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非文字資料はいかに認識されるか一知覚をめぐる哲学的諸問題-

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セッション Ⅰ

非文字資料をめ<・る方法論的詰問圧

非文字資料はいかに認識されるか一知覚をめぐる哲学的諸問題 ‑

的場 昭弘

は じめに

「人類文化研究のための非文字資料の体系化」とい う表題 で始め られ た神奈川大学の

C O E

の共同研究 も今年 で四年 目とな り、残す ところ後一年 となってお ります。 日本常民文化研究所 で長い間培われ た研究 を基 に出 発 した研 究テーマですが、 これ まで個別的研究が中心で、全体 と してそれ らの研 究 を どうま とめ、 どう体系 づけるか とい う点について十分な詩論がな され てこなか った とい うのが現状 です。そ こで、今年か ら理論総 括班が創設 され、理論的な体系化 をめざ して研究 を進 めるとい うことにな りま した。私はその理論総括班の

中心 メンバー として理論的課題 に取 り組む ことにな りま した。

は じめに気がついたことは、非文字資料 とは何か とい う定義について さえも唆味なままであった ことです。

文字資料以外 をすべて含む とい う漠然 とした定義で本研究が進 められた ことによ り、り巨文字資料 とは文字資 料 でない ものすべてである」 とい うことになって しまった観があ りますO それはそれで間 口が広 くていいの ですが、「人類文化研究のために」とい う課題 を遂行す るには、あれ もこれ も非文字資1.'iI・と位置づけるわけに いかな くなるわけです。人類文化研 究 と銘打 った以上、たんに非文字資料 を並べ るだけではな く、それ を ど

う解釈 し、そ こか ら何が引き出せ るか とい う方法論が提示 されなければな りません。

しか も 「体系化」 とい う言葉 に関 していえば、18世紀の 『百科全書』によ ります と、体系化 とは第‑原理 によってすべて連関 して説 明 され る もの となってお ります。すなわち、体系 とは、それぞれ の個別研究がひ とつの原理に基づいて適宜説明 され るひ とつの系列 をな しているものだ とい うことにな ります。

こ うした課題 がかな り難題 であることを承知の上で、「人類文化研究のために」機能 し、そ して 「体系化」 も可能な 「非文字」の理論的体系 を考 える作業 を以下の手順で考 えたい と思います。

まず、非文字資料 とは何か とい う定義 について考 えますO とりわけ人類 文化の中心にある文字資料 との関 係で、非文字 は どうい う機能 を持 ち うるか とい う点か ら、非文字資料の定義 をまずは考察す ることに しますO 次に文字資料お よび非文字資料 も含 めて、人類 文化は どう形成 され てきたか とい う問題 を哲学的角度か ら 見てみ ることに します。 これは人間の身体にある外部 を知覚す る嚢である五感 (視覚、聴覚、嘆覚、触覚、

味覚) といった器官、そ して人間の内部 にある精神 (霊魂、 自我)が、 どう世 界を知覚 しているか とい うプ ラ トンやア リス トテ レス以来の もっ とも古い哲学上の問題 であ り、それゆえ容易に解答が出せ る問題 ではあ りませ ん。 とはいえ、非文字資料 といった対象 を扱 う際に、その対象 を正 しく理解できるのか どうか といっ た問題 を知 ることは重要です。近年では解釈学あるいは現象学 といわれている哲学分野がそれ を行 っていま すo ある対象 を記憶 し、想起 し、それ を学問 として分析す るのに、偏見や誤謬に陥 らないで研究す ることが 可能か ど うか とい う問題 は、文字資料 における解釈学 (Hermeneutics)の問題 と並んで、注意を怠 ってはい けない問題 です。

