『成唯識論述記』訳注
(二)曾根正人(執筆責任者)松原光法八重樫直比古
【『述記』巻第九本(大正蔵
自下廣解初頌及依他起。下廣解三種爲三。然第三句中、與依他合解。 以下これによる)五四〇頁c一二~一六行】
初能遍計、自性云何。(『成唯識論』巻第八[大正蔵 論。初能遍計、自性云何。 言。初句是能遍計。故論次問。
下先廣遍計。後廣彼彼。 述曰。此問辭也。 以下これによる]四五頁c二一~二二行)
[現代語訳]以下の論文は、初頌(第二〇頌)および(第二一頌の)依他起性を解説している (1)。
以下で三種の性(遍計所執性・依他起性・円成実性)を詳しく解説する際は、性ごとに三つに分けている。だが初頌第三句(「此遍計所執」)の解説では、遍計所執性と依他起性とを合わせて解説している (2)。既に、初句は「能遍計」のことであると言った (3)。故にここで論文は、次のように問うのである。論。初能遍計、自性云何。(基が)述べる。この論文は、問いの言葉である。以下の論文では、(第二〇頌初句の)「(能)遍計」を詳しく解説し (4)、後に「彼彼」を詳しく解説している (5)。[補注](1)『成唯識論』巻第八四五頁c二一行~四六頁b六行。『述記』巻第九本五四〇頁c一五行~五四五頁a三行。(2)『成唯識論』巻第八四六頁a一四行~b六行。『述記』巻第九本五四三頁c六行~五四五頁a三行。ただ冒頭の『述記』五四三頁c六行では、「自下廣前第三四句、
(5)『成唯識論』巻第八四六頁a八~一〇行。『述記』巻第九本五四二頁b二六行~五四三頁b五行。 六行。 (4)『成唯識論』巻第八四五頁c二一行~四六頁a八行。『述記』巻第九本五四〇頁c一五行~五四二頁b二 は能遍計のこととみる解釈は一致している。 ある。また同c一行に、第二師(護法)説として「論。或初句顯能遍計識。述曰。義與前同」とあり、初句 (3)『述記』巻第九本五四〇頁b九~一〇行に第一師(難陀等)説として、「上句遍計之言、出能計心等體」と 解第二頌中初句」となっている。
【『述記』巻第九本五四〇頁c一七~一九行】論。有義。八識、至皆能遍計。有義。八識及諸心所、有漏攝者、皆能遍計。(『成唯識論』巻第八四五頁c二二~二三行)述曰。此安惠等 (1)。執
五八識唯有法執。七唯有人。六通二種。 通三性。有漏之心、無非執者。
[現代語訳]論。有義。八識、至皆能遍計。(基が)述べる。これは安慧などの説である。執(遍計)は、三性(善・悪・無記)に共通である。有漏の心で、執でないものはない。そのうち前五識と第八識は、法執だけがある。第七識は、人執(我執)だけがある。第六識は、二執ともある。[補注](1)以下で展開する安慧と護法の議論に関連して、『述記』巻三本三一六頁b二~二三行には、三性の法執の有無についての両師の説が見えている。そこで安慧は「有漏八識」すべてに法執有りとし、護法は「善無記心」には法執無しとしている。また同二三行には「此中二解、如下自知」とあり、この議論が本条に連結することが示されている。
【『述記』巻第九本五四〇頁c二〇~二四行】論。
妄分別、爲自性故。
述曰。若有漏心、有如無漏不起執者、 妄分別、爲自性故。(『成唯識論』巻第八四五頁c二三行)
不應言 若不執心、名妄分別、 妄分別。
無漏心、應名
妄分別之心。
(1)以此理明。有漏心皆能遍計。楞伽中邊等文。皆言八識是妄分別。[本文校訂](1)大正蔵甲本(明暦元年版本)では、「
」は「
」となっている。
[現代語訳]論。虚妄分別、爲自性故。(基が)述べる。もし有漏心で、無漏で執を起こさないものがあれば、それは虚妄分別とは言えない。またもし執のない心を妄分別と名付けるならば、無漏心を虚妄分別の心と名付けねばならない。すなわち以上の道理で明らかなように、有漏心はみな能遍計(虚妄分別)なのである。だから『楞伽経』『弁中辺論』等の文でも、みな「八識は妄分別」と言っているのである (1)。
[補注](1)『入楞伽経』(大正蔵⑯)巻第二五二二頁a八行。『弁中辺論』(大正蔵
a一二~二一行。 以下これによる)巻上
