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(1)

消 極 的

由自

⊇由

大 谷 恵

   は し が き

 自由の消極的意味i〃消極的自由︵づ①σqきく①ヰ①&o日︶1は︑一般には︑諸家によって指摘されているよう      ︵1︶に﹁拘束︑妨害︑束縛︑障碍︑負担の欠如﹂であり︑普通﹁からの自由﹂ともいわれている︒この消極的自由に関し

て︑主としてT・ホッブズ︑J・ロック︑J・Sーミル等々の自由観を中心として︑それらを通して二回ないし三回

にわたって論じかつ吟味してみたいというのが︑本論稿のささやかな狙いである︒

   一︑T・ホヅブズと消極的自由

 近世において︑この種の消極的自由を最初に唱えた一人がT・ホッブズであることは︑いうまでもない︒すなわ

ち︑かれは︑﹃リヴァイアサソ﹄のなかで︑﹁自由とは︑この語が本来意味するところによれば︑外的障碍の欠如︵僧げ一       ︵2︶ω¢昌oooho答Φヨ巴=ヨO①巳∋Φ暮︶と解釈される﹂と述べ︑かつ﹁そして︑この本来の︑一般に受けいれられている

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(2)

語の意味によれば︑自由人︵﹂〜 国﹃ΦΦ1竃ρ昌︶とは︑かれの強さと知力によって︑かれがなしうる物事のなかで︑かれ       ︵3︶が行なおうとする意思をもっていることを行なうのを妨げられないひとのことであるしと主張している︒

 だが︑それだけでは政治的自由や一δ鑓一ω$8の理論にはつながっていかない︒そしてホッブズの右の言葉は︑自

然状態における自然人の自然的自由について述べたものであり︑しかもホッブズは︑筆者が繰り返えして指摘してい

るように︑人間を︑理性よりも徹頭徹尾意思と感情が優先するものとみなし一究極的には理性はかれの理

論から全面的に消え去ってしまうのだがi︑さらに人間はみな綜合力において平等であり︑そうした自然人たちが

互いに〃力と〃欺隔をもって名声︑富および権威を求めて無限に競争するので︑ついにはかの有名な﹁万人       ︵4︶の万人に対する戦争状態﹂に陥ってしまうのである︒

 もちろん︑ホッブズとて︑そのような〃窮境に陥らないようにとの配慮からか︑あるいは政治的自由の考慮があ

ったかどうか︑または他の理由からかはわからないが︑ 一応〃法をもちだしている︒そして法には善い法と悪い法

があり︑善い法とは﹁法の効用は︑人民に対して︑あらゆる意思的行為をしないように拘束することではなくて︑か

れらが︑自分たちの衝動的欲求や性急さや無分別によって︑みずからも傷つけないような運動の範囲に導き保持する

ことにある︒それは︑ちょうど︑垣根︵国Φqσq①ω︶が旅人をとめるためにではなく︑道を歩き続けさせるために設けら       ︵5︶れるのと同じである﹂といっていて︑〃法と〃垣根の類比は︑ダソトレーヴが指摘しているように︑ いいえて妙       ︵6︶であり︑無用な制限や重荷を課さない法だけが承認されるべきだといおうとしているらしくみえる︒しかしながら︑

本質的には︑ホッブズにとっては︑人間の自由は﹁いかなる法によっても義務づけられないこと﹂であって︑飽くま

でも自然法よりも自然権優位の思想が徹底的に貫かれていて︑所詮法  とくに国法︵︵︶一く一一一 い簿≦①ω︶−は︑人間

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(3)

消極的自由(一)

が平和を獲得し︑自己保存をはかるためにつくられたコモン・ウェルスと呼ばれる人工的人間︵帥づ諺a臨9餌=       ︵7︶竃9口︶における﹁人工的な鎖﹂︵﹀昌巳︒冨=Oげ国是︶にすぎないのである︒

 いずれにせよ︑そのような結果︑自然状態は前述のように﹁万人の万人に対する戦争状態﹂という窮境に陥ってし

まう︒そのような窮境からの救済のために︑ホッブズはかれ独特の国家設立の社会契約論によって︑人びとは契約の

当事者でない第三者  したがって︑それは人間ではなく︑まさに神か海の巨大な怪獣であるリヴァイアサ

ソである一に権利を全部譲渡して主権者となし︑かれによって平和と安全を保持してもらうことになる︒その主

権者は︑人びとの全権利を与えられるので︑文字通りの絶対的主権者であって︑しかも契約の当事者ではないので︑

いかなる義務をも有せず︑またいかなることをなしても契約違反ーホッブズにおいては﹁不正義の定義は信約の不

履行にほかならな匝ので・契約違反は〃影響である一の罪に問われない・それに反して・全権利を主権者に

譲渡して〃人格を放棄した各人は︑ただ臣民として︑主権老の法や命令に対する絶対的服従の義務のみを負う       ︵9︶〃奴隷の境遇に駆りたてられるのである︒

 そのような状態の下では︑絶対的主権者の法や命令は︑それ以上ない重い鎖や〃足枷であって︑ダソトレー       ︵10︶ヴが指摘しているように︑消極的自由の一つの条件である政治権力が停止されなければならない一線が全然なく︑絶

対的主権者の気紛れな恣意がたまたま目こぼしするとき︑その範囲内で人びとは偶然に一時的で僅かなはかない自由

を与えられるにすぎないのである︒そのことを︑ホッブズは﹁臣民の自由とは︑かれらの行為を規制する際に︑主権

者が看過した事柄だけにある﹂︑﹁臣民の自由は︑主権者の無制限の権力と両立するにもかかわらず︑われわれは︑そ      ︵11︶のような自由によって︑生死の鍵を握る主権が︑廃止されたり制限されたりすると理解されてはならない﹂という形

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(4)

で表現している︒       鵬 すなわち︑ホッブズの国家においては︑政治権力の専横的抑制からの立憲的に定められた明確な自由はなく︑法と

いう垣根はむしろ自由にとっての足枷になっているといったらよいであろう︒したがって︑そこには明確な消極的自

由は存在せず︑政治的自由もいささかも存在しないのである︒むしろM・クラソストソが主張しているように︑ホッ

ブズは﹁一まΦH蔓という名辞に興味を持ち︑それに威勢のよい分析を加えることから始めて︑それを﹃もっともらし       ︵12︶い名辞﹄と呼ぶにいたり︑ついには専制支配を正当化するにいたっている﹂といえよう︒

二︑J・ロックと消極的自由

 ロックは︑その哲学的業績である﹃人間知性論﹄において︑﹁自由︵ま嘆ξ︶の観念は︑心の決定または思考にし       ︵13︶たがって︑ある特別な行動をなしまた抑止しようとするところのある行動者にある能力︵やO≦O同︶の観念である﹂と