最後に、こ うした定義 と哲学上の問題 を整理 した上で、本研究が行っている非文字資料である、「身体技法、

景観、図像」を対象にあげ、それ をど う研究 し、 どう位置づけるのか とい う問題 を提起 したい と思います。

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セッション Ⅰ

非文字資料をめ<'る方法論的詰問居

1 .非文字資料はどう定義 されるか

(1)書かれた文字 と静 され る青葉

非文字資料 とい う概念は、文字資料 との対比で使 われ ています。文化 を彩 るほ とん どが文字資料 による分 析 によって成 り立っています。 しか しなが ら、文字資料 が対象 としているのは、圧倒的に非文字資料であ り ます。非文字資料が、文字資料でない もの とい う消極的定義である以上、文字 とい うコー ド体系に置 き換 え

られ る対象の多 くは非文字資料 とい うことにな りますO

ここで文字資料 とは、人類 が記憶す るために使 う記号 (sigll)全体 を意味 します。 当然、それぞれの地域 で発展 した文法体系によって裏付 け られた コー ドを持つ文字だけではな く、数字や信号な ども含まれ ますO 人間の記憶能力が無限であれば、数字の よ うな番号付けによってすべてを記憶 し、伝達す ることが可能であ ったので しょうが、人類 は少ない単語の組み合わせ によって さまざまな内容 を伝達す るコー ドの体系をつ く りあげますO主語 と述語、それに付随す るさまざまな 目的語や補語 、修飾語 を付加す ることで数限 りない表 現を身 につけていきます。

話 されている言葉 (parole)、すなわち現在われわれが使 っている意味での会話は文字に裏づけ られた コー ドの体系になっています。学校での文字教育によって裏づけされ たわれわれの会話は、そのまま文字に転化 できるよ うな構造 を持 っているわけです。

もっとも、そ うした会話 を文章に書 き換 えた とき、やは り文章表現 とは異なる表現 に出会います 書かれ た文章は、発せ られた言乗 と違い、何度 も推赦 され、書 き直 され 、追加 され、削除 されていきます, その意 味で、書かれた文字は、た とえ他人 との会話であっても、その会話的部分は削ぎ落 とされ 、第三者‑の独 自 の よ うなスタイル にな りますo

とりわけ文字は、そ こにいる人に対 してではな く、そ こにいない人々‑発信す ることを 目的 としてお り、

そのため書 く人の個性 は制限 され、抽象的人格 として語 りかけます。 図書館 に眠 る連綿 とつづ く文字資料の 記録 は、過去 と未来の コ ミュニケーシ ョン として保存 された ものですが、その文章をい くら読んで も、書い た人の人格 な どは伝 わってきませ ん。

アメ リカの言語学者W.J.オングが 『声の文化 と文字の文化』 (藤原書店、2006年)の中で、文字は視覚 の世界であ り、話 し言葉 は聴覚の世界であると述べていますが、読み取 る側 か ら見ればま さにそ うであ りま すO文字 を読み取るには局所的に視点 を定め、ゆっくりと半ば文節 を追いなが ら見てい く必要があ ります。

それに対 して話 し言葉 は、聞 き取れ る言葉 を全体 として理解す る しかな く、理解は細かい ところに及ぶ こと はあ りませんO

そのため話 し言葉は、文法が少々おか しくとも、話す側が どんな状況にいるかに よって伝 わるよ うな総体 的な理解 を求 めます。そ うして理解 された話 し言葉は、それ をそのまま文字 として残 して もほ とん ど意味の 伝わ らない言薬 にな りますO

話 し言葉が記憶 され る場合は、記憶 しやす いよ うな韻や レ トリックを使 ったフ レー ズが好 まれ、またそれ を聴 く側 に とって もその方が、抑揚があ り臨場感 あふれた もの とな ります.。 口述で残 された話 は、読む よ り 聴 いたほ うがよくわかるのもま さにこ うした問題 と関係 しているわけです。

