玉婁系十六帖は紫式部が後から書き紫上系巻々の合間
々々に挿入したものであるという︑昭和二十五年の武田
宗俊氏の仮説はその後不当に無視されたり実情に合わぬ
辛い採点をされたりしたと言われることがある︒一方︑
いや武田説はそれなりに正当な受け止められ方をしたと
いう見解もないわけではない︒果してどちらが真実であ
るのか︑若輩の身で判定するのはおおけないのだが︑し
かし︑次の一点だけは確かではなかろうか︒すなわち︑
昭和十四年に初めて提唱された青柳秋生氏の帯木グルー
1 2 1
︒フ後記挿入説と比較した場合に︑不公平な辛い採点をさ
れているという点である︒﹁成立論は外部徴証によって
行うべきである︒しかるに内部徴証のみから後記挿入を
推定する武田説は児戯に等しくまともに取り挙げる気が
しない﹂という反論が矢のように相継いだが︑その矛先 ーが帯木グルー︒フ後記説や短編始発説に向けられることはほとんどなかった︒比較的一般性の高い新潮日本古典集成本の解説にも︑堂々と
若紫の巻は︑︵略︶物語の実質的な第一話としての
意味を持つ︒その成立は︑おそらく帯木︑空蝉︑タ
顔︑末摘花よりは早いであろう︒
︵第一巻二九二頁︒但し︑略は引用者︶
と記されている︒何ら外部徴証による裏付けもないのに︒
このように不公平な採点をされてぎた武田論文である
が︑第三節の
〇末摘花について見るも︑源氏の須磨に出発の際︑親しい女のすべて、藤壺・紫上・朧月夜尚侍•花散里
から葵上の侍女中賂の君にまで一々別れを告げるの
であるが︑末摘花だけが出ていない︒
0
夕顔の侍女右近なども︑主人の死後は引きとられて光源氏物語現行形態試論第四
大正十一年和辻論文の諸問題
田
村
俊
介
紫上のもとにあり︑源氏にも愛せられて︑玉霊系の
巻では
右近は何の人数ならねど︑その形見と見給ひ
て︑らうたきものに思ほしたれば︑ふる人の数
に仕りなれたり︒
と書かれているが︑紫上系の巻には全く出ず︑先に
のべた源氏の須磨出発の際にも︑栢氏は少納言・中
務・中賂等の侍女を数えあげて︑紫上に托するの で︑そこに右近も名をあげられるのが自然である
が︑遂に出て来ない︒
という発言や︑これらに基づいた﹁表第一﹂は決して無
視できるものではない︒もし武田論文の第三節に興味が
無いと言うのであれば︑それは﹃源氏物語﹄に興味が無
いと言うに等しい︒﹁表第一﹂の上から十四段目︑巻名だ
けで数えると上から十二段目の﹁須磨﹂の欄で明示され
ている通り︑光源氏は第︹二︺段落で第九帖女主人公葵
上の遺族︑第︹三︺第︹九︺段落で第五帖女主人公紫上︑︑
第︹四︺段落で第十一帖女主人公花散里︑第︹六︺段落
で第八帖女主人公朧月夜︑第︹七︺段落で第七帖女主人
公藤壺︑第︹一三︺段落で第九帖女主人公六条御息所と
別れを惜しんでいるのに︑第二帖︑第三帖︑第四帖︑第
六帖の女主人公及びその遺族については︑
まるで意地になってゐる様に︵青柳氏︶ 無視している︒だから彼女達は作中に存在していなかったと考えるのは極めて合理的であるが︑一方︑第九帖﹁葵﹂巻成立の段階で︑第六帖﹁末摘花﹂が︑従って︑帯木三帖も書かれていたのは疑う余地が無い︒従って︑第十二帖に玉霊系人物に触れる所が無いのは作者の意識的技巧である︒従って︑第九帖﹁葵﹂に末摘花以外の玉霊系人物に触れる所が無いのも意識的技巧である︒ましてや第七帖﹁紅葉賀﹂や第五帖﹁若紫﹂で玉婁系人物に触れる所が無いのも意識的技巧である︒以上は表面的な三段論法と言われればそれまでだが︑しかし︑昭和に繰り広げられた成立論争の賛否両論の発想の枠のなかに収まる論法であると思う︒
ところでこのような意識的技巧が施されたのは何故か
と問われれば︑﹁帯木三帖は後記挿入という建て前で書
かれているのだ﹂という藤村潔氏の御高説を挙げたい︒
帯木三帖が源氏の隠ろえ事として書かれている以
上︑その隠ろえごとの対象になる人物が︑その隠ろ
え事の物語を引き継ぐ巻にしか出ないということは
当然のことで︑帯木三帖を受ける物語とそうでない
物語との間で︑人物の出入りに区分が生じたとして
も︑それを後記挿入の結果とのみ見ることはできな
いだろう︒玉堂系後記挿入説は︑この物語の作者の
設 定 I
見せかけの後記挿入を真に受けたところで
成り立っていると言えるのであるまいか︒
③
︵﹁
武田
宗俊
説に
つい
て﹂
︶
そしてこのような設定は︱つには︑紫式部が﹃伊勢
物語﹄から学んだものだと考えられる︒﹃伊勢物語﹄冒頭
二小段の共通点は奈良から京都への都遷りという時代背
な ら
景である︒しかし西の京の女の小段が﹁平城の京ははな
れ︑この京は人の家まださだまらざりける時﹂︑即ち︑遷
都直後であるのに対し︑春日の里の若紫の小段は奈良が
既に﹁古里﹂︑荒廃した古都となった時期の話である︒百
二十五の小段は原則として時代順に並べられ︑当然西の
京の女の段は若紫の段よりも先に排列されなければなら
ないのに︑編集者は敢えて後回しにした︒密通の話は失
敗讀であるからであろう︒このような﹃伊勢物語﹄編集
者の精神に乗っ取って︑密通の段を原話とした︑光源氏
十七歳の空蝉との密通の話は︑若紫の段を原話とした光
源氏十八歳の若紫巻のしばらく後に語られたという建て
M l
前なのである︒
初めて﹃源氏物語﹄が発表された時︑どのような巻序
であ
った
か︒
帯木三帖に続いて﹁若紫﹂巻︑以下︑﹁末摘花﹂巻︑﹁紅
葉賀﹂︑﹁花宴﹂︑﹁葵﹂︑⁝⁝数字で示すと︑二
S
四︑
五︑
六︑七︑八︑九:,
. .