述べている︒すなわち︑かれは︑自由とは能力もしくは力だ︑とみなしているのである︒けれども︑これもクラソス

トソが指摘しているように︑あることをな﹁すべく自由である︵旨①08自︒︶﹂ということと︑﹁・:⁝すべく能力があ

る︵斡げ一〇 けO ◎O︶﹂ということとの間には区別が存在するのであって︑前者のような言い方をするのは︑それをする

のに﹁なんらの障碍も存在しない﹂という事態に限られるのであり︑それに反して後者のようにひとがいうからとい      ︵14︶って︑それだけでそのひとがそれをなすべく自由であるという言い方をしないのが︑普通である︒

 またロックは︑同書において︑自由に積極的な意味をもたせ︑自由における理性や知性の役割を強調して︑次のよ

うに述べていることは︑注目に値する︒

(5)

消極的自由(一)

 ﹁もし理性の指導から脱出し︑われわれをしてより悪いことを選びまたは行なわないようにせしめる吟味と判断と       ︵15︶の拘束を欠くことが自由であり︑真の自由であるならば︑狂人と愚老のみが自由人である﹂

 ﹁次のことが︑知的存在者が真の幸福に向って絶えず努力し︑これを着実に追求する場合に︑かれらの自由が廻転

する軸となる蝶番である︒それはすなわち︑個々の場合において︑かれらが自分の前方を見て︑そのとき提出される

または欲求されたその特殊なものがかれらの主要な目的への道程にあるかどうか︑またかれらの最大の善であるとこ

ろのものの事実上の一部分をなすかどうかを知るまでは︑かれらはこの追求を停止することができるということであ      ︵16︶る︒このことは︑わたくしにはそう思われるのであるが︑有限の知的存在者の大きな特徴である﹂

 ﹁心は︑意思をも決定する前に︑自由にそれら欲望の対象を考察し︑あらゆる面にわたって検討し︑相互に比較考       ︵17︶量するのであり︑ここに人間のもつ自由がある﹂

 ﹁意思が行動に向って決定され︑そして︵この決定に続く︶行動がなされる前に︑ある行動がこのように停止され

る間に︑われわれがなそうとしつつあることの善悪を吟味し︑考察し︑そして判断する機会をもつ︑そして然るべき

吟味によってわれわれが判断したとき︑われわれはわれわれの義務を果したのであり︑われわれがわれわれの追求に

際してなしうる︑またはなすべきすべてのことをなしたのである︒そして正当な吟味の最後の結果にしたがって欲求       ︵18︶し︑意思し︑そして行動することは︑われわれの性質の欠陥ではなく完成である﹂

 ﹁われわれ自身の適正な判断にもとづいて意思を決定することは︑決して自由の制限あるいは減小であるどころで

はなくて︑まさに自由を増進し益するものである︒それはわれわれの自由の縮小ではなくて︑自由の目的であり︑自

由σ使用であ華﹂

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(6)

 そうした理性と知性の重視は︑なによりもまずロックの人間観に由来する︒すなわち︑かれは︑人間は全智全能の

神による被造物であ晦狸あらゆる董思をもぞ人間に臨むものであそ・神の仁徳は人間に芒て欠けてい掩

といって︑ホッブズに比してきわめて楽観的とまでいえるような〃神の華墨的人間観を展開している︒そし

て︑人間が他の動物より優越し︑かつ道徳を知り︑生活を便宜にして神の法にしたがって生活をするために︑神の声       ︵22︶であり人間の生活における羅針盤であるところの〃理性を人間に与えたのであり︑この理性によって人間は限りな

く神に近づき︑神の法を知るのであり︑そしてそれは人間にとって外在的なものから内在的なものになり︑神の法は      ︵23︶理性の法であり︑自然法になると主張している︒

 けれどもロックは︑そうだからといって﹁人間が一番良いと判断したがゆえに︑神がそうしたのだ﹂と考︑直るなら

ば︑それは人間の思い上った考えであるときめつけて︑人間がその理性を正当に使用したとき︑理性の発見した法が

神の法でありうるにすぎないとしているが︑しかし理性が神の意図に対して必要なものを発見するのに役立っような       ︵24︶能力として与えられていることは明らかである︑と考えている︒

 それゆえ︑揖ックは人間を完全に理性的だとは決してみなしていないークラソストソがその著書﹃政治的対話

篇﹄のなかのシャフッベリ卿との対話においてロックをしていわしめているように︑入間はその可謬性を認め︑その

懸婁もつだけの充分な知識を身につける必要がある辱また先の︒ック自身の言葉のように人間箸限な知的存在      ︵26︶者である一が︑理性に信頼している人間を〃理性的動物︵同9ρけ一〇昌蝉一 〇﹃ΦpΩ一匹﹁Φも◎︶だとなし︑人間は神の法︑理性の

法︑自然法︑国法︑および賞讃と非難の強制をともなう世論︑名声ないし流行の法にしたがわなけれぽならないので

あ蛾しかも国法は神の法に坐するように制定されなければならず・また流行の法によ・て名づけられる徳・不徳

110

(7)

消極的自由(一)

は常に当該国民および社会において評判のよいような︑また悪いような行為にのみ与えられがちであるといって︑人

間の準拠すべき究極的な至高の法はただ神の法だけである︑と論じている︒そしてかれは︑自然状態においてはおお

むね理性の法が支配する︑と主張している︒

 以上のような自由における理性と知性の重視は︑ロックの政治理論の大著であり︑名誉革命を理論的に集大成した

﹃政治二論﹄においても︑顕著にあらわれている︒まず︑自然状態およびそこにおける自然人の自然的自由について︑

かれは次のように説いている︒

 ﹁思うに︑それ︵自然状態−筆者註︶はまったく自由に己れの行動を律し︑適当と思うままに財産および己の身      ︵28︶柄を処し︑他人の鼻息をうかがったり︑その意思に依存したりしない状態である︒﹂

 ﹁しかし︑これは自由の状態であっても︑放縦の状態ではない︒その状態の下にひとはみずからの身体あるいは所

有物を自由に処分してよいのだが︑自分自身あるいはみずからの所有するいかなる生物さえも自由に破壊すること

は︑それをそのままで保持するよりもなにかもつと立派な用途に必要とされるのではない限り︑許されるものではな

い︒自然の状態にはそれを支配する自然の理法があり︑それによって各人は拘束される︒そして理性こそ自然の理法

だが︑それにただ相談するにすぎない人間も自分たちがすべて平等であり︑独立しているのだから︑他入の生命︑健      ︵29︶康︑自由︑財産を侵害すべきでないことを理性から教わるのである︒﹂