さてそ うした意味で文字資料が人類文化 に残 した成果には、確かに偉大な ものがあるわけですが、それ を 知 るには長い文章を丁寧 に反鶴 しなが ら読む とい うい ささか手間のかかる労苦を強い られ るわけです。若者 たちが読書を嫌 うの も、こ うした細かい理解 を要求す るか らではないで しょ うかO

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(3)

セッション Ⅰ

非文字資料をめ<'る方法論的諸問題

(2)非文字資料 とは何か

確かに話 し言葉は、書かれた ものでないことによって非文字資料のひ とつ といえないことはあ りません。

しか し、文字文化に親 しんだ世界で話 され る言葉 は、すでに文字言葉の文法によって規定 され ているので、

文字資料 と考 えられな くはあ りません。神奈川大学の非文字資料は、話 し言葉 を直接の研究対象 としてお り ません。

話 し言葉は、それを表現す る文字 を欠いた場合は別 として、文字資料 に入 るとした ら、非文字資料 とは ど うい うものを言 うのかが問題 とな ります。ひ とつ極端な例を考 えま しょう。非文字資料を、記号や数字 もま ったく含まない、文字的 コー ドの体系をまったく欠いたものと仮定 してみるのです

人間の生活に とってそれ 自体必ず しも意織す る必要のない雑多な物の集 ま りを含めて、非文字資料 と置い てみますo信号の色、身体の匂いや動作 もすべて何 らかの記号をもって、相手に何かを伝 えよ うとしていま す。 しか しここで、非文字資料 を、何 も伝 えることのない、また何 も記憶することのない、「ものそれ 自体

だ と考えてみます。 しか しそ うした ものそれ 自体の資料は、確かに今後われわれに とっての考察の対象 とな りうる可能性はあるとして も、それ を知覚 し、理解 しよ うとす る人間の行動を抜 きに しては、ほ とん ど意味 のない資料 とい うことにな ります。

そこで非文字資料 を問題 にす るとして も、ものそれ 自体ではな く人類 にとって何 らかの意味をもつ もので なければな らないことにな りますO 次にそれ 自体文字のよ うな明確 な記号や意味を表示 しないが、 しか しあ ることを示唆、暗示 しているよ うな もの、それ を非文字資料 と置 いてみま しょう。記号 としての身体動作、

音、匂 いな どはすべてこの範境に入 ります。

ある時代の明確な文法的 コー ド体系を持つ、狭い意味で書かれ た文字資料を除けば、ある種の記号を示す ものはすべてこの非文字資料の範晴に入 ります。 当然書かれた文字であって も、デザインとして文法 コー ド の体系の外にある場合 この中に入 ります。

改めて定義 しなおす と、非文字資料 を文字資料の文法 コー ドの体系以外の記号と考えるとい うことです。

もちろん記号ですか ら、たんなるものではな く、誰かが誰かに何 らかの意味を伝 えよ うとするものを意味 し ます。そ こには、 もの物 自体の体系的価値があ り、それはその時代の人にとって共通に理解 できる共通認識 でなければな りません。そ うした共通 に理解できる認織 を欠 く場合、た とえば仮につかの間の約束事 として 相互に理解 しあえるだけの場合は この範噂 に入 りません。 あくまで も、その時代、その地域の人々に とって 共通に認織 しあえる記号がそこにな くてはな らないことにな ります

こう考えると、非文字資料 とは、その資料が文字でないとい う唆味な意味ではな く、文字ではない資料だ が、何 らかの共通認織 を引き出す資料 とい うことにな ります。非文字資料が共通認織 を持つ とすれば、そ う

した共通認織 をす る側の知覚の問題が重要な論点 となってきます,

文字資料は共通認織 を行 うもっとも重要な手段です。 文字資料のテキス トの背後にさまざまな意味が隠 さ れ ていた として も、ある文法のコー ドをもっていれば、その コー ドに したがってある程度共通認織に達す る ことが可能です。た とえ古代人の文字であっても、それがわれわれの文字に置 き換 えられ うるある種の文法 構造を持 っていれば、おのず とそ こに共通 に認織 しあえる意味が発見できますo懇意的で、偶然的なもので

