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祖先崇拝からみた沖縄的自己アイデンティティ

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

祖先崇拝からみた沖縄的自己アイデンティティ

安達, 義弘

https://doi.org/10.11501/3135185

出版情報:Kyushu University, 1997, 博士(文学), 論文博士 バージョン:

権利関係:

(2)

第 2 章

士 族 ア イ デ ン テ イ テ イ の 拡 散

本市では、近

I I I J

切に身分制度の確なとともに形成きれた土族アイデンテイテイが新たな 級相を111しつつ拡散していく状況を確認したい。17世紀末から18世 紀 に か け て 王 府 の 身 分政策とともに成、

z

した1;族アイデンテイティは、 ーE府の管理の下にある上族アイデンテイ

子イであった。しかし、このいわば制度化された士族アイデンテイティ以外に、王府の管

l111のおよばない伊、域で上族をじ放たらしめていた諸規則が様々に変容して流布だすのであ る。その紡来、多級な疑似

i

て族アイデンテイテイが形成されだすことになる。たとえば、

1 :Jj~ 的活規則がユタ的な宗教者や一三世相などの占術者と結びつくと、士族的規則は、それ 1' 1 体が~9~ltt を,;17 び、たものと考えられるようになり、それを侵犯すること自体が災いをもた ら 州

( [ A I

とされるようになる。また、

k

族 の 家 督 相 続 に 関 す る 規 則 は 、 元 来 は 現 実 の 相 続

Jb) 1(11 ~こ適川されるべき規則であるが、この規則が、過去の系譜関係にまで適用され、規則 に以していれば、過去の系譜関係そのものを修正するというようなことが行われるように なる。また、より速くて、より位の高い祖先へと自己の系譜を遡及いこうとする傾向も見 られるようになるが、これを究短まで押し進めると、次章で取り上げるように、琉球開制

'1'1日のIII:

W

にまで系請を遡らせるということになる。また、士族的門'‑1'制度が上位文化で あるため、

( f

~'l: 1府級のrl'には、机先出来記を作成し、疑似門中を組織して、系譜に沿った

IljtfJ~ Ilr~ を始める1j-もあらわれてくる。小)11徹 の い う 「 百 姓 門 中 」 の 出 現 で あ る (1) 

さらには、l~h~(ド~}~!lU が裁判などにおいて自己正当化の根拠として利用されるというょう かこと も見られるようになる。

以上のような動向が、すでに18世 紀 の 段 階 で す で に 認 め ら れ る が 、 近 世 末 か ら 明 治 初 頭 になるとより頻繁に見られるようになる。総じていえることは、これらの動向は、今日の

i ' l l

純社会で、

I I " J

rj ,化現象

J

と呼ばれている社会動向の源流ともいえるものであるというこ とである。以ド、いくつかの事例によってそのような動向の一端を確認する。

第 l 節 『おもろ主取家元祖由来記 j の分析

」こでは、但先山来記の分析を通して、近世沖縄社会において土族アイデンテイテイが

91 

(3)

拡散していく 一つの在り方を明らかにしたい。資料として用いる 『おもろ主取家元祖山米 川 は、沖縄の行性階層において18t任紀後半から明治初頭にかけて記録され整備された、

引先のflJ米とその系譜、およびその系譜認識に基づいた祭犯に関する記録である。おもろ ヒ収家は、百姓断層とはいっても

I

府が行う国家儀礼においておもろ神歌を謡う集団の長 という特殊な家柄である。とはいえ、 18佐紀の段階で、このような祖先由来記の作成が百 件階級で行われたということ

n

体 、 注

H

すべき事柄であるしかも、由来記作成過程で、

1

'II.y.公的にはその行為もそれへの依頼も禁止されていたユタ的職能者が関与しているので ある n つまり、今 11 の i'i'和肘l=会におけるユタ的職能者の社会的機能が、すでに 181lt~G の段

│併において、ほとんど│司織のかたちで存在したことがわかる資料なのである。

第 1

.L

J I   おもろ主取家

おもろ i̲:取とは、王府の儀礼秋「おもろ」を管理し、国家儀礼に際しておもろを歌う職 能創刊の長である。おもろ王取がどのような場面で活躍していたのかに関して、

f

琉球匡

│ 山If

I

J

n

!

i

i

松出祭.大祭には卜)賭

4

市i貝瑚担に於いて、 j度唐衆街採飯には玉庭に於いて、存剛乍 ・唐船洲新下・

1:1化之II.Jには御庇にて、同じく :11u乞・知念斎場・玉城雨粒・雨乞之御獄 ・弁 之 御 議 行 幸 之

1

1 1.~こ、御 r~! をおふ也 J (2) と記されている。

r

お も ろ さ う し

J

巻22の 「 み お や た い り お もろ御さうし」は王府儀礼に汀jいられるおもろを集めた巻であるが、それには、 「稲の穂、

f R

之II!jおもろ

J I

稲の大祭之│時おもろ

J I

知念久高行幸之御時おもろ

J I

玉城天頂にて」

11:I:j乞の│時おもろ

J I J ? t

船 す ら お る し 又 御 茶 飯 の 時

J I

御冠船之御時おもろ

J

などが収め られており()、1‑.述 の [ 琉 球 同 山 来 記

J

の 記 事 内 容 と ほ ぼ 対 応 す る 。したがって、お もろ

L

取は、これらの儀礼場 l師で、他の歌唱者とともにおもろを謡っていたのである。こ のように

1 :

府儀礼と符践に結びついた重要な役割を担っているおもろ主取家がなぜ、百姓階 級なので、あろうか。その理由は、後ほどの

f

おもろ主取家元祖由来記j分析の過程で明ら かになる。

おもろヒ取織は、 1640年代以降、明治の琉球処分に到るまで本資料に登場する安仁屋家 でf1

t

製されてきた。し か し 、 そ れ 以 前 は 湛 氏 で 世 襲 さ れ て い た 。 王 府 の 初 代 お も ろ 主 取

(

、il1I!jは「おもろ顕」と呼んでいた)は湛氏数明鋭雲上である。彼がこの職に任命された 粁総について、

r x

求陽jの尚消ヒヌ│ミ条は次のように伝えている()。すなわち、湛氏数 I

V

 J親主j‑̲は美里郡伊:樹村山身で、幼少時よりおもろに秀でていたが、嘉靖年間 (1522‑‑‑‑ 15661:)、1[<1E の久尚品行幸にネI~

i

門 司 頭 と し て 随 行 し た 帰 り 、 国 王 の 乗 っ た 船 が 航 路一 ばに達したとき、風i:l

J

となり、船は進退窮まった。その時、数明親雲上が紬先に立ってお

もろを謡うと、風I~Jが収まり、波静かになった 。 この功績により、数明親雲上は国王より

授賞を受け、おもろ頭に任ぜ、られたと伝えている。以降、 1640年 代 ま で は 湛 氏一族 が お もろ頭職を世襲することになる。

」の湛氏を引き継いで、 1640年代以降、おもろ主取職に就いたのが安仁屋家である。し かし、湛氏から安仁尾家への引継の経緯は不明である。安仁屋家の系譜については後で詳