.
であったと答えるのが内部徴証の 上からも最も隠当であると思われる︒
残る問題は首巻との接続である︒
和辻哲郎﹁源氏物語について﹂は︑第二帖﹁帯木﹂等
と首巻との接続の悪さに着目した論文であり︑国文学の
専門家に取り挙げられて︑現在は散逸した欠巻が既存し
ていたという仮説へと発展した︒それを裏付けるのが︑
定家自筆本﹃奥入﹄︵括弧内は大島本の異文︶の空蝉巻の
注
うつせみ︑二のならひとあれと︑は4木4
のつ
き也
︑
ならひとは見えす︵いふへくも見えす︶︑一説には︑
二︵巻第二︶か4やく日の宮︑このまきなし︵もと
よりなし︶︑ならひの一は4木4
︑うつせみは
r l
にこめたり︵このまきにこもる︶︑こゆふかほ
である︒二説﹂として紹介され︑しかも紹介者自身が
﹁このまきなし︵もとよりなし︶﹂と否定した記事のみに
頼るのははなほだ苦しい弁明と言わざるを得ないが︑平
成六年新編全集解説では︑
︵和辻の︶﹁源氏物語について﹂は︑︵略︶﹃源氏物
語﹄の本文のなかから成立事情を探り出す画期的な
論考である︒﹃源氏物語﹄の﹁桐壺﹂巻から﹁帯木﹂
巻への非連続的な関係への注目にはじまり︑そこに 2
ウル﹁原源氏物語﹂の既存を想定し︑﹃源氏﹄は現行の巻
序のままに書き進められたのではな︵い︶︵略︶であ
ろ う と す る
︒
︵ 括 弧 内 は 引 用 者
︶
固平成七年﹃源氏物語を読むための研究事典﹄の﹁源氏物
語の成立﹂では︑
︵︹概要︺の項で帯木グループ後記説︑玉霊系後記説
が概説された後︑︹問題点︺の項で︶今日あらためて
顧みられてよいのは︑冒頭に記した和辻論文の②の
ウ ル 佃
問題︑すなわち原源氏物語の問題である︒
︵括
弧内
は引
用者
︶
と特記されて居り︑ここ一︑二年︑再び脚光が当たって
いると言わざるを得ない︒もはや帯木グルー︒フ後記説や
玉霊系後記説は前者では記載が無く後者でも﹁今日あら
ためて顧みられてよい﹂﹁問題﹂として挙がっていない
のが偶然でないとすれば︑﹃源氏物語﹄の原初形態とは
現行形態であると考える上で平成八年現在残っている最
後の障害として﹁欠巻
x
既存説﹂を扱うことにしたい︒和辻の謂う︑﹁﹁桐壺﹂巻から﹁帯木﹂巻の非連続的関
係﹂とは︑次の二点を骨子とするものだろう︒
第一点は主として藤壺物語の叙述の方法で︑帯木巻の
光源氏や︑特に若紫巻の藤壺は︑二人の一度目の逢瀬を
回想しているが︑桐壺巻の光源氏は藤壺を思慕している
だけという現象である︒昭和三十二年の長谷川和子氏
﹃源氏物語の研究
I
成立に関する諸問題ー﹄は︑藤
壺の﹁奥ゆかしさ﹂を保っためつとめて朧化して︑暗示
的に語ろうとしている︑と和辻哲郎1武田宗俊に反論
を試みているが︑二度目の逢瀬や三度目は具体的になま
なましく描写されているのに一度目に限って省筆される
のは不自然だ︑という昭和四十七年の吉岡腋氏﹃源氏物
語論﹄の再反論もある︒
第二点は︑帯木冒頭の一文が桐壺巻を受けていないと
いう
現象
であ
る︒
第一点を検討するため︑全五十四帖のなかで密通と呼
ばれるものを列挙してみよう︒
密 通 そ の 一 光 源 氏 藤 壺
︵ 夫
︶ 桐 壺 帝 密 通 そ の 二 光 源 氏 朧 月 夜
︵ 夫
︶ 朱 雀 帝 密 通 そ の 三 鑽 黒 玉 霊
︵ 婚 約 者
︶ 冷 泉 帝 密通その四柏木女一︳一宮︵夫︶光源氏 密 通 そ の 五 匂 宮 浮 舟
︵ 夫
︶ 薫
まず﹁その二﹂に就いてであるが︑光源氏と朧月夜の
密通を発見した︑賢木巻第︹三四︺段落の右大臣は次の
ように言っている︒
たたむがみ﹁この畳紙
( I I
朧月夜への手紙︶は右大将
( I I
光源
み て
氏︶の御手なり︒昔も心ゆるされでありそめにける
ことなれど︑人柄によろづの罪をゆるして︑さても
見むと言ひはべりしをりは︑心もとどめずめざまし
げにもてなされにしかば︑安からず思ひたまへしか
ど︑さるべきにこそはとて︑世にけがりたりとも思
たてまつし棄つまづきを頼みにて︑かく本意のごとく奉りな
