H
本 佛 敦 學 會 年 報
第十五牌
昭和二十四年度
日本佛教學會年報第十五琥
H
本
佛
教
學
會
目
次
古逸諸輝籍の研究…………••………・壻
江戸初期に於ける日蓮宗の脱宗者とその教學⁝⁝⁝⁝⁝⁝執
顕 密 二 教 融 合 の 一 断 面
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⁝ ・ 山 金 澤 稲 名 寺 の 學 風 に 就 い て
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⁝ 櫛
大智度論に於ける阿波陀那について………•…••平
無 我 の 難 貼 と 共 の 解 決 法 ⁝
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⁝ 泰 阿 合 に 見 え る 蓮 部 に つ い て
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⁝ 東 無 拭 壽 純 漢 諄 孜 ⁝
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・ : 野
三諦――一観恩想の起原及び殺逹·………•…………•佐 目
次
藤 哲
上
俊元 本 ) I
l
多
田 良
口 光
行海
秀︵
二八
︶
o o
︵翌︶
洪 五 ︱ ‑
︶
彰︵
八四
︶
融 ︵ 一
1一 大 ︶
郎(
‑天
︶
静 ︵
一 八
0)
英︵
一査
︶
永 璽 鳳
︵ 一
︶
宗 教 の 儀 鵜 に 闊 す る 考 察
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目
嶽
( 1
一
1
‑ k )
報⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝︵
1
‑
羹 ︶
日本佛敦學會々則•••………••………
•(1一大1一)日本佛敬學會々員名簿………••………
•(1JKK)彙
次
津 洪
古 逸 諸 輝 籍 の 研 究
て︑﹁宗敦としての佛教の本質ならびに︑他の宗教との蓋別を最も正しく把握する唯一の方法は闘定の意味を指摘し︑
他の宗教に於て︑祈疇を行ふ役割と比較するにある﹂
( M a n n k a n n d a s W e s e n d e s B u d d h i s m u s a l s e i n e r R e l i g i o n a n
d e r e n R e l i g i o n d a s G e b e t s p i e l t .
S.
47)と述べてゐるやうに︑譴定の宗教的意義はかなり高く評債してよいと
思ふ︒蓋し︑佛敦に於て醐定三昧を離れた教説は一もなく︑その賓践はすべて修定を基盤としてゐるからである︒殊
a l s w e n n m a n a u f d i e s e B e d e u t u n g d e r M e d i t a t i o n h i n w e i s t u n d s i e v e r g l e i c h t m i t d e r R o l l e d i e i n
u n d z u g l e i c h s e i n e n U n t e r s c h i e d v
o n n a d e r e n R e l i g i o n e a n u f k e i n e m a n d e r e n W e g e r i c h t i g e r e r f a s s e n ,
s e n k u n g
S.
3
59 )
とい
ひ︑
またヘルマン・ベック オルデンベルグ
( O l d e n b e r g )
はその著佛陀
( B u d d h a )
に於
て︑
とつて椰定である﹂
( W a s f i i r a n d e r e R e l i g i o n e d n a s G e b e t i s t f i i r d e n B u d d h i s m u s
d i e A n d a c h t d e r V e r ‑
ヽ
一
ー
序
︵
諒
( H e r m a n n B e c k h )
も ︑古 逸 諸 椰 籍 の 研 究
増
その著佛敦
( B u d d h i s m u s )
第二巻に於﹁他の宗数にとつて︑祈疇であるものは︑佛数に
永
叩翌
鳳
古 逸 諸 扉 籍 の 研 究
に︑中國の隋唐時代︑獨立の一系統をなしてからは無為酒脱たる中國道家の風尚と結び︑謄俗的な文化性格と融合し
て特色ある賓賤哲學を形成し︑日本に偲へられてからは︑鎌倉末期動蝋相ぴ織ぐ時代に於て︑能く日本の文敦を護り
このやうに宗教的に牌叉文化的に多大なる足跡を残した輝定︑たらびに輝宗の研究は歴史に︑哲學的に︑心理學的
に︑言語學的に︑書誌學的に:その他あらゆる看貼から果されねばならないが︑予は脈史的特に醐宗史の方面から少し
く考察を試みたいと思ふ︒思ふに︑すべて正しい思辮は経験に基き︑事宜から出装したければならない︒膝史は思想
に経瞼的資料を奥へ︑空虚なる概念の遊戯に陥ることを防ぎ︑宗教の進歩褻展に及ぼせる質際の力と︑文化的た諸條
件とを示すものである︒されば︑膝史的研究には︑先づ資料の蒐集と︑その選握とが︑成果の大半を規定する尺度と
なるのである︒今問題とする詞宗は︑不立文字︑敦外別偲の標織を︑高く掲げてゐるにも拘ら中︑その残した文献は
汗牛充棟もただならざる程多敷に上つてゐる︒それは︑騨の最も主要な課題である悟の心境を表現し︑
を他に分たんとする心理的要求によるのであるが︑
諸醐籍を一二つに分類する︒ さびの豊かな闘宗文化を確立したのである︒
さらに唐宋時代旺んに忍り上った詩藻と結合して︑
史類をその資料とするに過ぎなかったのである︒然しながら︑
つて︑純粋に歴史の名には︑値しなかったのである︒然るに︑ その法喜醐悦この悟境や修
行の情景乃至師資の問答を平明な俗語を以て︑文學的に表謡しようと試みたからである︒さて輝宗史の研究は︑従来
景徳偉燈録
(J
OO
四︶
︑廣
燈録
( l
01 ︱
︱六
︶︑
績姫
録(
︱
I o I )
︑普
燈録
(‑
︱
10
l )
︑五燈會元︵三五二︶等の所謂燦
これらの文献は師資證契の機縁を述ぺることが主であ
こ三一三十年来︑今まで散逸して偲はらなかった古調
籍が︑陸績として褻見せられ︑ために従来の祠宗史は再検討を餘儀なくさるるに至ったのである︒予はこれらの古逸
う ︒ ける佛敦以外の正史雑史等の記事によって確めるたらば︑所謂︑
歴 史 の 名 に 値 す る 醐 宗 史 が 編 纂 さ れ 得 る で あ ら
その第一は徴煽出士の文獣である︒これは英國のオレル・スタイン
( M .
