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ボードレールの中のパスカル

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ボードレールの中のパスカル

著者

安野 麻子

雑誌名

年報・フランス研究

37

ページ

169-182

発行年

2003-12-25

URL

http://hdl.handle.net/10236/10320

(2)

169

ボー ドレール の 中のパ スカル

安野 麻子 序 ボー ドレールは、その作品の中で、それほど多 くパスカルについて言及 して いるわけではない。またパスカルの名前を登場 させている作品においても、決 して正面か らパスカル について論 じてはいない。 しか し一方で、ボー ドレール がパスカルか ら示唆を受けているに違いない、と思われ る言葉がときお り非常 に印象的な形で登場 して くることもまた事実である。本論では、そ ういつたボ ー ドレール作品のい くつかを取 りあげながら、ボー ドレールの中のパスカル的 側面について検討 してゆくこととす る。

1章

深 淵 一

goutte一

パスカルのパ ンセの最 も有名な断章の うちの一つに「二つの無限」として知 られ るものがあるが、その中に次のようなくだ りがある。 (このように自分 自身をつ くづ く眺めるものは

)自

分が、 自然の与えて く れた塊の中に支 えられて無限 と虚無 とのこの二つの深淵の中間にあるのを 眺め、その不可思議 を前に して恐れおのの くであろ う。(L。199)(1) さらにはまた、次の よ うな非常に有名な断章がある。

(3)

170 ボー ドレールの 中のパ ス カル この無限の空間の永遠の沈黙は私 を恐れ させ る。(L。201) ボー ドレールが実際にこの文章 を読んでいたか どうか、 さらにはまた どの程 度パ スカルに親 しんだか とい うことについては、明確 に裏付 けることはできな いものの、フイリップ。セ リエが指摘 しているように②、ボー ドレールが作家生 活 を行つていた当時は、パ スカル研究が盛んに行 なわれていた時岱であ り、彼 の作品の中にパスカルが しば しば登場す るところか らして もボー ドレールがパ スカルを読んでいたことは明 らかであろ う。 ボー ドレールがパ スカルについて直接的に言及 している作品 として、まず思 い起 こされ るのは『 新・悪の華』に収め られた「深淵」 とい う詩である。その 詩の冒頭部分を読む とき、ボー ドレールはおそ らくパスカルの先の引用部分を 読んでいたに違いない と感 じさせ られ るのである。 パスカルはつき纏 つて離れない彼の深淵を持つていた。 ―一悲 しいかな、一切は深淵だ、一―行為 も、欲望 も、夢 も、 また言葉 も

!

そ して鳥肌立った僕の毛穴の上を 千度 も、「恐怖」の風が吹 き過 ぎて行 く思いが した。 上を見ても、下を見ても、至 るところ、深渾、荒磯、 静寂、すべて心ま どわせ る恐 るべき空間…。 夜毎の間の奥底で、神は一刻の休みな く、 さか しげな指先に形 さま ざまな悪夢を描 く。 僕は眠 りが恐い、ぼんや りした恐怖の立ちこめる どこに続 くとも知れぬ大穴を人が恐れ るよ うに。 僕は窓 とい う窓の向 こ うに、ただ無限を見る、

(4)

ボー ドレールの中のパスカル

171

そ して僕 の精神 は、つね に眩 量 におびや か され て、 虚 無の持つ無感 覚 を嫉 む ばか り。 一― ああ、「数 」 と 「存在 」 との世界 か ら、遂 に抜 け出 し得 ない とは ! (θσI,pe142) この詩の冒頭部分に描かれているのは、パスカルの同時代人であつたジャッ ク・ボワロー師がある女性 に送つた手紙 に、「パスカル氏はいつ も自分の左手に 深淵が見えると信 じ、安心するためそこに椅子を置かせ るので した。 じかに聞 いた話です」とあるのを、サン ト=ブー ヴが『 ポール=ロ ワイヤル』に引用した ところから知 られるようになつた逸話である(θθI,p.1115)。 この逸話は、お そらくボー ドレールの詩に非常に多く登場する「深淵 (gou■e)」 の感覚と通じ るものであつたのだろ う。そしてさらには、この逸話が喚起するイメージが前 出のパスカルの引用部分 「無限 と虚無とのこの二つの深淵」③のイメージとも 結びついて、ボー ドレールにおける深淵感覚が表現されるところとなったので はないだろうか。 深淵 とは一般的には 「底知れぬ深み」とか「奈落の底」などといった、恐怖 と 隣 り合わせの、絶望的で人を不安に陥れるようなイメージを持つた言葉である。 それは限界を持たない深みを前にして、何者かに救いを求めざるを得なくなる ような感覚を起こさせる言葉でもある。 このボー ドレールの 「深淵」という詩 もまた、悲痛なまでの絶望感を漂わせながら、「ああ、『数』 と『存在』 との世 界から、遂に抜け出し得ないとは !(Ah!ne jamais so面r des Nombres et des