あれば、共通認職 に到達できませ ん。

もちろんそ こには落 とし穴があ ります。それは文字資料の場合で もそ うですが、一定の文法 コー ドをた と えもっていた として も、著者 の本来の意図を理解す ることは容易ではないか らです。すべてが明証的である

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(4)

セッション Ⅰ

非文字資料をめ<'る方法論的諸問題

ことはあ りえません。そ こにはおのず と解釈 のずれが うまれ ます。 ポス トモ ダニズムが提起 したのは、解釈 とはま さにジャ ック ・デ リダの差延 (differance)のよ うに、意味が時間的にずれなが ら、相違 をもた らす とい うことです。

文字資料に明証性が求め られない よ うに、非文字資料に も明証性が求め られ る必要は必ず しもないわけで すOむ しろ、共通認識 を超 えた何か、非文字資料が語 る時代 を超 えた何かを見出そ うとす ることも必要で し ょう。非文字 を通 じた解釈の多様性 、これは近代哲学が模索 してきた、知覚による認知の問題で もあ ります。

こ うした差延 を問題 にす るために、次に哲学的知覚の問題 を議論す ることに しま しょ う。

2 .

帯 織 す る とは ど うい うこ とか。

(1)すべての人間が物事 を正 しく知覚す るのはなぜか‑デカル トの問題

人間があることを知覚 し、理解 しえるとい うことは どうい うことであるのか とい う問題 ほ ど、哲学が長い 間取 り組 んだテーマはあ りません。哲学上認織論 (Epistemology)といわれているテーマは、人間が認織 し ていることの真偽 をめ ぐって争われた議論で、哲学の歴史その もの といって もよいテーマです。

どう外部 を知覚 (perceilre)す るか とい う問題 は、どう意識 (collSCious)す るか、そ うして記憶 (memorize) され た意識 を どう想起 (reminiscence)す るか、そ こか らどういったことが想像 (imagine)され るか とい う 問題 として議論 されてきま したO これ らの一連 の行為は、われわれが 日ごろ行 っている認識行為である と同 時に、学問的営為その ものでもあ ります。誤謬や偏見ではな く真理にいたる道は どこにあるか、厳密な意味 で絶対的な知はあるか どうか といった問題 を抜 きに して、学問の もつ科学性 な ど空虚 な こととな ります。近 代科学が 目指 した認磯 の明証性 は、こ うした行為の中にある確実なものを見つけ出 してこそ意味を持 ちますO

プラ トンは、『パイ ドン』で人間の霊魂の永遠性 を信 じ、人間 とい う身体が消滅 して も霊魂は存在す る と主 張 しますO身体 とい う五感 と脳 を失 った後 にある霊魂が存在す る とい うのはおか しな話 に も見 えますが、霊 魂 の存在のおかげで、人間が生 まれ変わった とき、過去の記憶が蘇 るときがあると述べるのです。 プラ トン が述べ る霊魂 とは、人間が外界 を認織す る ときになぜ 、理性的に理解 できるか とい う問題 に対す るひ とつの 回答 なのです。

この間題 は、17世紀 に形 を変えて復活 しますOすべての明証性 を疑ったデカル トが 『方法序説』で達 した 結論は、明証的な ものは私 が考 えるとい う事実だ と主張す るのです。認織す る主体 とは、外界 を知覚す る と きに適宜判断 して、何が寅理かを見通す役割 をす る理性 の ことです。エ ゴ (自我) を形成す る理性 こそすべ ての知覚の判断のもとにな りますO人間はいつでもどこで も理性 を持つことで、つねに外界を冷静に分析 し、

正 しく判断できるとい うわけです その場合、外界 を知覚す る五感 は、たんなる外界の壁にす ぎず、知覚 を 決定づけるものは主体たる理性 しかない とい うことにな りますO