A u
r e
l S
t e i n
) が︑前後一二回に亙る中央亜
細亜の探検により燎燐千佛洞で得た珍書約六千巻を一九0七年本固に持鯨つたものの中にあり︑また佛國のポール・
ある
︒
が一九0八年徽煽から本固に送った珍書約二千五百巻の中に存する︒
の中に存する︒廣勝寺所蔵の大蔵経は金時代の刻本が主であるから︑
偉稀製の糎典︑章疏目録︑史偉が影印宋蔵遺珍として︑
この私版は大部分北宋の官版を底本とし︑その版式をも踏襲重難したものである︒ それらは六百年頃か
ら千二百年頃に及ぶ重要なる文獣である︒佛数闘係の文書は多く故矢吹慶輝博士によって紹介せられ︑鳴沙餘韻とし
て印影されその解説忍筋に出版されてゐる︒就中重要なものは大正大蔵経第八十五巻古逸部︑第四十八巻諸宗部五︑
第五十一巻史偲部︱︱‑︑その他の輩行本に出版されたのである︒
その第二の資料は一九︱︱︱︱︱一年︵昭和八年︶中國山四省河東道趙城縣廣勝寺の禰勤殿から疲見された四千九百五十七巻
上集は上海から中下集は北平から出版されたのである︒
蔵経は金の時代大定十八年(‑︱七八︶酪州︵山四省︶の握進の女法珍比丘尼が褻願し自ら臀を断つて︑
この
その資金を勧
募したから︑その熱意に動かされて家産を悉く喜捨する人忍畠で︑遂に三十年の年月を費して︑目的を果した私版で
第一一一の姿料は朝鮮慶尚南道映川郡伽耶山海印寺所蔵高驚高宗一
1 ‑ + 1
一年(︱二四五︶分司大蔵都監の彫刻した大蔵鯉板
八萬一千二百五十八枚︵経巻千五百十二菰六千七百九十巻︶の中より摺製した祖堂集である︒
學者は新しきこれらの資料を他の比較的公平なる高僧偉の記事に照し合せ︑更に全唐文︑金石粋編乃至中國に於
古 逸 諸 輝 籍 の 研 究
一般に廣勝寺蔵金刻大蔵網と稲せらる︒その未 ペ
l J
ョー
( P
a u
l P e
l l i o
t )
あら
う︒
古 逸 賭 輝 籍 の 研
各 究
資 料 の 内 容
第一資料には少室逸書第一編榜伽師資記︵七0
八︶
︑暦
代法
賓記
︵七
七四
︶︑
一乗
顕自
心論
︵修
心要
論︶
︑六
祖壇
鯉︵
約八
一
八︶︑大乗北宗論︑大乗無生方便門︑大乗五方便北宗︑偲法賓紀︵七0六︶観心論︑紳會語録︵七九一以前︶二穂︑無題騨籍
第二資料には賓林偉︑偲燈玉英集があり︑第一1一資料は祖堂集である︒
少室逸書は一九三四年︵昭和九年︶鈴木大拙博士が北平國立圏書館所蔵の徴煽文献中から菩提達摩の略偲と二入四行
として知られた一文を首初とした文︑修心要論と命題されたもの證心論二十行その他︑和尚頓敦解脱騨門直了性壇語
一巻元上士集観行法と稲すべき一巻︑恵達和上頓悟大乗秘密心契輝門法等の六巻子を四篇に編纂し︑
十一年︶年に刊行せられたものである︒少室逸書は博士の言はるる如く︑達摩の宗旨すなはち少室の遺響を偲へんとす
る文書で今日まで逸して偉はらなかったものをいふ︒就中我々の注意を要するものは第一篇である︒第一篇の達摩大
師二入四行論及略序等は逹摩の略偉と二入四行を明かにし︑雑録第二の八十一節から九十節までは慧可の思想を示し︑
同第一篇第十一節は向居士に封する慧可の返書である︒
榜伽師資記は五祖弘忍の徒玄譴の弟子浮覺が恐らく七0八ー七二三年の間に著したもので︑第一祖求那賊陀羅︑第
二祖達摩︑第一一一祖慧可︑第四祖簗︑第五祖逍信︑第六祖弘忍︑第七祖紳秀︑第八祖普寂︑敬賢︑義脳︑恵輻等の偲を
蓮ねてゐる︒ 等
があ
る︒
これは榜伽輝の相承を示したものであって︑繹者求那賊陀羅は直接椰宗に闘係がない︒
(二)
これらによって達摩慧可師資の思想信仰の一斑を窺ひ得るで
四
これを除けば︑
一九
三六
︵昭
和
佛の説を述べ︑五祖の語を偉へ︑六祖と系統を異にしつつも︑慧能の偲をやや詳して述べてゐるから︑参考資料たる
債値が存する︒この書は紳會語録のものに基くか共通獣も少くない︒暦代法賓記にも︑1
一露
本存
し︑
古 逸 諧 輝 籍 の 研 究
を説いてゐるが︑歴史的に頗る杜撰である︒然し︑ 恐らく︑智読系統に出来た書であらう︒二十八祖説に二菰の系統存するが︑偲の二十一王国に逹摩多羅輝繹九祖中の五祖を加へたものである︒菩提逹摩と逹摩多羅とを混同し︑逹摩が酉来に先だつて佛陀耶合の一一弟子を遣して漢人に大乗性あるやを瞼せしめたといぴ︑梁の武帝と問答して無功徳と喝破したこと て
ゐる
から
︑
この書の製作も恐らく︑
五
現存最古の初期輝宗史としての債値を有する︒著者淫覺はその師玄譴の著はせる榜伽人法志によって︑この述作を認
めたのである︒榜伽人法志は紳秀までの偲であって榜伽師資記には︑弘忍紳秀雨偲に引用されてゐる︒玄蹟は弘忍の
晩年凡そ五ケ年間その巾瓶に侍し︑示寂の際︑命を受けて弘忍の塔を建立した︒榜伽師資記の冒頭に︑淫覺は景龍二
年︵
七
0八︶東都に於て玄蹟に承事したことを述べ︑末尾に普寂︑敬賢︑義輻︑恵輯ともに大通和上の後を承くと説い
てゐ
るか
ら︑
らう︒歴史的に注意すべきは︑弘忍ゃ紳秀の常に用ひた文句が記されてゐて他の文獣との比較によって︑
得ることである︒徴煽出土の榜伽師資記は二穏存し︑
出版された︒ この四人の生存中にこの書はかかれたものである︒従って︑この書の製作年代は略ぼ上の如くなるであ
それを確め
一は大正大蔵網第八十五巻に掲げられ︑他は金九鯉氏によつて
謄代法賓記は第一組達摩多羅︑第二祖恵可︑第三祖哀︑第四祖信︑第五祖忍︑第六祖曹漢能︑智読︑虞寂︑無相︑無
住の偲を記してゐるが︑然し五祖ー智読ー虞寂ー無相ー無住を誅くがその主要目的である︒無住は七七四年に示寂し
その頃であらう︒榜伽師資記の淫覺に反封し︑また惹能とも系統を異にする︒
この書は現行のものとは全く異り付法蔵
一方無相や無住の三句を偉へ︑無相の引墜念佛無住の無念無心郎
その一っが大正
古 逸 諸 扉 籍 の 研 究
大歳輝第五十一巻に牧められてゐる︒
北京闘害館所蔵の一乗顕自心論︑龍谷大學所蔵の修︑心要論は何れも徴煽本であるが︑歴史的には北京本が最も古く龍
谷本がこれに次ぐと思はれる︒この書は朝鮮の囀門撮要中に存する最上乗論であって︑綬蔵鯉第一一編第十冗套第五冊
中に牧録されてゐる︒最上乗論ぱ従来五祖弘忍の作といはれて来たが︑その断案には容易く認定し難いものが存する︒
この害は心源を了じ︑本心を守つて︑一乗を頸はさんことを目的とするが︑爽雑物が頗る多く見受けられるのである︒
六祖壇親の徴煽本は外題に南宗頓敦最上乗摩阿般若波羅蜜経六直恵能大師於昭州大梵寺施法壇経とあり︑兼受無相
戒弘法弟子法海集記とある︒六祖壇経は︑現今多敷の異本が存するけれど忍︑大閤徴煽本︵八一八︶と悪訴本︵九六七︶と
徳異
本︵
一︱
︱九
0)
宗賓本との一二系統に分類し得るであらう︒就中徽煽本は最ぶ古く恵研本より増大し︑漸次遷雙し初