がら︑なほその憚りありて︑うけばりたる女御など
く ち を
も言はせはべらぬをだに飽かず口惜しつ思ひたまふ
るに︑またかかることさへはべりければ︑さらにい
こころうと心憂くなむ思ひなりはべりぬる︒男の例とはいひ
みこころながら︑大将もいとけしからぬ御心なりけり︒
︵﹃源氏物語﹄の引用は第
‑ S
三巻は新編全集本︑第四
S
六巻は全集本に拠る︒括弧を使って︑略したり注記を加えることもある︒︶
﹁昔も心ゆるされでありそめにける事なれど︑人柄によ
ろづの罪をゆるして﹂︑父が﹁さても見むと言﹂ったのだ
から︑花宴巻の逢瀬は不倫とは呼べない︒しかし︑賢木
巻第︹︱二︺段落で朧月夜は尚侍として入内した︒にも
かかわらず関係が続いたのでそれが﹁不倫﹂なのである
が︑その密通の描写は花宴巻と比べてかなり簡略であ る ︒
﹁その三﹂は女がまだ肉体的には帝に所有されていな
い時点での出来事だから︑正確には密通と言えないのか
もしれない︒だが︑宮廷社会挙げての大騒動の末︑玉駕
の相手は冷泉帝と正式決定し︑満を持して十月を待って いたところを横取りされたのだから︑裏切られた冷泉帝の気持ちを思い遣ると︑﹁密通その二﹂や﹁密通その.一﹂に勝るとも劣らない悪業である︒しかし略奪は︑第三十帖﹁藤袴﹂と第三十一帖﹁真木柱﹂との間の﹁描かれざる世界﹂の出来事であり︑語り手はリアルタイムの詳細な報告を一切省略している︒
いっぽう︑柏木の女三宮との密通は︑猫達の戯れとい
うきっかけを含め︑初会から白日の下に晒される︒匂宮
の浮舟との密通も︑きっかけを含め初会から白日の下に
晒される︒夫の光源氏や薫の血筋が貴かろうと︑その息
子が息位する可能性は絶無である︒
以上極めて勘ない例からの類推に過ぎないが︑紫式部
という作家には︑帝の権威や皇統の神秘性を損なうよう
な男女関係に就いては︑どうやら︑初会の具体的描写は
省略に従う傾向があるようだ︒長谷川和子氏が﹃源氏物
語の研究﹄六九頁十二行目で︑藤壺との初会が﹁無い方
がよくもあり隠当である﹂理由として挙げる︒L藤壺が父帝の后という︑如何に虐構の物語とはい
え︑筆を慎むべき不倫の関係であること︒
という発言がいかに核心を突いたものか改めて認識させ
られた︒但し長谷川氏がどちらかと言うと女の立場を重
視しているような論調であるのに対し︑私は裏切られた男が作中第一代の天皇•第二代の天皇•第三代の天皇で
帯木巻頭の一文を引用する︒
光る涸氏︑名のみことごとしう︑言ひ消たれたまとがふ咎多かなるに︑いとど︑かかるすき事どもを末の
世にも聞きったへて︑軽びたる名をや流さむと︑忍
かくびたまひける隠ろへごとをさへ語りったへけん人の
もの言ひさがなさよ︒
第二帖﹁帯木﹂の前には﹁桐壺﹂しか存在しない︒と
ころが光源氏の出生︑幼年時代︑元服︑葵上との結婚 等々を語る桐壺巻には︑﹁忍び給ひける隠ろへ事﹂も
持っていたと想像させるような記事がない︒
和辻氏及び和辻論文を継承する成立論者の御説はだい
たい以上の通りであろうが︑その基盤には
••••
﹁語り伝へけむ﹂とはこの物語
のことだとする本居宜長の解釈がある︒本節では︑宣長説
を批判する立場で︑しばらく愚考を巡らすことにする︒ 3 あった事実を偶然とは見たくない︒昔から光源氏と関係があったことを知りつつ朧月夜を妻とし︑場合によっては結婚後も続くことを覚悟していた︵﹁賢木﹂︹二三︺段落参照︶朱雀帝をやや例外として︑帝を裏切るとは︑ある意味では宮廷社会全体を敵に回すことであり︑そうした悪業に敢えて踏み切る后と間男との心理を描くことが紫式部にはできなかったのではなかろうか︒
が まず文章の構造に就いて言えば︑従来しばしば唱えら
れることのあった︑
語り伝へけむ人
ロさがな︵し︶
という把握は誤りであって︑私は
⁝⁝⁝⁝語り伝へけむ
という長い長い修餅節が
人のもの言ひさがなさm に係って行くのだろうと思う︒
する
即ち
︑
保坂弘司氏の指摘
﹁人の十名詞十なり﹂またはそれに準ずべき一群の
1 8 1
語法
である︒氏は
上達部︑上人なども︑あいなく目をそばめつつ︑い