 ﹁人びとがかれらの間に裁判権をもつところの共通の優越者を現世に認めずに︑理性の命令にしたがって生きてい      ︵30︶く状態︑それがまさに自然の状態である︒﹂      ︵31︶︐﹁われわれが自然の理法にしたがって考察した結果︑人間は生まれた以上︑己れを保存する権利がある︒﹂

111

(8)

 すなわち︑ロックは前述のように自然的人間を理性的動物とみなしたので︑そのような自然人が自然に存在する自       ︵23︶然状態においては︑右のロックの言葉のように︑またS・P・ラムプレヒトが指摘しているように︑ω自然権1

〃生命︑自由︑財産1の存在︑働社会的性質の存在︑㈹理法一自然法の存在とそのかなりな程度の支配という

三つの特徴がみられるのである︒そのことは︑ロックにおいては︑自然状態は︑各人は平等︑独立であって︑﹁自然

法の枠内﹂で人びとが適当と思うままに行動し︑そして自分の財産や身柄を処することがでぎるという意味での自由

な状態なのであって︑ロックの自然的自由は︑W・H・ダソニソグがいみじくも喝破しているように︑個人の恣       ︵認︶意的我儘以外のあらゆる規則からではなくて︑自然法以外のあらゆる規則からの特免なのである︒ロックが放縦では

ないといっているのは︑まさにそのことを意味しているのである︒

 以上のように︑pックの自然状態は︑ホッブズのように自然権に重きをおきすぎて自然法や理性を軽視しすぎた結

果︑無政府状態に陥って絶対主義に到達するような状態ではなくて︑理性的な自然法に重点をおき︑それをかれの理

論体系の頂点としながら︑その枠内での各人がおのおのの自然権や自由を追求する状態である︒それゆえ︑ロックの

自然法思想は近代的自然法思想の系譜に属しながらも︑そのなかには中世の伝統的自然法思想が脈々として生き続け

ているといえよう︒

 しかしながら︑ロックは︑そのような幸福な自然状態も︑既述のように人間が不完全であるうえ︑ω﹁正邪の基準

として︑また人びとの聞の紛争に決着をつける共通の同意によって承認された不動の︑㎝定の︑公けの法﹂︑②﹁制

定された法律にしたがって︑あらゆる相違を解決すべき権威のある︑公平な裁判官﹂︑㈲﹁正しい判決を支持し︑ま       ︵34︶たこれをとどこおりなく執行させるべぎ権威﹂︑を欠いているためなお不充分であるゆえ︑さらに一層よく各人の自

112

(9)

消極的自由 (一)

然権を保障するために︑社会契約を各人の間で結び︑それによって国家︑立法部︑政府︑その他の諸機関を形成する

のだという︒この国家やその他の諸機関の形成の理由と目的について︑ロックは次のように述べている︒﹁人間が社

会に加わる理由は︑かれらの財産の保存のためである︒また︑かれらが立法部を選挙し︑権限を授ける際には︑全社

会の私有財産の番人︑防壁として社会の各部各員の権力を制限し︑支配を緩和するために︑法律が制定され︑規則が      ︵35︶設立されることを目的とする︒﹂ここにも︑ロックの財産一すなわち自然権︵生命︑自由︑財産︶一の保護の強

い主張がみられると同時に︑国家やその諸機関はその保護者であり︑かつそれらの権力は極力制限されなければなら

ないという自由国家︑立憲国家︑最小限支配国家の強調がみられる︒

 そこで︑ロックは︑自然状態における自由と国家内における自由とを比較して︑次のように論じている︒﹁ひとが

自然状態においてもつ自由とは︑地上のあらゆる優越勢力に屈伏したり︑人間の意思とか立法権に支配されることな

く︑ただ自然の理法のみを己れの規範としてもっことである︒またひとが社会においてもつ自由とは︑国民の同意に

よって設立される立法権以外のものには支配されることなく︑その立法権が国民からの信託にしたがって制定すべき

もの以外には︑いかなる意思にも︑法の拘束にも屈しないことである︒したがって︑自由は︑ロバート・フィルマi

卿が次のように語る自由ではない︒すなわち︑﹃すべてのひとが欲することをなさんとする自由︑すべてのひとが望

み通りに生きようとする自由︑どんな法によっても束縛されない自由﹄である︒政府の下にある人間の自由とは︑恒

久的な法律を生活の規範となしうる状態をいい︑その法律はその社会の各人に共通するものであって︑そこに設けら

れた立法権によって制定される︒すなわち︑その法律が命じる範囲外においては常に自分自身の意思にしたがい︑他      ︵お︶人の移り歪な︑不確かな︑はっきりしない︑気儘な意思に屈しない自由の状態である︒﹂﹁法にしたがう能力をもつ被

113

(10)

造物たる人間のあらゆる国家においては︑法がないところに自由はないのである︒そして自由とは他人からの抑圧と       拠か暴力を免れることであるから︑この種の自由は法のないところではありえないのである︒それは前述のような﹃だ       ︵37︶れでも自分の好ぎなことをしてよい自由﹄ではないのだ︒L

 つまりロックにおいては︑その政治的論議において語られている自由のなかに﹁からの自由﹂一消極的自由一      ︵詔︶がよく表明されていて︑しかもその自由は︑D・G・リーチーが指摘しているように︑単なる抑制の欠如を意味する

のではなくて︑専横で不法な違憲の愚昧な抑制からの自由を意味しているのである︒その理由を︑ロックは﹁絶対専

制権力から自由であることは︑人間を保存するためにきわめて必要であり︑またそのことと密接に結びついている︒

それゆえ︑人間はもしこの自由を手放せば︑己れの保存と生命とをともに失わざるをえない︒すなわち︑自分で自分

の生命を自由に処分することのできない人間が︑契約を結んだり自分が同意することによって︑己れを他人の奴隷に

したり︑好きなときに己れの生命を奪いうるような︑他人の絶対専制権力に身を委ねたりすることは許されないから

  ︵39︶である﹂と述べている︒

 またロックは︑ホッブズのように法を〃垣根になぞらえ︑かつホッブズとは異なって法は自由の保存と拡大のた

めの垣根の役割を果している一すなわち法は自由の条件だとしている一のだとして︑消極的自由と政治的自由の

確保を次のように主張している︒﹁法とは︑真の概念においては︑自由でありかつ良識的な行為者に対しては︑かれ

ら自身の利害を制限するよりも︑むしろそれを指導するのである︒そしてその法の支配の下に人びとの一般福祉を指

図する以上に出るものではない︒もしかれらがこの法がないほうがもっと幸福になれるのならば︑それは無用なもの

としておのずから消滅してしまうであろう︒われわれはただ沼地や断崖の危険から防ぐ垣根︵冨&oω︶を束縛の名で

(11)

