Title
評定所文書覚書(1) : 進貢船と媽祖像
Author(s)
小野, まさ子
Citation
浦添市立図書館紀要 = Bulletin of the Urasoe City
Library(1): 37-45
Issue Date
1989-12-25
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/20285
評定所文書覚書(1)
一 一 進 貢 船 と 婿 祖 像 一 一 一 はじめに 沖縄は、周聞に広がる海洋を乗り越え、利用してい くことで国内を統一し、また対外的にも14-15世紀
にかけての「大交易時代jと称される貿易の時代を 築き挙げてきた。中でも中闘との関係は深く 1372年 から1
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7
9
年までの間、冊封・朝貢という形で政治的 にも経済的にも重要に関わっていた。 冊封は、琉球においては、琉球側の要請を受けて中 国皇帝より琉球国に封ずる旨の勅書をもたらす中国 側からの使節としてあり、一方進貢は琉球国王が総 主国である中国に対して貢物を進献することである。 進貢使と称される使節が皇帝への表文と貢物を装載 し、また波底銀と称される持渡り銀による質物やそ れぞれの乗組員に許可されたスペースを利用して持 渡った貿易品を売却して、中国で商物を買い求める、 公的にも私的にもE
重要な航海であった。以後に接貢 船という進貢使の迎えの役割を持つ船も登場するし、 また朝鮮や中国からの漂着船があったときに特別に 準備される仕立て船、他方琉球近海航行の船が漂着 して中国沿岸に圭IJるものなど、さまざまな船が往米 していた。その中でも進貢船や接貢船を含む渡唐船 は、季節によって変わる風を利用し、片道平均1
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日-30
日の航海で中国へ至ったとされる。しかし、当 時の航海技術を持つては、交易の旅は必ずしも/1国風 満帆というわけにはいかず、唐旅つまり中国への旅 と言う言葉が死出の旅と同義で使われることもある ように、海の藻隠とさえてしまう例を始め、進路を 反れたり、漂着したりして着くべき港への入港が遅 れるもの、また反対に琉球への帰国の時期の遅れる ものも少なくなかった。 αこのようなとき人々は何に 小 野 ま さ 子 我が身の無事を駁い祈ったのであろうか。琉球固有 のオナリ神信仰などと共に、中国からもたらされた天 妃信仰ω
馬祖信仰)もその一つであったのだろうか。 天妃信仰の発生と琉球への伝来 沖縄で航海守護神として信仰された天妃は中国で は嬬祖と言われ、中国宋代に福建の甫白地方に発祥 した女神の民間における通称である。その後元末に 天妃、治初に天后として中国の朝廷に取り入れられ た。嬬祖の発祥当初は、地方の民間信仰としての単 なる郷土的ー亙認であった。しかし、福建地方は港 が発達しており、船乗りが多かったために航海守護 神化し、以降は海運に依存する歴代朝廷の重視と優 待を受けて、南宋から元初には全国的な信仰として 広がった。その後この信仰は、福建を中心として外 洋との交通の中で明代に台湾・琉球・朝鮮・日本な と全アジアへ広がっていった。発祥当初から伝播の 時期までに女から神女または官官女へと性格も変わり、 地位も上がっていった。また、出自も当初は不明で あったものに、林氏の娘または宋都巡検使林思の女 との設が加わり、他にも多くの俗説が付け加えられ ていった。以前からの航海守護神であった龍神信仰 や海上生活者の信仰の対象となっていた補陀大士の 信仰などが加わったのもその例である。そして、進 貢船にも見られるような使船に鰐m