(4)

述するが、 21任安イ :尾 親 雲 上 が 前

r f i

に 1‑‑って お も ろ 主 取 に 任 命 さ れ た の が 安 仁 屋 家 初 代 の おもろ主取である。当初は地頭所を与えられていたが、 3代 目 お も ろ 主 取 の と き に 地 頭 所 は行し I~げられ、 5 イi の扶持を支給されるようになり、その後、 l石 減 じ ら れ4li受給と なった。 初代安仁尾親雲上は系闘を仕立てて上族となるが、その後の継承過程で系図を失 ぃ、以降、おもろ

t

取 家 は 無 系 ( 行 姓 階 級 ) と な っ た。安仁尾家は、無系でありながら、

t l l l ;

fX I:取のIlt襲を認められ、主府から扶持を受けるという特異な存在だったのである。

tr~

2  . 0 J   r おもろ =

i:̲取家元柏山来記.] ( )の内容

│おもろ

i

:̲l氏家元担

i

山 来 記j (以ド、 『由 来 記

J

とも)は、田島利三郎 が 筆 写 し た 『琉

球 I~II!I:t記集j (疏球大学灰│詐館伊波??猷文庫所蔵)に人っているもので、標題の上に、

i l l j J i f i   : 

1イドI[)

1‑‑, U、安イ;犀 筑 親 雲 上 ノ 本 ニ ヨ リ テ

J

と記されており、 1897年 ( 明 治30)に乍'与されたことがわかる。

」の rlll米

I t L J

は、イnJ同 に も わ た っ て 書 き 継 が れ て い る の で 、 成 立 年 代 を 特 定 す る こ と は知:しい。しかし、文rjJに、 7イ代℃日おもろ主取女匁知iリ!念親雲上による1783年 ( 乾 隆48ω)の;識哉

jι! 

るので、この

q

i

に ‑)1応よ必t~ のイ休本裁が整たものと忠われる O しかし、 3世までで、は親族H呼乎称など が

4

I

11̲のり似悦

L }

l

終[的│内サには、安イ;民家第11代 お も ろ 主 取 安 仁 屋 筑 親 雲 上 の 孫 (5男の嫡子)の享年、 1879

1・(光紡5)がIlGさ れ て い る の で 、 こ の 頃 ま で 継 書 き さ れ た こ と に な る 。 ち な み に 、 光 緒 5 

r i

11本肝ではIYJ治12年にあたり、 ytjr縄で琉球処分が断行された年である。

111米記

J

はその内容から次の 4つの部分に分けることができる。 [ 1 ]その作成の顛末および祭相変遷の経緯

[ 2 ]・4放の系譜関係

[3]  7 代 11 おもろ j:_取女11~念親雲上およびその子知念錠親雲上による識語

[  4  ] 

~fì1ll と照代おもろ主取およびその妻子の享年汀

以ド、この)IIITJ

f

に治て そ れ ぞ れ の 内 容 を 検 討 し 、 こ の 『 由 来 記jが作成された背景に はやIJがあったのか、おもろ主取家では何が問題となり、それに対してどのような対処がな されていたのかを切らかにしていく 。

[  1  ]  r  1 1 1 米記 J

作成の顛末および祭杷変遷の経緯

この部分は、 13の条文で記されている。各 条 文 の 内 容 を 検 討 し て い く と 、 後 継 男 子 出 が少ないということを契機として ユタ的職能者との接触が行われ、その後、祖先の発見、

祭胞の開始、十申告、祭配の修正、そしておもろ主取家系としてのアイデンテイテイの自覚 93 

(5)

lこモる全体の経緯を読みとることができる。なお、本文は由来記の体裁をととのえるため に

、 引先のr11米が最初に記されているが、これは、 ユタ的職能者との接触によって発見さ れたものと忠われる。各条文およびその内容の主宵を次に示す(6) 

( 1 )此元

1

1l、成化年中に、伊、I:i

芸品より被罷渡、真喜志村石川村に屋敷取仕、当村 1

J

J

1 1

と斜取嫁取為イ

1 :

山侯。右ニイ寸、みやドハ両方をなへ神崇ふ。その水ノ¥"¥

i

,[はw. 煩帰来供。

に の(おもろ主取家の)フ

e 1

1{は、成化年rjJ(146 5 ~ 87) に伊平屋烏から渡来 して、点,

ι

4 υ 1 1

に屋敷を構え、当村(謝名具志川)の上具志川と姻戚関係を あjlんだ。そのため、付!織は両庁のおなり村Iを崇拝し、その水は両親族が水撫(み ずなで)してきた。)

( 2 )イ

p

、!勺長王加万15志、、伊是才/,島、目姓御素立の御時、農作被遊侯処、諸物イ午、世之人 作物にハ相持、毎年消熟イ

1 :

、且、日

l

を御耕侯へハ、世之人田には水無共、御随身 IIIハぷイj之ニイナ、品ljJ行ダ

t

批判に、今通諸人ニ拍侯儀ノ¥別之事ハ無之O 皐之 時 ハ、夜

1 "

ニペ│くを裕入佼儀、 )JIl在無之。鳥中の障相成侯問、打殺可申由、反叛差起 依イ.J、此元々担l謝名具志川落札雲上ハ、御一門ニイ寸て、其段知シ上申ニ付、然者如 何線三

l ‑ 4 5

度行、御頼有之ニイナ、此島狭所ニ而、御身を隠侯術不罷成侯問、先国頭 二被逃走、漸々下[線、御 ~I-得可被遊山、中上候ニ付、夜中ニ国頭ニ御渡為被遊山 校。イiニイナ、見組謝名具ぷ川親雲上ハ、最前ハ真喜志村之内、石川と申村地頭職 被成ド、後謝名具ぶ川之地頭所被成下侯。其時、此元江屋敷取仕、引移申侯。此 )ぷ!敏ハ、めい官け与 Hハ為 ~11 山侯