(2)感官 を通 じた知覚‑ 18世紀の啓蒙主義

まさにデカル トこそ哲学の創始者 たるにふ さわ しい人物です。客観的に知覚す るか どうか とい う問題 よ り も、外界を知覚す る人間の判断に重点を置 いたのですか らo Lか し、彼 よ り少 し後、イギ リスのジ ョン ・ロ ックは 『人間知性論』の中で、認知 を経験的に分析 した結果、認知能力は本来前 もって人間に備 わっている のではな く、五感の働 きの中で次第 に形成 され て くるものである と、デカル トとまった く反対 の議論 を展開 します018世紀の啓嵐 思想の先駆 となる、経験論的な方法は、デカル ト的観念 あるいは理性 による認知の分

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セッション Ⅰ

非文字資料をめ<・る方法論的詰問居

析 を批判 します。

ロック、バー ク リー、 ヒュ‑ ムと流れ、やがてデイ ドロとダランベール の 『百科全書』で頂点 を迎 える知 覚の経験論的分析は、人間の認知能力は、外界か らの教育を通 じて得 られ るものだ とい うことを示 します。

言語、教育、習慣 といった後天的な側 面が、知覚 を形成す ることは、狼に育て られた少年 はなぜ人間 と して の知覚能力が もてないか とい う例 をは じめ として、西欧文明による理性的教育の優位性 と未開 と野蛮 といっ た二項対立構造 を浮 き立たせ ます。

18世紀は西欧に とって東洋‑の優位性 を確立 した時代ですが、 自らの文明を確信 した時代で もあ ります。

啓蒙的教育によって作 り出 され る教育は、文明、すなわち科学的理論 を形成 し、この科学的理論によってす べての学問は大 きな体系 として出現 します。大き く分けて、想像 をつか さどる芸術 、記憶 をつか さどる歴史、

理性 をつか さどる科学に分類 され、 この体系の中に属 さない ものは学問的系列ではない とい うことにな りま す。 しか しなが ら、 こ うした理性信仰は とき として不幸 をもた ら します。 フランスの作家 アナ トール ・フラ ンスは 『神 々の渇 き』 の中で、科学 とい う理性支配に翻弄 され るフランス革 命の人々を悲劇的に扱 っていま す0

18世紀か ら19世紀 にかけて西欧人はアジア ・アフ リカを科学的に分析す るために数多 くの画家 を連れて いきま したが、彼 らが描 いた絵 は微細で、すべてのものを細か く描かれていますC これ も科学的精度の高 さ の結果 とい うわけですが、実際にはある決 め られ た角度か ら、一定の偏見 をもって描かれ たものにす ぎませ ん。た とえば魚 を描 く場合、まるで標本のよ うにまな板 に載せ られた状態で横か ら描写 します。微細ですが、

前か ら、あるいは泳いでい る魚は描かれ ません。科学的教育を受 けた人々の視覚能力です ら一定の偏見があ るとすれば、 ものを認織す るとい うことはいったい ど うい うことなので しょう。

(3)志 向性 による知覚一現象学 とフッサール

認織 に対す るまった く新 しい問題提起、19世紀後半か ら20世紀にかけて現象学が提起す ることにな りま す が、そ うした問題の さきがけ となったのは、フランスの哲学者 メ‑ヌ ・ド・ピランで しょう。彼 は 『人間 の身体 と精神 の関係』 とい う1811年の書物の中で、18世紀 を吉匪歌 した啓蒙主義的知覚の理解 を批判 してい ますO彼 はここで、外界によって感官が感 じたものを反省す る魂の場所、内的感性 (1esentimentinterieur) とい う概念 を提示 し、再び精神の問題 を提起 したのです。