像を載せていく という慣習は元代に出来上がり、明代の初永楽帝の 命を受けた鄭和の西征において、難船を救助した説 話が評判となり、鰯祖信仰は更に一般化されていく。 明代以降、海禁政策を取った中国において航海が制 限され、婿祖の価伎は低下したが、一方琉球等の冊 -37-封と進貢を主とした草月貢貿易における航海において、 婿姐の新たな活躍が始まったのである。このように、 琉球に伝わる頃には海上守護神としての嫡姐つまり 天妃がすでに形つくられていた。 では、実際に琉球にはどの様にして天妃信仰が伝 来したのであろうか。琉球は中山王察度の代に中国 との正式な通交をはじめ、それに付随した貿易の中 で、通訳や文書の草案を作るような文書技術者や船 を操縦したり、修理したりするための航海技術者集 団を必要とした。それに応える形で福建を中心とし た地域からいくつかの集団が渡米した。つまり、現 在久米三十六姓と称されている人々の移住がそれに あたる。彼らは技術のみでなく、生活習慣や、民間 の信仰等も持ち込んできた。天妃信仰もまずはこの ような民間レベルでもたらされた信仰である。それ が、中国朝廷の信仰と保護を始めとした天妃信仰の 隆盛の中で、琉球も国王を始めとする王]府組織の中 での信仰となり、航海守護神として公的に支持され るようになった。@ 沖縄には、上・下の天妃宮があった。しかし、どち らにも1712年段階で既に釦
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健年代カ〈はっきりしなく なっており、下天妃;'5は廟内に残っていた一片の│日 板の文字「永楽2
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年J
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(14
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があったことや、廟 に掛けられていた鐘の銘に「景泰丁丑年ム(天順元年 ~ 1457)とあったところから、永楽年間に造られた のであろうこと、また上天妃宮は遺老説伝に下天妃 宮より後に創健されたとある記述や、景泰八年鋳造 の鍍銘により、下天妃宮より後に造られるが促し、そ れほど年代の隔たったものでなく、宣徳・正統の閣 に創健されたのではないかという見解が述られるも、 しかしながら、一方杜公録など他文献よりは年代に 矛盾が見られるなどと注記しである。つまり、信仰 として入った形は残るもののはっきりとした年代は 不明ということになる。 この上下天妃宮は、単に久米村内や琉球内での拝礼 や儀式が行われたのみでなく、冊封船の来琉の時に は使節一行が安全の祈願や謝礼をした乙と、冊封船 に載せた天妃像を、琉球滞在中 は上之天妃宮に安置していることなどがれわ山伝信 録J
等の冊封使録に見られたりするように、対外的 にも広く使われていたし、一方琉球の外交文書集で ある「歴代宝案J
が保管・再編集される場となった り、eまた幕末異国船が訪れるようになると、カムフ ラージュの為であろうか、親見世という役所等が暫 く移転したりする。e本来の天妃が象徴する以上に、 近世を通して琉球と海外とのつながりを見るときに 重要な場所として位霞づけられていた。 鎌倉芳太郎 『沖縄文化の遺宝j写真 1982岩波書庖 この雨天妃宮には天妃像が祭られ、「毎年、正月初 四日下天・五月初五日佳節・九月初九日使節・十一 月冬至・十二月二十四日上天之時、例祭物を供う。毎 年三月二十三日生誕之時、例の祭物を供う。大夫よ り以って若秀才に至り、皆天妃経を諭す。又、二・三・ 八月、祈福之時、例の御花・沼・香・燈等の物を供 う。毎月朔襲、伊!の燈乙対を供う。毎年正月元日、毎 廟例の月餅八盤を供品。主主十三日より十九日に至り、 毎繍例の燈卜個を供}う。右供物之数、詳かに定手形 に見ゆ。 J~ とあるようにさまざまな祭紀が行われて いた。進貢船に関する祭柁 天妃宮に祭られている天妃像は、菩縫・ほうさなと とも呼ばれ、航海守護神として進貢船なとの出航の ときには、像を船へ載せる各種の儀式があった。 久米村では、「貢船
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詞洋之日より七ケ日に至り、天 妃二階i
にて、大夫より若秀才に至り、香を焼吉、天 妃経を読す。拝し暴りて、天尊・龍王二廟にて、香 を焼き拝礼す。其次日より、翼船帰国に至る毎日、大 夫以下、若秀才、及郷官士、更番して四絢に拝礼す。J
.
