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憶良と旅人

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Academic year: 2021

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Title

憶良と旅人

Author(s)

阿蘇, 瑞枝

Citation

阿蘇瑞枝:若手研究者支援プログラム(三)(奈良女子大学21世紀

COEプログラム報告集vol.20), pp. 2-13, pp. 70-75

Issue Date

2008-07-31

Description

奈良女子大学21世紀COEプログラム(若手研究者支援プログラム

)・(財)奈良県万葉文化振興財団・万葉古代学研究所共催 平成

29年8月25日開催の「戦後万葉学の歩み」の講演内容と当日配布資

URL

http://hdl.handle.net/10935/3155

Textversion

publisher

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元 日本女 子大 学数 捜 ・阿蕗瑞浪

ただいまは、身 に余 るお言葉をいただ きま してあ りが とうございます。阿蘇で ございます。 今回はこのような席で皆様にお目にかか りま して、お話 しさせていただ くことを大変光栄に思 っ てお ります。 また ご専門の先生方が このよ うに幾人 もい らっしゃるとは、思 ってお りませんで した。恐縮 してお ります。 私 は、今 もお話 しがありま したように、柿本人麻呂の研究か ら始めま して、その時期が長か っ たのですが、 ただ今 は、『万葉集全歌講義』 とい うだいそれた作業 を始 めま して、現在 出てい るのは

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冊、巻四までですが、巻五 と巻六が入 る

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冊 目もほとん ど校了 にな って間 もな く出る とい うところです。巻五 には、今 日問題 に しよ うとしています山上憶良 と大伴旅人の歌が入 っ ています。旅人の歌 は、巻三 ・巻六 ・巻八 などに もかな りあ りま して、巻五 には、十四首 しか 入 っていません。憶良の歌 は、他の巻 に もあ りますが、巻五 にかな り多 くの歌が入 っていま し て、大 いに勉強 させていただ きま した。 そ して、「憶良 はとて も面 白い人だ」 とい う感想 を持 ちま した。今、非常 に憶良 に関心 を持 っているところです。 それで、今回 は、憶良、 そ して、 その憶良 と旅人の関係を見 たいと思 った次第です。 それで、「憶良 と旅人」 とい う題 に していただいたのですが、二人 を対等 にとりあげよ うと いうので はな く、憶良を中心 に置いて、憶良 と旅人 との関係一特 に、心理的関係- を見たいと 思 ったのです。 プ リン トを用意 しま した。 どのよ うなお話がで きるかわか らないのですが、憶 良 に関 しては、素人 に近 い立場 にあ りますので、 あとで厳 しいご批判 を仰 ぎま しょうと覚悟 い た してお ります。 よろ しくお願 いいた します。 憶良 と旅人 は、『万葉集

の第三期の代表的歌人の中に数え られます。普通、『万葉集』 の第 三期 といいます と、山部赤人や笠金村 らが都を中心 にはなやかな作歌活動 を した時代のよ うな 印象があ りますが、憶良 と旅人 も、第三期 -第三期 も終わ りに近 い頃 にな りますが- 筑紫 で、盛んな作歌活動を行 ったので した。憶良が筑前国守 として赴任 してお ります ところに、大 伴旅人が大事師 として赴任 して きて、三年間筑紫 にお りま した。 その三年をはさんで、憶良 は 筑前国守 として筑紫 にいたのです。大宰府があ りま した都府楼跡 は、福岡県の太宰府市 にな り ますが、憶良 の勤務先である筑前国府跡 と都府楼跡 とはとて も近 いところであ ったようです。 役所が違 いますので、始終顔 を合わせ るということはなか ったと思 いますが、旅人 は大事府 の 長官で、筑前 国を含めて九州全体 を統括す る役職で、憶良の上司にあた りますか ら、役 目柄顔 を合わせ ることもしば しばあ ったであろ うと思 われます。 ここでは、その二人が万葉集 に残 し ている歌 を通 して、二人の関係 を見 たいとい うことで ございます。 は じめに申 しま したように、憶良 に非常 に興味を もったわけですが、憶良のどこに興味を持 っ たか といいます と、憶良が率直に感情 を言葉 にあ らわ している点 に興味を持 ちま した。憶良の

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憶 良 と 猟 人 歌 は、巻五 に多 く、天平五年 に亡 くなったと思われているのですが、 その天平五年 の作 もあ り ます。 その中には、漢詩 ・漢文 もあ りま して、「沈痛 自哀文」 なども非常 に正直に自分 の気持 ちを告 白 していて興味深か ったのですが、 それはもう旅人が亡 くな った後で (旅人 は天平三年 に亡 くな りま した)、旅人 とは直接関係があ りませんので、今 日は取 り上 げません。 プ リン トのいちばん最初、