消極的自由(一)

呼ぶのは当らない︒それゆえ︑いかに間違った立法がなされることがあっても︑法の目的は自由を廃止したり抑圧し

たりするのではなく︑自由を保存し拡大することにあるのである︒なぜならぽ︑法にしたがう能力をもつ被造物たる

人間のあらゆる国家においては︑法がないところに自由はないのである︒そして自由とは他人からの抑圧とか暴力を

免れることであるから︑この種の自由は法のないところではありえないのである︒それは前述のような﹃だれでも自

分の好きなことをしてよい自由﹄ではないのだ︒なぜならば︑もしひとが自分以外のあらゆるひとの気分に支配され

るとしたならば︑どうして自由でありえようか︒そうではなくて︑自由とは︑自分がしたがっている法の範囲内にお

いて︑好きなままに自分の身体︑行動︑所有物および全私有財産を自由に処理し︑調節しうる状態︑そしてそこにお       ︵40︶いて他人の気儘な意思に服従せずに︑自由に自分の意思にしたがいうる状態である︒﹂

 そしてロックは︑自由を確保するためにさまざまな工夫をしている︒すなわち︑信託論や権力分立論などがそれら

である︒ 最初に信託論を取り上げてみるならば︑それはロックがその社会契約論の第二段階において主張していて︑かれ独       ︵41︶特の社会契約論にしているものであるが︑中世の土地に関する開平法についてのイギリス特有の概念である︒それ

は︑私法においては三人の当事者を含み︑信託の創造侵すなわち信託老としてのAは︑信託の恩恵受益者としてのC

の利益になるように︑受託者としてのBに一定の諸権利を与えるのである︒その場合︑信託者Aに対して︑受託者B

は信託された諸権利を恩恵受益者Cに利益を与えるように行使すべき義務を負うという契約関係にはいるといえるか

もしれないが︑しかし恩恵受益者Cに対しては受託者Bは契約関係にはいらないのである︒すなわち︑受託者Bは単      螂に義務のみを一方的に受けいれる〃片務義務を有しているにすぎないのである︒それゆえ︑信託は通常の社会契約

(12)

とはいえないのである︒なお︑受託者が義務を履行しない場合は︑その信託された諸権利は信託者によって取り上げ

られることは︑いうまでもない︒

 そのような信託概念を政治理論に導入すると︑実際にはω信託者であると同時に恩恵受益者である国民−共同体

1すなわち国民−共同体が一人二役を演じ︑ここにロックの政治的信託論のポイントがある一と︑②受託者で

ある立法部あるいは政府のただ二つだけの当事老が存在することになる︒信託者としての国民−共同体は︑受託者と

しての立法部もしくは政府と契約関係にはいるといえるかもしれないが︑受益者である国民−共同体はいかなる契約

関係にもはいらないのであって︑ただ一方的に恩恵を受けるのみである︒また受託者としての立法部や政府も受益者

としての国民一共同体とのいかなる契約関係にもはいらず︑それはただ一方的に受益者に利益を与えるという義務を

負うのみである︒すなわち︑立法部や政府などの政治的受託者の地位は︑一方的な義務の負担のみを意味するのであ

る︒そしてもし立法部や政府が信託された一定の権限を濫用したり︑利益不供与などの怠慢行為があったりする場合

−信託違反行為があるとぎ  は︑信託者である国民−共同体は手許に留保している基本的権限を行使して︑受託

者である立法部や政府から信託していた一定の諸権限を取り上げ︑罷免あるいは更迭して︑その自由を確保するので

ある︒そのような信託論を︑ロックはたとえぽ次のように表現している︒

 ﹁立憲国家がそれ自身の基礎の上に立ち︑それ自身の性質にもとづいて行動するとき一すなわち共同社会の保存

のために行動するとき一には︑そこには唯一つの最高権力しかなく︑それが立法権である︒これには他のものはす

べて服従するし︑また服従しなければならないが︑しかし立法権とはある目的のために行動する信託を受けた権力に

すぎず︑立法部がそれにおかれた信託に反する行動をとることがわかれば︑国民には立法部を免職させたり︑更迭さ

116

(13)

消極的自由(一)

せたりする最高権力が依然として許されているのである︒すなわち︑ある目的を達成するために信託をもって委ねら

れた権力は︑すべてその目的によって制限を受けるから︑その目的が無視されたり︑反対されたりすることが明らか

になれば︑いつでも︑その信託は当然喪失されなければならない︒そして権力はそれを与えた人びとの手に移され︑

かれらが自分たちの安全︑無事のために最適と思うところにそれを新たにおくことが許される︒このようにして共同

社会は絶えず最高権力を保持し︑なにびとたるを問わず︑たとえかれらの立法・者であっても︑臣民の自由と私有財産

とに相反するような計画を立てて実行するほどの愚行︑不正を示せば︑共同社会としてはかかる試みや企てから自己

を救うことができる︒すなわち︑だれも︑いかなる人間社会も︑他人の絶対意思と専制支配に対して自己保存権を︑

したがって自己保存の手段を引き渡すべき権力はないので︑まさにこのような奴隷状態に陥れようとするものがあれ

ば︑かれらは当然自分たちに手放す権力のない己れの生命を常に保存し︑その社会加入の目的でもあった自己保存と

いう︑この根本的な神聖かつ不変の法則を侵害するものの危険から免れるべき権利を有するのである︒このようにし

てこの点において︑共同社会こそ常に最高権力が存在するといえよう︒ただし︑それがなんらかの政体の支配下にあ

るとみられる場合にはそうではない︒なぜなら︑この国民の権力とは︑政府が解体してはじめて発生すべきものであ

     ︵42︶るからである︒﹂

 以上のような信託の概念は︑後に議会によって受けいれられ︑F・W・メートラソドがいっているように﹁すべて      ︵43︶の政治権力は信託であるということは︑議会の常套語となった﹂のである︒また奉仕国家︵ωΦ﹁<一〇Φ ωけ9け①︶や︑公務

を泣く=ω軽く一8と︑公務員を9≦一ωΦ署⇔暮というのも︑この信託概念における立法部や政府を一方的な義務の所      17有者一一方的に国民に利益を与えるもの︑サーヴィスするもの一とみなすところがら生じていったのである︒  1

(14)