とまばゆき人の御覚えなり︒︵桐壺︶
いつしかと心もとながらせ給ひて︑いそぎ参らせて
御覧ずるに︑めづらかなる児の御かたちなり︒
︵桐
壺︶
亡き跡まで︑人の胸あくまじかりける人の御おぼえ
が な
︒
︵ 桐 壺
︶ 世を捨てたる法師の心地にもいみじう世の愁わす れ
︑ 齢 の ぶ る 人 の 御 有 様 な り
︒
︵ 若 紫
︶
昔かやうにあひ思し︑あはれをも見せ給はましかば
と︑うち思ひ出で給ふにも︑さも様々に心をのみ尽す
べかりける人の御契かなと︑つらう思ひ聞え給ふ︒
︵須
磨︶
︵光
源氏
ハ︶
の五例を挙げ︑次のように説明している︒
これらはいずれも長いセンテンスの終わりについ
ている点︑﹁なり﹂という断定の助動詞︑または﹁か
な﹂という詠嘆の助詞の添うている点で共通してい
る︒これは﹁なり﹂﹁かな﹂を別にして考えれば︑
﹁の﹂によって複合した二つの体言がセンテナンス
の終りに据えられた形とみられる︒この﹁人の﹂﹁児
の﹂は︑文法的にいえばなくてもいいものである︒
加えて私ほ二十例弱を挙げたい︒
うへ
命婦﹁上もしかなん︒﹃わが御心ながら︑あながちに
人目おどろくばかり思されしも︑長かるまじきなり
ちぎけりと︑今はつらかりける人の契りになん︒﹄
︵﹁
桐壺
﹂︒
3 1 頁 ︶
こ と ふ え ね く も
﹁﹁人の契り﹂で一語︒﹂と頭注に記されている︒
わざとの御学問はさるものにて︑琴笛の音にも雲
ゐ居をひびかし︑すべて言ひつづけば︑ことごとしう
うたてぞなりぬべき人の御さまなりける︒
︵﹁
桐壺
﹂︒
頁 ︶ 3 9
のごこまやかに語らひたまひて︑おし拭ひ まぎ柱隠れにゐ隠れて︑涙を紛らはしたまへるさま︑な
l eほ か を
たまへる袖の匂ひも︑いとところせきまで薫り満ち
み す く
たるに︑げによに思へば︑おしなべたらぬ人の御宿
辻
.
世ぞかしと︑尼君をもどかしと見つる子どもみなう
ち し ほ た れ た り け り
︒
︵
﹁ 夕 顔
﹂
︒ 1 3 9 頁 ︶
﹁﹁人の御宿世﹂で︑一続きの語︒﹂と頭注に記されてい
﹁ る ︒
﹁人
の御
契り
﹂ る ︒
何の心ばせありげもなくさうどき誇りたりしよと思
し出づるに憎からず︑なほ懲りずに︑またもあだ名
立ちぬべき御心のすさびなめり︒︵﹁夕顔﹂︒
1 9 1 頁 ︶
かたャ︱いとまばゆきまでねびゆく人の容貌かな︑
︵ ﹁ 葵 ﹂
︒ 2 6 頁 ︶
つらき人しもこそと︑あほれにおぼえたまふ人の御
心 ざ ま な る
︒
︵
﹁ 葵
﹂
︒
頁 ︶ 5 8
入道の宮よりも︑ものの聞こえやまたいかがとり
なされむと︑わが御ためつつましけれど︑忍びつつ
御とぶらひ常にあり︒昔かやうにあひ思し︑あはれ
をも見せたまはましかば︑とうち思ひ出でた
1 1
に︑さもさまざまに心をのみ尽くすべかりける人の
ちぎ御契りかな︑とつらく思ひきこえたまふ︒
︵﹁
須磨
﹂︒
1 6 3 頁 ︶
で︱つづきの語︒﹂と頭注に記されてい
ほここら見る中にたぐひなかりけりと︑思し知らる る 人 の 御 あ り さ ま な り
︒
︵
﹁ 須 磨
﹂
︒ 1 7 3 頁 ︶
﹁﹁人の御ありさま﹂で︱つづきの語︒﹂と頭注に記され
てい
る︒
おほかたの世につけては︑惜しうあたらしかりし人
の 御 あ り さ ま ぞ や
︵
﹁ 絵 合
﹂
︒
3 7 3 頁 ︶
︵明石ノ姫君ガ︶いとうつくしげにて前にゐたまへ
るをみたまふに︑おろかには思ひがたかりける人の
宿 世 か な と 思 ほ す
︒
︵
﹁ 蒲 雲
﹂
︒ 4 3 3 頁 ︶
﹁﹁人の宿世﹂で一続きの語︒明石の君との宿縁︒﹂と頭
注に記されている︒
世の中によしありさかしき方々の人とて︑見るに
そ に ご
も︑この世に染みたるほどの濁り深きにやあらむ︑
かしこ賢き方こそあれ︑いと限りありつつ及ばざりけり
や︒さもいたり深く︑さすがに気色ありし人のあり
さ ま か な
︒
︵
﹁ 若 菜 上
﹂
︒
1 1 8 S
l l g
頁 ︶
柏木
﹁⁝
⁝︒
︵宮
女三宮ハ︶いといとほしげなるを1 1