この間題 は、19世紀後半に新カン ト学派の中か ら、現象学 とい う新 しい学問を生み出す力 となっていきま すo フ ッサール に代表 され る現象学 とは どんな学問で しょう. それ はメ‑ヌ ・ド・ピランが展開 した内感の 問題 をもっと深 く研究 してい く学問で したOわれ われが知覚す る とは、たんに外部か らの影響 を受 ける とい うだけではな く、そ こにいるわれわれが知覚 され たものを反省す るとい う積極的面を含みます。 フ ッサール はこれ を志向(intention)性 とい う言葉で示 しますが、外部か ら与え られた影響 をそれぞれが志向的に反省す るとい うこと、 これ を現象学 (Phenomenologie)と呼びます。

その場に存在す る人間が、与 えられた外部の影響を受けなが らそれが何であるかを探 るわけです。その際、

それ を判断す る人間の内感 は、それぞれの 自我ではな く (この点が明確 にデカル トと違 うところですが)、彼 が生 きている社会の共同主観性 であ ります。 こ うした 自我 をフ ッサールは直観 ともいっていますが、すべて の偏見 を捨ててなおかつ人間が もっている理性的部分には、 自我 を超 えて一貫 して流れている何かがな くて はな りません。それ を超越的 自我 と置 きますが、そ うした 自我は育成 され るよ りも、存在 している事実 に重 きがあ ります。 その意味で現象学は、‑イデガ‑のよ うな存在論 (Ontlogie)‑傾斜 してい く可能性 があ り

: + I + & :

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セッション Ⅰ

非文字資料をめ<・る方法論的請間圧

ま した。

フッサールが問題 に したことは、われわれが ものを知覚す るとい うことは、客観的な物質がかってにわれ われの認織に入 って くることではない とい うことです。知覚 にはあ くまでそ こにいる人間の関わ りが必要 と されています。世界 に投げ出 された人間が、その世界で共同的主観、いいかえれば間主体的関係 に立つ こと であ り、それに よって もの‑の知覚は物質がたんに人間の脳 に反映す るほ ど単純な ものではない とい うこと にな ります。

(4)対象 と知覚す る際の現代 の諸 間居

20世紀の哲学は、18世紀に生まれ た素朴な唯物論、人間はすべて正 しく外部世界を認織 しているのだ とい う論点 を批判 した ことに大 きな貢献があ りますo もちろんフ ッサール は、素朴な科学主義 に対 してよ り厳密 な科学 を提唱 しよ うとしたのですが、逆に知覚能力に対す る懐疑論 を呼び覚 ま した ことも事実です。

素朴な科学主義が残 した負の遺産は、人間はいつでも正 しくものを知覚 しているとい うことで した。そ う した科学主義に対す る批判 の結果が、歴 史学においては実証主義批判 であ り、思想 においては西欧的オ リエ ンタ リズム的眼差 しへ の批判ですO 素朴 な実証主義によって生み出 された 「すべての世界は同 じ世界に向か って進歩 してい く」 とい う進歩 史観 が崩壊 して久 しいのですが、相変わ らず学問の方法 と しては、今なお素 朴な実証主義が支配的です。

18世紀のフランス革命の後、貴族 の所有 していた資料や美術品を収納 した り、展示す る古文書館、博物館 ができますが、そ こは人類文化の集積の場所 として栄光に輝 く場所で したO西欧的学問の栄華に裏づけされ た これ らの施設は、文化の殿堂 として、遅れ た ヨー ロ ッパ、アジア、アフ リカの文化‑の導きの星 としての 役割 を誇 ってきま した。 こ うした資料 を体系的に集 め、分析す る とい うことは学問である と同時に、ある価 値観 を押 し付けることでもあ ります。