イr1、イi三代御印判之儀ハ、掛物相調、家の宝物と相譲来侯処、首里之安イ‑

J.rJ 税蚕~ 1‑より、俵lヰイ

1

待相頼被置候処、右安仁屋死去被仕候ニ付、何方江有之候

欺、 不利知、取失為

q

r l l

o

i t

、右安仁屋親雲上、行方ハ下座ニ相見得申侯。 (

p

平尾J:)JII那志(尚

1 ' 1

E )

は、伊是名鳥で百姓として育ち、農業をしていると き、その作物が他の人々の作物とは異なり、毎年豊作となり、かつ、田を耕せば 他人の[日に水が無いときでも彼の回には水があるので、島中の百姓が、皐魁の│侍 は佼'1'に水を盗んでいるに違いなく、烏'‑jTの障害になるので、打ち殺そうと非難 しあった。この元

1 f l M j

I具ぷ川親雲上は、伊平屋王加那志の一門だったので、そ れを矢11らせたところ、どうしたらよいだろうかと頼ってきた。この島は狭くて身 を隠すことができないので、まずは同頭、に逃れ、それからゆっくり計画を立てる よう ljl し I~げたところ、夜'1'に国頭にお渡りになった。 そのため、元祖謝名具志 川税雲 1‑‑は、長初は真J志喜村石川の地頭職となり、後に謝名具志川地頭所を与え られた。そのIIS:、この犀敷を構えて引っ越した。この屋敷は「めい富け

J

という。 なお、

i ‑

:代御印判

J

(地頭職の辞令書のことと思われる)は、掛物にして家 宝として受け継いで、きた。首里安仁屋親雲上が表具直しに出したが、彼が死んで

しまったので、どこへいったかわからなくなり、失ってしまった。)

( 3 )門中男J‑,

I U

生少有之ニ付、 )J々占方仕侯得共、此中拝来侯み神ノ¥此元ニ而相イ上 立被置侯をなへみ十

p I

に而、伊平屋のみ神、又ハ、御へい撫で忘却仕候故、一門男 子繁栄少侯由御座候。然考渡毎[海カ]江罷越拝申儀者、不罷成、み神江ハ上具 志川之御獄、御せち川み神江者樋川之御せぢ、火之神の御せぢハ此元火之村!の御

(6)

ij、御取次、御j款の反互にて、イ}T'‑1え犀江向、直ク御拝仕侯而百

J

然 rjj有 之O 八月十[I、 伊平尾島、村l之日ニl師、 一門qlに 而 神 柄 相 調 、 七 八 年 程 ハ 作 来 候 処 、 其 通 に 而 者

M i

不時1。此元へ新季ニ神さしふ布]仕立、み神崇仕不申者、不罷成由御座侯イ寸、乾 降二十五

i ̲ : r

皮カJ.寅イfhJJ、 新 み 神 、 御 生 立 拝 始 申 候。右 通 拝 侯 而 も 、 八 月 か しきにイ

L ‑ *

侯例式ハ、イ

p

平尾水なての筋にて、此元火之神御前より相始、樋川、

御獄、御作イ I~侯 rrri 、術J~議之庭にて、伊平尾島へ向、御拝イ上候。 且又、同治三年可 l

f

J J

1‑11、 1:具志ミ)11ノ御火之付!弁御美前持始申候。尤 、 川 御 氷 ハ 、 御 さ し ふ 御 始、 一門

' 1 ' 1 m

q1候。御 供 物 之 儀 ハ 、 下 座 ニ 相 見 得 申 侯 事。右通、み村1あかめ仕侯

よりハ、 ‑1"jrjr

: 9 J 

[-繁栄イ1:候|百j 、此例式永々無伝失可相守~~O

IJ.、新立御さしふハ、具J忘川筑登之妹、安座名のかまと呉屋か妻、うしニて侯。 (‑‑I"jrjrに

Y 5

f の山 IJ~が少ないので、ほうぼう「占方」を行ったところ、今まで

r~んできた神様はこちらで仕立てたおなり付!であって、伊平屋の神様と水撫を忘 1~1J しているので、 -~ Ir~ にタj 了-の繁栄が少ないのだということであった そこで、

伊、│勺ぷまで、行 っ て 作 む こ と も で き な い の で 、 伊 平 屋 の 神 機 へ は 上 具 志 川 御 歳 、 御 せじ川の

1

111へは相ffi)11の御せじ、火ネ11Iの御せじへはこちらの火神の御前に取り次ぎ、

御放の庭で伊平屋にIIIJかつてネ1I1伴すればよいということであった。 8刀10日の伊 判長ぬの祭11に イrrJ" I

1

111測を)11意して、 7、8年 の 問 、 神 拝 を 行 っ て き た と こ ろ、そのやりノJで は 作 み が 届 か な い の で 、 こ ち ら に 新 規 に さ し ぶ 神 女 を 仕 立 て て

1

111j.

f

しなければいけないと言わ れ 、 乾 隆35年 (1770) 5月 か ら 神 女 を 立 て て 仲 村を始めた。このようにネ111拝を行っても、 8月 か し き に 行 っ て き た 例 式 は 伊 平ι

ねの水撫を行う習わしなので、こちらの火村lか ら 始 め て 樋 川 御j款を拝み、御j款の 肢で伊、I~児向に Ir材、ってネ11I 停を行う 。 かつまた、同治 3 年 (1864) 8月10日に、

上共ぶ川の火ネltお よ び 御 美 前 を 拝 み 始 め た。川御水はさしぶネrl1女から始めて一門 '

11が水撫をする

」のように神持を行うようになってからは、 一門中に男子が繁栄するようになっ たので、この例式を代々失することなく守り続けていくべきである。

新しいさしぶネI11女は、共,志川筑笠之の妹で、安座名のかまど呉屋の妻うしであ る。)

( 4 )イi述、何年八月かしきに、 一門巾相

J

前、御へいなて、又ハ伊平屋へ向ひ、直ク拝 (民例式の{義、 I町に

t

ll1さしふも、御さしいて被成、十はら中ハ、御供にて、をかみ Irpp 111、父以、み

1 q l

よ り 御 座 候 ニ 付 、 乾 隆 四 十 九 年 甲 辰 八 月 十 日 よ り 、 御 さ し ふ も御

/ H

被成候。危、みはなハ御さしふ江さし上侯。

(11}. {1~、 8 )Jかしきには

‑1

1I

1

t:.fJ揃 っ て 水 撫 を し 、 伊 平 屋 に 向 か つ て 神 拝 を 行 っ て きたが、例式にはさしぶ付l女も直接に出席し、 10支流はお供を出して神拝を行う よう判l微から知らせがあったので、乾隆49年(1784)8月10日よりさしぶ神女も出 席するようになった。なお、御イヒはさしぶネrty;に差し上げる。)