りをりあなるをや︒さるほ︑世におしなべたらぬ人
の御おぼえを︒あり難きわざなりや﹂
︵﹁
若菜
上﹂
︒ 1 3 9 頁 ︶
﹁﹁人の御おぼえ﹂で一語︒﹂と頭注に記されている︒
これに多くは︵一条御息所ノ︶御心も乱れにしぞか
し︑と思すに︑さるべきとはいひながらも︑いとつ らき人の御契りなれば︑答へをだにしたまはず︒
︵﹁
夕霧
﹂︒
4 2 7 頁 ︶
﹁﹁人の御契り﹂で︑一語︒夕霧との出会いを因縁と考え
る︒﹂と頭注に記されている︒
宮はいと心憂く︑情なくあはつけき人の心なりけ
り︑とねたくつらければ︑若々しきやうには言ひ騒
ぬ り ご め お ま し
ぐとも︑と思して︑塗籠に御座︱つ敷かせたまて︑
さ お お と の ご も
内より鎖して大殿籠りにけり︒︵﹁夕霧﹂︒
4 5 3 頁 ︶
﹁﹁人の心﹂で一語︒﹂と頭注に記されている︒
﹁人におとらむ宮仕よりは︑この宮にこそはよろし
をむなごからむ女子は見せたてまつらまほしけれ︒心ゆくに
まかせて︑かしづきて見たてまつらんに命延びぬベ
き 宮 の 御 さ ま な り
︒
﹂
︵
﹁ 匂 宮
﹂
︒
頁 ︶ 3 6
御容貌よりはじめて︑飽かぬことなく見ゆる人の御
あ り さ ま お ほ え な り
︒
︵
﹁ 竹 河
﹂
︒
頁 ︶ 5 9
げ ん お ま へ
源侍従の君をば︑明け暮れ御前に召しまつはしつ
つ︑げに︑ただ昔の光る源氏の生ひ出でたまひしに
ぉと
劣 ら ぬ 人 の 御 お ぼ え な り
︒
︵
﹁ 竹 河
﹂
08
5頁 ︶
けざやかにいともの遠くすくみたるさまには見えた
い ま や う え ん
まはねど︑今様の若人たちのやうに︑艶げにももて
なさで︑いとめやすくのどやかなる心ばへならむと
ぞ︑推しはかられたまふ人の御けはひなる︒
あだ
いみじき仇を鬼につくりたりとも︑おろかに見棄つ
まじき人の御ありさまなり︒︵﹁浮舟﹂︒
1 8 3 頁 ︶
以上合わせて二十数例は︑長い/\修飾節を受けるに
は例えば﹁御ありさま﹂﹁御契﹂などという名詞︱つでは
物足りないので︑上に﹁人の﹂などを付け加えた構文で
ある︒﹁人の﹂﹁児の﹂は単に語調を整えるものであって︑
I l l
達意のためには不用である︒保坂氏の二番目を例にすれ
ば︑たとえ﹁
. . . . . .
めづらかなる御かたちなり︒﹂と書かれ
ていようが︑﹁⁝⁝めづらかなる児の御かたちなり︒﹂で
あろうが︑﹁光源氏の容姿が卓越していた﹂の意である
ことは前後の文脈から一目瞭然なのである︒
そして︑傍線部の名詞節を受ける付属語は数の上では
断定の助動詞﹁なり﹂が多いが︑﹁かな﹂﹁ぞ﹂﹁を﹂のように詠嘆•感動等を表わす系統の助詞も散見する。帯木
冒頭の一文の文末の﹁よ﹂もこれらに準じて考えるべき
では
ない
か︒
だとすれば︑﹁人のもの言ひさがなさ﹂の﹁人の﹂も︑
ちょうど﹁児の御かたち﹂の﹁児﹂と同じように︑前後
の文脈からおのずとわかる﹁人﹂であって︑初登場の人
物ではあり得ない︒その﹁人﹂は︑直後に﹁さるは︑︵光
はばか源氏ハ︶︑いといたく世を憚り﹂とあるから︑﹁世の人﹂︑
世間の人々であろうが︑動詞﹁語り伝ふ﹂の用例を挙げ
ることで裏付けられるだろう︒巻頭文の解釈のため︑今
度は︑動詞﹁語る﹂や﹁伝ふ﹂︑そして﹁語り伝ふ﹂の用 例を列挙して行く︻動詞﹁伝ふ﹂の用例その一︼
. . . .
藤壺世がたりに人や伝へんたぐひなくうき身を
醒めぬ夢になしても︵﹁若紫﹂︹一三︺︶
﹁伝ふ﹂の主語は﹁人﹂であり︑この﹁人﹂は不特定多数
の世間の人々を指す︒話題は藤壺との密通である︒
︻動詞﹁語る﹂の用例その一︼'
右大臣﹁⁝⁝男の例とはいひながら︑大将もいとけし
からぬ御心なりけり︒斎院をもなほ聞こえ犯しつ
つ︑忍びに御文通はしなどして︑けしきあることな
‑
. . . . . . .
ど︑人の語りはべりし⁝⁝﹂︵﹁賢木﹂︹三四︺︶
﹁語
る﹂
の主
語も
﹁人
﹂
1 1 不特定多数の世間の人々であ
る︒話題は朝顔斎院との禁忌の恋︒
︻動詞﹁語る﹂の用例その二︼
. .