Ёtres!)」 とぃう諦めの叫びにも似た歎きの言葉で締めくくられている。

この詩の中には、「神は一刻の体みなく、さかしげな指先に形 さまざまな悪夢 を描 く」といったような神を戯画化するような一種の冒涜的な一節が含まれて いる一方で、何かしら超越的なものへの憧憬のようなものが感 じられる。それ は必ず しもキリス ト教的世界への憧憬 とい うことではないにせよ、この詩にお

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172 ボー ドレールの 中のパ スカル ける詩人の現実感覚は、パスカル的な神 なき人間の悲惨 を街彿 とさせ る。そん な悲痛 さがある。 「上を見ても、下を見ても深渾、荒磯、静寂、すべて心まどわせ る恐 るべき空 間…。」とい うくだ りは、さなが らパスカルの「この無限の空間の永遠の沈黙は 私 を恐怖 させ る」とい う言葉の言い換 えで さえあるよ うだ。そ して最終節、「僕 は窓 とい う窓の向 こうに、ただ無限を見 る、そ して僕の精神は、つねに眩量に おびやか されて、虚無の持つ無感覚を嫉むばか り。」とボー ドレールは語 るのだ が、ここで言われ る 「虚無の持つ無感覚」 とは極 めて死の観念に近いものであ るといえるだろ う。死の観念は、言 うまでもな くパスカル的な信仰の世界 とは 異質のものである。 しか しこの世な らぎるところを志向せずにはい られ なくな つた人間に共通す る異常なまでの緊迫感が、両者の作品を彩っているのを我々 は見 る。 このよ うに見て くると、少な くともボー ドレールにとつて、パスカルは、人 間お よび生存その ものに付 き纏 う深淵 とい う恐怖 と隣 り合わせ に生 きた人物 と して、自らとの類縁性 をことさら感 じさせ る存在であった といえる。 この深淵のイメージは、彼のアフォ リズム形式で書かれた「火箭」とい う作品 の中にも現れ る。それは、次のような一節である。 肉体の上でも、精神の上で も、私にはつねに深淵の感覚があつた。たんに 睡眠の深淵のみでなく、行為の、夢想の、思い出の、欲望の、愛借の、懺悔 の、美の、数の、等々の深淵の感覚が。(θθI,p.668) このよ うに、ボー ドレールに とつて深淵の感覚は、ほぼ生存感覚の一部のよ うな もの としてパ スカルの「深淵」と同様、「付 き纏 って離れない」もの となつ ていたのである。 このことは、パスカルがそ うであつたよ うに、詩人に現実世 界を超越 した ものの存在 を強 く意識 させ るものであった ことを物語 つているよ うに思われ る。

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ボー ドレールの 中のパス カル パスカルの 「この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖 させる」という言葉に 対 して、ポール・ ヴァレリーは激 しい嫌悪、容赦のない非難を与えているが0、 同じ詩人にあつてボー ドレールの方はパスカルの 「永遠の沈黙」にむ しろ深い 共感を示 しているとい う点で、この二人の詩人の資質の違いが顕著に見て取れ ると言えよう。 それでは、ボー ドレールのこの深淵感覚の内実 とはいかなるものであっただ ろうか。

