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<研究ノート> 古代ローマ帝政期の水力用の製粉施 設 : ローマ市の事例から

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<研究ノート> 古代ローマ帝政期の水力用の製粉施 設 : ローマ市の事例から

著者 反田 実樹

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 84

ページ 66‑96

発行年 2015‑09‑30

URL http://doi.org/10.15002/00022257

(2)

法政史学 第八十四号六六

〈研究ノート〉

古代ローマ帝政期の水力用の製粉施設

―ローマ市の事例から―

反   田   実   樹

はじめに

  膨大な数の人々を賄うため、為政者たちが安定的な供給に配慮した食糧の一つが穀物であり、中でも小麦は不可欠な食糧であった

︶1

。古代ローマの人々は、小麦を臼で挽いて粉の状態にし、粥

puls

やパン

panis

に調理して食していた

︶2

。海路や陸路でローマ市内に輸送されてきた小麦が、消費地であるローマ市で粉に加工されていたことは、ローマ市内で発見されている製粉施設の遺構や石臼の破片より明らかである。そして、製粉やパン焼きが行なわれた場所の立地について分析することは、ローマ市外から市内へ小麦が流入する経路やローマ市内での小麦粉やパンの分配を考える上で有益であると筆者は考えている。また製粉と製パ ンに関連する遺構や史料から、都市空間の中における製粉業や製パン業の在り方を考察することができよう。

  ローマ市では、水力用の製粉施設の遺構が二カ所で発掘されており、他にも水力用の製粉機の石臼の破片が発見されている。その一方で、ローマ市の近郊に位置するオスティア遺跡では、畜力用の製粉機が主に使用されていた

︶3

。またローマ市でも、畜力用の製粉機の使用を示唆する遺物が発見されている。さらに、紀元前一世紀に建立されたエウリュサケスの墓︵図1の●︶の浮彫には、製粉からパン焼きまでの工程が表現されている

︶4

︵以下、図1は表1と併せて参照︶。この浮彫に描かれた製粉の場面では、家畜が石臼を回転させる動力として用いられており、水力用の製粉機は使用されていない。このように、ローマ市では畜力用の製

(3)

古代ローマ帝政期の水力用の製粉施設(反田)六七

1000m 0

N

テヴェレ川 アウレリアヌス市壁

セルウィウス市壁

1 2 3 4

オスティエンシス街道 ラビカナ街道 プレネスティナ街道

クラウディア-新アニオ水道 旧アニオ水道

ネロニアニ水道橋クラウディア水道 マルキア水道

アントニニアナ水道 アルシエティナ水道

トラヤナ水道 マルキア-テプラ-ユリア

水道

マルキア-ヨウィア水道 ウィルゴ水道

マジョーレ門

水道: - - - 道路: ――――――――ローマ市を囲む2つの壁:――ローマ市を囲む壁の門: ○1980年以降の発掘調査地点:石臼が発見された場所:エウリュサケスの墓: ▲▲ ▲

▲ ▲

▲ ▲

III III

IV V

VI

VII VIII

○ ○

図1 古代ローマ市の製粉施設 (F. Coarelli, Roma, (Roma-Bari, 2008) の        地図を一部加筆・修正し、文末註の末尾に記した文献のデータを        用いて図1と表1を作成した。併せて表1参照)

図1 古代ローマ市の製粉施設 (F. Coarelli, Roma, (Roma-Bari, 2008) の地図を一部加 筆・修正し、文末註の末尾に記した文献のデータを用いて図1と表1を作成した。

併せて表1参照)

(4)

法政史学 第八十四号六八

表1 ローマ市の製粉施設に関連する遺構、遺物の発見地点

※図1、2の地図は、F. Coarelli, Roma, (Roma-Bari, 2008)より引用し、一部加筆・修正を施した。図3~12の出典は、文末註の書誌情報を参照。表1と本文中のラテン語斜字体で表記)の地名は、S. B. Platner (completed and revised by Th. Ashby), A Topographical Dictionary of Ancient Rome, (London, 1929) に従った。斜字体にせず表記した地名は、イタリア語である。

(5)

古代ローマ帝政期の水力用の製粉施設(反田)六九 粉機が使用されていた場所もあることから、水力用の製粉機の導入には一定の条件があったと考えられる。

  そこで、二〇一五年までに公刊されている報告を基に帝政期のローマ市の水力用の製粉機に関する情報を整理した上で、なぜローマ市では水力用の製粉機が積極的に導入されたのか、立地と条件について考察する。以下では、水力用の製粉施設を扱うことから、動力資源としての水力にも着目しつつ、帝政期のローマ市の製粉業の特徴について分析したい。

第一章  研究史   第一節  製粉、製パン業に関する用語   本節では、研究史について論じる前に、本稿で使用する用語について簡潔に説明しておく。

  小麦を粉にする作業を行なう製粉施設は、ラテン語で

pistrinum

︵複数形

pistrina

︶と呼称される。帝政期には

pistrina

という言葉は、製粉施設だけでなく製パン所をも意味する言葉として使用されていた

︶5

。ポンペイ遺跡やオスティア遺跡の発掘調査で明らかになっているように、隣接した場所で製粉と製パンの作業が行なわれていた場合もあることから

︶6

、製粉所と製パン所を異なる言葉で呼び分けて いなかった状況が窺い知れる。作業空間だけでなく、製粉と製パンの作業が完全に分業されていなかった様子が、一世紀の詩人マルティアリスの﹃寸鉄詩﹄に見出される。﹃寸鉄詩﹄の中でマルティアリスは、製粉業にも製パン業にも従事する人物を登場させ、

pistor

︵複数形

pistor es

︶と表現している

︶7

 

pistrina

の一部を為す設備である石臼は、

mola

︵複数形

molae

で製粉機を意味する場合もある︶と呼ばれた。

Molae

は、上下の二つの石臼で構成され、﹃学説彙纂﹄第三三巻第七章第一八法文第五節では、上臼

catillus

と下臼

meta

に分類されている

︶8

。さらに、古代ローマで使用されていた石臼は、動力によって主に三種類に大別できる。すなわち、人力用、畜力用、そして水力用である。三〇一年に発布された﹃ディオクレティアヌス帝の最高価格令﹄には、馬用、ロバ用、水力用、手回し用の石臼の最高価格が記されている

︶9

。四世紀初頭には、動力が異なる三種類の石臼が共存していたことを示す事例である

︶₁₀

  第二節先行研究と問題の所在   古代の製粉施設に関する学問

m oli no log y

は、一九三〇年代にギリシアのアテネ

︶₁₁

とフランスのバルブガル︵現在のア

(6)

法政史学 第八十四号七〇

ルル近郊︶ ︶₁₂で相次いで行なわれた製粉施設の調査を契機に発展してきた

︶₁₃

  一九三七年と一九三九年にバルブガルの遺跡の調査が行なわれ、その成果は、ブノワ

F. B en oit

によって一九四〇年に刊行された

︶₁₄

。一九九二年にアムレティ

M .-C . A m ou ret ti

が指摘しているが

︶₁₅

、一九七〇年代にバルブガルの製粉施設の緊急発掘が行なわれるまで、一九三五年のブロック

M . B loc h

の論文は

︶₁₆

、バルブガルの遺跡の解釈に一定の影響力を持っていた。ブロックは、文明

la civ iliz atio n

の伝播と水力用の製粉機の普及を重ねて捉え、古代から中世にかけて、ギリシア・ローマを中心とする地中海周辺の地域から北ヨーロッパへと製粉機が普及し、技術が発達していくと考えた

