(R)
令和二年度入学試験問題
受験上の注意
一︑解答用紙は︑マーク式解答用紙と記述式解答用紙の二種類があります︒二︑監督の指示により解答用紙に受験番号︵算用数字︶︑氏名︑フリガナを記入し︑受験番号および該当する試験日をマークしてください︒記入については解答用紙の注意事項に従ってください︒三︑問題冊子の解答番号と解答用紙の番号を間違えないように注意してください︒四︑国語の問題は︑二〜十八ページにあります︒試験開始の合図があったら︑まずページ数を確認してください︒五︑試験時間中は︑受験票を机上の受験番号の下に呈示しておいてください︒六︑質問︑その他用件があるときは︑手を上げて合図してください︒七︑試験時間中の退場は認めません︒八︑試験時間は国語と地理歴史・公民︑または国語と数学で八十分です︒九︑この問題冊子は持ち帰ってください︒
記述式解答用紙の記入について
・問題冊子にある﹁下書き欄﹂を使用してよいが︑解答は必ず解答用紙に記入すること︒・科目によって解答欄が異なるため︑解答する欄に誤りがないよう注意すること︒・国語は︑縦書きにて記入すること︒
マス目の使い方
① 一マス目から書くようにする︒② 改行はしないようにする︒③ 一マスに1字ずつ書くようにする︒④ 濁点︵゛︶︑半濁点︵゜︶は︑文字と同じマス内に記入する︒︵濁点︵゛︶︑半濁点︵゜︶のみで一マスとしない︒︶⑤ 文の最後の句点︵︒︶は︑はっきり書く︒一マスに1字として書くようにする︒⑥ 読点︵︑︶は︑必要に応じて書く︒書く際には︑一マスに1字として書くようにする︒
修正の方法
⑦ 不要な字は消しゴムで消し︑文の途中に字を加える時も消しゴムで消して︑書き直すようにする︒
開始の合図があるまで開かないでください
国 語
︵地理歴史・公民︑数学は別冊子︵R︶になります︶一 ﹇本文Ⅰ﹈﹇本文Ⅱ﹈﹇本文Ⅲ﹈を読み︑後の問に答えなさい︒
﹇本文Ⅰ﹈
のどぼとけのところに声帯という器官があり︑ここがふるえるかどうかで音がずいぶんかわってくる︒声帯のふるえている音は
有声音と呼ばれ︑声帯のふるえていない音は無声音と呼ばれる︒
声帯がふるえているかどうかは︑のどに指をあてて確かめることができる︒まず︑普通に﹁あのね﹂と言うときとささやき声で
﹁あのね﹂
と言うときとを比べて
︑どこに指をあてると違いが感じられるか確かめてほしい
︒今度はそこに指をあてたまま
﹁シーッ 静かに﹂のときの﹁シーッ﹂と﹁しー﹂とを発音してみよう︒﹁シーッ﹂の方はいくら強く発音してものどがふるえる
ことはない︒しかし︑﹁しー﹂と発音するとのどがふるえる︒その母音がAだからである︒ひらがなはすべて母音をふくん
でいるため︑普通は声帯がふるえる︒しかし﹁シーッ﹂の場合いくらのばしていても﹁いー﹂にはならないことからもわかるよう
に︑この発音だけは珍しく母音をふくんでいない︒そして︑この子音はBであるため︑声帯はいつまでたってもふるえない
のである︒
これになれたらsとzの発音を比べてみることができるかもしれない︒この
2