・ 二章 呻 きつつ 求 め る人 先にも書いたよ うに、ボー ドレールは、この「深淵 cgou■ →」とい う言葉 を、 『 悪の華』お よび『 パ リの憂愁』の中で、非常に多 く使用 している。おそ らく この言葉は、詩人が人生や生活の中で絶えず感 じざるを得なかった孤独や挫折 や絶望の感覚を、適確 に、そ して端的に表現する言葉だった と言えるのではな いか。実際ボー ドレールの生涯は、絶え間の無い失望や落胆や悲 しみの連続だ つた と言えよ う。母親の再婚によって深められて行 く少年期の孤独感や、放蕩 生活の末に下 された準禁治産者処分による疎外感、なかなか評価 され ることの ない作家生活、そ して重篤な病による身体の不 自由…。ボー ドレールの生涯は、 現実生活その ものを見れば不幸であつた とも言えるだろ う。 しか し、言 うまで もな く単にこれ らの現実の不幸のみによって、ボー ドレールが 「この世が深淵 である」 とい う感覚を深めて行つた とは言えないであろ う。なぜな ら、現実生 活における条件が不可避的に詩人を不幸へ と追いやった とは言 えない側面があ るか らである。む しろボー ドレールの現実生活上の不幸お よび惨状には、自ら の手でさらなる不幸へ と導いた とい うしかない側面がある。しか しこのことは、 む しろ自らをそのよ うに導いて行かざるを得ない詩人の どうしよ うもない、い わば生まれなが らの孤独のようなものが関係 していると言 えるかもしれない。 おそ らくボー ドレールの意識の中には、絶え間なく自己を苦 しめないではい

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174 ボー ドレールの中のパ ス カル られない衝動のようなものがあった。 己に下す処罰のようなものであつて、 るのである。 それは見えすぎる日、感 じすぎる心が自 ボー ドレールをして次のように言わしめ 僕は傷であ り同時にナイフ! 僕は平手打 ちで同時に頬 ! 僕 は引かれ る四肢、引き裂 く車、 犠牲者であ り同時に死刑執行人

!(『

悪の華』「自ラフ罰す る人」θθI,p。79) 彼の生活上の不幸はなるほ ど詩人を一種の深淵の感覚へ と導いたか もしれな いが、逆に言 えば彼は自らを追い詰めるように して敢えて深淵の感覚を味わ う よ うに仕 向けた とも言 える。■S.エリオ ッ トの次の言葉はその点で非常に示唆 に富むものである。「彼 には大きな力があったが、それは苦 しむためだけの力だ つた。彼は苦 しまなくてはい られなくて、また苦 しみを超越す ることもできな かつたか ら、それで彼は苦 しみを自分の方に引き寄せた。併 しどんな苦痛にも 傷つ くことがないその無限に受動的な力 と感覚で、彼は 自分の苦 しみを研究す ることができた(D。」ここで、エ リオ ッ トの言 う「苦 しむためだけの力」とい う のは、決 して否定的な言葉ではない。「苦 しむためだけの力」とは、苦 しみに耐 え得 る力、あるいは苦 しみを受け入れ る意志 とでも読むべ きものである。 このように、自らを裁かずにはいられない意識の内部にあるものは、ボー ド レールの言葉を借 りれば「悪の中にあることの意識」(『悪の華』「救いがたい もの」θθI,p。

80)と

でもい うべきものである。このことは「あらゆる大詩人は 自然的に、宿命的に、批評家 となるものだ。」(『リヒァル ト・ ヴァーグナー と 「タンホイザー」のパ リ公演』」θ側 ,p。

793)と

い う言葉にも通 じている。こ れ らの言葉は、詩人の魂なるものが、悲 しみや悦び、あるいは悪や罪を単に感 じ、表現するだけに止まってはならず、明晰な批評精神・透徹 した意識の介在を 必要 とするのだとい う決意表明 として見ることができるであろ う。

(8)

