九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
祖先崇拝からみた沖縄的自己アイデンティティ
安達, 義弘
https://doi.org/10.11501/3135185
出版情報:Kyushu University, 1997, 博士(文学), 論文博士 バージョン:
権利関係:
祖先崇拝からみた
沖縄的自己アイデンティテイ
安 達 義 弘
祖先崇拝からみた沖縄的自己アイデンテイテイ 目次
序 章
問 題 の 所 在‑,沖縄人 J
で あ る と い う こ と ・ ・ ・ 1第 1 章
士 族 ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 成 立 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 12 第 l節古琉球から近世琉球へ・・第 l項 古 琉 球 の 成 立 過 程 ・ . . . . •
第2項 島津の琉球侵攻動機・・・・・・・・・・・・・・
第
2
節 島津の琉球支配一同化から異化へ・・第 l項 侵攻直後の同化政策・・・・・・・・
第2項 中国貿易と異化政策・・・・
第
3
節琉球王国の再建・・第 l項 琉球開閥神話と国王系譜の獲得一国史編纂事業 第2項 身 分 制 度 改 革 一 系 図 の 導 入 ・ ・
第 3項 国家による祖先の管理一系図編纂事業・
第
4
節 士族社会における門中制度の形成・・第
1
項 門中的組織の成立・・[ 1 ] r
系図座規模帳jの分析・・[ 2 ]
r
四本堂家礼J
の分析・・・・[ 3 ] r
大与座規模帳J
の分析・・・[ 4 ] r
琉球評定所余議J
の分析・・第2項 門中的祖先祭犯の成立・・
[ 1
]位牌の整備・. . • . . .[2
]祖先祭杷の実践・. . . . 第 3項 門中制度と士族アイデンティテイ・.63
・64
・73
.73 . 12 2 8 6 6 0 3 3 9 1 5 5 5
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8 1
第 2 章
士 族 ア イ デ ン テ イ テ ィ の 拡 散 ・・・・・・・ 91 第 l節f
おもろ主取家元祖由来記J
の分析・・・・・・・・・・・・・ 91 第 1項 おもろ主取家・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 92 第2項 『おもろ主取家元祖由来記J
の内容. . . . .93 第 3項 『おもろ主取家元祖由来記J
の分析・・・・・・・・・・・・1 0 1
第
2
節f
三司官伊江朝睦日日記J
の分析. . . .1 0 6
第
l
項 新たな祖先の発見・. . . . .・・・・・・・・・1 0 6
第
2
項 祖 先 祭 把 の 変 更 ・ .. . . • . . . • . .1 0 8
1
第3項 新 た な 祖 先 発 見 の 背 景 ・
第4項 士 族 社 会 に お け る 新 た な 祖 先 の 発 見 ・ 第
3
節 『子孫永々心 得 之 侍書J
の 分析・・第 l項 『子孫永々心得之侍書jの内容・
第
2
項 『子孫永々心得之{専書J
の考察・第
4
節 『家流記J
の分析・・第
1
項 序 文 と そ の 附 書 ・ ・第
2
項 うしの異常行動をめぐる経過・第3項 各 世 代 の 系 譜 お よ び 事 跡 ・ ・ ・ ・
第
4
項f
家 流 記jに み ら れ る 士 族 ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 拡 散 ・ 第5
節f
元 祖 之 儀J
の分析・・第 l項 『元祖之儀jの 内 容 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 第2項 『元祖之儀jの 考 察 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 第 6節 「位牌致焼炎侯者弁係合之者共口問」の分析・・
第
1
項 事 件 の 経 過 ・ ・ ・ ・第
2
項 正 当 性 の 根 拠 と し て の 士 族 的 制 度 ・ ・ 第7節 士 族 ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 拡 散 ・ ・第 3 章
第 l節 第
2
節 第3節 第4節「物語祖型 r o o tn a r r a t i v e J の成立
「長浜系図
J
の 成 立 ・ ‑f
琉 球 祖 先 宝 鑑jの 成 立 ・ ‑f
通 俗 琉 球 北 山 由 来 記jの 成 立 ・ ‑「物語祖型rootnarrati veJの成立・
. 1 0 9
・
1 1 1
・
1 1 3 . 1 1 3
・
1 1 5
・
1 1 7 . 1 1 8
・
1 2 3
・
1 2 6 . 1 2 8
・
1 3 1
・
1 3 1 . 1 3 7
・
1 4 0
・
1 4 0 . 1 4 1 . 1 4 4
. 1 4 7
・
148
・
1 5 1 . 1 5 5
・
1 6 0
第 4 章 沖縄的自己アイデンテイティの成立.
・・1 6 4
第
1
節 『 玉 城 間 切 冨 里 村 世 礼 知 念 原 ノ 一 門 中 元 祖 由 来 記J
の分析・・・1 6 5
第
l
項 全 体 構 成 ・ ・ ・ . . . .1 6 5
第
2
項 考 察 ・ . . . . .・・・・・1 7 4
第
2
節 『 玉 城 村 字 垣 花 知 念 ノ 新 垣 順 造 元 祖 由 来 記J
の分析・・・・・・1 7 6
第 l項 全 体 構 成 ・ ・ ・ . . . .