つを発音しながらのどに指をあててみてほしい︒zの時だけ声帯がふるえているのがわかるだろうか︒母音がはいるとCになってしまうので︑子音だけ発音するように注意
しなければならない︒他の子音は長くのばすことができないので確かめるのが難しいが︑k︑s︑t︑p︑hはそれぞれ無声音︑
g︑z︑d︑b︑rはそれぞれ有声音である︒
︵上山あゆみ﹃はじめての人の言語学︱︱ことばの世界へ﹄
﹇本文Ⅱ﹈
﹁か﹂に濁点がつくと﹁が﹂となるが︑これをローマ字で書くと
ka
とga
になる︒ひらがなでは同じ﹁か﹂の字を使っているの 国語
に︑ローマ字では別の字で表している︒私たちは﹁か﹂が﹁濁る﹂と﹁が﹂になるのが当然だと思っているが︑このような感覚は
ひらがなを使っているからこそ出てくるものかもしれない︒﹁濁る﹂とは一体どういうことなのか︑少し客観的に観察してみよう︒
まず濁点のついたひらがなの発音を調べてみると︑g︑z︑d︑bというように︑どれも子音が有声音である︒D﹁濁
る﹂ということと有声音であるということは関係がありそうである︒E︑濁点がついていないからといって無声音であると
は限らない︒﹁な・ま・ら﹂などの子音n︑m︑rは有声音だからである︒
ここで﹁な・ま・ら﹂などには決して濁点がつかないということに気がついてほしい︒F濁点とは﹁あるひらがなの子音
が無声音の時それを同じ方法で発音する有声音にする記号﹂なのである︒無声音を有声音に変える記号なのであるから有声音には
つくはずがない︒﹁な﹂や﹁ら﹂のように有声音の子音をもっているものに濁点がつかないのはそのためである︒いいかえれば
﹁濁っている音﹂とは無声音と有声音のペアのうちの有声音の方のことである︒したがって︑いくら有声音であっても無声音のペ
アがない﹁な﹂などは﹁濁っている音﹂とは感じない︒
ハ行だけは少し事情が違う︒﹁は﹂というひらがなを使ったものには﹁ば﹂だけでなく﹁ぱ﹂もある︒この﹁ぱぴぷぺぽ﹂と
どういうものだろうか︒
﹁は・ば・ぱ﹂を気をつけて発音してみてほしい︒kとg︑sとzなどはそれぞれ発音の仕方が同じだったが︑hとbはまった
く違う︒﹁は﹂は口を閉じなくても発音できるのに︑﹁ば﹂は口を一度閉じないと発音できない︒文字をはなれて音だけに注目して
みると︑ペアをなしているのはbとpである︒hも無声音であるが︑日本語の中にはこれとペアになる有声音がない︒つまり︑無
声音と有声音のペアになっているのは︑パ行の子音とバ行の子音であって︑ハ行の子音はそのどちらともペアになっていないので
ある︒
せっかく日本語では有声音と無声音の関係を濁点によって合理的に表しているのに︑﹁は・ば・ぱ﹂ではその体系がくずれてし
まっている︒なぜ︑ハ行だけが例外なのだろうか︒これには歴史的なことが関連している︒ここでは現代の日本語について考えて
いるのでくわしくは述べないが︑長い間うけつがれてきた﹁ことば﹂をみるときには歴史的な観点も必要になってくる︒特に︑発
⑴
⑵
音は時代が移ると自然に変わっていくことが多いが︑かなづかいは特に変えようとしないかぎりなかなか変わらない︒そのため︑
文字と音との対応がずれてしまうことが時々ある︒ハ行もその一例である︒