めたのである︒然し︑緻煽本と雖忍︑決して原型そのままではなく︑後批の添加がなほ多分に窺はれる︒我々はその
原型として︑大梵寺に於ける説法と十僧への説示乃至遺誠とを畢げ得るであらう︒但し︑十僧に封する三科三十六封
法の説示ぱ︑歴史的には︑たほ調査を必要とする︒徴盟本の成立した年代は明確でないが︑章虞厚が八一八年につい
て言ってゐるところが︑大閥徴煽本に嘗ると見られるから︑恐らくその頃に出来た忍のであらう︒徴燐本は大正大蔵
親の第四十八巻に牧められ︑その原寓本の影印は故矢吹博士の鳴沙餘訊の第百二第百一二紙に掲げられ︑鈴木博士ば誤
院を訂正し︑音通を正して校訂し︑しか忍全翌を五十七節に分ち内容を摘記して節名となし︑昭和九年に出版された︒
宇井博士は第二輯宗史研究に於て︑壇鰐考を登表せられ︑各本を細密に研究し各本の成果を畢げられてゐる︒
大乗北宗論︑大乗無生方便門はいづれも大正大蔵綜第八十五巻に牧められ︑また宇井博士の詞宗史研究の北宗残簡
に掲げられてゐる︒大乗北宗論は同一趣旨を繰返す頗る簡畢な文である︒その偽として暴ぐる﹁憂従>心憂業従>心業︑
,
ノヽ
若忘1一於
心
1︑何憂何楽﹂といふ文は注目に値するG若し心を忘すといふ忘は大正大蔵繹に妄とあり︑また他の忍ので
は離となってゐる︒後の時代となって南宗は娯心といひ︑北宗は離心︑離念といふやうにされてゐるが︑離心にはな
ほ心を留めてゐる一面があり︑間接的な心境が残ってゐる︒然し︑北宗必ずし忍忘心や無心を説かぬわけではない︒
大乗無生方便門は第一縛じて佛盟を諺はし︑第二智悪門を開き︑第三不思議法を頴示し︑第四諸法正性を明し︑第
五自然無擬解脱道を説いてゐる︒初め各各闘詭合掌して四弘誓願を褻す等北宗闘で行ふ儀式を示し︑法持無相︑承遠
等の念佛祠に類似するものび存し︑弘忍以来偉へ来つた看心看淫放職遠看等の扉法を示し︑五門の序と思はれる文を
連ねて︑修心要論のいふ守心と相ぴ通する思想あり︑詞味への貪著を斥けて無住虞涅槃を強調する︒
が用びられ全篇を通じて︑一云何の意を現はす是浚の語が川てゐる︒
七
一般の閲覧にむ供せられてゐなかったも 一見奇なる文字
大乗五方便北宗は故久野芳隆氏が宗敦研究新第十四巻第二競に褻表し︑宇井博士がその葛賀版によって祠宗史研究
に掲戴せられた︒北宗詞の一特質たる五方便を説き︑身心の如々不動を強調する︒
筆寓したものである︒
偲法賓紀は杜拙字は方明の撰した輯宗史の文獣である︒帥秀は大通とするから︑
は明かでたい︒恐らく左程古くはたいであらう︒大正大蔵網第八十五巻には︑
大學の帥田喜一郎氏が先年巴里國民闘書館でペリオ目録にまだ著録されナ︑
押してあり︑ この書は五代宋初の三界寺道鰐の七
0
六年以後のもので︑最下年限その一部が牧録されてゐるが︑元豪北
のの中から︑その完峡本を褻見されたのである︒それはペリオ教授将来徽煽文書第一一六一1一四貌とは︑全く別な第一二五
五九魏の文献である︒その原本は徴煽縣戸籍簿の紙背に書嵩した忍のであって苺紙の耀目には表哀ともに徽煽縣印を
ほぼ唐朝中期の筆葛にかかる同熟した行翌の書である︒帥田氏はその苦心の撮影を徴煽祓籍留鱈と積翠
古 逸 諸 輝 籍 の 研 究
帥會語録はその徽煽本が石井光雄氏のもとにあり︑鈴木博士が昭和九年に活字本として出版された︒胡適氏も︑佛
國國立闘書館所蔵のものを︑紳會和尚遺集として︑昭和五年に出版してゐる︒石井本の巻末には居の貞元八年︵七九二︶
沙門賓珍が張大夫の命により葛本を校勘したことを記してゐる︒但し︑干支よりすれば︑貞元七年と見るべきであら
う︒されば︑原本はそれ以前に出来てゐたに違ひない︒帥會自身の口述したものか否かは明かでないが︑紳會の語っ
たことを記録したものである︒最後に︑逹摩から惹能までの略博が存する︒榜伽経に封して金剛糎を重んする紳會の
立場がよく現はれてゐる︒語録の思想忍般若的であって︑
第二資料の賓林偉はもと十巻あり︑覺岸捩繹氏稽古略
(
‑
= 1
五四︶第一一一巻によれば︑建康の沙門惹短l はなし難い︒観心論は破相論ともいはれる︒
古 逸 諸 輝 籍 の 研 究
︵智
矩︶
翁記念論纂に複表された︒而して︑白石芳留氏はそれを綾靡宗編年史の附録︵九七二頁︶に再録されてゐる︒
と天 この書の内容は逹摩︑恵可︑僧礫︑道信︑弘忍︑法如︑紳秀の偉である︒法如は大通とともに︑弘忍の門下で︑法
如は弘忍寂後嵩山に入り︑六八九年五十二歳で寂し︑帥秀は六七六ー六七八年に玉泉寺に入り︑雨人が偲法したこと
は伺等偲へられてゐたい︒軸秀の偉を記してゐるから︑北宗椰に開するものである︒但し︑多少杜撰た貼あるは惜む
べきである︒
観心論には徴煽出土のもの︑龍谷大學所蔵のものとがある︒前者は大正大蔵網第八十五巻に掲げられるが︑首部を
嗣いてゐる︒後者は完全なる文書である︒その他︑朝鮮の安心寺本と︑輝門撮要本︑金澤文庫本︑少室六門本等多数
の異本が存する︒鈴木大拙博士は少室逸書解説の附録に︑これを封照出版された︒なほ︑奉天の金九経氏の勘校出版
もある︒惹琳の一切舞音義に大通紳秀作となしてゐる︒その内容は観心看淫を説くところ忍あって︑逹摩のものと︑
その靡は頓悟翫修的といつてよいであらう︒
八
は印度の二十八祖中國の六祖までの偉燈を連ねたものである︒然し︑
九
竺三蔵勝持とが諸偉法識及び宗師機縁を編次したものである︒智短は南獄の般若道場に住せる躙僧である︒その内容
その十巻中第六︑第七︑第九︑第十の四巻を鋏
いてゐる︒但し︑第六巻は故常盤博士によって京都青蓮院で登見された︒偉燿録第二十九巻に僧潤が︑因みに賓林偲
を覧ると題して﹁祖月輝風賓林に集る︑二千餘戴︑道尋ぬるに堪ふ︒西國と東國とを分つと雖も︑人心を隔てす佛心
に到る︒迦葉最初偉へ去つて盛なり︒慧能末後得来つて深し︒斯を覧て頓悟し︑凡衆を超ゆ︒嘩彼常に迷ふ古と今と﹂
と詠じてゐるから︑繹尊迦葉から慧能に至る相承を示してゐることが判るのである︒そして︑恵能系の祠が繹尊以来
の偉燈相承の正しさを證せんとした忍のであって︑唐宋時代扉宗の自立上︑必須の問題たる師資相承の次第を確立す
べく︑種々なる課題を浅した文書である︒二十八祖誅に於て︑暦代法賓記とは︑系統を異にし︑祖堂集や偲燈録に影
響して現今まで行はるる偲證相承の基本をなしたのである︒繹尊偲中の四十一一章経逹摩の訛偲︑1一祖の法琳碑文︑三
祖の房瑣碑文等は歴史的に注目すべきものである︒
偉燦玉英集は宋の王随なるもの︑景訪元年
( l
01︱一四︶道原の景徳偉燈録一二十巻から抜卒して十天巻となしたもので
あって︑翌年勅して大蔵中に編入せられ翌々︱︱︱年印鰹院の官版によつて印行されたこと巻末に於ける王随の後序によ
つて明かである︒然るに︑夙に散侠し何れの蔵経にも牧録されなかったが宋蔵遺珍に四冊として出版された︒但し︑
