2016年1月6日
博士学位論文審査報告書
大学名 早稲田大学
研究科名 スポーツ科学研究科 申請者氏名 佐古 博皓
学位の種類 博士(スポーツ科学)
論文題目 翻訳調節と共発現遺伝子ネットワークに対する運動効果の網羅的解析 Genome-wide Analysis of the Effect of Exercise on Translational Regulation and Co-expressed Gene Network
論文審査員 主査 早稲田大学教授 鈴木 克彦 博士(医学)(弘前大学)
副査 早稲田大学教授 坂本 静男 医学博士(聖マリアンナ医科大学)
副査 早稲田大学教授 荒尾 孝 医学博士(順天堂大学)
近年、生化学・分子生物学的手法の発展によって、運動適応や運動による健康効果、
そして炎症・抗炎症などの作用機序が明らかになってきた.特に、事象を大局的見地か ら捉える網羅的解析技術は目覚ましい進歩を遂げている.具体的には、1)個人の遺伝 子配列の違いを検証する遺伝子多型解析や、2)個々の遺伝子発現を網羅的に解析し、
状況(運動適応時や炎症・抗炎症時)に応じて発現が増減する遺伝子を探索する網羅的 遺伝子発現解析、3)実際に産生されているタンパク質をそれぞれのタンパク質の特性
(重さや電荷)に応じて差別化し検出するタンパク質の網羅的質量分析法などである.
これらの新しい技術によって、運動による複雑な作用機序の変化を解析することが可能 になった.
しかし、遺伝子多型解析や網羅的な遺伝子発現解析、そしてタンパク質発現解析のみ では、運動や炎症・抗炎症による作用機序を説明するには不十分であることが指摘され ている.その原因の一つに翻訳調節の看過が挙げられる.これまで翻訳調節が考慮され てこなかったために、遺伝子発現量変化と実際の機能的なタンパク質発現量変化との低 い相関関係が問題視されていた.また、既存の網羅的タンパク質発現解析は感度と再現 性に乏しく、網羅的遺伝子発現解析程の網羅性は期待できなかった.二つ目の原因とし て、個々の遺伝子変化のみに注目し遺伝子間におけるネットワークが看過されていた点 が挙げられる.本来遺伝子は、それ単独で機能するのではなく、他の多くの遺伝子とネ
ットワークを構築し相互に作用することで機能している.しかし、これまで運動の作用 機序を俯瞰する際、個々の遺伝子の発現量変化のみが着目され遺伝子間のネットワーク 変化は検討されていなかった.つまり、従来の運動による作用機序を俯瞰するための網 羅的解析には、「翻訳調節」と「共発現遺伝子ネットワーク」というキーワードが欠如 していた.
このような運動や炎症・抗炎症の作用機序を網羅的に解析する際の盲点を踏まえ、本 博士論文では網羅的翻訳動態解析法を構築し、運動や急性炎症刺激が翻訳調節や共発現 遺伝子ネットワークに与える影響を網羅的解析見地から解明することを目的として実 施された.
本博士論文は、主に全四章と各章それぞれ全四節から構成される.第一章は、各四節 のイントロダクションから成り、それぞれの節に関するこれまでの知見・問題点・意義 などを述べる.第二章は、各節に関連する実験手法、特に動物実験や分子生物学的手法、
バイオインフォマティクス的手法について記述する.第三章では各節の結果を記した後 さらに考察として議論を深める.第四章では、最終章として得られた新知見の意義を述 べ本博士論文を総括する.
イントロダクションから構成される第一章では、運動効果の作用機序解明のためにこ れまで検討されてきた網羅的遺伝子発現解析やタンパク質発現解析において、それぞれ の問題点と看過されてきた点を四節(1.mRNA 量に非依存的な翻訳、2.選択的翻訳、3.
翻訳速度、4.遺伝子ネットワーク)に設定し、それぞれのこれまでの知見や意義を網 羅的解析の観点から紹介した.具体的には、第一節「mRNA 量に非依存的な翻訳」では、
生体応答において重要な役割を担うタンパク質の量的変化は、mRNA 量変化に依存する という古典的観念に反し、タンパク質が mRNA から産生される際の翻訳調節にも大きく 依存するという事実と、mRNA 非依存的な翻訳調節を網羅的に検討可能にした新しい技 術「リボソームプロファイリング」について、従来の遺伝子発現・タンパク質の網羅的 解析法の問題点も踏まえ解説した.第二節「選択的翻訳」では、1 種類の mRNA からは 1 種類のタンパク質が産生されるというこれまでの概念とは異なる、1 種類の mRNA から 複数種類のタンパク質が産生される事象について、その生物学的意義も踏まえ解説した.