(5 )込J.、今帰仁、伊平尾、 三ヶ所、みネItl御せぢ御壱ツにて候由、御座候ニ付、毎年、

ィ iヶ所へ、御取分lF:1上、御搾イ上可申侯。且 又 、 供 物 ハ 此 中 の 通 ニ て 、 伊 平 屋 井 辺士、今帰仁、取添御作仕可申候。

(辺土、今帰仁、伊平屋の3ヶ 所 は 、 神 せ じ が1つ と い う こ と な の で 、 毎 年 こ の 95 

(7)

3ヶ所へ神汗を行わなければな らない。供物はこれまで通りのものを、。PF.屈な らびに辺

t .

今帰仁にも献じて拝まなければな らない。)

( 6 )伊、1:;尾白みネ11'者、御三人ネ111かさへ被成侯問、作廻、又ハ御祝ニハ、み花三御前相│

添作候而、御さしふへ上巾侯。危、八九年程ハ、みはな米ハ壱御前差上為

q

1

処、御符IJ

7之、 ‑御前共御差ふへ上申侯。且、御重三御前ニ武次も差上、御Ii 水ハ武令;U( ‑対ニ

i

市作

q

‑1侯。

(イ

p

│、乙尾山の

1

111様は 3村lが重なっているので、神拝や祝儀には、御花は 3御前を 献じて好み、そのあと、さしぶ神女へ差 し上げる 。もっとも、 8、 9年の間は御 北米は l御前差し上げていたところ、各めがあったので、 3組ともさしぶ神女へ ぷし Lげる。かつ、街j重3御前に2つずつ差し上げ、御五水は2合 瓶l対 を 上 げ て作む。)

( 7 )毎年六月、御祭ニ トはら lド作物の御初とて、ネrlJ酒相調、おとのニ御さしふへ上、

1

1111"

f

: 1

IIJ Ip侠。若御さしふ御H段の棚ノ¥御たもと所へ上御拝仕侯而、御初者差仁 させ

I I J

'11候。

(毎年 6

) J

の御祭(ウマチ)には10支流の家系が作物のお初として神酒を調え、

御殿にさしぶ仲良:へ上げてネ~Ilt平しなければならない さしぶ神女が不在の場合は、

たもと(脇付け所へ上げて十rll}手し、お初は差し上げなければならない。)

( 8 )イpえ│、

j d j ; J

1

111j同人ノ¥本元今掃仁は伊平屋のまいなく方にて、此前み神作週、

jくハ御似の IIS:、みはな術JiJtニ三飾 差 上 来 侯。危、御祭之時、街j盆ハ御武ツ差上侯 処、伊、│勺長の御

1

111、倒j一人ハ御本御神、御一人ハおめなへ御神にて御座侯問、御 盆試御 lYrJ;~~ 1.‑、壱御前には、御さしふ本へ差上、壱御前ハ御盆上所へ御残り被ード 供111、点度 三年

γ

巳正月五日より四月迄、矢JI念提親雲上、次男むたに、御ネ111御 直

に、御さし被成侯付、 一門中、熟談之上、 三月御祭の前日、此元より上始、以後 処之述、 三御前へ差ーヒ巾侯。且又、御さしふハ、此前之通、御三人御かさへにて、

御添被成侠111、是も御十111より、むたに御よす事有之侯。

(イ戸、ξ屋島の

1

11J様同人が本元で、今帰仁は伊平屋の女方であるので、ここでの判!

1 F

やお祝いの njは御花御霊に 3飾差し上げてきた。御祭(ウマチ)のときには御 徐は2つ注しヒげるが、伊平屋の村1はl人は本神でl人は姉妹神なので、 l盆は さしぶ厄へ、 l徐は御盆

i

ニげ所へ残して与えるという 。嘉慶 2年 (1 797)正月 5 IIから4)J まで、知念従来~雲上の次男むたにネ[11様から直にお告げがあったので、

11]" 1で熟談の l二、3)1御祭(ウマチ)の前日にこの元(おもろ主取家)から上

げ始めて、以後順次3御前に差し上げる。かつ、さしぶ神女は、前の通り、神様 3人

E

なりとしてお添えをされるよう、これも村!様からむたへこ:忠告があった。)

(  9 

)イi述、みイヒ御重ノ¥、 三二御前御飾イ上拝ミ、御五水ハ試合瓶一対にてをかみ来侯ニ付、

伊平尾ノ御利11i卸両人ニ、今帰仁御壱所合、御三人、右御五水四合差上侯付、御壱 人壱合余りも仁巾侯筋にて、御不足之段、悉く御各自被仰付、御尤至極奉存侯。 段々、御事分を以、漸十ltふこり被遊候。然者永々、其例能々見合用ニ書知シ申侯。

御li水官沸試合、御壱所ニ試合宛、みはな責

t 1 1 ‑

七合、御壱所ニ九合ッ、、御重ハ 次、御壱所ニ買に次宛。

(右のように、御花御重は 3御前を飾って拝み、御五水は 2合 瓶1対を献じて拝

(8)

んできたが、伊平屋の神機2人、今帰仁 l人の合計3人に対して御五水4合では

1

f

l

1l人に対して 1合あまりを上げることになり、不足であるとのお各めを受け たことは、もっともなことである。少しずつ整用して漸く神様もお喜びになった。 したがって、永々そのやりノJを参照するよう書き記しておく 。御 五 水 1升2令、 lヶ所に2合ずつの対、御花は 2升 7合、 1ヶ所に 9合ずつ、御重は6重、lヶ 所に2iJtずつ。)

(10) 1l)~1f)\.)J 1J、御水撫之儀身、本文例式相替不中候得共、此元ハ本元ニ付、男子、

!J:. 

