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映画 『 ロング ・ グッドバイ 』 の 疑似 ヴォイス ・ オーヴァー

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映画 『 ロング ・ グッドバイ 』 の 疑似 ヴォイス ・ オーヴァー

原作 する 批評的機能 について 山本祐輝

序論

 第一作の『大いなる眠り』以来、レイモンド・チャンドラーによる私立探偵フィ リップ・マーロウを主人公=語り手とした長編小説のほとんどが映画化されてき た

1

。その際に、原作の大きな特徴であるマーロウの語りを再現するための様々な 映画的技法が用いられてきた。例えば、『湖中の女』における主観カメラや、『ブロン ドの殺人者』におけるヴォイス・オーヴァーやフラッシュバックの使用である。し かし、これらの技法は、小説の語りを単に形式的に映画固有の技法に置き換えてい

1ここでそれらをリストアップしておく(括弧内は原作)。

(1)『ファルコン制覇す』Falcon Takes Over、アーヴィング・レイス監督、1942年(『さらば愛 しき女よ』Farewell, My Lovely、1940年)[日本未公開]

(2)『殺しの時』Time to Kill、ハーバート・I・リーズ監督、1942年(『高い窓』The High Window、 1942年)[日本未公開]

(3)『ブロンドの殺人者』Murder, My Sweet、エドワード・ドミトリク監督、1944年(『さらば 愛しき女よ』)

(4)『三つ数えろ』The Big Sleep、ハワード・ホークス監督、1946年(『大いなる眠り』The Big Sleep、1939年)

(5)『湖中の女』Lady in the Lake、ロバート・モンゴメリー監督、1947年(『湖中の女』The Lady in the Lake、1943年)

(6)『高い窓』The Brasher Doubloon、ジョン・ブラーム監督、1947年(『高い窓』)[日本未公 開]

(7)『かわいい女』Marlowe、ポール・ボガート監督、1969年(『かわいい女』The Little Sister

(2)

るようにも思われる。西村清和が指摘する通り、このような場合に「問題となって いるのはもちろん、小説の言語と映画の映像ということなったメディア、ことなっ た記号体系それぞれの 語り のちがいや、それがもたらす意味作用やイメージ形 成の異同」

2

なのである。その点、本稿で取り上げるロバート・アルトマン監督の 映画『ロング・グッドバイ』

The Long Goodbye、1973年)

は、小説と映画の媒体の差 異に関して洗練された処理を施していて、マーロウものの中では例外的な作品であ る。一見するとこの映画は、原作の語りに対して無関心であるように思われる。し かしながら、原作の語りを再現するのとは別の形で、それに対する言及を行ってい るのだ。

 従来、この映画は「フィルム・ノワール」の文脈で論じられてきた。そしてその 論点のひとつとして、このジャンルを特徴づけるとされるヴォイス・オーヴァー・

ナレーションが使用されていないということがことさらに指摘されてきた。例えば、

セアラ・コズロフは「アルトマンのノワールであるチャンドラーの『長いお別れ』

の映画版は、ナレーションの使用を避けている」

3

と述べているし、近年では小野 智恵も「フィルム・ノワール」とこの映画の諸特徴を対照する中で『ロング・グッ ドバイ』には「ヴォイス・オーヴァーは使用されない」

4

としている。

 このような先行研究とは異なり、本稿は、この映画を「フィルム・ノワール」で はなく、原作との関係において捉える。この映画が「フィルム・ノワール」の文脈 で論じられる大きな理由として、チャンドラーが『ブロンドの殺人者』、『三つ数え

1949年)

(8)『ロング・グッドバイ』The Long Goodbye、ロバート・アルトマン監督、1973年(『長いお 別れ』The Long Goodbye、1953年)

(9)『さらば愛しき女よ』Farewell, My Lovely、ディック・リチャーズ監督、1975年(『さらば 愛しき女よ』)

(10)『大いなる眠り』The Big Sleep、マイケル・ウィナー監督、1978年(『大いなる眠り』)

なお、このリストを作成するにあたって以下の文献を参照した。William Luhr, Raymond Chandler and Film, 2nd Ed., Tallahassee: The Florida State UP, 1991, pp. 194–197.

2西村清和『イメージの修辞学 ─ ことばと形象の交叉』、三元社、2009年、134頁。

3Sarah Kozloff, Invisible Storytellers: Voice-Over Narration in American Fiction Film, Berkeley: U of California P, 1988, p. 38.

4小野智恵「ポスト・ノワールに迷い込む古典的ハリウッド映画 ─ 『ロング・グッドバイ』

における失われた連続性」、杉野健太郎編『交錯する映画 ─ アニメ・映画・文学』、ミネルヴァ 書房、2013年、267頁。

(3)

ろ』、『湖中の女』といったこのジャンルを代表する作品に原作を提供してきたこと が挙げられる。しかし、『ファルコン制覇す』のように、このジャンルに含まれな いチャンドラー作品の映画化が存在することも事実である。また、小野が詳細に述 べているように、映画『ロング・グッドバイ』における他作品からの引用は「フィ ルム・ノワール」に限定されたものではなく、それ以外のジャンルからも見られ る

5

。そのため、「フィルム・ノワール」との繫がりが必然的なものであるとは言い 難い。そこで本稿では、映画『ロング・グッドバイ』は「フィルム・ノワール」であ る以前に、クレジットで

“From the RAYMOND CHANDLER Novel ‘THE LONG

GOODBYE’”

と明示されるように、小説『長いお別れ』の翻案であるということ

に改めて着目し、両者の関係に焦点を当てる。

 更に本稿の独自性は、この映画における主人公の声の特異性に注目する点にある。

この作品では、主人公マーロウの声が、物語世界内における通常の台詞なのか物語 世界外から聞こえてくる独白なのかが不分明になっている箇所が存在する

6

。先に 挙げた先行研究が指摘している通り、確かにこの映画でヴォイス・オーヴァーは使 用されていない。通常この技法を使用する場合、その声が、カメラが映し出す物語 世界の時空間の外部において生じていることを明示するような演出や操作を行わな ければならない。『ロング・グッドバイ』ではこのような演出や操作がなされていな いために、主人公の声は物語世界内における通常の台詞として捉えられてきたのだ