 次にロックの自由と権力分立論との関係であるが︑かれの権力分立論は︑その影響を強く受けて三権分立論を主張

したモンテスキューとは違って︑一応 ω立法権②連合権︑㈹執行権の三権を列挙した後︑②と㈹とを厳密に分立

・独立させていず︑また司法権への関説も少く︑立法権と執行権を詳細に取り上げて論じ︑その分立・独立を主張し

  ︵44︶ている︒したがって︑ロックの権力分立論の理論的体系は︑J・W・ガフが指摘しているように︑︑︐笹Φδσq一ω一鉾ぞ0

9。ケ傷昏08日げ冒Φ仙①×Φo葺ぞ㌣ho傷Φ七一ぞΦ−冒巳ユ巴..の二つの分立した権力を含んでいる  真意分立論一といえ

 ︵45︶よう︒そしてロックは︑権力分立の根拠を次のように述べている︒﹁法律を制定すべき権力を有する同一人物が同時

にその法律を執行すべぎ権力をも手中に握るということは︑とかく権力欲に駆られる人間性の弱点にとって大きな誘

惑であろう︒その際かれらはみずから制定する法律に服従すべき義務から自分たちは免れて︑その法律の制定におい

ても︑執行においても︑それがかれら自身の個人的な利益に適合するようにし︑そのようにしてかれら以外の共同社

会の人びととは別個な︑そして︑社会と支配の目的に相反するような利害関心を抱くにいたるかもしれない︒したが

って︑秩序正しい共同社会においては︑全体の福祉が充分に考慮に入れられることから︑立法権はさまざまの異なっ

た人びとの手中に委ねられる︒かれらは適当に集合すると︑かれらだけで︑あるいは他と共同で︑法律を制定する権

力をもつが︑一度制定してしまえぽ再び解散して︑かれ自身がみずから制定した法律に服従するようになる︒これ       ︵46︶は︑かれらが心して公共の福祉のために法律を制定するために︑かれらに新しく密接に課せられた覇絆である︒﹂﹁法

律は一度でかつ短期間に制定されるが︑不変の永続的な力をもつので絶えず執行されなければならず︑またそれにと

もなって監督などの仕事をも必要とする︒それゆえ︑制定され︑ずっと効力を続けている法律の施行を監置すべき権       ︵47︶力が常に存在することが必要となるのである︒このようにして︑立法権と行政権とはしばしば分離される︒﹂

118

(15)

消極的自由(一)

 このように︑権力分立は恣意的専制からの自由を守るためのものであることを︑ロックは明らかにしている︒と同

時にまた﹁人による支配﹂ではなくて﹁法による支配﹂の不可欠性をも右の諸引用文のなかでロックは説いている

が︑それもまた恣意的専制からの自由のためであることはいうまでもない︒それゆえ︑ロックの権力分立論は立憲国

家︑法治国家︑自由国家︑権力分立国家の端緒を開くと同時に︑モンテスキューに多大の影響を与えたのである︒

 またロックは国民の〃叛乱権︵けげΦ ﹈刃一σqげけOh 閑ΦσO一目O昌︶に一応言及しているが︑それは透徹した理論によって      ︵48︶明快には主張されていないものの︑それも結局は専制権力の支配や抑圧からの自由を説きたかったからにほかならな

いのである︒

 さらに︑ロックの自由観に関しては︑かれの﹃寛容に関する書簡﹄に述べられている思想も欠かすわけにはいかな

い︒この﹃書簡﹄執筆の背景には︑ω当時のイギリスにおける宗教界においては三つ巴︵国教徒︑プロテスタント︑

カトリック教徒︶の血で血を洗う凄惨な闘争があり︑それが政争とも直結し︑かつ自然権や公民権を著しく侵犯した

こと︑②そうした情勢下にあって︑クラソストソも指摘しているように︑少くともアソグローサクソン系諸国家にお

いては近代的自由はそのような宗教的闘争のなかにおける宗教改革−とくにプロテスタソティズムーのなかから

誕芒たこ塗などがあ・たであろう・︒ックはそのような背景と情芝鋭い・スを入れて︑ω自然権や公民権羅

持して自由を確保するためには︑政権分離と︑宗教における自由と寛容が不可欠なこと︑②宗教における自由と寛容

とを混同してはならないこと︑㈲個人の領域には為政者−国家やなにびとの介入をも絶対的に許さないところの基本

的な精神的領域があること︑ω個人主義︑等々をこの﹃書簡﹄のなかで切々と説いて︑単に宗教的寛容についてのみ

ならず︑その影響において近代的自由やデモクラシーの基本への軌道を敷いたことは︑かれの偉大な貢献であった︒

119

(16)

 ﹃書簡﹄の内容を要約すれば︑以下の通りである︒まず︑位ックの見解の根本は︑カトリック教徒と無神論者とを         ︵50︶寛容の対象外においたという難点はあるが︑〃政教分離と宗教的寛容1その根底には〃自由の強調が横た

わっている一を説き︑その論理においては宗教のみならずデモクラシーにおける寛容に関して今日にいたるまで真      ︵51︶      ︵52︶理であるところのものを伝えており︑﹁偏狭な精神が悲惨と混乱の原因だ﹂と断じ︑〃熱狂的な狂信者の同じ教会仲

間や他教会や他教派に対する〃火と剣による迫害に反対して︑寛容と〃理性と〃知性と〃討論を強調し

    ︵53︶た点にある︒

 右のような基本的見解の下に︑ロックはまず第一に︑宗教の問題と政治の問題を区別し︑その両者の間に正しい境

界線を設けることが必要だと︑政教分離を主張し︑それをしなければ︑一方で人間の魂のことに関心をもつ人びと

と︑他方で国家に関心を抱いている人びととの相互の闇に︑絶えず起こってくる争いに結着をつけることができない

   ︵国︶と論ずる︒すなわち︑宗教は教会の管轄に属し︑﹁教会とは︑人びとの自発的な集まりであり︑人びとが神に受け容

れられ︑かれの魂の救済に役立つと考えた仕方で神を公けに礼拝するために自発的に結びついた人びとの集まり﹂︑       ︵駈︶つまり﹁自由で自発的な結社﹂であり︑かつ﹁だれも生まれながらにある教会の一員であるのではなく﹂︑また﹁魂       ︵56︶への配慮は︑いかなる他人にもゆだねられない﹂ものであり︑﹁すべての教会はその自由の基礎に寛容をおくことを       ︵75︶       露︶義務づけられ︑良心の自由こそすべてのひとの自然権である﹂ので︑教会への加入およびそれからの脱退は自由だ︑

と主張している︒それに対して︑政治は国家に属し︑﹁国家とは︑人びとがただ自分たちの社会的利益を確保し︑擁

護し︑促進するためにつくった社会﹂であり︑その﹁社会的利益とは︑生命︑自由︑健康︑身体の安全︑さらに貨幣

や土地や住宅や家具などのような外的事物の所有のこと﹂であって︑﹁そのような現世的な事物の正当な所有を︑平

120

(17)