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枚 目にあ ります 「両者」 とい うのは、 もちろん憶良 と旅人です が、 「両者の歌 とその関係」 として、 まず二人の歌 を総覧す るよ うな形で整理 して載せてお き ま した。「山上憶良 (天平五年 七十四歳)」と書いてあ ります。厳密には憶良が五年 に亡 くなっ たのか、六年 に亡 くなったのかわか っていないのですが、五年 の歌 まで しかな くて、 その年 に 七十四歳であるということを憶良 自身が書 いてお ります。 その後の歌 はないので、 その年 に亡 くな ったと思われているのです。 憶良 の歌 も旅人の歌 も作歌総数が何首か ということは、説が分かれていて確か とは言 い難 い ところがあるのですが、一応、憶良が八十首、旅人 は六十二首 と書 きま した. これは多少動 く 可能性があ ります。「確定的でない」 と書 いてお ります。 二人 の関係を見 るために、憶良 は筑前守 になる前、筑前守時代、帰京後 というふ うに分 けて お ります。筑前守 になる前 は六首、筑前守時代 は五十四首、帰京後 は十二百です。 「年代不明八首」 と書 いてお りますのは、巻五のいちばん最後 の 「男子 (をの こ)名 は古 日 (ふ るひ) に恋ふ る歌」 とい うものですが、左注 に 「作者がわか らない。 しか し、憶良 の作風 に似ているか ら、 この位置 に置 く」 と書かれています。 これは、憶良が代作を頼 まれて詠んだ のだろ うと言われているものですが、代作 を頼 まれたとします と、かな り歌人 としての名前が 知 られ、認め られていた時期 と思われますので、やはり筑前守時代ではないか と思われます。 帰京後 は病気が重か ったよ うですか ら、代作を頼 まれることはなか ったで しょうと思われます。 また巻八 の 「七夕の歌」 と 「秋 の七種の花 を詠んだ歌」 ですが、天平二年の七夕の歌 は、旅人 の大軍師時代で、 はっきりと年月が書かれているのですが、 その後 に置かれている歌です。 こ れ も帰京後 は、病気で七夕 の宴 に出て歌を詠む とい うことはなか ったのではないか と思われま すので、筑前守時代 の作であろうと思われます。憶良 は、旅人が帰京 した後 も一年余 りは筑前 国守 と して在任 していたよ うですか ら、天平三年秋 の歌であ った可能性 もあ りますが、一応厳 密 なところ、年代不明 とい うことで、八百 をそ こに入れま した。 それで も筑前守時代 の歌 は五 十四首 あ りますので、作歌数 の多か った時代 とい うことは、おわか りいただけると思 います。 一方、旅人 の方ですが、旅人 は天平三年七月に亡 くな りま した。六十七歳であったことがわ か っています。歌 は、 こち らも動 く可能性があるのですが、私が数えたところでは六十 二首で す。大事師になる前 は僅か二首 しかあ りません。 それ も長歌 と反歌各一首か ら成 る一組 の歌で す。 そ して大事師時代の歌 は四十七首で、帰京後の歌が十三首 あ ります。実 は、私が、 これは 旅人 の歌 に入れた方がよか ったと思 い直 している歌があるのです。一枚 目のプ リン トのいちば ん最後 の行 の 「後人追和歌」 とあるものです。 これ は、「松浦河 に遊ぶ序 と歌」 の続 きなので すが、 その三首 の歌 (八六一番か ら八六三番) には、「師老」 と小 さな字で書 いています。 し

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か し、旅人の作である前の歌 と内容的に矛盾することが歌われていますので、誤字ではないか、 旅人 の歌 とは思えないという意見があ りま して、私 も六十二首 と数えた時には誤字説を採 って いたのですが、その後でまた、旅人の歌 と考えて もよいのではないか と思 った りもしてお りま す。 これを加えます と、六十五首 ということにな ります。 『万葉集』の歌人の中では、大伴家持の作歌数が最 も多 くて、次が柿本人麻 呂、第三位が大 伴坂上郎女の八十四首です。第四位が憶良、続 いて大伴旅人 という順番です。作歌数か ら言 っ て も、憶良 と旅人 は、四位 と五位 を占める注 目 してよい歌人 と言 ってよいのではないか と思 い ます。 ところで、問題 は二人の関係です。 この関係 について、二人が反発の関係 にあ ったと最初 に お っしゃったのは高木市之助先生 だ と思われます。 プ リン トの最後の部分 の 「三 憶良 と旅人 の関係 に関す る諸説」 と見出 しのあるところに、 あげてお ります。憶良 と旅人 に関す る研究書 は非常 に多いのですが、先 はど申 しま したように、私 は憶良 も旅人 も長 く研究 して きたわけで はな く、最近 になって関心 を もって勉強 し始めた ものですか ら、研究書の数 の多 さに驚 きま し た。 このプ リン トは、それを網羅 した ものではあ りません。憶良 と旅人の関係 につ いて、反発 関係 にあったとか、 いや仲がよか ったのだとか、 そのよ うな ことを少 しで も書 いているものを 並べた ものです。落 ちもあると思 います。発行年月 も書かずに失礼 いた しま した。多少後か ら 気がついて私のメモには加 えた もの もあるのですが、 このままご覧いただ きま した。 その一番最初 に、「高木市之助

「二つの生」 とあ ります。高木先生 には 『吉野の鮎』 とい う 有名 なご著書があ りま して、 その中に入 っている論文です。『吉野の貼』 は、1941年 (昭16) の発行です。戦争中の発行ですね。高木先生 は、戦後 も、 この、憶良 と旅人 は反発関係 にあ っ た とい う説 を繰 り返 し書 いてお られ ます。高木先生 ご自身、「反発 の関係 にあ った とい うこと について反対だ とす る説があるけれ ども」 とお っしゃりなが らも、二人が親 しくっ きあ った と して も、それ とは矛盾 しないのだ とおっしゃって、反発の関係 にあ ったとい うことを主張 して お られます。 そ こに 『吉野 の鮎』 と並べて出 しています 「日本詩人選