5小野「ポスト・ノワールに迷い込む古典的ハリウッド映画」、261–262頁、及び268–269 頁。

6比較的、本稿と着眼点が類似していると言えるのが、ミシェル・シオンによる議論である。

彼は、映画における、同一人物による実際の発話と「心の声(mental voice, internal voice)」とを シームレスに切り替える技法について論述する中で、簡潔にではあるが『ロング・グッドバイ』

を取り上げている。そこでは、「フィルム・ノワール」への言及なしで、最初の数分間における マーロウの発話が「あたかも大声で考えているかのよう」であると述べられる(Michel Chion, Film, a Sound Art, trans. Claudia Gorbman, New York: Columbia UP, 2009, pp. 342–343)。しか し本稿はこの議論とは異なり、マーロウの特異な声に関してその音質や演出といったテクスト の細部を分析した上で、それが使用される範囲も厳密に規定する。更に本稿は、かつてシオン 自身が物語世界内に位置づけていた「心の声」ではなく(Michel Chion, Audio-Vision: Sound on Screen, trans. Claudia Gorbman, New York: Columbia UP, 1994, pp. 76, 78)、物語世界外の声で あるヴォイス・オーヴァーを参照する。この二つの声の時間的、空間的な位置づけについては 不明な点も多く、「物語世界」の概念を中心としたナラトロジーの理論的再検討を通じて、今後 明らかにしていきたい。

(4)

と考えられる。しかし、映画の導入部分において、彼の声の音質にある変化が生じ るという事実がある。更に、この変化と映像との連関により、その声が物語世界内 に属するものであるとは断言できない状況が生じる。本稿は、この特異な声を〈疑 似ヴォイス・オーヴァー〉と名付けた上で、それが語りという問題系においてどの ような意味を持つのかを探求する試みである

7

 第

1

節では、映画版の分析の前提として、原作『長いお別れ』の物語内容を確認 した上で、その他のチャンドラー小説とは区別されるような物語言説の特色を指摘 する。第

2

節では、映画『ロング・グッドバイ』における特異な声がヴォイス・

オーヴァーに擬態する過程をテクストの形式面、そしてその発話内容という二つの 側面から詳細に見ていく。第

3

節では、物語内容との関わりという観点から、その 特異な声が持つ、原作に対する批評的機能について明らかにする。以上の過程を経 て、小説の映画化における語りと声の関係という問題に関して、新たな視点を提示 する。

1|原作

『長 いお れ』 の 物語内容物語言説

 ここでは小説『長いお別れ』を、物語内容

(何を語るか)

と物語言説

(どのように語 るか)8

という二つのレヴェルから分析する。

 『長いお別れ』は、マーロウの友人であり、妻殺害の容疑がかけられたテリー・

レノックスの失踪及び「自殺」に関する謎、そしてその後に巻き起こる作家と彼の 妻に関する事件の二つを軸に展開される。次第にそれらの複雑な関連性が解きほぐ され、最終的にレノックスの自殺が偽装であったことが明かされる。レノックスの 無実を信じ続けたマーロウの行動によって事件が解決されるという、友情の物語で ある。一方で映画版では、レノックスによる裏切りが明らかになるという、原作と は正反対の結末が生じる。そこでまず、映画版との重要な差異であるマーロウとレ ノックスの関係を中心に、原作のあらすじを見ていくことにする。

 原作はマーロウが酔いつぶれたレノックスを介抱するシーンから始まる。それが

7『ロング・グッドバイ』における音楽の使用法も特殊なものであるが、それについては拙稿

「物語世界の内外をさまよう映画音楽 ─ 映画『ロング・グッドバイ』におけるその機能の分 析」(『国際文化研究紀要』第20号、2013年、133–157頁)にて論じた。

8Seymour Chatman, Story and Discourse: Narrative Structure in Fiction and Film, Ithaca and London: Cornell UP, 1980, pp. 9, 19.

(5)

きっかけで彼らは親交を深めることになる。しかしある日、レノックスがマーロウ の家に現れ、メキシコまで逃がして欲しいと言い出す。逃亡の理由を明かさないレ ノックスであったが、マーロウは無事に彼を送り届け、帰宅する。そこで彼を待っ ていたのは警察だった。レノックスの妻シルヴィア殺害の容疑がレノックスにかけ られていたのだ。従犯としてマーロウは連行されるが、彼は口を割らない。ところ が、レノックスがメキシコで自殺し、妻の殺害を認める遺書が残されていたというこ とで彼は釈放される。釈放された後、マーロウのもとにレノックスから手紙と

5000

ドル紙幣が送られてくる。

 映画版はここまでの大まかな流れを継承している。しかし、冒頭が大きく異なる。

原作の序盤

(第1章から第4章まで)

ではマーロウとレノックスの交流が描かれるが、

映画版ではそれをすべて削除した上で、代わりに、特定の銘柄の餌しか食べない飼 い猫や隣人とのやり取りに関するシーンが導入として用いられる。この点について は次節以降で詳しく論じる。

 原作のあらすじに戻ろう。マーロウは、アイリーン・ウェイドという女から、彼 女の夫でアルコール中毒の作家ロジャーの捜索を依頼されたことがきっかけで彼ら と交流を持つことになる。マーロウはアイリーンから、過去に戦死した恋人がいた ことを明かされる。しかしある日、度々情緒不安定な様子を見せていたロジャーが 命を落とす。そのとき近くにいたマーロウはアイリーンから濡れ衣を着せられるも、