︶₁₇

。ブロックは、水力用の製粉機の普及を文明の象徴と見做したのである。それゆえブロックは、五〇〇年頃のガリア地方︵現在のフランスやベルギーなどを含む古代ローマ帝国の一部︶において、水力用の製粉機は、依然として古代の特殊な事例であったと論じている

︶₁₈

  史料のみに依拠せざるをえなかったブロックは、﹃テオドシウス法典﹄やプルデンティウスの﹃シュンマクス駁論﹄に基づき、ローマ市に水力用の製粉施設が出現するのは、四世紀半ばと推測する

︶₁₉

。ブロックを含めローマ市の製粉施 設を扱った先行研究では、製粉機を動かす技術の変化に着目し、ビザンツ帝国の将軍ベリサリオスによってローマ市内の水道が封鎖された五三七年を、ローマ市が古代から中世へと移り変わる画期として位置付けてきた

︶₂₀

。このように、六世紀前半のローマ市の状況に言及する史料が、バルブガルの遺跡を古代の特殊な事例と見做す解釈に影響を与えてきたといえる。だが、バルブガルの製粉施設に直接言及した古代の史料はない。二〇〇六年のルボー

Ph . L ev ea u

の論考を見る限り、一九九〇年以降の発掘調査では、史料の記述と切り離して遺構の年代や性格を解釈する傾向が出てきている

︶₂₁

。他方で、ローマ市の製粉施設を扱った一九八〇~二〇〇〇年代の研究では、バルブガルとは異なり、ブロックが一九三五年の論文で参照した諸史料の記述を重視し、遺構の変化と関連づけて解釈を行なう傾向がみられる。とりわけヤニクルム丘の製粉施設に関しては、プロコピオスやプルデンティウスが著作の中で言及しているため、それらの記述を無視することができない状況にある。

  ローマ市では、一八三〇年代後半に教皇グレゴリウス一六世︵在位一八三一~一八四六年︶によって、古代の遺物への関心からマジョーレ門付近の発掘が行なわれた

︶₂₂

。その後、ローマ市の古代の製粉施設に関する調査は断続的に

(7)

古代ローマ帝政期の水力用の製粉施設(反田)七一 なされてきたにもかかわらず、過去の調査の成果が体系的にまとめられ公にされるようになってきたのは、一九八〇年代以降になる。その端緒となったのが、ショアラー

Th . Sc hiø ler

とヴィカンデル

Ö . W ika nd er

によるカラカラ浴場の中の製粉施設の調査である。また、考古学の調査の事例が少なかった二〇世紀前半までの先行研究では、遺構の建設年代と廃棄年代への関心が低く、それゆえ製粉施設が使用されていた期間や遺構の漸次的な変化が十分に検証されていないという問題点がある

︶₂₃

。次章では、その問題点を踏まえつつ、一九八〇年以降にローマ市で調査された製粉施設の遺構の年代や解釈の根拠について検証していく。

第二章  カラカラ浴場(図1の■1)

  第一節  調査の概要   カラカラ浴場の調査は、一九〇一年、一九一二年、一九三八~三九年、一九八〇年に行なわれた

︶₂₄

。そのうち、一九一二年と一九八〇年の調査が製粉施設に関連している。

  一九〇一年には、カラカラ浴場の中庭の下の通路と部屋の体系的な発掘調査が行なわれた

︶₂₅

。そして、地下に通信ネットワークを通すため、一九一二年に引き続き調査が行なわ れ、そして、一九三八年と一九三九年の発掘で調査は終了した。一連の調査で製粉施設が発見されたのは、一九一二年のことである。しかし発掘当初は、古代の製粉施設に関する研究が進んでおらず、その発見は過少評価されていた。一九一二年の発掘調査では報告書が公式に刊行されておらず、刊行物に掲載された簡略な紹介を除いて、それ以降も遺物や遺構について継続的な研究が行なわれることはなかった。さらに、当時は根拠なく、﹁中世の﹂水力用の製粉機であると解釈されていた

︶₂₆

  このような状況の中で、一九八〇年に製粉施設の測量、一九八一年に遺物の研究が行なわれ、ショアラーとヴィカンデルによって、まとまった調査記録が刊行されることとなった

︶₂₇

。彼らの調査の目的は、遺構を測量した上で、製粉施設の構造を解明することであった。彼らの調査区の位置は、図2、図3で示した。図4は水車の輪と軸と歯車が設置されていた状況を復元した図で、図5は製粉施設の構造を記録した図である。図6は水力用の製粉機が設置されていた状況を復元した図である。この調査で空間

A rea I

と名付けられた場所には、二つの水車の輪が設置されたと考えられている︵図6︶。そして空間

A rea II

と空間

A rea III

には、それぞれ一つずつ歯車が設置され、歯車の中心部とそれぞ

(8)

法政史学 第八十四号七二

N

地下室にある製粉施設 地上にある柱廊 (porticus) N

図2 カラカラ浴場 (Coarelli, 2008, p. 429 より転載、一部加筆・修正 )

水力用の製粉機の設置場所

0 5 10 25 50m

図3 カラカラ浴場の水力用の製粉機 (Schiøler and Wikander, 1983, p. 48        より転載、一部加筆・修正 )

図2 カラカラ浴場 (Coarelli, 2008, p. 429 より転載、一部加筆・修正)

N

地下室にある製粉施設 地上にある柱廊 (porticus) N

図2 カラカラ浴場 (Coarelli, 2008, p. 429 より転載、一部加筆・修正 )

水力用の製粉機の設置場所

0 5 10 25 50m

図3 カラカラ浴場の水力用の製粉機 (Schiøler and Wikander, 1983, p. 48        より転載、一部加筆・修正 )

図3 カラカラ浴場の水力用の製粉機 (Schiøler and Wikander, 1983, p. 48 より 転載、一部加筆・修正)

(9)

古代ローマ帝政期の水力用の製粉施設(反田)七三

0 1 2 3m

図4 復元平面図 ( Schiøler and Wikander, 1983, p. 52 より        転載、一部加筆・修正 )

N (図6参照)

空間 Area V

空間 Area I 〜 III

図5 製粉施設の構造 ( Schiøler and Wikander, 1983, p. 50 より        転載、一部加筆・修正 )

0 1 2 3

3 m

図6 空間 Area I 〜 III の復元図 (Wikander, 2000, p. 376 より転載、

       一部加筆・修正 )

図4 復元平面図 (Schiøler and Wikander, 1983, p. 52 より 転載、一部加筆・修正)

図5 製粉施設の構造 (Schiøler and Wikander, 1983, p. 50 より 転載、一部加筆・修正)

図6 空間Area I ~ III の復元図 (Wikander, 2000, p. 376 より転載、

一部加筆・修正)

(10)