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の 『大伴旅人 ・山上憶良』 とい う、非常 に読みやすい本があ ります。筑摩書房か ら出ている本です。 その中で も、二人 の関係 について触れてお られます。 「反発」 とい う言葉ではな く、「張 り合 う」 という言葉 を使 ってお られるところもあ ります。 歌人同士、文人同士が張 り合 うことは決 してマイナスではない、マイナスとい う言葉 は高木先 生がお っしゃった言葉ではな く、私が今言葉 を換えていったのですが、マイナスになるもので はない。む しろ文学 を創造す る、 ク リエイ トす る精神 を支え る原動力 として高 く評価 されな く てはな らない、 というふ うにお っしゃってお られます。 それについてはいろいろな方が触れて い らっしゃるわけですが、反発 とか張 り合 うとかいう言葉が、憶良 と旅人 の関係 をいう表現 と して適切か どうかは別 に しま して、 この二人が都か ら遠 く離れた筑紫で、お互 いを意識 しなが ら歌 を詠んでいたとい うこと、上司 と部下 という関係 にあ って、旅人が大宰師 と して筑紫 に滞

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憶 丸 と 猟 人 在 した三年間、お互 いを意識 しなが ら歌を詠んだであろうことは認 め られ ると思 います。 先 はども申 しま したように、旅人が大事師 として筑紫 に赴任す るまでの歌 は、長歌 と反歌 の 一組二首 しか伝わ ってお りません。 に もかかわ らず、筑紫 に赴任 してか らの歌が多数残 ってい るとい うことは、旅人 に歌を詠 ませ る環境があったということで、 それが憶良の歌であった可 能性があ ります。「筑紫文学圏」 とい う言葉があ りますが、 それ も、旅人 の筑紫滞在中、旅人 と憶良 を中心 に した人々の作歌活動 をさ していう表現です。 次 に、後戻 りす るようですが、 プ リン ト

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枚 目の 〔三〕 の条の、「憶良 と旅人の歌 に見 る関 係」 の ところを見ていただきます。

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行 目に 「憶良上」 と書 いて、「上」 に傍線 を引いていま す。 この 「上」 は、「たてまつ る」 と読 むのですが、 この元 にな った原文 の口語訳を、 プ リン ト

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枚 目以降の、「二 歌を通 して見 る憶良 と旅人 の交流 と歌風 の相違」 の条 に、読 み下 しと 並べて書 いています。 最初 の 「日本挽歌一首」の最後、すなわち反歌五首の最後 に、 日付 と憶良がたてまつ ったと い うことを書 いた箇所があ ります。原文 は出 していません。 その読 み下 し文 の最後ですが、 「神亀五年七月二十一 日、筑前国守 山上憶良上 (たてまつ) る」 とあ ります。原文 「上」 を 「たてまつ る」 と訓んでいるのです。憶良が旅人 にたてまつ ったとい う意味です。 また 「謹上」 と書 いた ところ もあ ります。謹 しんで献上す る、 という意味です。 この 「上

「謹上」 とい う 部分 に傍線 を引いておきま した。憶良が確かに旅人 に奉 った歌であることがわか る表現です。 次に、点線 を引いているところがあ ります。「梅花の宴の歌」 と 「書殿 に磯酒す る日の倭歌」 というところ、 そ して最後 に、「師家作 の七夕 の歌」 とあるところです。点線を引いている歌 は、旅人 も出席 している宴席で憶良が詠みあげた歌 ということにな りますか ら、旅人 はその場 でその憶良の歌 を聞いたと思 ってよいで しょうと思 います。傍線 を引いた歌 と点線 を引いた歌 とは、憶良が直接旅人 に贈 った り、旅人 のいる席で読み上 げた りしているのですか ら、旅人が 読んだ り聞いた りしていると考え られますが、その他の歌 はどうだ ったので しょうか。憶良 は 詠んだ歌 をすべて旅人 に奉 ったのだ とい ってお られ る方 もい らっしゃるようですが、それは、 根拠のないことではないか と、私 には思われます。 もしそ うで した ら、 どうして 、「上

「謹上」 と書 いている歌 と書 いていない歌 とあるので しょう。 説明できません。 ですが、多少問題 に してよい歌 を、以下 に取 り上 げてみようと思 います。 まず、 プ リン トの

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枚 目の憶良 の歌 の後 に書 きま した、「旅人 在京 の両君 に贈 る。 凶問 に報ふ る歌」 とある歌 です。 これは、憶良 とは関係 のない歌 なのですが、 このす ぐ後 に、憶良が妻 を亡 くした旅人の 気持 ちにな って詠んだ、漢文 ・漢詩 と日本挽歌 と題す る長反歌があ りますので、「これ もきっ と憶良 に見せ たに相違 ない」 とい う方がお ら・れます。ですが、 これは、一旅人が大伴一族の ごく 親 しい人 に宛 てた書簡 と歌です。私 は、甥 と異母弟 とに宛てた書簡 と歌ではないか と思 ってい るのですが、 そのよ うな内輪の書簡 と歌 とを上司 と部下の関係 にな ったばか りの憶良 に見せ る で しょうか。疑問 に思 います。 それか ら、旅人が京人 と贈答 した歌 (