消極的自由(一)

等な法の公平な施行によって︑国民全般に︑また臣民の一人一人に確保するしことこそ﹁為政者の義務﹂なのであり︑

為政者は﹁そのような他人の権利を犯すひとを罰するために︑全国民の力を集めて武装しているわけ﹂であるが︑

そうだからといって﹁為政者の権限はそうした社会的な事柄以上には及ばない﹂のであり︑したがって為政者は﹁決

して魂の救済にまでは手を伸ばしえないし︑また伸ばすべきではない﹂︑すなわち﹁魂への配慮は為政者の関知する      ︵59︶問題ではない﹂と︑論断している︒

 第二に︑宗教問題に関して︑自分たちのやり方に合わないものはすべて非難する狂信者たちの力−粗暴な言動I

Iによる迫害を戒め︑もしそれによって危害を加えられたり︑社会的な権利や利益の享受を妨げられたりする場合

は︑そのような狂信者の行為は宗教の領域の問題ではなくて政治の領域の問題であり︑いかなる個人も教会も︑宗教

上の相違を理由として︑他人の社会的権利や現世的財産を侵す正当な権利をもっていないので︑公正な法によってそ      ︵60︶の被害者の権利を保障することが為政者の義務であることを指摘し︑真の救済的宗教は心の内的確信のうちにあ

るのであり︑外的な力によって何ごとかを信じるように強制されることがないのが〃知性というものの性質だと︑      ︵61︶真の宗教と知性との関係を適切に説き︑信仰箇条や礼拝形式などは魂の救済にとっては本質的なものではなく︑第二

次的なものであるので︑教会の自由にまかせておけばよく︑それに従わない信者がいるときはただ除名や脱会の手続

きをとって︑それ以上の処置に出ては不可であり︑あらゆる教会の雄弁なひとたちは〃理性的な議論の限りを

つくしてできるだけ人びとの誤まりを打破すべきで︑決して理性の足りないところを力という手段で補ってはならな

    ︵62︶いのであり︑各人は熟慮の末に良しとする教会を選んだり自分が信じる方法で神を礼拝したりする権利があるのだと  ︵63︶      ︵64︶いって︑現世に生きる不完全な人間の永遠の幸福への到達のための道の多様性を説ぎ︑個人の魂への配慮に関する

121

(18)

      ︵65︶〃寛容を強調し︑そのためには〃注意と節度が肝要であることを述べている︒

 第三に︑宗教上の事柄に関して︑自分の雄弁や学識の不足を助けるために︑別の管轄に属する為政者の権威の助け

を借りないようにする注意を喚起し︑もしそのようなことをするならば︑﹁口ではひたすら真理への愛をいいながら︑

火と剣だけをしか求めない激しい熱情が自分たちの野心を暴露することになり︑その望みが現世的な支配であること       ︵66︶を示すことになってしまいます﹂と︑熱狂的信者の本心を看取・喝破している︒

 第四に︑ロックは︑﹁国家にとってもっとも危険な害悪は︑人びとが自分たち自身および自分たちの教派に︑もっ

ともらしい欺購的な言葉で装ってはいるが︑実際には共同体の市民的権利に反するようなある特別な特権をひとり占

めにする﹂ことを意図し︑現実には﹁強くなってそういうことをやれるまでの間︑為政者に自由や寛容を求める﹂と       ︵67︶き生じるのであって︑﹁そのようなものは為政者によって寛容に取り扱われるべき権利はもちません﹂と繰り言えし

強調して︑寛容や自由には厳しい限界があることを明示している︒

 そしてその寛容の限度に関してであるが︑ロックにおいては︑宗教的寛容の場合には前述のようにカトリック教徒

と無神論者を除いては一その理由は註50を参照されたい一無限であるが︑政治的寛容の場合には無限ではない︒

すなわち︑政治i政府の本来の目的は既述のように国民の生命︑自由︑財産−自然権一の維持にあるので︑他人

の自然権を侵害するものが出現するときは︑そのものに対して政治的寛容は停止して︑政府−為政者は公正な法をも

ってそのものを処罰しなければならないのである︒ただし︑そうでない限り︑政府は最大限の自由を国民に享受させ

なければならないことは︑いままでの文脈から明らかである︒したがって︑この点で︑クラソストソが戸ックをしてい

わしめているところの﹁国民によって享受される自由の程度は︑政府によって発揮される寛容の程度と照応するので

122

(19)

消極的自由(一)

       ︵68︶す︒私は国家の安全と両立する限りでの最大限の自由と寛容の両方を主張したいと思います﹂という言葉は︑当をえ

ているといえよう︒       ︵69︶ なお︑ロックは︑﹁まず第一に神に︑しかる後に法に︑服すべきである﹂ともいっているが︑それは人間には︑な

にびともまたいかなる権力も介入しえない精神的領域があることをいったもので︑国家や社会−共同生活体  を

否定したものでないことは︑いうまでもない︒

 以上のように︑ロックにおいては︑自然的自由は決して放縦ではなく︑理性の法である自然法以外のあらゆる規則

の専横や︑他人の恣意的な専制的支配からの自由であって︑自由と理性との適切な関係を重視しており︑そしてその

自然法から自己の自然権−生命︑自由︑財産iのみならず他人の自然権をも等しく尊重すべきことを学ぽなけれ

ぽならず一その意味において人間は独立・平等である一︑その範囲内において人びとが適当と思うままに自己の

身柄や財産を処理する自由が自然的自由なのである︒

 また︑かれの社会における自由一あるいは政治的自由−も︑単なる抑制からの自由ではなくて︑国家設立の目

的である各人の自然権の保全一自己保存iのために︑絶対専制権力からの自由︑専横で不法な違憲の愚昧な抑制

からの自由であり︑そのために立法部と政府などの政治権力の分立を説ぎ︑しかも立法部や政府やその他の国家諸機

関のもつ政治権力は国民がその権力の一部を信託したものであり︑もしその信託に違反して権力を濫用したり怠慢行

為があったりして︑国民の自然権を侵害する場合には︑国民はみずからに依然として留保している基本的な最高権力

を発動して︑立法部やその他の諸機関を免職させたり更迭したりすることができるのだとして︑国民が最高権力を有       必ずることを強調し︑またいかなるひとも国家諸機関も法に従うべきことを力説し︑そしてその法は立法部において理

(20)