ボー ドレールの中のパスカル

175

そ してまた、このよ うに語つたボー ドレールに とつて詩に表現 されている憂 愁 (splee⇒ は単なる憂愁ではな く、それ は理想に通 じるための過程 となるも のであろ うし、悲 しみや倦怠 もまた詩人の透徹 した視線 に貫かれて、詩人の信 じる至高の美 を作 り出す ものでなくてはな らなかつたのであろ う。 しか し一方 で、批評家 としての視線に射貫かれ ることによつてなおいっそ う、憂愁や悲 し みは深 く沈潜 して行 き、ついには詩人を深淵へ と引きず り込まずにはおかない のである。 パ スカルは 「私は人間をほめると決めた人たちも、人間を非難す ると決めた 人たちも気を紛 らす と決 めた人たちも、みな等 しく非難す る。私には呻 きつつ 求める人たち しか是認 できない。c。405)」 と言 つている。ボー ドレールの精

神のあ り方は、 このパ スカルの 「呻 きつつ求 める人 ●eux qui Cherchent en

g6血

ssant)」 であるとは言 えないだろ うか。もちろん、ボー ドレールは決 して パスカルのよ うな敬虔な信仰者ではない。 しか しまた、苦 しみや不幸を 「呻き つつ」弓│き受 け、そ して引き受けることによつてこそ、そ こか ら新 しい理想 、 新 しい美 を作 り上げよ うとした点で、ボー ドレールは同時に 「求める人」で も あ りつづけたのである。 おお 「死」、年老いた船長 よ、今 こそは時だ、錨 を巻 こ う! この国に僕 らは既に飽 きた。おお 「死」よ、船 を駆ろ う! た とえ空 と海 とがイ ンキのよ うに黒い としても、 お前の熟知する僕 らの心は光明の中に充た され よう! 僕 たちに力 をつけるために、お前の毒 をそそげ! この焔は僕等の脳漿 を焼 く。地獄でも天国でも、 願 わ くは深淵のふ ところ深 く僕等は身 を沈めよ う、 未知の奥底に、新たなるものを探 るために!(θθI,p。134)

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ボー ドレールの 中のパ スカル 『 悪 の華』の最後 を飾 るこの 「旅」 と題 された作品の最終章は、あ くまで生 の倦怠が歌われ る一方で、 どこか希望の光のようなものを感 じさせている。 こ こで歌われている 「深淵」のイ メージは単なる悲惨のイメージではない。確か に深淵は 「地獄でも天国で も」 と語 られているよ うに、ボー ドレールに とって は生の内だけでな く死の内にも存在するものである。 しか しここに至って、ボ ー ドレールは 「願わ くは深淵のふ ところ深 く僕等は身を沈めよ う」 と呼びかけ るのである。もはや深淵は恐れ るだけの存在であることをやめて、「未知の奥底 に、新たなるものを探 るため」 とい う別の肯定的側面を持つに至るのである。 「呻 きつつ求める人」 としてのボー ドレールは、パスカルのよ うに 「神 ととも にある人間の至福」 とい う飛躍 を選ぶ ことはなかった。そのかわ りに、「現実」 とい う、生の倦怠 と死の恐怖 を共に引き受けざるをえない 「深淵」の 「ふ とこ ろ深 く」から「未知の奥底 に新たなるものを探 る」 とい う創造的世界の内を生 きることを選ぶのである。 このことは、次章で検討す ることになる と

verissementの

テーマに も連 なつ て行 くこととなるだろ う。 三 章 倦 怠 ―

ennui一

パスカルのパ ンセの中の非常に知 られた観念 として divertissementと い う ものがある。 これは気晴 らしとか気慰め とで も訳 され るべ き言葉であつて、パ スカルはこの d市

erthsementに

ついて、非常に印象的な言葉で語つている。 その一部分を挙げてみ よ う。 (・・ 0)人間 とい うものは、 どんなに悲 しみで満 ちていても、もし人が彼 を何か 気 を紛 らす ことへの引き込みに成功 して くれ さえすれば、そのあいだだけは 幸福 になれ るものなのである。また、 どんなに幸福だ として も、もし彼が気 を紛 らされ、倦怠が広がるのを妨げる何かの情念や、楽 しみによつていっぱ

(10)