最近新 しいアジア ・アフ リカの博物館がパ リのセーヌ川岸 のブ ロン リにできま した。 この博物館 の設立を め ぐって さまざまな議論が交わ され ま した。 フランスでは西欧文化 とそれ以外が明確 に分 け られ 、博物館の 展示において も区別 されてお ります。 西欧以外の美術品を展示す ることは一見文化的価値 を評価 しているよ うに見えますが、それは一方で西欧美術 とそれ以外 を原始芸術 (primitiveart)として区別す るとい うこと でもあ ります。 ギ リシア ・ローマか ら中世、そ して近代‑ と流れ るヨー ロ ッパ美術 にあわない ものを別の場 所 に展示す ることは、正統 と異端 とい う印象 を与 えかね ません。西欧美術 を正統 とす る価値観か らすれば、

異端の陳列にな りかねないわけです。 この間題 について、多 くの学者 たちが博物館 の設立の際議論 を した と い うことは、人類文化 を認織す るとい う行為が、今では認織 に ともな うさま ざまな価値観 を考慮す ることな く、客観的学問的営為 として実現す ることができない とい うことを意味 しています。

非文字資料 をめぐるわれ われ の研究 も、素朴な科学主義に よって、あれ これの過去の資料を機能的、分析 的に分類す るだけではすまないわけです。与え られた資料 を認織す ることは、その資料 を即物的に理解す る ことではな く、その資料が作 られたある時代の価値 を認織 し、現代 の価値基準 と比較考量す ることだか らで すo た とえばそ こに描かれ た絵 図は、はた して事実を描 いた ものなのか、寓意にす ぎないのかO細かい民具 を描いた として も、それ は 『百科全書』で述べ るよ うな、科学的に詳細な分析 図であるのか どうか。 そ うし た問題 を考慮す ることな く絵 図を分析す ることはできない とい うことです。

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セッション Ⅰ

非文字資料をめ<・る方法論的諸間席

3 . 非文字資料 としての身体技法、図像、景観

こ うした観点 を理解 した上で、われわれCOEの非文字資料研究の可能性について考 えてみま しょう。現在 coEでは、図像、身体技法、景観 を非文字資料 として研究 していますO

(1)図像

図像 の資料的媒体は絵 図であ り、中国、韓国、 日本で描かれた絵 図の中にある情報 を認織す ることにその 主眼があ ります。図像 を読み取 る知覚は視覚ですO その意味で視覚デー タは全体 と して捉 えに くい側面 をも っています。 目の視線では大 きな絵の場合、全体 を僻轍す ることが難 しいので、 ど うして も部分に焦点が定 まって しまいます。 こ うして文字 と同 じよ うに、全体 を部分、部分に細か く切 り分 け、その各部が どうい う 内容か とい う資料研究になって しまいます。

この際、非文字資料 とい う媒体である絵 図を取 り扱いなが ら、いつの間にか文字的分析手法が混入 してい ることに注意 しなけれ ばな りません。全体は個 々の部分の総体 として成 り立つ とい う発想 はおそ らく、全体 の視覚が欠落す ることか ら起 こっている問題 だ といえますO対象 は非文字であ り、その分析手法が文字的で あるとい うことが一概 に問題 であるとい うわけではあ りませんO問題 は絵 図全体が部分 に切 り分け られ、微 細な生活用晶の分析 に終始 して しま うことですO非文字資料の体系化 とい うのが、分析手法の体系化 とい う ことを含む とす るのな らば、この点の方法論的分析 を今一度検討すべ きではないで しょ うか。

文字資料 と違 って絵図の場合、全体 として見 ることができないわけではあ りません。全体か ら見 る図像学 的分析手法 を導入す ることは是非 とも必要な ことだ と思われ ますo

(2)身体技法

身体技法についてですが、その資料媒体は身体ですが、身体をそのまま把握す ることはできませんO 当然 の ことなが ら身体の勅的な姿 を分析す るには、止 まった写真では十分ではないわけです。3Dビデオカメラ を使 った研究によって、祭紀の動作 を数量的に表す研究が行われています。