もし﹁は﹂という文字にあたる音が昔は
pa
だったとすれば︑濁点のついた﹁ば﹂との関係は他の行と同じことになる︒﹁は﹂をpa
と読むなんておかしいと思うかもしれないが︑いろいろな資料を調べてみると︑ハ行の発音が時代によってずいぶん変わってきたことを示す事実がいろいろ見つかる︒
﹁は﹂の音が
pa
だったということを示す直接の証拠はあまりないが︑アイヌ語・琉球語などの単語では日本語のハ行の子音がpであらわれることが多い︒ただし︑現在のハ行の子音がpで発音されていたことがあったとしても︑それは少なくとも奈良時代
以前だったらしい︒平安時代にはすでに﹁は﹂の発音が﹁ふぁ﹂というような発音であったことがわかっているからである︒そし
て︑この﹁ふぁ﹂という発音は江戸時代ごろから現在の
ha
という音に変わってきた︒﹁は﹂という文字が﹁ふぁ﹂と発音されていた証拠はいろいろ見つかっているので︑次にそのいくつかをあげておこう︒
まず︑一五一六年の後柏原天皇の﹃なぞだて﹄に次のようななぞなぞがのっている︒
﹇
1
﹈ ははには二たびあひたれどもちちには一どもあはずくちびるこれは﹁母には
2
度会ったが父には1
度も会わないもの何だ?﹂という意味だと思いがちだが︑それではなぜ答えが﹁くちびる﹂なのかわからなくなってしまう︒このなぞなぞのミソは︑﹇1﹈が﹁ハハでは2回あうのにチチでは1回もあわないもの何だ?﹂
とも解釈できることである︒
︵上山あゆみ﹃はじめての人の言語学︱︱ことばの世界へ﹄問題作成上︑一部を改変した︶
⑶
﹇本文Ⅲ﹈
仮名には﹁テンテン﹂記号がありますね︒大人には﹁濁点﹂といったほうがわかりやすいかもしれません︒あらためて考えると
ちょっと不思議なこのテンテンのことを︑子どもはどんなふうに思っているのでしょうか︒ためしにこんなクイズを子どもに出し
てみましょう︒
﹁﹁た﹂にテンテンつけたら何ていう?﹂
﹁
da
︵だ︶だよ﹂と答えてくれる子︑たぶん多いと思います︒ここでは︑きっと口頭で答えてくれるのでしょうから︑文字としての﹁だ﹂ではなく︑﹁だ︵
da
︶﹂という発音︵もしくはそう聞こえる発音︶のことをいうのだと︑はっきり区別したいときはローマ字で書きますね︒
さらにクイズを続けましょう︒
﹁﹁さ﹂にテンテンつけたら何ていう?﹂
さっき
da
︵だ︶って答えてくれた子なら︑おそらくすぐに﹁za
︵ざ︶だよ﹂って答えてくれるはず︒きっと﹁か﹂にテンテンでも同様︑すぐに﹁
ga
︵が︶だよ﹂と返ってくるでしょう︒で︑問題は次です︒﹁﹁は﹂にテンテンつけたら何ていう?﹂
さて︑なんて答えるかな? じつはここで急に﹁うーんわかんない﹂っていう子どもがけっこういるんです︒あるいはなぜか︑
ga
︵が︶って答えてみたり︑﹁$%6
﹂︵↑ローマ字で表せないのでデタラメ記号で表現してみましたが︑ha
︵は︶を力みながら出したような音でした︶とか︑なかにはa︵あ︶と答える子どももいるらしいとか︑とたんにさまざまな珍回答が出てくるようです︒
幼い子どものテンテンの理解なんてこんなもの⁝?