法政史学 第八十四号七四

れの水車の輪の中心部を繋ぐ軸が、両者を連動させていた︵図4、図6︶。上射式

ov ers ho t typ e

と呼ばれる、水車の輪の上から水を掛け流して動かすタイプの製粉機である。輪の直径は、一・九五メートルから二・一メートルの範囲に収まると推定されている

︶₂₈

  第二節  遺構の年代   空間

A rea V

︵図5︶には、未発掘の土が残されていた。他の空間にも遺物を含む土は堆積していたようだが、一九一二年の発掘調査で掘り返された土が混ざっている撹乱層のため、製粉施設の年代を決めるための資料として使用できない。そのため、

A rea V

から出た資料が、カラカラ浴場の製粉施設の年代を考える上で基礎資料になっている

︶₂₉

第一期

カラカラ浴場の建設

  アントニニアナ水道

Aqua Antoniniana

が敷設される前は、製粉機の動力となる水が十分に供給できなかったと考えられることから、水力用の製粉施設の築造は、カラカラ浴場が建設された年代よりも後と考えられている。カラカラ浴場の建設は二一二年に始まり、二一六年にカラカラ帝︵在 位二一一~二一七年︶によって奉献式が行なわれた。

第二期

カラカラ浴場の柱廊の増築   浴室のあるカラカラ浴場の中心部の施設は、建物を形作る大きな煉瓦のほぼ全てに刻印が施されている

︶₃₀

︵図2︶。その一方で、中心部の施設を取り囲む柱廊の壁に使用されている煉瓦と、その柱廊に隣接する建物で、地下室に水力用の製粉施設がある建物の壁の煉瓦には刻印がない。そのことから、ショアラーとヴィカンデルは、柱廊はカラカラ浴場がカラカラ帝によって建設された時期とは別の時期に帰属すると判断した。カラカラ帝よりも後の時代のヘリオガバルス帝︵在位二一六~二二二年︶やアレクサンデル・セウェルス帝︵在位二二二~二三五年︶に関する﹃ローマ皇帝群像

︶₃₁

﹄の記述は、彼らの判断を補強する史料になっている

︶₃₂

第三期  製粉機の廃棄、火災   また水力用の製粉機の遺構が発見された

A rea I

II

III

︵図5︶の近くでは、水力用の製粉施設が設置される前に使用されていた石臼の破片と思われる石が、

A rea V

を囲む壁mの底部で発見された︵図5︶。この石臼の破片は、壁mが

(11)

古代ローマ帝政期の水力用の製粉施設(反田)七五 建てられる前に破壊された建物︵製粉施設︶に関連する遺物と考えられている

︶₃₃

。また、

A rea V

から出土した土器の中に、炭化物で黒くなった土器が三点含まれていた

︶₃₄

。これらの土器は、壁mの建設前に破壊された壁に伴うものと解釈されている。つまり、三世紀の半ばか、その直後に、製粉施設は火による破壊を受けたということになる。

 

A rea V

から出土した資料で、一九八三年の論文に掲載されている土器資料は計二六点で、うち一四点は使用されていた期間が一〇〇年以内の精度で判明している。ショアラーとヴィカンデルは、これらの土器を二つの時期に分けている

︶₃₅

。本稿では、彼らが土器を用いて分けた二つの時期を、便宜上、前期と後期と呼ぶ。前期の土器は、一五〇年~二五〇/二七五年の間に収まるもので、七点報告されている。後期の土器は、二七五/三〇〇年~四〇〇/四二〇年の間に収まるもので、七点報告されている。しかし、一九八三年の論文には土器が出土した状況が詳述されておらず、

A rea V

内の層の堆積の順序を考慮した上で時期を区分したのか疑問が残る。もし彼らが、

A rea V

を埋めていた堆積の順序に従って層ごとに遺物を取り上げたのではなく、

A rea V

内の遺物をひとまとめにして取り上げた後で遺物の年代を区分していたとしたら、彼らは史料に記された 製粉施設の火災や再建の時期が画期であることを前提に、出土した遺物を大きく二つの群に分けた可能性がある。

第四期  製粉施設の再建   製粉施設の再建時期に関しては、﹃三五四年の年代記﹄に、アウレリアヌス帝がカラカラ浴場の焼けた柱廊を建て直したことに言及する箇所がある

︶₃₆

。ショアラーとヴィカンデルは、この史料で言及されている柱廊

porticus

が、中庭の周囲に巡らされていた柱廊の一部であったと考えている

︶₃₇

︵図2︶。また製粉施設の壁は、詳細な年代を特定できるような要素はないものの、三世紀もしくは四世紀に帰属する可能性が高い

︶₃₈

。さらに彼らは、

A rea V

から出た二つのガラスの破片を、製粉施設の壁が造られた年代を考察する上で補強資料として用いている。これらのガラスの破片と同じ装飾のものが、三~四世紀の間の資料にしばしば見られるためである。彼らは、﹃三五四年の年代記﹄の記述と遺物が示す年代を基に、製粉施設は二七五~三〇〇年頃に再建されたと考えている

︶₃₉

第五期  製粉施設の廃棄   製粉施設が廃棄された時期については、ショアラーと

(12)

法政史学 第八十四号七六

ヴィカンデルは、一九八三年の論文で厳密に年代を特定していない。

A rea V

から出た土器群で年代が特定できる資料は、一五〇年から最も遅くて四二〇年までの年代幅に収まることから、この年代以降、製粉施設は使用されなかったと考えられている

︶₄₀

。すなわち、五世紀には製粉施設が廃棄された可能性が高い。また、

A rea V

から出土した土器が遅くとも五世紀までの年代に収まることから、ベリサリオスがローマ市内の水道を封鎖したと伝えられる六世紀というよりはむしろ、五世紀にはすでに、製粉施設の重要性は失われていたようだ。その原因として、ショアラーとヴィカンデルは、浴場を訪れる人の数が減少した可能性を挙げている

︶₄₁

第六期  テオドリック王によるカラカラ浴場の修復   煉瓦の刻印から、テオドリック王︵在位四七一~五二六年︶治下にカラカラ浴場の修復が行なわれたことが分かっている

︶₄₂

  第三節  製粉施設の遺構の解釈

  製粉施設が浴場の近くに設置された理由について、ショアラーとヴィカンデルは次のように解釈している。﹁挽か れた小麦粉の輸送は穀物の輸送よりはるかに困難なことであり、出来る限り避けられていた。製粉機の位置は考えられる限りで最も適切な場所であった。すなわち、地下室に置かれており、浴場から排出される水を利用できた。また柱廊の北壁からさほど離れていないので、穀物を北壁のエクセドラの北西にあるその地下室へ、地階面にある専用の入口を通って直に運び込むことができた

︶₄₃

﹂。一度製粉した小麦は長距離輸送が困難なことから、彼らは、小麦粉が製粉施設の近隣にある製パン所に運ばれてパンに加工された後、カラカラ浴場を訪れる人々に配給あるいは販売されたと考えている

︶₄₄

  カラカラ浴場の事例のように、浴場の排水を利用して製粉することは稀ではなかったようだ。﹃農業書

︶₄₅

﹄を著したパラディウスは、浴場の排水を利用して、﹁家畜と人間の苦役なしに﹂製粉できると述べている

︶₄₆

。カラカラ浴場への給水は、アントニニアナ水道により行なわれていた。浴場は水力用の製粉機を設置する上で好都合な立地の一つであったといえる。

(13)