ボー ドレールの中のパスカル

177

い にな っていな けれ ば、や がて悲 しくな り、不幸にな るだ ろ う。(L.136) パ スカルによれば、信仰 なくしては、人間は神なき人間の悲惨な状態に置か れて しま うことになるので、気晴 らしす ることな しには とても耐えることがで きない とい うことになる。パスカルが描 き出す人間の気晴 らしとい うのは、凡 そ人間生活上の実に他愛のない賭け事や玉突 きといつたものか ら、果てには学 問や家族の死に至 るまでが含まれ ることになる。言 うまで もな く、パスカルは 人間の悲惨な状態の様 々な局面をえぐりだす ことによつて、「神 とともにある人 間の至福」へ と向かわせ よ うとす るのである。そ して、この気晴 らしについての 観念 もまた人間の悲惨 さの一面 を示す もの として、圧倒的な迫力で描かれてい るのだが、我々は 日々の営みの全てが無にされて しま うよ うな、一種の虚無感 の よ うなものを感 じさせ られることにもな りかねない。 ボー ドレールの『 パ リの憂愁』の中の 「孤独」 とい う作品は、直接的にこの ぬ “ rt燎

ementの

観念 に言及 していると言えよ う。まず この作品の中で、ボー ドレールは次のよ うに書いている。 わが国のお しゃべ り族の中には、彼の演説をサンテール将軍の太鼓で時な らず中断 される恐れな しに、断頭台上において一度の長広舌を試みることが 許 され るな らば、極刑 といえ ども格別いや な顔 もせず承知す るよ うな人物が 少 なか らずいるだろ う。ノ私は彼等 を何 も気の毒だ と思つているわけではな い。 こ うした弁舌 さわやかな吐露 とい うものが他人が沈黙や瞑想か ら抽き出 すの と同様の快楽を彼 らに与 えるものであることは、私 も推量す る。ただ彼 等 を軽蔑す るだけだ。(θθI,p.313) このよ うにパスカル を街彿 とさせ るよ うな言いまわ しによつて、ボー ドレー ルは「孤独は人間に毒だ と私に語 る」「ある博愛家の新聞記者」を辛辣 に皮肉つ てい る。そ して最終的にこの作品は次の ような言葉で締 めくくられ るのである。

(11)

178 ボー ドレールの 中のパ スカル 「殆 どすべての我々の不幸は、我々の部屋の中に じつとしていることの出 来なかつた点か ら来 る」 とも う一人の賢者パスカルは言 つた。思 うにパスカ ル は

,そ

の時、瞑想の独房にあつて、敢えて今世紀の洒落た言葉を援用すれ ば友愛的 とも呼び得 る売淫 と、活発な動きとの中に、幸福 を探 し求めている 全ての気違い共のことを、思い浮かべていたことであろ う。(θσI,p。314) ボー ドレールは、この作品において一人でいること、孤独であることに耐え 切れず、ひつき りな しに自己を他者 との関係性の中に埋没 させ ることによつて しか、喜びを見出せない人間を痛烈に批判 しているのであ り、その拒絶の激 し さ、人間の不幸のひ とつの局面をえぐりだす鮮やかな手法にはパスカル とも通 ず る徹底性が見て取れ る。 また さらにも うひ とつの作品 「晴々 しい最期」 とい う奇怪 な作品の内にもパ スカル的な と

ve血

8ementの

テーマを見て取ることが出来る。この作品はファ ンシウール とい うた ぐい稀な才能を持った道化師が、君主の抵抗勢力に加担 し たことから生 じる、緊迫 した心理的や りとりと、その異様な結末によって『パ リの憂愁』の中でも特異な光を放つ作品であるが、この中に登場人物である君 主の説明として次のような文章がある。 人事や道徳に関してはかなり無頓着で、正真正銘の芸術家 として「倦怠」 以外に危険な敵を知 らなかつた。そしてこの敵、地上最強のこの暴君から逃 れ るために、またそれを打ち負かすために、彼のなした数々の奇妙な努力を 見ると、彼の領地において、快楽、もしくは快楽の最も微妙な形態である驚 きを、ひたす ら目的 としないようなことを何でも書き記すことが許 されてい たとすれば、厳正な歴史学者は必ずや彼に『怪物』の綽名を進呈したことだ ろ う。(θσI,p.320)

(12)