でもこれって︑本当に﹁間違い﹂なんでしょうか︒じつはこれを聞いて︑﹁正しい! ある意味大人より正しい! ありがとう
子ども!﹂と大いに感激する人もいます︒
︵広瀬友紀﹃ちいさい言語学者の冒険︱︱子どもに学ぶことばの秘密﹄問題作成上︑一部を改変した︶
問一 空欄A︑B︑Cに入る語の組み合わせとして︑最も適当なものを一つ選び︑マークしなさい︒解答番号は
1
① A 有声音 B 無声音 C 無声音
② A 無声音 B 有声音 C 無声音
③ A 有声音 B 有声音 C 無声音
④ A 無声音 B 有声音 C 有声音
⑤ A 有声音 B 無声音 C 有声音
⑷
問二
傍線部分⑴
﹁客観的に﹂
はこの文脈でどういう意味か
︒最も適当なものを一つ選び
︑マークしなさい
︒解答番号は
2
︒
① 単に感覚的な確認ではなく
② 日本語に限定されない広い視野で
③ 専門家の立場から素人考えを排して
④ 誰もが一致して認める実感に即して
⑤ できるだけ多くの人の意見を踏まえて 問三 空欄D︑E︑Fに入る語の組み合わせとして︑最も適当なものを一つ選び︑マークしなさい︒解答番号は
3
︒
① D つまり E しかも F あるいは
② D したがって E しかし F つまり
③ D とはいえ E つまり F しかも
④ D たしかに E たとえば F すなわち
⑤ D また E むしろ F なぜなら
問四 どうして﹁な﹂に濁点はつかないのか︒本文Ⅱに即してその理由として最も適当なものを一つ選び︑マークしなさい︒解
答番号は
4
︒
① nは有声音だから
② nには有声音のペアがないから
③ 日本語には﹁﹂という表記がないから
④ ﹁な﹂はすでに濁っている音の一種だから
⑤ ﹁な﹂は﹁ま﹂や﹁ら﹂とともに濁点の規則の例外だから
問五 ﹇
1
﹈のなぞなぞを傍線部分⑶のように解釈することから推測できることとして︑最も適当なものを一つ選び︑マークしなさい︒解答番号は
5
︒
① かつては父親よりも母親の方がより身近な存在だった
② かつては﹁は﹂に濁点をつけた文字は﹁ば﹂ではなかった
③ かつては﹁ハハ﹂は
2
音で発音され︑﹁チチ﹂は1
音で発音されていた④ かつては﹁は﹂の発音と﹁ば﹂の発音は無声音と有声音のペアをなしていなかった
⑤ かつては﹁母﹂は
ha
ha
とは発音されていなかった問六 次のア︑イ︑ウのうち︑﹇本文Ⅰ﹈〜﹇本文Ⅲ﹈に照らして正しいものと誤っているものの組み合わせとして︑最も適当
なものを一つ選び︑マークしなさい︒解答番号は
6
︒
ア ﹁か﹂と﹁が﹂は同じ仕方で発音される
イ 濁点がついた音の子音は有声音である
ウ 濁点がついた音から濁点をとるとそこに含まれる子音は無声音になる
① ア︑イ︑ウはすべて誤り
② ア︑イが正しく︑ウは誤り
③ ア︑ウが正しく︑イは誤り
④ イ︑ウが正しく︑アは誤り
⑤ ア︑イ︑ウはすべて正しい
問七 傍線部分⑵で﹁濁点﹂の定義が示されている︒これを踏まえて︑傍線部分⑷で子どもが﹁大人より正しい﹂と言われる理
由を四十字以内で書きなさい︒ただし︑﹁濁点の定義﹂という言葉を用いること︒その際︑﹁濁点の定義﹂がどのようなもの
かは説明しなくてよい︒︵一つのマス目に一字ずつ記入すること︒カギ括弧︑句読点も一字に数える︒
ka
のようなアルファベットも
ka
で一字分とする︒︶記述式解答用紙解答欄Aに解答しなさい︒次は問七の下書き欄︒解答は必ず解答用紙に記入すること︒
40
この頁は白紙です
二 ﹇本文Ⅰ﹈﹇本文Ⅱ﹈を読み︑後の問に答えなさい︒
﹇本文Ⅰ﹈
小説を読むことと新聞を読むことの差異は︑言い換えれば︑我々の小説の読みの究極の目的が︑どこに向かっているか︑という
問題でもある︒ただ文章を読み︑その内容を把握するためだけならば︑小説であれ新聞であれ︑読み方に違いはないはずである︒
