第2回目は,1973年3月。公式には,大阪青年会議所の派遣したミッショ ンの一員としてフィリピン・ケソン市で開催された JC アジア・コンヴェン ションへの出席途上の訪台北である。 前年1972年9月の日中国交正常化に伴う台湾の日本との外交断絶宣言をう けて,政経不可分の原則下,関係が切られる日台間の経済関係維持の方途を議 論するために,商都大阪の青年経営者が台北青年会議所との懇談も持つ目的の 訪問であった。日本青年会議所次期会頭が大阪青年会議所から出ることになっ ていたので,このミッションは先駆のような役割を担っていたのである。その とき私は,大阪青年会議所国際委員会のアドヴァイザーの資格で同道してい た。 旅装を解き,われわれだけの夕食後,指定された会場の台湾青年会議所に向 かう。儀礼的挨拶を交わした後,早速始められた議論は激しく,終了した時は 日付が変わっていた。ホテルへ戻ると,道中の疲れもあって私はベッドへすぐ 入った。 翌日,昼餐の席で何もなかった風情で,「乾杯」「カンペイ」と乾した杯の底 を見せ合う中国流で,台湾サイドの出席者と杯を重ねる若手経営者のタフさ加 減に私は驚かされた。その後の日程でも,コンヴェンションの席でも,また団 員の昼となく夜となく間断なく続く諸々の行事をこなす若き企業経営者たちの タフさ加減に私は驚かされた。 飛行場への往復の車窓から眺めただけの台北ではあったが,先の滞在のとき から4ヵ年の間に確かに発展していた。目の前にいわゆるアジア的な町並みが 整い,それが広がっていっているのが伺われた。街を行く人々の歩みも活発さ を増している,と印象付けられた。 * 1987年5月17∼20日,汎太平洋地域の広範な問題に関心のある社会科学研 究者をはじめ,各界各層の参加者を集める国際学会 Pan Pacific Conference ! への参加が,私の第3回目の台北訪問の機会となった。台湾の迎賓館と言われ る圓山大飯店(The Grand Hotel)が会場であった。かつて台湾神社の敷地跡で
あったというこのホテルの玄関へ向かう坂道は,途中で上りと下り専用に二股 に分かれる。その分岐点のところに,衛視が立っている。そして其の制服は, 戦後東京のいたるところでカーキー色のジープと一緒に出くわした進駐軍の MP(憲兵)のそれにそっくりで,銃剣を着けた銃に,私は国民学校・小学生 時代の記憶をよみがえらせ恐怖感に似た感情を持ち一瞬たじろいだ。滞在中, なぜか其の気持ちを払いのけることができなかった。 衛視の存在は,台湾のおかれた国際的環境とその中での台湾の人々の緊張感 の表れなのだと思った。日本との間に公式の外交関係がなくなって15年にな り,台湾は亜東協会(現駐日台北経済文化代表処はその駐日事務所),日本は交流 協会がそれぞれ民間の立場で,いわゆる外交・領事業務をこなしている。私の この時のビサは,亜東関係協会東京弁事処で発行されていた。 この国際会議は,私の今までの国際会議出席の限られた経験の中でも異色で あった。この P.P.C.は,いつも開催国の関係機関を挙げての組織化が特徴で ある。当時の R.O.C.(中華民国)政府の機関が多く主催,共催団体として名を 連ねており,時の李登輝副総統が開会式でスピーチをしたことは記憶に残る出 来事であった。台湾政府の国際資本導入への多大の関心が率直に表明され,会 場にいる台湾関係者に対しても企業活動活性化の檄を飛ばすという趣のスピー チであったと記憶している。手元にある会議のスケジュール表の最初の1ペー ジには,当時のロナルド・レーガン・アメリカ合衆国大統領からの挨拶状のコ ピーが載っている。