母︑﹁光源氏トノ縁談ハ︶あな︑かたはや︒京の人の
••••
語るを聞けば︑やむごとなき御妻どもいと多く持ち
たまひて︑そのあまり︑忍び忍び帝の御妻をさへ過
ちたまひて︑かくも騒がれたまふなる人は︑まさに
かくあやしき山がつ
( 1 1
明石上︶を心とどめたまひ
て む や
﹂
︵
﹁ 須 磨
﹂
︹ 一 九
︺
︶
主語は﹁京の人﹂であるが︑話者が京の人間ではないか
らわざわざ﹁京の﹂と断わっているだけであって︑指示
内容は前二例と全く同じである︒話題は主として︑朧月
夜と
の密
通︒
︻動詞﹁伝ふ﹂の用例その二︼
源氏﹁︵あなたの冷たさを︶いざ︑たぐひなき物語に
して︑世に伝へさせん﹂と︑︵玉覧ノ近クニ︶さし寄
りて聞こえたまへぼ︑顔をひき入れて︑玉覧﹁さらず
ょ
I t
︑かくめづらかなること︵父娘ノ恋愛︶は世
語にこそはなりはべりぬべかめれ﹂
︵﹁
螢﹂
︹九
︺︶
﹁世語﹂という語と近接して居り︑主語はやはり世間の
不特定の人々である︒話題は玉覧との︑禁忌に近い恋︒
以上﹁語る﹂﹁伝ふ﹂の合計四例は︑主語が決まって世
間の不特定の人々︑話題が不道徳な男女関係というよう
に︑非常によく似た使われ方であり︑帯木冒頭の﹁語り
伝へけむ﹂の性格を浮き彫りにしているが︑しかし︑動
詞﹁語る﹂が単独で使われる場合よりも︑動詞﹁伝ふ﹂
よりも︑ずっと貴重なのは︑無論︑複合動詞﹁語り伝ふ﹂
の用
例で
ある
︒
﹁語り伝ふ﹂は宇治十帖には一例あるが︑前編全四十
一帖のなかでは他に真木柱巻に一例見られるだけであ
る︒藤袴巻末から引用したい︒
︻動詞﹁語り伝ふ﹂の用例︼
⁝⁝かやうに︑何となけれど︑さまざまなる人々
ごとの︑御わび言も多かり︒
も と お と
女の御心ばへは︑この君をなん本にすべきと︑大ど臣たち定めきこえたまひけりとや︒
う ち
源氏﹁内裏に聞こしめさむこともかしこし︒しば
いさし人にあまねく漏らさじ﹂と諫めきこえたまへど︑
ふさしもえつつみあへたまはず︒ほど経れど︑いささ
けかうちとけたる御気色もなく︑思はずにうき宿世な
りけりと思ひ入りたまへるさまのたゆみなきを︑い
ちぎみじうつらしと思へど︑おぼろげならぬ契りのほど
あはれにうれしく思ふ︒見るままにめでたく︑思ふ
か た ち
さまなる御容貌ありさまを︑よそのものに見はてて
やみなましょと思ふだに胸つぶれて︑石山の仏を
ぺ ん い た だ
も︑弁のおもとをも︑並べて頂かまほしう思へど︑
ぉ ぼ つ と
女君の深くものしと思し疎みにければ︑えまじらは
こもで籠りゐにけり︒げに︑そこら心苦しげなることど
もを︑とりどりに見しかど︑心浅き人のためにぞ寺
げんの験もあらはれける︒
お と ど く ち を
大臣も心ゆかず口惜しと思せど︑言ふかひなきこ
‑J1 t
. ヽ
とにて︑誰も誰もかくゆるしそめたまへることなれ
け し き
ば︑ひき返しゆるさぬ気色を見せむも︑人のためい
とほしうあいなしと思して︑儀式いと二なくもてか
しづきたまふ︒
︵ 略 ︶
かう忍びたまふ御仲らひのことなれど︑おのづか ら︑人のをかしきことに語
h
ー伝へつつ︑次々に聞きよがたり漏らしつつ︑ありがたき世語にぞささめきける︒う ち
内裏にも聞こしめしてけり︒︵﹁真木柱﹂﹁三﹂︶
︵以上︑引用後の括
弧の中の数字は当該動詞の用いられた段落を示す︶
藤袴巻末を読んで︑誰もが冷泉帝への入内を確信した︒特に『宇津保物語』も知っている読者なら、ー~もっと
も︑当時︑﹃源氏物語﹄を読む程の者はほとんどが︑既に
﹃宇津保物語﹄をも熟読玩味していたであろうが︑その
大半の読者は十月という月に東宮に入内したあて宮に︑
十月に冷泉帝へ入内する玉霊を重ね合わせたに違いな
い︒それなのに︑﹁冷泉帝のお耳に入ったら︑畏れ多い﹂
とはどういうことなのか︑はなはだ当惑したのではなか
ろうか︒以下も真木柱巻の本文は敢えて一切の注を添え
ずに引用したが︑﹁忍びたまふ御仲らひ﹂とは誰と誰と
のことなのか︑光源氏はどんな出来事を﹁言ふかひなき
こと﹂としてあきらめたのか︑寺の験があらわれた﹁心
浅き人﹂とは誰なのか︑皆目見当がつかなかったのでは
あるまいか︒しかしそのような現実世界の読者達の困惑
をよそに︑作中世界の下々の口さがなき連中はいちはや
く正確な情報をキャッチし︑口から口ヘと噂を広めて行
く︒その行為を言い表わす動詞が︑他ならぬ﹁語り伝ふ﹂
なの
であ
る︒
和辻哲郎氏の頭の中で帯木巻頭への違和感を増大させ
たもう︱つの要因は﹁光る源氏︑名のみことごとしう﹂
であった︒この語句の解釈は︑従来︑﹁好色の人として評
判がことごとしい﹂との説と︑﹁光源氏という名前がこ
とごとしい﹂との説の二つしか提出されてこなかった︒
少なくとも和辻氏は︑平成七年の鈴木日出男氏﹁文献と
しての﹃源氏物語﹄﹂にも
氏の解釈を悩ませたのは︑まず﹁名のみことごとし
う﹂の﹁名﹂が︑好色の評判をいうのか︑あるいほ
光源氏の名をいうのか︑の点であった︒
と書かれている通り︑二つの解釈しか考えていないよう