事の真相を明らかにしていく。つまり、ロジャーがシルヴィアと関係を持っている ことを知ったアイリーンが二人を殺害した。そして、アイリーンの過去の恋人は戦 死してはおらず、その正体はレノックスであった。その後、アイリーンの自殺とい う形で事件は終焉を迎え、レノックスが自殺する場に居合わせたと言うメキシコ人 の男、マイオラノスがマーロウの事務所を訪れる。マーロウはその男こそが整形し たレノックスであることを見抜く。

 この要約で省略した箇所も含め、映画版の中盤から終盤の物語内容は、原作とはか なりの相違がある。マーロウとレノックスとの関係を中心に取り上げると、映画の 終盤、マーロウはメキシコにあるレノックスの隠れ家を突き止める。そこでレノッ クスとアイリーンが恋仲であり、レノックスが「邪魔者」となったシルヴィアを殺 害したことが明らかとなる

(原作同様ロジャーも死ぬことになるが、映画版では明らかに自 殺である)

。本人の口から利用されていたことを聞いたマーロウはレノックスを射殺 する。隠れ家を出たマーロウがアイリーンとすれ違うところで映画は幕を閉じる。

 このように、映画版と原作は正反対の結末を迎えることから自ずとその主題も異

(6)

なったものになっている。後の議論のためにもここで強調しておきたいのは、原作 で描かれるマーロウとレノックスの交流が映画版では削除されており、その代わり にマーロウが猫や隣人とやり取りを行うシーンが挿入されているということである。

そしてまさにこのシーンにおいて、序論でも触れたマーロウの特異な声が使用され る。つまりこの声が、映画の物語内容を原作とは異なるものへ方向付けるよう機能 しているのではないかと考えられる。この議論を深めるためにも、次に原作の語り の特色について確認しておこう。

 小説『長いお別れ』の物語言説の基本的性格として、それがマーロウを語り手と した一人称の語りで構成されており、登場人物が知りうる事柄に関して「制限され た語り」であるという点を挙げることができる。このことはマーロウを主人公=語 り手とする他の小説にも共通する。ただし『長いお別れ』は、語り手マーロウがど の時点から語っているのか、という語り手と語られる内容との時間的距離において、

その他のマーロウものとは区別される。ジェラール・ジュネットが述べているよう に、「こうした時間的距離が、そしてこの距離を埋め、これに生気を与えるものが、

物語言説の意味作用の核心をなす要素である」

9

。  『長いお別れ』は以下の文で始まる。

[マーロウ]

がはじめてテリー・レノックスに会ったとき、彼は〈ダンサーズ〉

のテラスの前のロールス・ロイス

シルヴァー・レイス

のなかで酔いつぶれ ていた。

10

そしてマイオラノス

(レノックス)

がマーロウの事務所を訪れたときに語られる、以 下の文章で幕を閉じる。

[マーロウ]

が彼

[マイオラノス/レノックス]

の姿を見たのはこのときが最後

9ジェラール・ジュネット『物語のディスクール ─ 方法論の試み』、花輪光・和泉涼一訳、

水声社、1985年、253頁。

10レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』、清水俊二訳、早川書房、1976年、5頁。原 文 は、“The first time I[Marlowe] laid eyes on Terry Lennox he was drunk in a Rolls-Royce Silver Wraith outside the terrace of The Dancers.”(Raymond Chandler, The Long Goodbye, New York:

Vintage Crime/Black Lizard, 1992, p. 3)。下線は引用者。

(7)

だった。/私はその後、事件に関係があった人間の誰とも会っていない。た だ、警官だけは別だった。警官にさよならをいう方法はいまだに発見されてい ない。

11

冒頭ではレノックスとの二度目以降の出会いが、結尾ではマイオラノスの訪問とい うこの小説における最後の出来事以降の時間がそれぞれ含意されている。つまり、

物語内のすべての出来事が完了した時点から、語り手マーロウがそれらを回想して いるのである。

 では、マーロウを主人公=語り手とするその他の小説の冒頭と結尾はどうだろう か。例えば『大いなる眠り』は、マーロウが大富豪の邸宅を訪れるところから開始 される。そこでは、その日が

10

月半ばの午前

11

時であること、日が射しておらず これから強い雨が予想されること、そして登場人物としてのマーロウの服装が順に 描写される

12

。ここでは語られている時点を描くことに重きが置かれているため、

それは

(実際には過去形であるが)

言わば「現在進行形」的な語りである。しかし結尾 では、『長いお別れ』と同じように、ヒロインであるヴィヴィアンに「二度と会うこ とはなかった」

13

と語られる。また、『さらば愛しき女よ』の冒頭は、セントラル 街に住む「人種」に関する文章から始まる。語っている時点では既にそこには黒人 が流入しているが、語られている時点では白人もまだ多く住んでおり、物語の舞台 はそのような時代背景を持つことが示される

14

。結尾では、語られている時点に おける登場人物マーロウの行動を描くのみである

15

11チャンドラー『長いお別れ』、523頁。原文は、“That[Maioranos/Lennox’s visit to Marlowe]

was the last I saw of him. / I never saw any of them[all characters in The Long Goodbye] again̶except the cops. No way has yet been invented to say goodbye to them.”(Chandler, The Long Goodbye, p. 379)。下線は引用者。

12レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』、双葉十三郎訳、東京創元社、1989年、6

Raymond Chandler, The Big Sleep, New York: Vintage Crime/Black Lizard, 1992, p. 3)。

13チャンドラー『大いなる眠り』、272頁(Chandler, The Big Sleep, p. 231)。邦訳では語って いる時点と語られている時点に隔たりを感じさせないためか、“and I never saw her again.”とい う原文が「その彼女にも、もう二度と会わないだろう。」と訳されている。しかし、本稿の文脈 ではまさにそのことが問題となるため、原文に則して過去形で訳した。

14レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』、清水俊二訳、早川書房、1976 年、5頁

Raymond Chandler, Farewell, My Lovely, London: Penguin Books, 2010, p. 1)。

15チャンドラー『さらば愛しき女よ』、358頁(Chandler, Farewell, My Lovely, p. 306)。

(8)

 このように、三作品とも冒頭か結尾の少なくともいずれかに語っている時点の痕 跡が残されており、語り手マーロウは自らが経験した過去を語っていることがわか る。従って三作品とも、「一人称の語り手は物語内容の前の時点で出来事や事物を

〈実際に〉見ているが、彼が語るその物語は事後のものであ」

16

るという、シーモ ア・チャトマンの定式に該当する。ただし個別具体的に見ていくならば、語られた 出来事と語っている時点との距離という点で、『長いお別れ』は他の二作品と明らか に異なっている。つまり、物語内の出来事がすべて終了した時点からの懐古調の語 り

17

であることを強調しているのである。それは、『長いお別れ』だけが冒頭でも 結尾でも、語られている内容が既に完了した出来事であることを示している点から もわかる。ただし、特にこのことが明白となるのは、小説の序盤において、レノッ クスの顔の疵について本人に尋ねなかった、とマーロウが語る箇所である。

もし私が尋ねて、彼が話してくれていたら、二人の人間の生命が助かっていた かもしれないのだ。かならず助かっていたとはいえないのだが。

18

この「二人の人間」とは、後にアイリーンに殺されるシルヴィアとロジャーを指す。

冒頭と結尾では、「はじめて」や「最後」といった言葉を用いることにより、その先 の時間をあくまで含意するに留まっていた。しかしここでは、物語の序盤であるに もかかわらず、終盤において明らかとなる出来事を先取りし、しかもそれを事実に 反する仮定法で表現することによって、マーロウの悔恨の念を懐古調の語りで示し ているのである。

 このように『長いお別れ』は、懐古調という語りのモードを採用していることを 強調する。『大いなる眠り』や『さらば愛しき女よ』においても過去を語っているこ

16シーモア・チャトマン『小説と映画の修辞学』、田中秀人訳、水声社、1998年、238–239 頁。

17用語として「回顧」を使用しなかったのは、それが想起する時点と想起される出来事と の間に横たわる時間的距離の長さにかかわらず、単に過去を想起することを指すからである。

従って、「懐かしむ」という語が入っていることからも分かるように、ある程度の長さの時間的 距離を含意する「懐古」を採用した。

18チャンドラー『長いお別れ』、31頁。原文は、“If I had [asked Lennox how he got his face smashed] and he[Lennox] told me, it just possibly might have saved a couple of lives. Just possibly, no more.”Chandler, The Long Goodbye, p. 22)。

(9)

とは確認できるが、語っている時点と語られる内容との時間的距離の程度は前景化 されていないため、この点が『長いお別れ』の語りの特性であると言える。

2|疑似

ヴォイス ・ オーヴァー

 序論でも触れたが、『湖中の女』は映画の大部分において主観カメラを用いた。し かし、このような「一人称映画」は、物語言説と物語内容を混同しており

19

、本来 語り手の記憶に関する問題を知覚

(視覚)

の問題へとすり替えている。もし、チャン ドラーのテクストの語りを映画で再現しようと試みるならば、マーロウは語り手及 び登場人物として、物語言説と物語内容という別々のレヴェルに属していることを 明示しなければならない。その際に有効であると考えられるのは、『ブロンドの殺人 者』のようなヴォイス・オーヴァーの使用である。それによって物語を語るマーロ ウと登場人物として画面に映し出されるマーロウとを同時に提示することが可能と なる。しかしチャトマンが言うように、「ヴォイス・オーヴァーの語り手の貢献はほ とんど常に一時的なものである。彼または彼女が文学的語り手が小説を支配するよ うに

[……]

映画を支配することは稀である」

20

。つまり、ヴォイス・オーヴァー が用いられている間であれば、その語り手と彼が操作する画面の中の世界との隔た りが明らかとなっているが、その声が途絶えてしまえばそのような隔たりを示すも のがなくなってしまい、映し出される映像が何者かによって語られているものであ ることは判然としない。それは、物語が継起しているその間中、語り手の存在が明 示される小説の語りと同等のものとしては機能しえないのである。

 序論でも述べた通り、映画『ロング・グッドバイ』ではこれらの技法は使用されて おらず、原作の語りに忠実であろうとするような態度は見られない。ただし、物語 世界外の声へと近づきながらもそこから逸脱するような特異な声を使用することに よって、原作の語りに対する言及を行う。本稿ではその声を〈疑似ヴォイス・オー ヴァー〉と呼ぶことにする。それは映画の冒頭において生じ、そこは前節でも触れ た箇所ではあるが、その発生の過程について詳しく見ていくためにも再度、確認し

19西村は、『湖中の女』におけるこうした試み、及びC・E・マニーによる「カメラのレン ズ=小説の語り手」という前提に支えられたこの映画の評価(C・E・マニー『アメリカ小説時 代』、三輪秀彦訳、竹内書店、1969年[原著は1948年]、26–28頁)に対する批判を行ってい る(西村『イメージの修辞学』、190–191頁)。

20チャトマン『小説と映画の修辞学』、220–221頁。

(10)

ておくことにする。

 深夜

3

時、腹を空かせた飼い猫が、眠っているマーロウを起こすシーンからこの 映画は始まる。マーロウは餌を与えようとするが、「カリー・ブランド」という名 のいつも与えている銘柄を切らしていることに気付く。仕方なく別の銘柄を与える も、猫はあたかも拒否するかのように餌をひっくり返してしまう。ここでショット が切り換わり、マーロウがキッチンから隣の部屋

(リヴィング・ルーム)