しかし︑果たして事実はそうであろうか︒小説を﹁読む﹂時︑そこには︑新聞を﹁読む﹂という行為からあふれ出る︑またはそれ
とは明らかに区別される︑別の行為が想定されているのではないか︒
簡単に言うなら︑この疑問は︑内容を理解する読書が新聞の読みとすると︑小説の読みはそれにとどまらず︑もう少し別の要素
を持っているのではないか︑という見込みから生じる︒逆に言えば︑もしも書かれたものの内容を読み取るA性のみが﹁読
む﹂という行為の唯一の目的ならば︑そもそも物語や小説などという虚構は世の中に不要なはずである︒なぜなら︑そこには読み
取っても不毛な﹁作り事﹂しか書かれていないからである︒
しかしながら︑事実︑物語や小説は︑形を変えながらも︑古代より今日まで実に長い間書かれてきたし︑読まれてきた︒近代以
降においても︑小説の方がよくわかること︑ないし小説にしか描けないことが︑この世にはあるのではないかということは容易に
想定できる︒
例えば病気の苦しみを知るために医学書を読むことと︑その病気で苦しむ患者を描いた小説を読むこととの間に違いがあること
は︑我々がどこかで自然に感じ取っている事実であろう︒それはいったい何か︒﹁感動﹂であろうか︒具体的な再現性の効果であ
ろうか︒
この問題は︑さらに言えば︑小説にとどまらず︑絵画や音楽など芸術行為全般に共通する問題とも言える︒なぜこの世には非
B的な芸術の諸ジャンルが存在するのか︒人はなぜルノワールの絵やモーツァルトの音楽を必要とするのか︒
は必要ないのか︒このことを︑ひとまず小説というジャンルの特殊性とは別に探究しなければならない︒それは︑芸術行為の非目
⑴
⑵
的的性とでも呼ぶべき性格である︒またそれは︑芸術行為が日常行為から切り離されて︑その中で︑ある自律的運動を行うことで
もある︒
このことが︑読むことが内容を理解するだけにとどまらず︑その先を用意しているか否かという問題を提示する︒その先とは︑
一通りの理解の上に︑さらに生じる意味があるのかどうか︑という問題である︒小説の内容をただ読むだけならば︑一通りの日本
語が分かれば︑誰でも読めるはずである︒これは日常的な行為の一環である︒特別な学習がなくとも︑誰しも自然にその能力を身
につけることは可能であろう︒︑例えば大学での講読や特殊講義と名づけられるような授業は必要ないはずである︒しか
しながら︑文字を追いかけるだけではわからない何かが書かれていると考えるために︑これらの科目が成り立っている︒もちろん
これは︑各種の文学講座でも同様のことであろう︒小説を読むことには︑内容理解とは別の︑もう少し深遠な意味把捉が期待され
ていることは︑想定できるところであろう︒どうやら我々が行っている読書とは︑新聞などを読むように内容を理解するというだ
けの行為ではないようである︒
︵真銅正宏﹃小説の方法︱︱ポストモダン文学講義﹄問題作成上︑一部を改変した︶
︵注︶ 講読 ここではテキストを読み解く授業形式のこと
﹇本文Ⅱ﹈
この章で取り上げるのは﹁流行感冒﹂という短篇です︒﹁小僧の神様﹂﹁清兵衛と瓢簞
﹂ ﹁ 城
の崎にて﹂﹃暗夜行路﹄などにくら
べるとそれほど知られていないかもしれませんが︑志賀の文章の特徴がたいへんよく出た作品です︒
タイトルの通り︑この作品では流行感冒が伴となって物語が進行します︒流行感冒とは今で言うとインフルエンザ︒どうやら志
賀は︑大正時代に実際に流行した﹁スペイン風邪﹂のことを書いているようです︒主人公の小説家には小さな娘がいる︒巷で流
行感冒のことが言われ出すと︑心配性だという主人公はやや過敏なほどに風邪を恐れるようになります︒それも仕方のないことで︑
夫婦は最初の子を亡くしているのです︒ただ︑それにしてもこの主人公はかなりの心配性のようです︒﹁ちょっと病気をされても