である︒しかし私は第三の説として︑﹁学問や音楽の評
判がことごとしい﹂と解釈したい︒﹁桐壺﹂︹︱一︺段落
こt
︑ 生 雰 距 に も
がくもん
わざとの御学問はさるものにて
く も ゐ
雲居をひびかし︑すべて言ひつづけば︑ことごとし
ううたてぞなりぬべき人の御さまなりける︒
と記されている︒光源氏は第一に漢学︑第二に琴笛の
音︑第三に恐らく容姿︑第四に何々︑第五に何々︑と︑
様々な面で評判になっていた︒しかし好色の人としての 4
評判だけは立っていなかったはずである︒何故ならまだ
七歳だったからである︒
従って︑帯木巻頭文前半の言わんとするところは︑お
およ
そ︑
光源氏は学問や音楽で評判がことごとしいが︑なか
には﹁それは評判倒れで︑学問や音楽での失敗も
けっこう多い﹂という人もある︒その上︑女でも失
敗が目立つという噂が広まったら大変だ︒
ということである︒
新編全集本に拠れば十七の段落に分かれる﹁桐壺﹂と
いう巻の︑第︹︱一︺段落は︑帯木巻第︹一︺段落からは
いささか遠過ぎると感じる方も居られるかもしれない︒
しかし五十三の巻の︑直前の巻とのつながり方は︑多種
多様であって︑いつも必ず直前の巻の巻末と連結させな
ければならないという法はない︒ここでもやはり参考に
なるのは真木柱巻の冒頭である︒
真木柱巻頭は︑直前の巻の巻末の︑女は玉霊を手本に
すべきだという一文とは︑明らかに断絶している︒強い
て藤袴巻との接点を求めるとすれば︑新編全集本で終り
から約ニページ目の︑ながつき数ならばいとひもせまし長月に命をかくるほど
ぞはかなき
という鑽黒の詠歌である︒このような物騒な願望は︑
ロ
に出して言った時に限って実現しないものだが︑本当に
﹁長月に命をか﹂けたのが︑藤袴巻と真木柱巻との間の
描かれざる世界であり︑その事後報告が真木柱以下の
巻々なのである︒
結語
大正十一年の和辻哲郎氏﹁栢氏物語について﹂という
論文の出発点は帯木巻の叙述の方法への疑問であった︒
しかし真木柱巻を参照すれば違和感が取り除かれよう︒
紫式部の作品の場合︑二度しか出て来ない表現は︑一
八
0
度反対の意味であったり逆に極めて注目に値する共通点があったりというように︑何らかの対偶性を持つの
'
.0 が原則である︒帯木巻の﹁語り伝ふ﹂という動詞は前編
では他に真木柱巻にしか使われて居らず︑巻頭近くとい
う位置を含めて様々な類似点を持っているから︑この用
例を無視して帯木巻頭文を考えるわけにはいかないと思ぅ
昭和期後半の学界は武田宗俊氏個人への反論は矢のよ
うに浴びせかけながらも︑成立論の本格的検討が中途半
端で終わってしまったため︑﹁どうやら現行形態は原初
形態ではないらしい﹂という認識だけが広く行き渡って
しまった︒現在は失われている
最初の形態の源氏物I I
(1)
注
﹁源氏物語の最初の形態﹂︒﹃文学﹄第十八巻
6S7
語に拠って物語の様々な謎が解明され︑読みが深まる
はずだ︑という信仰が根強く残っている限り︑現行本文
の精密な解釈︑或いは︑﹁作者﹂という意識が薄らいでい
くのは当然である︒もし玉霊系後記説なり帯木グループ
後記説が実証されれば︑その巻序に従って作者の意図を
汲み取って行けば良いのだが︑現在のように中途半端な
ままでは︑作者の意図など復元不可能という絶望感に知
らず識らず支配されていくのは考えてみれば当り前のこ
とである︒その行き着く果ては︑作品の意味は読者の中
で創造されるべきであるという︑昨今流行のテキスト論
の立湯である︒
たとえ最終的に﹁意味﹂というものが読者の側で産ま
れるのだとしても︑その前に︑作者の残した文章を作者
の意図に沿って追求するのが文学研究の甚本である︒同
じ作者の作品の思想︑同じ時代の語彙・文法を尊重して
帰納的に一文一文を解釈していくという流行遅れの研究
を復活させるためにも︑私は源氏物語の現行形態が紫式
部の意識的計画的に作り上げた形態であるという命題に
取り組んで来た︒不備を補われんことを各方面にお願い
しつつひとまず欄筆したい︒
(7) (6) (5) (4) (3) (2)
号所
収︒
﹁源氏物語執筆の順序│ー̲若紫の巻前後の諸帖に就
いて││﹂︒﹃国語と国文学﹄第十六巻
8S9 号所
氏•森一郎氏・飯尾恭子氏ら多くの論者が提唱して その後も同様の仮説は︑集成本解説の他︑伊藤博 収 ︒
いる
﹃国文学解釈と鑑賞別冊源氏物語をどう読むか﹄ ︒
︵昭和六十一年四月︶所収︒以下︑この別冊を﹁成
立論特集号﹂と呼ぶことにする︒
拙稿﹁光源氏物語現行形態試論I初期巻々を中心
にーーー﹂︒﹃国語国文﹄第五十九巻
1 0 号所収︑平成二
3﹃国文学解釈と教材の研究﹄第四十巻 年 ︒
号 ︒
但し︑執筆者の鈴木日出男氏は四ヶ月後の別の論文
﹁文献としての﹃源氏物語﹄﹂︵室伏信助氏編﹃いま
﹁源氏物語﹂をどう読むか﹄所収︑平成七年6
月 ︶
で︑藤壺物語︑六条御息所物語︑朝顔物語などは現
行の巻々でも十分味読できると述べ︑和辻氏に反論
(?