へやって来 る。ここから屋外にいる女の笑い声が聞こえ始める。そして彼は猫に対して、「こい つめ、俺を引っ搔いたな。追い出すぞ」と言い、ジャケットを手に取る。

 ここまでは同時録音方式がとられているため、マーロウの声は周囲の雑音と一体 化し、残響音も確認できる。しかしここで、同一ショット内で彼の声の音質に変化 が生じ、〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉が発動される。その過程は、声と映像の関係 性から三つの段階を踏んでいる。

 ①マーロウはジャケット を着ながら、猫に「着るの を手伝いたいのか ? 」とそ れまでよりも低い声で言う

1]。その際、鼻歌を歌

い、口笛を吹く。ジャケッ トを着終えたマーロウは、

隣家に住む

70

年代のヒッ

ピー文化の影響下にある裸の女たちを窓越しに見つめ、「あそこへ行って風邪をひく ぞと言ってやれ」と言う。猫が鳴くと同時に、彼はフレーム・アウトし、「カリー・

ブランドだな」という意味の台詞だけが聞こえる。カメラは女たちへと近づいてい く。この三つの台詞におけるマーロウの声には残響音がほとんどないために、それ は周囲の雑音と分離している。そのため、キッチンにいたときよりもはっきりと聞 こえ、より近い場所にあるように感じられる。ここで不自然なのは、部屋が変わっ ていない

(既にリヴィングに移動した後である)

のにもかかわらず、声の響き方に変化 が生じていること、そしてカメラがマーロウの口元を隠すかのように彼の背中を映 し続けるということである。

 ②その後、ショットが切り換わる。屋外へ出たマーロウが家の扉を閉め、ネクタ イを巻きながら歩き出す。そして「夜中の

3

時に猫に起こされ、特別な餌を買いに

[図1]ジャケットを着るマーロウ

(11)

かうマーロウを、隣家の女の一人が呼び止める。彼は彼女の方へ掌を突き出し、「静 かにしてくれ、変人ども」と言いながら彼女に歩み寄る[

4]。そしてマーロウは、

女からブラウニー・ミックスを買ってくるよう頼まれる。彼はそれを承知し、数や 種類まで聞く。そのような態度に、女は「マーロウさん、あなたは今まで一番親切 な隣人だわ」と言う。マーロウは既にエレヴェーターの方を向いており、半ば独り 言のように「親切な隣人か。何しろ私立探偵だからね。構わないさ」と呟く。この

「会話」においても、マーロウの声の音質は同じである。彼が乗ったエレヴェーター が下降したところでタイトル・クレジットへと切り換わる。

 この三つの段階におけるマーロウの声は、解釈の余地なくヴォイス・オーヴァー

[図3]タバコを咥えるマーロウ

[図4]隣人に向かって掌を差し出すマーロウ

行かなきゃならない。全 く腹が立つ。あのいかれ た猫め」と「独り言」を 呟く。ここでのマーロウ の姿は、フル・ショット からミディアム・ショッ トへ移行しながら、最初 は暗闇に浮かび上がる不 鮮明な影として映される

2]。その後、彼の表情

が見えるようになるもの の、タバコを咥えている ために口唇の動きは読み 取れない[ 図3]。更に、

屋内から屋外へ移動した のにもかかわらず、ここ でも彼の声は先ほどと同 じ 音 質 で あ る。そ の た め、屋外での呟きにして は不自然なほど声の輪郭 がはっきりとしている。

 ③エレヴェーターへ向

[図2]外出するマーロウ

(12)

ではない。しかしながら、この声が通常の台詞とは明らかに異なるようないくつか の特徴を備えていることも事実である。正確に言うならば、この声の発生源は物語 世界の内外どちらにあるのかが不分明な状態にある。本稿ではそのような曖昧な声 の使用を〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉と規定する。そしてこの声の発生源が不分 明である理由として、以下の五つのポイントが挙げられる。

i.

この状況がプレクレジット・シーンに位置づけられていること。

ii.

声に残響音がなくなるという音質の変化。

iii.

一度マーロウがフレーム・アウトするにもかかわらず彼の声は聞こえ続ける

ということ。

iv.

口元を隠そうとする演出。

v.

同一ショット内で声の音質の変化が生じていること。

i.

ii.

iii.

は、通常のヴォイス・オーヴァーの基本的な特徴である。しかし、残 りの二点が問題となる。

iv.

に関しては、ある声をヴォイス・オーヴァーとして成立 させるためには、口元を隠すというより、むしろ唇が動いていないこと

(あるいは声 と唇の動きが同期していないこと)

を積極的に示す必要がある。

v.

については、変化前 の声と変化後の声が同一ショット内に収まっているという連続性により、その変化 は認識しづらくなるという問題を孕んでいる。つまり、主人公の特異な声をヴォイ ス・オーヴァーであると決定するには根拠が不充分である。にもかかわらず、それ は、声の音質の変化や演出によって、ヴォイス・オーヴァーに擬態する声として現 れているのである。

 ところで、アルトマンは映画の音に関する実験的な試みを多く行ってきた監督で ある

21

。そのような試みは、『ロング・グッドバイ』の他の場面にも見出すことが できる。それらの箇所では、登場人物たちの映像と彼らの声が現実的動機付けに従 わず分離するために、声がその発生源としての身体に帰属するのを妨げるような効

21アルトマンの映画における音声の実験的な使用法については、以下の論文を参照のこと。

Rick Altman, “24-Track Narrative? Robert Altman’s Nashville,” CiNéMAS: revue d’études cinémato- graphiques 1, no. 3, 1991, pp. 102–125. 小野智恵「ロバート・アルトマン作品における音と物語 のプルラリズム ─ オーヴァーラッピング・ダイアローグからオーヴァーラッピング・ナラティ ヴへ」、『映画研究』4号、2009年、74–91頁。ミシェル・シオン『映画の音楽』、小沼純一・