Jr'f分、御1111 、御供イ I~、 一門中ハ壱人ッ、罷出侯ても、相済申由、是X、御利l

より御さし

' J t

イJ之候問、以後、共通御請巾上置候事。

(何年 8)J101Jの水撫の儀式は変わらないが、ここ(おもろ主取家)は本元なの で!JJ

y :

μ

参列するが、 イIrJ

' l

の他家は l人ずつの参列でよいと、これまた判!織 からお(!?げがあったので、以後はその通りに了承している。)

(11 )イjIri111与、伊平片品へr1fJひ、御J刊込ハ、御獄の庭ニ石植イナ、其イゴ印にして拝米侯処、

jU

直ニては

J

r~}9r 之分ケ ~H~ 之、不念有之山、むたニ付て、御符日之次第、明白 イイ被}必候イナ、早速VLI)jニ;r

¥J.、中ニ石香炉飾、砂置調直侯問、御村!御直ニ、むた へ御ふこり{1れ佼111、御さし有之候。

(イiと11111時に、伊平j長島に1iJJかつてネIIIJ平を行う場所は御j款の庭に石を据え、それ を1‑1

: r

11にして十111}下を行ってきたが、それでは持所の区別がつかず忘れてしまうと、

むたに惣いてお谷めがあったので、さっそく四万に石を立て、中に石香炉を備え 付け、イ沙を敷いて調えたところ、ネ

r r

織が直にむたに告げて喜ばれた。)

(12 ) 知念JH;机雲 I~男子三人の内、嫡子たるハ、 主取役願ニて、稽古方イ土させ、次タJ む たj(:iyjまかるハ、さはくり役之願意にて、惣御地頭、御供へ差出置候処、 fiYJ

まかるノ\御冠船前、公儀御方よりも、 主取子共より両三人、おもろ稽古イ I~ させ 佼棟、被仰イ

J

依付、

J t

段殿内lド上、嫡子たる跡次、主取役ノ願窓相究め申候。

(知念

: j i ;

親主主‑1'の

3 J

子3人のうち、嫡子たるは主取役を志願して稽古させ、次タ

J

むたと 3!J

J

まかるはさばくり役を志願して殿内へ奉公に出していたが、 3男 ま か るは、 街

l l f i

船を迎える前で、公儀からも、主j収の子供から 2、 3人おもろの稽占 をさせるよう仰せっかったので、その旨を殿内に伝え、嫡子たるの跡継ぎとして

L

取役を

1 1

指すことになった。)

(13)次J!Jむた儀ハ、さはくり役之願意にて、キ日勤居候処、己三月、俄ニ気界相替り、

必モと:時人候処、íIIt1て、おもろ御神力IJ那志より御さし有之候者、此元ハ、ネ[~Jj~JG 

i f

より、神のみおやたいり、系図の如御座候処、彼ノむた儀、何とて、神の元み おやたいりふれ始て、他人供下内召成使シ候儀、おもろみ神御前より、御免不被

ド候Illj、八ノト、御陶

f

を以、おもろ御奉公相勤させへく由、むたニ御座シ召れ候問、

Iリ成粍ハ、さはくり相勤させ度、志を以、段々御事分ケ申上侯得共、病気別て相 地り、最与"半死平生之境ニ差当巾ニイ寸、御神御さしの通、御請イ上、御供、御断申 上候。夫より快気之体イ(1見得、持

r f

助 命 仕侯。此家別之御奉公相勤侯儀、曽て不罷 成段、以後共、おもろおみやたいり入念相勤侯儀、段々ニむたニ付て、委ク御さ

し有之候問、

f

孫能々其所請

n J

イ上侯事。此家之光、猶相増り申候問、その由有筋、

凶流置侯事。

97 

(9)

(次男むたはさばくり役を;志願して勤めていたが、 1797年3刀、突然厳相!が変 わり、驚いていたところ、おもろ御神加万IS志からお告げがあり、ここ(おもろ主 取家)は

1

111の元、首・からネ1114}iを司るところで、系図に示されている通りである 。 むたは、どうして神の職務を振り捨てて、他人に渡してしまうのか、それは、お もろ

1

111が計=さないので、すぐに決断して、おもろご奉公させるようにと、むたに お

i i t

げがあった。できるだけさばくり役を勤めさせたいという志をもって、あれ これIiい訳を'11し卜.げるけれども、病気がますますひどくなり、半死半生の瀬 際にさしかかったので、ネ'11織のお告げの通りお受けし、神様にお仕えする旨を申

し'1,げたO それ以来、快ノjにfbJかう様子がみえ、漸く命が助かった。この家は、

他のごポ公に就くことはできないので、今後ともおもろ神事職をしっかり勤める よう、むたに惣いて詳しくお告げがあったので、子孫はよくよくそれを受けとめ なければならない。この家の光がますます増大するよう、その内容の粗筋を書き 側めておく。)

以上が、 flll 米 J1G~ 作成の顛末および祭杷変遷の経緯である。おもろ主取家で起こった 比の11¥米'Ji‑の続続は概│栴次のように経理できる。同家には後継男子の出生が少ないので、

その以凶をIYJらかにするべく、ほうぽうで占ってもらった。すると、元祖が伊平屋烏の出 身であるにも関わらず、。t3V序:の十I~ を祭っていないことが明らかになった。そこで、伊 w J1{

t l l l

のための祭化を始めると、男子が出生するようになった。しかし、その後も神のお

il1げで、祭llì~を変記した。 そうこうするうちに、次男におもろ神が降り煙、き、その神のお告 げによて祭lff~ の4警備が行われるとともに、おもろ主取家としての使命を悟らされる。こ のように全体が経緯していることが読みとれる。このような経緯を子孫、に伝承するために この

r

111米記jが作成されたのである。

[  2  ] 

.放の系譜関係

全体の経緯に続いて、おもろ

̲ E

取家一族の系譜関係および主な人物の事跡が記されてい る。そして注

1 1

すべきは、各人の位牌や墓の所在、その祭把などに関する詳細な記述がみ られるという点である。二

E

府が取り入れて間もない清明祭の実施に関する記載さえすでに はえている。つまり、位牌や暴を対象とした祖先祭紀を念頭においた記載内容となってい るのである。そのうち、登場人物の系譜関係を確認できる範囲でまとめたものが図2‑1で

ある'<}lAli

,~射名共ぷ川親雲上は、本部間切具志、堅、宜野湾問切石川村、同間切謝名具志川

かどの地頭

~1誌を歴 :fr したとされている 。 その嫡子安仁屋親雲上は、浦添王子に奉公するた

めに口IH̲に山て、宜野湾の実家には、その弟で次男の具志川筑登之親雲上が残った。元祖 謝才

1 J L

志川親雲J',の位牌は安仁屋親雲上によって首里に移される。この 2世安仁屋親雲上

が、この家系における初代おもろ主取となる 。以後、 「安仁屋

J

が歴代主取職に襲名され ることになるが、この安仁尾姓の継承は、初代おもろ主取となった安仁屋親雲上が、おも ろ主取役に就いたとき、それと同時に、宜野湾問切安仁屋地頭所を授かったことに由来す る。