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・八〇六∼八〇九)があ りますね。京人がだれかは

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わか っていないのですが、 これ も憶良 とは関係のない歌なので、傍線 も点線 も引いていません。 旅人の歌の中で、先 はどの憶良の歌 に関 して見 ま したように、傍線 ・点線を引 こうとします と、 憶良 と同席の宴で詠んだ歌 として、「梅花の宴」で詠んだ歌一首 しかないのです。「憶良 に贈 っ た」 とか、「憶良 に和 (こた) えた」 とか書 いている歌 は一首 もあ りません。宴の歌 も、旅人 邸で開かれた七夕の宴で詠んだ憶良 の歌 はあるのですが、旅人 自身の歌 はあ りません。結局、 旅人 の方 には憶良 と関わ って詠 まれたと見 られ る歌 は非常 に少 ないという結果 にな りま した。 次 に、実際の歌 を通 して見てゆきたいと思 います。

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枚 目のプ リン トですが、「日本挽歌」 か ら始 まっています。巻五 の二百 日にあたる歌です。先 はども申 したか と思 いますが、妻 に死 なれて悲 しみの極みにある大伴旅人の立場 に立 って、その悲 しみを代弁 したと思われる歌です。 旅人 自身 も妻 に死 なれた悲 しみを詠んだ歌を残 していますか ら、二人の歌風 の違 いを見 るのに 最適 ではないか と思 って出 しま した。「日本挽歌」 の前 に、実 は漢文 ・漢詩があるのですが、 今 は和歌だけを取 り上 げています。 旅人 には、先 はどもあげま した 「凶問に報ふ る歌」があるのですが、 これは妻が亡 くな った だけでな く、奈良の都 の方で も大伴氏 と関係 の深 い人が亡 くな った とい う知 らせを受 けて詠 ま a れた もので、亡妻挽歌 と直ちには言えない面があ りますので、 ここでは取 り上 げません。

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枚 目のプ リン ト以下 に、旅人 自身の妻を亡 くした悲 しみを表現 した歌が、年代順 に並んでいます。 最初の一首 は、「右の歌 は、別れ去 にて数旬 を経て作 る歌」 とあ りますか ら、妻が亡 くな っ て数十 日経 ってか ら詠んだ歌 ということにな ります。 次 の二首 には、「右 の二首 は、京 に向かふ時に臨近づ きて作 る歌」 とあ ります。旅人が帰京 したのは、天平二年十二月です。旅人が大納言 に任命 されたのがいっか とい うことは、続 日本 紀 に記事が見えないので、 はっきりしないのですが、万葉集の巻十七 に、旅人の従者たちが旅 人 とは別 に海路京 に向か う時の歌があ りま して、 そ こに、「天平二年庚午の冬十一月、大宰師 大伴卿の、大納言 に任ぜ られて-」 とあ りますので、十一月に任命 された可能性が大だ と思わ れます。 それで、 この 「京 に向かふ時に臨近づ きて」 とあ りますのは、天平二年の十一月 とい うことにな ります。 次の五首 は、 その年十二月 に京 に向か って出発 した旅人が、草丙の浦を通過す る日、敏馬 の埼 を通過す る日に、大事府 に赴任す る際 に同行 の妻 と共 に眺めた ことを思 い出 しっっ、亡 き妻を 偲んだ歌です。 最後が、「故郷 の家 に還 り入 りて、即 ち作 る歌三首」 とある歌です。以上 の十一首が巻三 の 挽歌 の部 に入 っている亡 き妻を思 って詠んだ歌のすべてです。 これ以外 に、旅人が妻の死 を悲 しむ歌を詠 まなか ったとは言えないのですが、あまり詠 まなか ったか ら残 されていないので しょ うと思わざるを得 ません。短歌 のみです。都 の家 に着 いた後 の三首 にな って、「疾 し流 る」 と か 「苦 しか りけり

のような表現があ って、最 も感情が高 まったよ うな歌を詠んでいます。 一方、憶良 の 「日本挽歌」 は、長歌 と反歌五首 の構成で詠 まれているのですが、激 しい感情 をぶつ けるよ うな表現 を しきりに しています。「恨 め しき 妹 の命 の あれをば も いかにせ

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憶 良 と 猟 人 よとか」、 口語訳を載せてお さま したので、そち らの方で見 ます と、「恨 め しくも妻 は、私 にど うせよとい うのか、 には鳥 のよ うに二人仲良 く並んで語 り合 った心 に背 いて、家を離れて行 っ て しまわれた」 とか、「妻の心を思 うと、なん ともたまらない気持ちだ」 とか、「こうなると知 っ ていた らこの日本 の国の中を ことごと く見せ るのであ った」 などと詠んでいます。 この、「あ をによ し国内 (くぬち) ことごと」 を、「日本国内を ことごとく

と解釈す るのは、私 の説 で すが、一般 には、「筑紫 の国内を ことごとく

あるいは 「奈良 の都の内を ことごとく」 と訳 さ れています。ですが今 はあまり関係 あ りませんので、 それにこだわ らないことに します。 憶良 は、長歌一首 に反歌 を五首 も添えているのですが、 その最後の一首、「大野山に霧が一 面 に立 ちこめている。私の嘆 きが霧 となって一面に立 ちこめているよ」 という歌を見 ま して も、 旅人の歌 に比べて、憶良 の歌の感情 の激 しさに心打 たれます。憶良 自身が、妻 に死 なれた夫 に な りきって しまっているよ うです。 次 に、旅人が、松浦河 に遊んだ時の序 と歌を見てみたいと思 います。 プ リン トの三枚 目の後 半 に、「松浦河 に遊ぶ序 と歌 をめ ぐって