古代ローマ帝政期の水力用の製粉施設(反田)七七 第三章  ヤニクルム丘(図1の■2)

  第一節  調査の概要   本章では、ヤニクルム丘のメディチ通り

V ia G iac om o M ed ici

沿いにあった製粉施設について見ていく︵図7︶。この地点は、二〇一五年現在、アメリカン・アカデミーの駐車場になっている。メディチ通りの製粉施設の遺構は、イタリアの上院議員であったランチャーニ

R . L an cia ni

が一八八六年に描いたとされる遺跡の平面図に記録されている。ランチャーニによって記録が作成された頃、ヤニクルム丘の開発が始まった。その後、一九一二年から一九一三年の間に、メディチ通りとマシナ通り

V ia A ng elo M asi na

の間の場所に、現在のアメリカン・アカデミーが建設された。アメリカン・アカデミー周辺の製粉施設の発掘調査は、二〇世紀前半にヴァン・ビューレン

A . W . Va n B ure n

とスティーヴンズ

G . P . S tev en s

によって、一九九〇~一九九一年にベル

M . B ell, III

によって、一九九八~一九九九年にウィルソン

A . I. W ils on

によって断続的に行なわれてきた

︶₄₇

  この製粉施設では、水を引き込む溝渠の真上に水車の輪が設置され︵図8︶、輪の中心に通された横軸が歯車と水車の輪を繋いでいた。そして、歯車から上に垂直に伸びる 軸が石臼に繋がり石臼が回る仕組みであった。

  ベルの調査では、水車の歯車が設置された穴が一つと、水車の輪と歯車を繋ぐ軸を固定するための大理石を加工した軸受が二つ、発見されている︵図9︶。また、南側に造られた溝渠の床底は、北側の溝渠の床底よりも一メートル高い位置に造られていた

︶₄₈

  ウィルソンの復元によると、北側の製粉施設に水を引き込む溝渠には、三つもしくは多くて四つの水車の輪が存在した

︶₄₉

。ベルの復元によると、輪の幅は一・六五メートル程、直径は二・三メートル程、それぞれの輪の中心から中心までの距離は二・六メートル程と推定されている

︶₅₀

。その一方で、ウィルソンは、南側の溝渠には水車の輪が一つだけ設置され、水車の輪の直径は三・二メートルから三・八メートル程だったと推定している

︶₅₁

。またメディチ通りの水力用の製粉機は、上から水を掛けて水車を回す上射式ではなく、水路の傾斜を利用して水車の下を流れる水で水車を回す下射式

un de rsh ot t yp e

であった。

  ウィルソンは自身の発掘調査の成果と併せて先行研究を再検討した上で、遺構の変化について時期ごとに整理している。次節では、ウィルソンが提示した遺構の年代について見ていく。

(14)

法政史学 第八十四号七八 アウレリアヌス市壁

トラヤナ水道

0 50m

N

アメリカン・アカデミー

図7 メディチ通りの製粉施設 (Bell, 1994, p. 86 より転載、一部加筆    ・修正 )

ト ラ ヤ ナ水 道 ベルの調査区(1990-91)

ウィルソンの調査区(1998-99)

水車の輪の位置(復元)

溝渠(北側)

溝渠(南側)

水車の輪の位置(復元)

0 5 10m

図8 1990 年代の調査区 (Wilson, 2000, p. 224 より転載、一部加筆    ・修正 )

北側の溝渠

軸受 歯車が設置 された穴 図9 水車の輪が設置された北側の溝渠 (Bell, 1994, p. 76 より転載、

       一部加筆・修正 )

図7 メディチ通りの製粉施設 (Bell, 1994, p. 86 より転載、一部加筆・修正)

図8 1990 年代の調査区(Wilson, 2000, p. 224 より転載、一部加筆・修正)

図9 水車の輪が設置された北側の溝渠 (Bell, 1994, p. 76 より転載、一部加筆・

修正)

(15)

古代ローマ帝政期の水力用の製粉施設(反田)七九   第二節  遺構の年代第一期  水路の建設   古代のヤニクルム丘の上には、アルシエティナ水道

Aqua Alsietina

︵別名アウグスタ

August a

︶₅₂︶とトラヤナ水道

Aqua T raiana

が敷設されていた。ウィルソンは、アメリカン・アカデミーの下を走るこの水路をトラヤナ水道とすることは妥当か、発掘調査を通じて水道建設時の裏込めの土から出土した土器の年代︵一~二世紀︶を基に検証し、一〇九年に完成したトラヤナ水道であると結論づけた

︶₅₃

第二期  製粉施設の設置   トラヤナ水道が建設された後、トラヤナ水道の両脇に製粉機が設置された︵図8︶。製粉施設が設置された時期について、ベルは、製粉施設の基礎築造時の土から遺物の中で、最も時期の遅い土器片が三世紀前半の年代に帰属することから、製粉施設は三世紀の間に設置されたと考えた

︶₅₄

。だがベルの論文では、製粉施設が設置された時期を知る手掛かりは、この土器片以外に示されていない。そしてウィルソンも、自身が担当した調査区では製粉施設の建物の基礎を造る際に掘って埋めた土から遺物が出なかったため、ベルの提示した年代を採用している

︶₅₅

。   製粉施設が設置された年代を知る手掛かりの一つに、六世紀のビザンツ帝国の歴史家プロコピオスが残した﹃戦史﹄がある。プロコピオスは、ローマ市に壁が建設され始めた頃、テヴェレ川を越えた場所︵西側︶にある丘に、すなわちヤニクルム丘の上に製粉施設が存在していたことを伝えている。トラステヴェレ地区に建設された市壁はアウレリアヌス市壁だけであることから、プロコピオスは、市壁の建設が始まった二七一年頃の状況に言及していると考えられる。﹁そしてその場所の向い側、テヴェレ川を越えたところにあるものが、巨大な丘の頂に相当する。その場所には古の時代に都市のすべての製粉施設が造られていた。それゆえその場所では実際に丘の頂に運ばれてきた大量の水が水道を通ってその場所から、大きな力を伴いつつ斜面に向かって行くのである。それゆえに古のローマ人たちはすでに丘の頂と下方にあるその川の土手に市壁を築くという判断を下した。市壁に幸運にも区画されていたので、敵が侵入して製粉施設を破壊することや、川を容易に渡河することが決してできなかったからかもしれない

︶₅₆

﹂。

(16)

法政史学 第八十四号八〇

  アウレリアヌス市壁は、ローマ人と異民族との戦闘が多発する中で、敵の侵入を防ぐためアウレリアヌス帝︵在位二七〇~二七五年︶によって建設された。プロコピオスの記述を裏付けるかのように、メディチ通りの製粉施設の他にも、ヤニクルム丘の水道沿いに製粉施設が存在していた可能性をウィルソンは示唆している

︶₅₇

。ベルとウィルソンの調査区では、アウレリアヌス市壁が残っていなかったため、メディチ通りの製粉施設がアウレリアヌス市壁より後に造られたのか、前に造られたのか、層位的に検証することは不可能であった。