)を
試み
てい
る︒
光源氏のお側近くに仕えた第一の作者が口頭で話したのを第二の作者が銀記編集し、•……•,
. .
.
という有
名な﹁三人の作者﹂説はこの文章のなかから﹁語り
(9) (8)
伝へけむ人﹂の存在を読み取り﹁第一の作者﹂と見
なすことを︱つの出発点としているが︑支持できな
い︒テーマが違うので詳述はしないが︑省籠の草子
地の全用例を列挙し﹁語り手は一人しかいない﹂と
の結論を帰納的に導き出した︑吉岡腋氏﹁椋氏物語
の語り手と書き手と朗読者と﹂︵﹃国語国文﹄第四十
六巻2号所収︑昭和五十二年︶に従いたい︒
﹁源氏物語の読解の志向点﹂︒﹃国文学解釈と教材の
研究﹄第九巻6号所収︑昭和三十九年︒
この
ほか
︑一
358
頁
1
1行目﹁人のさまかな﹂︑ニ
3
3頁
5¥6
行目﹁人の御身なり﹂︑二
1 1
3頁5
行目﹁人の御心かな﹂︑三
6
頁66行目﹁君の御ざれ
心なり﹂︑三
183
頁
1
4行目﹁人のありさまにも
みありけるかな﹂︑三
242
頁9
行目﹁人の御おぼえ
かな
﹂︑
三 426
頁8
行目﹁人の御心にもありける
かな
﹂︑
四 2
0頁4行目﹁人のありさまなり﹂︑四3
1
頁行目﹁人の契りかな﹂︑四36
3 7
4頁行目8
﹁御身のありさまどもなり﹂︑五
3
9頁
l S
2行目
﹁人の御ありさまなり﹂︑五
234
頁8行目﹁人の心
にこそあめれ﹂︑五
447
頁4
行目﹁人の御心ばヘ
かな
﹂︑
五 462
頁
l
5行目
s 4 6
3頁1
行目﹁人
す く せ
の御おぼえ宿世なり﹂︑五
467
頁9
行目﹁君の御
か た ち
心なめれ﹂︑六
6
頁6
l
5行目﹁人の容貌かな﹂︑六
(13) (12) 飢) GO)
す く せ
211
頁﹁人の宿世なり﹂︑六
233
頁
l
3行目﹁人
の御宿世なりけり﹂︑六
2 8
1頁8
行目﹁人の御あ
りさまかな﹂など︒
例えば﹁世にたぐひなしと見たてまつりたまひ︑名
か た ち
高うおはする宮の御容貌にも︑なほにほはしさはた
かたとへむ方なく︑うつくしげなるを︑世の人光る君と
聞こゆ﹂︵﹁桐壺﹂︹一四︺︶という文章に於いては︑
光源氏の容貌と比較するための傍線部だから︑﹁宮
の﹂は絶対必要だが︑﹁児の御かたち﹂の﹁児の﹂は
達意のためには不用である︒
室伏信助氏編﹃いま﹁源氏物語﹂をどう読むか﹄所
収︑平成七年6
月 ︒
吉沢義則氏﹃源氏物語今かがみ﹄︵昭和二十一年︶で
指摘されている﹁双関法﹂という筆法︵第八章︶も
参考になろう︒
成立論特集号でも次のように述べられている︒
その
( 1 1
武田氏成立過程説の業績の︶︱つは︑
﹃源氏物語﹄の成立順序は現行巻序どおりの書
き進めとは必ずしも言えない︑その成立の次第
には複雑に重層し流動的なものがあるらしい︑
という認識を広く行きわたらせたことである︒
もっともこの点は︑ひとり武田氏論だけではな
く︑和辻︑阿部︑玉上三氏の先駆的業績をも含
め︑更に︑武田氏とほぼ同時期に独自の成立論
を次々に展開されていた風巻景次郎氏論などを
も合わせた総体としての影響力と言えよう
︵鈴木一雄氏﹁武田宗俊氏の成立過程
説についての見解﹂︒但し︑括弧内は引用者︶
源氏物語の執筆順序が現存の巻序のままではな
いらしいことは多くの人が感じているところで
あっても︑その具体的なあり方ということにな
ると武田説に従うことにはまだためらわれ︑さ
りとてそれに替る説を十分には形成し得ないで
いるというのが現状かと思う︒
︵増田繁夫氏﹁武田宗俊氏の源氏物語成立論﹂︶
しかし藤村潔︑大朝雄二︑そして極めて慎重乍ら
も秋山虔の三氏だけは長編始発説の立場であるよう
に思
われ
る︒