北村真澄監訳、伊藤制子・二本木かおり訳、みすず書房、2002年、284–285頁。

(13)

果が生み出されている。第一の例としては、取調室で尋問を受けるマーロウの姿が マジックミラー越しに捉えられるシーンが挙げられる。最初、マーロウと尋問する 警官の声は、スピーカーを通じた雑音の多い音質である。しかしその後、カメラは マジックミラー越しにマーロウの顔を映し出しているままであるのにもかかわらず、

声は取調室で直接に聞こえるクリアな音質へと変化する。第二の例として挙げられ るのは、マーロウがパトカーの中でメキシコの警官に賄賂を渡し、レノックスの居 場所を聞き出すシーンである。ここで音声は車内でなされる彼らの会話を提示する が、カメラは街を走るパトカーを映し続け、彼らの顔

(口元)

は一度も映し出され ない。従って、音声と映像とがそれぞれ独立しているかのような効果が生じている。

これらの場面に見られるのは、ミシェル・シオンが論じた声と身体との分離の例で ある。第一の例は、カメラとマイクがそれぞれ異なる空間に置かれることによって、

映像と音という映画の二元性の「裂け目」

22

が露わになる瞬間である。また、「俳 優の口を画面上に見ることができなければ、聞こえてくる音

[声]

と口の動きとの時 間的な一致を証明することはできない」

23

というシオンの論の実例として、第二の 例を挙げることが可能だろう。このように、『ロング・グッドバイ』では、映画にお ける声と身体が原理的に分裂的な関係性にあり、それらの結びつきが恣意的である こと、更には口元が隠されることによって声が帰属すべき場所としての身体が喪失 される可能性が示されている。そして、冒頭で生じる〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉

もこのようなパターンのひとつであると言えるかもしれない。

 だが、〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉が提起する問題は異なる。マジックミラーや パトカーのシーンでの声は、予めマーロウとその他の登場人物との会話という形で 提示される。そのことによって、彼らの声は物語世界内に留まざるをえない。それ に対し〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉は、マーロウの「独り言」に類似した形で提 示されるがゆえに、物語世界外との境界に移動するかのような声である

(結局、その 移行は隣人との会話によって挫折してしまうのであるが)

。身体から分離した声がどこへ向 かうかが異なっているのだ。

 では、前に区別した①、②、③における〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉の発話内 容を踏まえた上で、それぞれの状況について更に詳しく見ていこう。

22Michel Chion, The Voice in Cinema, trans. Claudia Gorbman, New York: Columbia UP, 1999, p. 125.

23Chion, The Voice in Cinema, p. 126.

(14)

 ①ここでの猫への話しかけは、映画開始直後からなされる猫とのやり取りの延長 上にある。そのため、マーロウの独白として機能していないがゆえに、発話内容と いう観点からはヴォイス・オーヴァー的性格を持つとは言えない。ただし前述した ように、声の音質や、マーロウの映され方という演出の面においては既に変化が生 じている。つまり、発話内容においては前の箇所からの連続性を維持した上で、形 式面においては変化を取り入れるという、〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉の導入的役 割を担っている。

 ②ここは通常の解釈では「独り言」であるため、①よりも一層ヴォイス・オー ヴァー的様相を帯びてくる。更に、状況の説明や心情吐露といったヴォイス・オー ヴァーらしい発話内容でもある。ただし、「午前

3

時に腹を空かせた猫に起こされ た」ということも、彼が苛立っているということも、①以前の段階で既に彼自身の 発言から観客の誰もが知っていることである。ところで、コズロフが総括している ように、ヴォイス・オーヴァーに対する偏見のひとつとして、映像によって示され る情報とナレーションによって示される情報とが「重複」するという「冗長さ」が 批判されてきた

24

。ただし彼女が念頭に置いているのは、そのような「重複」が ほとんど同時に生じる場合である。一方で『ロング・グッドバイ』におけるこの状 況の「冗長さ」には、映像による情報と〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉による情報 との提示の間に時間的なズレが含まれる。そのため、コズロフがまとめているよう な「冗長さ」とは異なる種類のものである。既に提示された情報を再度提示し直す というこの過程は、先行する対象を模倣した上で新たに作り直すという営みのアナ ロジーとして考えることができる。すなわち、〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉の発話 内容のこの「冗長さ」は、通常のヴォイス・オーヴァーの「冗長さ」を模倣したも のだと言える。ただし、単に模倣の対象をそのままなぞるのではなく、その対象と の間に差異を生み出すという逆説的な方法によって対象に近づいている。

 ③これまで見てきたように、マーロウは①において〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉

を導入し、②において通常のヴォイス・オーヴァーへと近づくことによってそれを 発動させるという段階を踏んできた。ところが、③においてマーロウが隣人の女の 話しかけに応答してしまうことによって、その声は物語世界外への移行に挫折す

24Kozloff, Invisible Storytellers, pp. 19–21. このような偏見に対し、コズロフは、映像とナレー ションによる情報が相互補完的に機能している例を挙げ、原理的に両者が「重複」することは ないと反論している。

(15)

る。従って、そこでマーロウが掌を突き出し、「静かにしてくれ、変人ども」と呟く 動作は、表面上は「厄介な隣人に外出するのを邪魔された」ということを示すのだ が、本稿の文脈では「ヴォイス・オーヴァーの使用を邪魔された」という意味を生 み出している。つまり、マーロウという登場人物にヴォイス・オーヴァーを使用さ せることで、彼が

(その力は一時的なものにすぎないのではあるが)