ボー ドレールの中のパス カル さらにこのよ うに描かれた君主は寵愛 していた道化役者 ファンシウールを、 自らを裏切つた罪 によ り死へ と追い込むのであるが、このファンシウールが、 死罪 を申 し渡 された上で行 つた演技については次のように書かれている。 ファンシウールは私に、議論の余地のない断固たるや り方で『 芸術』の陶 酔 とは、他の何者にも勝 って、深淵の恐怖 を覆い隠すのに充分であ り、天才 は墳墓のかたわ らにあっても、彼のよ うに、その墳墓 を彼の 日に見えな くす る悦びに包まれ、墳墓 とか破滅 とかい う観念 と一切縁のない天上楽園に没入 して、芝居 を演 じ得 るものだ とい うことを証明 したのである。(θθI,p。321) これ らの文章の うちには、人間存在の暗部をえぐりだす、その手法において、 極 めて色濃 くパスカル の文体 との類似性が見出せ る。 ファンシ ウール を死へ と 追いやった君主の気 ま ぐれ とも見える残酷な決断 もまた、「地上最強の この暴 君」である倦怠を晴 らすための単なる思いつきであつたのかも知れず、要す る に生に付 き纏 う倦怠 と、それか ら逃れるためには何を しでかすかわか らないよ うな人間の狂気 ともい うべ き在 り方が、異様な迫力で描かれているのである。 またファンシウールの側でも、陶酔 しきって演技 に熱 中 している間は 「深淵の 恐 怖 を覆 い 隠 す 」 こ と が で き た の で あ り、 こ の こ と も ま た 究 極 の 磁vertissementの 一様態 として強い印象 を我 々に与えている。 これ らの ことは、ボー ドレールの「深淵」の感覚の一面を物語 つている 。す なわ ちこの作品の中で表現 され る君主の倦怠は、生存の虚無 としての 「深淵」 を思い起 こさせ るものであ り、またファンシウールの「芸術」にお ける陶酔は、 死 とい う「深淵」を覆い隠すに足 るもの として描かれている。 このよ うに考え て くると、ボー ドレールに とつては、生 も死 も「深淵」なのであ り、そこか ら 詩人の感 じていたであろ う恐るべき孤独 、どうしよ うもない虚無感 が強烈に浮 きば りに され るのである。 ただ し、この diverti38ementの 観念はボー ドレール にあつては、決 して否定

(13)

180 ボー ドレールの 中のパ ス カル 的な側面ばか りを持つているわけではない。人間存在が死の観念に追いたてら れ、脅迫されながら成立 しているものであり、しかも倦怠から絶えず身を守 ら なければならないような虚無と対峙 しているものであることを明確に意識 して いながらもなお、詩人は決 して虚無を虚無としてや り過ごすのではない。虚無 は詩人の意志によつて変容する契機を得るのである。 (0…)時あつて、宮殿の階の上に、土手の緑の草の上に、君の部屋の陰鬱な孤 独の中に、君が目覚め、陶酔の既に衰え次第に消えて行 くのを感 じるならば、 訊きたまえ、風に、波に、星に、鳥に、大時計に、すべての逃げて行 くもの、 すべての歎 くもの、すべての流転するもの、すべての歌 うもの、すべての口 を利 くものに、今は何時かと訊きたまえ。そ うすれば風 も、波も、星も、鳥 も、大時計も、直ちに君に答えるだろう、『今こそは酔 うべき時だ!「時間」 に酷使 される奴隷 とな り終 らぬためには、絶えず酔っていなければならぬ! 酒であろうと、詩であろ うと、徳であろうと、それは君にまかせる』 と。 (『パ リの憂愁』「酔いたまえ」θσI,p.337) このたたみかけるような調子と、それに伴つて上昇 し、高まりゆくこの感覚 の うちには、生の絶望や悲惨の色彩はない。む しろ、存在の虚無、生存の倦怠 といつたものから逃れるために 「酔 う」ことの必要を呼びかけながら、詩人は 自らを奮い立たせ、鼓舞 しているのである。それは言いかえればパスカル的 磁vert蝕

ementを

契機 として、それを生きる力としようとする意志である。パ スカルは「気を紛 らすこと。ノ人間は死と不幸と無知を癒すことが出来なかっ たので、幸福 になるために、それ らのことについて考えないことに した。 (L。133)」 と言 う。ボー ドレールは、そのことを十分過ぎるほど理解 しながら、 敢えて「酔いたまえ」と呼びかけるのである。「酔 う」とい う人間の行為は、も はやボー ドレールにとつて、パスカルにおける気晴 らしのような、生存の虚無 から目をそらすための慰撫の意味合いを越えて行 く。たとえそれが表面的には