1 7 6
第
2
項 考 察 ・ . . . . .・・・・・1 8 0
第3節 『西銘門中之由来記
J
の 分 析 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・1 8 2
第
1
項 全 体 構 成 ・ ・ ・ . . . .1 8 2
第
2
項 考 察 ・ . . . . .・・・・・1 8 5
第
4
節 『東松田比嘉家之由来記jの 分 析 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・1 8 7
第
l
項 全 体 構 成 ・ ・ ・ . . . .1 8 7
2
第
2
項 考 察 ・ ・第 5節孫姓平田門中系譜の分析・
第 6節 易 姓 門 中 の 分 析 ・ ・
第 7節 沖縄的自己アイデンティティの成立・
. 193
・195
・200 . 203
終 章 祖 先 崇 拝 と 沖 縄 的 自 己 ア イ デ ン テ ィ テ イ ・
2073
序 立 早
問題の所在
‑1 沖縄人」であるということ‑
1879年の琉球処分によって沖縄が日本の版図に組み入れられて以来今日まで120年にな ろうとしている。その問、日本政府は沖縄に対して一貫して同化政策をとってきたし、沖 縄でも伊波普猷や大田朝敷などの代表的知識人が沖縄の大和との同化の必要性を人々に伝 えるために啓蒙活動を行った。にもかかわらず、沖縄は依然として固有の文化を保持し、
そこで暮らす人々は自らを「ヤマトンチュ(大和人)
J
と区別して「ウチナンチュ(沖縄 人)J
と呼んだ。1945年の太平洋戦争直後から沖縄は27年間にわたってアメリカの施政権下に置かれた。 その問、沖縄の人々は「祖国復帰
J
を熱望し、熱く激しい「祖国復帰還動J
によって 1972年には沖縄の本土復帰が実現した。それは日本本土で高度経済成長期の終わりを告 げることになる第 i次オイルショックが起きる前年であった。沖縄がアメリカの施政権下 に置かれている間に日本本土では高度経済成長をとげ、その過程において個性を持った地ノ
I文化は概ね衰退し、全国的規模での文化的画一化が進行した。本土復帰後の沖縄は「本 土並j のスローガンのもと、あらゆる面において本土の水準に達することを目指し、政府 もまた特別枠を設けて沖縄に対する経済的援助を行ってきた。沖縄も本土並の画一化を追 い求めたのである。そして、本土復帰後すでに25年が経過した。しかし、今でもi l '
l縄はI l i J
有文化を強く保持し、そこに暮らす人々は相変わらず自身を「ウチナンチュ
J
と呼んで、、 本土の日本人である「ヤマトンチュJ
から区別する。沖縄の人々は現在でもなお、自分が「ヤマトンチュ
J
と同じ日本人である前に第1
に「ウチナンチュ」であることをその用語 によって自己確認しているのである。しかも、この沖縄の人々の「沖縄人」としての自己意識は沖縄で暮らす「沖縄人」の中 に根強く存在するというだけでなく、本土で生まれ育った「沖縄人
J
2世のなかにまで存 在する自己認識の様式である。たとえば、大阪で生まれ育ち、沖縄では暮らした経験のな い「沖縄人J
2世までもが、自分自身が「内地」で生活しているにも関わらず、自分たち 以外の日本人を「ナイチャー(内地人)J
と呼んで区別するのである(1 )。本土の「沖 縄人J
2 世が自分たち以外の日本人を「ナイチヤ ~J と呼ぶとき、その言説を支えている のは、彼らの「われわれウチナンチュJ
という自己認識である。1 ]
11
縄の人々はなぜこんなにも強く「沖縄人」であり続けるのであろうか。しかも沖縄の 人々は自ら「沖縄人」であるという抜きがたい自己意識を持っているというだけでなく その生き方 (wayof life)において「沖縄人」なのである。つまり、現代社会においていま1
や多機な生き方の選択の可能性があるにも関わらず、 「沖縄人」には現在もなお
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存在なI
j1t1縄人としての生き万 (ukinawanway of life)Jが認められるのである。たとえば、日本全体の趨勢で、は人間関係が希薄になりつつある近年の状況にあって、 jl11 縄の人々は依然濃い人間関係を維持している 。
I
沖縄人J
の言によれば、 「人間同士の広く深い交際は本土では失われ、いまや日本で沖縄だけに残る沖縄の美風」なのである。人 間関係の密度は冠婚葬祭にどの範囲の関係者が参加するかによって測ることができるが、
jLll縄では、結婚披露宴に結婚当事者の二イトコまで出席するというのは一般的なことであ り、出席者の総数が2、3百人というのも珍しいことではない。88歳のトーカチ儀礼や 97歳のカジマヤー儀礼などの老人儀礼には結婚式以上に多くの人々が祝いに駆け付ける。 とくに汁
1 *
切虫自のカジマヤー儀礼の場合には地域をあげてお祝いをするという宵慣があり、本人が元気で、あれば地域内をパレードするということもしばしば行われる。筆者が調査し たカジマヤーの場合には祝宴に参加した人だけでも 450人という大規模のものであった。 人が亡くなった場合にも多くの関係者が弔問に訪れる。沖縄では知人の葬儀に出席しなく て「義理を欠く」ことは祝儀を欠席すること以上によくないことだと考えられている。そ のため、
i l ll
縄では、議員なと守の得票がかかっている人たちだけでなく、 一般の人々の場ム でも、新聞の死亡広告欄に日を通すことを毎朝の日課としているという人もいるほどであ る。i
jJr縄で模合が現在でも盛んであるというのも沖縄の人々の人間関係の濃密さを示して いる。とくに最近では親睦模合が盛んに行われるようになっており、その場合には模合仲 間が月に l回寄り合って、お互いの近況を確認し合うことを主たる目的としている。沖 縄 では親族模合、同窓模合、職場模合など l人で複数の親睦模合に参加しているというのが 一般的である。これらの他に、郷友会活動の活発さなどにも「沖縄人」の間で濃密な人間 関係が維持されている状況が現れている。日常生活においても日本中で画一化が進行している中にあって、沖縄には「沖縄的なも の」が多く残っている。沖縄では「ウチナーグチ
J
がいまも人々の日常用語として用いら れている。明治以来、各学校単位で方言取締令をつくり、 「方言札j を導入して標準語励 行運動が行われてきた。それにも関わらず、現在でも沖縄では「ウチナーグチ」が日常会 話に川いられ、近年では「ウチナーグチ」を積極的に奨励し、沖縄の生きた文化財として 保存しようという活動さえ見られる。琉球民謡、琉球舞踊、あるいは空手道のような沖縄で独自に発展した伝統的芸道も相変 わらず盛んで、、むしろ過剰で、はないかと思えるほどの盛況ぷりである。那覇などの都市部 ではそれらの教室や道場が数
1 0
メートルの間隔で軒を連ねているという光景も見られるほ どである。老人会や婦人会単位で教師を招いて琉球舞踊や琉球民謡を習うという光景も各 地で見ることができる。しかも、たんに伝統的演目を保存するというだけでなく、新しいものが次々に生み出されており、まさに人々の生活に根ざし生きているのである。