(10)

2) 必もろ主取!:系譜

A純 安仁屋 毅 雲上一 一 一 首皐へ上り士族となる 上儀{呆村 1代神歎主J&

安仁屋地獄所符領 1701~三死去86銀

0石 川 淀 親 雲 上 の 妻

│ 後ん盆 畠 筑 畳 之 親 雲 上 」 先妻の子

: ト ム 嫡 子 安 仁 屋 筑 豊之親 雲上

取の餐子 ;第11代神歌主J&

δπ~1l. 1ft具志川親 雲上‑ +ム 次 男 具 志 川 筑 登 之 親 雲 」 女子かまli伊佐の女子かま

1655年死去 奏li伊佐村す11栂臓の伯叔祖母・伊礼の女子お戸: 2奏の子

初微の大しま前の奏の姉妹 3 1877年死去63

後妥は野健村前野禽鍵の伯叔祖! L Oかめ母前

後妻との問にli子無し 2妾の達子

1671~三死去 父親は東村上の蔵の上三気殺雲上

3男 小禄の大しま前一一 首皐へ

.は具志川筑登之親書E上の 奏と節妹

駈腿ム

4 3 4

ん順

f

RAA

OOEAU

4

どミ嫡子 安 仁 屋 筑 毅 雲4

12代神D:主J&

ム 次 男 安 仁 屋 錠 毅 雲 後安仁屋

3 屋 錠 毅 雲 前安仁屋の笑子 4 安 仁 屋 錠 毅 雲

上末吉の錫養子 ー ム5 安 仁 屋 笑銭雲

0女子 12妓で死去

(11)

0白がね大あむしられ ム純子安仁屋親雲上一一‑L';'子 安 仁 屋 毅 雲上

首恩へ上士銀となる 2榊 敬 三 取 上儀{呆村

1代神歌主JIi 安仁屋地額所拝領 1701年死去86w'

:

gZl tろ主取家1

r~π祖 鰍名具志川親雲上 1655年死去

ム次男 具志川筑登之親雲上・

li伊佐村すば相自5J.の伯叔祖母で 衝昨季の大しま前の奏の姉妹 後!Aは野J!t村前野総鍵の伯叔m

後妻との間に li子無し 1671年死去

1700年死去56

C酒花の儀間筑親雲上の婆 ム男子 安仁屋筑親雲上ーー十一企宮減

事長町村 」ム小得

者車問村

‑ 6かま戸宮減

│  首 皐

ム安仁屋O大工迫村富里の妻

普天間村 O普天間村

L O普天間村

O安仁島筑親雲上の妹一一一一O普天間村

ふ 小 湾

6嫡 子 石 川 淀 親 雲 上 後りの入饗

ム次男 又 吉 筑 親 雲 上 門の入製

3男 石 川 錠 毅 雲 上 本音容の跡目

0具志川のあんしの祖母 其志菩村

O比嘉筑親雲上 母

仲島の木細工 , ム 養 子 安仁屋筑毅雲上

) 呉 昌 矧 雲 上 祖 母

A嫡 子 安 仁 昼 鵬上J

許認 53

事友 樹 齢 │ ~'::J_Vl2'~.:z:;v.. 5代 柵 凱 母は大t定主前の女子~づる母前

ム次男 安 仁 屋 親 雲 上 一 一 一 一 ム 安 仁 厘 親 雲 上~婆の子1"7;;年死去26

3代神歌主取 4代神歌主取 │ 婆は柑の女子 トo仲門字地泊親雲上の妻

m 年 死 去 崎 新 幹 成 I  LO又吉貌雲上の妻

先妻は上具志川の女子 │ 

位腺1ir

にある 0呉屋錠親雲上の母

2 妻は~~村量産関の女子 │ 大:首錨

│ 人 起 用 「 ム 嫡 子 安仁屋筑毅雲上

耳目u 2奏の子 │ 

込 は 字 削 大 屋 の石川~"P< V/J 6榊 敬 服

鍵忽雲上の姉 I  I 5代神敬主取の愛子

1758年死去78 │  ト ム 次 男 安仁屋筑豊之殺雲上

第8代神歌主取

「 崎 辺 名 筑 登 之 同次男前知念毅雲上~ 妾は西蔵の女子なベ

│ 鏡辺名親雲上の祖父 │ 7ft柵 主 取 1803年死去

│ 上具志川の跡目 3妻の子 0石川淀親雲上の妻

O上 具 志)11の 母 前 一 一 一寸ーム石川筑毅雲上 │ lまいり門の怖賊の女子│

│ 山石川筑登之の祖父 1789年死去83 0佐 喜 英 毅 雲上の妻

トム続辺名筑畳之 佐事案

/J骨 錠 親 雲 上 の 祖 父 O上江前知念親雲上の母 0松堂錠親雲上の妻

L O本郡の大母前 3妻の子 │ 前松堂

L O宮城筑親雲上の奏

「 ム 嫡 子 石 川 筑 親 雲 上 │  策本

│ 跡巴子

Oか に し く ら の 酬 ー ー ド 次 男 う し 呉 昌

i  i

Z L ι f

一千二担 t T J

「 守 主 J

叫 錠 毅 雲 上 十 マ ; 男 山 鰐上

│ 仲又吉担主規雲上の父 ~._" ~~.".../~.~

LO女子 又きの母前

O鏡辺名毅雲上の妻

し ム 逮 子 伊

次男 赤土門の二良又吉 3 望書の~子 '0高鏡辺名旋毅雲上の妥

Oイ中門の母前 の父 3奏と嘉数村儀間筑豊Z雲上

との問に出生

喜友名村 63男イ中門我如古筑親雲上

L O女 子 正 日 と だ の 母

0大 鮒 名 母 前 A嫡 子 又 吉 筑 親 雲 上

むきやね大主前

本邸の入量E 前字地泊親雲上の婆一一一一O女 子 大樹名村世持宮

英志喜村呉屋 の母前

先妻の子

0金城筑毅雲上祖母

│ 汀次良次村大;t O前 掛 親 雲 上 祖 母 63男 〆l掃 の 大 し ま 前 一 → 棚 村

間 ヘ0大嶺筑親雲上祖母

奏li具志JII筑 紅 鱒 上 の Ij

.,と飾妹

LOf中島の上里筑登之祖母 百名のJa前

E

?