性的な討論を通じて︑国民の自由を保存拡大するように︑多数決によって判定されるべきものであると断じている︒

 さらに︑寛容に関しては︑ロックは︑宗教的寛容に関しては無限でなければならず一かれの場合は前述のように

カトリック教徒と無神論者を例外としたがi︑宗教的問題は力ではなくて︑寛容と理性と知性と討論によって解決

をはかるべきだが︑魂の救済への配慮は最終的には各個人がなすべきで︑それにはなにびともいかなる国家権力も介

入してはならず︑そして宗教と政治は分離すべきだと論じ︑個人にはなにびともいかなる権力も介入し︑兄ない精神的

領域が存在することを見事に指摘している︒政治的寛容については限度があり︑いやしくも個人の自然権を侵害する

ものがあれば︑そのものは公正な法によって為政者は処罰すべぎだと主張している︒

 こうみてくると︑ロックが描いた社会像はまさしく﹁寛容な︑開かれた社会﹂だ︑といえよう︒そしてダソトレー

ヴは︑消極的自由には三つの基本的要求があり︑それらは ω障碍の除去i﹁からの自由﹂︑②個人的独占の分野      ︵70︶の確保︑㈹国家行動を周知の判然たる限界の内に局限すること︑であると述べているが︑右のようなロックの自由観

はまさにそれらの諸要求に適合している︒またイギリスの自由主義が︑クラソストソが指摘しているように︑無政府

主義に通じる極端な自由を主張するのではなくて︑政府に由来するさまざまの束縛を減殺しようとする場合︑減殺の

要求に限度を設け︑それ以上の減殺は不可能であるという点の存在することを認める︑すなわち国家の加︑兄るさまざ

まの束縛のうち︑国家内の秩序維持︑外国に対する防衛︑合法的な財産の安全iロックのいう﹁生命︑自由︑およ

び財産﹂︵自然権︶一の保障に必要な束縛は受け入れ︑それ以外は国家の束縛を最小限に食い止めようとする最小       ︵71︶限支配国家︵第一昌一bPO一 QD一斗轡①︶の理論だとすれば︑それはホッブズにではなくて︑ロックに発し︑今日もなお戸ック

の理論を継承しているといってよいであろう︒

124

(21)

消極的自由(一)

 註︵1︶ たとえば︑冨.O鑓昌ω89笥N①o鮎︒βω二二①匹二日⑩①S戸ωω.小松茂夫訳﹃自由﹄︑五一頁参照︒

︵2︶ 目●出︒げげ09Hoく冨爵9戸︒げ・×一く.

   自由を単に﹁外的障碍の欠如﹂とするこの欠陥に関しては︑拙稿﹁自由の哲学的意味﹂︑本誌第一六号︑昭和五二年︑一

  〇二一三頁を参照されたい︒

︵3︶ 一び匡こ︒戸×昌■

︵4︶ 詳しくは︑拙著﹃政治理論の基礎としての人間性論﹄︑昭和四三年︑第一部︑第二章を参照されたい︒

︵5︶β誠︒げげ①ω層8■︒凶ご︒戸×蚤.

︵6︶ ダントレーヴ著︑石上良平訳﹃国家とは何か﹄︑昭和四七年︑二四九頁︒

︵7︶↓口9げ︒︒・噂8.鼻こ9■×図挫

︵8︶ 守乙二〇F×<.

︵9︶ ホッブズの国家設立のための社会契約論の詳細については︑拙著︑前掲書︑二五−八頁を参照されたい︒

︵10︶ ダソトレーヴ著︑石上訳︑前掲書︑二四九頁︒

︵11︶ 目.国︒げげ︒ω層8●o一一二昌●×巴.

︵12︶ 竃.O鑓昌馨︒戸8・9け二娼H9小松訳︑前掲書︑二二i三頁︒

︵13︶ いピ︒騨P国ωω電︒自oo旨一昌oq鼠ロヨ引掛d巳Φ諺冨巳冒oq︵以下国︒・︒︒Ω・団と略称︶閏℃o拝鯉励︒︒■

︵14︶ 竃●O冨器8P8●9件二弓℃■日G︒一O.小松訳︑前掲書︑二七i八頁︒

︵15︶ ︸●Ho爵98.o一一二⑳8.

︵16︶ 冒匡二ゆ㎝悼.

︵17︶ ぎ一α二謝ωOムS

︵18︶ Hぴ置こ吻ミ●

︵19︶ 守筐こ吻心G︒●      25

噛(Q0︶ Hピ︒爵ρ目≦o↓8鉾一ωoωo︷〇一く二〇薯︒目pヨ①三︵以下目謹︒↓﹁$け冨︒ωと略称ソ閏oゴ■鐸伽9      1

(22)

翁翁貧お翁露曾露露翁翁金盆翁翁露曾露露露翁翁翁

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一・いOO吋ρ国ωω9畠ざ一讐Oげ.一〜㈱目P

旨ピOO犀P日≦O﹈副O薗二ω09押⑳㊧αQo甲Go①⁝一押伽卜⇒①.

9巴OO屏¢鱒国ωωOざ一一噛Oげ◎卜∂GQサ伽伽①IH卜⊃■

一ぴ一住こOび.幽く噂⑰μ卜⊃︒

言.O量霧8p団9一二〇里∪一90σq口︒ρ這①︒︒.山下重一・中野好之・岡和田常忠訳﹃政治的対話篇﹄︑昭和四八年︑七九頁︒

匂.ピOO評ρ目ミO目㎏O麟謡ωOo陰−一一讐働㈲OoQ目N合μ①倉bQω9

一σHO6匠ρ国のωロざ一一讐Oげ匿卜⊃QQ︾伽⑰刈1㊤●

9ピOO犀ρ目毛O目円O牌臨ω①ω噂 一曽㈱幽■

一び凶住二⑳O・

一ぴ一匹二㈱HO.

一げ凶ユ.︾⑳b∂α・

q︒●即冨ヨ凛︒︒算目冨竃︒﹁薗一9︒巳℃︒犀89︒一℃匡︒ω8ξ︒︷匂︒ぎい︒︒冨口㊤μ︒︒ら﹂鎗●.

≦.国・∪信昌ロ一⇔σqり﹀=一馨O鳳団Oh℃O嵩自O話合ケ①〇二①ω︾<9.H一噂μ㊤同ωO.ω幽①.

匂・ピOO吋O噛﹂﹃≦O目鴇O謡ωO乙ロ︾一一り㈱㈱目bσ劇一①・

一げ凶O二吻N卜⊃卜⊃.