第一︑第四︑第七︑第九︑第十一︑第十一二共六巻を映いてゐる︒本書は1一百六十五人の史偉師資の機縁を掲げ︑第三
巻百丈偉には扉門規式の全文を戴せ︑第十四巻には︑賓誌以下九人の獨語上堂語を戴せ︑諸方維畢微拍代別語を示し︑
南陽惹忠國師以下九人の語を掲げ︑第十五巻には誌公の大乗讃以下二十人の語を學げてゐる︒
て︑約半敷位にまとめたので︑年月等歴史的に必要なものは殆んど省略する︒
古 逸 諸 輝 籍 の 研 究
これは偉燈録を取捨し
牧録醐師は惹能下に慧思︵行思︶荷澤︑慧忠︑蜆多三蔵︑智策︑本淫︑玄覺︑恵譲の八師︑荷涸の系統は宗密に及び︑
馬祖下には一二十二師︑雪峰下には二十一師を畢げてゐる︒就中︑繹尊偲中の四十二章繹︑達摩偲︑六祖偲︑玄覺偲︑大
顧偲等は注目に値する︒また朝鮮五冠山順之の同相説︑一二遍成佛義等は特殊の宗乗であり︑高城和尚に大乗敦︱音義の
今まで一般に知られてゐた第二六三四琥の偉法賓紀では︑
字がよく見えたいから︑大止大蔵経は慎重を期して院字にしてゐる︒然るに︑紳田氏によつて複見された第三五五九
︶
︱︱
︱ 特 に 偲 法 賓 紀 と 賓 林 催
︵
著が存したと偉へらる︒ る ︒古 逸 諸 膊 籍 の 研 究
祖堂集はその序文によれば︑泉州招慶寺に居た静笥二闘徳が南唐保大十年︵九五1一︶に撰した最古の嘩宗史である︒
その序は招慶寺主淫修詞師文橙の書いたものである︒従来の囀宗史は殆んど景循偲燦録以下の燈史類に基いてゐたが︑
これに先だっ五十二年に由来た祖堂集の褻見は甚だ意義深いといはねばならない︒祖偲の末尾には︑浄修輝師の讃一
首八句があり︑またその作の歌頌を掲げて頗る詩的である︒壺し︑招慶省侵は泉州千佛新著諸祖頌の作者であって︑
歌謡偽頌に頗る巧みであったからであらう︒その主なるものは颯憬和尚業道歌︑臆々和尚業道歌︑開南和尚業道歌︑
丹霞和尚弄珠吟︑弧寂吟︑麗龍珠吟︑弄霞吟︑丹霞有一賓︑京城和尚古人重義頌等である︒朝鮮の祖師偲を多く具録し
てゐることは︑他の文獣の及ばざるところであって︑恐らく朝鮮椰宗史の最も古くして︑槽威ある文獣といつてよい
であらう︒二十八祖は賓林偉を承け偉焼録と同一である︒迦葉より慧能まで︑通じて祉数を立て慧能を一︱‑+︱︱一祖とす
との書は南宗系に屍するためか︑北宗の軸秀普寂の名のみを攀げ︑牛頭闘の系統にも︑さほど開心を持つてゐたい︒
その作者の名が明瞭を峡いてゐる︒この本には﹁杜﹂の
!O
また我が本師として︑一一回その語を例示してゐる︒ 読の本は明瞭に京兆杜拙字方明撰と書かれてゐる︒胡適氏の紳會和尚遺集︵二八︶に忍杜拙とある︒故矢吹博士は鳴沙餘韻解説︵五二四頁︶に於て︑
史研究︵四ニニ頁︶に於て︑
らう﹂といはれてゐる︒大智輝師義瓢は金石粋編第八十一巻所戴唐厳挺之撰の碑銘によれば︑輻先寺に於て︑拙法師
に事へ︑廣く大乗輝論を究めたが︑
足を轄じて荊州の玉泉道楊に紳秀を訪ねたといふ︒
見に合致する︒
うした事情から矢吹博士の如く︑大智詞師に師事した拙法師とこの書の著者杜肌とを同一視することは決して附會の
説ではない︒但し︑杜肌にしても︑肌法師にしても︑
本書は初めに序論が存し︑次に本論に入って東魏嵩山少林寺︑繹菩提逹摩︑北齊嵩山少林寺繹恵可︑隋院公山繹僧燦︑
唐雙峰山東山寺輝道信︑唐雙峰山東山寺繹弘忍︑唐嵩山少林寺法如︑唐常陽玉泉寺繹祖秀の七人に就てその行質を誅
き︑最後に論じて日くとして結論を示してゐる︒
てゐ
る︒
され
ば︑
﹁無上の買宗登に言説に これを大智祠師が師事したと偉へらるる肱法師に擬定された︒然るに︑宇井博士は祠宗﹁著者杜拙の偉記などは︑全く不明であって字が方明といふより見れば︑恐らく居士であ
古 逸 諸 扉 籍 の 研 究
これを以て満足せ中︑深く典奥を求めて法如の門を叩く忍︑偶4その入滅に遭ぴ︑
偉>法︑願嘗>睾II未来
1︑廣開二佛智見こといつて︑
繋らんゃ﹂といつて︑文字言句を離れて︑ この繹歴から見て︑偲法賓紀が法如を第一︑紳秀を第二とする意
この間伺等かの闘係が存するやうに思はれる︒杜拙は恐らくその後還俗したのであらう︒か
その事蹟は宇井博士の説かれるやうに全く不明である︒
その序文と後論には本書撰述の意園が何虞に存するかが明かにされ
その序文の巻頭には﹁稽二首善知識一︑能令証空本心1︑
猶如
>濁
一一
水中
一︑
珠力
頓消
現︑
所以
令>
修>
紀︑
明>
此遁
この書を撰述した全趣旨を示してゐる︒
さて
︑
その心源に達すべきことを説き︑逹摩以来正秀に至る法系を示して︑
その
根本精紳を具鰐化したことを力説する︒序文には︑起信論を一回︑榜伽輝を一一回︑後論には孔丘旺周易の語を引用し︑
このやうた鮎から︑考へるたらば︑著者杜拙は北宗系の人であり︑
古 逸 諸 膊 籍 の 研 究
また還俗して居士となり︑中國の古典に明るい人であったと推定し得るであらう︒その本師とは多分神秀であらう︒
また後論に﹁至
1一
乎今
之學
者
1勝
>為
II委巷之談
1不>知為>知︑未>得為>得︑念佛浮心之方便混
1一
此彼
流一
鰐如
法身
之端
侃︑
曾何努龍悲突﹂といふ激しい言葉を連ねてゐる︒これは南北一一宗の野立がかたり昂まった時代の反映ではなからうか︒
そして︑杜肌は結尾に﹁今大通門人法棟無>撓︑伏膚何遠裏>足宜>行︑勉哉學流光陰不>弄也﹂といつてゐる︒これは彼
が明かに北宗系の人なることを示すに十分であらう︒けれども︑弘忍と紳秀との間に︑法如を掲げてゐることは同じ
北宗暉の源流を院いた榜伽師資記とは︑頗る趣を異にしてゐることが明瞭である︒達摩を東魏嵩山・少林寺とするが︑
達摩は東魏
C 1
声犀九︶の時代には既に入寂してゐるから東魏となすは歴史的に正確でない︒蓋し︑逹摩の示寂は恐ら
<天平元年︵五三四︶またはそれ以前であるからである︒その偉の内容は底史的に見て第二次的のものといふべく︑榜
伽鯉を尊重してゐる舶、北宗系の文獣たることを明示する。逹摩の偉中師事六年とあり、また恵可の偉中にも四•五
年精究明徹とあることは︑恵可が達摩に随侍した年敷を示すものであって︑一般に九年といふ説に略ぽ一致する︒た
だ北齊嵩山・少林寺といふは不正確である︒何とたれば︑恵可は北齊
C 1
戸t C
七︶の時代には少林寺に居ないし︑また達
摩の後少林寺には居ないからである︒加之︑序文に﹁唯だ東魏の恵可︑身命を以て︑之を大師に求む﹂といふが︑東
魏の時代には︑惹可は既に偉法してゐるから︑年代的に誤差がある︒また逹摩の偉中﹁恵可因みに其の臀を断つて以
て誠懇を瞼す﹂といひ︑僧可の偲中﹁能く身命を以て法のために怯れナ︑便ち其の左管を断つて︑顔色異らす﹂とあ
るは賊によって腎を断たれたといふ道宜の説を否定してゐる︒また﹁時に向居士︑化公蓼公輝師あり︑咸く本心を得
るによって皆道用をなす﹂とあって︑慧可には︑僧礫以外に向居士化公謬公等がその徒なることを示してゐる︒更に