f念附嘉州骨材開

J

A?AU

O

? 0 5 A U  

A U A

ム嫡子 安仁昆筑登之親雲 第9代神歌主耳E 1{,志喜村仲本の女子お戸 第の3男を餐子とする 1835年死去

ム次男 安仁屋挺親 雲上 前安仁屋

63 安仁屋筑登之親雲 第I0代神歌主JIi

買~9 代半申歌主取の餐子

O前知念親雲上の妻 知念小

(12)

0垣花の儀間筑毅雲上の妻

安仁屋筑毅雲上一一十.6.宮城 Aj

」 ム ノj

~関村 1 ‑.6.かま戸宮被

│  首皐

O大工迫村宮里の妻 トO普天間村

L O普天間村

2筑親雲上の妹一一一一O普天間村 石川l錠毅雲上

E 又吉筑親雲上

石川錠親雲上

!Hl 

│のあんしの祖母 Z

え親雲上母 ド細工 主毅雲上祖母 サ絶来 重親雲上 神歌主取 L 上具志川の女子 上門にある 嘉数村儀間の女子 字地泊大屋の石川 上の姉 i死去78

5筑 登 之 5毅 雲 上 の 祖 父 11の跡B

氏親雲上

1

1筑 畳 之 の 祖 父 5筑 登 之 を親雲上の祖父 つ大母前

石 川 筑 親 雲 上 うし呉屋 吉川筑登之の父

三 良 又 吉 定規雲上の父 又 吉 の 母 前

B~覇安波ネL親雲上 赤 土 門 の 二 良 又 吉 の父

イ中門我如古筑親雲上 正 目 と だ の 母

O前 字 地 泊 毅 雲 上 の や 一 一 一0女 子 大 新 名 村 世 持 富

其念書村呉屋 の 母 前

先妥の子

「 ム 養 子 安 仁 屋 筑 親 雲 上

前知念親雲上の嫡子 ム 嫡 子 安 仁 厘 筑 鱗 上 → 6代 神 間

5tも神歌主取母li大 錠 却 の 女 子 其 づ る 糊 2奏の子 ~ 1762年死去26)1 奏li本書官の女子 │ 

Of中門字地泊親雲上の妻

ム次男 前知念毅雲上 第7代将歌主取

3奏の子

望号はいり門の前~良~の女子 1789年死去83

L O又 吉 親 雲 上 の 妻

ム 嫡 子 安 仁 屋 筑 親 雲上 費~6 代神歌主取 5代神歌主取の養子 ム 次 男 安 仁 屋 筑 登 之 毅 雲上ー

8代神歌主取 妾は西蔵の女子なベ

1803年死去

0石川錠親雲上の望号 E

佐 菩 其 毅 雲 上 の 妻 佐:e:莫

O上江前知念親雲上の母 O松 堂 錠 親 雲 上 の 妻 3妻の子 前松堂

O宮 滅 筑 親 雲 上 の 妻 策 本

「 ふ 嫡 子 ととう石川

│ 稲初のそれおたの父

」 ム 養 子 上 門 石)11蛾 雲 上 + ム 次 男 石 川 棚 雲 上

│ 

妾li伊佐宮城の姉妹 │ 

O鏡 辺 名 親 雲 上 の 妻 上具志川

L.6.達子伊佐錠鰐上 トoみ ち け む た 宮 城 の 妻 3妥の達子 L O高 鏡 辺 名 錠 毅 雲 上 の 妥 3 奏と.~村儀間筑怒雲上

との間に出生

0石 川 錠 毅 雲 上 の 妻

│ 後ん盆 ム 嫡 子 安 仁 屋 筑 畳 之 親 雲 上 ー ム 養 子 安 仁 屋 筑 登 之 親 雲 上 」 先妻の子

;9代神歌主取 第10代神歌,1:取 ト ム 純 子 安 仁 屋 筑 登 之 毅 雲 上 妻はA志喜村仲本の女子お戸 第 9代将歌主取の餐子 第 11 代将歓主~

第の3男を.子とする 先妻は伊佐¢女子かまど 妻は伊佐の女子かま 1835年死去 2妾11衿山村伊礼の女子お戸 2奏の子

ム次男 安仁屋提案見雲上 1853 年死去 73~量 1877年死去63

前安仁屋 L Oか め 母 前

3 安 仁 屋 筑 畳 之 毅 雲 上 2妻の達子

10 代神歌主~ 父親 li東村上の蔵の上三まえ視委上

第9代神歌主取の餐子

0前 知 念 親雲 上 の 妻 知念小

A嫡 子 安 仁 畠 筑 親

~12iも神歎主恩 ム 次 男 安仁屋錠親宴

後安仁屋

.6.3 安仁屋旋親会 前安仁屋の. .6.4男 安 仁 屋 挺 毅 骨

上末吉の鍵笑 ー ム5 安仁屋従軍x.~

0女 子 12銭で死去

(13)

この初代安仁斥親芸上は系凶を許され、上族となるが、そのfの 代 にJ=f.くも後継問題が Il~ずる。 2 代 11 を継いだ安仁尾親雲上が早死し、その男子が3 代目を継ぐには若すぎたか らである。そこで、宜野湾の実家を継いで、いた弟具志川筑登之親雲上の次男が3代目おも ろ t取となる。 次男にこの役職が l~ ってきたのは、長男がすでに婿養子になっていたから かもしれない。これ以降、この家系でおもろ主取職が受け継がれて行くが、この家系は系 I~I をイ 1: \L てず、 (ï~'I:の身分に憎まったのである。 地頭所を召し上げられ、それに代わって

5uの職俸が与えられるようになるのはこの 3千に口からである。

rlll米記j作成の契機となるという意味で注目したい点は、 5代 Hおもろ主取以降の継 JK関係の複雑さである。5

f t  

r 1おもろ王取には男子がいなかったらしく、弟で次男知念親 芸

: 1

の長男を長

f

としてこれに主取l慨を継がせた。しかし、この 6代目おもろ主取は26歳 の)',さで死去する。そこで、 7代日には

6

代日の実父が、 「安仁屋」を襲名しないまま継 J~ し、その次男が 8 代r1を継点することになる 。 í安仁屋J を襲名していないところをみ るト、7代

1 1

は臨時的な代用と認識されていたのかもしれないが、子供の跡職を父親が継 ぐという彬めて変川的な継永が行われており、この時期、おもろ主取職の継承に苦慮して いる級

r

がうかがわれる。この 7代日の知念親雲上とその子の代に、ほうぼうのユタ姻り が行われたものと忠われる 。6代ト!おもろ主取が死去したのが1762年 で 、 伊 平 屋 関 連 の かli~ を始めたのが 1764 イドと忠われるので、 |時期的にも符合する。