一σ一匹二㎝卜︒斡

一げ凶ユニ吻α刈・

∪・O・閑一ぎ三9目ゴ①℃二琴一b一ΦωOhω38ぎ8は震︒昌︒ρ目︒︒Oい北岡勲訳﹃国家干渉の原理﹄︑昭和二九年︑八二頁︒

旨・HOO犀ρ目≦O↓﹁Φ層二〇〇①ω曽目噛⑳卜⊃ω●

一ぴ一山こ⑳08

詳しくは︑堵.寓.O色畠9芦国一〇旨Φ三のoh国昌oq房ゴピロ〜娼戸卜︒Hム①●を参照されたい︒

﹄・ピOO閃ρハ門≦O↓﹃Φ暫二ωOω曽一押㎝H幽O・

聞・芝・﹈≦餌謬冨昌α一一昌一﹃O挺出〇仲凶O昌けOO●O一①﹁ズ①矯ω勺O=二〇留目﹃ΦOユ①oワOhけずO︼≦一回α一〇︾αqPH㊤0どO.××︿凶●

126

(23)

消極的自由(一)

︵44︶ 9Hoo冒Φ闇↓ミ︒目話彗冨①ρ拝謬=㌣c︒.を参照されたい︒

︵45︶ 一.≦.Ooρo亀戸一〇げ昌ピ︒降︒︑ω℃oヨ凶09勺三δの︒ロげざ一㊤α9戸㊤刈.

︵46︶ 匂●Ho昆︒噂目≦o目Ho餌謡のoρ 押伽=ω.

︵47︶ 守崔二⑳ぱ幽曾

︵48︶ ロックの叛乱権躍に関しては︑拙著﹃国家と民主主義﹄︑昭和四八年︑九八−一〇〇頁を参照されたい︒

︵49︶ と●99・昌ω↓oP聞器巴︒ヨ讐Oロ冒00よ●小松訳︑前掲書︑八六頁︒

︵50︶ いピ︒畠P︾目①穽窪8昌8﹃ロぎoq↓90国語自︵以下︾ピΦ算葭と略称︶−O口勺︒鐸一$①ロα国巳︒鉾一〇ロー匂︒ゴづ

  日oo吋︒・oα・ξ即閑・℃o昌艮ヨ曽Pμ罐8宕.O①−SO︒︒を参照されたい︒

   カトリック教徒を宗教的寛容の対象外においた理由は︑当時のカトリックが宗教的支配と同時に政治的支配を狙ってお

  り︑かつ教皇はローマ教皇であったからだ︑とロックが考えたゆえと推察される︒そのことをロックは明確にではないが︑

  次のような表現で述べている︒

   ﹁国家にとってもっとも危険な害悪は︑人びとが自分たちおよび自分たちの教派に︑もっともらしい欺哺的な言葉で装っ

  ているが︑実際には共同体の市民的権利に反するようなある特権を︑ひとり占めにするときに生ずるものです︒たとえば︑

  ひとは約束を守る義務がないとか︑国王は宗教を異にする人びとによって廃位させられうるとか︑すべてのものの所有権は

  自分たちにだけあるとかいうことを︑明らかに公然と教える教派は︑いっこにも見当りません︒⁝⁝それにもかかわらず︑

  同じようなことを違う言葉でいっている人びとはいるのです︒⁝⁝破門された国王はその王位と王国とを失うと人びとが主

  張するとき︑その意味はどういうことでしょうか︒それによって国王の廃立権を自分のものだと称していることは明らかで

  す︒かれらは破門の権利が僧職階級の特権であることを要求しているからです︒支配権の基礎は恩寵にあるという主張もま

  た︑明らかにその主張者がすべてのものの所有を要求するためのものです︒﹂

   ﹁さらにまた︑その教会にはいると︑そのことによってみな他の国王の保護下にはいり︑またその国王に奉仕することに

  なるという前提に立ってつくられている教会は︑為政者に寛容を求める権利をもつことはできません︒なぜならば︑これに

  よって為政者は自分の国のなかに外国の支配が樹立されるのを容認することになるでしょうし︑自国の国民が︑いわば自分 貯       1  の支配に反対する兵士として登録されるのを許可することになるでしょうからです︒﹂

(24)

   また︑このカトリック教徒と寛容の問題に関して︑クランストンはロックをして以下のように語らせている︒﹁法王主義  者の活動は決して宗教的礼拝の整とどまるものではないのです・かれらは政治的陰謀に・それも外国の権力のための陰謀伽

  に励んでいるのです︒かれらのいう法王なるものは外国人であります︒⁝⁝これらの措置は宗教的寛容というよりも政治的

  寛容にほかなりません︒﹂︵山下・中野・岡和田訳︑前掲書︑六七頁︶

   無神論者を宗教的寛容の対象外においた理由については︑ ロヅクは以下のように述べている︒﹁神の存在を否定する人び

  とは︑決して寛容に扱われるべきではありません︒人間社会の絆である約束とか契約とかは︑無神論者をしぼることはない

  のです︒たとえ思想のなかだけのことにしても︑神を否定することは︑すべてを解体してしまいます︒﹂.

︵51︶ ﹃寛容に関する書簡﹄の英訳者≦●℃8風︒の﹁序言﹂より︒

︵52︶狂信〃について︑μックは﹃人間知性論﹄のなかで︑﹁理知にも神の啓示にも基づかず︑のぼせた頭脳の︑あるいは思い

  上った頭脳のうぬぼれから起こるが︑一度しっかり立てられると︑理知と啓示より人びとの信条や行動へ強力に働きかける

  のです﹂︵一. ︼じOO胃①嘘 ﹈円のωβ◎団噛 同ノN燭 Oげ■ HO魑 ⑳刈︶と述べている︒

︵53︶ 一.い︒畠ρ﹀いΦ=臼層8.o凶けこ℃戸卜◎b︒19卜∂9ω9G︒鼻■

︵54︶ 一げ置こ冒O︒卜Qや9

︵55︶ Hげ乙こOO・卜⊃刈10︒.

︵56︶ 一σ達ニロ●卜⊃α・

︵57︶ 一σ達二〇αP

︵58︶ 一σ崔二㌘卜⊃G︒●

︵59︶ 一ぴ置ニロ戸卜⊃軌よ・

︵60︶ 一σ一αこO.ωH−ら︒ら■

︵61︶ 一σ一α二b●卜Q①■

︵62︶ Hぼ傷二弓.ω①●

︵63︶ 一σ凶α畠弓O■Nρ①P

︵64︶ Hび崔二U.ωQ︒●

(25)

(  (7170

)  )

(  (  (  ( (

69 68 67 6665

)  )  )  ) )

Hぴ建二や︒ω①■

一び一q二唱O●ω①一刈.

一σ置二℃Pα①一N

山下・中野・岡田和訳︑前掲書︑六九頁︒

旨い︒畠ρ︾ピ①暮︒が︒戸︒一£緊α9

ダγトンーヴ著︑石上訳︑前掲書︑二五五頁︒

竃■O謎pω8戸岡お︒匹︒戸づ℃.およρ小松訳︑前掲書︑七七頁︒

消極的自由(一)

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参照

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