﹁亦榜伽経を以て人のために偉ふ︒因みに歎じて日く︑此れ四世を経て後︑雙じて名相と成す悲しい哉﹂とある文によ
僧燦偉の存することは︑
繹ること十餘年﹂とあるは参考すべく︑﹁月公は郡ち巖詞師これなり﹂といふは正しくない︒勿論信心銘に就ては一言
忍獨れてゐない︒道信と弘忍とをと忍に雙峰山東山寺となすが︑雙峰山は道信のゐた所で︑寺ダIとしては宋高僧偲以外
あまり見出せない︒榜伽師資記は弘忍を雙峰山幽居寺弘忍といふが︑
のである︒弘忍は道信の寂後憑茂山に住したのである︒壺し︑憑茂山が雙峰山の東方にあるから東山と稲したのであ
る︒東山は寺競ではないであらう︒道信は武徳七年︵六二図︶噺州雙峰山に入ったとあるが︑恐らく武徳の初めと思は
れる︒居ること一二十年は正しいであらう︒績高僧偉第二十巻の如く﹁山に入ってより三十餘歳﹂とすれば武徳の初め
としなければならない︒武徳七年とすれば︑
一口食忍飢癒を塞ぎ得ん︒郎ち門を閉ぢて坐せ︒輝を讀むこと葵れ︒共に人に語ること葵れ︒能くとのものの如
くならば︑久々にして堪用すること︑媚狼の栗中の肉を取るが如し︒坐して研取せば︑此の人難有なり﹂とあるは︑
闘の本領を示すに十分である︒
道信が特色ある坐椰を寅践したことは︑榜伽師資記の示すところであるが︑坐輝に専一なるべきをすすめたことだけ
は事賓であらう︒
弘忍の偲に就て︑ ま ︑ー 退けたことは綾高僧偉も説くところである︒常に門人に命じて︑ この人の抹殺説に封する反證として有力である︒
古 逸 賭 輝 籍 の 研 究
﹁後周武の破法に遭び︑山谷に流遁し︑
それは弘忍が︑道信とともにゐた時代を採った
その示寂せる永徽二年︵六五一︶まで一二十年となる︒般若を念じて賊徒を
﹁努力勤坐せよ︒坐は根本たり︒能<‑︱︱五年を作せ
その寂年を永徽一一年とするは正しく︑八月といふは績高僧偉の閏九月四日とは異る︒
﹁萱は則ち混迩して駈給し夜は便ち坐揖して暁に至る︒未だ曾て憮倦せす︑精累年に至る﹂と述
べてゐる︒宋高僧偉も﹁僧業を習うて銀辛を逍れナ︑夜は則ち容を欽めて坐す︒悟瘤自ら居す︒形倶を受くるに泊ん つて慧可は名相に拘泥する人でなかったことが明かである︒
資料を提供するものである︒上鴬の人といはるるが︑
これを證明することは不可能である︒ これ澱州であろ︒濡州は山酉省長治縣下であって︑黄河の以北
古 逸 諸 輝 籍 の 研 究
で戒検精動﹂と説いてゐるから︑坐暉辮道に精動したことが明かである︒守心に就ては述べるところがない︒その人
となりに就てもとの書は﹁性木訥況厚︑同學頗る之を軽戯す︒終に獣して封ふるところなし︒常に作役を勤む﹂とい
つて
ゐる
︒
その示寂の年時を上元1一年︵六七五︶八月十八日七十四歳とする︒上元二年説は暦代法賓記︑宋高僧偲︑偉
燈録のとくところである︒但し︑予は咸享元年︵六七
0)
雙峰山に至って︑恭しく敦誨を受けた玄蹟の著せる榜伽人法
志によるを最忍確質と見るから︑その示寂を咸享一一一年︵六七二︶とする︒
を明す]とあるが︑溌州法如の弘忍の弟子なるととは明かである︒
法如の偉は金石績篇第六巻所載唐中岳沙門法如醐師行朕が唯一の樺證であったが︑
にある︒十九歳出家し︑弘忍の會下に投じ︑弘忍示寂の時まで︑その巾瓶に奉侍すること十六年であった︒後嵩山少
林寺に住すること敷年(‑︱一年ならん︶人々その最を測り得なかったといふc
の上足たる義輯も普寂も︑法如に就かんとしたほどであったから︑ この偉法賓紀の登見は學界に新
一般に嵩岳大師と尊稲された︒垂挟年中
︵碑文二年ー六八六︶少林寺に醐法を開いた︒永昌元年︵六八九︶七月五十有二歳を以て示寂してゐる︒碑文によれば︑軸秀
その道署は高かったに相違ない︒入滅に先だち︑
弟子等は﹁而今已後常に荊州玉泉寺秀椰師下に往つて︑諮稟すべし﹂といはれたといふ︒暦代法賓記によれば︑弘忍
が慧能に付法した頃︑法如はその會下にゐたことが明かとなる︒
然し︑紳秀が法如の弟子とはいはれたい︒偉法賓紀の記事だけで︑
﹁儀鳳中荊楚大 紳秀は大梁の人とあるが︑河南省陳留尉氏の人である︒偲法賓紀は︑四十六に至って︑東山に往き︑忍大師に蹄し
たといふが︑張説の碑文は﹁天命を卸る年﹂弘忍に師事したとなすから五十歳でたければならたい︒ ﹁因みに弟子法如は密に偉宜あり︑一如所承
一四
つて︑南嶽石頭の法系ではなからうかと思はれる︒
一五
徳敷十人共畢度﹂とあるが︑賓はこの間に荊州玉泉寺に隷したのである︒法如闘師滅後より學徒萬里を遠しとせすし
て︑我が法壇に鱚したので︑遂に開いて善誘し︑陵機弘清したといふ︒久親中︵七年ー七
00
)
則天武后中使を複して
奉迎
した
︒
その踪仰ぶりは非常な忍のであった︒帥龍一一年︵七0
六 ︶ 一
1月二十八日︑端坐恰然洛陽天宮寺に逗化し︑
泉寺に師して建塔した︒
賓林偲は輝尊より慧能まで︑南宗系の偲證を示すものである︒初め三紙を峡いてゐる︒
玉
その寂年は百歳を過ぎてゐたといふから︑碑文の百有餘歳と殆んど一致する︒恐らく︑百一
歳であらう︒大通和上の尊稲が興へられた︒本文には︑法如からの嗣法を説かないが︑序文は﹁弘忍偉法如︑法如及
それは墜徹の序と繹尊偉の
初めであらう︒普曜鯉を引用して佛偉を述べてゐるが︑檀特山中の修道から一紙を眠いてゐる︒而して︑その後四十
二章鯉の文を第五章の三分の1一以下最後章まで一二十七章を畢げてゐる︒四十二章経には高麓大蔵経所牧の古本と︑宋
の守遂注の新本との雨系がある︒雨者の間には︑種々なる相違が存する︒齋本になきものは第十一章無念無住無修無
證︑第十二章見性︑第十六章見性︑第十八章の無念無行無修︑第十九章の震覺即菩提︑第一二十六章無修無證である︒これ
明かに南宗椰の思想であるから守遂本の原型である︒智恒は常時闘家の一派の間に用ぴられたものを牧めたのであら
う︒この新網が賓林偲に牧められてゐる事質は︑これが賓林偲系の祠家の手によって雙化したことが推論されるので
ある︒また︑賓林偉は曹渓への偲鐙を正すために作られたのであるから︑常時の闘宗がかなり強く反映してゐること
が看取される︒賓林偲の撰者智短は績賓林偲の撰者惟勁︵雪峰の弟子︶及び新経に注した守遂︵報恩の弟子︶から遡
四十二章親を掲げた後︑中國へ佛敬の偲へられた鯉緯を説く一節を加へてゐる︒波閣波提の入園を説き︑摩詞迦葉
古 逸 諸 輝 籍 の 研 究
乎大通﹂といふは如何なものであらうか︒
古 逸 諸 祠 籍 の 研 究
に封して﹁吾以二清浮法眼涅槃妙心賓相無相徽妙正法
1将
>付
↓一
於汝
1︑
汝営
1一護持こといつて附法を示し︑附法の偽を掲げ
てゐる︒最後に入涅槃を説き︑諸行無常の偽を記すのである︒而して︑入滅より永平十年まで一千一十七年とする︒
第一巻には︑繹尊摩阿迦葉の偉を牧め第1一巻には阿難︑商那和脩︑優波包多︑提多迦︑頭遮迦︑佛陀難提の偉を牧め︑
