の可能性 にす ぎないが, しか も卓 抜 な可能性 であ る。「神 あ り」を, 生 の意志 は,他 の諸 々の可能性 の よ うに単 に自分 の前方 に投 げ掛 け るだ けで はない。「神 あ り」の場 合, かか る可能 性 は 「無限の距離」 の彼 方 にまで投 げ込 んで しま う。 しか しこの場合, 無 限の彼岸 に投 げ込 まれ る の は 「神 あ り」とい う可能 性だけに とどま らない。 パ ス カル に於 ける F意 志 』 は, 同時 に 自己の可能 性 を 自ら定立す る可能 性 (能力) を も一緒 にそ こ へ投 げ入れて しま う。 か くしてパ ス カルにおけ る F意志』は 「神 あ り」を定 立す る ことに よって, 自 ら意志 で あ ることを放 棄 して しま うのであ る。 げ に ま ことニーチ ェの言 うよ うに

,

「F神』 は余 りに も極端 な仮設 で あ る」(20)0 ここで言 う仮設(Hypothese)は,普通 の科学 に み られ る よ うに,経験 的 に検証 あ るいは反証す る ことが可能 な理論 の定立 を言 うの ではない。 そ う で はな く,生 が予 め立 て る或 る一 定 の 自己 の可能 性 の条件 の ことで あ る。 その条件 の上 で は じめ て 一定 の形 態 の生 が可能 となる限 り, それ は文字通 り 「下 に一定立」(Hypo-these)され るのであ る。 「神 とい う仮設」の場合 , 他 の生 の条件 の定立 のす べ て とは異 な り, それ を定立す る者 は 自分 の力 の 及 ばぬ極 限 に投 げ入れ て,それ に無条件 に服す る。 かか る意 味で神 は極端 す ぎる仮設 であ る。 この仮 設 の もとにパ ス カルは ま さに畏敬 の念 に うち震 え る心臓 を抱 いて神 と共 に生 きたので あ った。 しか し, ニーチ ェはか か る/1ス カルの生 き方 が 結局 ニ ヒ リズ ムに陥い らざるを えないのを見通 し て しま うのであ る。で は如何に して生 はか の 「極 端 な仮設」 の下 か ら脱 し うるか。 それ は容易 な こ とで はない。 なぜ な らそ の仮設 の下 で ニーチ ェの 生 も可能 にな った ので あ るか ら。従 って 「神 とい う仮設」はすでに血 肉化 している。 脱 ご うとして簡 単 に脱 ぎ捨 て る ことはで きない。 その脱却法 につ いて ニーチ ェは こ う言 う。「魔 端 な立場 が解消 され るの は, ほ どよい立場 に よってで はな く, これ ま た極端 な, しか し逆 の立 場 によってであ る。 か く して, 神 に, また本質 的 に道徳的 な秩序 に対す る 信仰 が もはや侠 ちえな くなった時, 自然 の絶対的 非道徳性 に対す る信仰 , 無 目的性 や無意 味性 に対 す る信仰 こそ,心理学 的 ・必然的 な情 動 であ る」(2

1

)

0

「神 とい う極端 な仮設」の下 か らは 「最 も極端 な ニ ヒ リズ ム」(derextremsteNihilismus)(22)に よ って は じめ て脱 出可能 であ る。 ニーチ ェはそのた め に まず

,

「頭 と心臓 で もって,最 も冷 い水 のなか へ飛 び込む」(23)が如 く,非情 なニ ヒ リズムの うちへ, 勇気 を もって(-心臓 を持 ってeinHerzenhaben) 飛 び込 んで, ニ ヒ リズ ムを 「極限」 に まで突詰 め たので はないであろ うか。 註 (1)パスカルは 「本能」

,

「サソチマン」

,

「心情」を 同一視 している.例 えは F,くソセifr.282を参照 されたい。 これ らはいずれ も「理性」に対 して 「心 臓」の働 きとして一括す ることができるが故であ ると思われる。 (2)Fパソセifr.336でパスカルは次のように言って いる。 「事実の理由。 背後の思想をもたなければな らない。そ して 民衆 と同じように語 りながらも背後の思想か ら判断 しなければならない。」 さらに

,r

パンセjfr.331では,次のように言 う。 「プラ トンやア リス トテレスといえば,立派な学 者服を着た人 としか人は想像 しない。しか し, あた り前の篤実な人であって,他の人 と同様, 彼 らも友人 と談笑 していたのだ。- (中略) - (彼 らの生活の)最 も哲学者 らしい部分 は単純に静かに生 きることであった。」

(3) MadamePerieruLaviedePascal"Bibli

o-thさquedelaP16iade"Pascal"p.13f.