(14)

ボー ドレールの中のパスカル

181

同 じ行為ではあつて も、ボー ドレールに とつてはそれはそれで よいのである。 ボー ドレールは 目をそ らす とい う一種の ごまか しを、意識的に、む しろ極端な 覚醒 と共に行 うのである.「酒であろ うと、詩であろ うと、徳であろ うと、それ は君にまかせる。ただひたす らに酔いたまえ。」とい う呼びかけは、「『 時間』の 恐るべき重荷を感 じないため」であると共に、人間を取 り巻 くあらゆる事象、 あらゆる状況を受け入れ、愛そ うとする意志 ともなるのである。それは諦めで あるだろうか

?

いやそ うではない。ボー ドレールにあつて「酔 う」ことは、 世界を新 しく作 り上げようとする、いわば創造行為の発動 としての意味合いを こそ持つ言葉 となるのである。 結 語 この ようにボー ドレールにおける「深淵」の感覚は、パスカル的な信仰の世 界へ と飛躍 してゆ くかわ りに、その詩作品の内部で呻 きつつ も存在 し続 けると ころとな り、ボー ドレール を 「富みかつ壮麗な、約束に充ちた陸地、僕等に薔 薇 と磨香 との神秘 な薫 りを送 り、またそ こか ら生命の音楽が愛情の ささやきと なつて伝わつて来 る陸地」

(『

パ リの憂愁』「すでに!」 θθI,p。

338)へ

とひ きとめることを可能に したのである。 ボー ドレールの深淵感覚 もまた極 めて

mystiqueな

側面を持 つてはいたが、 しか しボー ドレールの視線 は、それでもなお この陸地、すなわちパ リの街、そ して市井の人々の上に止ま り続 けた。そのことは、ボー ドレールの詩を彩る聖 と俗のダイナ ミズムを形作 り、我々を惹 きつけて止まないのである。 注 : 本論で引用しているボー ドレールの作品は以下の版に拠る。引用文の末尾に略号とその ページ数を示した。

Charle8 BaudeLれ,α強

"“

Epわ如,texte 6tabL,p“8en“etamo“ par Claude Pthoお ,Ganhnrd,《 Biblhtlttque de h Pbiade)),2vole,1975∼ 1976.(以下、θθI,

(15)

182 ボー ドレールの中のパ ス カル

Omと

略記) なお、訳文に関しては、人文書院版全集を参照し、適宜拙訳を交えた。 (1)PaSCal,働 國 郎 “ 4」 じι “ ,6d.L.Lfuma,seuiL《 rint6grale》 ,1963。 以下『バンセ』からの引用文は同書による。また本文の『パンセ』からの引用文は 引用文の後に断章番号を記す。なお訳文は『パスヵル』(世界の名著29、 前田陽一 他訳、1978)を 参照 した。

(a Philippe SeLer9《 POur un Baudehh et Pascal》

h32口

JeFa加 工ag″b口

"Ju

コ」L勧 “ 鮨bゴ発Fぬfa rorac sEDES,1989,p.6.

(3)パ

スカルにおいては、深淵は

abheで

表現 されている。深淵についての意味合い に若干のニュアンスの相違はあるものの、本質的には同様の内容を持つものと見 なして論 じている。なお、ポー ドレールはほとんどの場合g∝直発 で深淵を表現 し ているが、ときにab缶鯰 と表現することもある。

(o

この問題に関しては、拙積 「ヴァレリーのパスカル批判をめぐつて」(『年報・フラ ンス研究』

32

関西学院大学フランス学会、1998)に おいて考察している。

(5)■

S.ELDt,Sere"ピ Jh"θ

aFrS班

oムHar。。utt Braoe Jovano宙cL 1975,p。 232.

(■S.エリオット『エリオット全集4』、平井正穂他訳、中央公論社、1991、 396 頁。)

参照

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