宗教に関してはノロを中心とした村落共同体単位の祭礼が衰退する一方で、、祖先崇打iは ますます盛んに行われるようになっている。祖先崇拝に関与しているのはユタ的職能者で ある。ユタ的職能者はしばしばその撲滅が叫ばれるにも関わらず、相変わらず沖縄社会に 強い影響を及ぼし続けている。祖先崇拝と関連して各地の聖地巡拝もますます活況を呈し つつある。また、盆行事のエイサー、綱引き、あるいは村‑芝居は芸能や観光と結びついて 再活性化している。エイサーなどは各地で地区対抗の大会が関かれ、出場者は数カ月前カ
2
ら準備に人り、連日夜遅くまで練習に打ち込む光景が各地で見られるほどである。
このようにして、 「沖縄人
J
は「本土並」を唱えつつも、自ら進んで「沖縄人としての 生き方 (ukinawanway of life)Jを選択しているのである。このような傾向は沖縄で暮ら している「沖縄人」にのみあてはまる特徴ではなく、沖縄を離れて暮らす「沖縄人J
にも 同機の傾向が認められる。沖縄から日本 本土への移住や外国への移民、あるいは就職のために一時的に沖縄を離れ る場合でも、沖縄出身者は現地で「沖縄人」だけのコミ ュニティを形成し、頻繁に連絡を 取り合うと同時に、出身地である沖縄とも密に連絡をとって強い緋を維持する傾向が強い。
大阪大正地区は沖縄出身者が集住している地域として有名であり、南米ボリピアにも
1000
人以上の住民規摸を有する沖縄人だけの入植地(I
コロニア沖縄J
)が存在する (2)。これらの典型的な地域以外でも沖縄出身者はいわば「沖縄入社会
J
を形成する傾向が強く、そこには「沖縄人としての生き方 (ukinawanway of life)Jが持ち込まれる。すなわち、
人々はU常会話にはウチナーグチを用い、沖縄料理をつくり、沖縄の伝統的な歌謡や舞踊 を楽しむのである。植民地にも沖縄的祖先崇拝が持ち込まれ、ユタ的職能者さえ現地で前 躍しているのである。配偶者の選択に際しても、他に選択の可能性があるにも関わらず、
jllr縄人同士で結婚する傾向が強い。棚原健次は、南米ペルーやアルゼンチンで生活してい る沖縄系移民の日常生活について次のように述べている。
沖縄文化を表現するような琉球民謡、舞踊、 三味線、おきなわスモ一大会の開催がそ の頻度の高いことにおいてあらわれている 。沖縄系移民たちは、うちなーぐちを日常)rJ 語として使い、また琉球民謡、舞踊大会で村芝居が行われる。一世移民の所持している 沖縄に関する民謡や映画、演劇のピデオを交換し合って観覧している。あたかも彼らは 沖縄に存在しているかのような状況に自らの生活態度をおいている。 (3 )
世界中どこにおいても沖縄からの移民者はこれと同じような状況のなかで日常生活を送っ ている。ハワイの沖縄人移民社会を調査した大田昌秀も、ハワイでも、他に選択の余地f あるにも関わらずほとんど沖縄人同士で結婚し、日常会話にはウチナーグチが用いられ、
その他にも琉球料理や琉球音楽など沖縄入社会の日常生活には「沖縄的なもの」が強く忠、
づいているという(4 )。そして、ハワイの沖縄入社会でもユタ的職能者が存在し、沖縄 的祖先崇拝が行われているのである。
I
沖縄人J
は世界中どこにいてもその生き方におい て「沖縄人」なのである。ブラジルにおける沖縄からの移民 l世を調査した棚原健次は、沖縄の地を離れて暮らす「沖縄人」がその出身地である沖縄と強い精神的鮮で結ぼれてい ることを示す事例として次のよ うに報告している。
一世移民たちは、不安ゃなにかにおびえると、郷里沖縄から持参した土を足で踏み、
束の間の郷里にしっかりと根の付いていることをイメージする。またお腹の具合が悪い と郷里の土を水に溶かして飲むことで不安を解消しようとする。 (5 )
郷里を離れた「沖縄人」は郷里の土を踏みしめることによって、精神的安定を得ようとし、
また、それを飲むことによって健康を維持しようとするというのである。沖縄を離れて幕 す「沖縄人
J
は自身の郷里である沖縄と宗教的ともいうべき粋で結ぼれていることがわ かる。1879年の琉球処分以来さまざまな同化政策が行われ、そして1972年 の 本土復帰以来
「本土並」が叫ばれ続けて四半世紀が経過した。本土では近年社会の画一化が急速に進行
3
している。観光地として発展してきた沖縄は、毎年300万人以上の本上からの波航者を受 け入れている。沖縄からも毎年ほぼ50万人が本土に渡っている。したがって、沖縄が本
J ̲ ‑
から孤立した状況に置かれているというわけでもない。にもかかわらず、 jlt,縄の人々の
n
己アイデンテイテイは依然として「日本人」である前にまず第 lに「沖縄人j なのである。 しかも、日本において「大和人」との関係においてだけでなく、世界中のどこにおいても 沖縄の人々は第 lに「沖縄人」としての自己アイデンテイティを堅持しているのである 。
このような「沖縄人」の沖縄人としての自己アイデンテイテイの堅固さは何に由来するの であろうか。
i
沖縄人J
の「沖縄人らしさ」の根底には何が存在するのであろうか。どの ような文化的仕組みの中で「沖縄人J
が創り出されるのか。筆者はこの点に関心を抱いて いる。沖縄社会の中に「沖縄人J
を「沖縄人」として創り出し続けている文化的仕組みが 存在するはずで、ある。しかも、それはi 7
Jド縄人」としての抜きがたい自己意識を刻印するようなかたちで創りあげる文化的仕組みであるはずである。その文化的イ
1
組み、すなわち、沖縄社会における「沖縄的自己アイデンテイティ」の形成過程を明らかにすることが本稿 の主な目的である
これを明らかにするために木稿において分析対象として選んだ、領域が沖縄の祖先祭犯と その初先祭杷を支えている系図(あるいは祖先由来記)である。沖縄において祖先崇拝は 系図や祖先由来記を始め、位牌制度、墓制度、門中組織、聖地巡拝などさまざまな制度物、
あるいはユタ的職能者や「系図作成家
J
などの職能者を巻き込みながら近年ますます活発 に行われている。また、沖縄内部にとどまらず、沖縄を離れて暮らす世界",の「沖縄人J
によっても第
1
に実践されている宗教的行為である。南米(ペルー・アルゼンチン・ブラ ジル)移民の77.3%の家庭で位牌が杷られているという(6 )。祖先祭紀は現在において も世界中の「沖縄人」の精神的支柱ということができる。本稿では沖縄的祖先祭犯に焦点 を当てることによって、 「沖縄的自己アイデンティティ」の形成過程を明らかにする。そこで、祖先祭紀と自己アイデンテイティの形成がいかに深く関わっているのかをまず は明らかにしておく必要がある。祖先祭杷とは子孫が自己の系譜的祖先のために祭杷を行 うという宗教行為である。それは言い換えれば、ある祖先の子孫として祭杷を行うことで ある。祖先祭犯とは子孫が祖先のために行う祭杷であると同時に、その祭杷を行うことに よって、祭記者が、自身は誰の子孫であるのかを確認する行為ということができるの祖 先 祭犯を行うことによって祭記者は誰かの子孫としての自己アイデンティティを獲得するこ
とになるのである。沖縄社会には、このようにして自己アイデンティテイが獲得される際 に
r 7 '
1t
縄人J
としての自己意識を創り出すような文化的仕組みが仕組まれているという仮 説を立て、それを証明することに努める。それを明らかにするためには、有1