とあるように、進賞船の出発の時から7日間は、久米 村の大夫以下の人々によって上下の尚天妃廟で香を 焼き、天妃経という経を読み、以降j韮貴船の帰国の 日までは大夫以下が交代で拝礼を行っている。これ らの儀式は、琉球内でのみ行われたのではなく、中 国にある琉球館においても向様に行われたであるう ことは、琉球館内に菩薩御殿があって、その勧進銀 をもって館内の菩薩御殿の修理や位牌殿の建立など を行っている状況からも推測できる。 一方、対するi
草貢船においても天妃像を廟から勧 詰して搭載し、帰属返還するまでの問、同様の儀式 が行われた。次項にある菩薩御たかべ等もその一つ である。が、その実体は当然、の事として諮られなが らも、細部に至っては不明である。そこで年代は18 世紀から1
9
世紀にかけてと新しいのだが、評定所文 書の中の漂着日記や進貢船仕出臼記等から、近世却J
の波唐船中での天妃像に関する記述を拾いながら、 考えていきたい。 天妃像の歓請と搭載 進貢船の準備は船が出発する約半年前の、乗組員の 割り当てからが始められる。道光2
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年(18
4
4
)
の 「進貢船仕出日記」では、船は9
月2
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日に出発したが、 日記の記述は2月18日に始まっている。この2月の 持期には@以下のように全体に渉る準備計画がたて られる。 覚 一旅御拝 ー菩薩御たかへ 39 -一順干し ー鉄砲稽古 右、五月中 一三平等之御願 一審詞 一唐船御名付 ー菩薩御乗船 一御茶飯 右、六月中 一上表波 ー御銀波 一太荷改 ー采船 右、七月中 右月紙之通被仰付被下皮奉存候。以上。 辰二月 上問 この間に乗船役人達の実務としては、5月切旧から の大宿誌に始まり、 5月 106までに諸座諸蔵街l注文 銀や諸土免銀・注文代銀の受け取り、 15臼までの宮 府物(公的買物銀)などの受け取りが予定される。大 宿とは模擬航海ともいえる合宿生活で、すべてを海 上の生活の予備期Fs9として行動するために、大唐船・ 小胎船と各船ごとのグループに分かれ、さらに小集 団としての与に分かれている00この合宿生活は9月3
日の実際の乗船までの問、約5
箆月に亙って続けら れるのだが、上記の様々な儀式もその集団の中で行 われたものである。ここではその中で菩薩像(天妃 像)に関するものだけを計画に沿って臼記から拾い 上げてみよう。。 5月7日の項に、以下のような又がある。-4E
薩御たかへ日撰妻、役者より日帳主取島袋親 雲上取次空E
出候付、見届、今月十二日星差相渡候事。 菩薩御たかへの儀式を行うための日援を5JH
臼に 行い、 5fj12日に決定したという内容の又である。 王府で祭化等の行事を行うときには、まず吉日なと それに適する日を選ぶことから始まるのだが、では、 なぜ菩薩御たかべの日撰のBが5月7日だったのであ ろうか。河7日付けでのもう一つの文書がある叫党 此節渡唐小唐船之儀、与那城筑登之親雲上奉安置 候菩薩加那志、勧誘仕候様被仰付被下度奉存候。此 旨被仰上可被下候。以上。 {下略) 小唐船の菩薩加那志(天妃像)は、与那城筑塁手之籾 雲上が安置しているものを勧請させて欲しいという 内容のもので、小唐船之船頭以下渡唐役人が連署し て提出している。この両文書が向ーの臼に出されて いることから、菩薩御たかべの日は進貢船側にとっ ては菩薩勧請の日または、ほぼ同時日に行われるべ き行事であったろうことが推測される。 しかしながら、菩薩御たかべの実際の儀式につい ては、この文書においても詳しい記述はないし、久 米村の儀礼の中にもその詳細な記述はない。おたか ベとは祭式のときに唄えられるもので、神を崇べ、願 意を申し上げて、神の加護に預かろうとする為のも のであるので、航海の無事を対象の神である醤凝(天 皇己)に願うものであったのだろう。その内容ははっ きりしないが、古謡または久米村が行う祭紀の時に 詠まれる「天妃経
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との比較が必要となろう。 一方、この日記の中には、大腐船田肋、らの同様の申 請は無い。もちろん天妃像は大唐船にも搭載した答 である。考えられることは、大唐船の天妃像は天妃 宮から正規のものを勧請したが、小唐船は予備のも のを使用したのではないかという事である。天妃宮 内の像は、戦前の写真の中に確認されるものの、そ れが船搭載様のものと向ーであったものか、また幾 つかの予備があったのかも知ることが悶難になって いる。ということは、天妃像は天妃笛にも lつではな かったし、また天妃宮に在るもののみでなく、前年 の渡唐船の帰帆が遅れたりしたときのために、「与那 城筑登之親雲上が安置している菩薩像」等の様に予 備が確保してあったのではないかと考えられる。 菩薩御たかべの儀式以降、順礼や誓詞日撰等があ り、約2箇月後の7月48の項に以下のように菩薩御 乗船の記述がある。@ 一菩薩御乗船日撰書、渡唐役者より日帳主取伊是名 親雲上取次差出候付、今月九日ニ雇差相渡候事。 これも先程の御たかべと問じように日撰のみの記 述である。計画によると本来は6