映画の語り手となる 可能性を、映画全体の情報伝達を司る、機能としての映画的語り手

25

によって奪 われてしまうことを示しているのである。そして〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉に よる隣人との「会話」が始まる。その最後、マーロウは女の方ではなくエレヴェー ターの方を向いて、自分は私立探偵であると口にする。まるで、自分が何者である のか、自分自身に対して確認しているかのようである。このことは、通常のヴォイ ス・オーヴァーの使用に失敗した直後であるため、重要な意味を持つ。つまりこの 言明は、自分が物語世界外へ向けて物語を語れるような特権を持たず、物語世界内 に閉じ込められた登場人物の一人としての私立探偵にすぎないことを示しているの である。

 これまで見てきたように、物語世界の内部から乖離し始めたマーロウの声は、そ の外部へと接近する。だが、屋外にしては不自然なほど輪郭のはっきりとした声の まま、マーロウは物語世界内の他者の声を無視できずにそれに応答してしまう。こ のように語ることの権利を剝奪されたマーロウがエレヴェーターで下降した直後、

早速、彼には見ることができない、すなわち語ることができないシーンが訪れる。

それがマーロウの行動とのクロス・カッティングで提示される、運転するレノック スの姿である。

 マーロウが語り手となることの不可能性を前景化するこのような技法は、前節で 論じた原作の語りの特性に対する言及であると看做すことができる。次節では〈疑 似ヴォイス・オーヴァー〉について、原作小説との関係性において議論する。

3|原作

疑似 ヴォイス ・ オーヴァー

 前節で述べたように、映画『ロング・グッドバイ』における〈疑似ヴォイス・オー

25映画的語り手については、チャトマン『小説と映画の修辞学』の第八章(205–228頁)を 参照のこと。

(16)

ヴァー〉は、通常のヴォイス・オーヴァーの使用に挫折することを敢えて曝け出す。

従って、そのことは彼の声が物語世界外へ移行することの不可能性を前景化する機 能を果たしている。このように、〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉は、映画版のマーロ ウには物語世界を統制する力がないことが明らかになる瞬間である。

 一方で原作は、第

1

節で見たように、懐古調で語られることから語り手マーロウ の記憶に依拠した物語であり、物語世界は彼によって構築されたものである。従っ て語り手と語られる内容との間に時間的な隔たりがあるという前提によって、不透 明な存在としての語り手マーロウによる介在は強固なものとなる。このような意味 で、原作の語り手マーロウは、語りに関する「権威」を持つ存在だと言える。一方 で〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉は、一時的に原作の語りのように物語世界を操作 しうる力を持つ声へと変化しようとするのだが、隣人との「会話」によってそれは 失敗に終わる。つまり、映画版のマーロウには原作における語り手と同等の語りの

「権威」がないということが、まさにそのような声として

0 0 0 0 0 0 0 0 0

明らかになるのである。

 では、〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉によって示される、マーロウが語ることの不 可能性は、物語内容のレヴェルに対してどのように作用しているのだろうか。

 第

1

節で述べたように、映画『ロング・グッドバイ』と原作『長いお別れ』の物 語内容を比較する際に最も重要であるのは、エンディング、すなわちマーロウとレ ノックスとの関係性の違いである。原作における登場人物としてのマーロウは、シ ルヴィア殺害の容疑がかけられたレノックスを擁護し、警察に対して以下のように 話す。

テリー・レノックスはぼくの友だちだった。ぼくは彼が好きだった。警官に脅 されたからって、友情を裏切りたくはない。君たちは彼を犯人と睨んでいるの かもしれない。動機も充分、情況も彼に不利だし、しかも行方をくらましてる。

だが、動機と考えられてることは暗黙のうちに諒解ができていたことなんだ。

そんな諒解はほめられたことじゃないが、彼はそういう人間なんだ ─ 気が弱 くて、事を荒だてるのがきらいなんだ。

26

下線で示したように、マーロウがレノックスを擁護する根拠はこれまでの付き合い の中で知った彼の性格である。客観的な根拠もないまま、マーロウはレノックスに

26チャンドラー『長いお別れ』、58頁(Chandler, The Long Goodbye, p. 42)。下線は引用者。

(17)

肩入れし、行動していくのである。そのような彼の行動は、シルヴィアの姉リンダ が言うように感傷的なものである

27

。ただし、語り手マーロウはこの時点におい て既に結末を知っており、レノックスに対する信頼感の正当性は保証されているの である。

 映画版のマーロウもまた、レノックスに対する客観的根拠のない信頼感を抱いて おり、それを糧に行動し続ける。ただし、原作では第

1

章から第

4

章にかけて描か れるマーロウとレノックスの交流は削除されているため、友達であるからとは言え、

マーロウの行動原理はわかりにくくなっている。そしてここで着目すべきなのは、

二人の交流のエピソードの代わりに映画の冒頭として組み込まれているのが、他な らぬ〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉が用いられる、マーロウと猫及び隣人とのやり 取りに関するシーンだということである。

 ここでマーロウは猫の「わがまま」をしぶしぶ受け入れ、そのついでに隣人の頼 み事まで聞いてしまう。当然ながら猫は言葉を話さないのだから、猫が「わがまま」

を言っているということはマーロウの推測であるし、その後実際に「カリー・ブラ ンド」の餌を食べるシーンがないことから猫がそのような「意思」を持っているこ とは確認できない。ここから、彼は自分がこの物語世界において都合良く扱われて しまう立場にあることを受け入れ、自らそのように振る舞っていることがわかる

(猫 が何度か彼の身体の上に乗ることは、彼に懐いているということと同時にその優位性も示して いる)

。つまり、このような冒頭における細部が、レノックスがマーロウを利用して いたということが明かされる結末に繫がるよう機能しているのである。

 原作のマーロウは、懐古調の語り手であることによって、提示する情報を取捨選 択できる立場にある。そこで、レノックスとの交流を詳細に描くことによって、美 しい友情の物語を紡ぎ出すことが可能となる。ただしそれは、表面的な部分に過ぎ ない。なぜなら、それと同時に、懐古調の語りを用いることで、そこにレノックス を信頼していた自分の正当性を確認し、提示するようなある種の自己愛が見出され るからである。