先と子孫の系 譜認定に関する社会的合意がいかに沖縄社会に成立しているのかが問題とされなければな らない。本稿において系図や祖先由来記を取りあげるのもそこを照らし出すためである。 沖縄社会において祖先と子孫の系譜関係の組み替えが行われつつあることを指摘し、研 究対象として取りあげるようになったのは、1960
年代以降、多数の研究者が沖縄各地で 親族調査を行うようになってからである。沖縄地域には「門中J
と呼ばれる父系親族組織 が存在する。この門中は現在では主に祖先祭杷の単位として機能しているが、この門中に は継承規則が伴っている。すなわち、理想的な門中は長男相続、養子同門、兄弟相続の禁 止、女子相続の禁止などの相続規則を伴った厳密な父系血縁組織である。しかし、各地の4
明地調査が進むにつれ、このような門中的相続規則の社会的定着に地域的格差があること がわかってきた。概して、 首里 ・那覇を中心とした沖縄本島の南部地域ではそれらの相続 規則を満たした門中が見いだされるのに対して、そこから文化的に遠い北部山原地域や離 島などでは、相続規則が遵守されていない地域が存在していることが明らかになってきた のである。そのような門中的相続規則を伴っていない不安定な門中が見いだされる地域で は、門中的相続規則が導入されつつあることも明らかになった。しかも、門中的相続規則 を過去の系譜関係にまで適用することによって親族組織が理想的門中により近いものへと 再編成されつつあることがわかってきた。これが「門中化現象
J
と呼ばれているものであ る。たとえば、山路勝彦は渡名喜島には機能を異にする
2
種類の「門中」が存在することを 明らかにした(7 )。第 lは、村の拝所である「殿(トゥン)J
の所属を同じくするもの で、内部に父系以外からの養子や婿養子を含んだ親族組織である。第2は、 「殿」の祭犯 とは結びつかないもので、沖縄本島からの来島者(特に士族の流刑人)が島の女性との間 に男子を生んだという伝承に基づいてその父系血縁をたどり、首里を中心とした沖縄本島 の総本家に系譜を遡及しようとして形成されるものである。山路は、これらのうち後者の、沖縄本島の士族に系譜を繋ぎ止めて祖先祭犯の対象とし、その士族の門中支流に列しよう とする動きはほぼ
4
世代前から現れたものであることを明らかにした。松閤万亀雄は、座間味島で、は門中成員資格の条件についての住民の考え方が昭和10年代 に変化したという(8 )。父系以外からの養子、婿養子が
1939
年(昭和1 4
年)を境に見ら れなくなった。つまり、それまでは父兄以外の者でも門中成員として認められていたが、昭和10年代の半ば以降は父系血縁者のみを門中成員とするというように住民の意識が変わっ たという。門中的相続規則を貫徹しようとする方向へと住民の意識が変化したのである。
そして、山路が報告した渡名喜島の場合と同様、ここでも首里その他の本島出身者が養丁、
婿養子に入ったという伝承に基づいて、その実家とされる首里などの本家に系譜をたどろ うとする動向が観察されるのである。松園は、この一連の動向にユタ的職能者が密緩に関 わっていることも指摘している。
渡辺欣雄も、沖縄本島北部の田港でも近年になって「父系血縁シジ(筋)
J
を貫徹するような観念が導入されたと指摘している(9) 0 以前は父系以外からの養子、製養子が受 け入れられていたが、近年になって、ユタ的職能者や易者の指導により、養子から上の世 代とそれ以下の系譜を分離するようになってきたという。具体的には、養子から上の世代 の位!神はそれまで所属していた門中の別の家に移動して、祭杷対象から外し、養子から以 下は養子の実家の位牌を祭杷し、その門中の祖先祭犯に参加するようになる。しかも、こ こにおいても入り婿などの伝承を通して外部のより大きな家系に系譜を結びつけ、そこを 対象とした寄先祭犯を行おうとする傾向が見受けられるのである。
さらに、上原エリ子は、那覇市小禄地区の調査を通して、ここでも、父系血縁を厳密に 貫こうとする「門中イデオロギー」に基づいた系譜の変更が行われていることを明らかに した (10)。首里・那覇に近い沖縄南部地域では、より理想型に近い門中が見いだされる とされていたが、このような地域においてもユタ的職能者の指導のもとに門中的相続規則 をより厳密に適用することによって、系譜関係における不備が発見され、その修正あるい は一時的保留のための対処が行われているという。
5
i
q ,
縄社会に見られる以上のよ うな一連の動向に関して注日しておきたいのは、 I'FJq J
的相 続規則を適用して理想的な父系血縁原理を貫徹しようとすることによ って、すでに確定し ているはずの過去の系譜関係までが変更されるという点である。そのような変更によって、f
孫はそれまでとは異なる新たな祖先を獲得し、それを対象とした新たな祖先祭犯を行つ ことになる。新しい祖先の子孫としての自己アイデンティティを獲得することになるので ある。しかも、このような系譜および祭紀対象の変更が沖縄本島を中心とした至る所で進 行しているのである。門中的相続規則に基づいた系譜の変更はシジタダシ(筋正し)と呼ばれているが、シジ タダシにユタ的職能者、易者、系図作成専門家などの職能者が関わっている点にも注目し なければならない。特に、ユタ的職能者は、主に女性で、村1霊界と直接交流を行うシャマ ン的能力を獲得しているとされている。彼女たちはシジタダシを行うだけでなく、ネ111霊;の 意向を聞いたり、祖先祭犯を行うなど、祖先祭杷に関係した領域(ガンスグトゥ・元組事) 令般に関わっている 。それに対して、学者、ショミチクリ(書物繰り)、サンジンソウ (三世相)、あるいは易者などと呼ばれる主に男性の職能者も存在し、彼らはもっぱら担 先の系譜を明らかにすることを専門とする。彼らをここでは一括して「系図作成家」と│呼 んでおく 。この系図作成家は、 主に男性で、沖縄の歴史に精通していて、その知識によ っ て祖先の系譜を明らかにすると考えられている。しかし、ユタ的職能者と系凶作成家の境 界は峻味で、近年は系図作成家がユタ的職能者の領域に進山する傾向が見受けられる。
シジタダシに関連して沖縄社会には一定の災因観が共有されている。それは、祖先との 系譜関係の誤りが、祖先が子孫に「シラシ(知らせ)
J
というかたちで災難や異常体験を もたらすという災因観である。その災因観を強く持ち、 一般に流布しているのはユタ的職 能者である。祖先との間違った系譜関係は、子孫が間違った祖先祭紀を行うことにつなが るというわけである。ユタ的職能者や系図作成家がシジタダシを行う場合、彼らは依頼者の系譜関係のなかに
「タチーマジクイ(他系混交)
J
、 「チヤツチウシクミ(嫡子押し込め)J
、 「チョーデー カサバイ(兄弟重合)J
、 「イナグガンス(女性元祖)J
といった禁忌項目が混入してい ないかどうかを探るというやり方を用いる。i
タチーマジクイとJ
は、父系以外からの養子・婿養子を迎えることによって、異なった父系血縁系譜が混入することであり、 「チヤツ チウシクミ」とは、長男が何らかの理由で相続者から外されることである。本妻以外の女 性との間に生まれた男子であっても最初に生まれた男子が長男であるとされる。
i
チョー デ)カサバイ」とは、同一世代の兄弟同士で相続が行われることであり、これと関連して、イトコ同士で相続が行われる場合には「イチクカサパイ(従兄弟重合)
J
と呼ばれて、こ れも禁忌とされる。i