第三節「翻訳速度」では、リボソームによってタンパク質が mRNA から産生される際、
リボソームによる翻訳速度が遺伝子配列依存的に変化するという知見とその生物学的 意義、そしてこれまでの関連研究の問題点について述べた.第四節「遺伝子ネットワー
ク」では、これまでの網羅的遺伝子発現解析がかかえる問題点、特に遺伝子間ネットワ ークを考慮していない点について触れ、「共発現遺伝子ネットワーク解析法」がこの問 題点を解決できる可能性を述べた.
第二章では、各節における実験手法を記した.第一節では、マウスに一過性持久性運 動を負荷した際の動物実験に関する手法や、翻訳調節の網羅的解析手法であるリボソー ムプロファイリングを生体モデルへと応用した際の分子生物学的手法などを述べた.第 二節では、「選択的翻訳」を捕らえるための解析手法や生化学的手法を説明した.第三 節では、高い精度で「翻訳速度」を解析するために考案した「バイナリー・カウント法」
の紹介と関連する解析法と生化学的手法を記した.第四節では、公共のデータベースを 利用し、「共発現遺伝子ネットワーク解析法」を用いて解析を行う手法を述べた.
第三章では、各節における結果と考察を論じた.第一節では、運動による翻訳動態変 化の網羅的解析を行い、mRNA 動態とは乖離したユニークな翻訳動態を検出した結果を 記した.なお、第一節に関連する論点や技術と結果は、International Society of Exercise and Immunology で発表し、「日本補完代替医療学会」誌と「Exercise Immunology Review」誌に掲載され、「PlosOne」誌にも投稿し現在査読中となっている.第二節の 結果に関しては、培養細胞における急性炎症モデルとマウスの一過性持久性運動モデル において、未知の選択的翻訳を検出し、選択的翻訳産物であるタンパク質の存在を確認 し、「ストレス応答制御に基づく次世代型健康寿命科学の研究拠点形成第二回成果報告 会」において発表した.第三節では、翻訳速度変化の解析を高い精度で培養細胞の急性 炎症モデルとマウス運動モデルにおいて実現したことに加え、急性炎症モデルにおいて 生理的変化(本研究では急性炎症)による翻訳速度の変化を観測することに成功し、急 性炎症刺激由来の翻訳速度変化がタンパク質の立体構造や機能を変化させているとい う概念を示唆することができた.翻訳速度変化を介した急性炎症によるタンパク質の立 体構造や機能の変化は、生物学上の新しい制御機構の概念となる可能性がある.本結果 の一部は、「Big Biology & Bioinformatics Symposium」「第 70 回日本体力医学会」
「EMBO Conference Protein Synthesis and Translational Control」で発表した.第 四節では、運動の影響を捕らえた遺伝子発現データを、遺伝子発現ネットワークに着目 し解析を行った.ヒトの遺伝子発現データを用いて、異なる組織・運動後の経過時間・
運動の種類における遺伝子ネットワークのダイナミクスを検討するとともに、ハブ遺伝 子解析も行い、特定の遺伝子ネットワークが運動の種類非依存的もしくは経過時間非依 存的に保存されていることを発見し、「第 70 回日本体力医学会国際セッション」で関
連研究の発表を行うとともに、すでに論文を書き上げ投稿準備も整い、現在海外共著者 による推敲中となっている.
最終章である第四章では、総括として各節の論点と結果をまとめるとともに、運動・
スポーツ科学分野においてこれまで看過されてきた作用機序を検討した本博士論文の 意義についても言及した.
本博士論文における研究により、運動や急性炎症による網羅的翻訳動態解析のための 技術と新知見がもたらされたことに加え、共発現遺伝子ネットワーク解析という概念が 運動効果の作用機序解明のために導入されたことは、この分野の発展に大きく貢献する ことが期待できる.このことから、申請した博士学位論文は博士(スポーツ科学)の学 位を授与するに十分値するものと認める.
なお、本学位論文に関連した学会誌等掲載学術論文は以下のとおりである.
・佐古博皓,鈴木克彦,竹山春子.リボソームプロファイリングのバイオマーカー開発 への応用.日本補完代替医療学会誌 10,1-7, 2013.
・Hiroaki Sako & Katsuhiko Suzuki. Exploring the importance of translational regulation in the inflammatory responses by a genome-wide approach. Exercise Immunology Review 20, 55-67, 2014.
以 上