 それに対し、映画版のマーロウは、原作のようにすべての事件が解決した後とい う特権的な場に立つことはできない。それは語り手のみが立つことができる場であ り、〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉によって彼が語り手になれないことは明らかに なっている。従って、〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉が生じた時点で既に、彼はその

27チャンドラー『長いお別れ』、216頁(Chandler, The Long Goodbye, p. 162)。

(18)

後の行動原理を生み出すような、想定されるそれまでのレノックスとの交流のエピ ソードを語りえないし、彼の主観性が介在してしまうためにフラッシュバックも使 用されないのである。

 映画の冒頭のシーンは以下の二つの観点から考えることができる。まず物語言説 のレヴェルにおいては、〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉によってマーロウから語り手 となる権限を剝奪する。そのことによって事件解決の行動原理となるようなレノッ クスとの交流のエピソードが語られなくなり、彼らの友情はこの時点において既に 不確かなものとして提示されていることになる。また、物語内容においても猫や隣 人とのやり取りから、彼が都合良く利用されてしまうことが明らかになっており、

最終的にレノックスの裏切りに遭うマーロウの物語世界における立場がここで設定 されていることになる。

 原作のように、既に物語の結末を知っている、言わば「安全な」場所から語り、

そのようにして登場人物としての自らを行動させるのとは異なり、映画版のマーロ ウは目の前に生じる出来事のひとつひとつと対峙していかねばならない。その結果、

彼の姿がときに滑稽に映し出されてしまうこともある。〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉

及びそれが使用されるシーンは、マーロウが物語言説と物語内容どちらにおいても ある種の力を持たない「弱者」的立場にあることを動機付け、友情が崩れ落ちるこ とが明らかになる結末を招き入れるように機能しているのではないだろうか。

結論

 以上、映画『ロング・グッドバイ』の〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉という、冒 頭において僅かな間だけ見られる技法が、主人公マーロウが語り手となることの不 可能性を前景化する機能を持つことを軸に、それが物語内容とどのような関係性に あるかを明らかにした。最後に、序論でも触れた小説と映画という二つの媒体の差 異という、より大きな問題についても述べる必要がある。そのためにも、ほとんど の小説において一般的に使用される「後置的な語り」

28

の特性について概観してお こう。

 ジュネットによると、発話や筆記によって語ることが可能となるのであれば、必

28ジュネットによれば、「一度でも過去時制を用いてあればそれだけで、その語りがこのタ イプに属するものであることがわかる」(ジュネット『物語のディスクール』、258頁)。

(19)

然的にその行為は時間を要する。彼はそれを語りの持続と呼ぶ。しかし、語ってい る時点での自らの身に何が生じているかを逐一報告するような語り手はほとんどい ないため、ジュネットは以下のように指摘する。「文学的語りに含まれる虚構の一 つ、言わば看過ごされてしまうがゆえにおそらくはもっとも強力な虚構とはまさに、

語る行為は時間の広がりを持たない瞬間的な行為である、ということだ」

29

。つま り「後置的な語り」は、「時間的状況

(過去の物語内容に対する)

が含まれていると同 時に、それは固有の持続を持たないのだから非時間的な本質もまたそこには存在す る」

30

という逆説によって成立している。

 このことを原作『長いお別れ』に当てはめてみると、登場人物マーロウと語り手 マーロウは本来「同一人物」であるのにもかかわらず、前者は時間性の中を生き、

後者は時間という秩序から解放された存在となってしまう。このような逆説的状況 は、小説という媒体の特性によって成立する。それは、小説が文字で書かれ、読ま れるという行為の中にあるために、実際に語り手及び登場人物の声が読者の耳に入 ることはなく、その声が帰属すべき身体も見ることができないという特性である。

そのような視聴覚における「空白」によって、語り手と登場人物が矛盾したあり方 をしているのにもかかわらず「同一人物」として結びつけられるのである。

 では、映画における物語る声としてのヴォイス・オーヴァーはどうだろうか。我々 はその声を実際に聞くことができる。そしてその声は発せられたその瞬間において 既に具現化されているため、時間性を持つ

31

。なぜならば、映画においては、発 話は時間を要する持続的な行為としてしか表象されえないからである。

 このように、ヴォイス・オーヴァーの使用では、小説における主人公=語り手の ような逆説的なあり方で存在する人物を作り出すことは原理的に不可能である。『ロ ング・グッドバイ』の〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉は、音声と映像を巧みに連関 させるという極めて映画的な方法によって、その不可能性を指摘するのである。

 アルトマンは、探偵小説の聖典として祭り上げられているチャンドラーのテクス トを翻案するにあたって、原作の語りを再現しようとはせず、かといってそのこと

29ジュネット『物語のディスクール』、260頁。

30ジュネット『物語のディスクール』、260頁。

31しかし、どの時間的、空間的位置から語っているのかが不明な場合がしばしば存在する。

その場合、ジュネットの言う語りの「持続」は生じておらず、その限りにおいて発話は非時間 的であると言える。このような、映画の声と身体に関する更に探求すべき問題については、稿 を改めて論じたい。

(20)

付記

本稿は、日本映像学会第39回大会(2013年6月2日、東京造形大学)での口頭研究発表を発 展させたものである。掲載に際し、貴重なコメントをくださった匿名の査読者の方々に感謝申 し上げます。

山本祐輝|やまもとゆうき

立教大学現代心理学研究科映像身体学専攻博士課程後期課程|映画研究

に無関心であろうともしない。媒体の差異によって小説の語り手の映画的再現が不

可能であること、その不可能性の探求が〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉によって行

われているのである。その特異な技法は、小説から映画へのアダプテーションの可

能性を広げるものであると同時に、映画における音声が、その「発生源」たる映像

を攪乱する力を秘めたものであることを例証しているのではないだろうか。

参照

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