とい う見出 しの後 に載せています。 旅人がお伴の人たちを連れて、肥前国の松浦の地を訪ねて、その地の仙女のような娘子 と出会 い歌 を詠 み交わ したという趣向で綴 られた文章 と歌です。肥前 国の松浦 は、現在 の佐賀県唐津 市 にあたる所です。 そ こでは、旅人 は 「蓬客」すなわち 「旅 び と」 ということにな っているの ですが、「旅 びと」 としてや って きた大伴旅人が仙女 と歌 を詠 み交わ したとい う内容です。続 いてお伴 の人 たちも歌 を詠み、同 じく仙女のような娘子が歌を返 した ことにな っています。 これ には中国の 『遊仙窟』 の影響が考え られ ると言われています。『遊仙窟』 は、初唐 の張 文成 の作で、旅 びとが、二人 の仙女 のような女性 の住む宿 に泊 まり、その一人 と結 ばれ翌朝別 れを惜 しみつつ去 るとい う話です。仙女か ら慕われ るほどの男子 は、最高のみやび男 とい う考 え方が、すでに.=の頃あったよ●ぅで、旅人一行 は、 こんな物語世界を自作 自演 して満足 して帰 っ て きたよ うです。 旅人 はこの趣向がかな り気 に入 ったよ うですね。 この歌 を梅花の宴の歌 と共 に、平城京 にい る吉田宜 (きちだのよろ し) とい う人 に送 ったようです。梅花 の宴の歌 といいますのは、旅人 の邸 に九州管内の官人 たちを梅 の花 を愛で る宴 に招待 し、出席者が各 自歌を詠む とい う催 しを お こな った時の歌です。 それぞれの歌 に対 し宜 も歌を詠んで、旅人の もとに送 って きま した。 「松浦の仙媛 の歌 に和ふ る一首」 とい うのが、松浦河 に遊んだ時の歌 に対す る宜 の歌です。「君 を待っ松浦 の浦の娘子 らは常世 の国の天娘子か も」 (5・八六五) と、旅人 の期待通 りの歌が 返 って釆 ま した。 一方、 この 「松浦河 に遊ぶ序 と歌」 を憶良 にも見せたのか、 あるいは話を聞かせ たのかわか りませんが、憶良の耳 に も入 ったよ うで、憶良が書簡文 と歌 とを書 いて謹上 しています。吉 田 宜 の歌 に続 いて載 っています。 冒頭 に、「憶良聞 く」 とい う表現があるところか らします と、 旅人か ら直接ではな く、 お伴 を した誰かか ら話を聞いたとい うのが真相であったか も知れませ ん。

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お く ら せ い くわ うとん しゆ つつ し まを お く ら き は うが く しよ こう と と く し し とも てんばふ 「憶良、誠 憧 頓首、謹 みて啓す。憶良聞 く。 方岳の諸侯 と都督刺史 と、共 に典法 によ り ぶ か じゆん か う ふ うぞ く み こころ た たん こうぐわい い っつ し て、部下 を 巡 行 して、 その風俗 を察 ると。 心 の うち多端 に、 口 外 に出だ しがた し。 謹 しゆ いや うた も ざ う むすぽ はり のぞ お も みて三首 の邸 しき歌を以 ちて、五臓 の 欝結 を写かむ と欲ふ。 これは、中国の古代の役職名などになぞ らえて言 っているのですが、 大牢府のお役人 の方々は、法令の定 めに従 って、管内を巡 り、風俗を視察 なさいま した と か-という書 き出 しです。 口語訳があ りますので ご覧 いただ きたいと思 います。 「それを聞いた私の心 の うちは複雑で、 なん とも表現で きません。」 とあ ります。 それで、三首の拙 い歌を詠んで、心の中のわだかまりを晴 らしたい、 とい うのです。 その心 の中のわだかまりが どうい うものであったか とい うことは、三首の歌 を読めばわか ります。そ の歌 は、 ま つ らがた さ よ ひ め こ ふ や ま な き を 松浦県佐用比売の子がひれ振 りし山の名のみや聞 きっっ居 らむ (

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・八六八) た らし ひ め かみ み こと な っ た い し たれ み い あゆ つ 帯 日売神 の 命 の魚釣 らす とみ立 た しせ りし石 を誰見 き 一 に云ふ、貼釣 ると

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・八六九) もも か ゆ ま つ ら ぢ け ふ ゆ あ す き なに さや 百 日Lも行かぬ松浦路今 日行 きて明 日は釆なむを何か障れる

(5

・八七

〇)

てんぴや う ねん ぐわつ にち とい うもので した。「天 平 二年七 月 十一 日」 という日付があ ります。 松浦県の佐用比売が領 巾を振 った山の名を聞いてだけいることで しょうか。行 ってみたい ものです。(5・八六八) 息長帯 日売が、魚 をお釣 りになろうとお立 ちにな った石 は誰が見 たので しょうか。 - どなた もごらんにな らなか ったので しょうか- (5・八六九) 行 くのに百 日もかか らない松浦への道 は、今 日行 って明 日は帰 って くることができるのに、 何が妨 げているので しょう。 (5・八七

〇)