身体 とい うテーマは、哲学において もミシェル ・フー コーの問題以来、きわめて今 日的テーマになってい ますO身体 と精神が不可分 なものであるとすれ ば、精神 の鍛錬は身体の鍛錬 とな りますo近代的精神は、身 体の近代化 によって生まれた。 ま さにそ うした問題 がここ30年つぎつ ぎと突 きつけ られています。

近代的な女性 の身体の出現、人種 とい う身体の出現な どさまざまな形で研究が進んでい る分野ですが、基 本 は身体 との問いが精神の問題 と不可分 に結びついていることです。精神的問題 は文字資料によって比較的 簡単にわかるのですが、身体に刻 まれた刻印は、文字資料ではわか らないO反復 され る儀礼や 訓練 され る膜 な どは、動作 をつ うじてでなければわか らない。 こ うした身体が醸 し出す内容 を、祭紀儀礼の動作の測定か

らどれ だけ導 き出せ るか とい うの も身体技法の可能性 ではないで しょ うか。

それ と身体の延長 としての民具、 とりわけ農具の研究が進 め られています。 これ も民具資料の計量的研究 ですが、民具 を通 じて見えて くる人間の動 き、 さらにそ こか ら見えるある社会の人間の役割、社会関係 な ど があると身 体論 とか らみあわせ て大 きな射程 をもつのではないか と思われます

(3)景観

景観 は、お もにこっの方向か ら進 め られていますO‑つは、地簾や災害、朝鮮半島における神社の変遷 と

+ 鵬

(8)

セッション Ⅰ

非文字資料をめ<・る方法論的諸問題

いった激 しい変化の風景、も うひ とつはある地域のゆっくりと した変化の風景です。

地業や災害は、その節後 に とられた写真や絵 といった図像デー タか ら、変化 を明 らかにす るとい うもので すが、変化の さまが激 しい分だけ、データの分析 は興味深い ものがあ ります。戦前の大陸での 日本 の神社の 遺跡 を追跡調査す る研究 も、戦前の写真 と現在の状況の比較研 究であ り、一 目瞭然の迫 力があ ります。

とはいえ、景観 とい うテーマ としてはかな り局地的であ り、非 日常的なものであ ります。 もっと日常生活 の中で景観 が ど う理解 され ているか とい う点か ら見 る 「鮭滞写真」の現在 と過去 を調査 している研究の方が 本来の趣 旨にあっているのかも しれません 海や 山 といった景観 を人々が どう見たか とい うのは、フランス の歴 史家アラン ・コルパ ンが 「風景の歴 史」 として挑戦 したテーマで もあ ります。海や 山 といった生活空間 は時代によって とらえかたが異なるわけですが、そ うした景観 に対す る人々の認織の変化 を とらえる研 究 と なれ ば非文字資料 として新 しい研究に資す るか もしれ ませんO

ただ この研究 も写寅 の場所や位置、それがいつ とられ たのか とい うデー タ処理の方 に時間が とられている 感があ り、早 くデー タの分析 、すなわちそこに住む人の生活の分析に進む必要があるよ うにも思われ ます。

結静 これか らの課唐 として

さて以上、非文字資料の研究の可能性 について、方法論的可能性か ら論 じてきま したが、新 しい研究には つねにつ きま とう問題 が浮上 していますO暗中模索の部分 と、既存の研究に足 をひっぼ られている部分ですO

「人類 文化研究のための非文字資料の体系化」 とい うのを文字通 り、既存の研 究の延長線上でのみ考 える必 要はない とい うことですO体系化 とい うのは新 しい研究方法 を開発す ることで もあ りますoその意味で、新

しい可能性 に向かって どん どん冒険 をすべ きなのではないか と思います。

特にここ30年で学問的研究方法がす っか り様変わ りしていますOこれ まで当然 と思われてきた実証研究 も、

かな り哲学的議論 を入れてや りなお さねばな らな くなっています。新 しい方法に対 してむ しろ積極的に果敢 に挑戦す る研究でいたいものです.。

十 嶋

参照

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