⑶
⑷ ︵注︶
私はすぐ死にはしまいかという不安に襲われた﹂とあるように︑子どもの健康をめぐってやたらとびくびくしているのです︒親戚
や知人の間でもそのびくびくぶり
は有名で﹁〇〇さんが左枝ちゃんをだいじになさる評判は日本じゅうに広まっていましたわ﹂な
どとCされたりしています︒
しかし︑主人公はそんなふうにD気にするふうでもありません︒それどころか︑かえってそれがいいと思っているフシが
ある︒そのことを述べている一節を冒頭近くから引用にしてみましょう︒実はこの部分にはっきりと︑志賀モードとでも呼びたく
なるような文章の特徴が出ているのです︒
しかしそれは私にとっては別に悪くはなかった︒私たちが左枝子の健康に絶えず神経質である事を知っていてもらえば︑人も自
然︑左枝子には神経質になってくれそうに思えたからだ︒たとえば私たちのいない所である人が左枝子に何か食わそうとする︒
その人はすぐちょっと考えてくれる︒私たちならどうするかと考えてくれる︒で︑結局無事を願って食わすのをやめて
くれるかもしれない︒そうあって私はほしいのだ︒ことに田舎にいると︑その点を厳格にしないと危険であった︒田舎者は好意
から︑赤子に食わしてならぬ物でも︑食わしたがるからである︒
この部分を読んで何か特徴に気づくでしょうか︒たしかにわかりやすいけど︑何の変哲もないふつうの文章ではないかと思う人
もいるかもしれません︒たしかに一文一文は短くて簡潔だけど︑この程度で〝名文〟の誉れを手に入れられるものなのか︒
その通りです︒文章は何の変哲もないかもしれない︒しかし︑文章というものは文章だけで完結するわけではないのです︒必ず
別のファクターと絡み合っている︒ここでも注目したいファクターがあります︒それは意識というファクターです︒
小説というのは読者に向けて語られるものです︒あらゆる言葉が︑それこそ一字一句が︑作品世界の構築に何らかの役割を果た
している︒だから私たち読者も︑その一字一句の意味や役割をくみ取っていかなくてはならない︒しかし︑意味というものは
﹁さあ︑どうぞ︒この意味を受け取ってください﹂という形で差し出されるものとは限りません︒むしろ私たち読者が﹁ああ︑そ
⑸
ういう意味だったか!﹂と後から気づくことで︑はじめてそれを受け取ることができるという場合もあります︒
これは別の言い方をすると︑小説の中では必ずしも語り手
vs
読者という構図に則る形で言葉のやり取りが行われるわけではない︑ということです︒﹁流行感冒﹂を読んでいて気づくのは︑語り手がまるで語っていないかのように︑つまり︑ひとり
だけで考えたりつぶやいたりしているように振る舞う︑そんな回りくどい形でやっと私たちに何かを伝えることがあるということ
です︒まるでこちらと目を合わせないでものを言ってくる人のように︒
なぜ︑そんな面倒くさい方法が必要になるのでしょう︒それは語り手が︱︱そして小説家が︱︱自分が知っている以上のことを
表現しようとするからではないかと思います︒小説なるものは近代になって成立したものですが︑それがさまざまな文章表現の
ジャンルの中でもやや特別扱いされてきたのもこのことと関係あります︒近代小説が土台にしているのは︑近代個人主義とその根
幹にある個人の自意識なのですが︑自意識というものは言葉でつかまえるのがとても難しい︒とくに意識をしているその主体にあ
たる人が︑自分でそれを言葉にする場合にはいろいろ障害が生じてきます︒意識といっても︑自分で自分にウソをついたり︑無意
識の部分が入りこんできたりするからです︒
小説というジャンルはそのあたりの困難と格闘しつづけてきたわけです︒小説の形式にしばしば大きな改革がくわだてられたり
するのも︑そのあたりの根本的な不安定さと関係しているでしょう︒非常に素朴な言い方をすると︑言葉というのはいつも正直に