月中に行われるは ずだったのだが、実際には7月4日の臼撰で、 7月9 日に決定している。ところが、 7月8日の時点におい て、 9日の儀式は雨天のため更に延期される。そし て、 7月12日に再度菩薩御乗船田擦をして、 19日に 改めて行うことが決定されている。乗船の儀式も単 に船に載せるという物の移動ではなく、祈念拝礼を 伴っていたであろうことが、次の記述で察せられ る。@ 覚 来ル十九日於両唐船、聖家衆・久米村衆ニテ如[日御 祈念被仰イ寸可被下候。以上。 七月 両蹟才府 官舎 先に記した久米村の進貢船に関する祭紀は、特に 進貢船閑洋7日目のみに行われていたのではなく、進 貢船準備の一連の祭紀の中にあった久米村関係の儀 式の中の一つであったことがわかる。なぜ記録の中 に前記文のみが採録されたのか不明である。 ところで、菩薩御たかべの儀式以降の像はどうな っているのであろうか。資料としてはないのだが、 その乗船の日まで約2
箇月、更に船が出帆するまでの 問更に2簡月を琉球内で経ている。大宿に勧請され て祭られていたのではないだろうか。また乗船後出 帆までの問の祭紀状況はどうだっただろうか。以下 に少し特殊な例ではあろうが、勧請以後乗船中の菩 薩祭礼の為に支給された物品リストがある。それを を通して見ていきたい。 菩薩像拝礼のための品々 1773年(海正11)11月29日慶良間島へ潔着破船 した朝鮮人男女11人は、翌年3月日日に仕立船をも って中関向け送還された。@本来ならば朝鮮人・唐人 の潔着の場合は渡唐船の便次第にて中国へ送還され る。しかし、この年は、海正3
年から引き伸ばしてき たー頁免除問題を抱えており、翌12年の進責使を停 止するという決定を下していたために、これらの靭鮮人達の送還用として、馬車産船という私的運送船を もって仕立船を用意した。朝鮮人11名の送還のため には、船頭与那嶺筑登之親雲上主従を始めとして佐 事・水主計25名、宰領人・大通事・総官の3人の役 人達が任命された。この仕立船は停止された進貢船 の代わりとして、中国との貿易面での空白を埋める という役裂も持ち、公的な役割の強いものである。 そこで運用形態も進貢船などの渡蔚船に準じた例と 考えることにする。進貢飴や接貴船のような通常の 波唐船の場合、準備段階は、全体の行動計函等のお おまかな部分は記述されるものの、祭
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i
i8の内容や、そ れに使われる物品なとは、毎回の変更もなく、定期 的な為であろうか、細かい記述が行われない。菩薩 の乗船についても乗船の儀式の行程は出るものの、 それがとういう行事で、どのような道具を必要とし たかに付いては省かれていることが多い。に対して 以下に述べるように、臨時の船でありながらも、通 常の渡唐船と同様に派遣されるために船内の必妥な 道具や菩薩拝礼の儀式に必要な物品もリストアップ される事になったのであるうし、また、大宿などの 記述はないが、菩薩請取日が出帆の2笛月前であり、 既にその日から祭面e
に関する物品が支給されている こと等から、時間的には短いが、大宿に類するもの があったことも考えられる。さて、祭配に関する物 品であるが、以下のように記されている吋1
覚 米 四 斗 八 升先 但、正月十七日より六月迄、日数百六十日分 物 品 名 総 料 用 ① 米 4斗8升 先 仏餅米用 ② 菜 種 油 16~ 燈明用 ③ { 山 香1
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0
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吉 焼香用 右、潔着朝鮮人送届、菩薩請取日より御仏納米用 トして百j被下候。以上。 寅正月二十二日 総 官 安 富 組 豆 之 子 2 覚 菜種油拾六沸 {"、正月十七日よ担六月迄、日数百六十日分 石、深着朝鮮人送届、菩薩請取之日よりi
却燈明用 トして司被下候。以上。 賀正月二十二日 安富祖豆之子 3 覚 {山香西結 右、漂着朝鮮人送届、菩薩請取之日より毎日御焼 香用トして5)被下候。以上。 寅正月二十二日 安富祖虫之子 4 覚 燈心ゐ壱束但、弐尺五寸廻 省、潔着朝鮮人送局、菩薩御1
童日月用トして、今月 二十五日限ニ寄払被仰付可被F
候。以上。 正月二十二日 安富祖里之子5
.