イナグガンス」とは、女性が相続者となったり、火性が家の創設者 になることである。系譜上にこれらの禁忌項目が存在すればそれが災難や異常体験の原閃 になるというわけである。ところが、子れらの禁忌項目は先述の門中的相続規則を禁忌項目として仕上げたもので ある。これらの禁忌項目を取り除くことが門中的相続規則に則った系譜関係を創り山すと いう関係にあるのである。このようなかたちでユタ的職能者が関わり、門中的相続規則が その災悶観と結合して禁忌項目として仕上げらているために、シジタダシにおいて観察さ れる但先との系譜関係の変更は、実行しなければ災厄が降り懸かるかもしれないというよ
6
つな感情の強制を伴ったものであることがわかる。
これまでの数多くの門中化現象に関する研究成果によ って、祖先との系譜の修正が行わ れる場合、その修正に一定のパターンがあることがわかってきている。門中化現象が進行 している現場では、シジタダシを行うことによって父系血縁を貫徹しようとすると必然的 に首里や那覇の旧士族の名門や歴史的英雄に系譜が向かうという傾向がどこにおいてもみ られるのである。しかし、門中的相続規則を適用することが、なぜ、系譜が!日上族の名門家 系に繋がることになるのであろうか。たんに門中的相続規則を適用しただけでは、いかに 厳密、に適用しようとも、沖縄中の至る所で系譜が旧士族や歴史的英雄に向かうということ はないはずで、ある。したがって、シジタダシによって祖先の系譜が一定の方向へと遡及さ れるような文化的仕組みが存在していると想定することができるだろう。その文化的イ上
* J 1
みがどのような歴史的過程の中で沖縄社会に形成されてきたのか、その仕組みによってど のような一定の系譜的パターンが創り出されているのか、そして、その結果としてどのよ
うな特徴をもった「沖縄的自己アイデンテイティ」が形成され、 「沖縄人」が今もなお
「沖縄人」であり続けているのか、を以下の手続きによって明らかにしたい。
第 l章では、近世期における士族アイデンティティの成立過程およびその特徴を明らか にする。本稿で焦点を当てようとする系図(祖先由来記)、祖先祭記、門中組織などは士 族アイデンテイテイの成立に伴って沖縄社会に成立するものだからである。しかしそれを 論ずるに先立つて、古琉球から近世琉球にかけてに沖縄社会がどのような歴史的過程のけI
に投げ込まれていたのかを明らかにしなければならない。士族アイデンティテイの内苓が、
その成立当時の沖縄社会の歴史的状況に強く規定されていると思われるからである。
第2章では、近世期に琉球王府の指導のもとに成立した士族アイデンテイテイが、王府 の力の及ばない領域で増殖し、変形しながら百姓階級にまで拡散していく状況を明らかに する。今日、 「門中化現象
J
と呼ばれている沖縄社会の至る所で確認できる現象の最初期 的動向を捉えようとしているのである。第
3
章では、士族アイデンテイテイが拡散していく状況のなかで、近世末期jから明治則 にかけて、沖縄社会に祖先の系譜の遡及に関する祖型的な物語が成立したことを明らかに する。机型的な物語とは、この時期以降各地で作成される多数の祖先由来記に一定のパター ンを提供するような物語、それ自身はかたちを持たないが、実際に創られる物語に一定の 方向性を与えるような物語のことである。本稿では、そのような物語を「物語祖型root narrativeJと呼ぶことにする。第4章では、 「物語祖型」に導かれて一定のパターンをもった自己物語が創られるよう になり、それを生きることを通して沖縄的自己アイデンテイテイが沖縄社会に形成される ようになることを、具体的事例に即して明らかにしていく 。これによって沖縄の人々は琉 球開閥神話の世界に自己の根源的出自を持つことになる。
そして、終章では、全体の要点をまとめて整理するとともに、沖縄の人々が、祖先崇拝 の世界を生きることを通して、自己のアイデンティティを沖縄文化の核に不断に繋ぎ止め
られ、それによって不断に「沖縄人
J
として生かされていることを明らかにする。ところで、本論にはいる前に、本稿で用いる「自己アイデンテイティ
J
という用語につ いて説明しておきたい。アイデンテイティという用語は、それを用いる研究者によって多 様な意味で、用いられてきている。西平直が指摘するように、アイデンテイテイという語は、7
それが組み込まれた状況のけ1で、すなわち、そのつど別いられることによって状況に応 じ た,意味を獲得してきた言葉である (11) 0 この語はもともとフロイトの精神分析論を研究 の出発点とした精神分析家エリクソンによって用いられるようになった言葉である。しか し、この語の普及者であるエリクソン自身がアイデンテイティという誌の明確な概念規定 を行っていない。たとえばエリクソンは、アイデンテイテイの語は、人間の内的世界に関 する別語として用いつつ、 一方で、は国家や民族といった集団に関する用語としても用いて いる。また、青年期という人生の一発達段階において獲得されるべき目標を意味する詰と して用いる一方で、、人生の各段階においてそのつど達成きれなければならない不断の過程 を意味する語としても用いている。さらにこの語は、マイノリテイがマジ ョリテイに対し て示す独自性を主張を意味する語として用いる一方、マジョリテイがマイノリテイを取り 込むことによって達成する状況を表す語としても用いている (12) 0
エリクソン以降、アイデンティティの語はさまざまな研究分野で用いられるようになる が、上述のような成立事情により、アイデンティティという語は各研究分野でそれぞれ独
の意味をもったものとして用いられるようになる。西平直の言を借りれば、この語は、
心理学の領域では、 「その達成が数量化されて実証的に検証可能な青年の心理特性
J
とい う意味で用いられるようになり、社会科学においては、 「人種や身分などへの帰属意識と して、歴史的社会的な客観的事実の自覚という意味」が強調されることになり、さらには、教育学の領域においては、 「規範性を帯びた目的理念」という意味で用いられることにな る、というような状況なのである (13 )。
アイデンテイテイがこのような多様性を持った用語として用いられてきた以上、本稿で これを分析概念として用いようとすれば、まずその概念規定が必要である。木稿では、
i l j '
縄的特徴をもった「自己アイデンテイティ」という意味で、 「沖縄的自己アイデンテイティ」
という用語を用い、 「自己アイデンテイティ
J
を「自分の自分としての生き方J
と規定す る。したがって、 「沖縄的自己アイデンティティ」とは、r r
沖縄人」にとっての自分の一分としての生き方」ということになる。
「自己アイデンテイティ
J
が「自分の自分としての生き方」であるという概念規定につ いてさらに説明を加える必要がある。本稿において、アイデンティティという言葉を、人 間の実存的な在り方に関わる用語として用いたいと考えている。というのも、木稿で問題 にしようとしている「沖縄人j は、前章でも述べたように、外部者が、あるいは当事者 身が自らをたんに「沖縄人J
と名付けることによって、つまりラベルによって「沖縄人」であるというよりも、その生き方において「沖縄人
J
であり、 「沖縄人」として生きると いう実践を通して「沖縄人」としての自己意識が再生産され続けているという点を強調し たいからである。「として生きる