第三巻には︑伏駄密多︵一紙半峡︶脇尊者︑富那夜奢︑馬鳴︑毘羅尊者︑龍樹菩薩︑迦那提婆︑羅瞑羅多︑僧伽難提の
偉を牧め︑第四巻には︑伽耶舎多︑鳩摩羅多︑関夜多︑婆修盤頭の偉を牧め︑第五巻には︑首尾を峡くも摩拳羅の偲を掲
げ︑鶴勒尊者︑師子比丘の偲を牧めてゐる︒これらの祖偉は祖堂集や︑偉燈録に比して︑頗る詳細である︒第六巻は
前述の如く︑昭和七年十一月故常盤博士が粟田青連院に於て︑褻見せられたものであって︑印度師資相承の問題たる
師子尊者と婆舎斯多との闘係を明かにせんと苦心する一品を含んでゐる︒その相承を波羅芥多の弟子摩迦陀の口を藉
つて示し︑波羅芽多が律師であった因緑から律師曇摩迦羅に及び︑同時代の康僧會から逆に竺大力に及び︑竺大力の
同學として師子尊者に説き至ってゐるのである︒
賓林偲は︑ この巻は︑更に婆舎斯多︑不如密多の偉を一部牧めてゐる︒第六巻
四品の中初めの康僧會に闘する一部分を除くの外は︑偉法正宗記第九巻宗證略偉の中に引用されてゐるのである︒第
七巻は鋏くが︑般若多羅の偲を牧めてゐることは明かである︒
とのやうに二十八祖を一定せしむる基礎を作ったのである︒
第八巻には達摩︑惹可︑僧礫の偉を牧めてゐろ︒逹摩偉は酉来以後の事蹟を畢げてゐるから︑印度の部は第七巻に
存したのであらう︒一一一年を鯉て廣州に逹したのが︑普通八年︵五二七︶であるといふ︒偉焼録もこれを受けてゐるが︑
歴史的にはもつと涜るべきで︑恐らく四七0年前後であらう︒武帝に謁して無功徳の間答をしてゐるが︑武帝との面
接は疑はしく︑無功徳の答は暦代法賓記によったのであらう︒祖堂集や偉焼録はそれ以外に廓然無塞の問答を加へて
一六
( 四 )
や︑偲證相承の説がかなり影響を及ぼしてゐると思はれる︒ ゐる︒神光四十を途えて︑少林寺に達摩を訪ひ︑断情して法を求めた︒慧可はその左右に奉侍して八︑九年を網たと
いふ︒明帝一二召するも赴かなかったので賜物があった︒
一七
それが果して事賓であったか否かは疑しい︒惹可に附法して
袈裟を渡し附法の一偽を奥へた︒四巻榜伽を付して心要たらしめてゐる︒菩提流支や︑光統法師が六度の毒を加へた
といふがこれは暦代法賓記によった説で信じ難い︒太和十九年入涅槃し︑熊耳山に葬る︒一一一年の後宋雲葱嶺で一胡僧
の雙履を携へるに遭ったといふので︑墓を複いて隻履あるを見出し︑少林寺に供養したと偉ふるも取るに足らない説
である︒昭明太子祭文を作ってゐる︒正宗記はこれを承けたのである︒代宗は園覺椰師の謡琥を典へ︑塔を空観と稲
せしめた︒賓林偲は祖堂集や正宗記に見ゆる如き多くの傷識を述べてはゐない︒要するに︑逹摩の偉は純粋でなく次
慧可の偲中︑法琳の撰した碑文あるは貴重であり︑また僧藻の偲中︑房館の撰した碑文あるは喜ぶべきである︒
たほ︑賓林傭以前若しくはそれと同時代に作られて︑賓林偲の資料となったと思はれる忍のに︑曹魏の光班録と名づ
けらるるものあり︑曹魏の玄朗録ともいはるべきものが存し︑曹魏の支彊梁棲の績法偲と名づけらるるものあり︑後
魏吉弗煙の冗明集なるものが存したやうである︒それらは賓林偲に戴せられてゐる名であるが︑
各 資 料 の 歴 史 的 債 値 と
︑ 初 期 輝 宗 史 へ の 影 榔
そ の 他 謄 代 法 賓 記
中國暉宗史の源頭に立つ菩提逹摩の偉は従来景撼偲燈録に依つてゐたが︑然しこれら新資料の褻見は再吟味を餘儀
たくせしめてゐる︒勿論︑これら以外の重要文獣も存するが︑本證傍證の役目を果してゐる忍のも︑蓋し少くない︒
古 逸 諸 輝 籍 の 研 究
第に加上してゐることが明かである︒
古 逸 諸 輝 籍 の 研 究
特に︑少室逸書︑榜伽師資記所載の曇林の説は︑注目に値する︒宋境南越に達し︑末に北度して魏に赴いたとはれるか
ら︑廣東より南方の何臨かに上陸したのは劉宋の亡ぶる︵四七八︶以前︑恐らく酉紀四七
0
年前後であらう︒従って︑五
0
︱一年に帥位した梁の武帝との面接問答は疑しい︒無功徳の答を載せる文献として︑最も古いものは暦代法賓記で
‑
あらう︒賓林偲は暦代法賓記により︑廓然無聖の答は載せてゐない︒賓林偲所載法琳の撰した碑文によれば︑惹可の
随従は九年間である︒その碑文に従ふ限り︑達摩は恐らく天平元年︵五三四︶またはその以前に寂したのであらう︒榜
伽師資記の示す如く︑弟子曇琳は略辮大乗入道四行を録して︑逹摩の思想を後泄に残したことは注目を要する︒理入
は含生の同一冥性なることを信悟することであり︑行入すなはち四行は理入に基きつつ賓賤に重きを置き︑且つ理入
に説かざる利他行を含んでゐる︒達摩は慧可に封し︑四巻榜伽を授けて心要とすべしと教へたといふ︒
榜伽網を重んじ︑繹者求那政陀羅を第一祖として︑榜伽宗の系統まで説かれるやうになった︒然し︑榜伽師資記のこ
の試みは︑歴史的に正しいとはいへたい︒けれども︑榜伽師資記の他の記事には参照すべき資料が壺し少くない︒
惹可の偉は綬高僧偲以外に賓林偉に牧めらるる法琳の碑文によって窺び得る︒慧可は初褻心の時一臀を断つて︑達
摩に求法の熱意を示したといふ︒然るに︑績高僧偉に於て︑道宜が賊に遭つて管を研らるるとなす記事は︑
に信じ難い︒断臀に就ては︑緻焼出土の南宗定是非論の序︑榜伽師資記︑偲法賓紀等もこれを認め︑宋の覺範惹洪
亡
T﹁ズ︶の林間録下巻忍道宜の説を評破してゐる︒北周破佛の時は舒州院公山に隠れたが︑蹄つた︒神會語録によれば︑十年居て寂したといふ︒故に︑
思想を偉へるものとして︑第一資料中重要なる文献は︑ かかる貼より︑
そのまま
五七九年再び鄭都に
その示寂は隋の開皇九・十年頃となるであらう︒慧可の
少室逸害第一編雑録第二の八十一節より九十節︑同じく第一
編雑録第一榜伽師資記惹可偉の文等であらう︒慧可の思想は達靡の二入四行の根本趣旨を徹悟し︑榜伽経を依用して︑
一 八
ある︒道信が一日法融に封し︑ 祖に於ても見出されるが︑ れる︒道信が徴燐出土の佛説法句経を引いて︑ 萬法唯心の一心に立つて一一見の封待をすべて自心現の妄想となし︑逹摩よりも︑積極的なる表現を用びた黙に存する︒
僧環の偉は績高僧偉に鋏き︑従来往々にして︑抹殺の危難に遭つてゐる︒然るに賓林偉第八巻所載房蛸の碑文は最
も確賓である︒全唐文第一一一百九十巻にも︑獨弧及の撰した碑文が存する︒榜伽師資記︑暦代法賓記︑偉法賓紀︑紳會
語録︑祖堂集等は︑何れもその史的人物なることを確證してゐる︒建徳四年︵五七四︶行はれた北周破佛の頃︑慧可に
従つて︑舒州院公山に入り︑山谷寺を隠れた︒後慧可に別れて舒州司空山︵安徽省太湖縣酉北︶に入った︒
どまること︑凡そ二十四年の久しきに及んだ︒賓林偉がその示寂を揚帝の大業1
一年
︵六
0六︶となす説は大閥信じ得る
であらう︒代宗の太暦七年︵七七二︶獨弧及の奏請により︑鏡智醐師の誼統を賜つた︒後枇一般にその盆競を鑑智と呼