覚 百回紙弐十枚 右、漂着朝鮮人送届、菩磁御t
重明炉瀦P員有卜して 可被下候。以上。 正月二卜二日 安富祖盟之子 途 基 本 単 位 日 数 3合1
6
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臼分 0.1 沸~1
合1
6
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日分 な し な し ③ 燈 心 意I
束2
尺5
寸廻 菩薩燈明用 な し な し ⑤ 百 回 紙2
0
枚 菩薩i
宣明炉筋張用 な し な し -41-前表のように物品は、品名・総量・用途が主として 記され、仏餓米用の米や燈明用の菜穂油などのよう に総量を日数で割jると1日分の基準の求められるも のと、燈心ゐや百田紙のように菩薩燈明を作るため の一時的な材料として支給されるもの、そして他香 のように1日分の基準はないものの、日数を勘案した 上で支給されている物の
3
種類があることが分かる。 これからの物品はすべて総宮安富租盟之子よりの 支給申請に碁づいている。中国では菩薩に香華燈明 を勤め、朝夕の倶拝を習とるのは香工(ヒョンコン) という乗務員であり、総官は船中の諸事を司どると いう少し上のランクの乗員であるが、琉球では、「唐 往来之時、菩薩焼香役J
として総官が(壬じられてい る。上記の申請状況を見ると、総官は船内での拝礼 にのみ当たるのではなく、物品の支給申翁から、勧 議後、乗船・出帆までの焼香・拝礼および祭礼にも 主となって関与したのであるう。 ところで、この船は出帆するときの事情の特殊性 ばかりでなく、琉球へ帰帆するときの状況も少し変 わっていた。無事に朝鮮人を送り届け、 8月16日に 五虎門を出帆した船は、帰国のための風向きを捜し ながら中国沿海を11月まで航行しているが、 11月15 日の嵐で久米島沖まで来たものの向風が激しかった ために、ついに11月19日には宮古島の友利村の沖 へ自らが漂着してしまったのである。その後風向き の都合で沖縄鳥への帰帆が出来ず、翌年の4月21日 に至って漸く帰帆となったのである。宮古島滞在中 は船を陵へ挙げて、乗組員たちも陵宿を取っていた のだが、その聞の菩薩はどうなっていたのであるう か。像自体を放った文はない。しかし、以下の文の ような言己述がある00> 覚 名嘉醐雲上閥、印押渡ル。 菜種油参拾弐沸六合 日数三百二十八日分夜五勺 外、菜種油十六沸、寅正月十七日より六月迄、 御用溺御蔵より請取 右者朝鮮人送局候付寅六月迄油被下候処、向七 月朔日より卯五月二日迄弁入、ほうさ御燈明上 申候問、右分可被下候。以上。 卯五月廿日 安富祖里之子 右之通相違無御座候悶致披露候。以上。 同 日 田湊里之子親雲上 仲井間盟之子親雲上 総官であった安富祖恩之子よりの申請は、出発前 に支給された菜種油16沸では不足であったので、 32 沸6合を追加して支給してほしいというものである。 前年の正月17臼の起点から約15箆月の問、ほうさ、 つまり菩薩御燈羽をずっと管理し続けていたという ことがこの文からわかる。以上のように、菩薩に対 しての船中での拝礼・祭最巴は船が漂着などの理由で 遅れて帰帆する場合も続けており、後で不足分の請 求を行なえることから、その拝礼は個人的なものと いうよりは、公的な義務付けに近いものであった。 乗船後の菩薩とその周辺 船内での菩薩の様子を考える前に、まず菩薩は船 のどの部分に祭られていたのであろうか。以下の図 は長崎における唐船・琉球国史略に見える封舟の図・ マールブルグ図書館蔵の闘省水師各標鎮協営戦蛸船 隻図説の中の平底船図の名称を比較したものである。 2川1918 11 16 15 14 13 12 11 10 9 8 7 6 S <13 2 1 } 唐i
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i
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1
1
1
高 弥 本帆 帆 帆 船 之 図 官E 骨 台 媛 旗 詰 蓮 謹 舟草
図護
霊