J
という生き方はどのように獲得されうるのであろうか。r
として生き るJ
というのは、何かを手本として、あるいは何かに仮託して生きる生き方である。つま り、 「として生きる」ためには、可能性としての生き方があらかじめ本人に提示されてい なければならない。あらかじめ示された可能性としての生き方を本人が自分の生として生 きることが「として生きる」という生き方である。r
として生きる」ためにあらかじめて 不される可能性としての生き方、いわば生きるためのシナリオを本稿では「自己物語J
と 呼ぶことにする。自己物語を自分の生として生さることによって「自分の自分としてのl8
き
) f J
を獲得する ことができるのである。したがって、本稿でいう「アイデンテイティJ
とは、一つの可能性としての自己物語と自己の現実の生き方との同一性を意味している 。 ここで問題になるのは、 自己物語はどのよ うに獲得されるのか、またどのような条件を備 えている場合に自己物語は実際に生き方の指針となり うるのかということである。
人間の実存的な在り方を独自の用語を駆使して描いて見せたのはハイデガーである。そ こで、ハイ デガーのいう実存的な人間の在り方を筆者の観点から捉え直し、 自己物誌はど のように獲得されるのか、また、獲得された 自己物語がどのよ うな条件を備えているのか
を明らかにする。
ハイ デガーは、人間の本質は人聞が「関わる存在
J
であるという点にあるという (14 )。 しかも、まず中性的なものとして立ち現れた外部の事物や他人に対して、人間が何かとし て関わるというのではない。人聞は、身の周りの事物や他人から切り離され独立した、た んなる事物的存在として存在しているのではないのである。出会うときにすでに関係が成 立している。人間は、 一定の関係においてしか身の周りの事物や他人と出会うことができ ないのである。人聞はすでに成立している関係性のもとで、現に関わり、さ らに関わろ うとする存在なのである。そのような「関わる j ということを基本とした人間の在り方を、
人間以外の事物的存在と区別して、 「実存 (Existenz) Jと呼ぶ。人間が人間らしく生き るということは、周りの事物や他人との関わりのもとで生きるということである。
「関わる存在」としての l人の人間を結節点とした関係性の総体がハイデガーによ って
「 世 界 」 と 呼 ば れ る も の で あ る 。人 間 は そ れ ぞ れ 「 世 界 」 の 中 に 「 世 界 内 存 在 (In‑der‑Welt‑sein) Jとして存在している (15) 0 ここでいう「世界」は、人間の外部に 人間とは独立して存在しているとされる客体化された生活環境や社会環境というような物 理的環境世界ではなく、それぞれの人間と周りの事物や他の人間との関係性によって、必 の人間のもとに、外部に存在するものとして成立している世界である。各自は、そのよう な「世界」の中に「世界内存在」として存在するという仕方で存在しているという 。
しかも、 「世界内存在」という人間のこの在り方は、各自にその自由意志に基づいて選 びとられた在り方ではない。人間と世界があらかじめ別々に存在していて、ついで「世界 内存在」という人間の在り方が成立するというのではない。人間はつねにすでに「世界内 存在
J
という在り方においてしか存在し得ない。しかも人間は、どこから来てどこへいくのかについては何も告げられないまま、すなわち、自己の由来や目的については秘匿され たまま、現状の通りの関係性の中へとすでに投げ込まれている。人間はそのようにすでに
‑えられた自己の在り方をただ受け入れざるを得ない。そのような人間の在り方を、ハイ デガーは「投げ込まれていることJ、すなわち「被投性Gew0 rfenhei tJ と呼ぶ。人間は、
分の意志のまったく及ばないところで、既成の関係性によって一定の範囲のうちにある 状況の中にすでに繋ぎ止められているというのである。被投性は人間の在り方の受動的な 側面である。
しかし一方、人間は、否応なく被投的でありつつ、自分に与えられた可能性の範囲の巾 で、自分の生を選択し、自ら能動的に生きょうとする存在でもある。被投的制約を受けつ つも、人間は、活動主体として積極的に身の周りの事物や他人に関わろうとする。身の周 りの事物や他人に関わることによって人間は自分自身に関わるのである。そのような人間 の主体 的 能 動 的 な 在 り 方 を 、 ハ イ デ ガ ー は 「 投 げ か け る こ と 」 、 す な わ ち 「 企 投
t
9
EntwurfJ と呼ぶ。人間は、世界の中に投げ込まれつつ、その制約の中で、何者かへと主 体的に自己を企投する。企投性によって、人間は自分に与えられた可能性の
q J
から向分の可能性を自分のものとして選びとるのである。
では人間はどのように自分の可能性を選びとるのであろ うか。
ハイデガーは、人聞が世界内存在として関係性の中に投げ込まれている状況、およびそ こに含まれている可能性を当の人聞に開示する契機として、 「情状性」と「了解」とい う 人間の在り方に注目している。
「情状性j とは、人間は日常生活において、そのつど嬉しい気分、悲しい気分、憂欝な 気分などさ まざまに気分づけられていることをいう。人聞が状況の中でさまざまな気分を 持っていること、あるいは何らかの気分にさせられるというのは人間的な特徴の一つであ る。気分は外から人間の内面にやって来るものでもないし、純粋に人間の内聞に生じるも のでもない。気分は当の人聞が周りの事物や他人と関わっているということによって生じ るものである。ハイデガーが注目するのは、情状性において人間は自分が現に存在してい るという事実に出会うという点である。人聞が現に存在しているという事実が先述の「被 投性」と呼ばれているものである。したがって、情状性は、人聞が世界内存在として関係 づけられた世界に投げ込まれているという事実を開示する。自分がここにこのようにいる という被投的側面は、何らかの認識によって得られるのではなく、ぼんやりとした気分と いうかたちで当の人間に開示されるのである。
方、 「了解
J
に関して、ハイデガーは了解に「可能」という意味が合意されているこ とを指摘する。しかし、この場合の可能性とは、 「まだ現実的で、ないもJ
や「必然的ではないもの」という意味ではない。了解は、人聞が現に存在していること自体が可能性であ るということ、あるいは、人間自体が可能性として存在していることを開示する。人間は そのつど自己の可能性の一つを生きているのである。また、了解は人聞が世界内存在とし て関係性の中に投げ込まれていること自体が可能性であることを開示する。人聞が否応な く投げ込まれているという被投性の中に潜んでいる可能性を開示するのである。このよっ に了解が可能性に関わるのは、それカ詮投性という構造を持っているからである。了解は、
人間が第 I次的に可能性として存在していることを開示する。人間はさまざまな可能性の なかからそのうちの一つの可能性をそのつど選びとりつつ生きている。了解ニとはまさに人 間が自分の可能性の中からその一つをそのつど選ぴとるということに関わっているのであ る。
了解において企投された諸可能性を「として
J
という構造をもったものとして仕上げら れたものが「解釈J