んでゐるが︑賓林偉や祖堂集は鏡智とする︒房焙の碑文によれば︑僧燦は天性恰も維靡の如く︑極めて豪放不譴であ
ったといふ︒従来僧環の述作に信心銘一巻が存したと偉へてゐるが︑
在には確證が存する︒この銘のうち︑如来蔵思想ゃ華骰思想はその主なる立場を示してゐる︒
一九
一も亦一と為さすと説くが如きは︑注目に値する︒
引用しても︑字義を離れて︑全く自由にまた精紳的に︑時に附會的にまで解繹するやうになったのである︒ ここにと
上述の第一資料には見出せない︒然し︑その存
四祖道信の偲は績高僧偲以外に︑暦代法賓記︑榜伽師資記に記されてゐる︒膠代法賓記によれば︑道餐高きを以て勅
命により︑入内を勧められたが應じなかったと偉へらる︒拐伽師資記によれば︑道信には菩薩戒法︑入道安心要方便
法門の述作が存したといふ︒思想的方面は師資記を見るべきであらう︒師資記には四祖五祖常用の文句が屠々見出さ
すなはち︑網文を
それは五
一虞に久しく定住する集圏生活は︑行住坐臥の何れをも︑輝の現成と見倣さしめたからで
古 逸 諸 椰 籍 の 研 究
﹁百千の妙門固より方寸に師す︒恒沙の功徳すべて心原にあり﹂といったと偉へられ
ない
︒
古 逸 諸 輝 籍 の 研 究
るが︑すべては全く心の用ぴやうによるのである︒
しか
も︑
その心は華厳の浮心に深く通じてゐる︒師資記中にぱ華
厳の思想を道信に蹄してゐる勘が少なから中存する︒一二祖の中にあった華骰の思想は︑四祖五祖紳秀等に賓を結んだ
といつてよい︒たほ︑大乗の正理に入る緊要事として︑師資記は①知ヽ心個︑②知心用︑⑱常覺不停︑④常観心空寂︑
③守一不移を畢げてゐるが︑神秀の思想と比較して考究すれば︑蓋し興味ある問題である︒
弘忍の偉は宋高僧偉以外に︑榜伽師資記︑暦代法賓記︑紳會録等によって知ることが可能である︒殊に︑榜伽師資
記には︑著者浄覺の師玄蹟の榜伽人法志の文が弘忍と︑紳秀との偲に引用されてゐるから参照すべきであらう︒暦代
法賓記によれば︑顕慶五年︵六六
0)
黄梅憑茂山に勅使あって︑京師に召されんとしたが︑所請に應じなかった︒勅使
再請する忍固辮したので︑却つて衣薬を賜つたといふ︒然し︑師資記ゃ紳會語録は何等語るところがない︒師資記に
よれ
ば︑
その示寂は咸享五年︵六七四︶二月十六日︑七十四歳とする︒他偲では上元二年︵六七五︶とするが︑今は採ら
師資記は特色ある弘忍の坐祠を示してゐるが︑
懐かせるものである︒
存するから︑ それは遍虞(ka~inayatana)と、看話とを結合せしめたる如き感を
その師道信に忍︑特殊の坐輯法があり︑またその弟子にもかなり特色ある醐法を説いたものも
このやうな坐輯も強ち否定し得ないか忍知れないが︑
論忍同一書である︒而して︑ これを直ちに弘忍の暉風となすべき確證は他にな
いやうに思ふ︒また︑師資記には﹁其れ忍大師︑齋然靡坐文記を出さナ︑ロに玄理を説いて獣して人に授呉す︒人間
に在つて祠法一本あり︒一云<是れ忍大師の謬言なり﹂とある︒醐法一本とは︑果して何を指すか明瞭ではないが︑或
は最上乗論ではなからうか︒最上乗論は闘門撮要中に存し︑龍谷大學所蔵の修心要論︑北京園害館所蔵の一乗顕自心
その主とするところは守心にある︒宗鏡録第九十七巻忍弘忍の言として︑ 二0
﹁一乗法とは
用の句として︑ 一乗頴自心論も︑
﹁汝正しく寺中に在りて坐輯する時︑山林樹下にも亦汝が身あって坐詞するや︑不や︒
ものでないことを示してゐる︒
存する︒無相は毎年十二月︑
これ
も︑
また集圏生活の結果︑
柴がただちに椰の修行となり得ることを説くものである︒
正月の二回︑ かかる鮎から︑命名したものであらう︒榜伽師資記は弘忍常
一切の土木瓦
石も亦能<坐闘するや不や︒士木瓦石も亦能く色を見︑翌を聞き︑衣を著し︑鉢を持するや不や︒榜伽経に云く︑境
界法身と︑是れなり﹂といふのを拳げてゐるが︑華厳の相郎的な思想が見出され︑坐靡が字義そのままの坐輯のみの
心の用ぴやう如何によって︑日常の治生産業︑運水搬
宋代以後の詞宗は念佛と結合して罪そのものの特色を失ふに至ったが︑醐淫の相闘はその淵源を早くも五祖門下に
見出し得るであらう。而して、その方面に闘係多きものとして、我々は法持食戸〗―)智院 ([to 芦二)慧安 (ItA5 九)
宜什及びその門下を學げねばならない︒智読の弟子に虞寂
(1
5三已ぁり︑虞寂の弟子に無相︵国
5疇
︱‑
︶が
存す
る︒
牛頭四泄法持の念佛は︑淫土往生偉中巻の説く如く︑観想念佛である︒智読︑虞寂︑無相︑無住の偲は暦代法賓記に
四衆百千萬人の受緑のために道場虞を殿設し︑高座に於て説法し︑先づ引
弊念佛し︑更に︑無憶︑無念︑莫忘の三句を以て人に敦へたといふ︒引墜念佛は一氣に念佛し︑墜を絶ち念を停めし
むる方法であって︑念を停むるは無念に至らしむるを目的とする︒三句中︑無憶はこれ戒︑無念はこれ定︑莫忘はこ
れ慧である︒かかる貼から︑無相は念佛醐の人とされてゐる︒
無住は頭陀行を修し無相の無憶・無念・莫忘を無憶・無念・莫妄に改めた︒而して︑その典腺として彼は徴焼畠土
宜什の念佛は無相のそれに似てゐるが︑その順序は全く逆である︒すたはち︑先に法門修行を行ひ︑次で引墜念佛を
古 逸 賭 輝 籍 の 研 究
の佛説法句網の文を引用してゐる︒ 一心これなり﹂との文を畢げてゐる︒
五方
便北
宗︑
祖四祖五祖の思想を學げ得るであらう︒紳秀を主とする北宗は︑ た
し︑
古 逸 諸 輝 籍 の 研 究
これによつて無念無想となるのである︒
更に弟子より師に渡しこれを往復一1
一遍
する
︒
その儀式は偲香を用び︑偲法の時︑煙立つ香櫨を師より︑弟子に授け︑
一字念佛は︑恐らく一墜念佛と同じであらうが︑初繋を引いて念じ︑墜
を漸次微にし︑遂に無墜となり無念に至らしめるのである︒
六祖惹能の偉では︑古逸罪籍中︑暦代法賓記︑六祖壇綜︑祖堂集第二巻︑紳會語録等が存する︒惹能紳秀所悟の偽
は一般に南北一一宗分派の根源とされてゐる︒然し︑これらの偶には︑
この時の説法が六祖壇鯉の主要部をたすのである︒壇鯉中︑ その字句に多少の相違があり︑古い文献には全
く見出し得たいのである︒しかも︑開元二十二年︵七==四︶滑豪︵河南省衛輝府滑縣︶に於て︑北宗排撃を始めた紳會
︶の語録に︑この好個の資料が存しないことは︑この事件が虚構なる所以を示すのではたからうか︒この偲 六六八
( I
七六〇
説は遁くとも八百年頃までに出来︑暦代法賓記の作られた七百七十四年頃には︑未だ他の系統では知られたかったに相
違ない︒惹能は得法の後敷年を鰐て諮州刺史章攘の求めに應じ︑城中の大梵寺に出で︑摩阿般若波羅密法を説示した︒
その結論たる無相頌は最も璽要親すべきである︒たほ︑
臨終に先だち門弟に封して鱈恨動欝偽を示し︑法海の所問に従って︑見買佛解脱頌を説いた︒