(4) Fパンセ』と同じ頃,書かれた小品に,その名 も 正 しく

,

F病の善用を神に求める祈 り』"Prierepour demander

a

Dieulebonusagedesmaladies"と

い う文がある。 ここに記 されているのは,思索 と い うよりも最早,叫び求める祈 りである。

(5)NietzscheHDiefr6hHcheWissenschaft"A.

Kr6nerVerlagS.7f. なお F悦 ばしき知識』は ニーチ ェの最 もニーチ ェらしい思索が展開 した後 期のニーチ ェの思索の唱矢 となってお り, さらに 1886年は後に r力への意志』に収録 された数々の アフォリズムが遺 された時期であ る。 ここに引用 された F序文』はニーチ ェの思索の最盛期か ら振 り返 って付 された ものである。 この自著に後から つけ加 えた序文は

,

F悲劇の誕生』につけ加えた序 文同様,非常に意味深い ものを含んでいる。

(9)

(6) パ スカルの思索 に於 いては,身体か ら区別 され た魂 ・精神 の存在や働 きは決 して措定 されていな い

o

Fパ ンセifr.72の 「精神が身体 と結合 されて いる様式 は人間には理解 しえない。 しか もそれが 人間 なのであ る」 とい う記述 は,精神 と身体 との 区別 を述べたので はな く,む しろ逆 に,人間が, 精神 と身体 とに分 け ることので きない,従 って不 可解 な存在 であ ることを述 べたのであ る。「すべ て の不可解 な ものは, それで もなお存在す る

(Fパ -/セjfr.430)のであ る

.

Fパ ソセ』fr.233の 「我 々 の魂 は身体 の うちに投 げ入れ られ,そ こで数,時, 空間 を兄 いだ してい る」 とい う記述 も同様 に解 さ れ るべ きであ る。す なわ ち,パスカルは,最初魂 と身体 を別 々に定立 し,次いで両方が如何 に結合 す るかを問題 にす るとい うことは決 してない。 パ スカルの思惟 に於 いては,最初か ら魂 は肉体 に於 いて 自己 を兄 い出 してい る,す なわち肉体 と共 に 看 るのである。これについてはさらに,H.Rombach …Substanz,System,Stmktur"ⅠⅠ(VerlagKarl Alber)S.154.を参照 してほ しい。

(7) Nietzsche"Diefr6hlicheWissenschaft"Nr. 283.ここで ニーチ ェは 「認識す ること」を 「航海 に出ること」や 「戦争 を行 うこと」に誓 えてい る。 パスカル も Fパ ソセiで しばしは 「生」を航海 に 誓 えてい る。た とえは Fパ ンセ』fr.234を参照 し てほ しい。

(8) "Mさmorial"bibliothequedelaPlさiadep.554

参照。「火」(Feu)とい う文字 が この覚 え書 きの題 名の よ うに記 されている。 この 「火」が何を意味 す るかは確 とは判 じかね るが, しか し先 に引用 し た ニーチ ェの F悦 ば しき学識』の序文 に見 られ る 「Feuer」を連想せ しめ る。参考 までにその続 きを -部 ここに訳出 してお く。 「アブラ- ムの神, イサ クの神, ヤ コブの神。 哲学者,学者 の神 ならず。 確実,確実。 サ ンチマ ン,歓喜,平和。 イエ ス ・キ リス トの神。 ≪わが神,す なわ ち汝 らの神》 汝 の神 はわが神 とならん。 - ( 中略)-歓喜,歓喜,歓喜,歓喜の涙。 われ神 よ り離れた りき。 ≪生 け る水の源 なるわれを捨 てた り》 わが神,われ を見捨 てた もうや。 願わ くはわれ永久 に神 より離れざらんことを

o

J

(9)パス カルは,哲学 を生の一つの形態 として見 る。 かか る見方 の もとで問題 になるのは,真か偽 かで

はな く, その 「哲学的生 (viephilosophique)」が 生 きるに値す るか ど うかなのであ る。「た とえそれ が真であ って も,哲学 はすべ て一時間 の労 にさえ 値す るとは我 々は思わ ない