である。解釈が語りとして仕上げられるとき、解釈は「物語」の形式 をとる。解釈は了解によって開示された可能性を「として」という構造を持った物語とし て仕上げたものであることが明らかになった。解釈が自分に向けられ「自分とは何であり うるか」を明らかにすることを自己解釈と呼ぶとすれば、自己解釈とは自分の可能性を「自分の自分としての物語」として獲得することであるということができる。
i
自分のう?としての物語」において、自己の被投生と企投性が物語として統合され、自分はどこか ら来たのか、自分とは何者なのか、そして、どこへ行くのかが一つの物語として統合され るのである。こうして獲得される自分の自分としての物語を、本稿では「自己物語
J
とn
ヂぶ。本稿で、いう自己物語とは、たんに自分についての物語というのではなく、世界内存在
10
としての自分の実存的な在り方に根ざしたものであり、 fi 分の一つの可能↑~t を物 JR りとし て仕上げたものである。
このような自己物語をシナリオとして獲得することによって「として生きる」生きノ
J
が 可能となる。I
として生きる」とは、自己解釈によって見いだした「自分(物語としての 白分)J
に向かつて自己を企投することである。企投することによって向己物語は完成す る。I
自分の自分としての生き方」とは、自己物語を自分の生き方として生きるという生 き方である。人間は、 「として生きる」ことによって、自己物語の中の自分に「なる」の である。そして、物語の中の自分になることによって、自己アイデンテイティを獲得する のである。注
( 1 )沖縄地域科学研究所「沖縄の県民像‑ウチナンチュとは何か‑
J
(沖縄文庫23)、ひるぎ社、1985年。
( 2) 1979年9月現在で213戸1342人の沖縄出身者が生活している。 行中縄大百科事典
J
(沖縄タイム ス社、 1983年)参照。( 3 )棚原健次「南米ペルー ・アルゼンチンの沖縄系一世移民
J
沖縄心理学会編 f沖縄の人と心j、九州 大学出版会、 1994年。( 4 )大田昌秀 f沖縄人とは何かj、greenJife、1980年。
( 5 )棚原健次「南米ブラジルの沖縄系一世移民
J
沖縄心理学会編r
ylll縄の人と心j、九州大学出版会、1994年。
( 6 )沖縄地域科学研究所「沖縄の県民像‑ウチナンチュとは何か‑
J
(沖縄文庫23)、ひるぎ社、1985年。
( 7 )山路勝彦「沖縄 ・渡名喜島の門中についての予備的報告
J r
日本民俗学J
54、1967年。同[沖縄 小離島村落における<門中>形成の動態‑粟国島における父系親族体系としての<門中>の若干の考察‑ J
I民族学研究
J
33‑1、1968年。( 8 )松園万亀雄「沖縄座間味島の門中組織
J r
日本民俗学J
71、1970年。( 9 )渡辺欣雄「沖縄北部一農村の社会組織と世界観一大宜味村田港の事例
‑J r
民族学研究j第36巻 第2号、 1971年(再録、 「社会組織と宗教的世界観一回港の事例‑J r
沖縄の社会組織と世界観j、新泉 社、 1985年)。( 10)上原エリ子「民間益者と門中化との関係をめぐる一考察一位牌祭把上の禁忌の問題を中心に
‑ J
窪徳忠先生沖縄調査二十年記念論文集刊行委員会編
r
(窪徳忠先生沖縄調査二十年記念論文集)沖縄の宗教 と民俗j、第一書房、 1988年。(1 1 )西平直 fエリクソンの人間学j、東京大学出版会、 1993年。 (1 2 )西平直、前掲書、 1993年、参照。
(13)西平直、前掲書、 1993年。
(14) Martin Heidegger,Sein und Zei,tMax Niemeyer Verlag,Tubinge叫 953̲(原佑 ・渡辺二郎 訳 f存在と時 間j、原佑責任編集「ハイデガー
J
(世界の名著74)、中央公論社、 19910(1 5) Martin Heidegger、前掲書、 1953年。
11
第 l 章
士 族 ア イ デ ン テ イ テ イ の 成 立
第 1節 古 琉 球 か ら 近 世 琉 球 へ
第
l 項 古 琉 球 の 成 立 過 程
沖縄列島各地にグスクと呼ばれる石垣囲いの城郭様建造物が造られるように12世紀以降 1609年の島津氏による琉球侵攻までが「古琉球」と呼ばれているが、古琉球は沖縄社会 の文化的型が形成された時代である。古琉球時代に、今日の奄美から先島に至る烏興地域 を覆う独自の政権が形成されるとともに、 一定のまとまりをもった文化圏が成立した。す なわち、政治的には、群雄割拠や三山鼎立の時代を経て、琉球王国(中山王国)が独立医 家として成立した時代であり、経済的には、環シナ海を舞台に積極的な国際交易が展開さ れた時代であり、そして文化的には、奄美から先島に至る島興地域に一定の「文化の型」
が形成された。古琉球は沖縄が沖縄としてのまとまりを形成するようになる時代なのであ る。
本項では、古琉球がどのような基盤の上に成立した時代であったのか、その成立の担い 手は誰であったのか、そして、具体的にどのような内容を持った時代であったのかを明ら かにするとともに、古琉球がその後の歴史にどのような枠組みを提供したのかも探りたい。
[ 1 ] 琉球王国成立期の沖縄社会 ( 1 )
古琉球前期の沖縄社会小規模グスクの成立期が古琉球時代の始期とされているが、それは12世紀にさかのぼるn
13世紀にはいると、単郭構成の小規模ク・スクにかわって多郭構成の城塞的大規模グスクが 各地に出現するようになる。グスク時代の特徴の一つは、各地の遺跡から中国陶磁がまと
まって出土するという点である。知念勇は、 1983年現在わかっている沖縄本島とその周 辺離島地域における225カ所の中国陶磁出土分布を示した(1) 0 中国陶磁の出土状況は
12
大規模グスク時代にはいると飛躍的に増え、しかも種類の阿一化が進む (2)。
たとえば、1458年に中山王尚泰久に攻め滅ぼされるまで大きな勢力を誇ったとされる阿 麻和利ゆかりの勝連グスクからは、良質の陶磁器ばかりが、大量に出土する。年代的に14
1
崎紀前半から明代前半にかけてのものに限られ、 13世紀に遡る資料は見山し得ない。これ は勝連グスクの短期的繁栄を想定させるものである。矢部良明は、勝連グスクilil‑.の元総 式青花磁器をおもに取り上げながら、大型グスク時代の沖縄の文化的高さを指摘する(3 )。 すなわち、矢部は、当時の李朝においては一個が米豆20石にも相当すると考えられたほど、同際的に高い価値が与えられている元様式青花磁器が、日本の中では沖縄において集中的 に
I U
土すること、しかも小型の雑品ではなくて、典型的な大作ばかりが山J
こすること、さらに、それらが交易品としてではなく富裕階層の晴好品として保持されていたらしいこと を示しながら、当時の沖縄の文化的な高さと繁栄を指摘している(4) 0 浦添グスクは、
14世紀後半には明への初朝貢を果たした中山王察度の居城として使われたものであるが、
この最下層の地層からは南宋から元代にかけての青磁、白磁が出土しており、これらは山 一位相の状況から14世紀中葉以前にさかのぼる中国陶磁と考えられる(5 )。佐敷グスク は、 15世紀の初めに三山統一に成功した第一尚氏尚思紹、尚巴志父子の最初の居城とされ ているが、この佐敷グスクからも14世紀前半以前に遡る中国陶磁が出土している。 (6 )。 今帰仁グスクは、 15世紀初めに北山禁安知が中山に滅ぼされるまでその居減であったが、