第三期  製粉施設の廃棄   水車の歯車が設置された長方形の穴は、土器や屋根瓦、石臼の破片を含む堆積物で埋められていた。図9は、堆積物を取り除いた状態の写真である。この堆積物は、後世の撹乱を受けていなかったことから、製粉施設が廃棄された年代を決定する資料として扱われている。ベルはこの穴から出土した土器とランプを基に、製粉施設が廃棄された時期を四〇〇年頃と考えている

︶₅₈

。ウィルソンもベルが提示した年代を採用している

︶₅₉

  また北側の溝渠の床面からは、三枚のヌンムス

nummus

貨が出土した。そのうち一枚のみ判読が可能で、リキメル将軍の頭文字の刻印のある、リビウス・セウェルス帝がローマ市で発行した硬貨︵四六一~四六七年頃︶であった。ベルは、徐々に製粉施設が廃棄されていった可能性を指摘している

︶₆₀

。ウィルソンは、リビウス・セウェルス帝の硬貨を、少なくとも四六〇年代まで溝渠に水が流れ続けていた可能性を示唆する資料として扱っている

︶₆₁

第四期  製粉施設の改築   やがて、トラヤナ水道から水を取り込んでいた北側と南側の溝渠の入口が封鎖される。この封鎖によって、水はトラヤナ水道だけに注がれるようになった。また建物が改築され、新たに壁が付加された。改築された後の遺構についてウィルソンは、壁は水路への落下を防ぐためのもので、トラヤナ水道を流れる水を汲み上げることのできる場所であったと解釈している

︶₆₂

第五期  トラヤナ水道の封鎖   トラヤナ水道の中は、壊れた床材の塊や壊れた大理石製の窓格子、同じく大理石製のヘルメス柱像など剥ぎ取られた建築材

Spolia

で埋められていた。この堆積物から出土し

(17)

古代ローマ帝政期の水力用の製粉施設(反田)八一 た最も時期の遅い土器の年代は、五世紀末~六世紀初頭である。そのため、ウィルソンは、五世紀末~六世紀初頭にトラヤナ水道は埋められたと考えている

︶₆₃

  トラヤナ水道が埋められた動機について、ウィルソンは一つの解釈であると前置きしつつ、ローマ市内の水道の遮断に言及するプロコピオスの記述に関連づけて、このような堆積状況は、計画的でない急を要する事態に対応した結果によるものと類推している

︶₆₄

。ローマ市内の水道は、五三七年にビザンツ帝国の将軍ベリサリオスがローマ市内に立てこもりゴート人と闘った時に破壊されたと伝えられている。﹁とはいえ、彼は︵ベリサリオスは︶待機していた歩兵隊の長たちに、残りの︹門を

πύλας

︵補い︶︺入念に見張るよう命じた。そして各水道を、できる限り安全に建築材で広範囲にわたって塞いだ。何者かが外側からその場所にやってきて害を為せないようにと

︶₆₅

。しかし前述のように、諸水道が分断された後、水が製粉機を動かすことはもはやなく、その場所で何らかの動物たちがそれ︵製粉機︶自体を動かすことは絶対にないことを私は悟った。攻囲の最中にあって、いずれにせよ、彼ら︵ローマ人たち︶には、ほぼ全ての食糧の 充足を可能にする強力な馬たちが全く足りなかったので、ベリサリオスは次のようなものを考案した

︶₆₆

﹂。

  ベルとウィルソンが発掘調査で明らかにしたように、六世紀にはメディチ通りの製粉施設は、すでに廃棄されていた。つまり、ベリサリオスが水道を封鎖したために稼働しなくなったと伝えられる水力用の製粉機は、メディチ通りの製粉施設の製粉機を指すわけではない。その上でウィルソンは、ベリサリオスが封鎖した水道の中に、自身の調査区のトラヤナ水道が含まれる可能性もあると考えている。

第六期  中世以降   六世紀以降は、中世後期か近世以降の一点の土器片を除き、一九世紀から二〇世紀の遺物が大半を占めることから、中世のヤニクルム丘は居住地として利用されていなかったようである

︶₆₇

。一六世紀から一九世紀には、主に果樹園として土地利用されていたことが絵図より分かっている

︶₆₈

  第三節  遺構の解釈   プロコピオスの伝える情報の信憑性を、残存する遺構や遺物から裏付けることは難しい。しかし、古代のヤニクル

(18)

法政史学 第八十四号八二

ム丘の製粉施設については、プロコピオスの﹃戦史﹄の記述が最も詳細である。とりわけ、製粉施設が稼働していた期間︵第二期~第三期の間︶と、トラヤナ水道が封鎖された時期︵第五期︶の状況を考える上で、プロコピオスの記述は有効である。

  ウィルソンは、壁の外の製粉施設の構造物や水道沿いで発見された水力用の製粉施設とおぼしき遺構にも着目しており、これらは、ヴァン・ビューレンとスティーヴンズが調査、報告した遺構である

︶₆₉

。ウィルソンは、プロコピオスの記述を重視した上で、もしそれらが本当に製粉施設の遺構であるならば、アウレリアヌス市壁が建設され始めた二七一年には壁の外の製粉施設は廃棄されていた可能性があると考えている

︶₇₀

。また、四〇〇年頃までにメディチ通りの製粉施設は廃棄されたが、ヤニクルム丘では五世紀後半に依然として製粉活動が行なわれていたことを示す碑文が発見されている

︶₇₁

。第五期に水道が封鎖され、その後、生活の痕跡を示す遺物が出土していないことから、ウィルソンは、中世以降、人々の生活の場がヤニクルム丘の上から下の方へと移動し、丘の下方の地域の開発が進むことになったと考えている

︶₇₂

  立地という観点から考えると、トラヤナ水道とアルシエ ティナ水道という二本の水道が敷設されたヤニクルム丘は、プロコピオスが述べているように丘の斜面の傾きを活かして水を流し、水を動力として利用する製粉施設を造る上で好都合な立地条件を備えていたといえる。トラヤナ水道の水を直接引き込むことのできたメディチ通りの製粉施設は、自然の地形を利用している点でカラカラ浴場の製粉施設とは異なるものの、ローマ市内に水を供給する水道の水を巧みに利用している点は共通していることが指摘できる。

第四章  パラティヌス丘(図1の■3)

  製粉機の石臼

molae

は、発掘調査時に製粉施設の遺構に伴う状態で発見されないことが多い資料である。石臼は、製粉施設で使用された後に廃棄もしくは再利用される場合や、廃棄された後、後世に別の場所に移される場合があるため、この点に注意する必要がある。

  第一節  調査の概要   パラティヌス丘の発掘調査では、破損した水力用の石臼の破片を廃棄もしくは再利用した床面が発見された

︶₇₃

。ウィルソンは、石臼の床面が発見された地点を考慮して、パラティヌス丘の西側もしくは北側の斜面に水力用の製粉施設

(19)