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軍 謹 底 托 船 関 唐船之図・封舟・平副告の船具和漢名⑬前図によると、船の長後尾である9の所に神燈があ り、その内側の10・11の部分に唐船の図では「此内 船神有」と記されていて、ここに菩薩像が安置され ていることが分かり、また、さらにその内側の
B
に は、鐙旗柱共に、娯祖綜粁の記述が見える。 5にある ように船の先頭の弥机柱に神旗もしくは婚相旗を掲 げ、一方では安置場所の近くに旗を掲げたのであろ う。しかしながら皆船など他の例で実証できた菩薩 安置場所も、琉球の進貢紛を始めとする波唐船に於 いては甚不確かなものとなる。琉球船自体にの各部 名称の記された図が広されてないからである。ただ、 基本的には構造は唐船とi
司じであろうし、婿祖信仰 自体が船に装載することが閏定化してから、疏球へ はもたらされたものであるから、同様に考えても良 いであろう。それを示す資料として、以下のような 船へ飾る族の種類を書き出した記述がある時 覚 -Lj二皮拾五枚 ーほうさ御前てた旗壱 一大檎むかてはた吾筋 一弥帆檎はた壱筋 一大椅風見はた壱 -~j\!I!R.同はた壱 但、臼丸共 但、日丸共 一七星はた{旦、むかてはた共 ー振はた弐ツ-H
かね壱 一鼓'さ 右之員数渡唐持用ニテ御座候I
旬、御船手より拝借 百j被F
候。以上。 寅二月五日 安富祖里之子 回渡里之子親雲上 {中井真史之子親雲上 この中の「ほうさ御前てた旗壱但、日丸共」が先 図の8
にあたるのではないだろうか。次医I
の「琉球 船」においても唐船の8
と同じ所に、日丸(三角形で 切 葉地に赤丸、赤縁の付いたもの)のついた柱がある。 但し、てた旗については描かれていない。 中国へ貢物を献じる進貢船之図( 音1
0
このように船ヒの状況もはっきりしないので、船 内においてはなおさらで、菩薩がどのような形で安 置されていたのかは不明である。しかし、以下の資 料において片鱗ではあるが、船内での安置の状況が 分かる。1
(前略) 一純庫理強潮はき・あかまこおり又は水障上下・ 盆之上・菩陵御殿之友t
i
荷物積入依儀、御法度 之事候処、;町1
帆之節者太分荷物積人候故、足込 和成申候問、自主与被s
留度。{桂略)~E
3
達 一菩薩御殿之内、又は艦崎江荷物積入無之様。@ {以干略) 以上の文はいずれも渡庸船帰帆特の荷物の積み過 吉を禁止する文書の一文で、 Iは規定以外の場所に 荷を積み、重量を越えると、船足が遅くなり、危険 度も増してくるので、琉球から出発するときには厳 しく規制しているのだが、中国からの帰帆時は違反 事例が多いので、厳重に管理するようにと、王府の 役人達からの申し達しであり、またE
はI
に対して の波膚役人からの約諾に当たる又書である。自印有の 43-部分名称もはっきりしないので、場所を限定できる わけではないが、菩薩は菩薩御殿という安置する場 所が造られていたこと、またその左右はある程度の 空間があったことが
I
の文でわかるし、E
では菩薩 御殿の内部もある程度の余裕を持った空間であった ことが分かる。 それのみではなく、この文書からは、菩薩に対する 乗組員遠の意識をも読みとることができそうである。 波唐船の船員として航海の危険をおかして行くのは、 私貿易分の利益が目的となるからである。そこで、 荷物は積めるだけは積んで帰るという積載量オー バーの事態となるのである。本来ならば、航海の危 険から身を守るために装載した筈の菩薩を収納する 「菩薩御殿J
之両側にも、御殿之内担u
にも荷物を積み こんでしまうというような状況だったのである。信 仰としての菩援と、軍I
J
i
関を得るための積載荷物との 確執が見られる。このようにもともとは航海安全を 祈る民品引言仰として生れた筈の鰯祖信仰が、すでに 琉球に持ち込まれたときから船に載せるという形と して取り入れられたために、王府の祭杷や久米村の 伝統的祭紀に対する信仰という以外には、あまり広 く信仰の対象とされず、貿易の魅力に押されてしま うということも起こったのである。 さいごに では、進貢船など王府の主催する渡唐船が出帆し なくなった以降の天妃又は天妃宮は一体どうなった のか。琉球処分のわずか1
年後の1
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0
年には下天妃 宮の敷地が師範学校に、1