要す るに、憶良 は、私 も行 きたか った。行 って、松浦の佐用比売が大伴狭手彦 との別れを悲 しんで比礼を振 ったとい う伝説のある山を見たか った。息長帯 日売が神のご意志を聞 くために 石の上 に立 って鮎をお釣 りになったとい う、その石を見 た人 はいなか ったのか。二 日もあれば 行 けるところなのに、私 はどうして行 けないのだろう、 と行 けなか ったのは、残念だ った と訴 えているのです。 松浦の地 は肥前国で、筑前国守である憶良の管轄外ですか ら、それ相当の理 由がなければ行 けません。伝説 の地だか ら、見学 したいか ら、 などとい う理 由は通 らないで しょう。 で も、上 司である旅人が出かける時に誘 って くれれば行 けたはずです。誘 って くれなか った恨 め しさに 加えて、行 った人 たちが、比礼振 り山や息長帯 日売 の伝説 に関心を示 さず、仙女のようなお と めと出会 って歌を詠み交わ したなどと喜んでいるのが気 に くわな くて、不満を述べているので す。 憶良 は、早 くに息長帯 冒売伝説 に関わる鎮懐石 の歌 を詠んでいま したか ら、同 じく新羅討征 に関わ って、息長帯 日売が鮎 を釣 ったという伝説の地松浦 に も行 きたいと、かねて思 っていた

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憶 良 と 猟 人 ので しょう。 憶良 は不幸な体験を した人 に同情を惜 しまなか った人ですか ら、大伴狭手彦 と愛 し合 っていたのに引 き裂かれ、狭手彦の乗 る船 に向か って松浦佐用比売が比礼を振 ったと伝え られる山にも関心があったので しょう。 その山に誰 も関心を持たなか ったとは-、 と言いたか っ たのです。 大宰師である旅人が誘 って くれれば、憶良 も行 けたはずです。 たとえば、巻六 に、旅人が大 宰府の官人 らと共 に香椎宮 に詣でた時の歌があ ります。その時、一行 の中に豊前国守芋努首男 人がいて、一緒 に歌を詠んでいます。肥前国の松浦の地 に遊 びに行 く時 も、す ぐ近 くに住む筑 前国守憶良 を誘 うぐらい何で もなか ったはずです。何故誘わなか ったので しょう。 もし憶良 を 誘 った ら、 きっと、「領 巾振 り山を見 なければ行 ったことにはな りなせん」 とか、「息長帯 日売 伝説 のある石 を見 なければ-」 などと言 って、 自分が知 っている限 りの伝説を長々と話 して聞 かせよ うと したに相違 あ りません。 それが想像で きたので、「誘わない方がよい、 あの人 を誘 うと、 のびのび出来 ませんよ」 と、旅人の周囲の人 も言 ったのか も知れません。旅人 ももっと もだ と思 って、誘わなか ったのだ と思 います。吉 田宜のように調子を合わせ ることな く、憤藩 やるかたないという感 じの憶良の書簡 と歌 とを受 け取 った旅人 は、案 の定 だ、 と思 ったことで しょう。 旅人 自身、息長帯 日売や松浦佐用比売の伝説 よ りも、風光明娠 な地で仙女のよ うな娘子 と出 逢 って歌 を詠 み交わ したとい う想像 の世界 に遊ぶ方が好みに合 っていたで しょうと思 います。 てん ぴや う ねん ぐわつ にち さて、 この憶良 の書簡 と歌 には、「天 平 二年七 月 十一 日」 とい う日付があ りま したが、 そ れか ら四 ヶ月経っか経 たないかの うちに、旅人が大納言 になって帰京す るというニュースが憶 良の耳 に入 りま した。旅人 は、赴任 して三年 になるかな らずかの頃で したが、早 くか ら、奈良 の都 に帰 りたい、 とい う歌を詠んでいま したか ら、嬉 しいという気持 ちでいっぱいであったは ずです。 しか し、旅人が帰京す ると知 った憶良 は、かな りショックだ ったに相違あ りません。 さきほどの書簡では、旅人 に不満 を持 ち反発 したよ うであ りま したが、それは決 して旅人の存 在を疎 ま しく思 うとか、 いない方が よいとかい うことではな く、む しろ誘 って もらって一緒 に 行 きたか った と思 ったほどですか ら、旅人がいたか らこそ、歌 を詠む気 に もなった、国守 とし て職務 に励 む張 り合 い もあった、 と三年間を振 り返 り思 ったことで しょう。 こんなことになる とは露知 らず、つ いこの前、不満 を思 いきりぶつ けたばか りの憶良 には、相当 ショックだ った はずです。やがて開かれた送別の宴 で陰良が詠んだ四首の歌があ ります。 ふみ どの うまの はなむ け ひ や まとうた しゆ 「書殿 に して 簡 酒 す る日の 倭 歌四首」 と題す る歌です。 あ ま と とり みや こ お く と かへ 天飛ぶや鳥 に もが もや 都 まで 送 りまを して飛 び帰 るもの (

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・八七六) を たっ た やま み ま ちか わす ひ ともねの うらぶれ居 るに竜 田山御馬近づかば忘 らしなむか (5 ・八七七) 上二 のち し さぶ きみ 言 ひつつ も後 こそ知 らめとの しくも寂 しけめや も君 いまさず して (5 ・八七八) よ ろづ よ あめ したまを み か ど さ 万世 にいま したまひて天 の下奏 したまはね朝廷去 らずて (

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・八七九) 「書殿」 とい うのは、大事府の図書 を置いている建物の ことと思われ ますが、 そ こで開かれた 送別の宴で した。

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大空を飛ぶ鳥であ りたい ものです。 もし私が鳥で した ら、都 まであなたをお送 りして、 ま た ここに飛 び帰 って くることがで きますのに。 (