【『述記』巻第九本五四〇頁c二五~二九行】論。皆似所取能取現故。皆似所取能取現故。(『成唯識論』巻第八四五頁c二三~二四行)述曰。聖教中説、二取名執。有漏諸心、
一切經論、皆有此文。攝大乗論第四巻中、及辨中邊、皆作是 非有取心不名取故。非無執心似二取故。 似能取所取相現故、皆有執。
。
[現代語訳]論。皆似所取能取現故。(基が)述べる。聖教は、「二取」を「執」と名付けると説いている。また有漏の諸心には、既にこの論文で「能取と所取の相に似て現れる」としているから、みな執が有る。取が有る心を、取と名付けないことはないからである。また執の無い心が、二取に似ることもないからである。すべての経論に、こうした文言がある。『攝大乗論』第四巻や『弁中辺論』も、みなこの説を述べている (1)。
[補注](1)無性『攝大乗論釋』(大正蔵
)巻第四三九八頁c一八~一九行。『弁中辺論』巻上四六四頁b一八行。
【『述記』巻第九本五四一頁a一~九行】論。
阿頼耶、至爲所
故。
阿頼耶、以遍計所執自性妄執種、爲所
述曰。所執自性之妄執習氣。 故。(『成唯識論』巻第八四五頁c二四~二五行)
瑜伽五十一、及顯揚等、 能執心等種子。
阿頼耶識、以遍計所執自性妄執種、爲所
若有漏心有不執者、有有漏種第八不 故。
何故論 。
、第八 瑜伽第七十六、及解深密經、 妄種。
第八 五十一 、相名分別習氣。
、 故遍計種、通有漏一切心。 遍計種。
安慧師等義。 善心等中、許有法執。
[現代語訳]論。説阿頼耶、至爲所縁故。
(基が)述べる。所執の自性である妄執の習気 (1)は、能執心等の種子である。『瑜伽論』巻五一および『顕揚論』等に、「阿頼耶識は、遍計所執の自性の妄執種子を所縁とする」と説いているもし有漏心で執することのないものが有るならば、(『瑜伽論』『顕揚論』に反して)有漏種子で第八識が縁じないものが有ることになる。もしそうならば、どうして論文が「第八識は妄執種子を縁ずる」と説くことがあろうか。『瑜伽論』巻七六および『解深密経』には、「第八識は、相と名と分別との習気を縁ずる」と説いている (3)。また『瑜伽論』巻五一には、「(第八識は)遍計所執の種子を縁ずる」と説いている (4)。以上の理由からして、遍計所執の種子は、有漏のすべての心に共通する。だから善の心等においても、法執が有るとするのである (5)。以上は、安慧師等の解釈である。[補注](1)習気については、旧来以下のように説明されている。業の潜在的印象。潜在余力。習慣性。薫習によって残された気分。実質的には種子と同じ。唯識説では種子の異名に用いる。薫習された気分(ある経験的行為によって残された潜在余力)の意。また慣習の気分の意。しばしば煩悩を起こしたことによって癖となった煩悩の余力をさす。すなわち、煩悩そのものは尽きてしまっても、その後に習慣性が残っていることをいう。(中村元『佛教語大辞典』東京書籍)阿頼耶識のなかにある種子の別名。表層の行為(現行)によって阿頼耶識に薫習されたという点から習気といい、ふたたびそれから現行を生じるという点から種子という。詳しくは習気の習とは現行による
薫習、気とは現行の気分であると解釈される。(横山紘一『唯識仏教辞典』春秋社)また『成唯識論』巻第八四三頁a一〇行~b一行参照。習気およびその種子との関係については、『述記』巻第二末二九八頁C三行~三〇〇頁a二二行参照。(2)『瑜伽師地論』(大正蔵
以下これによる)巻第五一五八〇頁a二~九行。『顕揚聖教論』(大正蔵
三行。 (3)『瑜伽師地論』巻第七六七一八頁a一九~二二行。『解深密経』(大正蔵⑯)巻第一六九二頁b一一~一 一七五六六頁a一~七行。 )巻第
(5) (4)補注(2)『瑜伽師地論』に同じ。 に当てはめると、「第八識は、執受である諸種子を縁ずる」という意味となり、安慧説の教証となる。 行)の「執受有二。謂諸種子、及有根身。諸種子者、謂諸相名分別習氣」の解説にある。この論文を引用文 125頁補注(1)で言及した『述記』巻三本の護法説・安慧説は、『成唯識論』巻第二(一〇頁a一四~一五 125頁補注(1)参照。