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年には上天妃宮の敷地 が天妃小学校として使用されることになる。そのた めに安置されていた天妃像は波之上の天尊廟へと移 され、雑然とそこに放置されるままとなっていた。 これらの像が再び顧みられるのは、首里城が昭和の 修理をむかえる1
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年の事であった。@このように久 米村においでさえ、最早天妃信仰は民間信仰足り得 ず、公的な義務としての祭紀のーっと成っていたよ うである。 また、近世期に於ては、渡1
腐船のみでなく多くの船 が航行していたことは周知の事実である。しかし、 渡蔚以外の王府の主宰する航海、例えば琉薩問の航 海、宮古・八重山と沖縄島閣の航海においては天妃 像の装載の祭紀は史料では未だ確認されていない。 ということは、主府の認識としても、天妃信仰は中 国向けの信仰であったのではないだろうか。前主主で 見た乗組員の態度等共あわせて考えると、王府のし かも中国向けに限られた祭杷としての天妃信仰であ ったとすれば、純粋に民間信仰として残り得なかっ たこともうなづける。 以上のように、王府という主体がなくなり、またそ れに伴う中国への航海がなくなった時、天妃信仰も その役割を終えたのである。 最後に、本来渡唐船や天妃信仰を諮るときには、貿 易開始時からの史料を使用して分析すべきであるの だが、今回は近世期のしかも断片的な史料のみの使 用に限ったので全くの中途半端に終ってしまってい る。これを反省しつつ、ったない考察を綴じたい。 J主 ① 「進貢船仕出日記J
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月1
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臼覚「陀江二号船銀問 杏覆壱通但、再探問之次第茂組入J
とあるよう に、帰帆しない船の捜索の為の杏文が作成され ている。『琉球王国評定所文書j1
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号第l
巻5
1
7
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。 ②李献章『鰯祖信仰の研究』泰山文物社1
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~② 「琉球関由来記J
唐栄!日記全集『琉球史料叢書』 第2
巻1
8
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⑤台湾本『歴代宝案』 ⑥ 「道光二七年年中各月日記」四月中日記図録『琉 球王国評定所文書j1
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号第2
巻4
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6
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⑦ 「琉球国由来記J
唐栄旧記全集『琉球史料叢書』 第2
巻1
8
0
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③ 「琉球国由来記J
唐栄!日記全集『琉球史料叢書J
第二巻1
8
6
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⑨ 『琉球王鴎評定所文書j1
3
3
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号第1
巻4
9
9
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⑮真栄平房昭「琉球における進貢貿易の準備過 程一『回盟筑登之親書言上波唐準備日記』の一考 察ーJ
浦添市教育委員会『近位の諸問題シリーズ 第E弾 第立弾J
1
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年7
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⑪ 「進貢町占仕出日記