5

・八七六) 人皆が うち しおれていますのに、竜 田山にあなたのお馬が近づいた ら、私たちのことはお 忘れにな って しまうで しょうか。 (5・八七七) お別れす るのが寂 しいと、 こんな風 に言 いなが らも、本当の寂 しさは、後 になってわか る ことで しょう。 あなたがい らっしゃらな くな ってか らの寂 しさは、少 々の ものではないに きま っています。 (

5

・八七八) いっいっまで もご健在で、 この 日本 の政務 を ご担当下 さい。朝廷か ら離れることなど決 し てなさらないで。 (5・八七九) この送別 の宴の時の歌 は、憶良の歌 しか伝わ っていません。 それは、憶良の記録 によるせいで あ って、実際には、他の人たちが詠んだ歌 も披露 されたで しょうと思われますが、憶良の この 四首 の歌 も、憶良個人の心 とい うよ りも皆の気持 ちその もの といってよいような歌ですね。 な かで も、 人皆が うち しおれていますのに、竜 田山にあなたのお馬が近づいた ら、私 たちの ことはお 忘れにな って しまうで しょうか。 (5・八七七) お別れす るのが寂 しいと、 こんな風 に言 いなが らも、本当の寂 しさは、後 になってわか る ことで しょう。 あなたがい らっしゃらな くな ってか らの寂 しさは、少 々の ものではないに きまっています。 (

5

・八七八) の二首 などは、後 に残 る者 の気持 ちをよ く伝えていると思 います。憶良 の歌 は、 しか し、 この あ わた くし お もひ の うた しゆ 四首だけではあ りませんで した。「敢へて 私 の 懐 を布ぶ る歌三首」 とい う歌が続 いて万葉集 に残 されています。 あ まさか ひな とせ す みや こ わす 天離 る邸 に五年住 まひつつ 都 のてぶ り忘 らえにけり (

5

・八八

〇)

い き を き へ ゆ と し か ぎ し か くのみや息づ き居 らむあ らたまの来経行 く年 の限 り知 らずて (

5

・八八一) ぬ し み たまたま はる な ら みや こ め さ あが主 の御霊賜 ひて春 さらば奈良の 都 に召上 げたまはね (

5

・八八二) てんびや う ねん ぐわつ か つ くしのみちの くちの くにのかみ や まの うへのお く らつつ し たて まつ 天 平 二年十二 月 六 日、筑 前 国 司、山 上憶良 謹 みて 上 る。 とい う歌です。 これ も口語訳 を載せてお きま した。 思 い切 って個人的な思 いを述べた歌三首 辺邸 な地方 に五年 も住み続 けて、今 は都 の風習 も忘れて しまいま した。-都 にお帰 りにな るあなたが羨 ま しい- (5・八八〇) このようにため息をついてばか り過 ごす ことで しょうか。来ては過 ぎ行 く年の際限 も知 ら ないまま。 -いったいいっまで この地 にいればよいので しょう- (

5

・八八一) あなたさまのお蔭を被 って春 にな りま した ら、 どうか私を都 にお呼び上 げ下 さいませ。 (5・八八二) とい う三首です。 この三首 は、 たとえ後 に残 る人 たちに共感 され るよ うな心情であったとして も、筑前国守である憶良が人前で詠み上 げ られ るような歌ではあ りません。特 に 「か くのみや