語られるとは限らない︒語られた言葉には︑いつだってそれがウソである可能性が秘められているのです︒間違いであることもあ
りうる︒そんなメディアとどうやって付き合ったらいいのか︒小説というジャンルではつねにそのことが問題になってきたし︑多
くの小説家はこの問題と向き合ってきたわけです︒志賀直哉もそういう小説家のひとりでした︒この﹁流行感冒﹂という小説は︑
まさにこの﹁正直﹂というテーマを正面から話題にしています︒
いかに小説の中で正直になるか︒いかに自分の意識や心をきちんと語るか︒先の引用部には︑そんな問いに対する志賀の答えの
一部が見えたように思います︒言葉が意識そのものとなるのです︒意識についての言葉を語るのではなく︑意識そのものをどろっ
と言葉として表出させる︒そうすることで言葉は語り手の操作を越えたものとなる︒もはやウソの余地のない︑超越的なものとな
⑹
⑺
る︒
しかし︑そんなことがほんとうに可能なのでしょうか︒実はそこには仕掛けがあります︒そしてまさにそこが志賀の文章が〝名
文〟と呼ばれる秘密ともかかわってきます︒
︵阿部公彦﹃小説的思考のススメ︱︱﹁気になる部分﹂だらけの日本文学﹄問題作成上︑一部を改変した︶
問一 空欄A︑Bに共通して入る単語として︑最も適当なものを一つ選び︑マークしなさい︒解答番号は
7
︒
① 受動
② 客観
③ 直接
④ 言語
⑤ 実用 問二 傍線部分⑴﹁不毛な﹂の意味として︑最も適当なものを一つ選び︑マークしなさい︒解答番号は
8
︒
① ありきたりな
② ときめかない
③ 実りのない
④ 味気ない
⑤ さもしい
問三
空欄⑵
︑⑷
︑⑸に入る語として
︑最も適当なものをそれぞれ一つ選び
︑マークしなさい
︒解答番号は⑵
9
⑷
10
︑⑸
11
︒
空欄⑵① したがって
② なぜなら
③ ところが
④ あるいは
⑤ ただし 空欄⑷① したがって
② なぜなら
③ ところが
④ あるいは
⑤ ただし 空欄⑸① なぜなら
② ところが
③ あるいは
④ むしろ
⑤ もはや 問四 傍線部分⑶﹁その﹂とは何を指すか︒最も適当なものを一つ選び︑マークしなさい︒解答番号は
12
︒
① ﹁読む﹂という行為
② 具体的な再現性
③ ジャンルの特殊性
④ 芸術行為
⑤ 日常行為 問五 空欄C︑Dに入る語の組み合わせとして︑最も適当なものを一つ選び︑マークしなさい︒解答番号は
13
︒
① C 賞賛 D 褒められても
② C 助言 D 励まされても
③ C 慰撫 D 慰められても
④ C 説得 D 説き伏せられても
⑤ C 揶揄 D 冷やかされても
問六 空欄⑹に入る語として︑最も適当なものを一つ選び︑マークしなさい︒解答番号は
14
︒
① 語る意欲をなくして
② 語る内容を見失って
③ 聴くことに専念して
④ 語る相手を探しながら
⑤ 誰に向けても語っていない 問七 傍線部分⑺﹁面倒くさい方法﹂を取らざるを得ないのはなぜか︒次の中からその理由として不適当なものをすべて選び︑
マークしなさい︒解答番号は
15
︵解答欄一行にマークすること︶︒
① 語り手が自分の知っている以上のことを表現しようとするため
② 小説がさまざまな文章表現のジャンルの中でもやや特別扱いをされてきたため
③ 自意識というものは言葉でつかまえるのがとても難しいため
④ 小説の形式にしばしば大きな改革がくわだてられたりするため
⑤ 言葉というのはいつも正直に語られるとは限らないため 問八 ﹇本文Ⅰ﹈では新聞を読むことと小説を読むことの対比が述べられている︒これに対応して︑新聞のような表現と小説の
表現とを対比した上で︑志賀直哉の文章表現の特徴を指摘した一文を﹇本文Ⅱ﹈から抜き出し︑その一文全体を書きなさい︒
記述式解答用紙解答欄Bに解答しなさい︒