この今帰仁グスクからも13世紀後半にまで遡る青磁の輪花碗や鏑蓮弁文碗が出土している
( 7 )。
沖縄への中国陶磁の流入は、 14世紀後半における琉球と中固との正式国交成立以降急速 に増大するものと思われるが、上述のように、それ以前からすでに中国陶磁は沖縄に受容 されていたのである。亀井明徳は、 1986年現在わかっている沖縄・奄美地域における 14 世紀中葉以前の中国陶磁出土地を22カ所あげている(表1・1参照) ( 8 )。このうち恩納村 熱山貝塚からは、白磁や青磁の中国陶磁が、徳之島カムイヤキ系須恵器や石鍋と共十I~ して
a ' J
土し、 12世紀中葉にさかのぼるあり方を示している。我謝遺跡H地点もそれと同様の遺 物構成を示している。稲福遺跡出土の中国陶磁は12世紀後半から14世紀後半の間に位樟 づけられるが、中心は13世紀にあるとみられる。ここでも徳之島カムイヤキ系須恵、器や滑 石片と共伴して出土する。屋良グスクや野グスクなども 13世紀の青磁が出土する。これら14世紀中葉以前の中国陶磁が出土する遺跡の状況をまとめると次のように整理す ることができそうである。第 lに、 14世紀中葉以前の中国陶磁が出土する遺跡の多くはグ スク、あるいはグスク関連遺跡である。第
2
に、遺物包含地層に関して、中国陶磁はグス クの創建時期と見られる地層にもすでに含まれている。第3
に、遺物の年代に関して、沖 縄で山土する中国陶磁は一部12世紀のものを含むが、概して13世紀以降のものである。 第4
に、共伴遺物に関して、徳之島カムイヤキ系須恵器、九州産の石鍋や鉄器、滑石、お よびフェンサ上層式土器を共伴する場合があり、それらは12
世紀にさかのぼるあり方を 示している。第5
に、遺跡の分布範囲に関して、 13世紀から14世紀中葉の中国陶磁を/IJ'土する遺跡群は奄美から先烏地域にいたる広範囲に渡って分布している。
このように整理すると、 13世紀の段階で奄美から先烏にいたる沖縄の全地域を巻き込ん だ形での中国との私貿易が成立していたことが明らかになってくる。沖縄地域が中国と本 方面との貿易中継的役割を果たしていたということを想定することもできそうである。
13
表1‑1 14世紀中葉以前の中国陶磁出土遺跡 遺 跡 名
ピロースク遺跡 山原貝塚
野グスク 南 山 城
破那城古島遺跡 糸数グスク B地点 佐敷グスク
稲 福 遺 跡
我謝遺跡H地点 我謝遺跡
E
地点 浦添グスク 牧 港 貝 塚 穴 久 原 遺 跡 親 富 祖 遺 跡 ヒニグスク北谷グスク二の郭 竹 下 遺 跡
屋良グスク 伊 波 後 原 遺 跡 熱 田 貝 塚 尾我グスク 今帰仁グスク 伊津部勝グスク 一一ひらき山グスク 字 宿 貝 塚
ro'‑:・宿高又遺跡 城 遺 跡
所 在
石垣市字新川 石垣市字登野城 宮古郡城辺町福北 糸満市字大里1901
地
島尻郡具志頭村字具志頭小字前原也 島尻郡玉城 村 字 糸 数
島尻郡佐敷村佐敷
島尻郡大里村字稲福小字稲福原 中頭村西原村我謝
中頭村西原村我謝 浦添市大字仲間城原 浦添市牧港
浦添市字伊祖小字真久原 浦添市字屋富祖
中頭郡北中城村喜舎場獄原 中頭郡北谷町字グスク原 沖縄市松本、竹下原 中頭郡嘉手納町字屋良 石川市字伊波
国頭郡恩納村大字安富祖字熱田 名護市屋我地
国頭郡今帰仁村今泊 名瀬市伊津部勝 大島郡奄郷村
大島郡笠利町字宿大箆 大島郡笠利Hr
J
字 宿 高 又 大島郡笠利町万屋字城亀井は、 13世紀を中心として沖縄各地で
t H
土している中国陶磁の斉一性に注目して、当時 の沖縄では売り手主導的交易状況が出現していたと分析している (9 )。知念勇は、 jll'縄 と中国の私貿易は12世紀から徴候が現れ、 13世紀には確実に交易関係が成立し、さらに、その私貿易の蓄積の上に1372年に始まる中国との公的朝貢関係が成立したと述べている
このような沖縄地域出土の中国陶磁に関する考古学的知見を裏付ける文献資料の発摘に 関して、曹永和は興味深い議論を展開している (11)。つまり、 1372年の琉球とl列との初 貢体制成立以前の中国側文献資料にでてくる「流求(あるいは琉球、瑠求)
J
は、従来、それが台湾側の「流求」を指しているのか、それとも沖縄側の「流求」を指しているのか が問題となり、議論が分かれてきた。しかし、沖縄の近年の考古学的研究成果を考慮に入 れながらそれぞれの「流求」に関する記述内容を吟味することによって、 「台湾」に関す る記事と「沖縄
J
に関する記事を仕分けることが可能であるという 。すなわち、i l l '
縄にお ける中国陶磁の出土は、その背景として外部との何らかの交易関係が成立していたことを 予想させるものであるから、それを手がかりにして両者の仕分けが可能で、あるというので ある。たとえば、 『随書j、 『諸番志j、
f
文献通考J
、 『宋史J
に出てくる「流求(琉球)J
に関する記述はすべて、基本的には『随書j流求伝を踏襲している。すなわち、いずれに も、 「産無奇貨
J
(産に奇貨なし)、地元民は「尤好剰掠J
(尤も剰掠を好み)、故に「商買不通
J J
(商貫通ぜ、ず)と記されており、これらは当時の台湾地域に相当する記述 内容であるという (12)0 それに対して、唐代 (618""907)の柳宗元の「嶺南節度使饗軍 堂記」には、上述の諸書とは異なり、嶺南と往来関係にある「流求」の姿が記されており、記されている「流求j は沖縄地域に関する記述と考えることができるという (13)。この ような曹の観点に依拠しながら、中国文献に記されている14世紀以前の沖縄の姿を追って みたい。
北宋時代 (960~1127) の察裏撰『嘉枝譜J 第三には、福州、|で生産された姦枝(れいし) の販売に関する記述がみられるが、その海‑外販売ル)トのなかに「流求」が新羅、日本と
ともに含まれている (14) 0 この記述によって、北宋時代には il~' 縄は中国福州との聞に交 易関係が成立しており、しかも、福州、新緑、日本、琉球が一つの東シナ海交易闘を形成 していたと考えることができる。李復撰『橘水集j は11世紀末か12世紀始めの撰集と忠 われるが、その巻五「輿喬叔彦通判」には当時の「流求国」について「其国別置自問玲海隅、
以待中華之客
J
という記述が見えている (15)0 これによって当時の沖縄では中国人を政: 待するための館が設置されていたことがわかる。それは、当時の沖縄への中国人の往来f 定期化し確立していたことを示しており、また、中国と沖縄の交易のあり方に関して、i l l '
縄人が中国へ出向いたというよりも、中国商人が沖縄に出向いての交易が主流を占めてい たという両者の交易関係を想定させるものである。元の蘇天爵輯『国朝文類j巻四「楽府 歌行」に宋本作の「舶上謡」十首が載っている (16)0 これは1320年に詠まれたものであ り、そこには、元の使節伯庸が流求、真蝋(カンボ、ジア)、日本、辰韓を訪問したこと、
「琉球」が閣婆と交流していたこと、あるいは薫陸、胡板、明珠、象牙など南方産の品々 が交易品として用いられていたことが記されている 。元末の1341年に書かれた [侃玉斎 類藁j巻四の「送王庭訓赴恵州照磨序」には、当時の沖縄が嶺南との交易に関わっている
14