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憶 良 と 猟 人 い き を き へ ゆ と し か ぎ し ぬ し み たまたま はる な 息づ き居 らむあ らたまの釆経行 く年 の限 り知 らずて」の歌 と 「あが主 の御霊賜 ひて春 さらば奈 ら み や こ め さ 良 の 都 に召上 げたまはね」 の歌 の二百 は、人前で口にす ることは決 して許 されないほどの内 容です。ですか ら、 この三首 は、宴果てた後、 こっそりと憶良 自身の手で旅人の もとに届 けら れた ものではないか と思われます。 旅人 は先 はども申 しま したよ うに、望郷 の思 いを これまで も歌 に詠んで きま した。「果 た し て生 きているうちに都 に帰 ることがで きるだろうか」 (3・三三一)、「一 目都を見れば若返 る のではないか」 (5・八 四八) などです。 ところが、 これまで、憶良 はそのよ うな歌を一首 も 詠んでいませんで した。万葉集 に見 る限 り、 ないのです。 それが、 ここで突然、 こんなところ にいっまで も居た くない。都 に帰 りたい、特別なあなたのおはか らいで都 にお召 し下 さい、と まで言 っています。旅人が大宰師 として上 にいたか らこそ、歌を詠む張 り合 いもあ ってせ っせ と歌を詠んだ、職務 にも精を出 した。旅人がいな くなった ら、何の張 り合いもな くなる、 と思 っ たので しょう。 旅人が都 に帰 るのな ら、私 も都 に帰 りたいと思 ったようです。 旅人 は、大納言 に任ぜ られた時、大事師兼任のままで したか ら、大事師である点 は変わ りな か ったのですが、大納言 は、大臣のす ぐ下で、国政 に関与す る重要 な地位で したか ら、大納言 職 を重視 して帰京す るのが当然 とされていたようです。天平三年七月、旅人が尭 じた時、続 日 本紀 は 「大納言従二位大伴宿祢旅人亮。」 と伝えて、大宰師兼任 の ことに触れていませんが、 同年九月に、正三位大納言藤原朝臣武智麻 呂を兼大事師に任命 していますか ら、大納言兼大宰 師であった旅人が亮 じた後の補充人事であったと思われます。武智麻 呂の大牢師兼任 は遥任で、 赴任 しませんで した。 ですか ら、旅人 は、三年七月 に尭 じるまで大宰師兼任であ った可能性があ りますが、本人が いなければ、旅人の もとに居 たいと思 う憶良 の願 いは叶え られません。 旅人帰京後 の憶良 の筑 前国守時代の歌 は、天平三年六月 に、肥後国の相撲 の使の従者 と して都 に行 く途中、安芸国で 病気 にな り、一人残 って療養す るのですが、遂に帰 らぬ人 とな った青年大伴君熊凝 に同情 して 詠んだ長歌一首 と反歌五首の一組だけです。先だ って詠んだ大事大典麻田陽春の大伴君熊凝の 歌 に敬和 した歌です。 この時期、七月七 日は相撲 (すまい)の節金 (せちえ) とも称 され、諸 国か ら集 め られた相撲人 を選抜 し、相撲を取 らせま した。肥後国か ら相撲人 を連れて上京す る 相撲使 の従者 として上京 の途中、安芸国で病気 にな り、十八歳 という若 さで死亡 した青年熊凝 に同情 し、熊凝の身 にな ってその悲 しみを代弁 した歌です。悲劇的な死を遂 げた人 に同情を惜 しまなか った憶良 らしい歌です。 その後、職 を辞 して帰京 した憶良が詠んだ歌が、かの有名 な 「貧窮問答歌」です。 これにも 「謹上 (っっ しみてたてまつ る)」とあ りますので、誰 に奉 った のだろ うと諸説入 り乱れています。 もう旅人 は亡 くな っていますか ら、旅人ではあ りえない。 だ とすれば誰か、あげ られた候補者 は、聖武天皇を初 めとして、七名 ほどで、決着 はついてい ません。私 は、旅人 の霊前ではないか と思 っています。帰京 した憶良 は、旅人 はもはや この世 の人で はないとわか っていて も、旅人の家 に挨拶 に行 ったで しょう。 その嫡男大伴家持 は、旅 人が筑紫 に同伴 してお りま したか ら、憶良 とは顔 な じみであ ったのです。 もし憶良が、官を辞

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して帰京 したのが天平四年の春であったとすれば、家持 は十五歳です。 この当時、男子 は十五 歳で結婚す ることが許 されていま したか ら、家持 は、旅人亡 き後の大伴家の当主 としで 陰良 を 迎えたで しょう。 それ以前 の、筑前国守時代の憶良が旅人 に奉 った歌 も無論旅人の帰京の際 に 持 ち帰 ったので、家持の手元 にあ ったはずです。 後年、家持が越中国守 とな.って赴任 した時期、憶良の歌 に追和する歌を詠んでいるのですが、 筑前国守時代の憶良 に併せて、帰京後の憶良 に逢 った記憶 も長 く家持の心 に残 り、 その歌を心 にとどめた経緯がわかるように思われます。 先 ほど、諸説 の条で、高木市之助氏の 「二つの生」 と、 日本詩人選

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の 『大伴旅人 ・山上憶 良』 とを、憶良 と旅人を 「反発の関係」 あるいは 「張 り合 う関係」 としている論 として取 り上 げま したが、 この諸説を並べ る時、 うっか り見落 として しまった ものに、一清水克彦氏の論があ ります。時期的には、大浜厳比古氏の次位 に位置す るか と思 うのですが、桜楓社か ら出版 され た和歌文学講座

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の 『万葉 の歌人』 に収録 されている 「山上憶良一歌人論 として

-」

と題す る 論です。 ご著書 の 『寓葉論集』 に収録 されて もいます。 その中で、清水氏 は、高木氏の、憶良 と旅人 を反発の関係 とす る論 に同感 し、「憶良 は、旅人や旅人 を中心 とす る当時の筑紫歌壇 に 反発 し、 その反発をェネルギーとして制作 し、 さらにその制作を通 して、彼 の作家的資質 を鮮 明に していった と考へ られ る」 とい ってお られます。氏 は、憶良が、「旅人への反発 をエネル ギー として制作 した諸作品を、旅人 に謹上 し続 けた」 とも言 ってお られ、「その行為の根底 に は、中国宮人の述志 の文学 の思想があ った ものと考へ られ る」 と言 ってお られます。 この憶良 の作品の謹上の根底 に 「中国宮人 の述志の文学の思想があ った」 とい うことについては、 よ く わか らないのですが、旅人が帰京す るとわか った途端 に、私 も都 に帰 りたいという思 いにおそ われているところか らみて、表面反発 の姿勢 と見えなが ら、 その内側 は、旅人への信頼 と敬愛 の念が篤か ったことが十分認 め られると思 います。 その後 に並べ ま した諸説 の、憶良 と旅人の関係 に関す る論 はさまざまで、今簡単 に概括す る ことはで きません。興味深 い論が多数 あ りますので、それぞれに直接 あたってお考えいただ き たいと思 います。つ まらないお話 しを したか と思 いますが、 お許 し下 さいませ。 失礼い た しま した。 ●坂本 阿蘇先生、 どうもあ りが とうございま した。 もう一度拍手をお願 いいた します。次 の 橋本先生の ご講演 は

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分間の休憩を挟みま して

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分か ら始 めたいと思 います。 よろ しくお願 いいた します。

参照

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