古代ローマ帝政期の水力用の製粉施設(反田)八三 が存在した可能性を示唆している

︶₇₄

  二〇〇三年の論文でウィルソンは、完形と破片を合わせて計四七点の石臼を分析した。ウィルソンが分析したのは、全て平坦な形状を呈する水力用の石臼である

︶₇₅

。図

図ソ資料をウィルのン扱っている︵は 臼六点、破片の石の二七点計三三点石臼の完るす成形を形

m

1714

R Se r cto oo

の部屋画区で、は点舗石の床面の遺構の 10の地A るあで点三明不 点三臼下、る六のも、れ点思下臼と思われるもの三点、わと 片石上臼であった。破臼の臼全の構成は、上臼九点、上て 11︶。は臼石の形完

︶₇₆

。これらの舗石の床の上に堆積していた後世の瓦礫の中からは、さらに三点の石臼の破片が出土し、全て上臼であった

︶₇₇

。他にも区画

Se cto r

12 の別の部屋

R oo m

に、五点の石臼の破片が存在していた

︶₇₈

。B地点では、完形の上臼一点と破損した上臼六点が発見されている

︶₇₉

。さらにウィルソンは、サンタ・マリア・アンティクア

Sa nta M ari a A nti qu a

教会︵図 るソ可能性ウィルをン示唆していは 調際の査隣掘発の近出に動土し、現在地に移るされた。 あ発も片をで見した。石臼がとのもとあった場所は不明破 10の点二臼下、はで庭中の前の︶外囲範

︶₈₀

。また、ウェスタの家

Atrium V estae

と聖なる道

Sacra V ia

の間では、発掘調査時に、二点の上臼の破片が近現代の撹乱層の中から出土して いる

︶₈₁

。B地点では完形の石臼と破片を合わせて計五点が床を舗装するために再利用され、C地点では完形の石臼一点が排水溝のマンホールとして再利用されていた

︶₈₂

  第二節  遺構の年代   新通り

Nova V ia

に沿ったA地点の発掘調査で、石臼の床面が発見された︵図

るいてれらえ考と がたさ成形臼面床の期石時れは〇、間の頃〇年五~〇五三 遺から出てきた、物の分析からの間面たれさ施がり張粧床 残床っが面さの別たれいてがた。石臼が堆積する層と化施 11︶。り張粧化、はに層下の臼石のそ

︶₈₃

。石臼の直下の床面の遺物には六世紀の土器が含まれていなかった。石臼が製粉施設で使用されていた時期は、廃棄あるいは再利用の前になる。つまり、これらの石臼を使用した製粉施設の時期は、四世紀半ばから五世紀末より前の時期になる。石臼直下の床面の遺物に六世紀の土器が含まれていなかったことは、ゴート人にローマ市が攻囲された五三七年より前に廃棄された石臼であることを示唆している。ウィルソンは、ローマ市の人口が減少した結果、製粉施設が廃棄されたと推測している

︶₈₄

(20)

法政史学 第八十四号八四

N

C B

A 地点 : 区画 Sector 17, 部屋 Room 14  の石臼の床

B 地点 : 区画 Sector 12, 部屋 Room 15   の帝政後期の石臼の発見場所 C 地点 : 区画 Sector 12, 部屋 Room 14  の排水溝の蓋として再利用された  石臼

ギリシア階段

サンタ・マリア・リベラトリーチェ教会の壁

0 50 100m

新通り

図10 パラティヌス丘の石臼発見地点 (Wilson, 2003, p. 86 より転載、

    一部加筆・修正 )

化粧張りの床面 石臼の破片の床面

(石臼の破片の床面下)

図11 石臼でできた床面 (A 地点 )  (Wilson, 2003, p. 89 より転載     一部加筆・修正、南から撮影 )

図12 カシリナ通りの舗石 (Rea, 2004, p. 69 より転載、北から撮影 ) 図 10 パラティヌス丘の石臼発見地点 (Wilson, 2003, p. 86 より転載、一部

加筆・修正)

図 11 石臼でできた床面(A 地点) (Wilson, 2003, p. 89 より転載、一部加筆・

修正、南から撮影)

図 12 カシリナ通りの舗石 (Rea, 2004, p. 69 より転載、北から撮影)

(21)

古代ローマ帝政期の水力用の製粉施設(反田)八五   第三節  遺構の解釈   A地点の床面として再利用された石臼は、新通りの店舗

tabernae

の活動に関連すると、ウィルソンは考えている

︶₈₅

。製粉施設本体はまだ発見されていないが、ウィルソンは、製粉施設のあった場所をA地点のすぐ西側の﹁ギリシア階段

Scalae Graecae

﹂とする仮説を提示している

︶₈₆

。ギリシア階段がある場所は、おそらくハドリアヌス帝︵在位一一七~一三八年︶治下に建設された排水路が急に傾斜する地形になっているため、丘の急峻な斜面を利用した上射式の水力用の製粉機を設置するのに適しているとウィルソンは指摘する

︶₈₇

  また帝政期の初頭にはマルキア水道

Aqua Mar cia

とユリア水道

Aqua Julia

が、これらに加えて、一世紀中期~後期以降には、クラウディア水道

Aqua Claudia

と新アニオ水道

Anio Novu s

︶₈₈

、クラウディア水道の支流であるカエリモンタニ水道橋

Ar cus Caelimontani

︵別名ネロニアニ水道橋

Ar cus Ner oniani

︶が、パラティヌス丘に水を供給していた

︶₈₉

。ウィルソンは、五三七年のゴート人によるローマ市の攻囲時に諸水道が遮断されるまで、丘には水が潤沢に供給されていたと考えている

︶₉₀

第五章  マジョーレ門周辺

  第一節  調査の概要   マジョーレ門

Po rta M ag gio re

は、古代のプレネスティナ門

Porta Pr enestina

に相当し、後世の度重なる改築を経て現在の姿になった

︶₉₁

。プレネスティナ門は、古代のプレネスティナ街道

Via Pr enestina

とラビカナ街道

Via Labicana

の岐点になっていた。

  一八三九年、マジョーレ門付近で教皇グレゴリウス一六世の事業の一環として発掘調査が行なわれた。調査を監督したファブリス

G . F ab ris

とグリフィ

L. G rifi

は、完形と欠損した破片を合わせて八点の石臼を発見したと教皇庁のカメルレンゴ

C am erl en go

に報告している

︶₉₂

。これらの石臼は摩耗していたことから、製粉施設で使用された後、部屋や地面を舗装するために利用されたとファブリスとグリフィは記している。一八四〇年には、旅行者のヘッド

G . H ea d

が三~四点の製粉機の石臼をマジョーレ門付近で見たという記録を残している

︶₉₃

。一九五五年には、エウリュサケスの墓の西側に位置するエレニアナ通り

V ia Ele nia na

で発掘調査が行なわれた。オリンピックの開催に向けた発掘調査であった。コーツ

=

スティーヴンズ

R . C oa tes -S tep he ns

は、

(22)