」(

Fパ ンセj

f

r.79)。パ ス カルの 「哲学」 に対す る批判 は 「哲学 的生の空 しさ」 を示す ところにある。 なお この ことにつ い ては Fパ ンセifr.61,fr.66,fr.67を も参照 して ほ しい。この ような観点か ら従来 の哲学 を批判 (「噸 笑」)す るところにパ スカルの 「真 の哲学」の思索 の道が拓 かれ るのであ る。 (10)Nietzsche,=JenseitsvonGutundB6se=Nr. 62とuAIso sprach Zarathustra" Vorrede Kr6nerVerlagS.11参照O (ll) Pascal パPansEes" fr.233 Nietzsche HDer WillezurMacht"Nr.929参照。 (12)Nietzsche,HDiefr6hlicheWissenschaft"Nr. 319 この アフ ォリズムでニーチ ェはすべ ての宗教 の開祖 は誠実 さに欠 いてい ると言 う。す なわち, 「彼 らは自分たちの体験 を認識の良心の問題 にす る ことはまった くなか った- (中略)- む しろ, 彼 らは,理性 に反 した事物 を渇望す る」。これ に対 して,ニーチ ェは言 う

,

「理性 を渇望す る著 であ る 我 々は, 自分 自身の体験 を,科学的 な実験 の よ う に厳格 に,刻一割,一 日一 日直視す ることを欲す る」 と。 ここでい う 「理性」 こそ, かの 「心臓 の 理性」で な くてなんであろ うや .′

(13) Nietzsche"DerWillezurMachtMVorrede

Nr.3参照.続 く Nr.4で ニ-チ ェは さらに次の よ うな発言 を してい るが, これ もここで注 目してお いたほ うが よかろ う。す なわ ち

,

「Fカ- の意志, あ らゆ る価値 の転換 の試みj- この定式 で もっ て或 る一つ の反対運動 を原理 と課題 に関 して表 現 してい る。 その運動 は, いつか未来 にお いて, か の完全 なニ ヒ リズムを剥離 させ るが, しか しその 完全 なニ ヒリズムを論理的にも心理的 に も前提 し, 端的 にその ニ ヒリズ ムの上へのみ, また その ニ ヒ リズムか らのみ来 うるのであ る」。 (14)Pascal "De l'esprit ggometrique" Bibli o-thさquedelaPleiadep.593傍点 は引用者 が付す.

(15)PascalHPan孟eesHfr.100etfr.139. (16)Pascal…Pansees"fr.378では次のよ うに言われ る。「中間 を去 るのは人間性 を去 ることであ る。人 間 の魂 の偉大 さは中間 に とどまることが で きる こ とか ら成 る。偉大 さは中間か ら去 ることにあ る ど ころか,中間か ら去 らぬ ことにあ る」。このパ ス カ ルの言を本文 の よ うな意味 に解 して無理 であろ う か。 - 4

(10)

7-(17) ここで使 った 「構造」 とい う語 は,通常使われ てい るよ うな, スタテ ィックな構造の意味で使用 していない。「超越」とい う動性の構造である。か か る「構造」の例 を求め るとするなら,H.Rombach

が"SubstanzSystemStruktur"BandIIS.503ff

で幾点かの特徴を示 した"Struktur''の概念であろ う。 (18)- イデ ッガ-は人間にのみ固有 な 「有」 を Ek-sistenzとよび,人間の有の根本動向(特徴)を「有 の真理の うちにekstatischに立つ」とい う動性 に 看 て取 っている。 ここでの 「脱 臼的」 とい う語 も この-イデ へガ-と同様の意味で うけとってほ し い。S.M.HeideggerHWegmarken"S.145ff. 山BrieftiberdenくHumanismus)"

(19)「神 と共 に」生 きるパスカルの立場か ら企投 され

エン トプル7

た彼の弁神論的論述 の構 想で は,その第-部 は

"Miseredel'hommesansDieu"とい う題のもと に計画 されていた。田に第二部には "F61icitede l'hommeavecDieu''とい う題が予定 されていた。 V.Pascal "Pensさes"fr.60. CZO) NietzscheuWillezurMacht''Nr.114 ニーチ ェの原文を掲げてお く。"Gott"isteinevielzu extremeHypothese. CZl) Nietzsche,"WillezurMacht"Nr.55. 位2)ibid.,Nr.13u.Nr.15.さらにNr.55で

は,

r永 却 回帰』 これがニ ヒリズムの極限的形式である。 す なわち無 (「無意味 なもの」) が永遠 に.′」 と, いわれている。

位3)Nietzsche,"AlsosprachZarathustra"Viertel Teil"DerSchatten"KrわnerVerl.S.303.

参照

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