その後、 1797作、 8代日おもろ主取の次男むたにおもろ神が降り患いて、おもろ職に専 念するようおi!?げがあるこれは、 1800年に尚温のための1lJ}封使が来琉することになっ ていたため、 れがfからおもろ職に専念するよう要請されていた時期に相当する。主 取 家 で はI.:){.fの契約を;行けて、長男の後継者以外に 3男にもおもろの稽古をさせていたが、おも ろj眠から外れてきぱくり役を

r i

指していた次男むたに

1

r

l

1惣りが生じたのである。このとき むたは20歳出j後で、あったと忠われる。

l 3  ] 

7

代 1 1 おもろ主取矢

11

念親雲上およびその子知念旋親雲上による識語

系!?J?関係の条1作きに続いて、 7代 日 お も ろ 主 取 知 念 親 雲 上 お よ び そ の 子 知 念 提 親 雲 上 に よる識iliiがはられる。矢11念 錠 親雲 !ことは8代目おもろ主取安仁屋筑登之親雲上のことだと 忠われる。おもろ七取家では、 「安仁屋」がおもろ主取職継承者の世襲名として用いられ ていたが、7代1Iに│浪つては、前述の事情により、安仁屋を襲名しないまま主取職を継承

したためにこのような事態が生じた ものと忠われる。

2人の識訪のうち、 7代目おもろ主取知念親雲上の識語は1783年 (乾 隆48)に記され、

次のような内谷である。

イ7通

J e

H l

之山米作

i J

云イ

t

候。然者元祖之光を以、代々神歌主取役被仰付、御扶持被成下、

J45 敷御 f\~迄 1ft戴I1Jイ t 旨、難イイ尊敬イ上候。 尤、主取役之儀者、必此元跡目子ニ可継させ 候、子孫之者、此趣、共ニ夫氏女

n

イ士、おもろ御双紙見開講釈、又者おもろの曲数無伝失

可相勤候。且又、先祖之孝行可専要ァo

附。主取役之儀、諸事正敷執行イ土不申ハ、不l叶役目ニて候問、イ可篇義理正道にして

(14)

おもろ稽l'i人、繁栄イ]:させ候綴、能々可念人儀、可専一 事 。 (

Je1fiの威光によって代々おもろ正取職を授かり、扶持および座敷位を受けていることに感 謝するとともに、J:.取役は必ず[1分の家系から継点させなければならないこと、したがっ て、子孫は、それをノ兵矢11して、おもろを伝え、そのl1lJを伝失しないよう勤めなければなら ない。かつ、机先の孝行にも勤めなければな らない。さらに、主取 役 は 諸 事正しく執行し なければならないので、義男lll[J̲丘を保ち、おもろ稽占者を増やしてこれに専念しなければ ならないとつけ加えているのこれが記されたのは、先述のように、おもろ主取の継承に苦 慮していたII'j:J切に、円たるが、その状況がこの識訪の内容に反映しているように思われる。 次に、知念親雲

L

r

知念綻親雲 上 に よ る 識 語は嘉慶

2

年 (1797) に記されている。こ れは 8 代~1安仁斥筑な之親雲 lの次男むたに神懲りが起こった年に当たる。したがって、 その内科は次にノドすようにその十11'滋りを中心としたものである。

J}じ机山

* J t .

1

1'1事之次第、本文弁朱書を以、委曲書流置候処、永々、元祖跡目相成 11 1次第、安仁尾筑摩之親I~次男むた儀、嘉慶貢に年丁巳正月五日夜より、不快の様相 見え依処、 11寺々俄ニ息引人、武11寺程、少も不通、其以後五体引張り、相絶、段々危気 色、 ht-I11 、 I/:~七、 1/:JI~涯ニ相成候事、多々有之候イ寸、時よたニ占方杯[杯カ]イ上候ハ、、

7JIJ 1M 1~J~.á1く能成、雫械驚人中候処、月十五日比より、御神御言葉おざし始、四月迩 ニハ、 I')ì~ニ朱i1f を以、御1'11 事欠 H 御水なて、叉、此元按司わかれ、昔おもろ大御神、

段々奇妙)点字被仰j間候。尤、神事Jt元祖、彼是細々不残御ざしの通、上座本文井朱.,d,.

J二羽!見符依

I

IlJ、ぷ於以後、 一門より、時よた、叉ハ占事有之、右次第書之外、例替杯

│品川又ハ例i[I引入Q1111'111民共、曽而取持問敷候。尤、伊平屋島ノ御神加那志、より、

おもろ御十111JJII )]IS志御両人組手合し行れ、諸事欠日;有之候処、御直ニ、御ざし被仰間候 II~ J、永々イi書問伝失杓守候儀、肝要之事ニ候。且又、此元子孫より、余之御奉公布!勤 させ依ハ""

l !

リ御

1

111より御牲日に逢候問、御双紙見開講釈、おもろ山数伝受候。 (8 れによると、むたは1797年正月 5日 の 夜 か ら 変 調 を き た し た 。 引 き つ け を 起 こ し て 半 死やl~の状態にしばしば陥った。 そこでユタに占いなどをさせたたが、そうするとますま す病気がひどくなり、驚き入っていたところ、 2月15日頃からや

' l

の言葉を告げ始め、 4

まで

t ll l

J'1.の不){な点、水撫、按司│時代のこと、おもろ大神のことなどを語ったという。そ こで、そのお行げの内容が新たに書き加えられたのである。これに続いて、神事や元祖の

」とに関して将米の変更を戒める記述が見られる。すなわち、これ以降、 一門のものがユ タ了{いやIliいlJT.をして、これ以外に変更したりつけ加ることを申し出ても採用してはいけ

1

;

いと記されている。さらに、伊平尾島の神様とおもろネIII様の祭把について、いろいろ欠 けている点があったが、

L R

にお行げがあったので、記録に留めて永代伝失することなく守 り続けることが肝安であるといい かっ この家系からおもろ職以外の奉公を勤めさせる と付!被からお伴めを受けるのでおもろ双紙を開き、講釈し、おもろの曲を伝授するように と述べて、子孫がおもろ職に専念するよう諭している。

[  4  ]おもろ 主 取家の 享年 刀円

100 

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