法政史学 第八十四号八六

未刊行のままであった発掘調査時の平面図と写真を論文に掲載している

︶₉₄

。この調査では、畜力用の石臼が三点、平坦な形状を呈する水力用の石臼が四点発見された︵図1の▲

VII

︶。一九九九年、コーツ

=

スティーヴンズは、エウリュサケスの墓を囲む柵の内側で、近現代の瓦礫の中から二点の水力用の石臼の破片と

︶₉₅

、マジョーレ門の土台をなす近現代の壁の中に埋め込まれた一点の上臼の破片を発見した

︶₉₆

︵図1の▲

VII I

︶。

  そして二〇〇一年、レア

R . R ea

による現代のカシリナ通り

V ia C asi lin a

の発掘調査時に、パラティヌス丘と類似した状況で、廃棄あるいは再利用された凝灰岩製の石臼の床面が発見された

︶₉₇

︵図1の■4︶。石臼の床面が発見された場所は、マジョーレ門の南側八〇〇メートルの地点であり、古代のラビカナ街道の舗石の一部と考えられている︵図

   第二節遺構の年代 12︶。

  レアは、図1の■4の石臼を再利用した舗石の道の時期を五世紀に比定している。マジョーレ門周辺では、本章第一節でみたように畜力用と水力用の石臼が発見されているが︵図1の▲

VII

、▲

VII I

︶、それらの石臼の年代は厳密に 特定できない状況である。

  第三節  遺構の解釈   コーツ

=

スティーヴンズは、一九五五年の調査時にラビカノ広場で発見された構造物が製粉施設であると考えている

︶₉₈

。水槽

va sch e

、小水路

ca na li

、貯蔵用甕

dolia

、そして数多くの石臼が、調査地で発見されたためである。コーツ

=

スティーヴンズが二〇〇五~二〇〇六年の論文に示した石臼の発見場所は、図1に▲

I

~▲

VII I

で位置を示した。石臼が使用されていた時期や廃棄された時期は不確かなものの、ローマ市の中でもマジョーレ門に近い場所から比較的多くの石臼が発見されている。マジョーレ門周辺は、門のすぐ近くのエレニアナ通りの発掘調査で複数の石臼が発見されているだけでなく、古代のラビカナ街道の舗石に再利用された石臼や製パン業の請負業者

redemptor

エウリュサケスの墓が存在し、製粉業および製パン業者

pistor es

の墓碑が複数見つかっている地区である。これらのことを考慮すると、一九五五年にラビカノ広場で発見された構造物を製粉施設とするコーツ

=

スティーヴンズの解釈は、一定の説得力を持つ。

  ここで問題となるのが、平坦な形状を呈する水力用の製

(23)

古代ローマ帝政期の水力用の製粉施設(反田)八七 粉機の石臼の存在である。コーツ

=

スティーヴンズは、前一世紀のテサロニカのアンティパトロスの詩に水力用の製粉機が登場することから、ローマ市ではすでに前一世紀に水力用の製粉機が導入されていた可能性もあると考えている

︶₉₉

。しかし、コーツ

=

スティーヴンズが注に引用して示している二〇〇二年のウィルソンの論文は、ローマ市というよりは地中海世界の他の地域の状況について論じているように思われる。たしかに、コーツ

=

スティーヴンズが述べているように、五二年以降であれば、クラウディア―新アニオ水道の敷設で水道沿いの製粉施設への給水が可能となり、水力用の製粉機がマジョーレ門付近で導入されたと類推することは不可能ではない

︶100

。しかし現時点では、エウリュサケスの墓の浮彫︵図1の●︶には水力用の製粉機は描かれていないことを考慮すると、前一世紀に水力用の製粉機がローマ市に導入されたという主張を裏付ける資料は、マジョーレ門付近では見当たらない。仮に前一世紀に水力用の製粉機が導入されていたとすれば、マジョーレ門付近よりもむしろ、すでに水道が敷設されていたマルキア水道、テプラ水道、ユリア水道、旧アニオ水道沿いの区域の方が好適な条件を備えていただろう。 おわりに

  急峻な斜面や人工的に運ばれてきた水を利用することが可能であるという立地上の利点は、カラカラ浴場とメディチ通りの二カ所の製粉施設と、急峻な斜面を持つパラティヌス丘に共通している。製粉施設の遺構が発見されていないパラティヌス丘の資料を除いても、ローマ市内で現在確認されているカラカラ浴場とメディチ通りの水力用の製粉機は、三世紀頃に設置されたと近年の研究では考えられている。カラカラ浴場の製粉施設は、まず三世紀前半~三世紀半ばまでと、再建後の三世紀後半から五世紀の間まで稼働していた。メディチ通りの製粉施設は、三世紀前半~四世紀末まで稼働していた。どちらもブロックが提示した四世紀半ばより早い時期に設置されている。

  ウィルソンは、アウレリアヌス市壁が建設された時期に設置されたメディチ通り沿いの水力用の製粉施設は、市壁の中に配置されたと考えた。ウィルソンは指摘していないが、火災後に再建されたカラカラ浴場の製粉施設もまた、アウレリアヌス市壁の内側に位置している。ウィルソンの判断が正しければ、製粉施設を市壁の中に配置するという立地は、プロコピオスが述べている状況と一致する。アウ

(24)

法政史学 第八十四号八八

レリアヌス帝以降、市壁の内側に配置された製粉施設は、都市の食糧供給にとって重要な役割を担う施設だったのであろう。そこで筆者は、ローマ市で発見された製粉施設と石臼の地点を図1に示し、それらの地点と市壁との位置関係を考察した。石臼が発見された経緯や、石臼が使用された製粉施設の場所が分からないため、確かなことは言えないが、古代の市門のすぐ外で発見されている事例が複数あり︵図1の▲

I

、▲

II

、▲

III

︶、街道の舗石として再利用されている事例︵図1の■4︶もある。これらの事例から、ローマ市外から市内へと至る道に面した場所に、製粉施設が存在した可能性を指摘できる。製粉施設が市壁の内側と外側のどちらに位置するかという問題も重要ではあるが、人や家畜、物資の搬入の利便性を鑑みると、市門の近くで発見された複数の石臼の事例を看過することはできない。

  またブロックを含め先行研究

︶101

では、プロコピオスが﹃戦史﹄でローマ市内の水道が遮断されたと伝える時期の五三七年という年代を、舟水車の導入と併せて、古代から中世へと移行する画期の一つと捉えてきた。その一方で、カラカラ浴場とメディチ通りの製粉施設がベリサリオス将軍による水道の封鎖時にすでに廃棄されていたことは、注目に値する。ショアラーやヴィカンデル、ウィルソンは、 カラカラ浴場とメディチ通りの製粉施設の廃棄をローマ市の人口の減少と結びつけて解釈しており、製粉施設の廃棄を史料に残る事件と無理に関連づけておらず、穏当な解釈といえる。

  以上のことから、起伏に富んだ地形を持ち、水道網が張り巡らされていた古代のローマ市は、水力用の製粉機を導入する上で、格好の立地、条件を備えていたことが明らかになった。帝政期にローマ市内の水道網が整備されていく中で、水力用の製粉機の需要は増していったと考えられる。とはいえ、水力用の製粉機の設置に適さない場所では、帝政期においても依然として畜力用の製粉機が使われていたのではないだろうか。ローマ市では、オスティア遺跡やポンペイ遺跡のように、畜力用の製粉施設の良好な遺構が発見されていない。だが、三〇一年に発布された﹃ディオクレティアヌス帝の最高価格令﹄には、人力、畜力、水力の異なる動力を用いた石臼が併記されている。水力用の製粉機は、水道網の整備と併せて時代が下るにつれ、徐々にローマ市に普及していった。しかし、水道が通らない場所で水力用の製粉機を使用することはできない。人や家畜に重労働を強いることなく製粉を可能にした水力用の製粉機は、設置できる場所が限られていた。そのため、筆者は、