祖秀の偉は張説の碑銘︑菅唐書第百九十一巻︑宋高僧偲第八巻の外に榜伽師資記偲法賓紀の文等によるべきである︒
紳秀は推されて︑長安洛陽雨京の法主︑武后・中宗・容宗一二帝の國師となった︒紳秀は勿論︑本有の覺性を信認して
ゐたけれども︑看心看浮に滞り︑客塵煩悩の存在に泥んでゐる賦がある︒
紳秀の躙風が華厳の思想と内面的に深く闘係してゐることは︑宗鏡録の文によって明かである︒その先謳として︑三
一般に五方便を説いたといはれてゐる︒これは大乗
大乗無生方便門等の告ぐるところである︒天方便は第一に起信論に基いて︑佛本を解明し︑第二に法華
鯉に依つて︑佛智見を開示し︑第一一一に維摩経に従って︑不可思議解脱を説明し︑第四に思盆舞によって︑諸法の正性
を明瞭にし︑第五に華骰綜に基いて︑無異を了じて︑自然の無礫解脱を説示するのである︒
その述作といはるる観心論には厳煽本︑龍谷本︑安心寺本︑醐門撮要所牧本︑金澤文庫本等多敷の異本がある︒そ
れによれば︑唯だ観心の一法は綿て諸法を揖し︑最も省要となし︑心は萬法の根本であり︑
あるから︑若しよく心を了せば︑萬法ともに備ばり︑しかも力を省いて成し易いといふ︒
なほ︑慧能紳秀までを初期輝宗史とすれば紳會は入らないが︑便宜上獨れて見るならば︑次の如くなるであらう︒
南宗定是非論に軸秀が久視年中︑則天武后に召されて入内した時︑道俗和尚を頂臆して︑その蹄趨を問ふたところ︑紳秀
は﹁詔州に大普鉗識あり︑元是れ東山忍大師の付属︑佛法霊く彼虞に在り︒彼等諸人もし自ら決了すること能はざるも
のあらば︑彼に向つて疑を決せよ︑必らナ是れ不可思議︑すたはち佛法の宗旨を知らん﹂と答へたといふ︒軸會はこの
指示によって曹漢に慧能を訪れたのである︒その下に参すること前後凡そ四年︑去つて北遊し︑景龍三年︵七0
九︶
頃
四十二歳で再び曹漢に蹄り︑先天二年︵七二
1 1)
八月六祖示寂まで侍して︑密印を受けたのである︒紳會は洛陽の荷澤
寺にあって︑六祖惹能の置堂を建て︑宋鼎がその碑を作り︑また宗脈を序して︑如来以下印度の列祖と支那の六祖とを
定め
て︑
そのすべてに興像を績き︑房蛸が六葉饂序を作ったといふ︒その例は徽煽出土の帥會語録第一二残巻や六祖壇
鰐に見出される︒また︑慧能を六祖となしたの忍紳會の手によったものといへるであらう︒それも帥會語録第二残巻
に保存されてゐる︒かくの如くにして︑紳會は着々北宗排撃の準備を整へたのである︒紳會語録第二残巻獨弧怖の序
によれば︑開元二十二年︵七三四︶正月十五H滑豪︵白馬城ー河南省衛輝府滑縣︶大雲寺に於て︑無遮大會を設けて︑
雨宗の買偽を演べ︑北宗排撃の恒火を高く掲げたのである︒宗密は紳會が北宗を排撃する理由として︑師承是傍︑法門
古 逸 賭 輝 籍 の 研 究
一切諸法は唯心の所生で
古 逸 賭 罪 籍 の 研 究
﹁設び賓に頓悟するも︑終に須らく漸修すべし﹂とある如く︑ 是漸の一一黙を畢げてゐる︒軸會の意圃は惹能以外のものを第六祖と稲せしめてはならないし︑北宗は菩提を障する不正法であると断定するにあった︒軸會語録及びその残巻は紳會の立場及び思想を見るに︑少なからす参考となるであ
らう︒紳會を首とする荷澤宗の詞は輯源諸謡集都序に︑
頓悟漸修の立場を取ったこと明かである︒
し︑幾度びも頓悟を繰返すところに漸修を認めたのである︒帥會は寂知を閤とし︑無念を宗とし︑無誕の妙用を重ん
じた︒そのことは紳會語録や︑麒宗記に明かであって︑般若の冥空妙有の思想が随虞に横溢するを知り得るであらう︒
これらの資料を通して初期靡宗史の特色を見るに︑凡そ次の如きことが學げられるであらう︒先づ①小乗の四靡八
定︑その他に見らるる如き階次的な習闘の域を脱し︑敦即観の立場に立つ一二論系統の外に出でて︑獨立の系統として
衆生同一買性の悟修を力説し︑②偽頌語録等にも︑華厳︑楼伽︑維摩︑金剛︑般若︑涅槃︑起信等鯉論の文を盛んに引用し︑
學人への答封にも︑逆説を用ふること少く︑頗る理路整然たるものがあり︑③全一的佛法の學揚に力めて︑宗祇の封
立に堕することなく︑
訴へること全くなく︑また古則公案の拍弄を表面化せず︑
能の時代に於て︑その集園的生活は︑自ら自給自足の形態を取らしめ︑
常の四威儀を直ちに輯の現成と見倣し︑罪を頗る精紳的に解し︑遂に個々の心性に︑
ったのである︒
ち︑祠の見方説方に︑ すなはち︑本有の覺性を頓悟し︑煩甑妄念を本来あるべからざるものとな
その扉風また極めて穏健にして着質であり︑④宋代の輯家に見らるる如く︑彿拳棒喝の醐機に
その形式的透過に力むることをなさす︑固道信︑弘忍︑惹
すべての産業雑役に輝の精紳を摘充させ︑日
その本質を求めしめるやうにな
このやうにして︑祠はただ印度的な諄慇や︑思惟修ではもはや包み難き賓質内容を持つに至ったのである︒すなは
一大轄回を勝来し︑中固闘を確立せしむる契機を奥へたのである︒輝の本質が内面的に求めら
ニ四
一 五
一般の人々におしみなく輿へられ︑
に全現されるやうになったのである︒限定された鰐文にも動かさるることなく︑却つてこれを活用し︑自由な解繹を
許して︑そこに罪を現はさんと試みたのである︒従っ︐て︑集圏生活に應する行持や︑これを規定する消規が現はれ︑
古逸諸靡籍の歴史的債値は以上の論述によつて略ぽ明瞭となったと思はれるが︑次に個々の資料について︑改めて︑
その特色と債値とを略述する︒第一資料中少室逸書は逹摩の偲をつたへ︑一一入四行がその親説たることを傍證し︑従
来明瞭でなかった慧可の積極的た思想を闇明にした︒榜伽師資記は北宗系の偉燈であるが︑それは求那践陀羅を初祖
として︑所謂榜伽宗の系統を示し︑特に各偲多くの経文や︑常用句を引用し︑偉へるところ少き四祖︑
豊富にし︑その特殊の坐輝を紹介し︑また紳秀の華厳的相郎思想を明かにする︒また曇林が一一入四行を逹摩の親説と
たすことを確證し︑玄蹟の榜伽人法志を弘忍と神秀との偲に引用して︑その史偉を正確にした︒
暦代法賓記は智読系統で書かれた文獣であるから︑南北雨宗に封して比較的公平たる立場を取り︑
の偉證を畢げ︑二十九祖を数へ︑菩提逹摩を菩提逹摩多羅として異偲を示し︑六祖以後智読︑虞寂︑無相︑無住等の偲
を連ね︑無相︑無住の特殊な輝法や念佛輝を明かにする︒逹摩偉に於てその四来に先だって佛陀と耶合との二人を中
國に遣はしたことを達べて︑後の史偉に影響を典へ︑梁の武帝に而接して︑無功徳と喝破したことを初めて偲へ︑五
祖弘忍へ勅使再請するも入内しなかったことを明かにし︑五祖六祖の偉中紳秀系と慧能系との葛藤を何等偲へす︑そ
古 逸 賭 輝 籍 の 研 究
(五)
結
語 そこに中園的な證と印度的な律とが結合した︒ れるやうになれば︑嘩はもはや特定の修行者に限定さるることなく︑日常の生活
五祖の思想を
その序文に印度