(25)

古代ローマ帝政期の水力用の製粉施設(反田)八九 帝政期のローマ市では、水力用の製粉機が畜力用の製粉機に取って代わったというよりも、地形や利用できる動力の性質に合わせて製粉機の種類が選択されていたと考えている。  人口過密の限られた土地で地形や資源を効率的に利用することで、帝政期のローマ市では、膨大な数の人々に小麦粉を用いた食べ物を提供することができたのである。

︵ 会治﹄九州大学出版、と二〇一一年参照。政 1︶ の宮共和政期については、嵜食麻子﹃ローマ帝国給供糧

︵ 2︶Pli83.20, 18; 84-, n., , 18), (=19NHNaturalis Historia

︵ ).9919, amrdstem, (AInterpretation 3︶eriTheJ. T. Bakker, (ed.), Mies oflls-Bakion and riptsc Ostia: De

︵ I-X. XXVtavXXVII. (), 7319a, om(R), omaniI monumenti reEurisace a Porta Maggior 4︶P. Ciancio Rossetto, sepolcro del fornaio Marco Virgilio Il 5︶ Seneca, 90, 22-23Ad Licilium Epistulae Morales,

cet faeriepco rat enim quemadmodum nerumNaturam imitatus panemarr t. s, sedest contentus his artibuitti in pistrinum sapientem summ deeinD non : “

re.”L. A. 芝ネセ︶﹃訳弘芳︵大邦カネセ、は訳カ ︵ ﹂。だの 自をいかに然界を模倣しパンて作述るりてべいをため始か にい追でまン︶屋パっ挽やきている。つまり、賢者が場︵ せさだ﹁粉らに、これら技仕事のけ、をで賢は彼者ず足満は 集〇﹄六、岩波書店、二〇全六年、一一二頁より引用。哲学

︵ 当では見りたない。ら れ位の空た行わなが業関置間係はが限の管、見例事るか分 にのおいて、水力用パ製粉施設と製ンの作マ市ー。るあロ , fi, p. 40g. 12a. Bakeriesはこれら畜設で例事力の施粉製の用 , (16Rome, 2010), p. Mills-5, fig. 79. Bakker, The d’Herculanum 6︶x, teionM. N Les lieux de métier: boutiques et ateliers 7︶ Martialis, , 8, 16Epigrammaton liberi

mnaariis ffac s. ACre, isto p mariutuereueusqyp re, noncedis: Et panem facis et is et munagCypere, Causas nsuc is et ducena quaeris: sed con ui tor qPisfueras diu, : “

︵ も退しないさ。パンの作し小麦粉も作る﹂。る るペュキ。らすを金借にスロさよン、らか屋引パん前おは 財さんは散そし、してさお前がテ。だい稼をスウィテルだ さ訟訴はん前お、今!起をてこし、そしス二〇〇万セスよ .” ロきお前さんは長く生たペね、パン屋のキュ﹁ 8︶ Digesta Justiniani (=DJ), 33, 7, 18, 5

riopesu temeam quoque deberi. Est aueta m inferior pars molae, catillus retur, olendsi molendaria respo mit, rusticis eius fundi operariis nsuem coIdltus de meta: “ な労。もしその者の農業働し者らによって製粉が行た答解 r.”同法学者︵パウルス︶﹁が製粉用の下臼について、

(26)

法政史学 第八十四号九〇

われるならば、さらにそれを︵製粉用の下臼を︶与えられるべし。ところで石臼の下部は円錐形で、上部は鉢形である﹂。︵

int mduobu[s] milibus 59 Mola/ an[ti]uaquuins qagenuc: dlis qu[Mol]a asinalis: mille [d]entisucinqginta /58 [Mola] aquaria: ua bacua <[ri]llaa [cala ]oM> l56mmapidibus: ille q[ui]ngentis /57 ] “56 D[EMOLIS / る部材からでていき。テン語の碑文はラ さにたるせ上転回を臼り取め付木け等木枠やの横製木るの し粉製。たと訳機粉製はを機は、け、くな厳でだ臼石に密 molaと、らかこ付﹂るでは﹁石きのという言葉が付いてい Mola形数単ウ﹂。スリナ石では臼がを五第、六節す味意る 〇リナデ〇二〇に臼石スのウ用。にデ〇五手二臼石のし回 の用。バロデスウリナデ臼石水にウ一力。ス用リ〇五二ナ 五ウ。﹁九節第~六五用第マ節のに石〇五一〇機粉製のき付  p. , (Genova, 1974), p. 168-169venaliumprerumetiis r第一五章 9︶i), ra d cu (aerochiac. GM Edictum Diocletiani et Collegarum de

56“シ、は文碑の語アリギ。るいてれさ訂校 a”と ΠΕΡΙ

ΜΥΛΩΝ / 56 a μύλος καβαλλαρικὸς λίθινος: ,αφ΄ / 57 μύλος ὀνικός: ,ασν΄ / 58 μύλος ὑδραλετικός: ,β/ 59 χειρόμυλος: σν΄”と校訂されている。︵

linhisoums dere toi 10︶retouCf. M.-C. Amouʼ ls àilles fti, dere toi ʼ ldeal egarbhis“B

︵ ), p.514. . psp, e015-513p. 9219( Pr, 816-716le icuasc, Fovence Historiques”, 11︶ Wn Aniathe Athein ill r-Matean om R“As, onars. P. WAgo

ra”, ︵ , vol. 5, no.11936), pp. 70-90., (Hesperia

︵ 19, tome 15, (40), pp. 19-80.”, chéologiqueRevue Ar 12︶queuF. Benoit, “Lʼusine de mnee drie hydraulis) rleAal ( arbe Beg

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14︶ Amouret

ti, “

Barbeg

al”, p. 138. cf. 前掲註︵

12︶。

︵ 15︶ ibid., pp. 139-140. ス事も初期の水力用製粉機のの例アをニソウウの世三、紀 541. , n5tesp. ”, uênqco照参ク。に最るれ現料史、はッロブ vèBloch, ennemt et “A利、は料史す示を用の粉製の用力機 356. クし拠が依ッロブ古た代に中世のガリアとおける水 7, n36e m, too. p. , (1935), p538-d'histoire économique et sociale 16︶Annales t c. Bloch, “Avènement eon, quêtes du moulin a eau” M

Ausoniusの﹃モーゼル川Mosella﹄v. 362であると述べている︵ブロックは、﹃モーゼル川﹄の史料の年代を三世紀と記している。Cf. S. Hornblower and A. Spawforth, The Oxford Classical Dictionay (=OCD), (4th ed.), (Oxford, 2012), p. 213は、﹃モーゼル川﹄を四世紀の著作とする︶。︵

17︶ Bloc

h, “Avènement et conquête

︵ s”, pp. 540-541.

︵ 18︶ ibid., p. 545.

︵ Pru.095. , v, IIus,ntideContra Symmachum 19︶Theodosianus. Cid., p. 545, n. 2f. (=Codex . 4, 5, ib), CTh14 20︶id., p. 545. ibす遺てい用を料史る施関に設粉製の市マーロ構

参照

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